第68話 祖父が教えてくれた庭園の約束と、母が愛した午後の過ごし方
朝の光が薄い雲を通して差し込む頃、エレノアは窓辺に立ち、庭園の木々を眺めていた。昨夜のうちに風が強くなったらしく、芝生の上には黄色く色づいた葉がいくつも落ちており、庭師たちが小道の端へ丁寧に集めている。
窓を少し開けると、冷たい空気とともに湿った土の匂いが流れ込んできた。遠くから聞こえる鳥の声は昨日よりも控えめで、季節が少しずつ深まっていることを感じさせる。
(今日は、お祖父様にも庭園のお話を聞いてみたいわ。昨日、また皆様と一緒に歩きたいと思ったことも、きちんと伝えてみよう)
そう考えたエレノアは、窓を閉めてから机へ向かった。そこには、制作途中の青い花の刺繍と、先日庭園で見つけた青紫色の花を描いた図案帳が、昨夜片づけた時のまま整然と並んでいる。
青い花の刺繍は、少しずつ花弁の形が整い始めていた。一方、新しい図案の方はまだ試し縫いの段階で、色の重ね方を考えるだけでも時間がかかりそうだった。
以前のエレノアなら、どちらかを早く完成させなければならないと思っていたかもしれない。しかし今は、急いで仕上げるよりも、自分が納得できる形を少しずつ探していく時間を楽しみたいと感じていた。
控えめなノックが響き、リディアが朝の支度のために入ってきた。
「おはようございます、エレノア様。昨夜はよくお休みになれましたか」
「おはよう、リディア。ええ、よく眠れたわ。今日は少し風が強いみたいね」
「はい。庭園の木々も随分葉を落としているようでございます。お外へ出られるのでしたら、昨日より厚手の上着をご用意いたしますね」
リディアは衣装を並べながら、窓の外へ視線を向けた。エレノアは少し考え、今日は室内で過ごす時間が長くなりそうだと伝えた。
「朝食の時に、お祖父様へ庭園のお話を聞いてみようと思っているの。もしお時間があるようなら、また一緒に歩いていただけないかしらと思って」
「それはよろしゅうございますね。旦那様も庭園のお手入れについて、よくお話しになっていらっしゃいますから」
「そうなのね。お祖父様がどんな場所をお好きなのか、私、まだあまり知らないの」
エレノアは鏡の前に座り、リディアが髪を整える様子を見守った。
ロシュフォール家へ来てから、祖父オーギュストとは何度も食事を共にしている。穏やかで、家族の話に耳を傾け、必要な時には落ち着いた言葉をかけてくれる人だということも分かってきた。
それでも、祖父が若い頃にどのような時間を過ごし、何を好んでいたのかについては、まだ知らないことが多かった。
「お祖父様は、お庭のお花にも詳しいのかしら」
「私が存じ上げている範囲では、花のお名前よりも、木々の成長や小道の手入れに関心をお持ちのようでございます。もっとも、奥様がお好きな花については、よく覚えていらっしゃいますよ」
リディアは微笑みながら答えた。
「以前、奥様が窓辺に飾る花を選んでいらした時にも、旦那様が昔のお庭の話をなさっていました。お二人とも、とても楽しそうでございました」
エレノアはその光景を想像し、自然と頬を緩めた。
「素敵ね。私も、そんなお話を聞いてみたいわ」
髪を整え終えたリディアは、今日の衣装に合わせて小さな飾りを選んだ。エレノアは淡い青色のリボンを気に入り、自分で鏡を確かめてから、それを結んでもらうことにした。
支度を終えた頃には、窓から差し込む光も少し明るくなっていた。
エレノアは図案帳を一度だけ眺め、朝食後に続きを考えることにして部屋を出た。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、温かなスープと焼きたてのパンが用意されていた。窓の外では風に揺れる枝が時折ガラスへ影を落とし、食堂の中には食器の触れ合う小さな音と、家族の穏やかな会話が流れている。
オーギュストは庭園の管理について、アルフォンスから報告を受けていた。先日確認された小道の柔らかくなった部分には砂利を補い、古い石の腰掛けの周囲も安全に歩ける状態を保つ方針だという。
「石そのものはまだ十分使えるそうだ。ただ、周囲の地面が少し沈んでいる場所があるから、庭師たちに確認を続けてもらうことにした」
アルフォンスの説明を聞き、オーギュストは頷いた。
「それでいい。昔からあるものだからといって、何も手を加えずに放っておくのは違うからな。使い続けるために必要な手入れは、惜しまない方がいい」
エレノアは二人の話を聞きながら、先日祖母たちと歩いた庭園を思い出していた。
母アデラインと幼い自分が描かれた古い絵を見つけてから、庭園の景色は以前よりも身近なものに感じられるようになった。昔の姿をそのまま残している場所もあれば、時の流れとともに変わった場所もある。
そして今、自分がその庭園を歩いて、新しい思い出を作っている。
食事が一段落したところで、エレノアは祖父へ顔を向けた。
「あの、お祖父様。少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
オーギュストは茶器を置き、穏やかな表情で孫娘を見た。
「もちろんだよ、エレノア。どうしたのかな」
「先日、お祖母様やお兄様と庭園を歩いた時、とても楽しかったんです。それで、また皆様と一緒に歩いてみたいと思っているのですが……お祖父様にも、お好きな場所を教えていただけたら嬉しいです」
エレノアは言い終えてから、少しだけ指先を重ねた。
家族へ自分の希望を伝えることには慣れてきたものの、相手の予定を考えると、まだ遠慮が先に立つ時がある。それでも今日は、聞いてみたいという気持ちの方が強かった。
オーギュストは驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「私の好きな場所か。そうだな……庭園の西側に、古い菩提樹があるのを知っているかな」
エレノアは少し考えた。
「西側の大きな木でしょうか。以前、窓から見たことがあると思います」
「そう、その木だ。今では随分立派になったが、私が若い頃には、まだ枝もそれほど広がっていなかったんだよ」
祖父の声には、懐かしさが滲んでいた。
「木の下には小さな石の腰掛けがあってね。昔はそこで本を読んだり、仕事の合間に休んだりしていたものだ。今も時々行くが、あそこは風の通り方が気持ちいい」
「お祖父様は、そこで本を読んでいらしたんですか?」
「ああ。若い頃は、静かな場所で考え事をするのが好きだったからね。もっとも、仕事を持ち込んでマルグリットに叱られたこともあったが」
オーギュストが苦笑すると、マルグリットは隣から小さく笑った。
「叱ったというより、休む時くらい書類を閉じてくださいとお願いしたのですよ。せっかく庭園へ出ても、難しい顔で帳簿ばかり見ていらっしゃるのですもの」
「そうだったかな。私の記憶では、もう少し厳しく言われたような気がするのだが」
「それは、何度お願いしてもお聞きにならなかったからでしょう」
二人のやり取りに、セドリックが楽しそうに笑った。
「祖父上が庭園で仕事をしていたというのは、少し意外です。僕はあの場所を、ゆっくり休むための場所だと思っていました」
「本来はそのつもりだったのだがね。若い頃は、休むことも仕事の一つだと考える余裕がなかったのかもしれない」
オーギュストは穏やかに答えた。
エレノアは祖父母の会話を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
自分が知らなかった二人の若い頃。
仕事を持ち込んでしまう祖父と、それを気遣う祖母。
その何気ない思い出が、今の二人の穏やかな関係につながっているように思えた。
「私も、その木の下へ行ってみたいです。お祖父様が昔、どんな景色を見ていらしたのか、少し知りたいと思います」
エレノアがそう言うと、オーギュストは嬉しそうに頷いた。
「それなら、今度天気のよい日に一緒に行こう。風が強い日は少し寒いから、穏やかな日を選ぶといい」
「はい。ありがとうございます、お祖父様」
エレノアは微笑み、続けてアルフォンスとセドリックへ視線を向けた。
「叔父様も、お兄様も、ご都合がよろしければ一緒に歩いていただけませんか。皆様のお好きな場所も、聞いてみたいんです」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「もちろんだよ。仕事の予定を確認して、都合のよい日を考えよう。庭園なら、私も久しぶりにゆっくり歩いてみたいな」
セドリックも笑顔で答えた。
「僕も楽しみにしているよ。エレノアが見つけた青紫色の花が、まだ咲いているかもしれないね」
エレノアはその言葉に、少し照れながら微笑んだ。
「はい。もしまだ咲いていたら、お祖父様にも見ていただきたいです」
オーギュストは孫娘の表情を眺め、静かに頷いた。
「楽しみが一つ増えたね。私も、君が好きになった花を見てみたいよ」
エレノアはその言葉を聞き、胸の奥に小さな喜びが広がるのを感じた。
以前なら、誰かと一緒に何かをしたいと望むことさえ、迷惑になるのではないかと考えていた。
けれど今は、自分の希望を伝えることで、家族にも新しい楽しみが生まれるのだと知り始めていた。
◇ ◇ ◇
朝食後、オーギュストは書斎へ戻る前に、エレノアへ声をかけた。
「少し時間があるなら、私の部屋にある古い庭園の記録を見てみるかい。正式な図面というほどのものではないが、昔の木々の位置を記したものがあるんだ」
エレノアは驚き、すぐに頷いた。
「ぜひ見てみたいです。お邪魔でなければ、ご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろんだとも。君が興味を持ってくれるなら、私も嬉しいよ」
オーギュストはそう答え、ゆっくりと廊下へ向かった。
エレノアはリディアとともに祖父のあとを歩いた。廊下の窓からは朝の庭園が見え、木々の間を通り抜ける風が、落ち葉を小さく舞い上げている。
書斎へ入ると、室内には古い紙と木製家具の落ち着いた香りが漂っていた。
壁際には書棚が並び、机の上には数冊の本と、整えられた書類が置かれている。窓辺には小さな鉢植えがあり、葉の先が朝の光を受けて淡く輝いていた。
「ここへ座るといい。少し探すからね」
オーギュストはエレノアへ椅子を勧め、書棚の下段から薄い革表紙の冊子を取り出した。
表紙には、庭園の手入れについて記した古い文字が残されている。長年保管されていたためか、革の角は少し擦れていたが、丁寧に扱われてきたことが分かる状態だった。
「これは、昔の庭師が残した記録を、私が手元で見やすいようにまとめたものなんだ。すべての年の記録が揃っているわけではないし、正確な図面として使えるものでもないがね」
オーギュストはそう説明し、冊子を開いた。
そこには、庭園の一部を簡単に描いた図と、木々の名前、植え替えの記録などが記されていた。
エレノアは身を乗り出しすぎないよう気をつけながら、祖父が示した場所を眺めた。
「こちらが、先ほどお話しされていた菩提樹でしょうか」
「そうだよ。昔はこの辺りに小さな花壇があったのだが、今は芝生になっている。木が大きくなって日陰が広がったから、植えるものを変えたんだ」
オーギュストは指先で図の一角を示した。
「庭園はね、同じ形をいつまでも保てるものではないんだよ。木が育てば日当たりも変わるし、花の育ち方も変わる。だから、その時々の様子に合わせて手を入れていく必要がある」
エレノアは頷き、図を見つめた。
先日、古い庭園の絵と今の景色を比べた時にも、同じようなことを感じていた。
昔の姿が変わっていることは、何かが失われたということだけではない。
その場所を大切にしてきた人々が、長い時間をかけて手を入れ続けてきた結果でもあるのだろう。
「お祖父様は、昔の庭園の姿を覚えていらっしゃるんですね」
「全部ではないよ。私にも忘れてしまったことは多い。それに、記憶というものは、時が経つにつれて少しずつ曖昧になるからね」
オーギュストはそう答え、穏やかに笑った。
「だから、こうして記録が残っているのはありがたいことだと思う。自分の記憶と違っているところを見つけることもあるし、忘れていたことを思い出すきっかけにもなる」
エレノアは、その言葉に静かに頷いた。
古い絵の裏側に残された母と自分の名前。
客人帳に記されていた、母と幼い自分がロシュフォール家を訪れた記録。
それらも、誰かが残してくれたからこそ、今の自分が触れられるものだった。
「私も、記録が残っていることを嬉しく思います。お母様と一緒に過ごした頃のことは、あまり覚えていないので……こうして少しずつ知ることができるのは、とてもありがたいです」
エレノアがそう話すと、オーギュストは静かに目を細めた。
「アデラインのことを知りたいと思ってくれるのは、私たちにとっても嬉しいことだよ。ただ、思い出せないことを無理に思い出そうとしなくてもいい。あの子が君を大切にしていたことは、私たちも覚えているからね」
エレノアは祖父の言葉を聞き、膝の上で指先を重ねた。
母が自分を大切にしてくれていたこと。
そのことを家族から聞くたびに、胸の奥に温かなものが広がる。
けれど同時に、母と過ごした時間を自分自身がほとんど覚えていないことに、少し寂しさを感じる時もあった。
「……ありがとうございます、お祖父様。私、覚えていないことが多いのは少し寂しいです。でも、皆様がお母様のお話をしてくださると、知らなかったお母様の姿を少しずつ知ることができるので、嬉しいんです」
オーギュストは静かに頷いた。
「そうか。それなら、これからも思い出したことがあれば話そう。もっとも、私の話は庭園や仕事のことが多くなってしまうかもしれないがね」
エレノアは小さく笑った。
「それでも嬉しいです。お祖父様から見たお母様のお話を、聞いてみたいです」
オーギュストは少し考え、冊子を閉じずに窓の外へ目を向けた。
「アデラインはね、幼い頃から庭園を歩くのが好きだったよ。花を眺めることも好きだったが、それ以上に、気になったものをじっくり観察する子だった」
エレノアは祖父の言葉に耳を傾けた。
「小さな虫が葉の上を歩いていると、どこへ行くのか知りたがったり、花が咲き始めると、昨日とどこが違うのか確かめたりしていた。庭師が仕事をしていると、その理由を尋ねることもあったね」
「お母様は、そんなことをしていらしたんですね」
「ああ。時には庭師の手を止めてしまうこともあったが、あの子は相手の話を最後まで聞こうとしていたよ。分からないことがあれば、また質問していたけれどね」
オーギュストは懐かしそうに微笑んだ。
「ある時、花壇の一角だけ花がよく育たないことがあってね。アデラインは、そこへ何度も足を運んでいた。どうして同じ花なのに育ち方が違うのか、不思議だったらしい」
エレノアは興味深く顔を上げた。
「それで、理由は分かったんでしょうか」
「庭師に聞いたところ、日当たりや土の状態が違っていたようだ。けれど、アデラインが一番喜んだのは、理由を教えてもらったことだけではなかったんだよ」
オーギュストは少し笑った。
「庭師が土を整え、花の位置を変えてから、少しずつ元気になっていく様子を見られたことが嬉しかったらしい。毎日のように様子を見に行っていたよ」
エレノアは、その光景を想像した。
幼い母が花壇の前にしゃがみ込み、昨日と今日の違いを確かめている。
庭師の説明を聞き、花が元気になっていくことを喜んでいる。
それは、これまで自分が思い浮かべていた母の姿とは、少し違うものだった。
母は優しく、穏やかで、美しい刺繍を作る人だった。
しかし、祖父の話を聞くと、母にも好奇心旺盛な幼い時期があり、分からないことを知ろうとしていたのだと感じられる。
「お母様も、私と同じように、知らないことを知りたいと思っていらしたんですね」
エレノアがそう呟くと、オーギュストは優しく頷いた。
「そうだね。君が先日、庭園で見つけた花を図案にしたいと言っていたと聞いた時、少しアデラインを思い出したよ」
エレノアは驚いて祖父を見た。
「私が、お母様に似ているのでしょうか」
「似ているところもあると思う。ただ、君は君だよ。アデラインと同じことをしなければならないわけではないし、違うものを好きになってもいいんだ」
オーギュストは穏やかに続けた。
「私は、君が何を好きになり、どんなことを知りたいと思うのか、それを聞くのも楽しみなんだよ」
エレノアはその言葉を聞き、しばらく返事ができなかった。
母に似ていると言われることは嬉しい。
けれど、母と同じでなければならないわけではない。
祖父は、その両方を自然に伝えてくれた。
(お母様のことを知りたい気持ちと、私自身が好きなものを見つけたい気持ちは、どちらも大切にしていいのね)
エレノアは静かに息を整え、祖父へ微笑んだ。
「ありがとうございます、お祖父様。私、これからもいろいろなものを見て、好きなものを見つけていきたいです」
「それがいい。庭園には、季節ごとに違う楽しみがあるからね。春になれば、また今とは違う景色を見られるだろう」
オーギュストはそう答え、冊子を丁寧に閉じた。
エレノアはその様子を眺めながら、祖父と一緒に庭園を歩く日が、ますます楽しみになっていた。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアはマルグリットの私室を訪ねた。
祖父から聞いた話を伝えると、マルグリットは懐かしそうに微笑み、アデラインが幼い頃に庭園で過ごしていた様子を思い返した。
「そうでしたか。あの人が菩提樹の話をしたのですね。あの場所は、私たちにとっても思い出の多いところです」
「お祖父様が、昔はあそこで本を読んでいらしたと聞きました。お祖母様が、お仕事の書類を持ち込まないようにお願いしたことも」
エレノアがそう話すと、マルグリットは楽しそうに笑った。
「あら、そこまで話してしまったのですね。あの人は昔から、仕事のことになると熱心でしたから。少し休んでほしいと思っていたのですよ」
マルグリットは茶器を置き、窓の外へ目を向けた。
「アデラインも、あの木の下が好きでした。幼い頃は本を持って行くこともありましたし、花を摘まずに眺めていることもありましたね」
エレノアは祖母の話を聞き、祖父から聞いた幼い母の姿を思い浮かべた。
「お母様は、そこで刺繍もしていらしたのでしょうか」
「ええ、少し大きくなってからは、刺繍道具を持って行くこともありました。ただ、風が強い日は糸が絡まりやすいので、途中で部屋へ戻ってくることもありましたよ」
マルグリットはそう言って微笑んだ。
「ある時、庭園で見た花を刺繍にしたいと言い出して、何度も色を選び直していたことがありました。最初に選んだ糸では、思っていた色にならなかったのでしょうね」
エレノアは思わず、自分の図案帳へ目を向けた。
昨日から試している青紫色の花も、紙の上で選んだ色と、実際に縫った時の色が少し違って見えた。
「私も、昨日同じようなことを思いました。糸を重ねると、想像していた色と少し違って見えるんです」
「そうでしょう。だからこそ、試してみることが大切なのですよ」
マルグリットは穏やかに答えた。
「アデラインも、何度も試していました。うまくいかない時には少し考え込むこともありましたが、気に入った色が見つかると、とても嬉しそうにしていましたよ」
エレノアは祖母の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
母も、同じように糸を選び、迷い、試していた。
完成した美しい刺繍だけでなく、その途中にも、母の時間があったのだ。
「お祖母様、私、今までお母様の刺繍は最初から綺麗にできていたような気がしていたんです。でも、お母様も何度も試していらしたんですね」
マルグリットは静かに頷いた。
「もちろんですよ。誰でも最初から思いどおりにできるわけではありません。アデラインも失敗しましたし、ほどいて縫い直すこともありました」
祖母はそう話しながら、手元の刺繍枠を取り上げた。
「けれど、あの子は失敗したからといって、すぐに諦めることはありませんでした。少し休んでから、また続きを考えていたものです」
エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
以前の自分なら、失敗することを恐れて、何かを始める前から諦めていたかもしれない。
けれど今は、失敗してもやり直せることを、少しずつ知り始めている。
「私も、うまくいかなかったら、また考えてみようと思います。お母様みたいに、少しずつ試してみたいです」
「ええ。それがよいと思いますよ」
マルグリットは微笑み、エレノアの図案帳を見せてもらった。
青紫色の花の図案には、昨日よりも少し細かな色の書き込みが増えている。
エレノアは祖母へ、どの糸を重ねると花弁の色に近づくのか、まだ迷っていることを説明した。
「こちらの青を使うと、少し明るすぎる気がするんです。でも、紫を多くすると、今度は花の柔らかさがなくなってしまうようで……」
マルグリットは図案を眺め、少し考えた。
「それなら、花弁の中心と外側で糸の重ね方を変えてみてはどうかしら。実際の花も、すべて同じ色ではなかったのでしょう?」
「はい。中心の方が少し濃くて、外側は淡い色でした」
「でしたら、その違いを少しずつ表現してみるとよいかもしれませんね。もちろん、実際に縫ってみて気に入らなければ、また考え直してもいいのですよ」
エレノアは頷き、試し縫いの布を取り出した。
二人は窓辺の光を確かめながら、糸の色を少しずつ変えて縫っていった。
その時間は、母の思い出を知るためだけのものではなかった。
祖母と一緒に考え、自分の好きな花を形にしていく、新しい時間でもあった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、アルフォンスの執務室では、エレーヌが古い絵の保管記録について報告を行っていた。
原画の状態を確認するための記録は、現時点で読み取れる範囲まで整理されている。裏側に残されたアデラインとエレノアの名前についても、文字の位置と状態が記されていた。
「複製につきましては、原画の状態を専門の者に確認していただく必要がございます。現段階では、作業の可否や方法を確定できません」
エレーヌは慎重に説明した。
「原画を傷めないことを最優先にするのであれば、まずは保管方法と作業時の取り扱いについて意見を求めるのがよろしいかと存じます」
アルフォンスは頷き、書類へ目を通した。
「そうだね。エレノアも急がなくていいと言ってくれている。あの子が大切にしたいと思っている絵だからこそ、慎重に進めよう」
「承知いたしました。確認できた内容から順に記録いたします」
エレーヌは書類を整理し、続けて古い衣類管理帳簿に関する照会状況を報告した。
ベルナール家からの正式な回答は、まだ届いていない。
記録者と確認者の欄が統合された経緯については、引き続き先方の確認を待つ状態だった。
アルフォンスは報告を聞き、しばらく考えた。
「回答がないからといって、こちらで勝手に理由を決めるわけにはいかないね。今は待とう。ただ、確認が必要な事項は整理しておいてほしい」
「かしこまりました。既存の資料と照合できるよう、質問事項をまとめておきます」
エレーヌはそう答えた。
机の上には、古い絵の記録と衣類管理帳簿に関する書類が、それぞれ別の束として置かれている。
どちらもエレノアの過去に関わるものではあるが、現時点で直接の関連が確認されているわけではない。
アルフォンスはその区別を意識しながら、書類を閉じた。
「それから、庭園の古い管理記録については、父上が手元に持っているものもあるようだ。エレノアが興味を持っているから、今後必要があれば見せてもらうことになるかもしれない」
「承知いたしました。正式な保管資料とは別に、個人の記録として残されているものもございますので、出所を区別して扱う必要がございますね」
「ああ。昔の景色を知る手がかりにはなるだろうけれど、記録だけで当時のすべてが分かるわけではないからね」
アルフォンスはそう答え、窓の外へ目を向けた。
庭園の木々は風に揺れ、枝の間から午後の光が差し込んでいる。
エレノアが家族と一緒に庭園を歩きたいと望んでいることを、アルフォンスは朝食の席で聞いていた。
その希望が、彼にとっても嬉しかった。
以前のエレノアは、自分の望みを口にする時、いつも相手の顔色を窺っていた。
今でも遠慮することはあるが、それでも少しずつ、自分がしたいことを伝えられるようになっている。
アルフォンスは、その変化を急がせずに見守っていきたいと思っていた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室へ戻り、机の上に図案帳を広げていた。
祖母と一緒に試した糸の組み合わせを見比べながら、青紫色の花の図案へ小さな書き込みを加えていく。
窓の外では風が少し弱まり、庭園の木々が穏やかに揺れていた。
エレノアは筆を置き、今日祖父から聞いた話を思い返した。
古い菩提樹の下で本を読んでいた祖父。
仕事の書類を持ち込んでしまい、祖母に休むよう勧められたこと。
幼い母が庭園の花を観察し、庭師へ何度も質問していたこと。
そして、母も刺繍の色を選ぶ時に迷い、何度も試していたこと。
どれも、今まで知らなかった母や祖父母の姿だった。
(お母様も、最初から何でも上手にできたわけではなかったのね。私が今、糸の色を迷っているように、お母様も考えたり、やり直したりしていたんだわ)
エレノアはそのことを思いながら、制作途中の青い花の刺繍へ目を向けた。
母が幼い頃に残した「青い花を作りたい」という書き付け。
その言葉と、自分が今作っている青い花の刺繍が、直接つながっているのかどうかは分からない。
けれど、母も何かを作りたいと願い、試行錯誤していたことを知ると、自分の手元にある刺繍が少し違って見えた。
完成したものだけが大切なのではない。
そこへ至るまでの時間も、きっと大切なのだろう。
エレノアは刺繍枠を手に取り、続きを少し進めることにした。
針を布へ通し、糸の張りを確かめながら、一針ずつ丁寧に縫っていく。
途中で糸が少し緩んだため、エレノアは一度手を止め、慎重に整え直した。
以前なら、うまくできなかったことに焦りを感じていたかもしれない。
けれど今は、少し直せばよいのだと思える。
その小さな変化が、エレノアには嬉しかった。
しばらくして、リディアが夕食の時間を知らせに来た。
「エレノア様、お時間でございます。お支度はいかがなさいますか」
「ありがとう、リディア。ちょうど区切りのよいところだったの。今、片づけるわ」
エレノアは刺繍枠を置き、糸と針を丁寧にしまった。
リディアは机の上に並べられた図案帳へ目を向け、柔らかく微笑んだ。
「青紫色のお花の図案も、少しずつ形になってまいりましたね」
「ええ。お祖母様と一緒に糸を試してみたの。まだ決めていないところもあるけれど、少しずつ考えるのが楽しいわ」
「それは何よりでございます。完成なさる日が楽しみでございますね」
エレノアは頷き、少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、完成するまでの時間も楽しみたいと思っているの」
リディアはその言葉を聞き、穏やかに目を細めた。
「はい。お嬢様のお好きなように、ゆっくり進めていただければと存じます」
エレノアは微笑み、リディアとともに部屋を出た。
◇ ◇ ◇
夕食の席では、朝に話していた庭園の散策について、改めて話題が上がった。
オーギュストは、風の穏やかな日を選んで菩提樹の下まで歩こうと提案した。マルグリットも賛成し、アルフォンスとセドリックはそれぞれ予定を確認してから日を決めることになった。
「せっかくだから、庭師にも小道の状態を確かめてもらっておこう。古い木の周りは根が張っているから、足元に気をつける必要がある」
オーギュストがそう言うと、アルフォンスは頷いた。
「分かりました。無理のない道順を考えておきます。エレノアも、歩きたい場所があれば遠慮なく言ってくれるといいよ」
エレノアは少し考え、微笑んだ。
「ありがとうございます、叔父様。私は、お祖父様の好きな菩提樹を見てみたいです。それから、もし時間があれば、先日見つけた青紫色の花も、もう一度見てみたいと思っています」
セドリックは楽しそうに頷いた。
「それなら、道順を考えやすそうだね。僕もあの花がまだ咲いているか気になるよ」
マルグリットは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「庭園を歩いたあとは、温かいお茶をいただくのもよいですね。少し冷える季節になりましたから」
オーギュストも頷いた。
「それはいい。昔も、庭園を歩いたあとには皆で茶を飲んだものだ。アデラインも、よくその時間を楽しみにしていたよ」
エレノアは祖父の言葉に顔を上げた。
「お母様も、皆様とお茶を飲んでいらしたんですね」
「ああ。庭園で見つけたものや、気になったことを話してくれたよ。時には、花の名前を覚えたことが嬉しくて、何度も教えてくれたものだ」
オーギュストは懐かしそうに笑った。
「もっとも、私が名前を覚えられずにいると、少し困った顔をされてしまったがね」
その言葉に、家族の間で柔らかな笑いが広がった。
エレノアも小さく笑いながら、幼い母の姿を想像した。
花の名前を覚え、嬉しそうに祖父へ教えている母。
その話を聞きながら、少し困った顔で名前を思い出そうとする祖父。
今の穏やかな食卓と、昔の家族の時間が、どこかでつながっているように感じられた。
エレノアはそのことを嬉しく思いながら、家族の会話へ耳を傾けた。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、日記帳を開いた。
机の上には、今日祖母と一緒に試した糸の色を記した図案帳が置かれている。窓の外には静かな夜の庭園が広がり、昼間の風もほとんど収まっていた。
エレノアは筆を取り、今日の出来事をゆっくりと書き始めた。
祖父から、古い菩提樹の話を聞いたこと。
祖父母が若い頃、庭園でどのように過ごしていたのかを知ったこと。
母アデラインが幼い頃、花を観察し、庭師へ質問していたこと。
そして、母も刺繍の色を選ぶ時に迷い、何度も試していたこと。
書き進めるうちに、エレノアは自分の胸の中に、穏やかな喜びが広がっていることに気づいた。
母のことを知るたびに、寂しさを感じることもある。
けれど、今はそれだけではなかった。
母がどんなことを好きで、どんなふうに日々を過ごしていたのかを知ることが、少しずつ楽しみになっている。
そして、その思い出を話してくれる家族と、今の自分が一緒に過ごせることも嬉しかった。
(お母様が過ごした時間を、私は全部知ることはできないかもしれない。でも、皆様のお話を聞いて、少しずつ知っていけたら嬉しいわ)
エレノアは筆を止め、窓の外へ目を向けた。
庭園の木々は月明かりの下で静かに揺れている。
祖父が好きだと言っていた菩提樹も、今夜は同じ月の光を受けているのだろう。
いつか家族と一緒にその木の下へ行き、祖父が昔見ていた景色を眺めてみたい。
そして、今の自分が好きだと思う景色も、皆に伝えてみたい。
エレノアはそう考え、日記帳の最後に短い文章を書き添えた。
『お母様の思い出を知ることも、今の私が新しい思い出を作ることも、どちらも大切にしていきたいです。皆様と一緒に庭園を歩く日が、今から楽しみです。』
書き終えると、エレノアは日記帳を閉じた。
机の横の壁には、まだ何も飾られていない。
母と幼い自分が描かれた絵の複製が作れるかどうかは、まだ分からないままだ。
けれど、その場所を眺めるたびに、エレノアは少しずつ楽しみな気持ちになる。
過去の思い出を大切にしながら、今の自分の時間を重ねていく。
それは、以前のエレノアには難しかったことだった。
今でも不安が消えたわけではない。
ベルナール家に残された品々の調査も、まだ終わっていない。
母の木箱も、行方の分からない衣類も、答えの出ていないことは多い。
それでも、今夜はそのことばかりを考えずに眠れそうだった。
エレノアは寝台へ入り、柔らかな掛布を肩まで引き上げた。
窓の外では、夜風が静かに庭園を渡っていく。
その音を聞きながら、エレノアは祖父と一緒に歩く日のことを思い浮かべた。
古い菩提樹の下で、どんな景色が見られるのだろう。
祖父は、そこでどんな話をしてくれるのだろう。
そして、自分は何を見つけるのだろう。
答えはまだ分からない。
けれど、今のエレノアには、その分からない時間さえも楽しみに思えた。
穏やかな気持ちを胸に抱きながら、エレノアはゆっくりと目を閉じた。




