第62話 古い帳簿の二つの印と、私が選んだ確かめ方
朝の光が窓辺の刺繍枠を照らした時、エレノアは昨日よりも少し早く目を覚ました。
薄いカーテン越しに見える空は明るく、昨夜のうちに風が弱まったらしい。庭園の木々は穏やかに揺れており、遠くから聞こえる鳥の声に耳を傾けていると、もう少し寝台に横になっていたいような、早く起きて何かを始めたいような、不思議な気持ちになった。
エレノアは上掛けを胸元まで引き寄せ、昨日の日記に書いたことを思い返した。
養女縁組の手続きについて説明を受け、自分の意思を改めて伝えられたこと。母アデラインの思い出を聞きながら、青い花の刺繍を少し進めたこと。そして、モロー工房の古い受領簿に、これまで気づかなかった小さな違いが見つかったこと。
どれも、昨日のうちに答えが出たわけではなかった。
それでも、以前のように、分からないことが残っているだけで眠れなくなることはなかった。
(叔父様は、私の紙束を勝手に開いたりしないと約束してくださった。お祖母様は、刺繍が上手にできなくても笑わずに教えてくださる。私はここで、分からないことを分からないと言ってもいいのね)
そう考えると、胸の奥が少し温かくなった。
ベルナール伯爵邸で過ごしていた頃、エレノアは自分の考えを伝える前に、相手が何を望んでいるのかを確かめようとしていた。正しいと思うことを口にするより、叱られない答えを選ぶ方が安全だと信じていたからだ。
けれど、今は違う。
昨日、養女縁組の説明を受けた時も、エレノアは自分から質問をした。母の娘だから迎え入れてもらえるのか、それとも自分自身を家族として望んでもらえているのか、ずっと胸の奥に残っていた不安を言葉にできた。
叔父アルフォンスは、迷うことなく答えてくれた。
エレノア自身が大切な家族なのだと。
その言葉を思い出しながら寝台から起き上がると、ちょうど扉の向こうからリディアの声が聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、起きているわ。入ってちょうだい」
リディアは朝の支度を整えた盆を持って入室し、エレノアがすでに寝台を離れていることに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「今朝はお早いのですね。昨夜はよくお休みになれましたか」
「ええ。昨日はお祖母様と刺繍をして、とても楽しかったの。今日も続きをしたいと思っていたら、いつもより早く目が覚めてしまったわ」
エレノアが窓辺の刺繍枠へ視線を向けると、リディアもそちらを見た。
白い布の中央には、淡い青色の花弁が二枚並んでいる。まだ花の輪郭さえ完成していないものの、最初の一枚より二枚目の方が糸の張り方が揃っており、昨日の練習の成果が小さな形になって残っていた。
「まあ、昨日よりも進んでいらっしゃいますね。とても優しい色のお花です」
「ありがとう。お祖母様に教えていただいたのだけれど、糸を引く力を少し変えるだけで、仕上がりが違ってくるのね」
「そうでございますね。私も裁縫をいたしますが、急いで仕上げようとすると、かえって縫い直しが増えてしまうことがございます」
リディアはそう言いながら、衣装箱から朝のドレスを取り出した。
今日選ばれたのは、薄いクリーム色の布地に、小さな白い花が刺繍されたものだった。昨日の若草色とは違う柔らかな色合いで、朝の光を受けると、袖口の糸が控えめに輝いて見える。
エレノアはそのドレスを眺め、ふと口を開いた。
「リディア、私の服について、一つ聞いてもいいかしら」
「もちろんでございます。何でしょうか」
「今、ここで着ている服は、誰が選んでくださったものなの?」
リディアは少し考えてから、丁寧に答えた。
「こちらへお越しになってから新しくご用意したものは、奥様やアルフォンス様のご意向を伺いながら、エレノア様のお好みも確かめて選んでおります。もちろん、すべてが同じ方法ではございませんが、少なくとも、どなたのために用意されたものかは分かるようにしております」
「そうなのね……」
エレノアは袖口の花を指先でなぞった。
伯爵邸にいた頃、自分の衣装がどのように管理されているのかを考える機会は、ほとんどなかった。与えられたものを着て、必要なくなったものは使用人が片づける。自分のために用意されたはずの衣類が、いつの間にか別の場所へ移されていても、詳しく尋ねることは難しかった。
だからこそ、今になって、服を一着選ぶことにも誰かの判断や記録が関わっているのだと知ると、少し不思議な気持ちになる。
「……いつか、自分で服を選ぶ時にも、どうしてその服が好きなのか、ちゃんと考えてみたいわ」
リディアはエレノアの背中へドレスを当て、鏡に映る色合いを確かめた。
「それは素敵でございますね。エレノア様が気に入られたものを、少しずつ増やしていければと思います」
エレノアは鏡の中の自分を見つめ、静かに頷いた。
誰かに決められたものではなく、自分が選んだもの。
そんな当たり前のことが、今は少しずつ新鮮に感じられた。
◇ ◇ ◇
その日の午前、ロシュフォール公爵邸の執務室では、アルフォンスが数通の書簡を確認していた。
窓際の机には、養女縁組に関する書類と、ベルナール伯爵家の衣類管理記録についての調査資料が、別々の箱に収められている。皇宮から届いた正式回答も、受領日を記した控えとともに保管されており、必要な時にはエレノア本人が確認できるよう準備されていた。
アルフォンスは書類を一通ずつ確かめ、エレーヌ・フォシェへ指示を伝えていた。
養女縁組の手続きに必要な確認事項は、少しずつ整理が進んでいる。
しかし、エレノアの衣類に関する調査は、まだ多くの疑問を残していた。
特に、モロー工房の受領簿に記された小さな印については、昨日、アニエス・モローへ問い合わせを送ったばかりだった。
「工房からの返事は、まだ届いていないね」
アルフォンスがそう尋ねると、エレーヌは机の端に置いた書簡の一覧へ目を向けた。
「はい。昨日発送したばかりでございますので、もう少し時間がかかるものと考えております。ただ、先ほど使いの者が戻りまして、工房へ文書を届けたことは確認できました」
「そうか。それなら、急かす必要はないね」
アルフォンスは頷き、別の書類を取り上げた。
そこには、ベルナール伯爵家の衣類管理帳簿について、以前送った問い合わせの控えがあった。
古い帳簿では、記録者と確認者の欄が分かれていた。
ところが、後の帳簿では二つの欄が一つにまとめられている。
その変更がいつ、誰の判断で行われたのかは、まだ分かっていなかった。
「こちらの回答も、まだ届いていないのだったね」
「はい。伯爵家側では古い記録を調べている可能性がございます。正式な回答が届くまでは、こちらでも判断を保留する必要があるかと存じます」
エレーヌは慎重に答えた。
アルフォンスは頷き、書類を元の箱へ戻した。
「そうだね。こちらの推測だけで誰かの責任を決めてしまえば、エレノアのためにもならない」
その時、執務室の扉が叩かれた。
入室した使用人は、モロー工房から使いの者が訪れていると告げた。
アルフォンスは少し意外そうに顔を上げた。
「もう返事が来たのかい?」
「はい。工房の方から、昨日のお問い合わせについてお伝えしたいことがあるとのことでございます」
アルフォンスはエレーヌへ目を向けた。
「予定より早いけれど、話を聞いてみよう。こちらへ案内してもらえるかな」
使用人が退出すると、エレーヌは机の上に受領簿の写しを並べた。
数分後、案内されたのはアニエス・モロー本人ではなく、工房で帳簿の整理を手伝っている年配の女性だった。
彼女は丁寧に一礼し、持参した封書を差し出した。
「アニエスから、お返事をお預かりしてまいりました。古い帳簿についてのお問い合わせでしたので、本人が確認した内容を文書にまとめております」
アルフォンスは礼を述べ、封書を受け取った。
中には、短い説明文と、小さな印を描き写した紙が入っていた。
エレーヌはその紙を見て、昨日見つけた印と同じ形であることを確かめた。
「こちらでございますね。線のあるものと、ないものが分けて描かれております」
アルフォンスは説明文へ目を通した。
そこには、古い時期の工房では、受け渡しの確認印に補助的な線を添えることがあったと記されていた。
ただし、その線は、受取人の身分や衣類の所有者を示すものではなかった。
工房内で注文品の受け渡しを整理する際、同じ注文に属する品が複数回に分けて届けられた場合などに、帳簿を見返しやすくするための補助記号として使われることがあったという。
アルフォンスは説明文を読み終えると、少し考え込んだ。
「なるほど。線があるからといって、特別な人物が受け取ったという意味ではないんだね」
エレーヌも頷いた。
「はい。ただ、同じ注文の品が分けて届けられた可能性を示すことはあるようです」
アルフォンスは、昨日確認した二着の注文記録を思い出した。
工房の注文控えには二着と記されている。
しかし、受領簿の写しでは一着分しか確認できなかった。
その受領記録の印には、短い線が添えられていた。
「……昨日の数量の違いと、関係しているかもしれないね」
アルフォンスがそう言うと、エレーヌは慎重に答えた。
「可能性はございます。ただ、アニエス様の文書にも、すべての線が必ず分割納品を意味するわけではないと書かれております。古い時期には記入方法が一定でなかったこともあるようです」
「そうだね。では、もう一着の受け渡し記録が存在したかどうか、別の資料で確かめる必要がある」
アルフォンスは頷き、工房からの使いの女性へ向き直った。
「アニエス殿には、丁寧に調べてくださったことへの礼を伝えてほしい。こちらでも記録を照らし合わせ、必要なことがあれば改めて問い合わせると伝えてくれるかな」
「承知いたしました」
女性は一礼し、使用人に案内されて執務室をあとにした。
扉が閉まると、アルフォンスはエレーヌへ目を向けた。
「これは、昨日より一歩進んだと言ってよさそうだね」
「はい。少なくとも、あの線が受取人の責任を示すものではないと分かりました。調査の方向を誤らずに済みます」
エレーヌはそう答え、工房からの説明文を記録箱へ収めた。
アルフォンスは、受領簿の写しをもう一度見つめた。
小さな線が、何か重大な秘密を示しているのではないかと考えることもできた。
けれど、実際には、工房の事務的な記号だった。
それは少し拍子抜けするような答えでもあったが、だからこそ重要だった。
記録を正しく読むためには、意味のないものへ勝手に意味を与えないことも必要なのだ。
◇ ◇ ◇
昼食の席で、エレノアはアルフォンスから工房の返事について簡単な説明を受けた。
食堂にはオーギュストとマルグリット、セドリックも揃っており、窓から入る明るい光が卓上の白い食器を照らしている。
アルフォンスは食事が一段落したところで、エレノアへ声をかけた。
「今朝、モロー工房から返事が届いたよ。昨日話した小さな印について、少し分かったことがあるんだ」
エレノアは顔を上げた。
「本当ですか。あの、短い線が付いていた印のことですね」
「ああ。工房では、同じ注文の品を分けて届けた時などに、帳簿を見返しやすくするため、補助的な線を付けることがあったそうだよ」
エレノアは少し考えた。
「それでは、線があるものは、何か特別な服だったという意味ではないのですね」
「そういうことだね。ただ、すべてが同じ使い方だったとは限らないから、線だけで分割して届けられたと決めることもできない」
アルフォンスは丁寧に説明した。
エレノアは頷き、昨日見せてもらった写しを思い出した。
小さな線が付いた印。
それを見た時、何か大切な意味が隠されているのではないかと思った。
けれど、実際には工房の仕事を整理するためのものだった。
「……少し意外です。もっと難しい意味があるのかと思っていました」
エレノアがそう言うと、オーギュストが穏やかに口を開いた。
「古い記録には、書いた者にとって当たり前でも、後から読む者には分からないことが多い。だからこそ、当時の使い方を知る者に尋ねることが大切なのだよ」
マルグリットも頷いた。
「刺繍の図案でも同じことがありますね。線の意味を知らずに見れば、ただの飾りに見えるものが、実際には糸を通す順番を示していることもあります」
エレノアは祖母へ顔を向けた。
「そうなのですね。確かに、昨日の図案にも、最初は意味が分からない線がありました」
マルグリットは微笑んだ。
「ええ。けれど、意味を知れば、何も難しいことではなくなるでしょう」
エレノアは頷いた。
古い帳簿と刺繍の図案。
まったく違うもののようでいて、どちらも書いた人の意図を知らなければ、正しく読むことは難しいのだ。
そのことが、少し面白く感じられた。
セドリックはエレノアの表情を見ながら、穏やかに言った。
「工房の記録については、まだ確かめることがあるみたいだけれど、今日分かったことは大切だと思うよ。少なくとも、間違った意味で考え続けずに済むからね」
「はい。私も、そう思います」
エレノアは微笑んだ。
答えが出なかったことを残念に思うより、分かったことを一つずつ大切にしたい。
そのように考えられる自分が、少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午後、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが古い衣類管理帳簿を前にしていた。
執務室の机には、過去の使用人名簿と、衣類の保管場所を記した帳簿が並べられている。屋敷の管理を担当する者たちが調べた結果、記録者と確認者の欄が別々になっていた時期の帳簿は、いくつか見つかっていた。
しかし、その形式が変更された理由については、まだ確かな文書が見つかっていない。
ロベルトは、使用人から提出された報告書を読み、眉を寄せた。
「変更の記録がないというのは、どういうことだ」
机の向かいに立つベアトリス・ロランは、慎重に答えた。
「当時の帳簿には、記入欄が変わったこと自体は残っております。しかし、誰が変更を認めたのかを示す書面は、現在確認できておりません」
「お前は、その頃のことを覚えていないのか」
ロベルトが尋ねると、ベアトリスは少し考えた。
「記録を簡略化する話が出ていたことは覚えております。ただ、正式な指示がどのように伝えられたのかまでは、はっきりいたしません」
ロベルトは報告書へ視線を戻した。
衣類の管理など、以前は細かなことだと思っていた。
しかし、エレノアの衣装が本人の許可なく別の者のために仕立て直されていたことが明らかになってから、記録の不備を軽く扱うことはできなくなっていた。
しかも、ロシュフォール家からは、帳簿の形式変更について正式な問い合わせが届いている。
曖昧な答えを返すわけにはいかなかった。
「古い使用人名簿には、当時の記録を担当していた者の名前が残っているのだな」
「はい。ただし、すでに退職した者もおります」
「それでも構わん。まずは、当時の担当者を確認しろ。形式が変わった前後で、誰が記録を扱っていたのかを整理する必要がある」
ベアトリスは一礼した。
「承知いたしました」
ロベルトは、報告書の余白へいくつかの確認事項を書き加えた。
以前なら、こうした調査を使用人へ任せたまま、結果だけを聞いて終わらせていたかもしれない。
だが今は、そうすることにためらいがあった。
エレノアの衣類が、どのように扱われていたのか。
そのことを、自分はほとんど知らなかった。
父親でありながら、娘の持ち物がどこへ移されたのかも分からない。
その事実が、ロベルトの胸に重く残っていた。
(……今さら調べたところで、あの子が戻ってくるわけではない。それでも、何も知らなかったままで済ませていいことではないのだろう)
ロベルトは筆を置き、机の上の帳簿を見つめた。
ロシュフォール家へ送る回答は、まだ完成していない。
しかし、少なくとも、調査を続けていることだけは伝えるべきだと考え始めていた。
◇ ◇ ◇
同じ屋敷の別の部屋では、ミレーヌが昨日書き始めた記録を見直していた。
卓の上には、四つの装飾品が並べられている。
ブローチ、銀の櫛、刺繍入りのハンカチ、細い鎖のついた首飾り。
昨日、コレットに勧められて、いつ頃から使っていたのか、誰から受け取った記憶があるのかを書き留めた。
けれど、ほとんどの品について、はっきりしたことは分からなかった。
ミレーヌは紙を見つめ、少し考え込んだ。
(……私、今まで何も気にしていなかったのね。自分の部屋にあるものは、全部自分のものだと思っていた。でも、誰が用意してくれたのかも知らないなんて……)
彼女はブローチを手に取った。
小さな花の形をした装飾品で、中央には淡い色の石がはめ込まれている。
以前、母ヴァレリアが衣装を選んでくれた時、このブローチを使ったことがあった。
しかし、それ以前から自分の持ち物だったのか、その時に初めて渡されたのかは覚えていない。
ミレーヌは記録用紙へ、そのことを書き加えた。
その時、扉が叩かれ、コレットが入室した。
「ミレーヌ様、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう。そこに置いてちょうだい」
コレットは盆を卓へ置き、並べられた品々を見た。
「昨日の続きをなさっていたのですね」
「ええ。でも、やっぱり分からないことばかりなの。エリーズから返事が来れば、何か分かるかもしれないけれど……」
ミレーヌは言葉を切り、少し俯いた。
コレットは、彼女の様子を見ながら慎重に答えた。
「お返事が届くまでには、まだ時間がかかるかと存じます。古い住所へお送りしておりますので、まずは届くかどうかを確かめる必要がございます」
「そうよね。昨日も聞いたのに、また気にしてしまったわ」
ミレーヌは小さく息を吐いた。
コレットは、すぐに慰める言葉を重ねることはしなかった。
ミレーヌが自分の行動を見直そうとしていることは分かっていたが、焦って結論を出してしまえば、かえって間違えるかもしれない。
「ミレーヌ様、もしよろしければ、今日は品物そのものについて、分かることを整理してみてはいかがでしょうか。どのような模様があるのか、傷や刻印があるのか。記憶とは別に、今確かめられることもございます」
ミレーヌは顔を上げた。
「品物そのものを、よく見るということ?」
「はい。後から誰かへお尋ねする時にも、特徴が分かっていれば説明しやすくなります」
ミレーヌは少し考え、頷いた。
「……そうね。やってみるわ」
彼女はブローチを窓際へ持っていき、光にかざした。
花の形をした金属部分には、細かな線が刻まれている。
中央の石は淡い色で、光の角度によって少し青みを帯びて見えた。
裏側には留め具があり、その近くに小さな擦れがあった。
ミレーヌはそれらを紙へ書き留めた。
次に銀の櫛を確かめると、柄の端に細かな模様があり、いくつかの歯には長年使われたような擦れが見つかった。
それらが何を意味するのかは分からない。
しかし、昨日よりも品物を詳しく見られるようになったことは確かだった。
ミレーヌは筆を置き、コレットへ顔を向けた。
「……私、今まで綺麗かどうかしか見ていなかったのかもしれないわ」
コレットは穏やかに答えた。
「大切に使っていらしたのでしょう。ただ、これからは別のことも確かめたいと思われたのですね」
ミレーヌは静かに頷いた。
自分のために用意されたと思っていたものが、必ずしもそうではなかった。
その事実は、今でも胸に重く残っている。
けれど、だからこそ、これ以上知らないままでいたくなかった。
◇ ◇ ◇
午後のロシュフォール公爵邸では、エレノアがマルグリットと刺繍をしていた。
窓辺の卓には、昨日から使っている青い糸と図案帳が並べられている。エレノアは三枚目の花弁へ針を進めながら、午前に聞いた工房の記録について考えていた。
小さな線は、工房の補助記号だった。
それが分かったことで、受領簿の読み方は少し明確になった。
けれど、二着注文された衣類のうち、もう一着がどのように届けられたのかは、まだ分からない。
エレノアは針を止め、マルグリットへ顔を向けた。
「お祖母様、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんですよ。何か気になることがあるのですか?」
「昔の服について、です。私が小さい頃に着ていた服を、覚えていらっしゃいますか?」
マルグリットは少し驚いたように瞬きをした。
それから、刺繍枠を膝の上へ置き、ゆっくりと考え始めた。
「そうですね……。あなたがまだ幼かった頃、こちらへ遊びに来た時の服なら、いくつか覚えていますよ。ただ、すべてを正確に覚えているわけではありません」
エレノアは頷いた。
「はい。全部でなくても構いません。淡い青色の外出着を着ていたことは、ありますか?」
マルグリットはしばらく考えた。
「青い服……。ええ、着ていたことはあったと思います。ただ、どの服だったのか、今すぐにははっきりしませんね」
エレノアは少しだけ肩を落とした。
けれど、マルグリットは穏やかに続けた。
「もし衣類の記録を確かめたいのであれば、昔の絵や、あなたがこちらへ来た時の記録を見返してみる方法もあるかもしれません。ただし、何が残っているのかは、調べてみなければ分かりませんけれどね」
エレノアは顔を上げた。
「昔の絵、ですか?」
「ええ。あなたが幼い頃にこちらへ来た時、庭園で遊んだこともありましたから。絵を描いた者がいたかもしれませんし、衣装について記録が残っている可能性もあります」
マルグリットは、あくまで可能性として話した。
エレノアは少し考え込んだ。
伯爵邸の衣類管理帳簿と、モロー工房の受領簿。
その二つだけでは、同じ服かどうか判断できないものがある。
けれど、もし自分が実際に着ていた姿を描いた絵が残っていれば、少しは確かめられるかもしれない。
もちろん、絵が正確に服を描いているとは限らない。
それでも、別の手がかりになる可能性はあった。
「……叔父様に、相談してみてもいいでしょうか」
エレノアがそう尋ねると、マルグリットは微笑んだ。
「もちろんです。あなた自身が確かめたいと思ったことですもの。どのような方法があるのか、一緒に考えていただきましょう」
エレノアは頷き、再び刺繍枠へ目を向けた。
青い花の三枚目の花弁は、まだ半分ほどしかできていない。
けれど、昨日よりも少しだけ、花全体の形が見えてきていた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはアルフォンスの執務室を訪ねた。
リディアが同行し、扉の前で取り次ぎを頼むと、すぐに入室を許された。
アルフォンスは机の上の書類を片づけ、エレノアが座れるように椅子を用意した。
「どうしたんだい、エレノア。何か相談したいことがあるのかな」
「はい。少し、昔の服について考えたことがあるんです」
エレノアは椅子へ腰を下ろし、マルグリットと話した内容を説明した。
幼い頃に着ていた服について、祖母にもはっきりした記憶はないこと。
けれど、昔の絵や記録が残っていれば、工房の注文控えと照らし合わせられるかもしれないこと。
アルフォンスは、途中で口を挟まずに聞いていた。
エレノアが話し終えると、彼は少し考えてから頷いた。
「なるほど。確かに、服そのものの特徴を確かめる方法は、帳簿だけではないかもしれないね」
エレノアは少し安心したように微笑んだ。
「ただ、昔の絵が残っているかどうかも分かりませんし、もし残っていても、正確に描かれているとは限らないと思います」
「その通りだよ。でも、そういうことも含めて確かめてみる価値はあると思う」
アルフォンスは机の端に置いた紙を取り上げた。
「まずは、この屋敷に残っている古い記録を調べてみようか。君が幼い頃に訪れた時のことを、どこまで記録しているかは分からないけれど、確認してみることはできる」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます、叔父様」
アルフォンスは微笑み、続けた。
「それから、もう一つ大切なことがある。もし昔の絵や記録が見つかったとしても、それを見たいかどうかは君が決めていい。母上の思い出に関わるものもあるかもしれないからね」
エレノアは少し考えた。
母の思い出。
それは、今でも胸が痛むことのある、大切なものだった。
けれど、最近は少しずつ、母について知りたいと思えるようになっている。
祖母から聞いた幼い頃の話。
セドリックが見せてくれた刺繍の布袋。
そして、自分が縫い始めた青い花。
それらは、母を失った悲しみだけでなく、母が確かに生きていた時間を感じさせてくれた。
「……見つかったら、見てみたいです」
エレノアは静かに答えた。
「もし少しつらくなったら、その時は休ませていただきます。でも、今は、お母様や小さい頃の自分について、もう少し知りたいと思っています」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「分かった。では、その気持ちを大切にしながら進めよう」
エレノアは微笑んだ。
以前なら、何かを調べることは、誰かに命じられて行うものだった。
けれど今は、自分が知りたいと思ったことを、自分の言葉で相談している。
その違いが、少し誇らしく感じられた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の机に向かい、今日の出来事を日記へ書き留めた。
モロー工房の小さな印について、意味が少し分かったこと。
古い帳簿の記録だけでは分からないことが、まだ残っていること。
そして、自分から昔の絵や記録を探してみたいと叔父へ相談したこと。
書き終えると、エレノアは筆を置き、机の横にある刺繍枠へ目を向けた。
淡い青色の花弁は、三枚目まで進み始めている。
まだ完成には遠い。
けれど、昨日よりも確かに形が見えてきた。
(……私も、少しずつ変わっているのかもしれないわ。以前は、何かを知ることが怖かった。でも今は、自分で確かめたいと思えることがある)
エレノアは静かに微笑んだ。
皇宮からの正式な回答によって、第二王子との縁談には一つの区切りがついた。
養女縁組の手続きは、これから進んでいく。
母の遺品や衣類の記録についても、まだ分からないことが残っている。
けれど、すべてを一度に明らかにする必要はない。
自分が望む速さで、一つずつ確かめていけばいい。
エレノアは日記を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の庭園には、柔らかな月明かりが差し込んでいる。
その静かな景色を眺めながら、彼女は明日もまた、青い花の続きを縫おうと思った。
そして、もし昔の絵が見つかったなら、そこに描かれた幼い自分を、今度は怖がらずに見つめてみたい。
そんな小さな願いを胸に、エレノアは灯りを落とし、穏やかな夜の眠りについた。




