第67話 古い絵の裏に残された文字と、私が知りたい母の時間
翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の外には穏やかな秋の光が広がっていた。昨夜まで庭園の葉に残っていた雨粒はほとんど乾き、朝日に照らされた木々の間では、小鳥たちが枝を移りながら軽やかな声を響かせている。
寝台の上でゆっくりと身を起こしたエレノアは、机の横にある壁へ自然と目を向けた。そこは昨日、母アデラインと幼い自分が描かれた絵の複製を飾る候補として、リディアと一緒に考えた場所だった。
今はまだ何も飾られていない壁を眺めていると、昨日アルフォンスに自分の希望を伝えた時のことが思い出された。原画は傷めないように保管し、もし複製が作れるなら自室に飾りたいと話した時、叔父は最後まで耳を傾け、一緒に方法を考えてくれた。
(まだ複製が作れるかどうかも分からないけれど、こうして待っている時間まで楽しみに思えるなんて、少し前の私には考えられなかったわ)
以前のエレノアなら、希望を伝えたあとも、本当にあんなことを言ってよかったのだろうかと不安になっていたかもしれない。けれど今朝は、まだ決まっていないことを無理に心配するよりも、これから自分の部屋がどんな場所になっていくのかを想像する方が楽しかった。
扉の向こうから控えめなノックが聞こえ、エレノアは寝台から足を下ろした。
「エレノア様、おはようございます。リディアでございます。朝のお支度に伺いました」
「おはよう、リディア。もう起きているわ。どうぞ入って」
扉を開けたリディアは、朝の支度に必要な品を持って入室すると、窓辺へ目を向けて微笑んだ。昨夜の雨が嘘のように空が晴れており、今日は庭園の小道も歩きやすくなっているだろうと、穏やかな声で話す。
「昨日よりも気温が少し下がっているようでございますので、午前中は薄手の上着をお召しになるとよろしいかと存じます。お部屋の中は暖かくしておりますが、廊下や窓辺では少し肌寒く感じられるかもしれません」
「そうね。今日はお祖母様と刺繍のお話もしたいから、袖口が広すぎないものがいいかしら」
「それでしたら、こちらはいかがでしょうか。柔らかな生地でございますし、手元の作業もしやすいかと思います」
リディアが取り出したのは、淡い生成り色の衣装だった。襟元には控えめな刺繍が施されており、袖口は細い飾り紐で整えられるようになっている。
エレノアはその衣装を眺め、昨日選んだ青紫色の糸を思い出した。
「綺麗ね。今日はこれにするわ。それから、髪飾りはあまり大きくないものがいいのだけれど、何か合うものはあるかしら」
リディアは小さな装身具箱を開き、白い花を模した控えめな髪飾りを取り出した。エレノアは鏡の前で合わせてもらい、衣装との色合いを確かめてから、それを選ぶことにした。
髪を整えてもらう間、エレノアは鏡の中に映る自分の表情を見つめた。
かつては衣装を選ぶ時にも、誰かに不快な思いをさせないか、周囲からどう見られるかを先に考えていた。今でもその癖が完全になくなったわけではないが、少なくとも今日は、自分が気に入ったものを選ぶことができた。
「リディア、昨日考えていた絵の場所なのだけれど、今朝も見ていたら、やっぱり机の横がいいような気がするの」
エレノアが壁へ目を向けると、リディアもそちらを振り返った。
「机へ向かわれる時に自然と目に入る場所でございますね。もし複製ができましたら、額の大きさに合わせて位置を確かめてみるのもよろしいかと思います」
「ええ。まだ決めなくてもいいのよね。実際に絵を見てから、もう一度考えてみたいわ」
そう答えたエレノアの声には、以前のような迷いだけでなく、これから選ぶことへの期待が含まれていた。
リディアはその変化を感じ取りながら、髪飾りの位置を丁寧に整えた。エレノアが自分の好みを口にするようになったことは、侍女として仕える彼女にとっても嬉しいことだった。
ただ、その変化を大げさに褒めたり、急いで次の選択を促したりするつもりはなかった。エレノアが自分の歩幅で日々を過ごせるよう、必要な時に手を差し伸べることが、今のリディアにできる最も大切な仕事だと思っていた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、庭園の手入れについてオーギュストとセドリックが話していた。
古い石の腰掛けがある一帯では、昨日までの雨によって小道の一部が柔らかくなっていたらしい。庭師たちは歩きやすい状態を保つために砂利を補う予定だが、昔から残る石や植え込みを不用意に動かすことはしないという。
「古いものを残すことも大切だが、今使う者が安全に歩けるようにすることも必要だからな」
オーギュストはそう言い、温かな茶を一口飲んだ。
「庭園は人が歩いてこそ意味がある。昔の姿を守るために、今の者が不便を強いられるようでは本末転倒だろう」
セドリックは頷き、昨日書庫で確認した庭園の記録について簡単に説明した。
「古い管理記録を少し見ましたが、花壇の植え替えや小道の補修は、以前から何度も行われていたようです。ただ、記載の詳しさが年によって違うので、昔の配置を完全に再現するのは難しそうでした」
エレノアはその話を聞き、先日見つけた絵を思い浮かべた。
「それなら、あの絵に描かれていた場所も、今とは違う景色になっているのかもしれませんね」
「そうだね。昨日見た石の腰掛けも、僕の記憶にあるものと似ていたけれど、周りの景色は随分変わっていたから」
セドリックは穏やかに答えた。
「ただ、昔の場所を探すことばかり考えていたら、エレノアが見つけた花を見落としていたかもしれない。あの青紫色の花は、僕も綺麗だと思ったよ」
突然自分の好きな花の話になり、エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。昨日、お祖母様と糸の色を選んだんです。まだ図案だけですけれど、いつか刺繍にしてみたいと思っています」
「それは楽しみだね。完成したら、ぜひ見せてほしいな」
「はい。でも、今作っている青い花の刺繍もまだ途中なので、少し時間がかかると思います」
「急がなくていいよ。エレノアが楽しんで作れることが一番だからね」
二人の会話を聞いていたマルグリットは、嬉しそうに目を細めた。
エレノアが新しい図案を考え、セドリックがその完成を楽しみにしている。以前なら何気なく聞き流してしまったかもしれない家族の会話が、今はとても大切なものに感じられた。
アルフォンスも穏やかな表情で話を聞いていたが、食事が一段落したところで、エレノアへ視線を向けた。
「そういえば、昨日相談してくれた絵のことだけれど、エレーヌが保管記録を整理してくれているんだ。複製を作る方法についてはまだ確認中だけれど、絵の状態を詳しく記録する作業は進められるそうだよ」
エレノアは顔を上げた。
「そうなんですね。絵を傷めないようにするための記録ですか?」
「ああ。紙の大きさや折れ跡、色の状態などを記しておけば、今後の保管方法を考える時にも役立つからね。それから、裏側に書かれていた文字についても、見える範囲を記録しておく予定なんだ」
エレノアは、その言葉に少しだけ胸を高鳴らせた。
古い絵の裏には、母アデラインと幼い自分の名前が書かれていた。
その文字を見た時のことは、今も鮮明に覚えている。
しかし、誰が書いたものなのか、いつ書かれたものなのかは分からないままだった。
「裏側の文字も、記録に残していただけるんですね」
「もちろんだよ。ただ、書いた人物を調べるために何か特別な作業をするわけではないんだ。まずは今見えているものを、正確に残しておこうという話だよ」
アルフォンスはそう説明し、少しだけ声を和らげた。
「もしエレノアが望むなら、記録がまとまった時に一緒に見てみようか。原画を何度も動かさずに済むよう、写しを作ることも考えているんだ」
エレノアは少し考えてから頷いた。
「はい。私も見てみたいです。あの文字が誰のものなのか分からなくても、お母様と私の名前が残っていることを、きちんと知っておきたいと思います」
「分かった。では、エレーヌに伝えておこう」
アルフォンスの返事を聞き、エレノアは静かに微笑んだ。
すぐに答えが分かるわけではない。
それでも、母の名前が書かれた文字をもう一度確かめる機会があることを、素直に嬉しいと思えた。
◇ ◇ ◇
午前中、アルフォンスの執務室では、エレーヌ・フォシェが古い絵の記録について報告を行っていた。
机の上には、絵の寸法や紙の状態を記した書類が並べられている。原画そのものは、直射日光の当たらない保管場所へ移されており、必要以上に出し入れしないよう取り扱いが決められていた。
「表面の状態につきましては、前回の確認から大きな変化はございません。紙の端に古い折れ跡がございますが、現時点で新たな破損は確認されておりません」
エレーヌは記録を示しながら、落ち着いた声で説明した。
「裏面の文字につきましても、現在読み取れる部分をそのまま写し取ることは可能でございます。ただし、筆跡から書いた人物を特定することは、今の資料だけでは難しいかと存じます」
アルフォンスは頷き、書類へ目を通した。
「無理に特定する必要はないよ。まずは見える文字をそのまま記録しておこう。読めない部分があるなら、読めないと書いておけばいい」
「承知いたしました。推測で補った文字が、後から確定した情報として扱われないようにいたします」
エレーヌはそう答え、記録の余白へ小さく書き込みを加えた。
古い資料を扱う仕事では、欠けている部分を埋めたくなることがある。
しかし、分からないものを分からないまま残すことも、後から資料を確認する人にとっては大切な情報になる。
エレーヌはこれまでの衣類調査でも、そのことを繰り返し意識してきた。
モロー工房の注文控えには、似た淡い青色の子供用衣類が二着分記されている。一方、確認できた受領簿の写しでは一着分しか読み取れず、短い補助線の意味についても、個々の受領状況を確定できるだけの情報は得られていない。
そのため、古い絵に描かれた衣装が注文控えの衣類と同じものかどうかについても、現時点では判断を保留していた。
「絵の記録と衣類の調査記録は、引き続き別々に管理いたします。関連が確認できる資料が見つかった場合にのみ、比較対象として扱う形でよろしいでしょうか」
「ああ、それで構わない。今はエレノアが絵を大切に残したいと望んでいることが一番だからね」
アルフォンスはそう答え、窓の外へ目を向けた。
庭園では、庭師たちが小道の状態を確かめている。
先日、エレノアが祖母やセドリックと歩いた場所も、今日また少しずつ手入れされているのだろう。
アルフォンスは、そのことを思いながら静かに続けた。
「エレノアには、絵の裏側に書かれた文字を記録として見てもらおうと思っている。ただ、本人が望む範囲で十分だ。何かを調べるために、あの子の気持ちを急がせる必要はない」
「かしこまりました。読み取れた部分を整理し、確認できない箇所はそのまま残しておきます」
エレーヌは書類を閉じ、次の報告へ移った。
ベルナール家へ送った古い衣類管理帳簿に関する照会については、依然として正式な回答が届いていなかった。
記録者と確認者の欄が統合された経緯について、先方が過去の担当記録を確認していることは分かっている。しかし、その変更を誰が承認したのか、どのような手続きで行われたのかについては、まだ明確な説明が得られていなかった。
「回答が届きましたら、まず記載内容を確認し、以前の帳簿と照合いたします。現段階で追加の照会を行う必要はないかと存じます」
「そうだね。今ある質問への返事を待とう。必要な確認は続けるけれど、分からないことを急いで結論へ結びつけるつもりはないよ」
アルフォンスはそう答え、書類を整理した。
エレノアの過去に関わる品々の調査は、まだ終わっていない。
母の木箱も、行方の分からない衣類も、未確認の私物も残されている。
しかし、それらを調べることと、エレノアが今の暮らしを楽しむことは、同時に進めていけるはずだった。
アルフォンスは、その考えを改めて胸に留めた。
◇ ◇ ◇
昼食後、エレノアはマルグリットの私室を訪ねた。
窓辺には昨日と同じ淡い黄色の花が飾られており、室内には温かな茶の香りが漂っている。マルグリットは小さな刺繍枠を手にしていたが、エレノアの姿を見ると、穏やかな笑みを浮かべて迎えた。
「いらっしゃい、エレノア。今日は昨日選んだ糸を試してみますか」
「はい。少しだけ試してみたいと思っています。でも、その前にお祖母様に聞いてみたいことがあるんです」
エレノアは勧められた椅子へ腰を下ろし、図案帳を膝の上に置いた。
マルグリットは手元の刺繍枠を脇へ寄せ、孫娘へ顔を向ける。
「どんなことかしら。急がなくていいですから、聞かせてくださいね」
エレノアは少し考えてから、今朝の朝食の席で聞いたことを話した。
古い絵の裏側に残された文字を、記録として整理する予定だということ。
母アデラインと幼い自分の名前が書かれていることは分かっているが、誰が書いたのか、いつ書かれたのかは分からないままだということ。
そして、自分はその文字をもう一度見てみたいと思っていること。
マルグリットは最後まで静かに聞いていた。
「そうでしたか。あの絵の裏に、アデラインとあなたの名前が書かれていたのですね」
「はい。最初に見た時は驚いてしまって、文字をじっくり見る余裕がなかったんです。今度は、もう少し落ち着いて見てみたいと思っています」
エレノアはそう答え、図案帳の表紙へ指先を添えた。
「でも、文字を見ても誰が書いたのか分からないかもしれません。それでも、見てみたいと思うのは変でしょうか」
マルグリットは柔らかく首を横に振った。
「少しも変ではありませんよ。答えが分からなくても、残されているものを大切に眺めたいと思うことはあります。私も、アデラインが幼い頃に書いた文字を見ると、その時のあの子の姿を思い出すことがありますから」
エレノアは顔を上げた。
「お祖母様は、お母様の文字を覚えていらっしゃるんですか?」
「幼い頃の文字なら、いくつか覚えていますよ。あの子は小さい頃、文字を少し右へ傾けて書く癖がありました。ただ、大きくなるにつれて筆跡も変わりましたし、私の記憶だけで誰の文字かを決めることはできません」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
「以前見つかった『青い花を作りたい』という書き付けも、あの子が幼い頃に書いたものだと分かるからこそ、懐かしく感じられるのでしょうね」
エレノアは、その書き付けを思い出した。
母が幼い頃、青い花を作りたいと書き残していたこと。
その文字を見つけた時、エレノアは母が自分と同じように、何かを作りたいと願っていたのだと知った。
けれど、今回の絵の裏側に残された文字が、母自身のものだとは限らない。
「お母様の文字かどうかは、まだ分からないんですよね」
「ええ。私も実際に見ていませんから、何とも言えません。仮に似ていたとしても、それだけで決めつけることはできないでしょう」
マルグリットは慎重に答えた。
エレノアは頷き、少しだけ視線を落とした。
何かを知りたいと思う気持ちは、時に答えを急がせる。
けれど、今は分からないことを無理に埋めようとするよりも、確かめられるものを一つずつ見ていきたいと思っていた。
「……私、少しずつ知っていけたら嬉しいです。お母様がどんなことを考えていたのか、どんなものを好きだったのか。全部分からなくても、今残っているものを大切にしたいと思います」
マルグリットはその言葉に、穏やかに頷いた。
「それでよいのですよ。昔のことを知るために、今のあなたが苦しくなる必要はありません。知りたいと思った時に、知ることのできるものから触れていけばいいのです」
エレノアは祖母の言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
それから二人は、昨日選んだ青と紫の糸を取り出し、小さな布の端へ試し縫いを始めた。
エレノアは糸を一本ずつ確かめながら、花弁の色をどう表現するか考えた。実際に縫ってみると、紙の上で並べた時とは少し違う色合いに見え、思っていたよりも柔らかな印象になる。
「お祖母様、こちらの青と紫を重ねると、昨日見た花に少し近づく気がします」
「そうですね。光の当たり方によっても色が変わって見えますから、窓辺で確かめてみるのもよいでしょう」
マルグリットはそう答え、布を少し傾けて見せた。
窓から差し込む光を受けると、青い糸の中に混じった紫色が、先ほどよりもはっきりと浮かび上がる。
エレノアはその変化を興味深く眺めた。
「本当ですね。同じ糸なのに、見る場所によって印象が違うんですね」
「ええ。刺繍は糸を選ぶだけでなく、どのように並べるかによっても表情が変わります。少しずつ試して、自分が気に入ったものを見つけるといいですよ」
祖母の言葉を聞きながら、エレノアは針を進めた。
今日の試し縫いは、完成品を作るためのものではない。
けれど、自分が好きだと思った花の色を、少しずつ形にしていく時間は楽しかった。
母の思い出に触れることと、自分の新しい図案を作ること。
その二つが、同じ午後の中に自然と並んでいることを、エレノアは嬉しく感じていた。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、エレノアはリディアとともに小応接室へ向かった。
アルフォンスから、古い絵の裏側に残された文字について、現在読み取れる範囲の写しが用意できたと伝えられたためだった。
部屋へ入ると、アルフォンスとエレーヌがすでに待っていた。
机の上には数枚の紙が置かれており、そのうち一枚には、古い絵の裏側に書かれていた文字を写した記録が添えられている。
エレノアは少し緊張しながら席へ着いた。
「エレノア、来てくれてありがとう。今日は原画そのものではなく、裏側の文字を写した記録を見てもらおうと思っているんだ」
アルフォンスは穏やかに説明した。
「まだ読み取れない部分もあるし、誰が書いたものかも分かっていない。だから、何か新しい答えが出たというわけではないんだけれどね」
「はい。それでも、見せていただけるのは嬉しいです」
エレノアがそう答えると、エレーヌは記録をそっと差し出した。
紙には、絵の裏側に残された文字の位置と、読み取れる部分が丁寧に写されていた。
アデライン。
エレノア。
二人の名前は、確かにそこにあった。
ただし、その周囲には薄くなって判別できない箇所もあり、日付や書き手を示す確かな記載は確認されていなかった。
エレノアはしばらく黙って紙を眺めた。
母の名前と、自分の名前。
それだけの文字なのに、胸の奥には言葉にしにくい感情が広がっていく。
(お母様と私の名前が、同じ紙に残されているのね。誰が書いたのかは分からないけれど、あの絵を見た誰かが、私たちの名前を残してくれたんだわ)
エレノアは指先を膝の上で重ね、静かに息を整えた。
その様子を見ていたアルフォンスは、すぐに言葉をかけることなく、彼女が落ち着いて眺められるように待っていた。
しばらくして、エレノアは顔を上げた。
「叔父様、ありがとうございます。こうして文字だけを見ると、絵を見た時とは少し違う気持ちになります」
「どんな気持ちかな」
アルフォンスの問いかけは穏やかだった。
エレノアは少し考えてから答えた。
「絵を見た時は、お母様と幼い私が一緒にいることが嬉しくて、そればかり考えていました。でも、こうして名前を見ると、誰かが私たちのことを覚えていて、文字に残してくれたのかもしれないと思うんです」
エレノアはそこで一度言葉を止めた。
「もちろん、誰が書いたのか分からないので、本当のことは分かりません。でも、そう考えると少し温かい気持ちになります」
アルフォンスは頷き、記録へ目を向けた。
「そうだね。書いた人物が誰なのかは分からないけれど、少なくともこの名前が絵の裏に残されていることは確かだ。今は、その事実を大切にしておけばいいと思うよ」
エレーヌも静かに頷いた。
「文字の状態につきましては、今後も保管記録として残してまいります。もし別の資料と比較する必要が生じた場合にも、現時点で読み取れた内容を確認できるようにいたします」
エレノアはエレーヌへ顔を向けた。
「ありがとうございます。絵を傷めないようにしていただけることも、とても嬉しいです」
「恐れ入ります。大切なお品でございますから、できる限り慎重に扱ってまいります」
エレーヌは丁寧に答えた。
その後、アルフォンスは複製についての確認状況を説明した。
専門の者へ相談する準備は進んでいるものの、実際に作業できるかどうかは、原画の状態を見てもらってから判断する必要があるという。
エレノアはその説明を聞き、落ち着いて頷いた。
「はい。急いでいただかなくても大丈夫です。絵が傷まないことが一番大切ですから」
アルフォンスは微笑んだ。
「ありがとう。進展があったら、また伝えるよ」
エレノアは記録へもう一度目を向けた。
母と自分の名前が並んでいる。
それは、まだ多くの謎を残したままの古い絵の裏側に、確かに存在しているものだった。
エレノアはその文字を心に留め、静かに頭を下げた。
◇ ◇ ◇
小応接室を出たあと、エレノアは廊下の窓辺で足を止めた。
庭園には夕方の光が差し込み、木々の葉が柔らかな金色に染まっている。遠くでは庭師たちが道具を片づけており、今日の作業を終える準備をしていた。
リディアは少し離れた位置で待ち、エレノアが景色を眺める時間を邪魔しないようにしていた。
エレノアは窓の外を見つめながら、先ほど見た文字を思い返した。
アデライン。
エレノア。
二人の名前が並んでいることは、決して特別な出来事ではないのかもしれない。
けれど、母と過ごした幼い時間をほとんど思い出せないエレノアにとって、その文字は大切なものだった。
絵を描いた人物も、名前を書いた人物も分からない。
それでも、母と自分が一緒にいた時間が、確かに存在していたことを感じられた。
「リディア、少しだけ庭園を眺めていてもいいかしら」
「もちろんでございます。お寒くはございませんか」
「大丈夫よ。今日は外へ出るつもりはないけれど、昨日歩いた場所を思い出していたの」
エレノアはそう答え、窓の外へ目を向けた。
「お祖母様とお兄様と一緒に歩いた時、昔のことを思い出せたらいいなと思っていたの。でも、思い出せなくても楽しかったから、また歩いてみたいと思うわ」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「それは素敵でございますね。季節が進めば、庭園の花も少しずつ変わってまいります。昨日とは違う景色をご覧になれるかもしれません」
「そうね。今度は、お祖父様や叔父様とも一緒に歩いてみたいわ。皆様が好きな場所も聞いてみたいの」
エレノアはそう言い、少し照れたように笑った。
以前なら、誰かを誘うことにも遠慮していたかもしれない。
けれど、今は家族と一緒に過ごしたいという気持ちを、素直に伝えてみたいと思っている。
リディアはその変化を嬉しく感じながら、静かに頷いた。
「きっと皆様もお喜びになると思います。ご都合のよい日を相談してみるのもよろしいかと存じます」
「ええ。今度、朝食の時にお話ししてみるわ」
エレノアはそう答え、もう一度庭園へ目を向けた。
昨日見つけた青紫色の花は、ここからは見えない。
けれど、その色も形も、今ははっきりと思い浮かべることができた。
母の思い出を知るために歩いた庭園で、自分の好きな花を見つけたこと。
そして、その花を図案にして、祖母と一緒に糸の色を選んだこと。
それらは、これから先も大切にしていきたい新しい思い出だった。
◇ ◇ ◇
夕食後、エレノアは自室で刺繍枠を手にしていた。
机の上には、制作途中の青い花の刺繍と、昨日から試している青紫色の花の図案が並べられている。どちらもまだ完成していないが、エレノアはその二つを見比べながら、少しずつ違う楽しさがあることに気づいていた。
青い花の刺繍には、母の思い出に触れたいという気持ちが込められている。
一方、青紫色の花の図案は、今の自分が庭園で見つけ、好きだと思ったものだった。
どちらか一つを選ばなければならないわけではない。
エレノアはそう考え、今夜は青い花の刺繍を少し進めることにした。
針を布へ通し、糸の張りを確かめながら、一針ずつ丁寧に縫っていく。
窓の外では夜風が木々を揺らし、遠くから小さな葉擦れの音が聞こえていた。
エレノアはその音を聞きながら、昼間見た古い絵の裏側の文字を思い返した。
(お母様の名前と私の名前が、あの絵の裏に残っていた。誰が書いたのかは分からないけれど、私たちが一緒にいた時間を、誰かが残してくれたのかもしれないわ)
そう考えると、胸の奥が温かくなった。
母のことをもっと知りたい。
その気持ちは、以前よりも少し強くなっている。
けれど、知らないことがあるからといって、今の自分の時間を不安で満たす必要はない。
エレノアは針を止め、刺繍枠を少し離して眺めた。
花弁の形は、まだ途中だった。
それでも、少しずつ糸が重なり、青い花の輪郭が見え始めている。
完成までには、まだ時間がかかるだろう。
けれど、今はその時間を楽しめるようになっていた。
エレノアは刺繍枠を丁寧に置き、日記帳を開いた。
今日の出来事を一つずつ思い返しながら、ゆっくりと筆を進める。
古い絵の裏側に残された文字を見たこと。
母と自分の名前が並んでいたこと。
祖母と糸の色を選び、刺繍を少し進めたこと。
そして、また家族と庭園を歩きたいと思ったこと。
書き終えると、エレノアは日記帳の最後に短い文章を添えた。
『お母様のことを、これからも少しずつ知っていきたいです。でも、今の私が好きなものや、皆様と過ごす時間も、同じように大切にしていきたいと思います。』
エレノアはその文章を眺め、静かに微笑んだ。
母の思い出を知ることは、過去へ戻ることではない。
今の自分が、その思い出をどう受け止め、どのように大切にしていくのかを考えることなのかもしれない。
エレノアは日記帳を閉じ、机の横の壁へ目を向けた。
そこにはまだ何も飾られていない。
けれど、いつか母と自分の絵が飾られるかもしれないと思うと、その空白も少し楽しみに感じられた。
リディアが就寝の支度を整えに来ると、エレノアは刺繍道具を片づけ、机の上を丁寧に整えた。
「今日は、少し嬉しいことがあったの」
エレノアがそう話すと、リディアは穏やかに微笑んだ。
「それは何よりでございます。差し支えなければ、お聞かせいただけますか」
「古い絵の裏側に残っていた、お母様と私の名前をもう一度見ることができたの。誰が書いたのかは分からないけれど、あの文字を見ていたら、少し温かい気持ちになったわ」
リディアは静かに頷いた。
「大切なお名前が残されていたのですね。お嬢様がそのように感じられたのでしたら、きっと意味のある時間だったのだと思います」
「ええ。まだ分からないことも多いけれど、今はそれでもいいと思えるの」
エレノアはそう答え、寝台へ向かった。
窓の外には月が昇り、庭園の木々が淡い光に包まれている。
母と幼い自分が描かれた古い絵。
その裏側に残された二人の名前。
そして、今の自分が新しく見つけた好きな花。
エレノアは、それらが心の中で静かにつながっていくように感じていた。
過去のすべてを知ることはできないかもしれない。
けれど、今の自分が大切にしたいものを、一つずつ見つけていくことはできる。
そう思いながら、エレノアはゆっくりと目を閉じた。
明日もまた、何か新しいことを知る日になるかもしれない。
あるいは、何も特別なことが起こらない、穏やかな一日になるかもしれない。
どちらであっても、今のエレノアには、その時間を大切に過ごしていきたいという思いがあった。
窓の外では、夜風が静かに庭園を渡っていく。
その音に耳を傾けながら、エレノアは穏やかな眠りへと落ちていった。




