第57話 仕立て職人が覚えていた、消えた受取人の名前
ロシュフォール公爵邸の北側にある執務室では、朝から紙をめくる音が続いていた。
窓の外では薄い雲がゆっくりと流れ、庭園の木々が風に揺れている。机の上には、ベルナール伯爵家へ送付した照会文の控えと、仕立て職人アニエス・モローの工房から提出されていた古い注文記録が並べられていた。
アルフォンスはそのうちの一枚を手に取り、記録の右端へ書き込まれた小さな印を見つめた。
衣類の名称の横には、細い線と点を組み合わせた記号がある。
それは、エレノアの以前の寝室から見つかった紙束に記されていたものと、形が似ていた。
ただし、同じ意味を持つものかどうかは分からない。
「アニエスからの返事は、まだ届いていないのかな」
アルフォンスが尋ねると、向かい側で資料を整理していたエレーヌ・フォシェが顔を上げた。
「はい、閣下。昨日、工房へ確認の依頼をお届けしておりますので、早ければ本日中に何らかのご連絡があるかと存じます。ただ、古い記録を調べる必要がある場合は、もう少し時間がかかるかもしれません」
「急がせる必要はないよ。曖昧な記憶だけで答えてもらうより、工房に残っている資料を確かめてもらった方がいい」
エレーヌは頷き、手元の記録へ視線を戻した。
今回確認したいのは、単に記号の意味だけではなかった。
仕立てた衣類が、どのような手順でベルナール伯爵邸へ引き渡されていたのか。
受取人の名前は、どこに記録されていたのか。
そして、衣類の名称が管理帳簿へ転記される際、誰が内容を確認していたのか。
それらを一つずつ明らかにできれば、所在の分からない衣類を追うための手がかりになる可能性があった。
「閣下、一点だけ、気になることがございます」
エレーヌは古い注文控えを一枚取り出した。
「こちらの記録には、受け渡し欄の近くに印がございますが、別の時期の記録には同じ位置に印がありません。単に担当者によって記入方法が違ったのか、それとも受け渡しの手順が変わったのか、現段階では判断できません」
アルフォンスは写しを受け取り、二つの記録を見比べた。
古い方には、衣類の名称のほかに仕立ての特徴まで記されている。
一方、新しい方は名称が短く省略され、受け渡し先も簡潔にまとめられていた。
「記録の様式が変わった時期と、伯爵家の衣類管理帳簿の様式が変わった時期を比べてみる価値はありそうだね」
「はい。ただし、工房側と伯爵家側が同じ理由で変更したとは限りませんので、その点は分けて考える必要がございます」
アルフォンスは静かに頷いた。
その時、執務室の扉が控えめに叩かれた。
入室した家令は一礼すると、手にしていた小さな封書を差し出した。
「アルフォンス様、モロー工房より使いの者が参りました。アニエス・モロー本人からの書状でございます」
アルフォンスとエレーヌは顔を見合わせた。
予想していたよりも早い返答だった。
「ありがとう。使いの方には、少し待っていただくよう伝えてくれないかな。必要なら、こちらから追加の返事を預けたい」
「かしこまりました」
家令が退出すると、アルフォンスは封を切った。
中には、丁寧な筆跡で書かれた短い手紙が入っていた。
アニエスは、照会された記号について心当たりがあると記していた。
ただし、書面だけでは説明しにくい点があるため、可能であれば直接資料を確認しながら話したいという。
そして、古い注文控えを調べたところ、当時の受け渡し方法についても、いくつか確認したいことが見つかったらしい。
「……なるほど」
アルフォンスは手紙を読み終え、エレーヌへ渡した。
エレーヌは目を通すうちに、表情を少し引き締めた。
「ご本人が、直接ご説明くださるということでしょうか」
「そうだね。こちらへ来てもらう負担はあるけれど、アニエスが望むなら、話を聞く価値はありそうだ」
アルフォンスは少し考えてから続けた。
「ただし、エレノアの紙束については、これまで通り本人の許可がない部分を見せない。アニエスには、まず工房側の記録について説明してもらおう」
エレーヌは頷いた。
アルフォンスは返書を書くため、机の端に置かれた便箋を引き寄せた。
小さな記号についての確認が、思いがけず新しい話へ繋がりそうだった。
しかし、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
アルフォンスは急いで結論を求めることなく、まずはアニエスと会うための準備を始めた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、エレノアはマルグリットの私室で、古い裁縫道具を見せてもらっていた。
昨日、屋敷の保管室で見つけた刺繍枠は、母アデラインが幼い頃にも使っていたものだった。
青い花の刺繍そのものは見つからなかったが、マルグリットはその後も昔の記録を思い返し、ほかに何か残っていないか確かめていた。
今日は、長年使っていなかった小さな裁縫箱を開いてみることになっている。
窓際の丸い卓には、淡い茶色の木箱が置かれていた。
蓋には細かな花模様が彫られているが、エレノアの以前の寝室から失われた母の野ばら彫刻付きの箱とは、形も大きさも異なるものだった。
「こちらは、私が若い頃から使っていた裁縫箱なのですよ」
マルグリットはそう言いながら、蓋をゆっくり開いた。
中には、古い糸巻きや小さな鋏、針を収める細長い容器が並んでいる。
どれも丁寧に手入れされており、長い年月を経ているにもかかわらず、大切に使われていたことが伝わってきた。
「お祖母様、この鋏も昔から使っていらしたのですか?」
「ええ。アデラインが幼い頃には、すでに使っていました。ただ、あの子には少し大きかったので、子ども用の小さな鋏を別に用意したのです」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
「最初は、糸を切るだけでも随分と時間がかかっていましたよ。けれど、自分でできるようになると、何度も糸を切りたがって困ったものです」
エレノアは思わず笑った。
母にも、そんな幼い頃があったのだ。
自分が覚えている母は、いつも穏やかで、何でも上手にできる人だった。
けれど、祖母の話を聞くたびに、母も失敗したり、喜んだり、少し困ったことをしたりする普通の少女だったのだと分かってくる。
「お母様は、刺繍を始めた頃から青い花が好きだったのでしょうか」
エレノアが尋ねると、マルグリットは少し考えた。
「そうですね。青い花を選んだのは、たしか庭園で見た小さな花が気に入ったからだったと思います。ただ、どの花だったかまでは、はっきり覚えていないのです」
「そうだったんですね」
「ええ。でも、アデラインは花の色を選ぶ時、いつも随分と悩んでいました。実際の花と同じ色にしたいのに、糸の色が少し違うと、なかなか納得できなかったのですよ」
マルグリットは笑いながら、小さな糸巻きを手に取った。
「この頃の青い糸は、今のものより少し灰色がかっていたかもしれませんね」
エレノアは祖母の手元を見つめた。
淡い青色の糸が、木製の糸巻きへ丁寧に巻かれている。
それが母の刺繍に使われたものかどうかは分からない。
けれど、同じ時代の道具であるというだけで、少し特別なものに感じられた。
(お母様も、こうして糸を選んでいたのかしら。私が野ばらの色を決めた時みたいに、何度も見比べながら考えていたのかもしれないわ)
エレノアはそう思いながら、糸巻きへ視線を落とした。
その時、マルグリットが箱の底に敷かれた布を少し持ち上げた。
「あら……」
小さな声に、エレノアは顔を上げた。
「どうなさいましたか?」
「こんなところに、古い紙が残っていたのですね」
マルグリットが取り出したのは、細く折り畳まれた一枚の紙だった。
年月を経て黄ばんでおり、端には小さな折れ目がついている。
祖母は慎重に広げ、窓から差し込む光の下へ置いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
エレノアは少し身を乗り出した。
文字は細く、ところどころ線が震えている。
大人が書いた整った筆跡とは違い、まだ文字を覚え始めた子どものような、不揃いな形だった。
「……これは?」
エレノアが尋ねると、マルグリットはしばらく文字を見つめたあと、懐かしそうに微笑んだ。
「アデラインが幼い頃に書いたものだと思います」
エレノアは息を呑んだ。
「お母様の……?」
「ええ。ほら、こちらをご覧なさい。最後に名前が書いてありますでしょう」
祖母が示した紙の端には、少し傾いた文字で『アデライン』と記されていた。
エレノアはその名前を見つめた。
母の名前。
自分が何度も聞き、何度も心の中で呼んできた名前。
けれど、母が幼い頃に自分で書いた文字を見るのは、初めてだった。
「……本当に、お母様が書いたものなんですね」
エレノアの声が、僅かに震えた。
マルグリットは頷き、紙を卓の上へ置いたまま説明した。
「おそらく、刺繍の練習を始めた頃のものですね。あの子は、自分で作ったものに名前を添えたがることがありましたから」
エレノアは慎重に文字を読んだ。
短い文章には、青い花を作りたいという幼い願いが書かれていた。
綴りの一部は少し不揃いで、書き直したような跡もある。
けれど、その文字からは、一生懸命に書いた様子が伝わってきた。
「お母様は……青い花を作る前に、こんなことを書いていらしたんですね」
「そうかもしれません。ただ、この紙が実際にあの刺繍と一緒に作られたものかどうかまでは、覚えていないのです」
マルグリットは穏やかに答えた。
エレノアは頷いた。
それでも、この紙が母の幼い頃のものだという事実だけで十分だった。
彼女は紙へ手を伸ばしかけ、途中で指を止めた。
「……触っても、よろしいでしょうか」
「もちろんですよ。ただ、古い紙ですから、そっと扱ってくださいね」
エレノアは両手で紙の端を支え、文字を近くで見つめた。
幼い母が、どこかの机でこの紙に向かっていた。
小さな手で筆記具を握り、何度も文字を書き直しながら、自分の名前を残した。
その姿を想像すると、胸の奥が熱くなった。
涙がこぼれそうになり、エレノアは唇をそっと結んだ。
マルグリットは何も言わず、孫娘の隣で静かに待っていた。
しばらくして、エレノアは顔を上げた。
「お祖母様……この紙を、もう少し見ていてもいいですか?」
「ええ。今日はここに置いておきましょう。必要なら、傷まないように保護してから、また一緒に見られるようにしますね」
エレノアは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声には、先ほどよりもはっきりとした喜びが滲んでいた。
母の青い花の刺繍は、まだ見つかっていない。
けれど、母が幼い頃に残した文字が、思いがけない場所から現れた。
エレノアはその紙を見つめながら、母が自分と同じように、何かを作ることを楽しみにしていたのだと感じていた。
◇ ◇ ◇
午後のロシュフォール公爵邸には、仕立て職人アニエス・モローが訪れていた。
彼女は工房から持参した書類箱を抱え、案内された応接室でアルフォンスとエレーヌを待っていた。
アニエスは長年、貴族家の衣類を仕立ててきた職人だった。
年齢を重ねた手には細かな針傷が残り、指先には布を扱う仕事特有の硬さがある。
けれど、その動きは今も正確で、書類箱の留め具を外す仕草にも無駄がなかった。
やがてアルフォンスが入室すると、アニエスは立ち上がって一礼した。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、急なお願いに応じてくれてありがとう。古い記録について、少し確認したいことがあるんだ」
アルフォンスは穏やかに答え、席を勧めた。
エレーヌが資料を卓へ並べると、アニエスは持参した書類箱から数枚の控えを取り出した。
「まず、こちらをご覧ください。工房で保管していた注文控えでございます」
そこには、衣類の名称と仕立ての内容、受け渡しに関する記録が残されていた。
アニエスは一枚の紙を示しながら説明を始めた。
「以前は、仕立てた衣類を貴族家へ届ける際、受け取った方の名前を別の受領簿へ記しておりました。ただ、注文控えの方には、受領簿と照合するための印だけを残していた時期がございます」
エレーヌは顔を上げた。
「つまり、こちらの記号は受領簿との照合に使われていた可能性があるのですね」
「はい。少なくとも、私どもの工房ではそのように使っていた時期がございました」
アニエスは頷いた。
アルフォンスは慎重に尋ねた。
「では、この印がある衣類は、受領簿を調べれば受取人が分かるのかな」
「記録が残っていれば、分かる可能性はございます。ただし、古い受領簿の中には、すでに別の場所へ移したものもございますので、すべてを確認できるとは限りません」
アニエスは少し申し訳なさそうに答えた。
エレーヌは手元の写しへ目を落とした。
今まで意味が分からなかった印に、少なくとも工房側での用途があったことは確認できた。
ただし、エレノアの紙束に記された似た印が、同じ意味で使われていたとは限らない。
その区別を忘れてはいけなかった。
「アニエス様、こちらの印は、誰が記入していたのでしょうか」
エレーヌが尋ねると、アニエスは少し考えた。
「当時は、仕立てを担当した職人ではなく、受け渡しを管理する者が記入しておりました。ただ、担当者は何度か変わっておりますので、時期によって筆跡も違うはずです」
アニエスは持参した控えを一枚めくった。
「それから、今回お尋ねいただいた衣類の中に、少し気になるものがございました」
アルフォンスは姿勢を正した。
「聞かせてほしい」
アニエスは、子ども用の外出着に関する注文控えを示した。
「こちらの衣類は、当初の注文内容と、完成後の記録に違いがございます」
エレーヌが資料を覗き込む。
注文時の欄には、淡い青色の外出着と記されている。
しかし、完成後の欄には、別の装飾についての短い追記があった。
「これは、仕立ての途中で変更があったということでしょうか」
「その可能性がございます。ただし、誰が変更を求めたのかについては、この控えだけでは分かりません」
アニエスは慎重に答えた。
「当時の記録を調べたところ、変更の指示があったことは分かりました。しかし、その指示を伝えた人物の名前が、こちらには残されていないのです」
アルフォンスは眉を寄せた。
「名前がない?」
「はい。通常であれば、注文主か、その代理人の名前を記録いたします。ところが、この件については、変更内容だけが書き加えられておりました」
エレーヌは記録へ視線を落とした。
確かに、追記された部分には短い文章があるものの、署名らしいものは見当たらない。
「……記録の欠落でしょうか」
「その可能性もございます。ただ、当時の担当者が別の受領簿へ記録したのかもしれません」
アニエスはそう答え、少し考え込んだ。
それから、思い出したように顔を上げた。
「実は、もう一つ気になることがございます」
アルフォンスとエレーヌは、彼女へ視線を向けた。
「当時、ベルナール伯爵邸へ衣類を届ける際、受け取りを担当する方が途中で変わった記憶があるのです」
アルフォンスは静かに尋ねた。
「誰から誰へ変わったのか、覚えているかな」
アニエスは少し迷った。
「申し訳ございません。はっきりとした名前までは覚えておりません。ただ、以前は衣類の管理を担当する侍女の方が受け取っておられたのですが、ある時期から、別の方が代理で受け取ることが増えたように思います」
「別の方、というのは?」
「若い侍女の方だったと思います。ですが、何年も前のことですので、記憶だけで特定するのは危険かと存じます」
アルフォンスは頷いた。
「その判断は正しいと思う。無理に思い出してもらう必要はないよ」
アニエスは少し安心したように息を吐いた。
「ありがとうございます。ただ、受領簿が残っていれば、名前を確認できる可能性はございます」
エレーヌはすぐに筆を取り、確認事項を書き留めた。
アルフォンスは資料を見つめながら、静かに考え込んだ。
衣類の管理方法が変わった可能性。
仕立ての変更指示に名前が残されていないこと。
そして、受け取りを担当する人物が途中で変わったという記憶。
それらが、エレノアの衣類の紛失と関係しているかどうかは、まだ分からない。
しかし、調べるべき記録が一つ増えたことは確かだった。
「アニエス、受領簿について、確認できる範囲で調べてもらえるかな」
「はい。工房へ戻りましたら、古い保管記録を確認いたします」
「ありがとう。無理のない範囲で構わないよ」
アニエスは深く一礼した。
エレーヌは資料をまとめながら、もう一度確認した。
「念のため申し上げますが、今回の記号が、伯爵家の衣類管理帳簿やエレノア様の紙束に記された印と同じ意味であるとは、まだ判断できません」
アルフォンスは頷いた。
「もちろんだ。まずは工房側の記録として、確かなことだけを残しておこう」
その言葉を聞き、アニエスも静かに頷いた。
小さな記号から始まった調査は、少しずつ別の記録へ繋がり始めていた。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが執事室の前で足を止めていた。
廊下には昼下がりの光が差し込み、遠くから使用人たちの話し声が聞こえてくる。
彼女は手にした小さな手帳を見つめ、何度か呼吸を整えた。
以前の侍女エリーズ・ダルモンについて、確認したいことがある。
それだけの用事だった。
けれど、執事室へ直接足を運ぶことには、思った以上の緊張があった。
これまでのミレーヌなら、必要なことは母ヴァレリアへ頼むか、侍女へ命じて済ませていただろう。
しかし、今回は自分で確かめたいと思っていた。
エレノアの衣類が、本人の承諾なく自分のものとして使われていたことを知ってから、ほかの持ち物についても不安が消えなかった。
特に、来歴が曖昧な四つの装飾品については、誰から渡されたのかを確認する必要がある。
ミレーヌは扉を叩いた。
中から返事があり、彼女はゆっくり入室した。
「少し、お尋ねしたいことがあるのですが」
執事は驚いたように顔を上げたが、すぐに丁寧な礼を取った。
「ミレーヌ様、いかがなさいましたか」
「以前、私の侍女をしていたエリーズ・ダルモンについて、退職後の連絡先が残っているか知りたいのです」
執事は少し考えた。
「エリーズ・ダルモンでございますね。退職された使用人の記録は保管しておりますが、現在の住所まで確認できるかどうかは分かりません」
「そうですか……」
ミレーヌは手帳を握り直した。
執事は彼女の様子を見て、慎重に尋ねた。
「何か、お急ぎのご用件でしょうか」
「いいえ、急ぎではありません。ただ、以前の持ち物について、覚えていることがないか尋ねたいのです」
ミレーヌは少し迷ってから、正直に答えた。
「私がいつ、誰から受け取ったのか分からないものがあるので……」
執事はそれ以上、詳しく尋ねなかった。
「承知いたしました。記録を確認し、分かったことがございましたらお知らせいたします」
「ありがとうございます」
ミレーヌは丁寧に頭を下げた。
執事室を出ると、彼女は廊下の窓際で足を止めた。
エリーズが何か知っているとは限らない。
連絡先が残っているかどうかも分からない。
それでも、自分で尋ねることができた。
ミレーヌは手帳を開き、今日確認したことを書き留めた。
小さな行動だったが、今の彼女にとっては、以前とは違う一歩だった。
◇ ◇ ◇
夕方、ロシュフォール公爵邸の応接室では、アルフォンスがエレノアへ今日の調査について説明していた。
窓の外には柔らかな夕日が差し込み、卓の上の茶器が淡い光を反射している。
エレノアの隣にはセドリックが座り、少し離れた場所にリディアが控えていた。
アルフォンスは、アニエスから聞いた内容を整理した書面を卓へ置いた。
「エレノア、今日は仕立て職人のアニエスが来てくれたんだ。以前の衣類の記録について、いくつか分かったことがある」
エレノアは顔を上げた。
「アニエスさんが、いらしたのですか?」
「そうだよ。工房に残っている記録について、説明してもらった」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
それから、記号の意味について話し始めた。
工房側の注文控えに記された印は、別の受領簿と照合するために使われていた可能性が高いこと。
ただし、エレノアの紙束にある似た印が、同じ意味であるとは限らないこと。
そして、衣類の受け取りを担当する人物が、途中で変わった可能性があること。
エレノアは黙って耳を傾けた。
説明を聞き終えると、少し考えてから尋ねた。
「受け取りを担当する人が変わったということは、私の衣類を受け取った人も変わっていたかもしれない、ということでしょうか」
「その可能性はある。ただし、アニエス自身も名前までは覚えていないそうだ。だから、受領簿が残っているか確認してもらうことになった」
エレノアは頷いた。
「……そうなんですね」
彼女は手元の書面へ目を落とした。
以前の寝室から見つかった紙束には、まだ読んでいない部分が残っている。
その中に、衣類の移動先や受取人について何か書かれている可能性もある。
けれど、今すぐ開かなければならないとは思わなかった。
まずは、別の記録から分かることを確かめる。
そのうえで、自分の紙束をどこまで調べるか考えてもいい。
「叔父様、アニエスさんの受領簿が見つかったら、私にも教えていただけますか?」
「もちろんだよ。確認できた事実と、まだ分からないことを分けて伝える」
エレノアは少し安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
セドリックは隣でその様子を見つめていた。
エレノアがロシュフォール家へ来たばかりの頃は、何かを尋ねる前に何度も遠慮していた。
今も慎重なところは変わらない。
けれど、自分が知りたいことを、少しずつ言葉にできるようになっている。
セドリックは、その変化を嬉しく思っていた。
「エレノア、今日は祖母上と何か見つけたんだって?」
彼が話題を変えると、エレノアの表情が明るくなった。
「はい。お母様が幼い頃に書いた紙が見つかったんです」
セドリックは驚いたように目を瞬かせた。
「母上の?」
「はい。青い花の刺繍を作りたいということが書かれていて、最後にお母様のお名前がありました」
エレノアは嬉しそうに説明した。
セドリックは微笑み、アルフォンスへ視線を向けた。
「父上もご存じでしたか?」
「いや、今初めて聞いたよ」
アルフォンスは少し驚いたように答えた。
エレノアは二人の反応を見て、少し照れたように笑った。
「お祖母様が、古い裁縫箱の中から見つけてくださったんです。まだ青い花の刺繍そのものは見つかっていないんですけれど……」
「それでも、嬉しい発見だね」
セドリックがそう言うと、エレノアは頷いた。
「はい。お母様が幼い頃に書いた文字を見られるなんて、思っていませんでした」
アルフォンスは、その言葉を聞きながら静かに微笑んだ。
アデラインが幼い頃に書いた紙。
それは、彼にとっても懐かしいものだった。
妹がまだ幼かった頃、家の中には彼女の描いた絵や、練習中の文字があちこちに残されていた。
その一つが、今になって見つかったのだ。
「……私も、あとで見せてもらっていいかな」
アルフォンスが尋ねると、エレノアは嬉しそうに頷いた。
「もちろんです、叔父様」
その返事を聞き、アルフォンスの表情が少し柔らかくなった。
調査の書類だけでは分からない、妹の思い出。
それをエレノアと一緒に確かめられることが、彼にも嬉しかった。
◇ ◇ ◇
夜の皇宮では、宮内行政局の執務室に灯りが残っていた。
アドリアン・ルフェーブルは、ロシュフォール公爵家への正式回答文について、最後の確認を行っていた。
書類には必要な承認が揃い、送付の準備が整っている。
エドガール・ヴェルヌイユは内容を読み終えると、静かに頷いた。
「これでよい。明朝、正式な回答として発送しよう」
アドリアンは深く一礼した。
「承知いたしました」
エドガールは書類を閉じ、少し考えてから続けた。
「今回の件は、皇族に関わる縁談であっても、本人の意思を確認する必要があるということを、改めて示したものだな」
アドリアンは頷いた。
「はい。伯爵家からの受諾があったとしても、それだけで正式な婚約が成立したとは扱えません」
「その点を曖昧にしなかったことは重要だ。今後、同じような誤解が生じないよう、記録の扱いにも注意してほしい」
「かしこまりました」
アドリアンは書類を丁寧に封筒へ収めた。
ロシュフォール公爵家からの拒絶の書面が届いてから、いくつもの確認が行われてきた。
第二王子本人も、すでにその内容を知っている。
そして、皇室としての正式な回答が、ようやく送られることになる。
ただし、それはまだロシュフォール公爵家へ届いていない。
アドリアンは封筒を机の端へ置き、明朝の発送記録へ必要な事項を書き込んだ。
長く続いていた確認作業が、一つの区切りを迎えようとしていた。
◇ ◇ ◇
その夜、エレノアは自室の机に向かい、母の幼い頃の文字を思い返していた。
マルグリットが見つけた紙は、傷まないように保護するため、今は祖母の私室へ戻されている。
けれど、そこに書かれていた文字の形は、まだ鮮明に覚えていた。
少し傾いた『アデライン』という名前。
青い花を作りたいという、幼い願い。
それは、エレノアが知っている母の姿とは少し違っていた。
母も、何かを楽しみにしながら、未来のことを考えていた少女だったのだ。
エレノアは机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向けた。
母が幼い頃に使っていた額。
そこに収められた、自分の刺繍。
そして、まだ見つからない青い花。
それらが、少しずつ繋がっていくように感じられた。
(お母様も、何かを作ることが好きだったのね。私が今、刺繍を楽しいと思うのと同じように……)
エレノアは静かに微笑んだ。
今日、仕立ての記録についても新しい話を聞いた。
衣類を受け取る人が途中で変わった可能性があるという。
それが、自分の失われた衣類と関係しているかどうかは、まだ分からない。
けれど、少しずつ確かめられることが増えている。
エレノアは日記を開き、今日の出来事を書き留めた。
母の幼い頃の文字を見たこと。
祖母が大切に保管していた裁縫道具のこと。
そして、衣類の記録について、仕立て職人から新しい話が聞けたこと。
書き終えると、彼女は筆を置き、しばらく窓の外を眺めた。
皇室からの正式な返答は、まだ届いていない。
第二王子が自分の拒絶を知り、縁談の資料を確認したことも、エレノアは知らなかった。
けれど、今夜の彼女には、今日一日を穏やかに過ごせたという確かな実感があった。
エレノアは机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向け、静かに微笑んだ。
明日もまた、この家で朝を迎える。
そして、少しずつ自分の過去を知り、自分の未来を選んでいく。
その願いを胸に、彼女は灯りを落とした。




