第65話 母と歩いた庭園で、私が見つけた新しい景色
翌朝、エレノアが目を覚ました時、窓の外には柔らかな朝日が差し込んでいた。
昨夜まで空を覆っていた雲は東の方へ流れ、庭園の木々には細かな朝露が残っている。開け放たれていない窓越しにも、風に揺れる葉の様子が見え、今日は穏やかな一日になりそうだった。
エレノアは寝台の上でゆっくりと身を起こし、枕元に置かれた小さな時計へ目を向けた。
朝食までには、まだ少し時間がある。
いつもなら、その日の予定を考えたり、読みかけの本を手に取ったりするところだった。けれど今朝は、目を覚ました時から、昨日見せてもらった古い絵のことが頭を離れなかった。
庭園の小道に立つ幼い少女。
片手には小さな花を持ち、傍らに立つ女性へ嬉しそうに顔を向けている。
絵の裏側には、母アデラインと自分の名前が記されていた。
日付も作者も分からないため、昨日見た客人帳の訪問日と同じ場面だとは断定できない。それでも、母と幼い自分が一緒に過ごした時間を描いたものとして、エレノアの心には深く残っていた。
(あの絵に描かれていた場所は、今も庭園にあるのかしら。建物の形や花壇の位置は、年月が経てば変わってしまうでしょうけれど、少しでも似た景色が残っていたら嬉しいわ)
昨夜、眠る前にも同じことを考えていた。
庭園へ行けば、何か特別なものが見つかると期待しているわけではない。母の記憶が突然蘇るとも思っていないし、絵に描かれた場所を見つけたからといって、衣類の調査が進むとも限らない。
ただ、歩いてみたかった。
母と自分が、かつて同じ庭園を歩いていたのだと思いながら。
エレノアは寝台から降り、窓辺へ近づいた。
庭園の奥では、朝の手入れをしている庭師の姿が見える。小道の脇には白い花が咲き、その向こうには背の低い生け垣が続いていた。
昨日の絵には、花壇の縁と、緩やかに曲がる小道が描かれていた。
けれど、ロシュフォール公爵邸の庭園には、似たような場所がいくつもある。
自分だけで歩き回っても、見当違いの場所を探してしまうかもしれない。
(お祖母様か叔父様に、庭園の昔の様子を尋ねてみようかしら。それとも、長くこちらで働いていらっしゃる庭師の方なら、何か覚えているかもしれないわね)
そう考えたところで、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。リディアでございます」
「おはよう、リディア。どうぞ入って」
エレノアが答えると、リディアは朝の支度に必要なものを持って入室した。
窓辺に立つエレノアを見て、少しだけ表情を和らげる。
「今朝は早くお目覚めになられたのですね。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「ええ。昨日は少し気持ちが落ち着かなくなるかと思っていたけれど、思っていたよりもよく眠れたわ」
「それはようございました。昨日は大切な絵をご覧になりましたから、お疲れになっていないか心配しておりました」
リディアは衣装箱を開きながら、穏やかな声で続けた。
「本日はお天気もよろしいようですし、気分転換にお庭を歩かれるのもよろしいかもしれませんね」
エレノアは思わず顔を上げた。
「実は、私も同じことを考えていたの」
「そうでございましたか」
「昨日の絵に描かれていた場所が、今も残っているかもしれないと思って。もちろん、何年も前の絵だから、同じ景色ではないでしょうけれど……少し歩いてみたくなったの」
リディアは衣装を選ぶ手を止め、エレノアへ向き直った。
「それでしたら、歩きやすいお召し物をご用意いたしましょう。庭園の小道はよく整えられておりますが、朝露が残っている場所もございますので、お履き物も外歩きに適したものがよろしいかと存じます」
エレノアは微笑んだ。
「ありがとう。でも、まだ皆様に相談していないの。お祖母様か叔父様に、昔の庭園のことを尋ねてからにしようと思っているわ」
「はい。それがよろしいかと存じます。私もご一緒できますので、必要でしたらお申し付けください」
その言葉に、エレノアは小さく頷いた。
以前の自分なら、何かをしたいと思っても、まず許されるかどうかを考えていた。
今も、その習慣が完全に消えたわけではない。
けれど、今日の自分は少し違う。
庭園を歩きたいという気持ちを、隠さずに伝えることができた。
そして、リディアはそれを当たり前の願いとして受け止めてくれた。
そのことが、エレノアには嬉しかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席で、エレノアは家族へ庭園を歩いてみたいと伝えた。
食堂にはオーギュスト、マルグリット、アルフォンス、セドリックが揃っている。窓の外では、朝の光を受けた木々が静かに揺れ、食卓には焼きたてのパンと温かな料理が並んでいた。
エレノアが昨日の絵について話し始めると、マルグリットはすぐに頷いた。
「ええ、よいと思いますよ。今日はお天気も穏やかですし、庭園を歩くにはちょうどよさそうですね」
「ありがとうございます。あの絵に描かれていた場所が、今も残っているかどうかは分からないのですが……少し見てみたいんです」
エレノアはそう言いながら、膝の上で指先を重ねた。
アルフォンスは、娘のように大切に思っている姪の表情を見つめた。
昨日、古い絵を見た時のエレノアは、嬉しさと悲しさが入り混じったような顔をしていた。けれど今朝は、自分から何かを確かめたいと思っていることが伝わってくる。
「それなら、庭園の古い配置について確認してみようか。あの絵がいつ描かれたものかは分からないけれど、昔の小道や花壇の位置を覚えている者がいるかもしれない」
アルフォンスがそう提案すると、エレノアは嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか、叔父様」
「ああ。ただ、絵の場所を必ず見つけられるとは限らないからね。今日は庭園を楽しむつもりで歩いてみるのがいいと思う」
「はい。私も、そうしたいです」
そのやり取りを聞いていたセドリックが、少し考えるように首を傾げた。
「僕も一緒に行っていいかな。昔、エレノアと庭園で遊んだ場所なら、少しは覚えているかもしれないんだ」
エレノアは隣に座る従兄へ顔を向けた。
「お兄様も覚えていらっしゃるんですか?」
「全部ではないけれどね。僕もまだ小さかったから、どこで何をしたのか曖昧なところは多いんだ。ただ、庭園の奥にあった低い石の縁に腰掛けて、木の実を並べたことは覚えているよ」
セドリックは懐かしそうに微笑んだ。
「アデライン叔母上が、僕たちの手が土だらけになっているのを見て、あとでちゃんと洗いなさいと笑っていたんだ」
エレノアは思わず笑みをこぼした。
「私も一緒に木の実を並べていたんでしょうか」
「たぶんね。君は僕が集めたものを見て、自分でも探したくなったみたいだった。僕の記憶だから、細かなところは間違っているかもしれないけれど」
セドリックはそこで少し言葉を選んだ。
「でも、叔母上が楽しそうにしていたことは覚えているよ。僕たちが何を見つけても、まず話を聞いてくれる人だったから」
エレノアは静かに頷いた。
母の姿が、また一つ増えたような気がした。
絵の中で自分を見つめる母。
刺繍の色を選ぶのに迷っていた幼い母。
そして、庭園で遊ぶ子供たちを笑顔で見守っていた母。
それぞれは小さな記憶にすぎない。
けれど、重なっていくことで、エレノアの知らなかった母の姿が少しずつ形になっていく。
「それなら、セドリックも一緒に歩くとよいだろう」
オーギュストが穏やかに言った。
「ただし、昔の記憶を確かめようとして無理に歩き回る必要はない。庭園は今も変わり続けているし、当時のまま残っていない場所もあるからな」
セドリックは頷いた。
「分かっています、お祖父様。僕も、エレノアと一緒に庭を歩ければそれで十分です」
マルグリットは二人のやり取りを聞き、柔らかく微笑んだ。
「それでは、午前のうちに少し歩いてみましょうか。私は途中までご一緒できますし、疲れたら近くの東屋で休むこともできますよ」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。皆様と一緒なら、きっと楽しい時間になると思います」
食卓に穏やかな空気が広がった。
アルフォンスは、その様子を見ながら静かに息を吐いた。
エレノアが自分から何かを望み、それを家族へ伝える。
それは、今では少しずつ増えてきた光景だった。
けれど、彼にとっては、何度見ても大切にしたい変化だった。
◇ ◇ ◇
朝食後、アルフォンスは庭園の管理を任されている庭師へ、昔の配置について尋ねることにした。
執務室へ戻る前に、使用人を通じて庭園の責任者へ連絡を取る。
しばらくして訪れたのは、長年この屋敷の庭園を管理している年配の庭師だった。
アルフォンスは彼を迎え、昨日見つかった絵について説明した。
「古い絵の中に、庭園の小道と花壇が描かれていたんだ。日付は分からないけれど、アデラインと幼いエレノアの名前が残されている。今の庭園に似た場所があるか、少し確かめてみたいと思ってね」
庭師は話を聞き、慎重に頷いた。
「昔の庭園でございましたら、多少は覚えております。ただ、花壇の形や植えられている花は、何度か変わっておりますので、絵と同じ景色が残っているかどうかは分かりません」
「それで構わないよ。無理に場所を決めつけるつもりはないからね」
アルフォンスはそう答えた。
庭師は少し考えたあと、庭園の奥にある小道について話し始めた。
「以前は、南側の花壇の近くに、緩やかに曲がる小道がございました。今も道筋の一部は残っておりますが、花壇の縁は作り直されております」
「なるほど。絵には花壇の縁が描かれていたけれど、それだけでは同じ場所とは言えないね」
「はい。ただ、奥にある古い石の腰掛けは、当時から位置が大きく変わっておりません。周囲の植え込みは変わりましたが、石そのものは今も使われております」
アルフォンスは、その言葉に少し興味を覚えた。
セドリックが朝食の席で話していた、低い石の縁。
それと同じものかどうかは分からない。
けれど、庭園の奥に昔から残る場所があるのなら、歩いてみる価値はありそうだった。
「ありがとう。今日はエレノアたちが庭園を歩く予定なんだ。君が案内できる範囲で、昔の配置について教えてもらえるかな」
「かしこまりました。お嬢様方がお疲れにならないよう、歩きやすい道をご案内いたします」
庭師が一礼すると、アルフォンスは穏やかに頷いた。
彼はそこで、昨日の絵と衣類の調査についても考えた。
絵の中の少女が着ていた服は、淡い色の外出着だった。
しかし、絵の具が薄くなっているため、元の色は分からない。モロー工房の注文控えにある服と同じものかどうかも、現時点では判断できない。
庭園の場所が分かったとしても、衣類の受け渡しについて新しい証拠が得られるわけではない。
アルフォンスは、その点を改めて意識した。
今日の散策は、エレノアが母との思い出に触れるための時間だ。
調査のために彼女の気持ちを急がせることはしない。
そう決めて、彼は庭園へ向かう準備を進めた。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、エレノアはマルグリット、セドリック、リディアとともに庭園へ出た。
空には白い雲がゆっくりと流れ、時折、木々の間から柔らかな日差しが差し込んでいる。小道の両側には季節の花が咲き、朝露の残る葉が光を受けて小さく輝いていた。
エレノアは歩きやすい靴を履き、薄手の上着を羽織っていた。
リディアは少し後ろを歩き、必要な時に手を貸せるようにしている。
セドリックはエレノアの隣に並び、マルグリットは庭師の案内を聞きながら、ゆっくりと歩いていた。
「こちらの小道は、以前から大きくは変わっておりません。ただ、右手の花壇は数年前に作り直しております」
庭師が説明すると、エレノアは足元の石畳へ目を向けた。
淡い色の石が緩やかな曲線を描き、庭園の奥へ続いている。
昨日の絵にも、似たような小道が描かれていた。
けれど、同じ場所かどうかは分からない。
「昔も、こんなふうに花が咲いていたのでしょうか」
エレノアが尋ねると、庭師は少し考えた。
「花の種類は季節によって変えておりましたので、今と同じではなかったかと存じます。ただ、こちらの辺りは昔から花壇として使われておりました」
エレノアは頷いた。
今咲いている花と、母が見ていた花は違うかもしれない。
それでも、同じ場所に花壇があり、季節ごとに花が咲いていたのだと思うと、不思議な親しみを感じた。
セドリックは、エレノアが花壇を見つめている様子に気づき、穏やかに声をかけた。
「エレノア、何か気になる花があった?」
「ええ。あちらの白い花が、とても綺麗だと思って」
エレノアが指さした先には、小さな白い花がいくつも咲いていた。
花弁は薄く、中心には淡い黄色が見える。
セドリックもそちらへ目を向けた。
「本当だ。近くで見ると、花弁の形が少しずつ違うんだね」
「そうなんです。遠くから見ると同じように見えるのに、一つずつ違っていて……何だか、刺繍の図案を考える時にも参考になりそうです」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
マルグリットはその会話を聞き、穏やかに頷いた。
「よく気づきましたね。実際の花を観察すると、図案帳だけでは分からない形や色の違いが見えてくるものですよ」
「はい。今度、少し描いてみたいです」
エレノアはそう答え、花壇をもう一度眺めた。
今日の散策は、母の思い出を探すために始まった。
けれど、今の自分が新しく気に入った花を見つける時間にもなっている。
そのことが、エレノアには嬉しかった。
◇ ◇ ◇
しばらく歩くと、一行は庭園の奥にある低い石の腰掛けへたどり着いた。
そこは大きな木の陰にあり、周囲には背の低い植え込みが続いている。石の表面には年月を感じさせる細かな傷が残っていたが、座る部分は丁寧に手入れされていた。
庭師は石の腰掛けを示し、説明した。
「こちらは、昔からこの場所にございます。周囲の花壇は何度か変わりましたが、石の位置はほとんど動かしておりません」
セドリックはその言葉を聞き、ゆっくりと石へ近づいた。
表面を見つめ、少し考えるように目を細める。
「……ここだったような気がする」
エレノアは隣へ歩み寄った。
「お兄様、何か思い出されたんですか?」
「うん。昔、ここに木の実を並べたことがあったと思うんだ。石の端に小さな窪みがあって、そこへ丸い木の実を置こうとした記憶がある」
セドリックは石の端を指さした。
そこには、年月の間にできたものと思われる浅い窪みがあった。
エレノアはしゃがみ込まず、少し身を屈めてその場所を見つめた。
確かに、小さな木の実なら置けそうな形をしている。
けれど、彼女自身には、その場所で遊んだ記憶がなかった。
「私は、まだ思い出せません。でも、お兄様が覚えていらっしゃるのなら、ここで一緒に遊んだことがあったのかもしれませんね」
エレノアがそう言うと、セドリックは穏やかに頷いた。
「そうだね。ただ、僕の記憶も曖昧だから、絶対にここだったとは言えないよ」
彼は少し笑った。
「でも、こうして立っていると、昔のことを思い出す気がするんだ。アデライン叔母上が近くにいて、僕たちが集めた木の実を見てくれたこととかね」
エレノアは静かに目を伏せた。
母がここに立っていたかもしれない。
幼い自分が、従兄と一緒に木の実を並べていたかもしれない。
その光景を想像すると、胸の奥が温かくなる。
けれど、同時に少しだけ寂しさも感じた。
(……私も、覚えていたかったわ。お母様がどんな声で笑っていらしたのか、どんなふうに私たちを見てくださっていたのか)
エレノアは石の腰掛けへ視線を落とした。
その表面には、細かな傷がいくつも残っている。
何年もの間、ここへ座った人たちがいたのだろう。
その中に、母と自分が含まれていたかもしれない。
そう考えると、失われた記憶を無理に取り戻そうとするより、今ここに立っている時間を大切にしたいと思えた。
マルグリットは、二人の様子を静かに見守っていた。
幼い頃のセドリックとエレノアが、庭園で遊んでいたことは覚えている。
けれど、そのすべての場所や出来事を、正確に思い出せるわけではない。
年月は、記憶の細かな輪郭を少しずつ曖昧にしていく。
それでも、子供たちが楽しそうにしていたことや、アデラインが二人を優しく見守っていたことは、今も心に残っていた。
「ここで少し休みましょうか」
マルグリットが声をかけると、エレノアは顔を上げた。
「はい。お祖母様、お疲れではありませんか?」
「私は大丈夫ですよ。ただ、せっかくですから、少し座って景色を眺めましょう」
マルグリットはそう言って、石の腰掛けへ腰を下ろした。
エレノアも隣に座り、セドリックは少し離れた場所に立った。
庭師は必要な説明を終えると、少し距離を取って待機している。
リディアはエレノアの上着がずれていないか確かめ、風が強くなった時に備えて近くに控えた。
庭園には、穏やかな時間が流れていた。
◇ ◇ ◇
石の腰掛けに座りながら、エレノアは周囲の景色を眺めた。
木々の間から差し込む光が、小道の上に柔らかな模様を作っている。少し離れた花壇では、庭師たちが手入れを続けており、時折、道具を動かす小さな音が聞こえてきた。
エレノアはその景色を見つめながら、祖母へ話しかけた。
「お祖母様、お母様は、この庭園がお好きだったんでしょうか」
マルグリットは少し考え、頷いた。
「ええ。アデラインは庭園を歩くのが好きでしたよ。特に、花が咲き始める季節になると、よく外へ出ていました」
「やっぱり、花がお好きだったんですね」
「そうですね。ただ、花を眺めるだけではなく、葉の形や茎の伸び方までよく見ていました。刺繍の図案を考える時にも、実際の花を参考にしていたようです」
エレノアは思わず微笑んだ。
「私も、さっき同じことを考えていました」
マルグリットは嬉しそうに目を細めた。
「そうでしたね。あなたが白い花を見て、刺繍の参考にしたいと話しているのを聞いて、少し懐かしくなりました」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
母と自分には、似ているところがあるのかもしれない。
けれど、それを知ったからといって、母と同じものを好きにならなければならないわけではない。
昨日、祖母が話してくれたことを思い出す。
昔の自分と今の自分が違っていても、構わない。
それなら、母と自分が違っていても、きっと構わないのだろう。
「お母様が好きだったものを知るのは嬉しいです。でも、私が好きなものも、これから少しずつ増やしていきたいと思います」
エレノアがそう言うと、マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「それがよいと思いますよ。アデラインのことを大切に思う気持ちと、あなた自身が好きなものを見つけることは、どちらも大切ですからね」
エレノアは静かに頷いた。
母の思い出を探していると、時々、失われた時間を取り戻さなければならないような気持ちになる。
けれど、すべてを思い出すことはできない。
母がどんな一日を過ごし、何を考え、どんなことを喜んでいたのか、そのすべてを知ることもできない。
それでも、少しずつ知っていけばいい。
そして、今の自分の時間も大切にしていけばいい。
エレノアはそう考えながら、庭園の奥へ視線を向けた。
すると、セドリックが少し離れた場所から声をかけた。
「エレノア、あちらに小さな花が咲いているよ。さっき君が気に入っていたものとは違う種類みたいだ」
エレノアは顔を上げた。
セドリックが示した先には、淡い青紫色の小さな花が咲いていた。
花弁は細く、風に揺れるたびに柔らかな影を作っている。
「本当ですね。とても綺麗です」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
マルグリットも花へ目を向けた。
「青い花の刺繍を作っているあなたには、よい参考になるかもしれませんね」
「はい。近くで見てみたいです」
エレノアはそう答え、祖母へ顔を向けた。
「お祖母様、少しだけ見に行ってもよろしいでしょうか」
「もちろんですよ。足元に気をつけてくださいね」
エレノアは頷き、ゆっくりと立ち上がった。
セドリックが隣へ並び、二人は花壇の近くまで歩いた。
◇ ◇ ◇
花壇の前に立つと、エレノアは青紫色の花をじっと見つめた。
遠くから見ると一つの色に見えた花弁は、近くで見ると中心に向かって少しずつ色が濃くなっている。葉の形も、図案帳に描かれているものとは微妙に違っていた。
エレノアはその違いを確かめながら、静かに息を吐いた。
「……綺麗ですね。青い糸だけでは、この色を表すのは難しそうです」
セドリックは隣から花を眺めた。
「確かに、光の当たり方でも色が違って見えるね。さっきはもっと青く見えたけれど、近くでは紫色が混じっているように感じる」
「はい。もし刺繍にするなら、青い糸と紫色の糸を少しずつ使うといいのかもしれません」
エレノアはそう言いながら、花弁の形を目で追った。
セドリックは、その横顔を静かに見つめた。
エレノアは、以前よりも自分の考えを言葉にするようになった。
何かを見て綺麗だと思った時、その気持ちを隠さずに話す。
分からないことがあれば、尋ねてみる。
そして、失敗するかもしれないことでも、少しずつ試そうとしている。
その変化は、決して急なものではなかった。
ロシュフォール家へ来たばかりの頃、エレノアは何かを選ぶ時にも、周囲の反応を確かめていた。
今でも、その癖が残ることはある。
けれど、今日の彼女は、自分から庭園を歩きたいと言い、気に入った花を見つけて嬉しそうにしている。
セドリックは、その姿を見て安心した。
(……叔母上も、きっと喜んでくださるだろうな。エレノアがこうして、自分の好きなものを見つけていることを)
彼は幼い頃のアデラインを知っているわけではない。
けれど、優しく話を聞いてくれた叔母の姿は、今も記憶に残っている。
エレノアが楽しそうにしている時、その面影を感じることがあった。
「エレノア、今度その花を図案にしてみる?」
セドリックが尋ねると、エレノアは少し考えた。
「そうですね。でも、今作っている青い花を先に完成させたいです。途中で別のものを始めると、どちらも中途半端になってしまいそうなので」
その答えを聞いて、セドリックは微笑んだ。
「それもいいと思うよ。完成したら、ぜひ見せてほしいな」
「はい。お兄様にも見ていただきたいです」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
その時、風が少し強くなり、花弁が小さく揺れた。
エレノアは思わず目を細め、風に揺れる花を見つめた。
花を摘み取ることはしなかった。
ここに咲いている姿を、もう少し眺めていたかったからだ。
セドリックも隣で静かに待っていた。
二人の間には、無理に言葉を重ねなくてもよい穏やかな時間が流れていた。
◇ ◇ ◇
庭園を歩き終えたあと、エレノアたちは屋敷へ戻った。
マルグリットは少し休むために私室へ向かい、セドリックも午後の用事があるため、途中で別れた。
エレノアはリディアとともに自室へ戻り、上着を脱いで椅子へ腰を下ろした。
窓の外には、先ほど歩いた庭園の一部が見えている。
エレノアはその景色を眺めながら、静かに微笑んだ。
「今日は、とても楽しかったわ」
リディアは上着を丁寧に畳みながら、穏やかに答えた。
「それはようございました。お戻りになった時のお顔が、とても明るく見えました」
「そうかしら」
「はい。庭園で何か素敵なものを見つけられたのですね」
エレノアは少し考えた。
昔の自分が遊んだかもしれない石の腰掛け。
母が歩いていたかもしれない小道。
そして、今日初めて気づいた白い花や青紫色の花。
どれも、心に残っている。
「昔のことを思い出せたわけではないの。でも、お兄様が覚えていらっしゃる場所を一緒に歩けたし、お祖母様からお母様のお話も聞けたわ」
エレノアは窓辺へ目を向けた。
「それに、今の私が綺麗だと思う花も見つけられたの。何だか、昔のことを探しに行ったのに、新しい思い出もできたような気がするわ」
リディアはその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。
「それは、とても素敵なことでございますね」
エレノアは頷いた。
過去のことを知りたいと思う気持ちは、今も変わらない。
母の遺品や衣類について、分からないことも多い。
けれど、調べることだけが、自分の生活のすべてではない。
今日のように庭園を歩き、好きな花を見つけ、誰かと笑い合う時間も大切にしたい。
その気持ちを、エレノアは少しずつ理解し始めていた。
◇ ◇ ◇
午後、アルフォンスは執務室でエレーヌから報告を受けていた。
昨日見つかった古い絵について、保管方法の確認が進んでいる。紙の状態は比較的安定しているものの、長期間そのまま飾ることは避けた方がよいと判断された。
エレーヌは記録を示しながら説明した。
「絵は保護紙を添えて保管し、閲覧の際に取り出す方法が適切かと存じます。エレノア様が私室でご覧になりたいと望まれる場合には、複製を用意する方法もございます」
アルフォンスは頷いた。
「そうだね。本人がどうしたいかを聞いてから決めよう。昨日は見つかったばかりだったし、今すぐ飾るかどうかを判断する必要はないからね」
「承知いたしました」
エレーヌは一礼し、次の書類を取り出した。
それは、モロー工房の受領簿について、アニエス・モローから以前届いた説明を整理した控えだった。
受領簿に引かれていた短い補助線は、分割納品などの帳簿整理に使われることがある。
ただし、すべての線が同じ意味を持つわけではなく、受取人や所有者を示す印でもない。
そのため、注文控えに二着と記されている衣類について、写しで一着分しか確認できていない問題は、依然として残っていた。
アルフォンスは書類へ目を通し、静かに頷いた。
「ここは、まだ結論を出せないね。補助線の意味が一部分かったことと、もう一着の受け渡しが確認できたことは別だから」
「はい。現時点では、受領簿の写しに残る情報だけで判断することは難しいかと存じます」
エレーヌは慎重に答えた。
アルフォンスは少し考え、書類を机へ置いた。
「ベルナール家の古い衣類管理帳簿についても、正式な回答はまだ届いていない。記録者と確認者の欄が統合された経緯が分かれば、記録の扱い方をもう少し整理できるかもしれないけれどね」
「はい。ただし、統合の経緯が判明したとしても、それだけで衣類の所在が分かるとは限りません」
「その通りだよ」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
調査を進めるほど、分かったことと分からないことを区別する必要がある。
エレノアの衣類がどこへ渡されたのか。
誰が管理し、どのような判断をしたのか。
そのすべてが、まだ明らかになったわけではない。
アルフォンスは、今日の庭園での出来事を思い出した。
エレノアは、自分から庭園を歩きたいと望んだ。
そして、昔の思い出を探しながら、今の自分が好きだと思う花を見つけた。
そのことが、彼には何より嬉しかった。
(……調査は調査として進めていこう。でも、あの子の毎日を、過去の問題だけで埋め尽くしてはいけない)
アルフォンスはそう考え、書類を整理した。
エレノアが安心して暮らせるようにすること。
そのために必要な調査を進めること。
そして、彼女自身が新しい時間を楽しめるよう、見守ること。
どれも、同じように大切なことだった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室の机に向かい、今日見た花を小さな紙へ描いていた。
窓辺には、淡い桃色の野ばらの刺繍と、制作途中の青い花の刺繍枠が置かれている。
エレノアは紙の上に、青紫色の花弁を一枚ずつ描き加えた。
実際の花を見た時には、もっと細かな色の違いがあった。
けれど、今は形を覚えている範囲で描いてみることにした。
線が少し曲がってしまっても、無理に消そうとはしない。
花弁の形が揃わなくても、次に描く時の参考になる。
そう思えるようになったことが、エレノアには嬉しかった。
しばらくして、リディアが温かな飲み物を持って入室した。
「エレノア様、少しお休みになりませんか。先ほどから、ずっと机に向かっていらっしゃいましたので」
エレノアは顔を上げ、微笑んだ。
「ありがとう、リディア。ちょうど一段落したところなの」
リディアは卓へ飲み物を置き、紙に描かれた花へ目を向けた。
「こちらは、今日のお庭でご覧になったお花でございますか?」
「ええ。青紫色の小さな花よ。近くで見ると、花弁の色が少しずつ違っていて、とても綺麗だったの」
エレノアは紙を少し持ち上げた。
「まだ上手には描けないけれど、今度、刺繍の図案にできたらいいなと思っているわ」
リディアは絵を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「とても可愛らしいお花ですね。エレノア様が気に入られた理由が、少し分かる気がいたします」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。今作っている青い花が完成したら、次に何を作るか考えてみたいの」
リディアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
エレノアが、自分の好きなものを選ぶようになっている。
以前は、何かを勧められるたびに、相手の顔色を確かめていた少女が、今は自分から作りたいものを話している。
その変化を、リディアは嬉しく思っていた。
けれど、彼女は大げさに褒めることはしなかった。
エレノアが自分の気持ちを自然に話せるようになっているのなら、その時間を当たり前のものとして受け止めたいと思ったからだ。
「完成が楽しみでございますね。今の青い花も、少しずつ形になっておりますし」
「ええ。お祖母様に教わりながら、焦らずに進めたいわ」
エレノアはそう答え、窓辺の刺繍枠へ目を向けた。
淡い青色の花弁は、まだすべて揃っていない。
けれど、昨日よりも少しだけ形が整っている。
その小さな変化を見つめると、胸の奥が温かくなった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは日記帳を開いた。
今日の出来事を書き始めると、思っていたよりも多くのことが心に残っていると気づいた。
庭園の小道を歩いたこと。
昔から残る石の腰掛けを見たこと。
セドリックが、幼い頃に木の実を並べた記憶を話してくれたこと。
祖母から、母が庭園の花をよく観察していたと聞いたこと。
そして、青紫色の小さな花を見つけたこと。
エレノアは一つずつ書き留めながら、静かに微笑んだ。
昨日の絵を見た時、幼い自分が遠いところにいるように感じた。
けれど、今日の庭園では、少し違う気持ちになった。
昔の自分が歩いたかもしれない場所を、今の自分も歩いている。
その景色は、きっと同じではない。
花壇の形も、植えられている花も、年月とともに変わっている。
けれど、今の自分が綺麗だと思うものを見つけられた。
(……昔の私が見ていた景色と、今の私が見ている景色は違うのね。でも、どちらも私の大切な時間なんだわ)
エレノアは筆を止め、窓の外へ目を向けた。
庭園は夜の静けさに包まれ、木々の影が月明かりの下でゆっくりと揺れている。
昼間に歩いた小道は、ここからではよく見えない。
けれど、その場所に立った時の風の匂いや、花弁の色は、今もはっきりと思い出せた。
エレノアは日記へ最後の一文を書き加えた。
『今日は、お母様の思い出を探しに庭園へ行きました。そして、今の私が好きだと思う花を見つけました。どちらも、大切にしたいと思います。』
書き終えると、エレノアはしばらくその文章を見つめた。
過去を知りたいという気持ちは、これからも変わらないだろう。
母の遺品についても、まだ分からないことが多い。
衣類の調査も、養女縁組の手続きも、すべてが終わったわけではない。
それでも、今日のような一日を過ごすことができる。
何かを確かめるためだけではなく、好きなものを見つけるために歩くことができる。
そのことが、エレノアには何より嬉しかった。
彼女は日記帳を閉じ、机の上に置いた小さな花の絵へ目を向けた。
まだ完成した図案ではない。
けれど、今日の庭園で見つけた新しい思い出が、そこに残っている。
エレノアは紙を丁寧に重ね、図案帳の間へ挟んだ。
そして、灯りを落として寝台へ入った。
窓の外では、夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
その音を聞きながら、エレノアは昼間の庭園を思い浮かべた。
昔の母と自分が歩いたかもしれない小道。
セドリックが木の実を並べたと話してくれた石の腰掛け。
そして、今日初めて見つけた青紫色の花。
過去の思い出と、新しく生まれた思い出が、胸の中で静かに重なっていく。
エレノアはその温かな気持ちを抱きながら、ゆっくりと目を閉じた。




