第64話 古い絵箱に眠っていた、小さな私の笑顔
翌朝、ロシュフォール公爵邸の庭園には、昨夜の風に運ばれてきた雲の影がゆっくりと流れていた。
窓辺に立ったエレノアは、芝生の上を移動していく明るい光を眺めながら、昨日見せてもらった客人帳のことを思い出していた。古い紙に記されていた母アデラインの名前と、その隣に並ぶ幼い自分の名前は、目を閉じても思い浮かべられるほど、心に残っている。
母と一緒にこの屋敷を訪れた日が、確かに存在していた。
もちろん、それは以前から分かっていたことでもある。祖父母も叔父も、幼い頃のエレノアを覚えていてくれたし、従兄のセドリックも、庭園で一緒に遊んだ記憶を話してくれた。
それでも、日付の残された記録を自分の目で確かめたことには、言葉にしにくい特別な意味があった。
(お母様と過ごした時間は、私が思い出せなくなっても、消えてしまうわけではないのね。誰かが覚えていてくださることもあるし、昨日のように、思いがけない場所に残っていることもある)
エレノアは窓枠にそっと手を添え、庭園の奥にある木々へ視線を向けた。
昨日、アルフォンスは客人帳に記された日付を手がかりに、古い家族の記録を探してみると話していた。絵が残っているかどうかは分からず、たとえ見つかったとしても、そこに描かれた服がモロー工房の注文控えにあるものと一致する保証はない。
そのことは、エレノアも理解していた。
けれど、もし幼い自分の姿が残っているのなら、見てみたいと思う。
母が見ていた自分は、どんな顔で笑っていたのだろう。
どんなものを喜び、何を不思議に思い、どんな声で母を呼んでいたのだろう。
すべてを知ることはできなくても、その一端に触れられるかもしれない。
扉の向こうから控えめなノックが聞こえ、エレノアは振り返った。
「エレノア様、おはようございます。朝のお支度をお手伝いしてもよろしいでしょうか」
「ええ、リディア。お願いするわ」
入室したリディアは、窓辺に立つエレノアを見て、穏やかに微笑んだ。手にした盆を卓へ置くと、まず室内の温度を確かめ、それから衣装箱の前へ移動する。
「今朝は少し風がございますね。日中は暖かくなるそうですが、午前中は薄手の上着をお持ちになった方がよろしいかもしれません」
「そうね。昨日より雲も多いみたいだし、今日は室内で過ごす時間が長くなりそうだから、あまり厚いものではなくて大丈夫よ」
「かしこまりました。それでは、こちらはいかがでしょうか」
リディアが取り出したのは、柔らかな生成り色のドレスだった。袖口には淡い緑色の糸で小さな葉が刺繍されており、胸元には細いリボンが添えられている。
エレノアはその服を見て、自然と微笑んだ。
「綺麗ね。今日はそれにするわ」
「ありがとうございます。エレノア様がお好きそうだと思いまして、こちらをお持ちいたしました」
リディアはそう答え、支度を進めた。
髪を梳いてもらいながら、エレノアは鏡に映る自分の姿を見つめた。以前は、衣装を選ぶ時にも、誰かの機嫌を損ねないかどうかを先に考えていた。目立ちすぎる色を選べば叱られるかもしれず、控えめな服を選べば地味だと言われるかもしれない。
どちらを選んでも、間違いになることがあった。
けれど、今は違う。
好きだと思った服を選んでも、誰かが不機嫌になることはない。
それどころか、リディアはエレノアが何を気に入るのかを知ろうとしてくれる。
「リディア、昨日の客人帳のことを考えていたの」
エレノアが話しかけると、リディアは髪をまとめる手を緩めずに答えた。
「アデライン様とエレノア様のお名前が残されていたと伺いました。大切な記録が見つかって、ようございましたね」
「ええ。私、昨日は名前を見ただけで胸がいっぱいになってしまって、あまり周りのことを覚えていないくらいなの。でも、今朝になって考えたら、少し不思議な気持ちになったわ」
「不思議な気持ち、でございますか」
「昔の私も、ちゃんとここに来ていたのね。今の私は、その日のことをほとんど覚えていないのに」
リディアは鏡越しにエレノアの表情を見た。
悲しそうというより、何かを大切に確かめようとしている顔だった。
「幼い頃のことは、覚えていらっしゃらない部分も多いかと存じます。それでも、エレノア様がこちらで過ごされた時間は、確かにあったのでございますね」
「そうね。昨日、お祖母様もお母様のことを話してくださったの。私が花の名前をたくさん尋ねても、お母様は嫌がらずに教えてくださったんですって」
エレノアの声が、少しだけ柔らかくなった。
「私、その話がとても嬉しかったの。小さい頃の私は、何かを知りたいと思ったら、遠慮せずに聞いていたのかもしれないわね」
リディアは髪を整え終えると、鏡の中のエレノアへ微笑みかけた。
「今も、知りたいことをお尋ねになってよろしいのですよ。エレノア様が何かをお知りになりたいと思われることは、決して悪いことではございません」
その言葉を聞いたエレノアは、少しだけ目を伏せた。
誰かから許されなければ質問できないと思っていた時間は、まだ完全には消えていない。
けれど、今は少しずつ変わっている。
「ありがとう、リディア。今日も何か分からないことがあったら、ちゃんと尋ねてみるわ」
エレノアがそう答えると、リディアは満足そうに頷いた。
鏡の中では、生成り色のドレスを着た少女が、昨日よりも少し穏やかな顔で微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
朝食後、アルフォンスは執務室でエレーヌ・フォシェから古い記録の保管状況について報告を受けていた。
机の上には、昨日見つかった客人帳の写しと、家族の私的な記録が収められている保管棚の一覧が並べられている。公爵家の正式な文書とは異なり、家族の思い出に関わるものは、必ずしも年代順に整理されているわけではなかった。
手紙、絵、祝いの品に添えられた記録、子供たちが描いた図案。
そうしたものは、家族が大切にしていた箱や引き出しへ、それぞれの判断で保管されていることもある。
「昨日の客人帳と同じ頃の記録を探してみましたが、家族の絵だけをまとめた帳簿は見当たりませんでした」
エレーヌはそう報告し、保管棚の一覧へ指を添えた。
「ただし、古い絵を収めた箱がいくつかございます。年代が明確に記されているものと、そうでないものが混在しているようです」
アルフォンスは頷いた。
「なるほど。家族が描いたものなら、正式な記録と同じようには整理されていないだろうね」
「はい。特に、幼い頃の絵や私的な記念品については、誰がどの箱へ収めたのかまで分からないものもございます」
エレーヌは慎重に説明した。
アルフォンスは、机の端に置いた客人帳の写しへ視線を向けた。
アデラインがエレノアを連れて訪れた日付は分かっている。
けれど、その日に絵が描かれたという記録があるわけではない。
もし何か見つかったとしても、それが同じ日のものかどうかは、別に確かめなければならなかった。
「では、まずは箱の外側に記された年代や名前を確認しよう。中身を一度に広げる必要はないし、傷みやすいものもあるだろうから、慎重に扱ってほしい」
「承知いたしました。状態を確認したうえで、閲覧に適したものだけを選びます」
エレーヌは一礼し、書類をまとめた。
その時、アルフォンスはふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、母上が昔の絵をいくつか大切にしていたような気がする。アデラインが幼い頃に描いたものも、母上の手元に残っているかもしれないね」
「それでしたら、マルグリット様へお尋ねするのがよろしいかと存じます」
「そうだね。ただ、今回はエレノアが幼い頃に着ていた服を確かめるための調査でもあるから、目的を混同しないようにしよう」
アルフォンスは少し考えてから続けた。
「母上の思い出に関わるものを見つけることと、衣類の受け渡しを確認することは、必ずしも同じではない。エレノアが何かを見て喜んだとしても、それを調査の証拠として扱う必要はないからね」
エレーヌは静かに頷いた。
記録の調査では、分かったことと、まだ分からないことを分けておかなければならない。
それは、モロー工房の受領簿についても同じだった。
注文控えに二着と記されていても、確認できた受領記録は一着分だけだった。工房の補助線が分割納品などに使われることは分かったものの、もう一着がいつ、誰へ渡されたのかは、依然として不明のままである。
アルフォンスは、そのことを忘れていなかった。
エレノアのために調べているからこそ、都合のよい結論へ急ぐわけにはいかない。
「今日は、まず箱の確認だけにしよう。エレノアへ見せるものが見つかったら、本人の気持ちを聞いてからにするよ」
アルフォンスがそう告げると、エレーヌは必要な準備を進めるため、執務室をあとにした。
◇ ◇ ◇
午前の半ば、マルグリットの私室では、エレノアが青い花の刺繍を進めていた。
窓辺の卓には、淡い青色の糸と図案帳が並べられ、隣には祖母が使っている刺繍枠が置かれている。外では雲の切れ間から日が差し込み、時折、庭園の木々が風に揺れる音が聞こえていた。
エレノアは針を布へ通し、糸の張り具合を確かめた。
最初の頃は、少し力を入れすぎるだけで布が引きつれてしまった。
けれど、祖母に教わりながら何度も練習するうちに、糸を引く力を少しずつ調整できるようになってきた。
「今日は、昨日よりも花弁の形が揃ってきましたね」
マルグリットが穏やかに声をかけると、エレノアは嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか。自分でも、最初の一枚より少し縫いやすくなった気がしていたんです」
「ええ。針を進める速さも落ち着いていますし、糸を引く時に布の様子をよく見ていますね。急いで完成させようとしないことが、かえって綺麗な仕上がりにつながるのですよ」
エレノアは頷き、もう一度布へ視線を戻した。
淡い青色の花弁は、少しずつ形になっている。
母が幼い頃に「青い花を作りたい」と書いていたことを思い出すと、今でも不思議な気持ちになる。
けれど、その言葉が何を意味していたのかは、まだ分からない。
母がどのような花を思い描いていたのか。
実際に刺繍を完成させたことがあったのか。
そして、以前木枠に収められていた青い花の刺繍と、その幼い頃の言葉に関係があったのか。
どれも、今は確かめられていないことだった。
「お祖母様、お母様は、刺繍をしている時にどんなお話をなさっていたんですか?」
エレノアが尋ねると、マルグリットは少し考えた。
「そうですね。幼い頃のアデラインは、思いついたことをよく話していましたよ。花を縫っている時には、庭園で見た花のことを話すこともありましたし、色を選ぶだけで随分悩んでいたこともありました」
「お母様も、色を選ぶのに迷われたんですね」
エレノアが少し意外そうに言うと、マルグリットは微笑んだ。
「ええ。何でもすぐに決められる子ではありませんでした。青い糸を使いたいと言いながら、白い糸も綺麗だからと迷って、結局どちらも少しずつ使ってみることもありましたよ」
エレノアは思わず笑みをこぼした。
母はいつも落ち着いていて、何をするにも迷わない人だったように思っていた。
けれど、祖母の話に出てくる幼い母は、自分と同じように悩んだり、試したり、時には思いどおりにできずに困ったりしている。
その姿が、少し身近に感じられた。
「私、お母様は何でも上手にできる方だったと思っていました」
「大人になったアデラインは、確かに器用でしたね。でも、最初からそうだったわけではありません。失敗して縫い直したこともありましたし、途中で別のものを作りたくなって、私に相談したこともありましたよ」
マルグリットは懐かしそうに目を細めた。
「それでも、最後には自分が作りたいと思ったものを大切にしていました。私は、そういうところが好きだったのです」
エレノアは針を持つ手を止めた。
母にも、迷いながら何かを選んでいた時間があった。
自分が今しているように、少しずつ練習しながら、好きなものを形にしていたのだ。
(お母様も、最初から何でもできたわけではなかったのね。私が失敗しても、きっと笑って教えてくださったのかもしれないわ)
エレノアは布へ視線を落とし、少し曲がってしまった花弁の端を見つめた。
以前なら、そこだけを見て失敗したと思っていたかもしれない。
けれど今は、どこを直せばよいのか考えることができる。
「お祖母様、この部分だけ、少し縫い直してもいいでしょうか。糸が引っ張られているような気がするんです」
「もちろんですよ。どこが気になるのか、ご自分で分かったのですね」
マルグリットはエレノアの手元を確かめ、糸を傷めずに戻す方法を教えた。
エレノアは慎重に針を動かし、花弁の端を整えた。
すぐに完成するわけではない。
けれど、少しずつ自分の手で形を変えていけることが、嬉しかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、執務室に隣接する記録室では、エレーヌが古い絵箱の確認を進めていた。
作業には、保管物の扱いに慣れた使用人が一人付き添っている。二人は卓の上へ柔らかな布を敷き、箱の外側に付けられた札を一つずつ確かめていた。
最初の箱には、領地の風景を描いた古い習作が収められていた。
次の箱には、家族が旅行先で購入したらしい小さな絵や、飾りとして使われていた図案が入っている。
どちらも、今回探しているものとは直接関係がなさそうだった。
エレーヌは内容を記録し、元の位置へ戻した。
その後、棚の奥に置かれていた、細長い木箱へ目を向けた。
箱の表面には古い紙札が貼られていたが、文字の一部が薄くなっている。
エレーヌは箱を無理に動かさず、まず外側の状態を確認した。
「こちらは、長い間開けられていないようですね」
付き添いの使用人がそう言うと、エレーヌは頷いた。
「ええ。ただ、留め具は傷んでいないようです。中身を確かめる前に、表面の埃を落としておきましょう」
二人は慎重に箱を卓へ移し、柔らかな布で表面を拭いた。
紙札の文字は、角度を変えると少し読みやすくなった。
そこには、家族の絵を収めたことを示す言葉が記されていた。
ただし、年代までは明確ではない。
エレーヌは記録用紙へその状態を書き留め、箱の留め具を外した。
蓋を開けると、中には薄い紙で包まれた数枚の絵が収められていた。
紙の端は少し黄ばんでいるものの、大きな破れは見当たらない。
エレーヌは一枚ずつ慎重に取り出し、まず裏側に名前や日付が記されていないかを確かめた。
最初の絵には、庭園の一角が描かれていた。
次の絵には、建物の窓辺に置かれた花瓶が描かれている。
どちらも作者は分からなかった。
さらに数枚を確認したところで、エレーヌの手が止まった。
そこには、庭園の小道に立つ幼い少女の姿が描かれていた。
少女は片手に小さな花を持ち、少し離れた場所に立つ女性を見上げている。
女性の顔は横向きで、細かな表情までは描かれていない。
けれど、二人の間には、穏やかな親しさが感じられた。
エレーヌは絵の裏側を確かめた。
そこには、短い文字が記されていた。
『庭園にて アデラインとエレノア』
エレーヌはしばらく、その文字を見つめた。
日付は記されていない。
描いた人物の名前も、確認できなかった。
けれど、絵の裏側に書かれた二人の名前は、今回探しているものと一致していた。
「……閣下へお知らせした方がよさそうですね」
エレーヌが静かに言うと、付き添いの使用人も頷いた。
「はい。ただ、紙が古いようですので、このまま持ち運ぶより、台に載せた方がよろしいかと存じます」
「そうですね。まずは状態を記録してから、お見せしましょう」
エレーヌは絵を丁寧に台へ載せ、裏側の文字を写し取った。
その時、彼女は少女の服装にも目を向けた。
絵の中の少女は、淡い色の外出着を着ている。
ただし、絵の具が薄くなっているため、元の色が青だったのか、灰色に近かったのかは、はっきりしない。
袖の形や襟元の飾りは描かれているものの、細かな仕立てまでは分からなかった。
エレーヌは、その点も記録へ加えた。
もしこの絵がエレノアの幼少期のものなら、彼女にとって大切な思い出になるかもしれない。
けれど、衣類の調査資料として使えるかどうかは、まだ別の問題だった。
エレーヌはその違いを意識しながら、アルフォンスへ報告するため執務室へ向かった。
◇ ◇ ◇
アルフォンスは、エレーヌから報告を受けると、すぐに記録室へ向かった。
卓の上には、古い絵が慎重に置かれている。
アルフォンスはその前に立ち、描かれた二人の姿を見つめた。
幼い少女と、その傍らに立つ女性。
裏側には、アデラインとエレノアの名前が記されている。
アルフォンスは、しばらく何も言わなかった。
絵の中の女性は横向きで、顔立ちの細部までは分からない。
それでも、妹の名前を見た瞬間、胸の奥に懐かしさが広がった。
「……こんな絵が残っていたんだね」
アルフォンスが静かに呟くと、エレーヌは頷いた。
「はい。ただし、日付と作者は確認できておりません。客人帳に記された訪問の日と同じ場面かどうかも、現時点では分かりません」
「そうだね。そこは分けて考えよう」
アルフォンスは絵へ視線を戻した。
少女の姿は小さく、顔も簡潔に描かれている。
けれど、花を持った手を少し高く掲げ、女性へ何かを見せようとしている様子が伝わってくる。
その姿に、アルフォンスは幼いエレノアの面影を感じた。
(……あの子は、こんなふうに笑っていたんだろうか)
彼の記憶の中にも、幼いエレノアの笑顔は残っている。
けれど、年月が過ぎるにつれて、細かな表情は少しずつ曖昧になっていた。
今、絵の中に描かれている少女は、何の不安もなく花を見せているように見える。
その姿を眺めていると、ベルナール伯爵家で過ごした年月のことが思い出された。
エレノアが自分の意思を伝えることを怖がり、何かを尋ねる前に相手の顔色を確かめるようになっていたこと。
そして、この屋敷へ来てから、少しずつ笑顔を取り戻していること。
アルフォンスは静かに息を吐いた。
過去を変えることはできない。
けれど、今のエレノアが、自分の好きなものを選び、知りたいことを尋ね、安心して笑える時間を増やしていくことはできる。
「エレノアへ見せたいと思うけれど、まずは本人に聞いてみよう。母上も一緒にいた方が、落ち着いて見られるかもしれないね」
アルフォンスがそう言うと、エレーヌは頷いた。
「かしこまりました。絵はこのまま安全な場所へ置き、閲覧の準備を整えておきます」
「ありがとう。それから、絵の裏側にある文字についても、誰が書いたものかは分からないと伝えてほしい。名前が記されていることと、絵の場面がいつのものかは、別のことだからね」
「承知いたしました」
アルフォンスはもう一度、絵の中の少女を見つめた。
花を掲げる小さな手。
その傍らに立つ女性。
二人の間に流れていた時間を、今のエレノアにも見せてあげたい。
そう思いながら、彼は記録室をあとにした。
◇ ◇ ◇
昼食の席で、アルフォンスはエレノアへ、古い絵が見つかったことを伝えた。
食堂にはオーギュストとマルグリット、セドリックも揃っている。窓の外では雲が少しずつ流れ、庭園の花壇に明るい光が差し込んでいた。
エレノアはアルフォンスの話を聞き、驚いたように顔を上げた。
「お母様と私の絵が、見つかったんですか?」
「ああ。古い絵箱の中に、庭園で花を持つ小さな女の子と、その傍らに立つ女性を描いた絵があったんだ。裏側には、アデラインとエレノアの名前が記されている」
アルフォンスは、ゆっくりと説明した。
「ただ、日付は書かれていないし、誰が描いたものかも分からない。昨日見た客人帳と同じ日の絵だと決めることはできないんだ」
エレノアは頷いたものの、すぐには言葉が出なかった。
母と自分の絵。
その言葉だけで、胸の奥が大きく揺れた。
見たい。
けれど、見るのが少し怖い。
母の姿が描かれているのなら、懐かしさだけではなく、悲しみも感じるかもしれない。
エレノアは膝の上で手を重ね、指先をそっと握った。
マルグリットはその様子に気づき、穏やかに声をかけた。
「エレノア、今すぐ見なければならないわけではありませんよ。気持ちが落ち着いてからでも構いませんし、今日はお話を聞くだけにしてもいいのです」
エレノアは祖母へ顔を向けた。
その声には、急かす響きがなかった。
アルフォンスも頷いた。
「そうだね。見つかったことを知らせたかっただけだから、どうするかは君が決めていい」
エレノアは少し考えた。
昨日、客人帳を見た時にも、胸がいっぱいになった。
けれど、あの時は叔父とセドリックが隣にいてくれた。
何も言えなくなっても、待っていてくれた。
だから、最後には落ち着いて記録を見ることができた。
(……怖い気持ちもあるけれど、見てみたい。お母様と私が一緒にいる絵なら、きっと大切にしたいと思うもの)
エレノアはゆっくりと息を整え、顔を上げた。
「……見せていただきたいです。できれば、お祖母様や皆様と一緒に」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「もちろんだよ。食事のあと、準備が整ってからにしよう」
セドリックも隣から声をかけた。
「僕も一緒にいていいかな。昔のエレノアが描かれているなら、ぜひ見てみたいんだ」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「はい。お兄様にも、一緒に見ていただけたら嬉しいです」
そのやり取りを聞いていたオーギュストは、静かに頷いた。
「では、皆で見よう。絵がどのようなものでも、急いで結論を出す必要はない。まずは、そこに残された時間を大切にすればよいのだからな」
エレノアは祖父の言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
誰かが答えを急がせることはない。
自分が見たいと思った時に、見ればいい。
その当たり前のことが、今は何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
午後、家族は小さな応接室へ集まった。
窓辺の卓には、エレーヌが用意した閲覧用の台が置かれている。古い絵はその上に載せられ、紙の端が傷まないよう、周囲には柔らかな布が添えられていた。
エレノアはマルグリットの隣に座り、少し離れた場所にアルフォンスとオーギュストが腰を下ろした。
セドリックは卓の反対側に立ち、絵が見やすいように位置を調整している。
リディアは必要な時に手伝えるよう、少し後ろで控えていた。
アルフォンスは、エレノアへ目を向けた。
「準備はできているよ。見ても大丈夫かな」
エレノアは一度だけ深く息を吸い、静かに頷いた。
「はい。お願いします」
アルフォンスが覆いの布を外すと、古い絵が姿を現した。
そこには、庭園の小道が描かれていた。
花壇のそばに立つ幼い少女は、片手に小さな花を持ち、それを少し離れた女性へ見せている。
少女の顔は細かなところまで描かれていないものの、頬が柔らかく持ち上がり、嬉しそうに笑っているように見えた。
女性は横向きで、少女へ顔を向けている。
その姿には、穏やかな親しさが感じられた。
エレノアは絵を見つめたまま、しばらく動けなかった。
母の姿だ。
少なくとも、絵の裏側にはそう記されている。
自分が覚えている母の顔と、絵の中の女性の姿が、少しずつ重なっていく。
胸の奥が熱くなり、視界がわずかに滲んだ。
(……お母様。私、こんなふうに笑っていたんですね)
エレノアは唇をそっと結んだ。
幼い自分は、花を見つけたことが嬉しかったのだろうか。
それとも、母へ見せたら喜んでもらえると思ったのだろうか。
絵だけでは分からない。
けれど、そこに描かれた少女は、誰かの反応を怖がっているようには見えなかった。
自分が見つけたものを、まっすぐに差し出している。
その姿が、エレノアには眩しく感じられた。
マルグリットは、孫娘の様子を見ながら静かに声をかけた。
「エレノア、少し休みますか?」
エレノアはゆっくりと首を横に振った。
「……大丈夫です。もう少し、見ていたいです」
声は少し震えていた。
けれど、エレノアは絵から目を逸らさなかった。
マルグリットは頷き、隣で静かに見守った。
しばらくして、エレノアは小さく口を開いた。
「私……こんな顔で笑っていたんですね」
アルフォンスは穏やかに答えた。
「ああ。幼い頃の君は、嬉しいことがあると、すぐに顔に出る子だったよ。花を見つけたり、セドリックが持ってきた木の実を見せてもらったりすると、とても楽しそうにしていた」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。
「今の私とは、少し違うみたいです」
その声には、わずかな寂しさが混じっていた。
セドリックは絵へ目を向けてから、エレノアへ視線を戻した。
「そうかな。僕は、今の君もこんなふうに笑うことがあると思うよ」
エレノアは驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか?」
「ああ。お祖母様と刺繍をしている時や、好きな本の話をしている時、それから自分で選んだ服を気に入った時にも、よく似た表情をしていると思う」
セドリックは少し照れたように笑った。
「もちろん、僕の記憶も完璧ではないけれどね。それでも、君が楽しそうにしている時の顔は、昔とまったく違うわけじゃないと思うんだ」
エレノアは言葉を失った。
自分では、そんなふうに笑えていると思っていなかった。
伯爵邸で過ごしていた頃、笑顔は相手を安心させるために作るものだった。
悲しくても、困っていても、求められれば微笑まなければならなかった。
けれど、今は違う。
祖母と刺繍をしている時。
リディアと服を選んでいる時。
セドリックが昔の話をしてくれる時。
その時間が楽しいと思えるようになっている。
(……私、ちゃんと笑えているのね。誰かにそうしなさいと言われたからではなく、自分が嬉しいと思った時に)
エレノアは目元を押さえ、少しだけ俯いた。
涙がこぼれそうになったが、無理に隠そうとは思わなかった。
マルグリットがそっと差し出してくれた布を受け取り、目元を押さえる。
「……ありがとうございます、お兄様。そんなふうに言っていただけて、嬉しいです」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「本当のことを言っただけだよ」
オーギュストは、そのやり取りを静かに見守っていた。
幼い孫娘が、母とともにこの屋敷を訪れていた頃。
そして今、再び家族の中で暮らしている時間。
二つの時が、古い絵を通じてつながっているように感じられた。
けれど、彼はそれを大げさな言葉にはしなかった。
今のエレノアには、過去を取り戻すことよりも、これからの時間を安心して過ごせることが大切なのだと考えていたからだ。
◇ ◇ ◇
しばらく絵を眺めたあと、エレノアは少女の服装へ視線を向けた。
絵の中の自分は、淡い色の外出着を着ている。
袖は少しふくらみ、襟元には細い飾りが描かれていた。
ただし、絵の具が薄くなっているため、元の色がはっきりしない。
青にも見えるが、灰色がかった白にも見える。
エレノアはしばらく考えてから、アルフォンスへ尋ねた。
「叔父様、この服は……モロー工房の注文控えにあったものと、関係があるのでしょうか」
アルフォンスは絵を見つめ、慎重に答えた。
「可能性はあるけれど、今の段階では分からないね。絵の色が薄くなっているし、仕立ての細かな部分までは描かれていない。それに、この絵がいつ描かれたものかも確認できていないんだ」
エレノアは頷いた。
「そうですよね。似ているように見えても、同じ服とは限りませんものね」
「その通りだよ。もし比較するなら、工房の注文控えにある寸法や飾りの記録と、絵に描かれた形を丁寧に照らし合わせる必要がある。ただ、それでも絵だけで確定するのは難しいかもしれない」
アルフォンスは穏やかに説明した。
エレノアは少し考え、絵へ視線を戻した。
自分が知りたかったことは、衣類の所在だけではない。
母と一緒に過ごした時間を、もう少し知りたかった。
その願いは、今日少しだけ叶ったように思う。
「……では、この絵は、まず大切な思い出として見ていたいです」
エレノアがそう言うと、アルフォンスは頷いた。
「それがいいと思うよ。調査のために無理に意味を探さなくても、この絵には十分な価値があるからね」
マルグリットも微笑んだ。
「ええ。アデラインとあなたが一緒にいた時間を描いたものですもの。何かを証明するためだけに残された絵ではないのでしょう」
エレノアは静かに頷いた。
絵の中の母は、幼い自分へ顔を向けている。
その表情は細かく描かれていない。
けれど、エレノアには、母が優しく微笑んでいるように感じられた。
それが絵の正確な描写なのか、自分の記憶が重なっているのかは分からない。
それでも、今はその気持ちを大切にしたかった。
◇ ◇ ◇
絵を見終えたあと、エレノアはマルグリットとともに応接室へ残った。
アルフォンスは絵の保管方法についてエレーヌと相談するため、少し席を外している。セドリックも別の用事があるため退出し、オーギュストは二人が落ち着いて話せるよう、静かに部屋をあとにした。
窓辺には柔らかな午後の光が差し込んでいた。
エレノアは卓の上に置かれた絵をもう一度眺め、祖母へ顔を向けた。
「お祖母様、私……少し不思議な気持ちなんです」
「どんな気持ちですか?」
マルグリットが穏やかに尋ねると、エレノアは言葉を探した。
「絵を見た時、嬉しかったんです。でも、それだけではなくて……あの頃の自分が、とても遠いところにいるようにも感じました」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
「お母様と一緒に笑っていた私と、今の私は、同じ人間のはずなのに……何だか、別の子を見ているような気持ちになったんです」
マルグリットは、すぐには答えなかった。
孫娘が自分の気持ちを言葉にしようとしていることを感じ、静かに待っていた。
エレノアは少し俯き、続けた。
「私、いつからあんなふうに笑わなくなったのか、よく分からないんです。お母様が亡くなってから、いろいろなことが変わって……気づいた時には、何を言えば叱られないかばかり考えるようになっていました」
声が少し震えた。
マルグリットは、そっとエレノアの手へ自分の手を重ねた。
「……つらい時間があったのですね」
エレノアは小さく頷いた。
ベルナール伯爵邸で過ごした日々を、すべて思い出したいわけではない。
けれど、その時間が自分を変えてしまったことは、否定できなかった。
「でも、今日、お兄様が言ってくださったんです。今の私も、あの絵の子と同じように笑うことがあるって」
エレノアは顔を上げた。
「私、それがとても嬉しかったんです。もう戻れないと思っていたものが、少しだけ残っているような気がして……」
マルグリットは、孫娘の手を優しく包んだ。
「エレノア、昔とまったく同じである必要はありませんよ」
エレノアは静かに祖母を見つめた。
「人は、いろいろな経験をしながら変わっていくものです。嬉しいことも、悲しいこともありますし、以前とは違う考え方をするようになることもあります」
マルグリットは穏やかに続けた。
「けれど、変わったからといって、昔のあなたが消えてしまうわけではありません。今のあなたが好きなものを見つけ、嬉しいと思った時に笑えるのなら、それは今のあなた自身の大切な姿なのですよ」
エレノアは、しばらく何も言えなかった。
昔の自分へ戻らなければならないと思っていたわけではない。
けれど、あの絵を見た時、失ってしまったものの大きさを感じた。
母のそばで笑っていた少女。
何も恐れずに花を差し出していた少女。
その子と今の自分を比べてしまったのだ。
「……昔の私と違っていても、いいんでしょうか」
エレノアが小さく尋ねると、マルグリットは迷わず頷いた。
「もちろんです。私たちは、昔のあなたに戻ってほしいから、ここへ迎えたのではありません。今のあなたが、安心して暮らせるようになってほしいのです」
エレノアの目元が熱くなった。
その言葉は、胸の奥に残っていた小さな不安へ、静かに届いた。
(……私は、今の私のままで、ここにいていいのね)
エレノアはそっと息を吐き、祖母の手を握り返した。
「……ありがとうございます、お祖母様。私、少し安心しました」
マルグリットは優しく微笑んだ。
「それなら、よかったです。今日は大切な絵を見ましたから、気持ちが落ち着くまで、ゆっくり過ごしましょうね」
エレノアは頷いた。
窓の外では、雲の切れ間から差し込んだ光が、庭園の花壇を明るく照らしていた。
その景色を眺めているうちに、胸の奥の緊張が少しずつほどけていった。
◇ ◇ ◇
夕方、アルフォンスはエレーヌから、古い絵の保管について報告を受けていた。
絵は紙の状態を確認したうえで、元の箱とは別に、傷みを防ぐための保護紙を添えて保管することになった。エレノアが再び見たいと望んだ時には、いつでも準備できるようにしておく。
ただし、絵をエレノアの私室へ移すかどうかは、まだ決めていない。
古い紙を長く飾ることによる傷みも考えられるため、本人の希望と保存方法の両方を確かめてから判断する予定だった。
「エレノア様は、絵をご覧になっていかがでしたか」
エレーヌが慎重に尋ねると、アルフォンスは少し考えた。
「嬉しそうだったよ。ただ、昔のことを思い出して、少しつらくなったようにも見えた。母上が一緒にいてくれたから、落ち着いて話せたようだけれどね」
エレーヌは静かに頷いた。
「大切な記録であるほど、受け止めるまでに時間が必要なこともございますね」
「そうだね。だから、こちらから急いで次のものを見せる必要はないと思っている」
アルフォンスは机の上に置かれた記録一覧へ目を向けた。
古い絵箱には、まだ確認していないものが残っている。
けれど、今日見つかった絵だけでも、エレノアにとっては大きな出来事だった。
続けて別のものを見せれば、気持ちを整理する時間がなくなってしまうかもしれない。
「明日以降も保管物の確認は進めていい。ただし、エレノアへ見せるかどうかは、その都度相談しよう」
「承知いたしました」
エレーヌは一礼した。
アルフォンスは、別の書類箱へ視線を移した。
そこには、ベルナール伯爵家の衣類管理帳簿についての問い合わせの控えが収められている。
記録者と確認者の欄が統合された理由。
その変更を誰が認めたのか。
古い衣類の受け渡しが、どのように管理されていたのか。
まだ、正式な回答は届いていない。
モロー工房の注文控えにある二着の衣類についても、もう一着の受け渡しは確認できていなかった。
アルフォンスは、絵の発見と調査の進展を混同しないよう、書類を別々に整理した。
今日見つかった絵は、エレノアにとって大切な思い出になるかもしれない。
けれど、衣類の所在を示す証拠として扱うには、まだ情報が足りない。
その違いを守ることも、エレノアのために必要なことだった。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕方、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが古い使用人名簿を確認していた。
机の上には、衣類管理帳簿の形式が変わった前後の名簿が並べられている。
ベアトリス・ロランは、当時の記録担当者について調べた結果を報告していた。
「旦那様、形式が変更された頃に衣類の記録を扱っていた者について、いくつか名前を確認できました。ただし、当時の担当範囲が明確ではない者もおります」
ロベルトは報告書へ目を通した。
「つまり、誰が帳簿を記入していたのかは分かっても、変更を認めた者までは分からないということか」
「はい。現時点では、そのように考えるのが適切かと存じます」
ベアトリスは慎重に答えた。
ロベルトは眉を寄せた。
以前なら、こうした記録の不備を細かな問題として片づけていたかもしれない。
しかし、今はそうすることができなかった。
エレノアの衣類が本人の許可なく別の用途へ回されていたこと。
その管理記録に、不明瞭な部分が残っていること。
そして、ロシュフォール家から正式な問い合わせが届いていること。
どれも、曖昧なまま放置してよい問題ではなかった。
「当時の担当者が分かるなら、まずはその範囲を整理しろ。変更の理由が確認できないことも含めて、事実をそのまま記録しておく必要がある」
ロベルトがそう告げると、ベアトリスは一礼した。
「承知いたしました」
ロベルトは報告書を机へ置き、しばらく考え込んだ。
エレノアがこの屋敷を離れてから、彼女の持ち物について調べる機会が増えた。
そのたびに、自分が娘の生活をほとんど知らなかったことを思い知らされる。
衣装の数。
保管場所。
誰が管理していたのか。
どのような判断で別の用途へ回されたのか。
父親でありながら、確かな答えを持っていなかった。
(……今になって調べても、あの子が受けたことをなかったことにはできない。それでも、何が起きていたのかを確かめる責任まで、放棄するわけにはいかない)
ロベルトは静かに息を吐いた。
ロシュフォール家へ送る回答には、確認できた事実と、まだ調査中の事項を分けて記すことにした。
すべてが分かるまで黙っているのではなく、現時点での状況を正確に伝える。
それが、今できる最低限の対応だと考えた。
ただし、その文書はまだ完成していない。
ロベルトは改めて報告書を読み直し、不確かな部分へ印を付けた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の机に向かっていた。
卓の上には、いつもの日記帳が開かれている。
窓辺には淡い桃色の野ばらの刺繍が飾られ、その隣には、少しずつ花弁の増えてきた青い花の刺繍枠が置かれていた。
エレノアは筆を持ち、今日見た絵について書き始めた。
古い絵箱の中から、母アデラインと幼い自分が描かれた絵が見つかったこと。
絵の裏側には二人の名前が記されていたが、日付や作者は分からなかったこと。
幼い自分は花を持ち、母へ見せるように笑っていたこと。
そして、セドリックが、今の自分も同じように笑うことがあると言ってくれたこと。
そこまで書くと、エレノアは筆を止めた。
今日、祖母と話したことも書いておきたかった。
昔の自分と今の自分が違っていても、構わないということ。
今の自分が、安心して暮らせることを家族が望んでくれているということ。
その言葉を思い出すと、胸の奥が温かくなった。
(……私は、昔の私に戻らなくてもいいのね。これから好きなものを見つけて、嬉しいと思った時に笑って、自分で選んでいけばいいんだわ)
エレノアは静かに微笑み、日記へ続きを書き加えた。
母と過ごした時間は、もう戻ってこない。
けれど、その時間があったことは、消えてしまわない。
今日見つかった絵も、昨日の客人帳も、祖母や叔父たちの記憶も、そのことを教えてくれた。
エレノアは日記を閉じ、窓辺の刺繍枠へ目を向けた。
青い花は、まだ完成していない。
けれど、花弁を一枚ずつ縫い重ねるたびに、自分の手で少しずつ形を作っていることが分かる。
それは、今の自分の生活にも似ているように感じられた。
誰かに決められた未来ではなく、自分が選んでいく時間。
まだ分からないことは多い。
養女縁組の手続きも、母の遺品についての調査も、これから進んでいく。
それでも、すべてを急いで決める必要はない。
エレノアは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
夜の庭園には、雲の切れ間から月明かりが差し込んでいる。
昼間に見た絵の中にも、庭園の小道が描かれていた。
幼い自分は、そこで花を持って笑っていた。
今の自分も、同じ屋敷の窓から庭園を眺めている。
エレノアはその景色を見つめながら、明日は少しだけ庭園を歩いてみようと思った。
絵に描かれていた場所が、今も残っているかどうかは分からない。
けれど、もし似た景色を見つけられたなら、母と過ごした時間を、もう少し身近に感じられるかもしれない。
そう考えると、明日が少し楽しみになった。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、夜風が木々の葉を静かに揺らしている。
その穏やかな音を聞きながら、彼女は今日見た小さな少女の笑顔を思い浮かべた。
そして、今の自分も、あの頃とは違う形で笑っていけるのだと信じながら、ゆっくりと目を閉じた。




