第66話 母の絵を飾る場所と、私が選んだ小さな約束
翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の向こうでは庭園の木々が静かに揺れていた。昨夜のうちに少し雨が降ったらしく、窓硝子の隅には細かな水滴が残り、朝日に照らされた葉の表面が柔らかな光を返している。
寝台の上で身を起こしたエレノアは、枕元の時計へ目を向けてから、昨日描いた花の図案を思い出した。青紫色の小さな花を描いた紙は、机の上に置いた図案帳へ挟んであり、今朝もそこにあるはずだった。
(昨日は、本当に楽しかったわ。昔のことを思い出せたわけではないけれど、お祖母様やお兄様と一緒に歩いた庭園は、私が思っていたよりもずっと温かい場所だった)
母と幼い自分が描かれた古い絵を見つけた時、エレノアは失われた時間に触れたような気がしていた。けれど、昨日の散策を終えた今は、その絵を見る時の気持ちも少し変わっている。
絵の中に描かれていた幼い少女が、何を考えていたのかは分からない。母とどんな話を交わしていたのかも、絵を描いた人物が誰なのかも分からないままだったが、それでもエレノアは、あの絵をもう一度ゆっくり眺めてみたいと思っていた。
その時、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。リディアでございます。朝のお支度に伺いましたが、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、起きているわ。どうぞ入って」
エレノアが答えると、リディアはいつものように朝の支度に必要な品を持って入室した。窓辺へ目を向け、庭園の木々を眺めていたエレノアに気づくと、穏やかな笑みを浮かべる。
「昨夜は少し雨が降ったようでございます。庭園の小道にはまだ湿った場所がございますが、今日は午後から晴れるそうです」
「そうなのね。昨日のうちに歩いておいてよかったわ。でも、雨に濡れた庭園も綺麗でしょうね」
「はい。葉の色がいつもより濃く見えますし、花壇の近くでは土の香りもいたします。ただ、お足元が滑りやすくなる場所もございますので、お歩きになる際はお気をつけくださいませ」
リディアはそう言いながら衣装箱を開き、淡い生成り色の室内着と、薄い青緑色の外出着を取り出した。エレノアは二着を見比べ、今日は午前中を屋敷の中で過ごす予定だったことを思い出す。
「今日は生成り色の方にしようかしら。午後に外へ出ることになったら、その時に上着を合わせればいいと思うの」
「かしこまりました。こちらでしたら、刺繍をなさる時にも袖口が邪魔になりにくいかと存じます」
リディアが衣装を整える間、エレノアは机の方へ視線を向けた。図案帳の端から、昨日挟んだ紙が少しだけ覗いている。
「リディア、昨日描いた花の絵を、お祖母様に見ていただこうと思っているの。まだ簡単な下描きだけれど、実際の花を見て描いたものだから、図案帳の花とは少し違う気がするわ」
「マルグリット様も、きっとお喜びになると思います。昨日のお散歩からお戻りになった時、とても楽しそうにお話しなさっていましたから」
エレノアは思わず顔を上げた。
「お祖母様が、何かお話しになっていたの?」
「はい。お嬢様が庭園の花を熱心にご覧になっていたことや、セドリック様と昔のお話をなさっていたことを、夕方に少しだけ伺いました。私が詳しいことをお尋ねしたわけではございませんが、マルグリット様も嬉しそうでいらっしゃいました」
リディアの言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が楽しかったと思っていた時間を、祖母も同じように大切にしてくれていた。そのことが嬉しくて、エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「それなら、今日も少しお話しできたら嬉しいわ。昨日はお母様のことを教えていただいたけれど、お祖母様ご自身が好きだった花のことも聞いてみたいの」
「それは素敵でございますね。きっと、いろいろなお話を聞かせてくださると思います」
リディアはそう答え、エレノアの髪を丁寧に整え始めた。
鏡の中には、穏やかな表情をした自分が映っている。
以前のエレノアなら、祖母が何を喜ぶかを先に考え、それに合わせて話題を選ぼうとしていただろう。けれど今日は、自分が聞いてみたいと思ったことを、そのまま尋ねてみようと考えている。
それは大きな決断ではなかったが、エレノアにとっては確かな変化だった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、昨日の庭園の散策が自然と話題になった。
オーギュストはエレノアの顔を見ると、いつもより少し柔らかな声で庭園の様子を尋ねた。アルフォンスも仕事の書類から離れた穏やかな表情で席についており、セドリックはパンを切り分けながら、昨日見つけた石の腰掛けについて話していた。
「庭師からも報告を受けたよ。昔から残っている石の腰掛けを見たそうだね」
アルフォンスが尋ねると、エレノアは頷いた。
「はい。お兄様が、幼い頃に木の実を並べて遊んだ場所かもしれないと教えてくださいました。ただ、昔のことですから、同じ場所だとは言い切れないそうです」
「それでいいと思うよ。古い記憶は、どうしても曖昧になることがあるからね。確かめられない部分を無理に決めつける必要はない」
アルフォンスはそう答え、隣に座るセドリックへ視線を向けた。
「お前も、昔のことをよく覚えていたね。私自身は、アデラインが子供たちと庭園を歩いていたことは覚えているけれど、どこで何をしていたかまでは思い出せないよ」
「僕も、全部覚えているわけではありません。ただ、石の端に小さな窪みがあったことと、木の実をそこへ置こうとしたことは、不思議とはっきり覚えていたんです」
セドリックは少し照れたように笑い、エレノアへ顔を向けた。
「でも、昨日あの場所に立ってみて、昔の記憶と今の景色が必ずしも同じではないことも分かったよ。周りの花壇が変わっているから、最初は少し違う場所のように感じたんだ」
マルグリットは二人の会話を聞きながら、温かな飲み物を口元へ運んだ。
「庭園は、同じ形を保つことだけが大切なのではありませんからね。木が育てば日陰も変わりますし、花壇も季節や手入れの都合で少しずつ姿を変えていきます。昔の景色を懐かしむこともできますが、今の庭園を楽しんでもらえることも嬉しいですよ」
エレノアはその言葉に、昨日見つけた青紫色の花を思い出した。
「お祖母様、昨日の花を少し描いてみたんです。まだ下描きなのですが、後で見ていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんですよ。午後は少し時間がありますから、一緒に見てみましょうか」
マルグリットは嬉しそうに答え、それからふと思い出したようにアルフォンスへ目を向けた。
「そういえば、昨日の絵の保管について、何か決まりましたか。エレノアが見つけたあの絵を、傷めずに残しておきたいと思っているのですけれど」
アルフォンスは食器を置き、エレノアにも聞こえるように説明した。
「エレーヌが保管方法を確認してくれました。絵そのものは、保護紙を添えて湿気や強い光を避けて保管するのがよいそうです。長く飾っておくなら、原画ではなく複製を使う方法もあります」
エレノアは思わず顔を上げた。
「複製を作ることができるんですか?」
「ああ。ただし、元の絵を傷めないように作業する必要があるから、すぐにできるとは限らないよ。原画をどこに保管するかも含めて、まだ相談しているところなんだ」
アルフォンスはそこで少し表情を和らげた。
「それで、エレノアにも聞いておきたいと思っていた。あの絵を、これからどうしたいかな。いつでも見られるようにしたいのか、それとも大切に保管して、見たい時に取り出す方がいいのか。今すぐ決める必要はないから、ゆっくり考えてほしい」
エレノアは手元の食器へ視線を落とした。
母と自分が描かれた絵を、自室に飾る。
そう考えるだけで、胸の奥に小さな喜びが生まれる。
けれど同時に、あの絵は自分だけのものなのだろうかという疑問も浮かんだ。
母はロシュフォール家で育ち、祖父母や叔父、従兄にも大切に思われていた人だった。絵に描かれた幼い自分は確かにエレノア自身だが、母の姿を懐かしむ気持ちは、きっと家族それぞれにある。
「……少し考えてもよろしいでしょうか」
エレノアが顔を上げて尋ねると、アルフォンスはすぐに頷いた。
「もちろんだよ。急ぐことではないし、あの絵を見たい時にはいつでも言ってくれればいい」
「ありがとうございます、叔父様」
エレノアはそう答えたが、心の中にはもう一つ、まだ言葉にならない気持ちが残っていた。
自分の部屋に飾りたいと思うことは、わがままなのだろうか。
以前なら、そう考えた時点で希望を口にするのをやめていたかもしれない。
けれど今朝は、その疑問をすぐに結論へ変えず、少し考えてみることにした。
◇ ◇ ◇
朝食後、アルフォンスは執務室でエレーヌ・フォシェから絵の保管に関する報告を受けていた。
机の上には、古い絵の寸法や紙の状態を記した簡単な記録が置かれている。窓際には朝の光が差し込んでいたが、絵そのものは直射日光の当たらない場所へ移され、現在は保護紙を添えた状態で保管されていた。
「原画の状態について、現時点で大きな破損は確認されておりません。ただし、紙の端には古い折れ跡がございますし、顔料の一部が薄くなっております。長時間明るい場所に置くことは避けた方がよろしいかと存じます」
エレーヌは記録を示しながら、慎重に説明した。
アルフォンスは頷き、紙の状態を記した欄へ目を通す。
「複製を作る場合は、どの程度の作業が必要になるかな。エレノアが自室で見たいと思った時に、原画を何度も出し入れするよりは、負担を減らせるかもしれない」
「正確な複製を作るには、絵の状態を見ながら専門の者に相談する必要がございます。色の薄くなった部分を勝手に補うことは避け、現在残っている姿をできる限り忠実に写す方がよろしいかと存じます」
「そうだね。元の色を想像で描き足してしまえば、後から見た人がそれを本来の色だと思い込むかもしれない」
アルフォンスはそう答え、少し考えた。
昨日、エレノアが庭園を歩いたことを聞いている。
古い絵に描かれた場所を探すために始まった散策だったが、彼女は今の庭園で新しく好きな花を見つけたという。
その話を聞いた時、アルフォンスは妹アデラインのことを思い出していた。
アデラインも、幼い頃から花や木々を眺めるのが好きだった。けれど、彼女は庭園の花をただ美しいものとして眺めるだけではなく、季節ごとに変わる色や形を楽しみ、気に入ったものを紙へ描き留めることもあった。
エレノアが昨日したことと、どこか似ている。
それでも、二人が同じ人間であるはずはない。
アルフォンスは、姪が妹に似ている部分を見つけるたびに嬉しくなる一方で、エレノア自身の好みや考えを、妹の面影だけで決めつけてはいけないとも思っていた。
「絵については、まずエレノアの希望を聞こう。原画は適切に保管して、複製が必要ならその時に手配を進めればいい」
「承知いたしました。複製の可否と作業方法については、先に確認だけ進めておきます」
エレーヌは記録へ書き込み、次の書類を取り出した。
それは、ベルナール家へ送った古い衣類管理帳簿に関する照会の控えだった。
「こちらにつきましては、現時点でも正式な回答は届いておりません。先方が過去の担当記録を確認していることは把握しておりますが、記録者と確認者の欄が統合された経緯については、まだ説明を受けておりません」
アルフォンスは書類へ視線を落とした。
古い帳簿の記載方法が変わった理由を確かめることは、衣類の管理状況を整理するうえで必要だった。けれど、その理由が判明したとしても、エレノアの衣類が実際にどこへ移されたのかまで分かるとは限らない。
「回答を急がせるために、質問の内容を広げる必要はないよ。今尋ねているのは、あくまで帳簿の扱いと手続きについてだからね」
「はい。モロー工房の受領簿についても、確認できた事項と未確認の事項を分けて整理しております」
エレーヌは別の紙を示した。
工房の注文控えには、似た淡い青色の子供用衣類が二着分記されている。一方、現在確認できる受領簿の写しでは一着分しか読み取れず、短い補助線の意味についても、個々の記載を確定するだけの情報は得られていなかった。
「受領簿の補助線は、分割納品などの整理に使われる場合があるとの説明でした。ただし、線があることだけで受取人や所有者を判断することはできません」
「分かっているよ。そこを混同しないようにしよう」
アルフォンスは静かに答えた。
絵に描かれた幼いエレノアの衣装と、工房の注文控えに記された衣類が同じものかどうかも、まだ判断できない。絵の色は年月によって変化しており、形が似ているという印象だけで記録を結びつけることはできなかった。
エレーヌも、その点について慎重な姿勢を崩さなかった。
「絵の保存記録と衣類の調査記録は、現段階では別々に管理いたします。後から比較する必要が生じた場合に備え、絵の寸法と状態だけは正確に残しておきます」
「それがいい。何かを見つけた時ほど、確かめられた事実と、こちらの推測を分けておく必要があるからね」
アルフォンスは書類を閉じ、窓の外へ目を向けた。
雨上がりの庭園では、庭師たちが濡れた小道の状態を確かめている。
昨日、エレノアが歩いた場所も、今朝は少し違う景色になっているのだろう。
調査が進むことを願う気持ちは、もちろんある。
しかし、すべての答えが出るまで、エレノアの毎日を止めておくわけにはいかない。
アルフォンスはその思いを胸に、次の書類へ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
昼食を終えたエレノアは、図案帳を抱えてマルグリットの私室を訪ねた。
部屋の窓辺には小さな花瓶が置かれ、淡い黄色の花が数輪生けられている。窓の外では雨雲がほとんど流れ去り、雲間から差し込む光が絨毯の上に柔らかな模様を作っていた。
マルグリットは刺繍道具を整理しているところだったが、エレノアの姿を見ると、手元の布を置いて微笑んだ。
「いらっしゃい、エレノア。昨日描いた花を持ってきてくれたのですね」
「はい。まだ下描きなのですが、見ていただきたくて」
エレノアは祖母に勧められた椅子へ腰を下ろし、図案帳を開いた。
青紫色の小さな花を描いた紙は、昨日のうちに丁寧に挟んでおいたため、折れ曲がることなく残っていた。花弁の形は少し不揃いで、茎の線も途中でわずかに曲がっている。
マルグリットは紙を受け取ると、すぐに感想を口にするのではなく、花の形をじっくりと眺めた。
「昨日の花の特徴を、よく見ていましたね。こちらの花弁が少し細くなっているところも、実際に見た時の印象が残っているのでしょう」
「そうなんです。全部同じ形に描こうかと思ったのですが、昨日見た花は一枚ずつ少し違っていたので、そのまま描いてみました」
エレノアはそう説明しながら、紙の端へ指を添えた。
「ただ、色はまだ決められなくて。青い糸だけでは少し違うような気がしますし、紫色を使いすぎると、昨日見た花とは別の色になってしまいそうなんです」
マルグリットは頷き、手元にあった糸見本を取り出した。
「それなら、実際に糸を並べて考えてみましょうか。紙に描いた色と、糸で表現した色は必ずしも同じにはなりませんから、少しずつ試してみるのもよいと思いますよ」
糸見本には、濃淡の異なる青や紫の糸が整然と並んでいた。
エレノアは祖母の隣へ椅子を寄せ、昨日の花を思い浮かべながら、気になる色を一つずつ選んでいく。
「この青は綺麗ですけれど、少し鮮やかすぎるかもしれません。こちらの薄い紫色を合わせると、柔らかく見えるでしょうか」
「ええ、よい組み合わせだと思います。ただ、実際に縫ってみると印象が変わることもありますから、今すぐ決めなくても構いませんよ」
マルグリットは糸を二本並べ、エレノアが見比べやすいように白い布の上へ置いた。
その手つきを眺めているうちに、エレノアは昨日聞いた母の話を思い出した。
「お祖母様、お母様も、こうして糸の色を選んでいらっしゃったんでしょうか」
マルグリットは手を止め、少し懐かしそうに微笑んだ。
「ええ。アデラインも、色を選ぶ時にはずいぶん迷っていましたよ。自分が思い描いた色と、実際の糸の色が違うと、何度も見比べていました」
「お母様も、迷うことがあったんですね」
「もちろんです。あの子は最初から何でも上手にできたわけではありませんし、気に入った色が見つからずに、途中で別の図案を考え始めることもありました」
マルグリットは少し笑った。
「ただ、いろいろ試すこと自体を楽しんでいたように思います。完成させるまでに時間がかかっても、自分が気に入ったものを作りたいという気持ちが強かったのでしょうね」
エレノアは静かに頷いた。
母が刺繍をしている姿を、はっきりと思い出せるわけではない。
それでも、糸を並べて迷ったり、思いどおりの色が見つからずに考え込んだりしていたという話を聞くと、母が少し身近な人に感じられた。
優しくて、何でもできる母。
幼い頃のエレノアにとって、アデラインはそんな存在だった。
けれど、祖母が話してくれる母は、失敗したり迷ったりすることもある、一人の少女であり、一人の女性だった。
「私、お母様のことを知れば知るほど、もっといろいろなお話を聞きたくなります。でも、昔のことを全部知るのは、きっと難しいんでしょうね」
エレノアは紙へ目を落としながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「昨日、庭園を歩いていて思ったんです。私が覚えていないことを、お兄様やお祖母様が覚えていてくださるのは嬉しいです。でも、同じ場所に立っても、私には思い出せないことがあるんだって」
マルグリットはすぐには答えず、エレノアが続きを話せるように静かに待った。
エレノアは膝の上で指先を重ね、少し考えてから顔を上げた。
「それでも、昨日は楽しかったんです。昔のことを思い出せなかったからといって、残念な一日にはなりませんでした。お母様のことを知る時間と、今の私が楽しむ時間は、別々にあってもいいんですね」
マルグリットはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「ええ。アデラインの思い出を大切にすることと、あなたが新しい思い出を作ることは、何も矛盾しませんよ。むしろ、あの子があなたに望んでいたことも、きっとそういう毎日だったのではないかと、私は思っています」
祖母の声は優しかったが、最後の言葉には慎重さもあった。
亡くなった娘が今のエレノアへ何を望むのか、誰にも確かめることはできない。それでも、マルグリットは自分の知っているアデラインの姿を思い浮かべながら、そう感じていた。
エレノアも、その違いを理解していた。
母が本当にそう言ってくれるかどうかは分からない。
けれど、祖母がそう思ってくれていることは、今ここにある確かな優しさだった。
◇ ◇ ◇
糸見本を片づけたあと、エレノアは朝食の席で聞いた古い絵の話を切り出した。
母と自分が描かれた絵を、これからどこに置くのか。
そのことについて考えていたと伝えると、マルグリットは手元の刺繍道具を脇へ寄せ、エレノアの話に耳を傾けた。
「叔父様が、複製を作ることもできると教えてくださいました。もし自室に飾るなら、原画を傷めないようにした方がいいともおっしゃっていて……それで、少し考えていたんです」
「どんなことを考えていたのか、聞かせてもらえますか」
エレノアは頷いたものの、すぐには言葉が出てこなかった。
自分の部屋に絵を飾りたい。
それは、昨日の夜から心の中にあった願いだった。
けれど、その気持ちを口にする前に、祖母や叔父も母の絵を見たいのではないかと考えてしまう。
「……あの絵を、私の部屋に飾れたら嬉しいと思いました。でも、お母様はこのお屋敷で育った方ですし、お祖母様や叔父様にとっても大切な方ですから、私だけが持っていていいのか分からなくなってしまって」
エレノアは言い終えると、祖母の表情をそっと窺った。
マルグリットは驚いた様子も、困った様子も見せなかった。ただ、エレノアが何を気にしているのかを確かめるように、静かに頷いた。
「あなたは、私たちもあの絵を見たいと思うかもしれないから、自分の部屋へ飾ってよいのか迷っているのですね」
「はい。私が持っていたいと思うことが、少し自分勝手なのではないかと思ってしまって」
エレノアの声は、最後の方でわずかに小さくなった。
マルグリットはしばらく考え、窓辺の花瓶へ目を向けた。
「エレノア、私はあの絵を見つけられて、本当に嬉しかったですよ。アデラインがあなたと一緒にいた時間を、目に見える形で残してくれたものですからね」
祖母はそこでエレノアへ向き直った。
「でも、あなたが自分の部屋に飾りたいと思うことも、同じくらい嬉しいのです。あの絵が、あなたにとって大切なものになったということですから」
エレノアは思わず顔を上げた。
「……お祖母様も、嬉しいと思ってくださるんですか?」
「もちろんですよ。私が絵を見たい時には、あなたにお願いして一緒に見せてもらうこともできますし、複製を別の場所に置く方法もあるでしょう。どちらか一人だけが大切にしなければならないものではありません」
マルグリットは微笑み、エレノアの手へそっと自分の手を重ねた。
「何より、あなたが自分の部屋に置きたいと望んだことを、遠慮だけで取り消してほしくはありません。私たちの気持ちを考えてくれるのは嬉しいけれど、あなた自身の気持ちも同じように大切にしてほしいのです」
エレノアは祖母の手の温かさを感じながら、ゆっくりと息を吸った。
今まで、自分の希望と誰かの希望が違うかもしれないと思った時、エレノアは自分の方を引っ込めることが多かった。
ベルナール家では、そうしておけば波風が立たないと考えていた。
けれど、ロシュフォール家では違う。
自分が何を望んでいるのかを伝えても、すぐに誰かを困らせることにはならない。
むしろ、伝えなければ分からないこともあるのだと、少しずつ理解できるようになっていた。
「……ありがとうございます、お祖母様。私、叔父様にもお話ししてみます」
エレノアは祖母の手を握り返し、静かに微笑んだ。
「原画は大切に保管していただいて、もし複製を作ることができるなら、私の部屋に飾りたいです。でも、皆様にも見ていただけるようにしたいので、どんな方法がいいか相談してみようと思います」
「ええ。それがよいと思います。あなたが考えたことを、そのまま伝えてみてください」
マルグリットは頷き、それから少し楽しそうに続けた。
「飾る場所も、ゆっくり考えるとよいですね。朝に見たいのか、刺繍をしている時に眺めたいのか、それとも眠る前に見たいのかで、似合う場所も変わるでしょうから」
エレノアはその言葉に、小さく笑った。
「そうですね。今までは、絵を飾る場所を自分で考えたことがあまりありませんでした。どこに置いたら綺麗に見えるのか、少し迷ってしまいそうです」
「迷うのも楽しみの一つですよ。すぐに決める必要はありませんから、部屋へ戻ったらいろいろな場所を眺めてみるといいでしょう」
祖母の言葉を聞きながら、エレノアは自室の窓辺を思い浮かべた。
そこには、淡い桃色の野ばらの刺繍が飾られている。
母が幼い頃に作った青い花の刺繍は、今も行方が分からない。
けれど、母と自分の絵を飾ることができたなら、窓辺にはまた一つ大切なものが増えるのかもしれない。
エレノアはそう考え、胸の奥に小さな期待が膨らむのを感じた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、セドリックは屋敷の書庫で、庭園に関する古い記録を整理していた。
昨日の散策をきっかけに、庭園の配置がどのように変わってきたのか、少し興味を持ったためだった。ただし、彼は古い絵の場所を必ず突き止めようとしているわけではなく、今残っている記録から分かることだけを確かめたいと考えていた。
書庫の窓は半分ほど開けられ、雨上がりの涼しい風が室内へ入ってくる。机の上には庭園の管理記録が数冊置かれており、セドリックは年代の古いものから順に目を通していた。
記録には、植え替えた花の種類や、傷んだ石畳の補修、樹木の剪定についての記載が残っている。
しかし、すべての年の作業が同じ詳しさで書かれているわけではなかった。
ある年は花壇の形を変えた理由まで記されている一方で、別の年には、作業した場所と費用だけが簡潔に残されている。
「……これだけでは、絵の場所までは分からないな」
セドリックは記録を閉じ、机の上へ置いた。
昨日見た石の腰掛けは、確かに幼い頃の記憶にあるものと似ていた。
けれど、庭園には他にも石造りの腰掛けがあり、年月の間に位置が変わったものもあるかもしれない。
自分が覚えていることを、エレノアへ確かな事実として伝えるのは避けたい。
(昨日、エレノアは嬉しそうにしていた。だからこそ、僕の曖昧な記憶を、あの子の確かな思い出のように扱ってはいけないんだろうな)
セドリックはそう考えながら、記録の表紙を指先でなぞった。
幼い頃、エレノアと一緒に庭園を歩いた記憶は、彼にとって大切なものだった。
アデライン叔母上が笑っていたことも、木の実を集めたことも、今となっては遠い出来事になっている。
けれど昨日、エレノアと同じ場所を歩いたことで、その記憶は少し違う意味を持つようになった。
昔のことを懐かしむだけではなく、今のエレノアと新しい思い出を作ることができたからだ。
セドリックは、昨日彼女が気に入った青紫色の花を思い出した。
エレノアは花を摘み取らず、咲いている姿をじっくり眺めていた。
その横顔は穏やかで、以前のように何かを言う前に周囲の反応を窺う様子も少なかった。
セドリックは、その変化を嬉しく思っていた。
彼女が過去の出来事を忘れたわけではないことも、今なお不安を抱える時があることも知っている。
それでも、庭園で好きな花を見つけた時の笑顔は、無理をして作ったものには見えなかった。
彼は記録を元の場所へ戻し、机の上を整えた。
今度エレノアと庭園を歩く時には、昔の場所を探すだけでなく、彼女が新しく見つけた花についても話してみよう。
そう考えると、次に一緒に歩く時間が少し楽しみになった。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、エレノアはアルフォンスへ古い絵について相談するため、小応接室を訪ねた。
アルフォンスは仕事の合間に時間を作り、窓辺の椅子へ腰を下ろして待っていた。部屋には温かな茶が用意されており、エレノアが入室すると、叔父は穏やかな笑みで迎えた。
「エレノア、よく来てくれたね。絵のことについて、何か考えがまとまったのかな」
「はい。お祖母様にも相談して、私がどうしたいのか、少し分かった気がします」
エレノアは勧められた椅子へ腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。
アルフォンスは急かさず、彼女が話し始めるのを待っている。
その静かな時間に、エレノアは少しだけ緊張を感じた。
何かをお願いすることには、まだ慣れていない。
けれど、今日は自分の希望を伝えるために来たのだと思い直し、ゆっくりと顔を上げた。
「叔父様、あの絵を、できれば私の部屋に飾りたいと思っています。でも、原画を傷めてしまうのは嫌なので、複製を作ることができるなら、そちらを飾りたいです」
エレノアはそこで一度息を整え、続けた。
「それから、あの絵は私だけでなく、皆様にとっても大切なものだと思うんです。ですから、原画はお屋敷で大切に保管していただいて、見たい時には皆様もご覧になれるようにしていただけたら嬉しいです」
アルフォンスは最後まで聞き、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。原画は傷めないように保管して、エレノアの部屋には複製を飾る。そして、家族が見たい時にも見られるようにしておきたい、ということだね」
「はい。勝手なお願いかもしれませんが……」
エレノアがそう言いかけると、アルフォンスは柔らかく首を横に振った。
「勝手なお願いだとは思わないよ。むしろ、よく考えてくれたと思う。絵を大切にしたい気持ちも、家族と分かち合いたい気持ちも、どちらも伝わってきたからね」
その言葉に、エレノアの肩から少し力が抜けた。
アルフォンスは茶器へ手を伸ばし、続けて説明した。
「ただ、複製を作れるかどうかは、専門の者に状態を見てもらってから決める必要があるんだ。今残っている色をできるだけ忠実に写したいけれど、紙を傷めるような方法は使いたくないからね」
「はい。それなら、急がずに待ちます。もし複製が難しい場合は、別の方法を考えてみたいです」
「そうしよう。エレーヌには、作業方法を確認するように頼んである。できるだけ早く返事をもらえるようにするけれど、急いで絵を傷めてしまっては意味がないからね」
エレノアは頷き、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
自分の希望を伝えたからといって、すぐにすべてが実現するわけではない。
それでも、叔父はその願いを大切に受け止め、どうすればよいか一緒に考えてくれている。
そのことが、エレノアには何より嬉しかった。
「叔父様、ありがとうございます。私、お願いする前は少し迷っていたんです。お母様の絵を自分の部屋に飾りたいと思うのは、わがままなのではないかと考えてしまって」
アルフォンスはその言葉を聞き、少しだけ表情を曇らせた。
エレノアが何かを望むたびに、まず自分の願いが許されるものかどうかを考えてしまうことは、以前から気づいていた。
その習慣が、短い時間で消えるものではないことも分かっている。
「エレノア、あの絵を自分の部屋に飾りたいと思うのは、自然なことだよ。アデラインは君の母親なのだから、そばに感じていたいと思うことを遠慮する必要はない」
アルフォンスは穏やかに言葉を続けた。
「それに、私たちもあの絵を大切に思っているけれど、だからといって君の希望と対立するわけではないんだ。お互いの気持ちを話して、どうするのがいいか考えればいい」
エレノアは静かに頷いた。
その言葉は、祖母が話してくれたこととも重なっていた。
自分の気持ちを伝えることは、誰かの気持ちを無視することではない。
相手が何を考えているのかを聞き、自分の考えも伝える。
そうして決めていくことができるのだと、少しずつ分かってきた。
「……はい。これからは、迷った時にも、まずお話ししてみようと思います」
エレノアがそう答えると、アルフォンスは安心したように微笑んだ。
「それで十分だよ。いつでも上手に話せなくても構わないし、途中で考えが変わってもいい。君がどうしたいのかを、私たちは知りたいと思っているからね」
エレノアはその言葉を胸に留め、窓の外へ目を向けた。
庭園の木々には、雨上がりの光が差し込んでいる。
昨日歩いた小道は、ここからは見えない。
それでも、あの場所で感じた風や、青紫色の花の色を思い出すことができた。
母の絵を飾る場所について考え始めた時、エレノアは過去の思い出をどう扱えばよいのか迷っていた。
けれど今は、母の絵を大切にすることと、今の自分の部屋を好きなもので満たしていくことは、同じ時間の中にあってもよいのだと思えた。
◇ ◇ ◇
小応接室を出たあと、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。
廊下の窓からは午後の光が差し込み、磨かれた床に淡い色の影を落としている。使用人たちは静かに仕事を続けており、遠くから食器を運ぶ小さな音が聞こえていた。
自室へ入ると、エレノアはまず窓辺へ向かった。
そこには、淡い桃色の野ばらの刺繍が飾られている。
木枠は以前、母の青い花の刺繍を飾っていたものだった。今はエレノア自身が作った野ばらが収められており、窓から差し込む光を受けて、柔らかな色合いを見せている。
エレノアはその刺繍を眺めながら、古い絵をどこへ飾りたいのか考えた。
「リディア、もしあの絵の複製ができたら、どこに飾るのがいいと思う?」
リディアは部屋の中を見回し、少し考えてから答えた。
「こちらの壁でしたら、朝の光が直接当たりにくいかと存じます。ただ、お嬢様がどのような時にご覧になりたいかによっても、よい場所は変わると思います」
エレノアはリディアが示した壁へ目を向けた。
机の横にあるその場所には、現在は小さな飾り棚が置かれている。壁にはまだ何も飾られておらず、絵を掛ける余地があった。
「そうね。机に向かっている時にも見えるし、窓辺の刺繍とも近いわ」
エレノアは少し離れた位置から壁を眺め、絵の大きさを思い浮かべた。
「でも、まだ複製ができると決まったわけではないから、今すぐ場所を決めなくてもいいのよね」
「はい。まずは候補として考えておかれるのがよろしいかと存じます。実際に複製ができましたら、大きさや額の形を見ながら、改めてお決めになれますので」
リディアの言葉に、エレノアは微笑んだ。
何かを決める時、以前は一度で正しい答えを出さなければならないように感じていた。
けれど、今は違う。
候補を考え、実際に見てから決め直してもいい。
自分の部屋のことなら、なおさらそうしてよいのだと思えた。
「ありがとう、リディア。今日はこの壁を候補にしておくわ。複製ができたら、また一緒に考えてもらえる?」
「もちろんでございます。お嬢様のお部屋が、ますますお好きなものに囲まれた場所になるとよろしいですね」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
それから机へ向かい、昨日描いた青紫色の花の図案を取り出した。
祖母と一緒に選んだ糸の色を、忘れないうちに書き留めておきたかった。
図案の横には、薄い青と紫の糸を試すこと、花弁の形をもう少し観察することを、小さな文字で記していく。
その作業を終えると、エレノアは制作途中の青い花の刺繍枠へ目を向けた。
こちらは、母が幼い頃に作ろうとしていた青い花の刺繍を思いながら始めたものだった。
まだ完成には遠い。
けれど、少しずつ縫い進めた花弁には、自分が選んだ糸の色が重なっている。
エレノアは刺繍枠を手に取り、針を進める前に布の張りを確かめた。
急いで完成させる必要はない。
祖母に教わったことを思い出しながら、一針ずつ丁寧に進めていけばいい。
その時間を楽しめるようになったことが、エレノアには嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夕方、マルグリットは私室で、アルフォンスからエレノアとの相談について聞いていた。
窓の外では日が傾き始め、庭園の木々が長い影を落としている。マルグリットは刺繍道具を片づけながら、息子の話に耳を傾けていた。
「エレノアは、原画を大切に保管して、複製を自室に飾りたいと言っていたよ。家族も見られるようにしたいとも話してくれた」
アルフォンスがそう伝えると、マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「そうですか。自分の気持ちを、きちんと伝えられたのですね」
「ああ。少し迷っていたようだけれど、最後まで自分の言葉で話してくれたよ」
アルフォンスは椅子へ腰を下ろし、少しだけ表情を和らげた。
「エレノアが何かを望むたびに、まだ遠慮してしまうことがあるのは分かっている。でも、今日は自分から相談に来てくれた。それが嬉しかったんだ」
マルグリットは静かに頷いた。
昼間、エレノアが自分の部屋に絵を飾りたいと話した時のことを思い出す。
あの子は、家族の気持ちを大切にしたいと思っている。
けれど、その優しさが自分の希望を押し込める理由になってしまうこともある。
マルグリットは、その違いを少しずつ伝えていきたいと思っていた。
「エレノアは、相手の気持ちを考えることができる子です。でも、自分の気持ちを後回しにすることが、必ずしも相手を大切にすることにはならないのですよね」
「そうだね。私たちも、あの子が何を望んでいるのか分からなければ、一緒に考えることができない」
アルフォンスはそう答え、窓辺へ目を向けた。
「アデラインが生きていたら、きっとエレノアと一緒に絵を飾る場所を考えていたんだろうな。妹は昔から、部屋の中に何かを飾る時にはずいぶん迷うところがあったから」
マルグリットは懐かしそうに笑った。
「ええ。花を飾る場所を決めるだけでも、窓辺がいいか机の上がいいかと、何度も考えていましたね。結局、気に入った場所を見つけるまで、花瓶を持って部屋の中を歩いていたこともありました」
アルフォンスも、その話を聞いて小さく笑った。
母と息子の間に、亡きアデラインを懐かしむ穏やかな時間が流れる。
けれど、二人とも、エレノアに妹の代わりを求めようとは思っていなかった。
エレノアはエレノアとして、自分の好きなものを選び、自分の時間を過ごしていけばいい。
そのために家族として何ができるのかを、これからも考えていきたいと思っていた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の机に向かい、日記帳を開いていた。
窓の外には雲の切れ間から月が見え、庭園の木々が淡い光を受けている。昼間に雨が降った名残なのか、夜の空気は少しひんやりとしていたが、室内には穏やかな暖かさが保たれていた。
エレノアは今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりと筆を進めた。
朝食の席で、古い絵の保管について話したこと。
祖母に青紫色の花の図案を見てもらい、糸の色を一緒に選んだこと。
そして、叔父に自分の希望を伝えたこと。
書き留めていくうちに、エレノアは今日もいくつかの小さな決断をしていたことに気づいた。
どれも、他人から見れば特別なことではないかもしれない。
好きな花を描き、絵を飾る場所を考え、家族に相談する。
けれど、以前の自分にとっては、そうしたことさえ簡単ではなかった。
(……私、自分の部屋にお母様の絵を飾りたいって、ちゃんと言えたのね。まだ少し緊張したけれど、叔父様は最後まで聞いてくださったし、お祖母様も私の気持ちを大切にしてくださった)
エレノアは筆を止め、机の横の壁へ目を向けた。
そこは、昼間リディアと一緒に絵を飾る候補として考えた場所だった。
今はまだ何も掛かっていない。
複製が作れるかどうかも分からないし、実際に飾る場所がそこになるとも決まっていない。
それでも、いつかその壁に母と自分の絵が飾られるかもしれないと思うと、胸の奥が温かくなった。
エレノアは再び日記帳へ目を落とした。
母の思い出を大切にしたい。
その気持ちは、これからも変わらないだろう。
けれど、過去のものをただ失わないように抱えているだけではなく、今の暮らしの中で大切にしていくこともできる。
今日、祖母や叔父と話したことで、そのことを少し理解できた気がした。
エレノアは日記へ最後の一文を書き加えた。
『今日は、お母様と私の絵を、いつか自分の部屋に飾りたいと伝えました。まだ決まっていないこともありますが、皆様と相談しながら、私が好きだと思える場所を見つけたいです。』
書き終えると、エレノアはしばらくその文章を眺めた。
昨日の庭園で見つけた青紫色の花。
今日、祖母と一緒に選んだ糸の色。
そして、母の絵を飾るために考えた小さな約束。
それらは、どれも今の自分が選んだものだった。
過去の記憶を取り戻せなくても、新しい時間を作ることはできる。
そのことを、エレノアは少しずつ実感していた。
彼女は日記帳を閉じ、机の上に置いた図案帳へ手を伸ばした。
昨日描いた花の絵は、今日選んだ糸の色とともに、丁寧に挟まれている。
エレノアはその紙をもう一度眺めてから、図案帳を閉じた。
窓辺には、淡い桃色の野ばらの刺繍が飾られている。
母の絵が加わるかもしれない壁は、まだ空いたままだった。
けれど、その空白を見ても、エレノアは寂しいとは思わなかった。
これから自分で選ぶものを、少しずつ増やしていける場所なのだと感じられたからだ。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、夜風が庭園の木々を静かに揺らしている。
その音を聞きながら、彼女は昼間の祖母と叔父の言葉を思い出した。
自分の気持ちを伝えることは、誰かを困らせることではない。
迷った時には、一緒に考えてもらってもいい。
そして、今すぐ決められないことがあっても、急いで答えを出す必要はない。
エレノアはその思いを胸に、ゆっくりと目を閉じた。
母の絵を飾る場所は、まだ決まっていない。
けれど、いつかその場所を選ぶ時には、自分が本当に好きだと思えるところを選びたい。
そう考えながら、エレノアは穏やかな眠りへと落ちていった。




