第58話 受領簿に残された名前と、母の筆跡を辿る午後
ロシュフォール公爵邸の朝は、庭園に降りた薄い霧が消える頃から、少しずつ賑わい始める。
厨房からは焼きたてのパンの香りが漂い、廊下では使用人たちが足音を抑えながら一日の準備を進めていた。東向きの窓から差し込む朝日はまだ柔らかく、エレノアの部屋に置かれた刺繍額の木枠を、淡い金色に染めている。
エレノアは鏡台の前に座り、リディアに髪を整えてもらいながら、昨日見つかった母の幼い頃の手紙について考えていた。
手紙と呼ぶには短く、誰かへ宛てたものでもなかった。青い花を刺繍してみたいという願いが、不揃いな文字で綴られ、最後に『アデライン』と名前が書かれていただけである。
それでも、エレノアにとっては、どんな高価な宝石よりも大切に思える発見だった。
(お母様が小さかった頃にも、楽しみにしていたことがあったのね。私が今、お祖母様と刺繍をする時間を楽しみにしているのと同じように)
鏡に映る自分の顔を見つめると、以前よりも少し表情が柔らかくなったように感じられた。
ベルナール伯爵家にいた頃、朝の支度はいつも緊張を伴うものだった。服装に問題はないか、髪が乱れていないか、食堂で何か失礼なことをしてしまわないかと、目覚めた時から気を張っていた記憶がある。
今も、そうした癖が完全になくなったわけではない。
けれど、リディアが髪を結う手つきに怯えることはなくなり、朝食の席へ向かう前に深呼吸を繰り返すことも減っていた。
「エレノア様、本日は薄い青色のリボンになさいますか。それとも、昨日お選びになった白いものをお使いになりますか?」
リディアが二本のリボンを差し出した。
エレノアは鏡越しに見比べ、少し考えてから青い方を指差した。
「今日は、こちらにするわ。昨日のお母様の文字を思い出したら、青い色を身につけたくなったの」
「よくお似合いになると思います。今朝のお召し物にも、こちらの方が柔らかい印象になりますね」
リディアは微笑み、髪の後ろでリボンを結んだ。
エレノアはその仕上がりを確かめ、満足そうに頷いた。
「ありがとう、リディア。とても気に入ったわ」
以前なら、勧められたものをそのまま受け入れていたかもしれない。
自分の好みを口にするだけのことが、今は少しずつ自然になってきている。
その変化を、リディアは鏡越しに静かに見守っていた。
支度を終える頃、扉が控えめに叩かれた。
廊下にいた使用人が、朝食の準備が整ったことを知らせに来たのだった。
エレノアは机の横に飾られた野ばらの刺繍へ一度だけ目を向け、それからリディアとともに部屋を出た。
◇ ◇ ◇
朝食の席には、アルフォンス、セドリック、オーギュスト、マルグリットが揃っていた。
エレノアが挨拶をすると、祖母はすぐに彼女の髪へ目を向けた。
「あら、今日は青いリボンなのですね。とても綺麗ですよ、エレノア」
「ありがとうございます、お祖母様。昨日、お母様の書かれた紙を見たので、今日は青い色にしたくなったんです」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたか。アデラインも、幼い頃は青い色を好んでいましたからね。あなたがその色を選んでくれたことを知ったら、きっと喜んだでしょう」
エレノアは少し照れながら席についた。
向かい側では、セドリックが穏やかな表情で二人の会話を聞いている。
「昨日見つかった紙は、父上もご覧になったんですよね」
セドリックが尋ねると、アルフォンスは頷いた。
「ああ。夕食のあと、母上に見せてもらったよ。随分と懐かしい筆跡だった」
アルフォンスは紅茶のカップを置き、遠い記憶を辿るように微笑んだ。
「アデラインは、文字を覚えたばかりの頃、自分の名前を書くのが好きだったんだ。手紙の端にも、絵の裏にも、何かと名前を書きたがってね。父上に見せるためだけに、同じ名前を何度も書いた紙を持ってきたこともあった」
オーギュストは小さく笑った。
「覚えているとも。書くたびに少しずつ形が違うものだから、本人はどれが一番上手か決めてほしかったらしい。私が一つ選ぶと、今度はもっと綺麗に書けると言って、また練習を始めるのだよ」
エレノアはその話を聞きながら、思わず頬を緩めた。
母が祖父へ何度も文字を見せに行く姿を想像すると、胸の奥が温かくなる。
「お母様は、努力家だったんですね」
「ええ。ただ、何でも真面目に取り組むというより、好きなことには夢中になる子でしたね」
マルグリットは懐かしそうに答えた。
「刺繍も、最初は思うようにできずに悔しがっていました。でも、しばらくすると、どうすれば綺麗にできるか自分で考えるようになったのですよ」
エレノアは静かに頷いた。
母の思い出が増えるたびに、彼女が遠い存在ではなく、一人の少女として身近に感じられる。
それは嬉しいことだった。
けれど同時に、もう直接話を聞くことができない寂しさもあった。
エレノアが少しだけ視線を落とすと、マルグリットは無理に言葉を重ねず、彼女の前へ置かれた皿をそっと示した。
「さあ、パンが冷めないうちにいただきましょう。今日は厨房で、少し甘いものを用意してくれたそうですよ」
皿には、小さな蜂蜜入りのパンが添えられていた。
エレノアは顔を上げ、祖母へ微笑み返した。
「はい。いただきます」
食事が進むにつれ、話題は今日の予定へ移った。
アルフォンスは午前中に書類の確認があり、午後には家の財産管理に関する報告を受けることになっているという。
セドリックは父の仕事を手伝うため、午前のうちに執務室へ顔を出す予定だった。
エレノアは自分の予定を考え、マルグリットへ尋ねた。
「お祖母様、昨日の紙について、もう少しお話を伺ってもよろしいでしょうか。青い花の刺繍が見つからなくても、お母様がどんなふうに練習していらしたのか、知りたいんです」
「もちろんですよ。午前中は少し用事がありますから、午後のお茶の前に一緒に見ましょうか」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
マルグリットは孫娘の嬉しそうな顔を見つめ、穏やかに頷いた。
その様子を見ていたアルフォンスは、ふと昨日のアニエス・モローとの話を思い出した。
衣類の記録に残された記号。
受け取りを担当する人物が途中で変わった可能性。
そして、工房側に残っているかもしれない古い受領簿。
調査は少しずつ進んでいるが、まだ確かな結論には至っていない。
アルフォンスは、今朝の食卓でその話を持ち出すことはしなかった。
エレノアには必要なことを伝えてある。
新しい事実が確認できた時に、改めて説明すればよい。
今は、彼女が家族と過ごす穏やかな時間を大切にしたかった。
◇ ◇ ◇
同じ朝、帝都セレディアの皇宮では、宮内行政局の職員たちが早くから動いていた。
長い廊下には磨き上げられた石床が続き、高い窓から差し込む光が、壁に掛けられた装飾の輪郭を浮かび上がらせている。
アドリアン・ルフェーブルは執務机の上に置かれた封書を手に取り、宛名をもう一度確認した。
ロシュフォール公爵家。
その封書には、第二王子レオナードとの縁談について、皇室としての正式な回答が収められている。
昨日までに必要な承認は揃い、文面の最終確認も終わっていた。
残るのは、正式な発送手続きだけだった。
「ルフェーブル殿、こちらの発送記録でよろしいでしょうか」
若い文官が差し出した帳簿へ、アドリアンは視線を落とした。
宛先、文書の種類、発送日。
いずれも間違いはない。
「問題ありません。受領の確認が必要な正式文書として扱ってください。到着後は、所定の手順で受領記録を戻してもらうことになります」
「承知いたしました」
文官は丁寧に一礼し、封書を受け取った。
アドリアンは、その背中を見送りながら静かに息を吐いた。
今回の縁談は、当初から複雑な事情を抱えていた。
ベルナール伯爵家からは受諾の返書が届いていたものの、エレノア本人の意思を確認した正式な記録は存在しなかった。
その後、ロシュフォール公爵家から、本人が縁談を望んでいないという明確な通知が届いた。
皇宮では、受諾の返書があったことと、正式な婚約が成立していないことを分けて確認し、回答文を整えてきた。
第二王子本人にも事情は伝えられている。
ただし、レオナードがその事実をどのように受け止め、今後どのように考えるのかまでは、アドリアンの知るところではなかった。
少なくとも、現時点で縁談の継続を求める正式な申し入れはない。
アドリアンは書類を整理し、発送済みの印を記録へ残した。
これで、皇宮からの正式回答はロシュフォール公爵家へ向けて送り出されたことになる。
まだ相手方へ届いたわけではない。
けれど、長く確認を重ねてきた手続きが、ようやく次の段階へ進んだ。
◇ ◇ ◇
昼前、ロシュフォール公爵邸の執務室へ、エレーヌ・フォシェが一通の書状を持って入ってきた。
アルフォンスは机に向かい、養女縁組に関する書類の確認を進めていたところだった。
エレーヌの表情を見ると、彼は手元の筆を置いた。
「何か分かったのかな」
「はい、閣下。モロー工房から、追加のご連絡がございました」
エレーヌは書状を差し出した。
「昨日お話に出ていた受領簿について、保管場所が確認できたそうです。ただ、古い帳簿の一部には傷みがあり、すべてを読み取れる状態ではないとのことでございます」
アルフォンスは封を開き、内容を確認した。
アニエス・モローからの手紙には、工房の古い倉庫を調べたところ、受領簿の一冊が見つかったと記されていた。
ただし、その帳簿は湿気によって一部の頁が傷んでおり、文字が薄くなっている箇所もあるという。
それでも、ベルナール伯爵家へ衣類を届けた際の記録が、いくつか残されていたらしい。
「……なるほど。完全な状態ではないけれど、手がかりにはなりそうだね」
アルフォンスは手紙を読み終え、エレーヌへ渡した。
エレーヌは内容を確かめ、静かに頷いた。
「アニエス様は、帳簿を傷めないように確認を進めていらっしゃるそうです。読み取れた部分については、写しを作成してからお届けくださるとのことでした」
「それはありがたい。古い帳簿を無理に開いて破損させてしまっては、かえって確認できることが減ってしまうからね」
アルフォンスは椅子の背へ軽く体を預けた。
昨日のアニエスの話によれば、工房では衣類の受け渡しを別の受領簿で管理していた時期があった。
注文控えに記された小さな印は、その受領簿と照合するためのものだった可能性が高い。
もし、受領簿に受取人の名前が残っていれば、少なくとも工房から伯爵邸へ衣類が渡された際、誰が受け取ったのかを確かめられる。
ただし、それだけで衣類の最終的な所在まで分かるわけではない。
受け取った人物が、そのまま保管したとは限らないからだ。
「エレーヌ、受領簿の写しが届いたら、まずは工房の注文控えと照合してほしい。そのうえで、伯爵家の管理帳簿に記載された衣類と一致するものがあるか確認しよう」
「承知いたしました」
エレーヌは手帳へ必要な事項を書き留めた。
それから、少し迷ったように顔を上げた。
「閣下、もう一点ございます」
「何だい?」
「アニエス様の書状には、読み取れた記録の一部について、受取人の名前が確認できたとございます」
アルフォンスは姿勢を正した。
「名前が分かったのか」
「はい。ただし、すべての記録ではございません。現時点で確認できたのは、特定の時期に届けられた数点の衣類についてのみです」
エレーヌは書状の一節を示した。
そこには、受取人として記された名前が、工房側の記録に残っていたと書かれている。
アルフォンスはその名前を見つめた。
『ベアトリス・ロラン』
以前、ベルナール伯爵邸で衣類の管理に関わっていた侍女の名前だった。
エレノアの母の遺品に関する調査でも、すでに名前が挙がっている人物である。
アルフォンスはしばらく黙っていた。
ベアトリスが衣類を受け取っていたこと自体は、不自然ではない。
彼女は当時、屋敷の使用人として管理業務に関わっていたのだから、仕立てた衣類を受け取る立場にあってもおかしくない。
しかし、問題はその先だった。
「この記録だけでは、ベアトリスが受け取った衣類を、そのあとどこへ保管したのかまでは分からないね」
「はい。受領簿は、あくまで工房からの引き渡しを記録したものと考えられます」
エレーヌは慎重に答えた。
「また、アニエス様のお話では、受け取りを担当する方が途中で変わった可能性があるとのことでした。その時期が、この記録の前なのか後なのかについても、まだ確認が必要でございます」
アルフォンスは頷いた。
ベアトリスの名前が残っていたことは、一つの事実だ。
けれど、それをもって彼女が衣類の紛失に関与したと決めつけることはできない。
「まずは、写しが届くのを待とう。名前が確認できたことと、衣類の所在が分かったことは別だからね」
「かしこまりました」
エレーヌは一礼した。
アルフォンスは手元の書状へ目を落とし、静かに考え込んだ。
母の遺品を巡る記録にも、衣類の管理を巡る記録にも、ベアトリスの名前が現れている。
それは、彼女が当時の管理業務に深く関わっていたことを示しているのかもしれない。
ただし、そこから先はまだ推測に過ぎなかった。
アルフォンスは書状を丁寧に畳み、別の資料と混ざらないように保管した。
今は、確かな記録を一つずつ積み重ねるしかない。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはマルグリットの私室で、昨日見つかった母の紙をもう一度見せてもらっていた。
窓際の卓には柔らかな布が敷かれ、その上に古い紙が丁寧に置かれている。
紙の端には年月による黄ばみがあり、折り目の部分は少し薄くなっていた。
マルグリットは、傷みを広げないように注意しながら、紙を広げたままにしていた。
「こうして見ると、本当に幼い頃の文字ですね」
エレノアは紙を覗き込み、微笑んだ。
文字の大きさは揃っておらず、名前の最後の部分は少し右上がりになっている。
それでも、一文字ずつ丁寧に書こうとした様子が伝わってくる。
「アデラインは、文字を書くこと自体が楽しかったのでしょうね」
マルグリットは隣の椅子へ腰を下ろした。
「この頃は、何かを覚えるたびに見せに来てくれました。刺繍の模様も、最初は紙に描いてから作ろうとしていたのですよ」
「紙に描いてから、ですか?」
「ええ。どんな形にしたいのか考えて、それを描いてみるのです。もちろん、実際に糸で作ると、思った通りにはならないことも多かったのですけれどね」
エレノアは興味深そうに頷いた。
母が刺繍の図案を描いていたという話は、初めて聞いた。
「それなら、青い花の刺繍にも、図案があったのでしょうか」
「もしかしたら、あったかもしれません。ただ、今残っているかどうかは分かりませんね」
マルグリットは少し考え込んだ。
「そういえば、あの子は刺繍の練習を始めた頃、小さな紙を何枚も使っていました。花の形を描いたものや、糸の色を書き留めたものがあったように思います」
エレノアは目を輝かせた。
「その紙も、どこかに残っているかもしれないんですね」
「ええ。ただし、すべてを保管していたわけではありませんから、見つかるとは限りませんよ」
マルグリットは優しく微笑んだ。
エレノアは頷いた。
母の青い花の刺繍を探すことは、今では単に一つの品を見つけるためだけのものではなくなっていた。
母がどんな少女だったのか。
何を好きで、何を楽しみにしていたのか。
それを知ることが、エレノアには嬉しかった。
「お祖母様、もし図案が見つからなくても、いつか私も青い花を刺繍してみたいです」
エレノアがそう言うと、マルグリットは柔らかく微笑んだ。
「それは素敵ですね。アデラインと同じ花でなくても、あなたが好きな青い花を選べばいいのですよ」
エレノアは少し考えた。
母が作った花と同じものを再現することにも憧れる。
けれど、自分が選んだ花を刺繍することにも、きっと意味があるのだろう。
「……はい。どんな花にするか、少し考えてみます」
「ええ。急がずに選びましょう」
マルグリットはそう答え、卓の上の紙へ視線を戻した。
しばらくして、エレノアは紙の端に書かれた小さな文字へ目を留めた。
「お祖母様、こちらには何と書いてあるのでしょうか」
彼女が示したのは、名前の近くに添えられた短い文字だった。
昨日は、母の名前にばかり目が向いていたため、気づかなかった部分である。
マルグリットは身を乗り出し、慎重に文字を確かめた。
「……これは、日付のようですね」
「日付、ですか?」
「ええ。おそらく、この紙を書いた日を記したのでしょう。ただ、少し文字が薄くなっていますから、正確に読み取れるかどうか……」
マルグリットは窓からの光の角度を変え、紙を傷めないように見つめた。
エレノアも隣から覗き込んだが、数字の一部は薄くなっていて、はっきりとは分からなかった。
「無理に読もうとすると、紙を傷めてしまいそうですね」
エレノアが言うと、マルグリットは頷いた。
「そうですね。必要なら、古い紙の扱いに慣れた者へ相談してみましょう」
エレノアは少し安心した。
大切な紙だからこそ、無理に確かめようとして傷つけたくはなかった。
「ありがとうございます、お祖母様」
マルグリットは微笑み、紙の端をそっと整えた。
その時、エレノアはふと母の名前へ視線を戻した。
不揃いな文字。
けれど、確かにそこには、幼い母の手が残した跡がある。
(お母様が書いた文字を、こうして私が見ているなんて……。あの頃のお母様は、いつか自分の娘がこの紙を見ることになるなんて、思ってもいなかったでしょうね)
エレノアは胸の奥に広がる温かさを感じながら、しばらくその文字を見つめていた。
◇ ◇ ◇
同じ午後、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが古い管理記録についての報告を受けていた。
執務机の前には執事が立ち、数冊の帳簿を抱えている。
昨日、ロシュフォール公爵家から届いた照会文を受け、古い衣類管理記録の確認が始まっていた。
「旦那様、当時の担当者一覧について、いくつか確認できたことがございます」
執事はそう言って、帳簿を机へ置いた。
「衣類の管理を担当していた者の名前は、一定期間ごとに記録されております。ただし、途中で管理方法が変わった時期があり、その際の指示書については、まだ見つかっておりません」
ロベルトは眉を寄せた。
「指示書がないのか」
「はい。帳簿の記入方法が変わっていることは確認できますが、誰が変更を命じたのかについては、現時点では分かりません」
ロベルトは帳簿を開いた。
古い頁には、衣類の名称や数量が比較的詳しく書かれている。
しかし、途中から記載が簡略化され、以前とは異なる形式になっていた。
それが通常の業務改善だったのか、何か別の理由があったのかは分からない。
「……この時期に、担当者が変わっているのか」
ロベルトが尋ねると、執事は頷いた。
「はい。ただし、担当者が変わったことと、記録様式の変更が同じ理由によるものかどうかは確認できておりません」
ロベルトはしばらく帳簿を見つめた。
自分が屋敷の管理を十分に把握していなかったことは、今さら否定できない。
娘の衣類についても、ほとんど関心を向けてこなかった。
それがどれほど無責任なことだったのか、こうして記録を調べるたびに思い知らされる。
「ロシュフォール家には、分かったことだけを回答する。確認できていない部分については、そのまま未確認と記してほしい」
ロベルトは静かに言った。
執事は一礼した。
「かしこまりました」
ロベルトは帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
過去を取り戻すことはできない。
それでも、今になって分かったことを隠す理由にはならなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、ロシュフォール公爵邸の庭園では、エレノアとセドリックがゆっくりと歩いていた。
昼間の暖かさが少しずつ和らぎ、花壇の周囲には柔らかな風が流れている。
エレノアは今日、祖母と母の紙を見たことを、嬉しそうに話していた。
「お母様は、刺繍をする前に図案を描いていらしたそうなんです。青い花の刺繍にも、もしかしたら図案があったかもしれません」
セドリックは隣を歩きながら頷いた。
「そうなんだ。母上らしい気がするよ」
「お兄様は、お母様が刺繍をしていらした頃のことを覚えていらっしゃいますか?」
エレノアが尋ねると、セドリックは少し考えた。
「僕が覚えている母上は、もう大人になってからの姿だからね。幼い頃の刺繍については、祖母上ほど詳しくないんだ」
「そうですよね……」
エレノアは少し残念そうに微笑んだ。
セドリックは彼女の表情を見て、穏やかに続けた。
「でも、母上が何かを作っている時のことなら覚えているよ。集中していると、周りの声に気づかないことがあったんだ」
エレノアは顔を上げた。
「お母様が?」
「ああ。僕が小さかった頃、母上が刺繍をしている隣で遊んでいたことがあるんだけど、何度呼んでも返事がなくてね。少し拗ねていたら、あとで気づいた母上が随分と謝ってくれたんだ」
セドリックは懐かしそうに笑った。
「そのあと、僕のために小さな布袋を作ってくれたんだよ。今もどこかに残っているはずだ」
エレノアは驚いた。
「そんなものがあるんですか?」
「うん。子どもの頃に使っていたものだから、今はしまってあるけれどね」
セドリックは少し照れたように微笑んだ。
「今度、探してみようか。母上の刺繍が残っているかもしれない」
エレノアの表情が明るくなった。
「ぜひ、見せていただきたいです」
「分かった。見つかったら、一緒に見よう」
二人は微笑み合い、庭園の小道を歩き続けた。
エレノアはふと、足元に咲く小さな花へ目を向けた。
淡い紫色の花が、夕方の風に揺れている。
母が幼い頃に好きだった青い花は、どんな形だったのだろう。
まだ分からない。
けれど、こうして母の思い出を知る時間が増えていくことが、今のエレノアには嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夜、アルフォンスは執務室で一日の報告を整理していた。
皇宮からの正式回答は、まだ届いていない。
ベルナール伯爵家への照会についても、返答を待っている段階だった。
しかし、モロー工房からは受領簿の存在が確認され、受取人としてベアトリス・ロランの名前が残っていたことが分かった。
アルフォンスは、その報告をもう一度読み返した。
ベアトリスは、母アデラインの遺品に関する調査でも名前が挙がっている人物だ。
彼女が当時の管理業務に関わっていたことは、複数の記録から確認できる。
ただし、そこから先のことは、まだ分からない。
衣類を受け取った人物が、紛失に関与したとは限らない。
母の木箱についても、移動の記録があることと、現在の所在が分からないことは別の問題だった。
アルフォンスは書類を閉じ、静かに息を吐いた。
焦って結論を出すことはできない。
けれど、確かな記録を積み重ねれば、少しずつ見えてくるものがあるはずだ。
その時、扉が叩かれた。
入室した家令は一礼し、明日の予定について報告した。
「アルフォンス様、明朝、モロー工房より受領簿の写しが届けられる予定でございます」
「そうか。ありがとう。届いたら、エレーヌへも知らせてほしい」
「かしこまりました」
家令が退出すると、アルフォンスは机の上の資料へ目を向けた。
明日、受領簿の写しが届けば、さらに詳しいことが分かるかもしれない。
ただし、それがどのような内容であっても、エレノアへ伝える時には慎重でありたいと思った。
彼女が知りたいことを隠すつもりはない。
けれど、推測を事実のように伝えることだけは避けなければならない。
アルフォンスはそう考え、明日の確認事項を書き留めた。
◇ ◇ ◇
同じ夜、エレノアは自室で日記を書いていた。
今日も、母の思い出を一つ知ることができた。
幼い頃に図案を描いてから刺繍をしていたこと。
好きなことに夢中になると、周囲の声が聞こえなくなることがあったこと。
そして、セドリックのために小さな布袋を作っていたこと。
エレノアは筆を動かしながら、静かに微笑んだ。
母の青い花の刺繍は、まだ見つかっていない。
けれど、母が残したものは、ほかにもたくさんあるのかもしれない。
それは高価な品とは限らない。
幼い頃に書いた紙。
子どものために作った布袋。
使い込まれた刺繍枠。
そうした小さなものの中にも、母が過ごした時間が残っている。
(お母様がどんな人だったのか、もっと知りたい。私が覚えているお母様だけではなく、幼い頃のお母様のことも……)
エレノアは日記を閉じ、机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向けた。
明日もまた、新しいことが分かるかもしれない。
衣類の記録についても、調査は続いている。
皇室からの正式な返答も、いつか届くだろう。
けれど、今夜の彼女は、まだ知らないことを無理に考え続けるのではなく、今日知ることができた母の思い出を大切にしたかった。
エレノアは灯りを落とし、静かに寝台へ入った。
窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしている。
その穏やかな音を聞きながら、彼女はゆっくりと目を閉じた。




