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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第63話 古い客人帳に残された、母と私の訪問記録


 翌朝、エレノアが目を覚ました時、ロシュフォール公爵邸の庭園には薄い霧が残っていた。


 夜明け前に冷え込んだらしく、窓の外に広がる芝生は白く霞み、花壇の向こうにある低い石壁も輪郭がぼんやりとしている。けれど、東の空から差し込み始めた陽光は穏やかで、霧の向こうに見える木々の葉を淡く照らしていた。


 エレノアは寝台の上でゆっくりと身を起こし、枕元に置いた時計を確かめた。


 いつもと変わらない朝の時間だったが、今日は目覚めた時から、少し気になっていることがあった。


 昨日、叔父アルフォンスへ相談した、幼い頃の訪問記録についてだ。


 ロシュフォール公爵邸には、母アデラインが自分を連れて訪れた頃の記録が残っているかもしれない。祖母マルグリットは、当時の服装をすべて覚えているわけではなかったものの、庭園で遊んだことや、家族で過ごした時間については、いくつか記憶していると話してくれた。


 もし、その頃の絵や記録が見つかれば、モロー工房の注文控えに記された淡い青色の外出着について、何か分かる可能性がある。


 ただし、それが本当に同じ衣類だったのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。


(昔の私が、どんな服を着ていたのか……。お母様と一緒にここへ来た時、私は何をしていたのかしら。覚えていることもあるはずなのに、思い出そうとすると、いろいろな景色が混ざってしまうのよね)


 エレノアは寝台から降り、窓辺へ歩み寄った。


 幼い頃の記憶は、どれも鮮明というわけではない。


 母の手の温かさや、柔らかな声、髪を梳いてもらった時の感触は、今でも不意に思い出すことがある。けれど、どこで何を話したのか、どの服を着ていたのかという細かなことになると、記憶は曖昧になってしまう。


 それでも、母と過ごした時間をもう一度確かめたいという気持ちは、以前よりも強くなっていた。


 母を思い出すことは、かつてのエレノアにとって、悲しみと結びついていた。


 けれど今は、祖母から母の幼少期の話を聞き、従兄セドリックが大切にしていた布袋を見せてもらい、自分でも青い花の刺繍を始めている。


 母がいなくなったという事実だけではなく、母が確かに生きていた時間を知ることができるようになった。


 その変化が、エレノアには嬉しかった。


 扉の向こうから、リディアの声が聞こえた。


「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」


「おはよう、リディア。入ってちょうだい」


 リディアは朝の支度を整えた盆を持って入室すると、窓辺に立つエレノアを見て微笑んだ。


「今朝は霧が出ておりますね。庭園のお散歩には、少し遅い時間の方がよろしいかもしれません」


「そうね。でも、霧のかかった庭園も綺麗だわ。いつもとは違う場所みたいに見えるの」


 エレノアが窓の外へ視線を向けると、リディアも隣から庭園を眺めた。


「確かに、柔らかな光が差し込んでいて、とても綺麗でございます。もう少し日が高くなれば、霧も晴れるでしょう」


 リディアはそう言ってから、衣装箱の前へ移動した。


 今日用意されたのは、淡い藤色のドレスだった。襟元には白い小花の刺繍が施され、袖口には控えめな飾りが付いている。


 エレノアはその色を見て、少し考えた。


「今日は、そのドレスにするわ。昨日まで青い色が多かったから、少し違う色も着てみたいの」


「かしこまりました。藤色はエレノア様のお肌にもよくお似合いになります」


 リディアは穏やかに答え、支度を進めた。


 髪を整えてもらいながら、エレノアは鏡の中の自分を見つめた。


 以前は、衣装を選ぶ時に、誰かからどう見られるかばかり気にしていた。


 今は、自分がその色を好きかどうかを考えられる。


 小さなことではあるけれど、その積み重ねが、自分の生活を少しずつ変えているように感じられた。


「リディア、今日は叔父様からお話があるかもしれないの。昨日、昔の訪問記録を探していただけることになったから」


 エレノアがそう言うと、リディアは髪に結ぶリボンを選びながら頷いた。


「承っております。アルフォンス様から、古い記録を確認する可能性があると伺いました」


「見つかるかどうかは分からないけれど……少し楽しみなの」


 リディアは鏡越しにエレノアの表情を確かめた。


 その声には、以前のような強い緊張はなかった。


 もちろん、母に関わるものを見ることが、必ずしも楽しいだけではないことも分かっている。


 それでも、エレノア自身が見たいと望んでいる。


 リディアは、その気持ちを大切にしたかった。


「何か見つかるとよろしいですね。もし途中でお疲れになりましたら、いつでもお休みくださいませ」


 エレノアは微笑み、頷いた。


「ええ。ありがとう、リディア」


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、オーギュストが庭園の霧について話していた。


 今朝は気温が低かったものの、日中には暖かくなる見込みだという。庭師たちは、霧が晴れてから花壇の手入れを進める予定で、雨で傷んだ枝の確認も続けているらしい。


 エレノアが席につくと、マルグリットが穏やかに声をかけた。


「おはよう、エレノア。今日は藤色のドレスなのですね。とてもよく似合っていますよ」


「ありがとうございます、お祖母様。今朝は少し違う色を着てみたくなったんです」


「それは素敵ですね。いろいろな色を楽しんでみるのもよいことです」


 マルグリットは微笑み、エレノアの前に置かれた紅茶の香りを確かめた。


 セドリックはその様子を見ながら、少し楽しそうに口を開いた。


「最近のエレノアは、自分で選ぶことが増えたね。昨日も、昔の記録を探してみたいと父上に相談したんだろう?」


 エレノアは頷いた。


「はい。お祖母様に昔の服についてお尋ねしたら、こちらへ遊びに来た時の記録が残っているかもしれないと教えていただいたんです」


 セドリックは少し考え込んだ。


「僕も、君が小さい頃に来た時のことは覚えているよ。ただ、服の色までは、はっきりしないな」


「お兄様も覚えていらっしゃるんですか?」


 エレノアが顔を上げると、セドリックは頷いた。


「もちろん。君は庭園の花を見るのが好きだったし、僕が集めていた木の実を見せたこともあったと思う。ただ、どの日のことだったのかまでは、少し曖昧だけれどね」


 エレノアは、その話を聞いて微笑んだ。


 セドリックが見せてくれた、アデライン叔母上の手製の布袋。


 その中には、幼い頃に集めた木の実や小石を入れていたという。


 もしかすると、自分もその袋を見せてもらったことがあったのかもしれない。


「……私も、何となく覚えている気がします。お兄様が小さな木の実をたくさん集めていらして、私にも見せてくださったような……」


 セドリックは嬉しそうに笑った。


「それなら、同じ日のことかもしれないね。僕は当時、珍しい形の木の実を見つけると、誰かに見せたくて仕方がなかったから」


 その言葉に、マルグリットも微笑んだ。


「ええ、よく覚えていますよ。セドリックは庭園から戻るたびに、ポケットを木の実でいっぱいにしていましたね。アデラインが布袋を作ったのも、服のポケットが傷んでしまうのを心配したからでした」


 セドリックは少し照れたように笑った。


「今になって思えば、随分と手間をかけさせてしまいましたね」


「そんなことはありませんよ。アデラインは、あなたが嬉しそうに使ってくれることを、とても喜んでいました」


 マルグリットは穏やかに答えた。


 エレノアはそのやり取りを聞きながら、母の姿を思い浮かべた。


 幼いセドリックのために布袋を縫う母。


 それを受け取って喜ぶセドリック。


 その光景を、祖母が今も覚えている。


 母がこの家で過ごした時間が、家族の記憶の中に残っていることが嬉しかった。


 食事が一段落した頃、アルフォンスがエレノアへ声をかけた。


「昨日の相談についてだけれど、今日は古い客人帳を確認してみようと思っているんだ」


 エレノアは顔を上げた。


「客人帳、ですか?」


「ああ。この屋敷では、以前から来客の記録を残している。家族が訪れた時のことも、時期によっては記されているんだ。母上が君を連れて来た頃の記録が残っていれば、訪問した日を確かめられるかもしれない」


 エレノアは少し考えた。


「でも、それだけでは服のことまでは分からないですよね」


「そうだね。客人帳には、普通は服装まで書かれていない。ただ、訪問した時期が分かれば、その頃の家族の記録や絵を探す手がかりになる可能性がある」


 アルフォンスは丁寧に説明した。


 エレノアは頷いた。


 最初から服の答えが見つかるわけではない。


 けれど、どこを探せばよいのかを考えるための手がかりになる。


 そのことが、少し嬉しかった。


「私も、一緒に見てもよろしいでしょうか」


 エレノアが尋ねると、アルフォンスは穏やかに微笑んだ。


「もちろん。ただ、古い記録だから、埃が付いているものもあるかもしれない。エレーヌに整理してもらってから、見やすいものを用意しようと思っているよ」


「はい。ありがとうございます」


 エレノアは頷いた。


 セドリックも隣から声をかけた。


「僕も時間が合えば、一緒に見たいな。君が小さい頃のことなら、僕も少しは覚えているかもしれないから」


 エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


「ぜひお願いします、お兄様」


     ◇ ◇ ◇


 午前の遅い時間、アルフォンスの執務室では、エレーヌ・フォシェが古い客人帳の保管場所を確認していた。


 ロシュフォール公爵邸には、長年にわたって保管されてきた書類が多い。


 公的な文書や領地に関する記録は厳重に管理されているが、家族の訪問記録や私的な書簡は、別の保管棚へ収められていることもあった。


 エレーヌは、古い書類の一覧を確かめながら、必要な年代の客人帳を探していた。


「閣下、該当する時期の客人帳は、こちらの保管棚にあるようでございます」


 エレーヌが示したのは、執務室の隣にある記録室だった。


 アルフォンスは頷き、彼女とともに部屋へ向かった。


 記録室には、背の高い書棚が並んでいる。


 棚ごとに年代や用途が分けられ、古い帳簿には薄い布がかけられていた。


 エレーヌは一覧に記された番号を確かめ、下段の棚から厚い帳簿を取り出した。


 表紙は濃い茶色で、角の部分が少し擦れている。


 しかし、綴じ目はしっかりしており、長年保管されていたものとしては、状態がよかった。


「こちらでございます。エレノア様が幼少の頃の記録を含む年代のものです」


 アルフォンスは帳簿を受け取り、表紙を確かめた。


「ありがとう。まずは内容を確認しよう」


 二人は執務室へ戻り、机の上に帳簿を置いた。


 古い紙の匂いが、わずかに広がる。


 アルフォンスは慎重に頁を開き、日付と来訪者の名前を追っていった。


 公爵家を訪れた貴族たちの名前。


 領地の管理に関する面会。


 親族の訪問。


 その中に、アデラインの名前が記されている頁があった。


「……あったね」


 アルフォンスは小さく呟き、エレーヌへ頁を示した。


 そこには、アデライン・ベルナールの名前とともに、幼い娘エレノアを伴って訪問したことが記されていた。


 訪問の目的は、家族との私的な面会とされている。


 滞在期間は短く、特別な公務があったわけではないらしい。


 エレーヌは記録を確認し、静かに頷いた。


「確かに、アデライン様とエレノア様のお名前がございますね」


 アルフォンスは、しばらくその文字を見つめていた。


 妹アデラインが、この屋敷へ娘を連れて帰ってきた日のこと。


 記録には簡潔な言葉しか残っていない。


 けれど、アルフォンスの記憶には、妹が嬉しそうにエレノアの手を引いていた姿が残っていた。


(……あの頃のエレノアは、まだ本当に小さかった。アデラインも、娘を連れて帰ってこられることを喜んでいたな)


 アルフォンスは静かに息を吐いた。


 その後、アデラインが亡くなり、エレノアがベルナール伯爵家でどのように過ごしていたのかを知った時、彼は深い後悔を覚えた。


 もっと早く気づけなかったのか。


 もっと早く、妹の娘を迎えに行けなかったのか。


 その思いは、今も完全には消えていない。


 けれど、過去を悔やむだけでは、エレノアの未来を守ることはできない。


 今、彼女はこの屋敷で暮らしている。


 自分の意思を伝え、少しずつ安心して過ごせるようになっている。


 アルフォンスはそのことを思い出し、帳簿へ視線を戻した。


「この頁は、エレノアにも見せたいね。ただし、古い記録だから、扱いには気をつけよう」


「承知いたしました。閲覧用の台を用意いたします」


 エレーヌは頷き、帳簿を傷めないようにするための準備を始めた。


     ◇ ◇ ◇


 昼食後、エレノアは小さな応接室へ案内された。


 室内には、アルフォンスとセドリックが待っていた。


 卓の上には、厚い客人帳が置かれている。


 その隣には、古い紙を傷めないための薄い布と、頁を開いたままにするための道具が用意されていた。


 エレノアは客人帳を見た瞬間、少し緊張した。


 古い記録を見ることは、これまでも何度かあった。


 けれど、今回は母と自分が一緒に過ごした時間に関わるものだ。


 そこに何が書かれているのかと思うと、胸の奥が落ち着かなかった。


「エレノア、来てくれてありがとう」


 アルフォンスは穏やかに声をかけた。


「午前中に客人帳を確認したところ、君とアデラインが訪れた時の記録が見つかったんだ」


 エレノアは顔を上げた。


「……本当ですか?」


「ああ。日付と名前、それから簡単な訪問の目的が記されている。詳しい出来事までは書かれていないけれど、君がここへ来たことは確かめられるよ」


 エレノアはゆっくりと頷いた。


「見せていただいても、よろしいでしょうか」


「もちろんだよ」


 アルフォンスは帳簿を開き、該当する頁を示した。


 エレノアは椅子へ腰を下ろし、慎重に文字を追った。


 そこには、母アデラインの名前があった。


 そして、その隣に、自分の名前が記されていた。


 エレノア・ベルナール。


 幼い頃の自分が、母とともにこの屋敷を訪れたこと。


 その事実が、古い紙の上に確かに残されている。


 エレノアはしばらく、何も言えなかった。


 母の名前を見るだけで、胸の奥が熱くなる。


 けれど、以前のように、悲しみだけが押し寄せてくるわけではなかった。


(……お母様と一緒に、ここへ来たのね。私は覚えていないことも多いけれど、この日、お母様は私の手を引いてくださっていたのかしら)


 エレノアは文字へ視線を落としたまま、静かに息を整えた。


 セドリックは隣の椅子に座り、彼女の様子を見守っていた。


 無理に声をかけることはせず、エレノアが自分の気持ちを落ち着かせる時間を大切にしているようだった。


 しばらくして、エレノアが顔を上げた。


「叔父様……この日、私は何をしていたのでしょうか」


 アルフォンスは少し考えた。


「正確にすべてを覚えているわけではないけれど、君が庭園で遊んでいたことは覚えているよ。アデラインが、君に花を見せていたように思う」


 エレノアは目を細めた。


「お花を……」


「ああ。君は小さな花を見つけると、名前を知りたがっていた。アデラインは一つずつ教えていたけれど、君が次々に尋ねるものだから、最後には二人で笑っていたよ」


 アルフォンスは懐かしそうに微笑んだ。


 エレノアはその話を聞きながら、庭園の景色を思い浮かべた。


 白い野ばら。


 小さな青い花。


 母の手。


 それらが、ぼんやりとした記憶の中で重なっていく。


 ただ、それが本当にこの日のことなのかは分からなかった。


「……少しだけ、覚えているような気がします。でも、別の日のことかもしれません」


 エレノアがそう言うと、アルフォンスは頷いた。


「それでいいんだよ。無理に思い出そうとしなくてもいい。今日分かったのは、君が母上と一緒にここへ来た日が記録されていたということだからね」


 エレノアは静かに頷いた。


 記録があることと、自分がすべてを覚えていることは、別の話だ。


 その違いを、今は落ち着いて受け止められる気がした。


     ◇ ◇ ◇


 客人帳を確認したあと、アルフォンスはエレノアへ、もう一つ話をした。


「この日付が分かったことで、当時の家族の記録を探しやすくなったと思う。絵が残っているかどうかはまだ分からないけれど、少なくとも探す時期を絞ることはできるね」


 エレノアは頷いた。


「はい。もし絵が見つかったら、服のことも少し分かるかもしれません」


「そうだね。ただ、絵に描かれた服が正確とは限らないし、そもそも君が描かれているものが残っているかどうかも分からない。そこは、期待しすぎずに確かめていこう」


 アルフォンスは穏やかに答えた。


 エレノアは少し考え、静かに微笑んだ。


「はい。今日、客人帳が見つかっただけでも嬉しいです。お母様と一緒にここへ来たことが、ちゃんと残っていたんですもの」


 セドリックはその言葉を聞いて、少し嬉しそうに頷いた。


「僕も、君が小さい頃のことをもう少し思い出せるかもしれない。今度、祖母上にもこの日付を伝えてみようか」


 エレノアは顔を上げた。


「お祖母様にも?」


「ああ。日付が分かれば、何か思い出すきっかけになるかもしれないからね」


 アルフォンスも頷いた。


「それはいい考えだね。ただし、誰かの記憶だけで決めつけないようにしよう。思い出せることと、記録で確かめられることを分けておく方がいい」


 エレノアは静かに頷いた。


 以前なら、誰かが覚えていると言えば、それがすべて正しいのだと思っていたかもしれない。


 けれど、衣類の調査を通じて、記憶と記録の両方を丁寧に確かめることが大切なのだと知り始めていた。


 そのことが、少しずつ自分の考え方を変えているように感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 午後の遅い時間、エレノアはマルグリットの私室を訪れた。


 窓辺の卓には、いつもの刺繍道具が用意されている。


 エレノアは椅子へ腰を下ろすと、今日見つかった客人帳について話した。


「お祖母様、午前中に叔父様が古い客人帳を見つけてくださったんです。そこに、お母様と私がこちらへ来た日のことが書かれていました」


 マルグリットは少し驚いたように顔を上げた。


「まあ、それはよかったですね。どの頃の記録だったのですか?」


 エレノアは、アルフォンスから教えてもらった時期を伝えた。


 マルグリットはしばらく考え、懐かしそうに目を細めた。


「その頃でしたら、あなたはまだ本当に小さかったですね。アデラインがあなたを連れて来ると、屋敷の中がとても賑やかになったものです」


 エレノアは微笑んだ。


「叔父様も、私が庭園でお花の名前をたくさん尋ねていたと教えてくださいました」


 マルグリットは小さく笑った。


「ええ、よく覚えていますよ。あなたは一つ教えてもらうと、すぐに次の花を指さしていました。アデラインは困ったように笑いながらも、最後まで付き合っていましたね」


 エレノアはその話を聞きながら、母の姿を思い浮かべた。


 幼い自分の質問に、一つずつ答えてくれる母。


 その光景を想像すると、胸の奥が温かくなる。


「……お母様は、私がたくさん質問しても、嫌がらなかったんですね」


 エレノアが小さく呟くと、マルグリットは穏やかに首を横に振った。


「もちろんです。アデラインは、あなたが何かに興味を持つことを、とても喜んでいましたよ。分からないことを尋ねるのは、恥ずかしいことではありませんからね」


 エレノアは顔を上げた。


 その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。


 ベルナール伯爵邸では、質問することをためらう場面が多かった。


 何度も尋ねれば、理解が遅いと思われるかもしれない。


 知らないことを口にすれば、努力が足りないと言われるかもしれない。


 そんな不安が、いつも先に立っていた。


 けれど、母は違ったのだ。


 幼い自分が何かを知りたがることを、喜んでくれていた。


(……お母様。私、今でも分からないことがたくさんあります。でも、ここでは尋ねてもいいんですね)


 エレノアは目元が少し熱くなるのを感じ、そっと視線を落とした。


 マルグリットは、孫娘が言葉を探していることに気づいたが、急かすことはしなかった。


 しばらくして、エレノアは静かに微笑んだ。


「……ありがとうございます、お祖母様。お母様のお話を聞けて、嬉しいです」


 マルグリットも微笑んだ。


「私も、あなたに話せて嬉しいですよ」


 そのあと、二人は青い花の刺繍を進めた。


 エレノアは昨日の続きを縫いながら、母が幼い頃に青い花を作りたいと書いていたことを思い出していた。


 まだ完成していない花弁は、少しずつ形を整えていく。


 マルグリットは隣で見守り、必要な時だけ針の動かし方を教えてくれた。


 午後の穏やかな時間が、ゆっくりと流れていった。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、アルフォンスの執務室では、エレーヌが古い記録の一覧を整理していた。


 今日見つかった客人帳によって、アデラインとエレノアが訪れた日付が確認できた。


 そのため、次に探すべき資料の年代を絞ることができる。


 エレーヌは、家族の私的な記録が保管されている棚の一覧を確かめ、いくつかの候補を書き出した。


 古い絵や書簡が残っている可能性はある。


 しかし、どのようなものが保管されているのかは、実際に確認しなければ分からない。


 アルフォンスは一覧を受け取り、静かに頷いた。


「ありがとう。今日は客人帳が見つかっただけでも十分だよ。明日以降、無理のない範囲で確認を進めよう」


「承知いたしました」


 エレーヌは一礼した。


 アルフォンスは、机の端に置かれた客人帳へ目を向けた。


 そこには、妹アデラインの名前が残されている。


 そして、その隣には、幼いエレノアの名前があった。


 記録としては、ほんの数行にすぎない。


 けれど、その数行が、今のエレノアにとって大切な意味を持っている。


 アルフォンスは静かに息を吐いた。


 母の遺品や衣類の調査は、まだ続いている。


 養女縁組の手続きも、これから進めなければならない。


 けれど、今日見つかった客人帳は、エレノアが自分の過去を確かめるための、新しい手がかりになった。


 それを大切に扱っていこうと、アルフォンスは思った。


     ◇ ◇ ◇


 夜、エレノアは自室の机に向かい、今日の出来事を日記へ書き留めていた。


 古い客人帳に、母アデラインと自分の名前が残されていたこと。


 幼い頃、庭園で花の名前をたくさん尋ねていたこと。


 そして、母がその質問を喜んでくれていたこと。


 書き終えると、エレノアは筆を置き、しばらく日記の頁を見つめた。


 今日分かったことは、衣類の所在を直接示すものではなかった。


 淡い青色の外出着が、どこへ届けられたのか。


 二着注文された衣類が、どのように受け渡されたのか。


 それらは、まだ分からないままだ。


 けれど、母と自分が一緒に過ごした日が、確かな記録として残されていた。


 そのことが、エレノアには何より嬉しかった。


(……お母様。私は、少しずつあなたのことを知っています。忘れてしまったと思っていた時間も、誰かの記憶や記録の中に残っているんですね)


 エレノアは静かに微笑んだ。


 机の横には、淡い桃色の野ばらの刺繍が飾られている。


 その隣には、青い花の刺繍枠が置かれていた。


 花弁は少しずつ増え、最初の頃よりも形が整ってきている。


 エレノアはその刺繍を眺めながら、明日も続きを縫おうと思った。


 そして、もし昔の絵が見つかったなら、そこに描かれた幼い自分を、今の自分の目で確かめてみたい。


 母と過ごした時間を、悲しみだけではなく、大切な思い出として受け止められるようになりたい。


 そんな願いを胸に、エレノアは日記を閉じ、灯りを落とした。


 窓の外では、夜風が庭園の木々を静かに揺らしている。


 その穏やかな音を聞きながら、エレノアは寝台へ入り、ゆっくりと目を閉じた。

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