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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第61話 自分の名前で選ぶ未来と、受領簿に残された小さな違い


皇宮から正式な回答が届いた翌朝、エレノアはいつもより少し遅く目を覚ました。


厚いカーテンの隙間から差し込む朝日が寝台の足元を照らし、開け放たれた廊下の向こうから、使用人たちが朝の支度を進める音が聞こえてくる。昨夜はなかなか眠れないかもしれないと思っていたのに、実際には日記を書き終えて間もなく眠りについたらしく、目覚めた時には窓の外がすっかり明るくなっていた。


エレノアは枕元へ手を伸ばし、寝台脇に置かれた小さな時計を確かめた。普段より起床が遅かったとはいえ、朝食に間に合わないほどではないと分かり、ほっとして上掛けを畳み始める。


(昨日は、いろいろなことがあったものね。皇宮からのお返事を読んで、お祖母様と刺繍をして、それからお兄様にお母様の布袋を見せていただいて……。嬉しかったはずなのに、思っていた以上に疲れていたのかもしれないわ)


皇宮の印章が押された文書を思い出しても、昨日のように呼吸が苦しくなることはなかった。


もちろん、第二王子レオナードへの恐怖が消えたわけではない。前の人生で起きたことを、たった一枚の書類で忘れられるはずもなかった。


それでも、あの文書には、自分の意思が正式に受け付けられたと書かれていた。


父ロベルトが勝手に送った受諾の返書だけでは、婚約は成立しない。自分が望まない以上、現在の縁談を進める手続きも行われない。


その事実を確かめた時、エレノアは初めて、自分の未来を守るためにしたことが、確かな形になったと感じたのだった。


扉の向こうから、リディアの声が聞こえた。


「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか。お支度のお手伝いに参りました」


「ええ、起きているわ。入ってちょうだい」


リディアは入室すると、寝台の上掛けを整えているエレノアを見て、少し驚いたように瞬きをした。


「まあ、もうお片づけを始めていらしたのですね。私がいたしますから、どうぞお任せくださいませ」


「ありがとう。でも、今日は少し遅く起きてしまったから、自分でできるところだけでもと思ったの」


エレノアがそう答えると、リディアは寝台の脇へ歩み寄り、彼女が畳みかけていた上掛けを受け取った。


「昨夜はお疲れだったのでしょう。昨日は大切なお知らせがございましたし、気持ちが落ち着くまでにもお時間が必要だったと思います」


リディアは上掛けの端を丁寧に揃えながら、少し声を和らげた。


「それに、こちらでは朝のお支度が多少遅くなったからといって、エレノア様がお叱りを受けるようなことはございません。体調が優れない日には、朝食のお時間を調整することもできますから」


エレノアは思わず、リディアの顔を見つめた。


何かに遅れることを、以前はひどく恐れていた。


伯爵邸では、少しでも支度が遅れると、他の者に迷惑をかけると叱られたことがある。予定より早く準備を終えていても、呼び出しに気づくのが遅れれば、それはエレノアの不注意として扱われた。


けれど、リディアは遅く起きた理由を責めることなく、疲れていたのではないかと気遣ってくれている。


「……そうね。ありがとう、リディア。もし今度、朝起きるのがつらい日があったら、ちゃんと伝えるわ」


「はい。そうしていただければ嬉しゅうございます」


リディアは穏やかに微笑み、衣装箱の前へ移動した。


その日のドレスを選ぶ間、エレノアは机の横に置いた刺繍枠へ目を向けた。淡い青色の糸で作り始めた小さな花は、まだ一枚の花弁しかできていないが、昨日の出来事を思い出させる大切なものになっていた。


「今日は、少し落ち着いた色にしようかしら」


「それでしたら、こちらはいかがでしょう。柔らかな若草色で、袖口には白い糸の刺繍がございます」


リディアが示したドレスは、派手な装飾のない上品なものだった。


エレノアは布地を確かめ、気に入ったように頷いた。


「ええ、それにするわ。今日は書類のお話もあるかもしれないし、動きやすい方がよさそうね」


そう口にしてから、エレノアは少しだけ不思議な気持ちになった。


以前の自分なら、書類について話し合う場に呼ばれることを、ただ怖いものだと思っていただろう。


けれど、今は違う。


分からないことがあれば尋ねていい。自分に関わることなら、意見を伝えてもいい。


そのように考えられるようになったことが、何より大きな変化だった。


◇ ◇ ◇


朝食の席では、オーギュストが皇宮から届いた文書について、アルフォンスと静かに話していた。


ただし、エレノアが入室すると、二人は会話を切り上げ、いつも通りに迎えてくれた。マルグリットは孫娘の顔色を確かめると、昨夜はよく眠れたかと尋ね、セドリックは少し遅れてきたエレノアのために、まだ温かなパンが残っていることを教えてくれた。


「おはよう、エレノア。今日は少しゆっくりだったね。昨日は疲れただろうし、よく眠れたなら何よりだよ」


「おはようございます、お兄様。はい。自分でも驚くくらい、ぐっすり眠れました」


エレノアが笑顔で答えると、セドリックも安心したように微笑んだ。


席についた彼女の前へスープが運ばれ、焼きたてのパンと果物が並べられる。厨房で用意された温かな料理の香りに包まれていると、昨日までの緊張が少しずつ遠ざかっていくようだった。


食事が一段落した頃、オーギュストがエレノアへ声をかけた。


「昨日の皇宮からの回答についてだが、改めて一つだけ伝えておきたいことがある。あの文書は大切なものだから、原本はこちらで責任を持って保管することになるが、エレノアが内容を確かめたい時には、いつでも見られるようにしておくつもりだ」


エレノアは祖父へ顔を向け、静かに頷いた。


「ありがとうございます、お祖父様。昨日、叔父様に読ませていただきましたけれど、もう一度確認したくなることもあるかもしれません」


「それで構わない。自分の意思がどのように扱われたのか、本人が確かめられることは大切だからな」


オーギュストはそう言ってから、アルフォンスへ視線を移した。


「それと、養女縁組の書類についてはどうなっている?」


「必要な確認は進めています。ただ、皇宮の回答が届いたからといって、養女縁組まで自動的に成立するわけではありません。こちらは別の手続きですので、順序を守って進める必要があります」


アルフォンスは、エレノアにも分かるようにゆっくりと説明した。


「今の君の正式な姓は、まだベルナールのままだ。ロシュフォール家で暮らしていることと、法的に家族の一員になることは、制度上では別の扱いになるんだ」


エレノアは頷いた。


それは、以前から説明を受けていたことだった。


ロシュフォール家の人々は、すでに自分を家族として迎えてくれている。


けれど、書類上の立場はまだ変わっていない。


その違いを、エレノアも理解していた。


「叔父様、養女縁組が正式に認められたら、私はロシュフォールの名前を名乗れるようになるのですよね」


「ああ。必要な手続きが完了すれば、そうなるよ」


アルフォンスは答えたあと、少しだけ表情を和らげた。


「もっとも、名前が変わる前から、君が私たちの大切な家族であることに変わりはないけれどね」


その言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


祖父母も、セドリックも、当然のように頷いている。


誰も、書類が完成するまで家族として扱えないなどとは言わなかった。


「……ありがとうございます。私も、皆様と一緒に暮らせることが本当に嬉しいです」


エレノアは少し照れながら答えた。


マルグリットは微笑み、孫娘の手元にある紅茶のカップを見た。


「それなら、これからも一緒に朝食をいただきましょう。家族なのですから、嬉しいことも心配なことも、少しずつ分け合っていけばいいのですよ」


エレノアは頷き、温かな紅茶を口に運んだ。


その香りは、昨日よりも少しだけ柔らかく感じられた。


◇ ◇ ◇


朝食後、アルフォンスは執務室へ戻り、エレーヌ・フォシェとともに皇宮からの回答文書を整理していた。


窓際の大きな机には、養女縁組に関する書類と、ベルナール伯爵家から受け取った確認文書が分けて置かれている。昨日届いた皇宮の回答は、そのどちらとも混同しないよう、別の書類箱へ収められていた。


エレーヌは受領日を記した控えを作成し、アルフォンスへ差し出した。


「こちらが正式回答の保管記録でございます。原本は封書とともに保存し、必要な際には確認できるようにいたしました」


「ありがとう。エレノア本人が閲覧を望んだ場合にも、すぐに用意できるようにしておいてほしい」


「承知いたしました」


エレーヌは控えを揃え、別の書類を取り上げた。


「それから、養女縁組の件ですが、ベルナール伯爵家からの異議を申し立てない旨の文書について、確認事項を整理しております。今後の手続きで必要になる書類を一覧にしておきました」


アルフォンスは一覧を受け取り、一つずつ目を通した。


ロベルトが異議を申し立てないことを表明したからといって、それですべてが終わるわけではない。エレノア本人の意思、関係する家の立場、財産に関わる事項など、確認しなければならないことは残っている。


「手続きそのものは、確実に進めよう。ただし、ベルナール家の財産調査と混同しないようにしたい。あちらの問題が長引いたとしても、エレノアの身分に関する確認まで必要以上に遅らせるべきではないからね」


アルフォンスの言葉に、エレーヌは頷いた。


「はい。財産に関する調査記録と、養女縁組の申請書類は別々に管理しております。必要な情報が重なる場合でも、どちらの目的で確認したものなのかを明記いたします」


「それでお願いするよ」


アルフォンスは一覧を戻し、机の端に置かれた別の書類箱へ目を向けた。


そこには、モロー工房から届いた受領簿の写しが収められている。


昨日、ベアトリス・ロランとナタリー・ヴェルヌの名前が確認されたことで、調査は新しい段階へ進み始めていた。


ただし、受領簿に名前があるという事実だけでは、衣類の所在を説明することはできない。


工房から屋敷へ届けられた衣類が、どの部屋に保管され、誰の管理下へ移されたのか。


その経路を確かめる必要があった。


「エレーヌ、昨日の受領簿について、もう一度確認したい箇所があるんだ」


アルフォンスは書類箱を開き、工房から届いた写しを取り出した。


「昨日は受取人の名前に注目したけれど、衣類の名称と数量についても、もう少し詳しく比較してみたい。伯爵家側の帳簿と完全には一致していないものがあったね」


「はい。工房では仕立ての特徴を記し、伯爵家では保管上の分類名を使っているようですので、名称だけでは同じ品か判断できないものがございます」


エレーヌは机の中央へ二種類の写しを並べた。


工房側には、淡い青色の子ども用外出着と記されている。


一方、伯爵家側には、似た時期に少女用の淡青色の衣類が記録されていた。


色と時期は近いものの、装飾の記載には違いがある。


「こちらの工房側の記録では、白い縁飾りが付いていたとされています。しかし伯爵家の帳簿では、装飾付きとしか書かれておりません」


エレーヌは指先で該当箇所を示した。


「同じ衣類である可能性はございますが、確定するには情報が足りません」


「そうだね。では、工房側の注文控えと、受領簿をもう一度並べてみよう」


アルフォンスは別の写しを取り出した。


そこには、注文を受けた時の衣類の特徴が記されている。


布地の色、袖の形、縁飾りの種類。


仕立てに関する記録は、伯爵家の管理帳簿よりも細かかった。


エレーヌは二つの書類を照らし合わせ、少し考え込んだ。


「……閣下、こちらをご覧ください」


「何か見つかったのかい?」


「受領簿の記録には、衣類の数量が一着とあります。ところが、同じ時期の注文控えでは、似た仕様の衣類が二着注文されております」


アルフォンスは身を乗り出した。


確かに、注文控えには二着と記されている。


しかし、受領簿の該当箇所では、一着分の受け渡ししか確認できない。


「もう一着の記録は、別の頁にあるのかな」


「その可能性はございます。ただ、受領簿には湿気で傷んだ部分がありますので、現在の写しだけでは判断できません」


エレーヌは隣の頁を確かめた。


そこには、日付の一部だけが残っている。


衣類の名称も、受取人の署名も、判読できない箇所が多かった。


アルフォンスはしばらく考えたあと、静かに頷いた。


「では、二着のうち一着しか届けられなかったと考えるのも早いね。別の日に受け渡された可能性もあるし、記録が傷んでいるだけかもしれない」


「はい。ただ、数量の違いがあること自体は、確認事項として残しておくべきかと存じます」


「その通りだよ」


アルフォンスは新しい記録用紙を取り出し、工房の注文控えと受領簿の間に確認すべき差異があることを書き加えた。


その時、エレーヌが別の頁へ目を向けた。


「もう一点、気になることがございます」


彼女は受領簿の右端に記された小さな印を示した。


「こちらの印は、アニエス様のお話では受け渡しの確認に使われていたものでしたね。ただ、同じ形の印が付いていても、横に小さな線が添えられているものと、そうでないものがございます」


アルフォンスは印を見比べた。


確かに、よく似た印が並んでいるが、いくつかには短い線が添えられていた。


線は文字というほど大きくなく、注意して見なければ見落としてしまいそうなものだった。


「昨日は気づかなかったね。工房の記録方法が時期によって変わっているという話もあったし、意味があるのかどうかは確認した方がよさそうだ」


「はい。工房内での記入方法に関するものであれば、アニエス様がご存じかもしれません」


エレーヌは、線のある印とない印を別々に書き写した。


アルフォンスはその様子を見ながら、以前エレノアの衣類に関する紙束を確認した時のことを思い出していた。


あの紙束にも、似たような印があった。


しかし、そこに書かれたものと、工房の印が同じ意味を持つとは限らない。


別々の記録で使われた印が、偶然似ている可能性もある。


そのため、アルフォンスは安易に二つを結びつけないよう、エレーヌへ伝えた。


「工房の印については、まず工房の記録だけで意味を確かめよう。エレノアの紙束については、本人が開示を許可した範囲を超えて調べるつもりはない」


「承知しております。現時点では、工房側の記入方法についてのみ問い合わせを行います」


エレーヌは頷き、問い合わせの草案を書き始めた。


それは、誰かの責任を追及するための文書ではない。


記録の読み方を正しく理解するための、事務的な確認だった。


◇ ◇ ◇


同じ頃、ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが朝から落ち着かない様子で自室を歩き回っていた。


昨日、退職した侍女エリーズ・ダルモンの古い住所へ手紙を送るよう依頼したものの、返事が届くまでには時間がかかるはずだった。


それでも、何か進展があったのではないかと気になり、廊下を通る足音に何度も耳を澄ませてしまう。


卓の上には、四つの装飾品が並べられていた。


ブローチ、銀の櫛、刺繍入りのハンカチ、細い鎖のついた首飾り。


いずれも、以前から自分の持ち物として扱ってきた品だった。


しかし、エレノアの衣類が本人の許可なく仕立て直され、自分のために使われていたことを知ってから、ミレーヌは身の回りの品についても、その由来を確かめたいと思うようになっていた。


(お姉様のものだと分かった服は、もう自分のものだと思えない。でも、この四つはどうなのかしら。もし違っていたら、それで安心できるのに……)


ミレーヌは銀の櫛を手に取り、柄の部分を確かめた。


装飾は細かく、長く使われていたらしい擦れもある。


幼い頃から見慣れた品だったが、誰が最初に使っていたのかは知らなかった。


扉が叩かれ、コレットが入室した。


「ミレーヌ様、お手紙についてご報告がございます」


ミレーヌは顔を上げた。


「エリーズから返事が来たの?」


思わず早口で尋ねると、コレットは申し訳なさそうに首を横に振った。


「いいえ。昨日お預かりしたお手紙は、今朝、屋敷から発送されました。古い住所へ宛てたものでございますので、届くかどうかの確認にも、しばらく時間がかかるかと存じます」


ミレーヌは少し肩を落とした。


手紙を書いたのは昨日のことだ。


返事がすぐに届くはずがないと分かっていたのに、つい期待してしまった。


「……そうよね。私、少し焦っていたみたい」


コレットは卓の上の品々へ目を向けた。


「大切なことを確かめようとなさっているのですから、気になるのは当然かと存じます。ただ、今すぐ答えが出ることばかりではございません」


ミレーヌは頷いた。


「ええ。分かっているわ。でも、何もしていないと、また前と同じように、知らないふりをしているみたいで嫌なの」


その言葉に、コレットは少し考え込んだ。


ミレーヌが以前とは違う態度を見せるようになったことには、気づいていた。


以前なら、衣装や装飾品の由来を尋ねることはほとんどなかった。自分のために用意されたものなら、当然のように受け取っていたからだ。


けれど今は、使ってきたものの持ち主が本当に自分だったのかを確かめようとしている。


その変化を、コレットは軽く扱いたくなかった。


「それでしたら、お手紙のお返事を待つ間に、ミレーヌ様ご自身が覚えていらっしゃることを書き留めてはいかがでしょうか。いつ頃からお使いだったのか、どなたから渡されたのか、分かる範囲だけでも整理しておけば、あとでお話を伺う際に役立つかもしれません」


ミレーヌは顔を上げた。


「……そうね。私にも、覚えていることがあるかもしれない」


彼女は卓の引き出しから紙を取り出し、四つの品の名前を書き並べた。


最初に手に取ったのは、細い鎖のついた首飾りだった。


いつから持っていたのかを思い出そうとすると、幼い頃、母ヴァレリアが衣装を選んでくれた日のことが浮かんだ。


ただ、その時に首飾りを初めて渡されたのか、それ以前から持っていたのかは、はっきりしない。


ミレーヌは筆を止め、しばらく考えてから「幼い頃から使用。受け取った時期は不明」と書いた。


次に、銀の櫛へ目を向けた。


こちらは、以前、母の部屋で見たことがあったような気がする。


しかし、それが同じ櫛だったのか、似たものだったのかは分からない。


彼女は「母の部屋で似た品を見た記憶あり。同一品か不明」と記した。


曖昧なことばかりだった。


それでも、分からない部分を無理に埋めるより、分からないまま書いておく方がよいのだと、ミレーヌは少しずつ理解し始めていた。


「コレット、これでいいのかしら。はっきりしたことが、ほとんど書けていないけれど」


ミレーヌが不安そうに尋ねると、コレットは紙へ目を通した。


「十分でございます。覚えていないことを、覚えているように書く必要はございません。後から別の記録が見つかった時にも、こちらの方が確かめやすいと思います」


ミレーヌは静かに頷いた。


以前なら、自分が分からないことを認めるのは恥ずかしいと感じていたかもしれない。


けれど今は、知らないことを知らないままにしておく方が、ずっと怖かった。


◇ ◇ ◇


午後、ロシュフォール公爵邸の小さな応接室では、エレノアがアルフォンスから養女縁組に関する説明を受けていた。


室内には、アルフォンスとエレノアのほかに、記録を担当するエレーヌが同席している。セドリックも、エレノアから一緒にいてほしいと頼まれ、窓際の椅子へ腰を下ろしていた。


卓の上には、養女縁組に関する書類の一覧が置かれていた。


アルフォンスは一枚目を示しながら、穏やかに話し始めた。


「今日は、君がこれからどのような手続きを進めることになるのか、改めて説明しておきたいんだ。すぐに何かへ署名してもらうためではないから、分からないことがあれば途中で尋ねてほしい」


エレノアは頷いた。


「はい。よろしくお願いします」


アルフォンスは書類を一枚ずつ示し、現在までに確認が終わっていることと、これから必要になることを分けて説明した。


ベルナール伯爵家からは、養女縁組に異議を申し立てない旨の文書が提出されている。


しかし、それだけで養女縁組が成立するわけではない。


エレノア本人の意思を確認し、必要な書類を揃え、正式な手続きを進める必要がある。


その説明を聞きながら、エレノアは少しずつ、自分がこれからどのような立場になるのかを考えていた。


「叔父様、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろんだよ。何が気になったんだい?」


エレノアは少し迷ってから、書類の端へ視線を落とした。


「養女縁組が成立したら、私はロシュフォール家の娘として暮らすことになるのですよね。でも……お母様がベルナール家へ嫁がれる前に、ロシュフォール家の方だったことも、何か関係するのでしょうか」


アルフォンスは、すぐには答えなかった。


エレノアが何を気にしているのかを考え、言葉を選んでいるようだった。


「母上がこの家で育ったことは、私たちにとって大切なことだよ。けれど、君を養女として迎えたい理由は、それだけではないんだ」


アルフォンスは穏やかに続けた。


「君がここへ来てから、私たちは一緒に食事をして、話をして、少しずつ互いのことを知ってきた。君が安心して暮らせる場所を守りたいと思うのは、母上の娘だからという理由だけではない。君自身が、私たちにとって大切な家族だからだよ」


エレノアは顔を上げた。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった小さな不安が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。


母の娘だから大切にしてもらえる。


それは嬉しいことだった。


けれど、もし母がいなかったら、自分には何も残らないのではないか。


そんな考えが、心のどこかにあったのかもしれない。


(……私は、お母様の娘だけれど、それだけではないのね。叔父様たちは、今ここにいる私のことも、大切にしてくださっている)


エレノアは膝の上で重ねていた手を、少しだけ緩めた。


「ありがとうございます、叔父様。私……ロシュフォール家の皆様と一緒に暮らしたいです。これからも、ここで過ごしていきたいと思っています」


アルフォンスは静かに頷いた。


「その気持ちを聞けて嬉しいよ。私たちも、同じように思っている」


セドリックも、隣から穏やかに微笑んだ。


「エレノア、君がここで過ごしてくれることは、僕にとっても嬉しいことなんだ。だから、これから先も遠慮しすぎないでほしい。困った時には、僕にも話してね」


エレノアはセドリックへ顔を向けた。


「はい、お兄様。ありがとうございます」


そのやり取りを見守っていたエレーヌは、手元の記録用紙へ必要な事項を書き留めた。


彼女は、エレノアが以前よりも自分の意思をはっきり伝えられるようになったことに気づいていた。


この屋敷へ来たばかりの頃、エレノアは何かを尋ねられるたびに、相手が望む答えを探すような表情をしていた。


今は、言葉を選びながらも、自分がどうしたいのかを伝えようとしている。


その変化を、エレーヌは大切なものだと感じていた。


アルフォンスは説明を続け、今後の手続きでエレノア本人に確認する事項があることを伝えた。


ただし、今日の段階では新たな署名を求めない。


必要な書類が揃い、内容を十分に説明したうえで、改めて本人の意思を確認することになる。


エレノアはその話を聞き、静かに頷いた。


何かを急いで決める必要はない。


分からないことを尋ねながら、一つずつ進めていけばいい。


そのように考えられることが、彼女には嬉しかった。


◇ ◇ ◇


説明が終わったあと、エレノアは応接室に残り、アルフォンスへもう一つ尋ねたいことがあると伝えた。


セドリックとエレーヌは席を立とうとしたが、エレノアがそのまま同席してほしいと頼んだため、二人も再び椅子へ腰を下ろした。


「叔父様、昨日のモロー工房の記録についてなのですが……」


エレノアは少し緊張した様子で口を開いた。


「ベアトリスさんとナタリーさんのお名前があったと教えていただきましたよね。そのあと、何か分かったことはありますか?」


アルフォンスは頷いた。


「今日、エレーヌともう一度記録を見比べてみたんだ。受取人の名前については、昨日確認した以上のことはまだ分かっていない。ただ、衣類の数量に、少し気になる違いが見つかった」


エレノアは顔を上げた。


「数量、ですか?」


「ああ。工房の注文控えでは似た仕様の衣類が二着注文されているのに、受領簿の写しでは一着分しか確認できない箇所があるんだ」


アルフォンスは机の端に置いていた写しを取り寄せ、該当箇所を示した。


「ただし、もう一着が届けられなかったと決まったわけではない。別の日に受け渡されたのかもしれないし、受領簿の傷んだ部分に記録があった可能性もある」


エレノアは書類を見つめた。


淡い青色の子ども用外出着。


その言葉には、どこか懐かしい響きがあった。


けれど、幼い頃にどのような服を着ていたのかを、すべて覚えているわけではない。


母が選んでくれた服もあれば、屋敷の者が用意した服もあった。


その違いを、今になって正確に思い出すことは難しかった。


「……私には、同じものだったのか分かりません」


エレノアがそう言うと、アルフォンスは穏やかに頷いた。


「それでいいんだよ。君の記憶だけに頼って確かめようとしているわけではないからね。記録から分かることは、こちらで丁寧に調べていくよ」


エレノアは少し安心したように息を吐いた。


その時、エレーヌが控えめに口を開いた。


「エレノア様、もう一点だけお伝えしてもよろしいでしょうか」


「はい。お願いします」


「工房の受領簿には、受け渡しを確認するための小さな印が記されております。その印の中に、短い線が添えられているものが見つかりました」


エレーヌは二種類の印を書き写した紙を示した。


エレノアはその違いを確かめ、少し首を傾げた。


「本当に小さな違いですね。よく見ないと、同じものだと思ってしまいそうです」


「はい。現時点では、線の有無に意味があるのかどうかも分かっておりません。工房側の記入方法について、アニエス様へ問い合わせる予定でございます」


エレノアは頷いた。


以前、自分の衣類に関する紙束を開いた時にも、似たような印があったことを覚えている。


けれど、その印が何を意味するのかは、まだ分からなかった。


「叔父様、私の紙束にあった印とも、関係があるのでしょうか」


アルフォンスは少し考えてから答えた。


「可能性はあるけれど、今はまだ分からない。だから、まずは工房の記録だけで意味を確かめるつもりだよ」


そして、エレノアの表情を確かめながら続けた。


「君が開示を許可してくれた紙束についても、今のところは最初の二頁だけを確認した状態のままだ。続きを開くかどうかは、以前話した通り、君が決めていい」


エレノアは静かに頷いた。


紙束の残りには、何が書かれているのだろう。


気にならないわけではない。


けれど、今すぐ開かなければならないとも思わなかった。


昨日、工房の受領簿から新しい名前が見つかった。


今日も、記録の中に小さな違いが確認された。


調査は少しずつ進んでいる。


その一方で、自分の気持ちが追いつかないまま、すべてを明らかにしようとする必要はないのだと、エレノアは思った。


「……もう少し、工房の記録について分かってから考えたいです」


エレノアは自分の言葉で答えた。


「今は、まだ開かないでおきたいと思います」


アルフォンスは穏やかに頷いた。


「分かった。それでいいよ」


エレーヌも、記録用紙へエレノアの意思を書き留めた。


その様子を見ながら、セドリックは静かに微笑んでいた。


以前のエレノアなら、周囲の期待に応えようとして、無理にでも続きを開くと答えていたかもしれない。


けれど今は、自分がまだ望んでいないことを、はっきり伝えられるようになっている。


それは、彼にとって嬉しい変化だった。


◇ ◇ ◇


応接室での話が終わる頃には、窓の外の日差しが少し傾き始めていた。


エレノアは廊下へ出ると、セドリックと並んで歩きながら、先ほどの説明を思い返していた。


養女縁組の手続き。


皇宮からの正式な回答。


そして、衣類に関する調査。


どれも、自分のこれからに関わる大切なことだった。


けれど、以前のように、すべてを一度に考えなければならないとは感じなかった。


「お兄様、今日は一緒にいてくださって、ありがとうございました」


エレノアがそう言うと、セドリックは隣を歩きながら微笑んだ。


「どういたしまして。でも、僕はただ隣で聞いていただけだよ。自分の考えをきちんと伝えたのは、エレノア自身だからね」


エレノアは少し照れたように笑った。


「それでも、お兄様がいてくださると安心するんです。叔父様のお話を聞く時も、分からないことを尋ねる時も、一人ではないと思えるので」


セドリックは、その言葉を聞いて歩調を少し緩めた。


廊下の窓からは庭園が見え、雨上がりの花壇には小さな蝶が飛んでいる。


エレノアがこの屋敷へ来たばかりの頃、彼は何をしてあげればよいのか分からないことが多かった。


無理に話しかければ、かえって緊張させてしまうかもしれない。


かといって、何も言わずに距離を置けば、孤独を感じさせてしまうかもしれない。


その間で迷いながら、少しずつ言葉を交わしてきた。


今、エレノアは自分の意思で、隣にいてほしいと伝えてくれる。


そのことが、セドリックには何より嬉しかった。


「僕も、エレノアがそう思ってくれるなら嬉しいよ。これからも、必要な時には遠慮なく頼ってほしい」


セドリックは穏やかに答えた。


エレノアは頷き、少しだけ歩調を合わせた。


廊下の先では、リディアが午後のお茶の準備を整えていた。


エレノアはその姿を見つけると、今日の刺繍の続きを思い出した。


「そうだわ。お祖母様と、青い花の刺繍をする約束をしていたんです」


「それなら、そろそろ時間かな。昨日始めたばかりだと言っていたね」


「はい。まだ花弁が一枚しかできていないんですけれど、今日はもう少し進められたらと思っています」


セドリックは微笑んだ。


「完成したら、ぜひ見せてほしいな。アデライン叔母上も、きっと喜んでくれたと思うよ」


エレノアはその言葉に、嬉しそうに頷いた。


「はい。完成したら、最初にお祖母様とお兄様に見ていただきたいです」


セドリックは、幼い頃にアデライン叔母上が作ってくれた布袋を思い出した。


あの袋も、最初から綺麗な形だったわけではないのだろう。


一針ずつ糸を通し、少しずつ形を整えながら作られたものだったはずだ。


今、エレノアが同じように花を刺繍している。


そのことが、彼にはとても温かなものに感じられた。


◇ ◇ ◇


マルグリットの私室では、午後の日差しが窓辺の卓を明るく照らしていた。


卓の上には、昨日の図案帳と刺繍枠、それから数種類の青い糸が並べられている。マルグリットはエレノアが入室すると、手元の本を閉じて迎えた。


「いらっしゃい、エレノア。今日は少しお話が長かったようですね。疲れていませんか?」


「大丈夫です、お祖母様。叔父様に養女縁組の手続きについて説明していただいたんです。分からないことも尋ねられましたし、少し安心しました」


エレノアは椅子へ腰を下ろし、昨日の刺繍枠を手に取った。


淡い青色の花弁が一枚だけできている。


その周囲には、これから縫い進めるための薄い線が描かれていた。


マルグリットは隣から覗き込み、穏やかに微笑んだ。


「今日は二枚目の花弁を作ってみましょうか。昨日よりも少し糸の引き方に慣れているでしょうから、きっと進めやすいと思いますよ」


「はい。昨日は少し強く引いてしまったので、今日は気をつけてみます」


エレノアは針を持ち、慎重に布へ通した。


糸が引かれると、白い布の上に淡い青色の線が現れる。


マルグリットは必要な時だけ手を添え、基本的にはエレノア自身に進めさせてくれた。


しばらくすると、二枚目の花弁の輪郭が少しずつ整ってきた。


「……あら。昨日よりも、綺麗にできている気がします」


エレノアが嬉しそうに言うと、マルグリットも頷いた。


「ええ。糸の張り方が揃ってきましたね。焦らず進めれば、きっと素敵な花になりますよ」


エレノアは微笑み、もう一針進めた。


その時、マルグリットがふと昔のことを思い出したように口を開いた。


「アデラインも、刺繍を始めた頃は、糸を強く引きすぎてしまうことがありました。綺麗に仕上げようと思うほど力が入ってしまって、布が少し寄ってしまうのです」


エレノアは顔を上げた。


「お母様も、そうだったんですか?」


「ええ。けれど、何度も練習するうちに、少しずつ上手になっていきました。失敗したものも捨てずに残しておいて、あとから見比べるのが好きだったように思います」


エレノアは、今朝机の上に残してきた図案を思い出した。


最初に描いた不格好な花。


それを消さずに残しておきたいと思ったこと。


母も同じように、練習した跡を大切にしていたのかもしれない。


「……私も、昨日描いた図案を残しておこうと思っていたんです。最初の花は少し形が悪いんですけれど、あとから見たら、どれくらい上手になったのか分かる気がして」


マルグリットは、その言葉を聞いて嬉しそうに微笑んだ。


「それは素敵な考えですね。上手にできたものだけでなく、練習した時間も大切な思い出になりますから」


エレノアは頷き、再び針を動かした。


午後の静かな時間が、ゆっくりと流れていく。


窓の外では、庭師たちが雨で傷んだ花壇を整え、遠くから小鳥の鳴き声が聞こえていた。


エレノアはその音に耳を傾けながら、二枚目の花弁を少しずつ完成へ近づけていった。


◇ ◇ ◇


夕方、アルフォンスの執務室へ、エレーヌが一通の問い合わせ文書を持ってきた。


モロー工房の受領簿に記されていた小さな印について、アニエスへ確認するためのものだった。


アルフォンスは内容を読み、いくつかの表現を確かめた。


「これなら、工房側も答えやすいだろうね。受取人の名前については、すでに確認できたことだから、今回は印の意味と数量の記録方法を中心に尋ねよう」


エレーヌは頷いた。


「はい。特定の人物について疑いを向けるような表現は避け、帳簿の記入方法を確認する内容にしております」


「ありがとう。では、これで送ってほしい」


アルフォンスは文書を返した。


エレーヌは一礼し、退出しようとしたが、扉の前で足を止めた。


「閣下、もう一点だけ、ご報告してもよろしいでしょうか」


「もちろん。何だい?」


「ベルナール伯爵家へ以前送った、衣類管理帳簿の記録形式に関する問い合わせですが、現時点では正式な回答が届いておりません」


アルフォンスは静かに頷いた。


以前、伯爵家側の帳簿では、記録者と確認者の欄が別々になっていた時期があり、その後、形式が変更されたことが分かっている。


しかし、誰がその変更を認めたのか、どのような規則に基づいていたのかは、まだ確認できていなかった。


「そうか。では、今は返事を待とう。向こうでも古い記録を探している可能性があるからね」


「承知いたしました」


エレーヌは再び一礼し、執務室をあとにした。


アルフォンスは机の上の書類へ目を向けた。


皇宮からの正式な回答が届いたことで、エレノアの縁談については大きな区切りがついた。


けれど、衣類の調査はまだ続いている。


養女縁組の手続きも、これから進めなければならない。


そのどれもが、エレノアのこれからに関わることだった。


アルフォンスは書類を丁寧に揃え、窓の外へ目を向けた。


夕暮れの庭園には、柔らかな光が差し込んでいる。


その向こうに見える屋敷の一角では、エレノアが祖母と刺繍をしている頃だろう。


彼女が安心して日々を過ごせるようにすること。


そのために、自分たちができることを一つずつ進めていこう。


アルフォンスはそう考え、次の書類へ手を伸ばした。


◇ ◇ ◇


夜、エレノアは自室の机に向かい、今日の出来事を日記へ書き留めていた。


養女縁組の手続きについて、叔父から説明を受けたこと。


自分の意思を改めて伝えられたこと。


そして、母の青い花を思い浮かべながら、刺繍の二枚目の花弁を進めたこと。


書き終えると、エレノアは筆を置き、机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向けた。


その隣には、まだ完成していない青い花の刺繍枠が置かれている。


昨日よりも少しだけ、花の形がはっきりしていた。


(……私のこれからも、こんなふうに少しずつ形になっていくのかもしれないわ。急いで全部を決めなくても、今日できたことを大切にしていけばいいのね)


エレノアは静かに微笑んだ。


皇宮からの回答が届いたことで、第二王子との縁談については一つの区切りがついた。


けれど、母の遺品も、衣類の記録も、まだ分からないことが残っている。


養女縁組の手続きも、これから進めなければならない。


それでも、今のエレノアは、それらを一人で抱え込む必要がないことを知っていた。


叔父がいて、祖父母がいて、セドリックがいて、リディアたちがいる。


自分の意思を聞いてくれる人たちが、ここにはいる。


エレノアは日記を閉じ、灯りを少し落とした。


窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしている。


その音を聞きながら、彼女は明日もまた、青い花の続きを縫おうと思った。


まだ完成には遠いけれど、一針ずつ進めれば、いつか一輪の花になる。


その小さな楽しみを胸に、エレノアは穏やかな気持ちで寝台へ入った。


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