第56話 母の残した青い花と、消された衣類の記録
朝の光がロシュフォール公爵邸の東側の窓を照らし始めた頃、エレノアは自室の机に向かい、昨夜の日記を読み返していた。
窓の外では庭師たちが花壇の手入れを始めており、開け放した窓からは湿った土と若葉の匂いが流れ込んでくる。昨日、祖母マルグリットと一緒に眺めた白い野ばらも、今頃は朝露をまとっているのだろう。
机の横には、母アデラインが幼い頃に使っていた木製の額が飾られていた。その中に収められた淡い桃色の野ばらは、エレノアが祖母に教わりながら刺繍したものである。
額の縁を指先でそっとなぞりながら、エレノアは昨日聞いた話を思い出した。
母が幼い頃に作った、青い花の刺繍。
それは以前、この額に収められていたという。祖母は、ほかの幼い頃の作品と一緒に箱へしまった記憶があると話してくれたが、現在の保管場所までは思い出せなかった。
(お母様が私と同じくらいの年頃になる前に作ったものなのよね。どんな花だったのかしら。もし見つかったら、私が作った野ばらと並べてみたいわ)
エレノアは想像を巡らせ、小さく微笑んだ。
母の思い出を知ることは、時に胸を締めつける。
もう二度と会えないという事実は変わらないし、幼い頃に聞いた母の声も、年月とともに少しずつ曖昧になっていた。それでも、この屋敷で母が過ごした時間に触れるたび、自分の知らなかった母の姿が少しずつ近づいてくるように感じられた。
扉が控えめに叩かれ、リディアが入室した。
「おはようございます、エレノア様。本日は少し早めにお目覚めだったのですね」
「おはよう、リディア。昨日、お祖母様から聞いたお母様の刺繍のことを考えていたの」
エレノアが額へ目を向けると、リディアもその視線を追った。
「青い花の刺繍のお話でございますね。マルグリット様も、昨日はお部屋へ戻られてから、昔の品を保管した場所についてお考えになっていたそうです」
「そうなの?」
「はい。ただ、長い年月が経っておりますので、無理に探して大切な品を傷めてしまわないよう、まずは保管記録を確認なさると伺いました」
エレノアは少し驚いた。
祖母は、昨日の話をその場限りの思い出として終わらせず、自分でも確かめようとしてくれているのだ。
「お祖母様に、無理をなさらないでくださいとお伝えしたいわ。私、すぐに見つからなくても構わないもの」
「そのお気持ちは、きっとお喜びになると思います」
リディアは微笑み、衣装棚から淡いクリーム色のドレスを取り出した。
エレノアは立ち上がり、支度を手伝ってもらいながら、今日の予定について尋ねた。
「そういえば、叔父様は今日もお忙しいのかしら」
「午前中は書類の確認があるそうですが、お昼には皆様とご一緒できると伺っております。それから、エレーヌ様が仕立ての記録について確認を進めていらっしゃるそうです」
エレノアは鏡越しにリディアを見た。
昨日、衣類の管理記録と仕立ての注文控えに、似た印が見つかったという話を聞いている。
けれど、その印が何を意味するのかは、まだ分かっていなかった。
「……何か分かったら、私にも教えていただけるのよね」
「はい。アルフォンス様も、そのようにおっしゃっておりました」
リディアは髪を丁寧に梳かしながら答えた。
エレノアは小さく頷いた。
母の刺繍も、自分の衣類も、急いで答えを出す必要はない。
それでも、調べてくれる人がいて、分かったことを自分へ伝えてくれるというだけで、以前とはまるで違う安心感があった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、マルグリットがいつもより少し楽しそうな表情をしていた。
エレノアが食堂へ入ると、祖母はすぐに彼女へ顔を向けた。
「おはよう、エレノア。昨日の青い花の刺繍について、少し思い出したことがあるのですよ」
エレノアは思わず足を止めた。
「おはようございます、お祖母様。何か分かったのですか?」
「まだ見つかったわけではありませんけれどね。あの子が幼い頃に作ったものは、私の古い裁縫道具と一緒に保管していた時期があったのです」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
「ただ、そのあと別の箱へ移した記憶もあるので、どちらに残っているのかは分からないのです。今日は、昔の保管記録を少し確認してみようと思っています」
エレノアは祖母の隣へ近づいた。
「お祖母様、私もお手伝いしてよろしいでしょうか」
「もちろん。でも、無理に探す必要はありませんよ。古い布は傷みやすいものですし、保管していた箱も、すぐに見つかるとは限りませんから」
「はい。それでも、もし一緒に探せるなら嬉しいです」
マルグリットは孫娘の顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「では、午後に少しだけ確認してみましょうか」
その約束を聞き、エレノアの胸が弾んだ。
母の刺繍が見つかるかもしれない。
そう思うだけで、今日という一日が少し特別なものに感じられた。
朝食が始まると、アルフォンスが昨日の書類について簡単に話した。
「エレノア、衣類の管理記録については、伯爵家へ追加の照会を行う準備が整ったよ。まずは、記録を作成した担当者と、記入方法が変わった理由を確認する予定だ」
「はい。ありがとうございます、叔父様」
「それから、仕立ての注文控えについても、アニエス・モローへ確認を依頼することにした。記号の意味を知っている可能性があるからね」
エレノアは頷いた。
アニエスは、以前から衣類の仕立てに関わっていた人物だ。
彼女が何かを覚えていれば、記録の意味を確かめる手がかりになるかもしれない。
「アニエスさんには、私が見つけた紙束のこともお伝えするのでしょうか」
エレノアが尋ねると、アルフォンスは首を横に振った。
「今のところ、その必要はないと思っている。まずは工房側の記録について、記号や受け渡し方法を確認するだけにするよ」
「……分かりました」
エレノアは少し安心した。
自分の手元にある紙束について、誰にどこまで知らせるか。
その判断を、今は慎重に進めてもらえている。
オーギュストも静かに頷いた。
「記録を調べる時には、相手が覚えていることと、書類に残っていることを分けて考えなければならない。何年も前のことなら、なおさらだ」
エレノアは祖父へ顔を向けた。
「はい。昨日、エレーヌさんからも似たお話を聞きました。記号が似ているだけでは、同じ意味だと決められないんですよね」
「その通りだよ」
オーギュストは満足そうに微笑んだ。
エレノアはパンを小さくちぎりながら、これまでに見つかった記録のことを思い返した。
自分の衣類について書かれているはずなのに、知らない記号や曖昧な名称が残されている。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
けれど、分からないことを確かめるための方法が、少しずつ見えてきているように感じられた。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、アルフォンスの執務室にはエレーヌ・フォシェが呼ばれていた。
机の上には、伯爵家から提出された衣類管理帳簿の写しと、アニエス・モローの工房から以前受け取った仕立ての注文控えが並べられている。
エレーヌはそれらを見比べながら、記号が添えられた箇所へ小さな紙片を挟んでいた。
「閣下、こちらの記録をご覧ください」
エレーヌが示したのは、子ども用の外出着に関する注文控えだった。
衣類の名称、仕立てを依頼した時期、受け渡しの確認欄が記されている。
その右端には、小さな線と点を組み合わせた印が添えられていた。
「この印が、エレノア様の紙束に記されていたものと似ているのですね」
アルフォンスが尋ねると、エレーヌは頷いた。
「はい。ただし、完全に一致しているわけではございません。また、工房の記録では受け渡し欄の近くに書かれておりますが、紙束の方では衣類の名称の横に記されております」
アルフォンスは写しを覗き込んだ。
確かに、形は似ている。
しかし、記号が書かれた位置は違っていた。
「同じ意味で使われていたかどうかは、まだ分からないということだね」
「その通りでございます」
エレーヌは慎重に答えた。
それから、別の紙を取り出した。
「もう一つ、確認しておきたいことがございます。工房の注文控えには、受け渡し先として『ベルナール伯爵邸』と記されておりますが、受け取った個人の名前までは書かれておりません」
アルフォンスは眉を寄せた。
「つまり、工房から伯爵邸へ渡されたことは分かっても、そのあと誰が管理したのかは分からないわけだね」
「はい。伯爵家の管理帳簿と照合できれば、もう少し詳しいことが分かる可能性はございます。ただし、現時点では、同じ衣類を指していると断定できないものもございます」
エレーヌは、二つの記録に記された名称の違いを示した。
一方には、色や装飾まで詳しく書かれている。
もう一方には、短く省略された名称しか残っていない。
その違いが単なる記入方法の変更なのか、別の衣類を示しているのかは分からなかった。
「……なるほど」
アルフォンスは静かに頷いた。
エレノアの衣類が、本人の承諾なく仕立て直されていたことは、すでに一部確認されている。
しかし、すべての衣類について同じことが起きたわけではない。
失われた品や所在不明の品についても、今の段階では一つずつ確認するしかなかった。
「アニエスへは、記号の意味と、当時の受け渡し方法について尋ねよう。それから、記録の名称が途中で変わった理由についても、覚えていることがあれば聞いてみたい」
「承知いたしました」
エレーヌは必要な事項を書き留めた。
アルフォンスは、机の上に置かれた照会文へ視線を向けた。
伯爵家へ送る書面も、すでに準備が整っている。
ただし、こちらから問いかけたからといって、正確な回答が得られるとは限らない。
それでも、何も確かめないままでは、エレノアの持ち物がどこへ行ったのか分からないままだ。
「今日中に照会文を送ろう。回答が届いたら、まずは既存の資料と照合してほしい」
「かしこまりました」
エレーヌは深く一礼した。
アルフォンスは書類を閉じ、窓の外へ目を向けた。
庭園では、使用人たちが昼の準備を進めている。
エレノアは今頃、マルグリットと午後の約束を楽しみにしているだろう。
その穏やかな時間を守りながら、必要な調査を進めていきたい。
アルフォンスはそう考え、書類へ署名した。
◇ ◇ ◇
皇宮の宮内行政局では、ロシュフォール公爵家への回答文について、最終承認の確認が行われていた。
アドリアン・ルフェーブルは書類を整え、上席文官エドガール・ヴェルヌイユへ提出した。
そこには、エレノア・ベルナール本人が第二王子レオナードとの婚約を望んでいないこと、正式な婚約が成立していないこと、そして今後の縁談について本人の意思を無視して進めることはできないという前提が明記されている。
エドガールは文面を読み進め、最後の頁で手を止めた。
「この表現なら、誤解を招くおそれは少ないだろう」
アドリアンは頷いた。
「はい。伯爵家からの受諾の返書が存在することと、正式な婚約が成立していないことを明確に分けております」
「第二王子殿下への報告も済んでいるのだな?」
「はい。殿下は現在の記録を確認されております。縁談の継続を求める正式な申し入れも、現時点ではございません」
エドガールは静かに頷いた。
皇族に関わる縁談である以上、手続きには慎重さが求められる。
しかし、慎重であることと、回答を不必要に遅らせることは違う。
相手方は、すでに明確な意思を伝えている。
その意思を受け取った以上、皇室としての立場を示す必要があった。
「では、所定の承認手続きを進めよう。確認が完了すれば、正式な回答として送付する」
「承知いたしました」
アドリアンは深く一礼した。
書類は、次の確認へ回されることになった。
まだロシュフォール公爵家へ返答が届いたわけではない。
けれど、皇宮の中では、少しずつ結論へ向けた手続きが進んでいた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはマルグリットとともに、屋敷の奥にある小さな保管室へ向かっていた。
そこは、日常的に使用する衣類や食器を置く場所ではなく、家族の古い品や、季節によって使わなくなった道具を保管するための部屋だった。
廊下の突き当たりにある扉を開けると、乾いた木の匂いが漂ってきた。
室内には背の高い棚が並び、大小さまざまな箱が整然と収められている。
窓は小さく、日差しが直接入らないようになっていた。
「こちらへ来るのは久しぶりですね」
マルグリットは室内を見渡し、懐かしそうに微笑んだ。
エレノアは祖母の隣に立ち、棚に並ぶ箱を眺めた。
「こんなにたくさんの箱があるんですね」
「ええ。古い手紙や裁縫道具、それから子どもたちが幼い頃に使っていたものなど、いろいろな品が保管されているのですよ」
マルグリットは一つの棚へ近づいた。
そこには、古い木箱がいくつか並べられている。
箱の側面には小さな札が取り付けられており、保管した品の種類が書かれていた。
「確か、この辺りだったと思うのですけれど……」
マルグリットは札を一つずつ確かめた。
エレノアも隣で手伝おうとしたが、祖母は優しく首を横に振った。
「重い箱は使用人にお願いしましょう。古いものは思った以上に重いことがありますから」
「はい。では、私は札を読むお手伝いをします」
「ありがとう。それなら助かります」
二人は棚に並ぶ札を一つずつ確認していった。
古い裁縫道具。
子ども用の手袋。
使わなくなった小さな帽子。
季節の飾り。
さまざまな品の名前が並んでいる。
エレノアはその中に、母の名前がないか探した。
しかし、すぐには見つからなかった。
「……お祖母様、こちらの箱には何が入っているのでしょうか」
エレノアが指差したのは、棚の下段に置かれた細長い木箱だった。
札には『古い刺繍道具』と書かれている。
マルグリットはその札を見て、少し考え込んだ。
「そうですね。これは、私が若い頃に使っていた道具をしまった箱だったと思います」
エレノアは箱へ目を向けた。
母の刺繍が入っているかどうかは分からない。
けれど、祖母が以前使っていた道具なら、母も触れたことがあるかもしれない。
「開けてみてもいいでしょうか」
「ええ。少し確認してみましょう」
マルグリットが使用人へ声をかけると、箱は慎重に棚から下ろされた。
小卓の上へ置かれた箱を開くと、中には布で包まれた古い刺繍枠や糸巻き、針を収める小さな容器が入っていた。
エレノアは興味深そうに中を覗き込んだ。
どれも長い年月を経た品で、木の表面には細かな傷がついている。
けれど、大切に保管されていたことが分かるほど、丁寧に布で包まれていた。
「懐かしいわ……」
マルグリットは小さな刺繍枠を手に取り、柔らかく微笑んだ。
「これは、アデラインがまだ幼かった頃、私が使っていたものです。あの子は、私が刺繍をしていると、よく隣へ座って眺めていました」
エレノアは祖母の手元を見つめた。
「お母様も、この刺繍枠を使ったことがあるのでしょうか」
「ええ。最初の頃は自分の枠を持っていなかったので、私のものを貸していたのですよ」
マルグリットは小さく笑った。
「針を動かすのが楽しかったのでしょうね。上手にできなくても、何度も挑戦していました」
エレノアはその話を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
母も、自分と同じように刺繍を練習していた。
失敗したり、うまくできなかったりしながら、少しずつ覚えていったのだろう。
「……私も、最初はなかなか上手にできませんでした」
「そうでしたね。でも、今では綺麗な野ばらを作れるようになりました」
マルグリットは優しく微笑んだ。
エレノアは照れたように笑い、箱の中へ視線を戻した。
しかし、青い花の刺繍らしいものは見当たらなかった。
マルグリットも一つずつ品を確かめたが、やがて静かに首を横に振った。
「ここにはないようですね」
エレノアは少し残念に思ったものの、すぐに微笑んだ。
「でも、お母様が使っていた道具を見ることができました。それだけでも嬉しいです」
マルグリットは孫娘の顔を見つめた。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
二人は道具を丁寧に戻し、箱の蓋を閉じた。
その時、マルグリットがふと別の棚へ目を向けた。
「……そういえば」
エレノアは祖母を見た。
「どうなさいましたか?」
「アデラインが結婚する前に、子どもの頃の品を整理したことがあったのです。その時、刺繍や絵を一緒にまとめた箱を作ったような気がします」
マルグリットは記憶を辿るように、ゆっくり言葉を続けた。
「確か、木箱ではなく、布張りの箱だったかしら。あの子が自分で選んだ、淡い色の布を使ったものだったと思います」
エレノアの胸が高鳴った。
「その箱は、こちらにあるのでしょうか」
「分かりません。ただ、ここに見当たらないなら、別の保管室へ移した可能性もありますね」
マルグリットはそう言って、少し考え込んだ。
エレノアは祖母の表情を見つめ、静かに頷いた。
「それなら、今日はここまでにしましょう。お祖母様もお疲れでしょうし、また別の日に確認できれば嬉しいです」
マルグリットは柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、エレノア。あなたは本当に優しい子ですね」
エレノアは少し照れたように首を横に振った。
「そんなことはありません。ただ、私もお祖母様と一緒に探す時間が楽しいんです」
その言葉に、マルグリットの目元が少し柔らかくなった。
母の残した刺繍は、まだ見つからない。
けれど、探している間にも、新しい思い出が増えている。
エレノアはそのことを、静かに嬉しく思った。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが執務室で新しい書面を受け取っていた。
差出人はロシュフォール公爵家。
封を開くと、中には衣類管理記録についての追加照会が入っていた。
ロベルトは文面を読み進め、眉を寄せた。
当時の衣類管理を担当していた者の一覧。
記録様式の変更に関する指示書。
そして、記入規則の変更があったかどうかの確認。
いずれも、過去の管理状況を確かめるための内容だった。
しかし、ロベルト自身には、その詳細が分からなかった。
(……私は、あの子の衣類がどのように管理されていたのか、ほとんど知らなかったのか)
その事実を改めて突きつけられたように感じ、ロベルトは書面を机へ置いた。
以前は、屋敷の管理はヴァレリアや使用人たちに任せておけばよいと思っていた。
娘の衣類が何着あるのか。
どのような品を持っているのか。
誰が管理しているのか。
そうしたことを、自分から確かめたことはほとんどなかった。
しかし、今になって、失われた品や記録の不一致が次々と明らかになっている。
ロベルトは深く息を吐いた。
書面には、エレノア本人への直接連絡を求める内容はない。
あくまで、伯爵家が保管している記録についての照会だった。
彼はしばらく考えたあと、執事を呼ぶための鈴を鳴らした。
やがて扉が開き、執事が入室した。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「衣類管理の古い記録を確認したい。過去の担当者一覧と、帳簿の記入方法を変更した際の指示書が残っているか調べてくれ」
執事は一礼した。
「かしこまりました。ただ、古い記録の中には、保管場所が変更されているものもございます。確認には少々お時間をいただくかもしれません」
「構わない。分かったことから報告してほしい」
ロベルトはそう答え、書面を差し出した。
執事は内容を確認し、再び一礼して退出した。
扉が閉まると、ロベルトは椅子へ深く腰を下ろした。
エレノアは、もうこの屋敷にいない。
そして、自分へ直接連絡することも望んでいない。
そのことを理解しているつもりだった。
けれど、彼女が残していった問題を調べるたび、自分がどれほど娘のことを知らなかったのかを思い知らされる。
ロベルトは机の上の書面へ目を向けた。
今さら何をしても、過去が変わるわけではない。
それでも、少なくとも記録を隠したり、曖昧なまま放置したりすることだけは避けなければならないと思った。
◇ ◇ ◇
夕方、ロシュフォール公爵邸では、エレノアが自室で刺繍の続きを進めていた。
窓の外では、庭園の木々が夕日に照らされ、長い影を落としている。
今日の午後、祖母と一緒に古い保管室を訪れたことが、まだ心に残っていた。
母の青い花の刺繍は見つからなかった。
けれど、母が幼い頃に使っていた刺繍枠を見ることができた。
それだけでも、エレノアには大切な時間だった。
針を動かしながら、彼女は母のことを考えた。
アデラインも、幼い頃に祖母の隣で刺繍をしていた。
失敗しながら、何度も挑戦していた。
その話を聞いた時、母が少し身近に感じられた。
(お母様も、最初から何でも上手にできたわけではなかったのね)
エレノアは小さく微笑んだ。
以前の自分は、失敗することが怖かった。
何かを間違えれば、叱られる。
うまくできなければ、役に立たないと思われる。
そんな不安が、いつも胸の奥にあった。
けれど、今は違う。
刺繍の形が少し崩れても、祖母は笑って教えてくれる。
分からないことがあれば、何度でも聞いていいと言ってくれる。
その優しさに触れるたび、エレノアは少しずつ肩の力を抜けるようになっていた。
扉が叩かれ、リディアが入室した。
「エレノア様、そろそろ夕食のお時間でございます」
「ありがとう、リディア。今、ちょうど一区切りついたところなの」
エレノアは刺繍枠を置き、手元を見つめた。
小さな葉の模様が、少しずつ形になっている。
まだ完成には遠い。
けれど、昨日よりも針の動きが滑らかになったように感じられた。
「とても綺麗でございますね」
リディアが微笑むと、エレノアは少し照れたように笑った。
「ありがとう。でも、まだ練習中なの。もう少し上手になったら、お祖母様にも見ていただこうと思っているわ」
「きっとお喜びになります」
エレノアは頷き、刺繍道具を丁寧に片づけた。
夕食のために部屋を出る前、机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向けた。
母の額。
自分の野ばら。
そして、まだ見つからない青い花。
それらがいつか一つの場所に並ぶ日が来るかもしれない。
そう考えると、胸の奥が温かくなった。
◇ ◇ ◇
夜、アルフォンスは執務室で一日の報告を確認していた。
伯爵家への照会文は送付済み。
アニエス・モローへの確認依頼も準備が整っている。
そして、マルグリットが古い保管室でアデラインの幼少期の刺繍を探し始めたことも、使用人から簡単に報告されていた。
アルフォンスは書類を閉じ、しばらく考え込んだ。
エレノアがこの屋敷へ来てから、少しずつ変わってきたことがある。
最初の頃は、何かを望むことさえ遠慮していた。
自分の希望を口にする前に、周囲の顔色を窺っていた。
けれど、最近は、自分から調べたいことを伝えたり、祖母と一緒に過ごす時間を楽しみにしたりするようになっている。
その変化が、アルフォンスには嬉しかった。
ただ、同時に忘れてはいけないこともある。
彼女の過去には、まだ分からないことが多い。
母の遺品がどこへ行ったのか。
衣類がどのように扱われていたのか。
そして、彼女があの屋敷でどれほどの不安を抱えていたのか。
すべてをすぐに知ることはできない。
それでも、彼女が望むなら、一つずつ確かめていきたい。
アルフォンスは窓の外へ目を向けた。
夜の庭園には、静かな月明かりが落ちている。
明日もまた、エレノアが安心して朝を迎えられるように。
そのために、自分ができることを続けていこうと思った。
◇ ◇ ◇
同じ夜、エレノアは自室の机に向かい、日記を開いていた。
今日も、いろいろなことがあった。
朝には、衣類の記録について叔父から説明を受けた。
午後には、祖母と一緒に古い保管室を訪れた。
母の青い花の刺繍は見つからなかったけれど、母が幼い頃に使っていた刺繍枠を見ることができた。
エレノアは筆を取り、ゆっくり文字を書き始めた。
『今日は、お祖母様と一緒に、お母様の刺繍を探した』
『青い花はまだ見つからなかったけれど、お母様が使っていた刺繍枠を見ることができた』
そこまで書くと、エレノアは少し考えた。
母の思い出は、失われたものばかりではない。
この屋敷には、母が過ごした時間が確かに残っている。
祖母の言葉の中にも、古い道具の中にも、庭園の花の中にも。
それらを一つずつ知ることができるのは、今の自分にとって大切なことだった。
『いつか、お母様の青い花の刺繍も見つかったら嬉しい』
エレノアは最後にそう書き加え、筆を置いた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
皇室からの正式な返答は、まだ届いていない。
第二王子が自分の拒絶を知り、縁談の資料を確認したことも、エレノアは知らなかった。
けれど、今夜の彼女には、今日一日を穏やかに過ごせたという確かな実感があった。
エレノアは机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向け、静かに微笑んだ。
明日もまた、この家で朝を迎える。
そして、少しずつ自分の過去を知り、自分の未来を選んでいく。
その願いを胸に、彼女は灯りを落とした。




