第60話 皇宮から届いた答えと、母が遺した小さな花
朝食の支度が始まるより少し前、ロシュフォール公爵邸の東側にある小さな庭園では、夜の間に降った雨の雫が、白い野ばらの葉先から静かに落ちていた。
まだ朝日が十分に届かない石畳には薄い水の膜が残り、庭師たちは花壇を踏み荒らさないように気を配りながら、折れかけた枝を支柱へ結び直している。窓を開ければ、湿った土の匂いに混じって、厨房から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
エレノアは自室の机に向かい、昨日描いた青い花の図案を眺めていた。
紙の上には、五枚の花弁を持つ小さな花がいくつも並んでいる。最初のものは花弁の大きさが揃わず、中心も少しずれていたが、描き直すうちに形が整い、最後の一輪は自分でも気に入る出来になっていた。
母アデラインが幼い頃に残した紙には、青い花を刺繍したいという願いが書かれていた。
その花がどのようなものだったのか、今も分かっていない。けれど、母が自分と同じように図案を描き、糸を選び、完成を楽しみにしていたのだと思うと、遠い昔の出来事が少し身近に感じられる。
(お母様も、最初から上手に描けたわけではなかったのかしら。お祖母様のお話では、何度も練習していらしたそうだもの)
エレノアは図案の端に、小さく日付を書き加えた。
以前なら、失敗したものを残しておくことに抵抗があっただろう。ベルナール伯爵家では、出来の悪いものを見つけられると、努力が足りないと言われることがあった。
けれど、今は最初に描いた不格好な花も消さずに残しておきたいと思った。
上達したことが分かるからだ。
その時、控えめに扉が叩かれた。
「エレノア様、お支度のお時間でございます。お入りしてもよろしいでしょうか」
「ええ、リディア。お願いするわ」
入室したリディアは、机の上の図案に気づくと、柔らかく微笑んだ。
「昨日よりも花が増えましたね。こちらの一輪は、花弁の形がとても綺麗でございます」
「ありがとう。お祖母様に教えていただいた通り、最初に中心を決めてみたの。少しずつだけれど、描けるようになってきた気がするわ」
「それは何よりでございます。お召し物も、今日は青い色になさいますか?」
リディアは衣装箱から淡い水色のドレスと、薄いクリーム色の上着を取り出した。
エレノアは二つを見比べてから、上着の袖口に施された小さな葉の刺繍へ目を向けた。
「その組み合わせがいいわ。今朝は少し寒いみたいだし、上着も着ておきたいの」
「かしこまりました。午後には暖かくなるそうですので、その時にはお脱ぎになれるようにいたしましょう」
リディアは手際よく支度を進めながら、髪に結ぶリボンの色も尋ねてくれた。
エレノアは少し考え、白いリボンを選んだ。
青いドレスに青いリボンを合わせるのも好きだったが、今日は少し違う組み合わせにしてみたかった。
鏡に映る姿を確かめると、思っていたよりも柔らかな印象になっている。
「とても素敵だわ。ありがとう、リディア」
「お気に召していただけて嬉しゅうございます」
リディアが微笑む。
エレノアも笑い返した。
この屋敷へ来たばかりの頃は、衣装を選ぶことさえ緊張していた。今では、自分の好きな色を考え、それを口にする時間が楽しみになっている。
その変化を、エレノア自身も少しずつ感じ始めていた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、アルフォンスがいつもより早く書類を確認していた。
卓の端に置かれた封筒は、食事が始まる前に家令から届けられたものらしい。アルフォンスは内容を読み終えると封筒を閉じ、隣に座るオーギュストへ短く説明していた。
「何か急ぎの知らせでもあったのかね」
「いえ、今朝の執務に関する確認です。昨日のうちに整理しておいた案件について、追加の報告がありまして」
アルフォンスはそう答え、書類を脇へ寄せた。
エレノアが席につくと、祖母マルグリットが穏やかに声をかけた。
「おはよう、エレノア。今日は青いドレスなのですね。白いリボンもよく似合っていますよ」
「ありがとうございます、お祖母様。昨日描いた花を見ていたら、青い色を着たくなったんです」
「それは素敵ですね。午後には、昨日の続きを一緒に進めましょうか」
「はい。ぜひお願いします」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
セドリックはその様子を見ながら、昨夜、自室の収納箱から見つけた小さな布袋のことを思い出していた。
母アデラインが幼い自分のために作ってくれたものだ。
長い間しまってあったため、布には少し皺がついていたが、刺繍の糸はほとんど傷んでいなかった。
今日、エレノアに見せるつもりだった。
「エレノア、午後に少し時間はあるかな」
セドリックが尋ねると、彼女は顔を上げた。
「はい、お兄様。お祖母様との刺繍が終わったあとでしたら、大丈夫だと思います」
「それなら、夕方に小さな居間へ来てもらえる? 昨日話していたものを、見つけたんだ」
エレノアの表情が明るくなった。
「もしかして、お母様が作られた布袋ですか?」
「ああ。思っていたよりも綺麗な状態で残っていたよ。君にも見てもらいたいんだ」
「嬉しいです。ぜひ見せてください」
セドリックは微笑み、頷いた。
そのやり取りを聞いていたマルグリットも、懐かしそうに目を細めた。
「あの袋が残っていたのですね。アデラインが、セドリックのために一生懸命作っていたのを覚えていますよ」
「祖母上も覚えていらしたんですね」
「ええ。何を入れても破れないようにと、縫い目を何度も確かめていました。セドリックが小さな石をたくさん集めていたものですから、丈夫に作りたかったのでしょう」
セドリックは少し照れたように笑った。
「当時の僕は、袋の中身を増やすことばかり考えていましたからね。母上がどれほど手間をかけてくれたのか、今になってようやく分かる気がします」
エレノアはその話を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
母が家族のために作ったもの。
その一つを、今日、自分も見ることができる。
朝から楽しみが増えたことが嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。
食事が進んだ頃、アルフォンスが静かに口を開いた。
「エレノア、もう一つ伝えておきたいことがあるんだ」
エレノアは叔父へ顔を向けた。
「何でしょうか、叔父様」
「以前、皇宮へ正式に通知した第二王子殿下との縁談についてだけれど、回答の文書がそろそろ届く頃だと思う。皇宮側では必要な確認を終えたと聞いているからね」
エレノアの指先が、わずかに止まった。
第二王子レオナード。
その名前を聞くと、どうしても以前の人生の記憶が胸の奥に浮かび上がる。
冷たい石の床。
人々の視線。
何度訴えても届かなかった自分の言葉。
そして、最後に見た、あの人の姿。
(……今は違う。私は、まだ婚約していない。叔父様も、私の意思をきちんと伝えてくださった)
エレノアは膝の上で手を重ね、ゆっくりと息を吐いた。
アルフォンスは彼女の表情が少し強張ったことに気づき、穏やかな声で続けた。
「まだ返事が届いたわけではないから、今すぐ何かを考える必要はないよ。文書が届いたら、まず私が内容を確認して、それから君に説明するつもりだ」
「……はい。ありがとうございます」
エレノアは小さく頷いた。
セドリックも隣から声をかけた。
「エレノア、何か心配なことがあれば、いつでも話してね。僕も父上も、君の意思を大切にしたいと思っているから」
エレノアは顔を上げた。
セドリックの表情には、無理に安心させようとするような軽さはなかった。
ただ、彼女が自分の気持ちを話せるように、静かに待ってくれている。
「ありがとうございます、お兄様。もし何かあったら、相談させてください」
セドリックは微笑んだ。
「もちろん」
そのあと、食卓では別の話題が始まった。
オーギュストが庭園の修繕について話し、マルグリットが新しく咲き始めた花のことを教えてくれた。
エレノアは少しずつ緊張を解き、温かなスープを口に運んだ。
皇宮からの返事は、まだ届いていない。
けれど、今の自分には、それを一人で待つ必要がなかった。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、ロシュフォール公爵邸の正門へ、皇宮の紋章を掲げた馬車が到着した。
門番が用件を確認すると、馬車から降りた使者は、宮内行政局からの正式な文書を届けに来たと告げた。
使者が差し出した封書には、皇宮の印章が押されている。
家令は宛名と封印を確認し、受領の手続きを行った。
その後、文書は速やかにアルフォンスの執務室へ運ばれた。
室内では、アルフォンスがエレーヌ・フォシェとともに、養女縁組に関する書類の確認を進めていた。
家令が封書を差し出すと、アルフォンスは手元の筆を置いた。
「皇宮からの正式な回答でございます」
アルフォンスは封書を受け取り、印章を確かめた。
「ありがとう。受領の記録は済んでいるかな」
「はい。所定の手続きを終えております」
「分かった。では、下がっていいよ」
家令が退出すると、アルフォンスは慎重に封を切った。
中には、整った筆跡で書かれた正式文書が収められていた。
アルフォンスは一行ずつ目を通した。
文書には、ベルナール伯爵家から第二王子レオナードとの縁談について受諾の返書が提出されていたことが記されていた。
しかし、その返書だけをもって正式な婚約が成立したとは扱わないこと。
そして、エレノア本人が縁談を望んでいないという意思表示を受け、現時点で当該縁談を進める手続きは行わないことが明記されていた。
アルフォンスは最後まで読み終え、静かに息を吐いた。
「……ようやく届いたね」
エレーヌは顔を上げた。
「内容はいかがでございましたか」
「こちらが求めていた確認は、きちんと記されている。少なくとも、伯爵家の返書だけで婚約が成立したと扱われることはない」
アルフォンスは文書をエレーヌへ示した。
エレーヌは慎重に目を通し、頷いた。
「はい。本人の意思表示についても、正式な記録として受け付けられております」
アルフォンスは椅子の背へ軽く体を預けた。
これで、エレノアの意思が皇宮の正式な文書に反映されたことになる。
ただし、すべての問題が終わったわけではない。
養女縁組の手続きは、まだ完了していない。
母の遺品や衣類についても、調査は続いている。
それでも、第二王子との縁談については、大きな区切りを迎えたと言えるだろう。
「エレノアへ伝えよう。彼女自身が、何より知りたがっていたことだからね」
アルフォンスはそう言って立ち上がった。
◇ ◇ ◇
昼前、エレノアは小さな応接室へ呼ばれた。
室内には、アルフォンスとセドリックが待っていた。
卓の上には、皇宮から届いた正式文書が置かれている。
エレノアはその封書を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。
皇宮の印章。
それは、以前の人生で何度も目にしたものだった。
第二王子の婚約者として呼び出された時も、処刑を告げられた時も、同じような印章が使われていた。
記憶の中の冷たい廊下が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
エレノアは無意識に指先を握りしめた。
「エレノア」
アルフォンスの声が、静かに響いた。
「皇宮から、正式な返事が届いたよ」
エレノアは顔を上げた。
アルフォンスは、彼女が落ち着くのを待ってから続けた。
「内容を確認したところ、君の意思が正式に受け付けられていることが分かった。第二王子殿下との婚約は成立しておらず、現時点で縁談を進める手続きも行わないと明記されている」
エレノアは息を呑んだ。
「……本当、ですか?」
「ああ。本当だよ」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「伯爵家から受諾の返書が出されていたことは記録されているけれど、それだけで婚約が成立したとは扱われない。君が望まないという意思表示も、正式に受け付けられた」
エレノアは、卓の上の文書を見つめた。
目の前にあるのは、ただの紙だった。
けれど、その紙には、自分の意思が確かに認められたことが記されている。
以前の人生では、誰も自分の言葉を聞いてくれなかった。
何を言っても、誰かが決めたことに従うしかなかった。
そして、最後には、自分の命さえ奪われた。
(……違う。今は違うのね)
エレノアは胸の奥で、何度もその言葉を繰り返した。
今の自分は、まだ十五歳だ。
第二王子との婚約は成立していない。
そして、自分はその縁談を望まないと、はっきり伝えることができた。
その意思が、皇宮の正式な文書に残された。
エレノアの目に、じわりと涙が浮かんだ。
セドリックが隣へ腰を下ろし、静かに声をかけた。
「エレノア、よかったね」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの頬を一筋の涙が伝った。
「……はい」
彼女は震える声で答えた。
「本当に……よかったです」
アルフォンスは何も急かさず、彼女が落ち着くのを待った。
エレノアは袖口で涙を拭い、もう一度文書へ目を向けた。
「叔父様……私、この書類を読んでもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。君自身に関わる大切な文書だからね」
アルフォンスは文書を彼女の前へ差し出した。
エレノアは両手で受け取り、一行ずつ読み進めた。
難しい表現もあったが、意味は理解できた。
婚約は成立していない。
本人の意思を受け付けた。
現時点で縁談を進める手続きは行わない。
その言葉を確かめるたび、胸の奥にあった冷たいものが少しずつ薄れていくように感じられた。
「……ありがとうございます、叔父様」
エレノアは顔を上げた。
「私の言葉を、きちんと届けてくださって……」
アルフォンスは首を横に振った。
「君が自分の意思を伝えてくれたからだよ。私は、その言葉を正式な形にしただけだ」
エレノアは小さく首を振った。
「それでも、叔父様がいなかったら、私はきっと……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
以前の人生のことを話すわけにはいかない。
けれど、今の自分がどれほど救われているのかは、伝えたかった。
アルフォンスは彼女の様子を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「今は、無理に言葉にしなくてもいいよ。君が安心できたなら、それが何より嬉しい」
エレノアは涙を拭いながら頷いた。
セドリックも、隣で静かに微笑んでいた。
その表情を見て、エレノアは胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
自分の意思を守ってくれる人がいる。
それは、以前の人生では想像もできなかったことだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、皇宮の一室では、第二王子レオナードが宮内行政局からの報告を受けていた。
机の上には、ロシュフォール公爵家への正式回答が発送されたことを示す記録が置かれている。
レオナードはその文書を見つめ、しばらく黙っていた。
エレノア・ベルナール。
まだ直接会ったことのない少女。
伯爵家から受諾の返書が届いていたため、縁談は進むものだと考えていた。
けれど、本人はそれを望んでいなかった。
そして、正式な婚約も成立していなかった。
「……つまり、これで縁談は進まないということか」
レオナードが尋ねると、報告に来た文官は慎重に答えた。
「はい、殿下。少なくとも現時点では、当該縁談を進める手続きは行われません」
レオナードは椅子の背へ体を預けた。
自分が拒絶された理由は、まだ分からない。
会ったこともない相手から、なぜそこまで明確に断られたのか。
その疑問は、今も残っていた。
けれど、相手が望んでいないことは事実だった。
レオナードはしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「……分かった。今は、それ以上進めるつもりはない」
文官は深く一礼した。
「承知いたしました」
報告が終わり、文官が退出すると、レオナードは窓の外へ目を向けた。
皇宮の庭園には、整えられた花壇が広がっている。
その向こうには、帝都の建物が遠くまで続いていた。
エレノアがどのような少女なのか、彼はまだ知らない。
そして、彼女が自分を恐れている理由も、知る由がなかった。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはマルグリットの私室で、青い花の刺繍を始めていた。
皇宮からの正式な返答を聞いたあと、彼女は少し疲れたような気持ちになっていた。
けれど、それは嫌な疲れではなかった。
長い間、胸の奥に張りつめていたものが、少し緩んだような感覚だった。
マルグリットは、エレノアの表情を見て、穏やかに声をかけた。
「今日は、無理に刺繍を進めなくてもいいのですよ」
エレノアは顔を上げた。
「ありがとうございます、お祖母様。でも、少し手を動かしていたいんです」
「そうですか。それなら、ゆっくり進めましょう」
マルグリットは微笑み、青い糸をいくつか並べた。
淡い空色。
少し灰色がかった青。
深い青。
エレノアはその中から、柔らかな色合いの糸を選んだ。
「この色にします」
「綺麗ですね。花弁に使うと、優しい印象になりそうです」
マルグリットは頷いた。
エレノアは刺繍枠へ布を張り、昨日描いた図案を見ながら針を動かし始めた。
最初の一針は、少し緊張した。
けれど、糸が布を通り、花弁の輪郭が少しずつ形になっていくと、自然と気持ちが落ち着いてきた。
マルグリットは隣で見守りながら、時折、針の角度や糸の引き方を教えてくれた。
「そう、そのくらいで大丈夫ですよ。あまり強く引くと、布が寄ってしまいますからね」
「はい。少し緩めにしてみます」
エレノアは頷き、もう一針進めた。
小さな花弁が、布の上に現れ始める。
まだ完成には遠い。
けれど、今のエレノアには、その途中の時間さえ楽しかった。
(お母様も、こんなふうに少しずつ花を作っていたのね)
彼女は静かに微笑んだ。
母の青い花の刺繍は、まだ見つかっていない。
けれど、自分の手で新しい青い花を作ることができる。
それは、母の思い出を辿りながら、自分自身の時間を重ねていくような感覚だった。
◇ ◇ ◇
夕方、セドリックはエレノアを小さな居間へ呼んだ。
卓の上には、生成り色の小さな布袋が置かれている。
エレノアはそれを見た瞬間、目を輝かせた。
「お兄様、これは……」
「昨日話していた、母上が僕のために作ってくれた布袋だよ。収納箱の中から見つかったんだ」
セドリックは微笑み、袋を手に取った。
布袋の表には、小さな葉と花の刺繍が施されている。
糸の色は年月を経て少し落ち着いていたが、丁寧に縫われた模様は今も綺麗に残っていた。
「……綺麗ですね」
エレノアはそっと呟いた。
セドリックは頷いた。
「子どもの頃、僕が木の実や小さな石を集めるのが好きだったから、母上が作ってくれたんだ」
エレノアは布袋を見つめた。
母が、幼いセドリックのために作ったもの。
そこには、母が家族を思う気持ちが残されているように感じられた。
「触ってもよろしいですか?」
「もちろん」
セドリックは袋を差し出した。
エレノアは両手で受け取り、刺繍の部分をそっと見つめた。
小さな花。
細い葉。
控えめな模様だったが、一針ずつ丁寧に縫われている。
「お母様は、こういう小さな花もお好きだったんですね」
「そうみたいだね。僕は当時、袋の中へ何を入れるかばかり考えていたから、刺繍のことまでは気にしていなかったんだけど」
セドリックは少し照れたように笑った。
「今になって見ると、随分と丁寧に作ってくれていたんだなと思うよ」
エレノアは頷いた。
母が作ったものに触れることができる。
その事実が、胸の奥を温かくした。
しばらくして、彼女は布袋を丁寧に返した。
「見せてくださって、ありがとうございます。とても嬉しかったです」
「こちらこそ。君に見せられてよかった」
セドリックは微笑んだ。
エレノアはもう一度、布袋の刺繍へ目を向けた。
今日、自分も青い花の刺繍を始めた。
母が作った花とは違うけれど、同じように一針ずつ形にしていくことができる。
そのことが、何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夜、ロシュフォール公爵邸の執務室では、アルフォンスが皇宮から届いた正式文書を整理していた。
エレーヌ・フォシェが作成した控えには、文書の受領日と内容の要点が記されている。
アルフォンスはそれを確認し、静かに頷いた。
「これで、縁談については一つ区切りがついたね」
エレーヌも頷いた。
「はい。本人の意思が正式に受け付けられ、婚約が成立していないことも確認されました」
「ただし、養女縁組の手続きはまだ続いている。そちらも、焦らず確実に進めていこう」
「承知いたしました」
アルフォンスは書類を閉じた。
エレノアがこの屋敷へ来てから、少しずつ状況が変わってきた。
最初は、ただ安全な場所へ迎え入れることが何より大切だった。
けれど、今はそれだけではない。
彼女自身が望む未来を選べるようにすること。
そのために必要な手続きを整え、過去の問題を一つずつ確認していくこと。
それが、今のアルフォンスにできることだった。
窓の外では、夜の庭園が静かに広がっている。
アルフォンスはその景色を見つめながら、今日のエレノアの涙を思い出した。
皇宮からの返答を読んだ時、彼女は確かに安心していた。
その姿を見られたことが、何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
同じ夜、エレノアは自室で日記を開いていた。
今日、皇宮から正式な返答が届いた。
第二王子レオナードとの婚約は成立していない。
そして、自分が縁談を望まないという意思が、正式に受け付けられた。
エレノアは筆を持ったまま、しばらく動けなかった。
以前の人生では、どれほど願っても、自分の言葉が届くことはなかった。
けれど、今は違う。
自分の意思を伝えることができた。
そして、それを守ってくれる人たちがいる。
エレノアはゆっくりと筆を動かし始めた。
『今日は、皇宮から正式なお返事が届いた』
『私は、第二王子殿下との婚約を望まないと伝えることができた』
『その意思が、きちんと受け付けられた』
そこまで書くと、胸の奥が熱くなった。
涙が一滴、紙の端へ落ちそうになり、エレノアは慌てて顔を上げた。
それから、少し笑った。
(……泣いてばかりね。でも、今日は嬉しいから、少しくらい泣いてもいいかもしれないわ)
彼女は袖口で目元を拭い、続きを書いた。
『お祖母様と青い花の刺繍を始めた』
『お兄様が、お母様の作った小さな布袋を見せてくださった』
『今日は、嬉しいことがたくさんあった』
エレノアは筆を置き、日記を閉じた。
机の横には、淡い桃色の野ばらの刺繍が飾られている。
その隣には、今日始めたばかりの青い花の刺繍枠が置かれていた。
まだ小さな花弁が一つできただけだった。
けれど、それはエレノアにとって、大切な一歩だった。
過去の恐怖が、すべて消えたわけではない。
母の遺品も、失われた衣類も、まだ見つかっていないものが多い。
養女縁組の手続きも、これから進めなければならない。
それでも、今日、自分の意思が正式に認められた。
その事実は、エレノアの心に確かな安心を残していた。
彼女は灯りを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしている。
エレノアは目を閉じる前に、静かに呟いた。
「……お母様。私、少しずつ前へ進めています」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど、彼女の胸には、確かな温かさが残っていた。
そして、その夜、エレノアは久しぶりに、何かを恐れることなく眠りについた。




