第59話 受領簿が示した、もう一人の受取人
ロシュフォール公爵邸の朝は、前夜に降った雨の名残を庭園のあちこちに留めていた。
石畳の隙間には小さな水滴が残り、花壇の葉先から落ちる雫が、朝の光を受けて淡く輝いている。窓を開ければ、湿った土と草木の匂いが部屋へ入り込み、いつもより少し冷たい空気が頬を撫でた。
エレノアは自室の窓辺に立ち、庭園を眺めていた。
昨夜、日記を書き終えてから眠るまでの間、母アデラインの幼い頃の文字が何度も頭に浮かんだ。
青い花を刺繍したいという、小さな願い。
そして、少し傾いた筆跡で書かれた母の名前。
それは、エレノアがこれまで知っていた母の姿とは違う、新しい思い出のように感じられた。
(お母様も、私と同じように、何かを作ることを楽しみにしていたのね。きっと、刺繍が上手にできた時には、お祖母様やお祖父様へ見せに行っていたのかもしれないわ)
そんなことを考えていると、背後から控えめな声が聞こえた。
「エレノア様、そろそろお支度を始めてもよろしいでしょうか」
リディアが衣装を抱えて立っていた。
エレノアは振り返り、微笑んだ。
「ええ、お願いするわ。今日は少し肌寒いみたいね」
「はい。昨夜の雨の影響でしょうか。朝方は少し冷え込んでおりますので、こちらの上着をお使いになるとよろしいかと存じます」
リディアが差し出したのは、淡いクリーム色の上着だった。
エレノアは袖口に施された控えめな刺繍へ目を向けた。
「綺麗ね。これなら、庭園へ出る時にも暖かそうだわ」
「ええ。お昼頃には気温も上がるかもしれませんが、朝のうちは羽織っておかれると安心です」
エレノアは頷き、鏡台の前へ腰を下ろした。
リディアが髪を整える間、彼女は今日の予定を考えた。
午前中は読書をして、午後にはマルグリットと刺繍をする約束がある。
そして、セドリックは昨日、母が作った小さな布袋を探してみると言ってくれていた。
見つかるかどうかは分からないが、それも楽しみだった。
エレノアは鏡に映る自分の顔を見つめ、静かに微笑んだ。
この家で迎える朝が、少しずつ当たり前のものになってきている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
◇ ◇ ◇
朝食を終えた頃、ロシュフォール公爵邸の正門へ一台の小さな馬車が到着した。
乗っていたのは、モロー工房から派遣された使いの者だった。
馬車には、丁寧に包まれた書類箱が積まれている。
それは、アニエス・モローが古い倉庫から見つけた受領簿の写しだった。
使いの者は家令へ書類箱を預け、受け渡しの確認を済ませると、再び工房へ戻っていった。
書類箱はすぐにアルフォンスの執務室へ運ばれた。
室内では、アルフォンスとエレーヌ・フォシェがすでに待っていた。
机の上には、これまで集めた衣類管理記録と、工房から提出された注文控えが並べられている。
アルフォンスは書類箱の封を確認し、エレーヌへ頷いた。
「開けてもらえるかな」
「かしこまりました」
エレーヌは丁寧に封を解き、中から数枚の写しを取り出した。
紙には、衣類の名称、受け渡しの日付、受取人の名前が記されていた。
ただし、すべての文字が鮮明というわけではない。
元の帳簿が傷んでいたため、薄くなった部分には読み取りが難しい箇所もあった。
「こちらが、現時点で確認できた部分の写しでございます」
エレーヌは資料を一枚ずつ並べた。
アルフォンスは最初の頁へ目を向けた。
そこには、ベルナール伯爵家へ届けられた衣類の記録が残っていた。
子ども用の外出着。
季節に合わせた上着。
日常用の衣類。
そして、それぞれの受け渡し欄には、名前が記されている。
最初の数件には、ベアトリス・ロランの名前があった。
それは、昨日のアニエスからの報告とも一致していた。
「ここまでは、すでに聞いていた内容だね」
アルフォンスが言うと、エレーヌは頷いた。
「はい。ですが、こちらをご覧ください」
エレーヌは次の頁を示した。
そこには、受取人の名前が変わっている記録があった。
アルフォンスは目を細めた。
「……これは」
名前の部分には、別の人物の名が記されていた。
『ナタリー・ヴェルヌ』
アルフォンスは、その名前をしばらく見つめた。
ナタリー・ヴェルヌ。
以前、ベルナール伯爵邸でヴァレリアに仕えていた侍女の名前だった。
現在は結婚して姓が変わり、ナタリー・グレイと名乗っているはずの人物である。
そして、母の木箱の移動に関する調査でも、名前が挙がっていた。
ただし、彼女が木箱を運んだ本人であると確認されたわけではない。
アルフォンスは、写しの文字へ視線を落としたまま、静かに息を吐いた。
「……ナタリーの名前が、ここにも出てきたんだね」
「はい。少なくとも、この受領簿の記録では、彼女が衣類を受け取ったことになっております」
エレーヌは慎重に答えた。
「ただし、受け取った衣類をその後どこへ運んだのか、誰へ渡したのかについては、こちらには記載されておりません」
アルフォンスは頷いた。
ナタリーが受取人として記録されている。
それは、新しく確認できた事実だった。
しかし、そこから先のことは分からない。
彼女が正当な代理人として受け取った可能性もある。
あるいは、誰かの指示によって受け取りを担当していたのかもしれない。
その判断をするには、別の記録が必要だった。
「エレーヌ、受領簿の写しに記された日付と、伯爵家の衣類管理帳簿の日付を照合してもらえるかな」
「承知いたしました」
エレーヌは別の資料を取り出し、記録を並べ始めた。
その作業は、すぐに終わるものではなかった。
受領簿と管理帳簿では、衣類の名称が異なる表記になっている場合がある。
仕立てた時の名称と、屋敷で保管する時の名称が違っていた可能性もあるため、単純に文字だけを見比べることはできない。
エレーヌは慎重に記録を確認し、同じ衣類と思われるものへ小さな印をつけていった。
しばらくして、彼女は一枚の紙をアルフォンスへ差し出した。
「閣下、こちらの記録については、同じ衣類である可能性が高いと思われます」
アルフォンスは受け取った。
工房側の受領簿には、淡い青色の子ども用外出着と記されている。
伯爵家側の管理帳簿には、似た時期に同じ特徴の外出着が記録されていた。
ただし、装飾の記載には違いがある。
「……仕立ての変更があったという衣類だね」
「はい。アニエス様が昨日お話しくださったものと、同じ注文である可能性がございます」
エレーヌは頷いた。
アルフォンスは、受取人の欄へ視線を落とした。
そこには、ナタリー・ヴェルヌの名前があった。
ただし、その衣類が現在行方不明になっているものの一つなのかどうかは、まだ確認できない。
エレノアの紙束には、衣類の記録が残っている。
しかし、開かれたのは最初の二頁だけであり、それ以降の内容は確認していない。
アルフォンスは、そこで考えを止めた。
本人の許可なく、残りの頁を開くつもりはない。
「この記録については、エレノアへ説明しておこう。ただし、彼女の紙束を開くかどうかは、改めて本人に決めてもらう」
エレーヌは頷いた。
「はい。現時点で確認できた事実と、まだ分からないことを分けて整理いたします」
アルフォンスは写しを丁寧に重ねた。
小さな記号を追うところから始まった調査は、ようやく具体的な名前へ辿り着いた。
けれど、その名前が何を意味するのかは、まだ分からない。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室で小さな手帳を開いていた。
机の上には、以前から気になっていた四つの装飾品が並べられている。
ブローチ。
銀の櫛。
刺繍入りのハンカチ。
そして、細い鎖のついた首飾り。
どれも、いつから自分の持ち物になっていたのか、はっきり覚えていない品だった。
ミレーヌは一つずつ見つめ、手帳へ書き留めた内容を読み返した。
昨日、執事へエリーズ・ダルモンの連絡先を尋ねた。
まだ返事は来ていない。
エリーズが何か覚えているかどうかも分からない。
けれど、確認できることから調べていくしかなかった。
(もし、これもお姉様のものだったら……)
その考えが浮かぶと、ミレーヌは胸の奥が重くなるのを感じた。
以前の自分なら、そんな可能性を考えることさえしなかっただろう。
母が用意してくれたものは、自分のためのものだと疑わなかった。
けれど、エレノアの衣類が本人の承諾なく仕立て直され、自分のものとして使われていたことを知ってから、そうした考え方が変わり始めていた。
ミレーヌは細い鎖の首飾りを手に取った。
小さな金具は少し古びているが、丁寧に手入れされていたことが分かる。
誰かが大切にしていたものなのかもしれない。
そう思うと、以前のように何も考えず身につけることはできなかった。
その時、扉が叩かれた。
「ミレーヌ様、執事室からご連絡がございます」
コレットの声だった。
ミレーヌは首飾りをそっと卓へ戻し、顔を上げた。
「入ってちょうだい」
コレットが入室し、丁寧に一礼した。
「昨日お尋ねになったエリーズ・ダルモンについて、退職時の記録が確認できたそうでございます」
ミレーヌは椅子から少し身を乗り出した。
「連絡先が分かったの?」
「退職時に届け出ていた住所は残っているそうです。ただ、現在もそちらにお住まいかどうかは分からないとのことでございます」
ミレーヌは少し考えた。
古い住所へ突然訪ねても、本人がいるとは限らない。
それに、退職した使用人へ一方的に事情を尋ねることが、負担にならないとも限らなかった。
「……まずは、手紙を送ってみようと思うわ」
ミレーヌがそう言うと、コレットは頷いた。
「よろしいかと存じます。ご事情を簡潔にお伝えし、お返事をいただけるかどうかお尋ねになるのがよいかと思います」
ミレーヌは手帳を閉じた。
「ありがとう、コレット。便箋を用意してもらえる?」
「かしこまりました」
コレットは一礼し、机の引き出しから便箋を取り出した。
ミレーヌは筆を手に取り、しばらく白い紙を見つめた。
何と書けばいいのだろう。
以前の侍女へ、昔の持ち物について尋ねたい。
それだけのことなのに、言葉がなかなか浮かばなかった。
けれど、今度は誰かに代わりに書いてもらうつもりはなかった。
ミレーヌはゆっくりと筆を動かし始めた。
◇ ◇ ◇
午後、ロシュフォール公爵邸の小さな応接室には、エレノアとアルフォンス、セドリックが集まっていた。
卓の上には、モロー工房から届いた受領簿の写しが置かれている。
エレノアは少し緊張した面持ちで、アルフォンスの説明を聞いていた。
「今回、工房に残っていた受領簿の一部が見つかったんだ。そこには、衣類を受け取った人の名前が記されていた」
アルフォンスは穏やかに話し始めた。
エレノアは頷いた。
「受け取った人の名前が……」
「そうだよ。最初のいくつかの記録には、ベアトリス・ロランの名前があった。そして、別の時期の記録には、ナタリー・ヴェルヌの名前が残っていた」
エレノアは目を瞬かせた。
ナタリー・ヴェルヌ。
その名前には、聞き覚えがあった。
以前、伯爵邸でヴァレリアに仕えていた侍女だったはずだ。
「ナタリーさんが、私の衣類を受け取っていたのですか?」
「少なくとも、工房の記録では、彼女が受取人として記されている。ただし、その衣類が実際に君のものだったかどうか、すべて確認できたわけではないんだ」
アルフォンスは慎重に答えた。
「それに、受け取ったあと、誰へ渡したのかも分からない。だから、彼女が何か悪いことをしたと考えるのは、まだ早い」
エレノアは静かに頷いた。
名前が出てきたからといって、その人が何かをしたとは限らない。
そのことは、これまでの調査でも何度も聞いてきた。
けれど、以前の伯爵邸で自分の衣類がどのように扱われていたのか、少しずつ分かってくることには、複雑な気持ちがあった。
「……私の服は、私が知らないところで、いろいろな人の手を通っていたんですね」
エレノアがそう呟くと、セドリックは隣から彼女を見つめた。
彼女の声には、怒りよりも戸惑いが滲んでいた。
自分のものだったはずの衣類。
けれど、それを誰が受け取り、どこへ保管し、いつ移動させたのか、自分には知らされていなかった。
セドリックは、そのことがどれほど心細いものだったのかを想像した。
「エレノア、無理に今すぐ全部を知ろうとしなくてもいいんだよ」
彼が穏やかに言うと、エレノアは顔を上げた。
「はい……。でも、少しずつなら、知っていきたいです」
セドリックは頷いた。
「それなら、僕たちも一緒に確認していこう」
エレノアは小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様」
アルフォンスは二人の様子を見守りながら、もう一つの記録について説明した。
「工房の受領簿には、淡い青色の子ども用外出着が記されているんだ。伯爵家の管理帳簿にも、似た特徴の衣類が載っている。ただし、装飾の記録に違いがあるから、同じものかどうかはまだ確定していない」
エレノアは写しへ目を向けた。
淡い青色の外出着。
幼い頃に、そんな服を持っていた記憶があるような気がした。
けれど、何年も前のことであり、はっきりとは思い出せない。
(青い外出着……。お母様が選んでくださった服だったかしら。それとも、別のものだったのかしら)
エレノアは記憶を辿ろうとしたが、曖昧な印象しか浮かばなかった。
無理に思い出そうとすると、かえって違う記憶を結びつけてしまいそうだった。
「……申し訳ありません。私には、はっきり思い出せません」
エレノアが言うと、アルフォンスは首を横に振った。
「謝る必要はないよ。昔の衣類のことを、すべて覚えている方が難しい。記録で確認できることは、記録から確かめよう」
エレノアは少し安心した。
「はい」
アルフォンスは、卓の上の資料を丁寧に揃えた。
「それから、君の紙束についてだけれど、まだ開いていない頁を今すぐ確認する必要はない。もし、今後それを見たいと思ったら、以前と同じように、君の許可を得てから進めるつもりだ」
エレノアは静かに頷いた。
以前の寝室から見つかった紙束には、まだ読んでいない部分が残っている。
そこに何が書かれているのか、気にならないわけではない。
けれど、今は工房の記録や伯爵家の管理帳簿から、新しい事実が少しずつ確認されている。
焦って開く必要はないのかもしれない。
「……もう少し、工房の記録を調べてから考えたいです」
エレノアはそう答えた。
アルフォンスは穏やかに頷いた。
「分かった。それでいいよ」
セドリックも、隣で静かに微笑んだ。
エレノアは二人の表情を見て、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
夕方、セドリックは自室の古い収納箱を開いていた。
昨日、エレノアへ話した母の作った小さな布袋を探すためだった。
箱の中には、幼い頃に使っていた木製の玩具や、古い本、思い出の品が丁寧に収められている。
セドリックは一つずつ取り出し、懐かしそうに眺めた。
母アデラインが亡くなってから、長い年月が過ぎている。
けれど、こうした品を手に取ると、幼い頃の記憶が少しずつ蘇ってくる。
やがて、箱の底に敷かれた布の下から、小さな袋が現れた。
淡い生成り色の布に、細かな刺繍が施されている。
セドリックは思わず手を止めた。
「……あった」
布袋は、長い間しまわれていたため、少し皺がついていた。
けれど、刺繍の糸はほとんど傷んでいない。
表には、小さな葉と花の模様が縫い込まれていた。
セドリックは袋を手に取り、指先でそっと布の感触を確かめた。
母が自分のために作ってくれたもの。
幼い頃は、何度も持ち歩いていたはずだ。
けれど、成長するにつれて使わなくなり、いつの間にか収納箱へしまわれていた。
セドリックはしばらく袋を見つめた。
エレノアに見せたら、きっと喜ぶだろう。
彼はそう思い、袋を丁寧に畳み直した。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室で日記を書いていた。
今日、工房の受領簿から新しい名前が確認された。
ベアトリス・ロラン。
そして、ナタリー・ヴェルヌ。
どちらも、以前の伯爵邸で働いていた人物だった。
けれど、その名前が何を意味するのかは、まだ分からない。
エレノアは筆を止め、しばらく考え込んだ。
自分の衣類が、誰かの手を通っていた。
それは当たり前のことなのかもしれない。
仕立て職人が服を作り、屋敷の使用人が受け取り、衣装室へ運ぶ。
貴族の家では、そうした仕事が分担されている。
けれど、そこから先で何が起きたのか。
なぜ、いくつもの衣類の所在が分からなくなっているのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
(私が知らなかったことは、きっとまだたくさんあるのね。でも、今は叔父様たちが一緒に確かめてくださっている。だから、少しずつ知っていけばいいのだと思う)
エレノアは静かに息を吐いた。
それから、今日の出来事を日記へ書き留めた。
母の幼い頃の文字を、もう一度見たこと。
工房の受領簿から、新しい名前が確認されたこと。
そして、まだ開いていない紙束については、もう少し考えてから決めることにしたこと。
書き終えると、エレノアは日記を閉じた。
窓の外では、雨上がりの夜空に星が見えている。
彼女は机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向け、静かに微笑んだ。
明日もまた、何か新しいことが分かるかもしれない。
けれど、今夜はそれを急いで考える必要はなかった。
エレノアは灯りを落とし、穏やかな気持ちで寝台へ入った。
窓の外では、庭園の木々が夜風に揺れている。
その音を聞きながら、彼女はゆっくりと目を閉じた。




