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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第55話 母の筆跡が残した、小さな手がかり



ロシュフォール公爵邸の朝は、厨房から漂ってくる焼きたてのパンの香りとともに始まった。


エレノアが食堂へ入ると、長い食卓の向こうではオーギュストが庭園の管理報告を読み、マルグリットが新しく届いた花の苗についてセドリックと話していた。窓の外には薄い雲が広がっていたが、昨日まで続いていた雨の気配はすっかり消え、庭師たちが朝早くから花壇の手入れを進めている。


「おはようございます、お祖父様、お祖母様、お兄様」


エレノアが挨拶すると、三人はそれぞれ顔を上げた。


「おはよう、エレノア。今日はよく晴れそうだね。午後には庭を歩くのも気持ちがいいだろう」


オーギュストがそう言うと、マルグリットも微笑んだ。


「南側の花壇で、白い野ばらが咲き始めたそうですよ。昨日の雨で傷んでいなければ、あとで一緒に見に行きましょうか」


「はい、ぜひ。私、白い野ばらも好きです」


エレノアは嬉しそうに答え、リディアが引いてくれた椅子へ腰を下ろした。


母が幼い頃に使っていた額へ、自分の刺繍を収めてからというもの、野ばらを見るたびに以前とは違う気持ちが生まれるようになっていた。花そのものの美しさだけでなく、母がこの屋敷で過ごした時間や、祖母と一緒に額を選んだ日のことまで思い出されるのだ。


少し遅れて、アルフォンスが食堂へ入ってきた。


「おはよう。待たせてしまったかな」


「いいえ、叔父様。私も今来たところです」


エレノアが答えると、アルフォンスは彼女の顔を見て、穏やかに微笑んだ。


朝食が始まり、しばらくは庭園の花や今日の天気について話が続いた。セドリックが昨日読んでいた本の話をすると、オーギュストがその著者について昔の思い出を語り始め、エレノアも興味深く耳を傾けた。


やがて食事が一段落した頃、アルフォンスがナプキンを置いた。


「エレノア、昨日の衣類管理記録について、エレーヌから追加の相談を受けているんだ。少し話してもいいかな」


「はい、叔父様」


「昨日確認した、管理記録の形式が途中で変わっている件だよ。伯爵家へ当時の担当者や記録方法について照会する準備を進めている。ただ、その前に、お前へ説明しておきたいことがあるんだ」


エレノアは自然と背筋を伸ばした。


以前の寝室から見つかった紙束には、自分の衣類に関する記録が含まれていた。最初の二枚を確認したところ、品名や数量、意味の分からない記号が書かれており、その一部が古い衣類管理帳簿の記号と似ていることも分かっている。


けれど、何を意味するのかはまだ不明だった。


「何か、新しいことが分かったのでしょうか」


「新しい結論が出たわけではないよ。ただ、照会の仕方によっては、伯爵家の人間が私たちの調べている内容を推測する可能性がある。だから、どこまで知らせるかを慎重に決めたいと思っているんだ」


アルフォンスは言葉を選びながら続けた。


「今のところ、紙束そのものを伯爵家へ見せるつもりはない。お前が確認を許可した最初の二枚についても、必要以上に内容を伝えることは避ける。まずは、伯爵家が本来保管しているはずの管理資料について尋ねるつもりだよ」


エレノアは少し考えた。


父ロベルトが、どこまで自分の衣類について把握しているのかは分からない。


ヴァレリアやベアトリスが、どのような説明をするのかも分からなかった。


ただ、伯爵家へ照会することで、何かが動き始めるかもしれないということは理解できた。


「叔父様、もし伯爵家から、私が見つけた紙束について尋ねられたら、どうするのでしょうか」


「その時は、必要な範囲で回答するかどうかを改めて判断する。少なくとも、お前に無断で未確認の内容を伝えることはしないよ」


「……ありがとうございます」


エレノアは小さく息を吐いた。


アルフォンスは彼女の表情を確かめ、少し声を和らげた。


「今日すぐに何かを決めてもらう必要はない。ただ、調査の進め方について、お前が不安に思うことがあれば聞いておきたいんだ」


エレノアは手元の紅茶へ目を落とした。


伯爵家から離れた今も、あの家の人々の名前を聞くだけで、胸の奥が緊張することがある。


けれど、母の遺品や自分の衣類について、何も確かめずに終わらせたいわけではなかった。


「私は、調べていただきたいです。でも……父やヴァレリア様から、私に直接連絡が来るのは、まだ怖いです」


アルフォンスはすぐに頷いた。


「分かった。以前に取り決めた通り、直接の連絡は受け付けない。必要なやり取りは、こちらを通すよ」


セドリックも静かに言葉を添えた。


「エレノアが伯爵家へ説明しに行く必要はないし、向こうから何かを求められても、君一人で対応することにはならないよ」


エレノアは二人を見つめ、ゆっくり頷いた。


「はい。それなら、私も安心して調査をお願いできます」


マルグリットは、孫娘がそう答えるまで黙って見守っていた。


そして、エレノアが紅茶を口に運んだところで、柔らかく微笑んだ。


「では、難しいお話はひとまずここまでにしましょう。午後の野ばらの約束まで、書類のことばかり考えていてはもったいないですもの」


その言葉に、エレノアも小さく笑った。


調べるべきことがあるからといって、楽しい時間をすべて後回しにしなくてもいい。


そう思えるようになったことが、今の彼女には嬉しかった。


◇ ◇ ◇


午前の執務室では、エレーヌ・フォシェが新しい照会文の草案を確認していた。


机の上には、ベルナール伯爵家から提出された衣類管理資料の写しが広げられている。その横には、以前の寝室から見つかった紙束のうち、エレノアが確認を許可した最初の二枚について作成した転記記録が置かれていた。


エレーヌは二つの資料を見比べながら、筆記具を動かした。


今回の調査で気になっているのは、記号そのものだけではない。


衣類の名称を記す方法が途中で変わっていること。


担当者の署名がある記録と、ない記録が混在していること。


そして、一部の記録に『ロラン』という姓だけが残されていることだった。


ロランという姓からは、ベルナール伯爵邸の侍女長ベアトリス・ロランが思い浮かぶ。


しかし、同じ姓を持つ別人が記録を作成した可能性もあり、現時点では断定できない。


「エレーヌ、照会文はまとまりそうかな」


アルフォンスが声をかけると、エレーヌは立ち上がった。


「はい、閣下。ただ、担当者の確認について、少し気になる点がございます」


「聞かせてくれ」


エレーヌは古い管理帳簿の写しを示した。


「こちらの記録には、作成者の署名とは別に、確認者の欄がございます。ところが、後年の記録では、その二つが一つにまとめられているように見えるのです」


アルフォンスは椅子へ腰を下ろし、写しを覗き込んだ。


確かに、古い帳簿には記録した人物と確認した人物の名前を記す欄が分かれている。


しかし、別の時期の帳簿では、右端に一つだけ名前を書く形式へ変わっていた。


「記録方法そのものが変更された可能性があるということか」


「はい。もしそうであれば、『ロラン』という記載が作成者を示すのか、確認者を示すのかも変わってまいります」


アルフォンスは眉を寄せた。


「なるほど。名前だけを追っても、記録の役割を取り違える可能性があるわけだね」


「その通りでございます」


エレーヌは一枚の紙を差し出した。


「そこで、当該期間に使用されていた衣類管理帳簿の記入規則、様式変更の指示書、担当者の一覧について照会する案を作成いたしました」


アルフォンスは文面を読み進めた。


そこには、エレノアが見つけた紙束についての具体的な記載はない。


あくまで、伯爵家が提出した既存資料の不明点を確認する内容になっていた。


「いいと思う。これなら、必要な情報を求めながら、エレノアの手元にある資料の詳細を明かさずに済む」


「ありがとうございます。ただ、もう一つ確認したいことがございます」


「何だい?」


「記録の様式が変わった時期と、衣類の管理を担当する部署が変わった時期が一致しているかどうかです。伯爵家からの回答だけでなく、こちらに残る古い仕立ての注文控えとも照合できるかもしれません」


アルフォンスは顔を上げた。


「仕立ての注文控え?」


「はい。エレノア様の衣類の一部は、以前から外部の仕立て職人へ依頼されていたはずです。注文控えには、衣類の名称や数量、受け渡し先が記されている場合がございます」


その説明を聞き、アルフォンスは少し考え込んだ。


衣類管理帳簿だけでは、記号の意味を確定できない。


しかし、同じ衣類について別の立場から作成された記録が残っていれば、照合できる情報が増える可能性はある。


「以前、アニエス・モローから受け取った資料があったね」


「はい。ただし、あちらの記録もすべての時期を網羅しているわけではございません」


「それでも構わない。まずは手元にある資料だけで、無理なく確認できる範囲を調べてみよう」


エレーヌは頷き、必要な事項を書き留めた。


アルフォンスは照会文をもう一度読み返したあと、署名欄へ目を向けた。


「この文面で進めてくれ。ただし、送付する前にもう一度私が確認する。伯爵家からの回答を急がせるために、根拠のない疑いを加える必要はないからね」


「承知いたしました」


エレーヌは深く一礼した。


書類の上では、ほんの小さな違いに見える。


しかし、その違いを確かめずに進めれば、別の人物へ責任を負わせたり、存在しない衣類の移動を事実として扱ったりする危険がある。


エレーヌは、記録係としてそのことをよく理解していた。


◇ ◇ ◇


皇都セレディアの皇宮では、第二王子レオナードが宮内行政局からの報告を受けていた。


執務室の窓からは、整えられた庭園と石造りの回廊が見える。普段なら、その景色へ目を向ける余裕もあったが、今日は机の上の書類から視線を離せずにいた。


「つまり、正式な婚約は成立していなかったということか」


レオナードが尋ねると、アドリアン・ルフェーブルは慎重に頷いた。


「はい、殿下。現在確認されている記録には、ベルナール伯爵家からの受諾の返書がございます。しかし、エレノア・ベルナール嬢ご本人の同意を示す正式な記録、ならびに婚約成立を示す手続きの完了記録は確認されておりません」


レオナードは眉を寄せた。


先日、自分でも初期資料を確認している。


そこには、伯爵家から縁談を受け入れる意思が示されていた。


だからこそ、これまで問題なく進むものだと思っていたのだ。


「父親が受け入れていても、それだけでは成立しないということだな」


「はい。少なくとも、今回の記録から正式な婚約成立を認めることはできません」


アドリアンは、言葉を選びながら答えた。


レオナードは書類を閉じ、椅子の背へ身体を預けた。


エレノア・ベルナール。


まだ一度も会ったことのない少女。


彼女が自分との婚約を望まないと伝えてきたことは、すでに知っている。


しかし、なぜそこまで明確に拒むのかは分からなかった。


(伯爵家は受け入れていた。それなのに、本人は拒絶している……)


最初にその話を聞いた時は、単に自分が拒まれたという事実が気に入らなかった。


第二王子である自分との縁談を、伯爵令嬢が断る。


そのことが、当然だと思っていた秩序を崩されたように感じられたのだ。


だが、資料を確認してからは、別の疑問が消えなくなっていた。


そもそも、彼女は縁談について、どのように説明されていたのだろう。


伯爵家の受諾は、本人の意思を確かめたうえで送られたものだったのか。


その答えは、手元の書類には書かれていない。


「ロシュフォール公爵家からの書面には、本人が望んでいないと明記されていたな」


「はい。今後も当該縁談を進める意思がないことまで、明確に記されております」


レオナードは小さく息を吐いた。


自分の意向を伝えれば、伯爵家は喜んで受け入れる。


そして、娘もそれに従う。


これまで、その流れに疑問を持ったことはなかった。


けれど、実際には、その娘が拒絶している。


しかも、父親ではなく母方の親族であるロシュフォール公爵家を通して、正式な書面を提出してきた。


「……ロシュフォール公爵家は、彼女の養女縁組も進めているのだったな」


「はい。ただし、その手続きと今回の縁談は、別の事項として扱われております。養女縁組については、現時点で正式に成立したとの報告はございません」


「分かった」


レオナードは短く答えた。


アドリアンは、殿下が続きを求めるまで黙っていた。


やがて、レオナードが書類へ視線を戻した。


「皇室からの回答は、いつ出す予定だ」


「現在、最終的な確認を進めております。確認が完了し次第、正式な回答として送付する予定でございます」


「そうか」


レオナードはそれ以上、縁談を続けるよう求めなかった。


ただ、書類の端へ目を向けたまま、しばらく考え込んでいた。


拒絶されたことへの不満が消えたわけではない。


しかし、本人の意思が確認されていないまま縁談が進んでいたという事実を知った今、以前と同じように考えることもできなかった。


アドリアンは一礼し、執務室を退出した。


扉が閉まったあとも、レオナードは机の上の書類を見つめていた。


◇ ◇ ◇


昼食を終えたエレノアは、マルグリットとともに屋敷の南側へ向かっていた。


庭園の奥には、低い石垣に囲まれた小さな花壇がある。そこには白い野ばらが植えられており、季節になると控えめな花を咲かせるのだという。


エレノアは以前からその場所を知っていたが、花が咲いている時期にゆっくり眺めるのは初めてだった。


「こちらですよ。足元に少し段差がありますから、気をつけてくださいね」


マルグリットが声をかけると、エレノアは頷いて石畳を進んだ。


花壇へ近づくと、緑の葉の間に小さな白い花がいくつも咲いていた。


大きな花ではない。


けれど、五枚の花びらが柔らかく開き、中心には淡い黄色が見える。


「……綺麗ですね」


エレノアは思わず呟いた。


「ええ。アデラインも、この花が好きでした」


マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。


「幼い頃、花が咲くと必ずここへ来ていたのですよ。まだ背が低かったので、花壇の奥まで見ようとして、よく石垣へ手をついていました」


エレノアは花壇へ目を向けた。


幼い母が、ここで花を眺めていた。


その姿を想像すると、胸の奥が温かくなる。


「お母様は、花を摘んだりもしていたのでしょうか」


「ええ。でも、最初の頃は何でも摘もうとするので、庭師に止められていました。花を全部摘んでしまったら、あとから咲く姿を楽しめないでしょう?」


マルグリットは少し笑った。


「それからは、摘んでもいい花を一緒に選ぶようになったのです。アデラインは、誰かに贈るために花を選ぶのが好きな子でした」


エレノアは祖母の横顔を見つめた。


母は、自分に花を贈ってくれたことがあっただろうか。


幼い頃の記憶を辿ると、淡い色の花を小さな器へ飾ってくれた日のことが、ぼんやりと思い出された。


あれが何の花だったのかは、もう分からない。


けれど、母が嬉しそうに微笑んでいたことだけは覚えている。


「……お母様は、私にもお花を飾ってくださったことがありました」


エレノアがそう言うと、マルグリットは顔を向けた。


「そうなのですね」


「はい。小さな器に入れて、私の寝台の近くへ置いてくださったんです。何のお花だったのかは覚えていないんですけれど……」


エレノアは少し考え、続けた。


「お母様が、綺麗でしょうって笑っていたことは覚えています」


マルグリットの表情が柔らかくなった。


「きっと、あなたに見せたかったのでしょうね」


「……はい」


二人はしばらく花壇の前に立ち、白い野ばらを眺めていた。


風が吹くと、小さな花びらが揺れ、葉の間から柔らかな光が差し込む。


エレノアは、その景色を心に留めておきたいと思った。


母の思い出を知ることは、悲しいことばかりではない。


知らなかった母の姿を、少しずつ見つけていく喜びもあるのだ。


◇ ◇ ◇


庭園から戻る途中、マルグリットはふと思い出したように足を止めた。


「そういえば、エレノア。以前、アデラインが幼い頃に作った青い花の刺繍についてお話ししましたね」


「はい。お母様が最初に作った刺繍ですよね」


「ええ。あの刺繍をどこへ保管したのか、昨日から考えていたのですけれど、少し思い出したことがあるのです」


エレノアは驚いて祖母を見つめた。


「本当ですか?」


「まだ確かなことではありませんよ。ただ、アデラインが幼い頃に作った刺繍や絵を、まとめて保管したことがあったのです。確か、古い書類箱とは別の箱へ入れていたと思います」


マルグリットは記憶を辿るように目を細めた。


「アデラインが結婚する前だったかしら。あの子が子どもの頃に使っていた部屋を整理した時、いくつかの思い出の品を移したことがありました」


「その箱は、今もこのお屋敷にあるのでしょうか」


「あると思います。ただ、どの部屋へ移したのか、すぐには思い出せなくて……」


マルグリットは申し訳なさそうに微笑んだ。


エレノアは慌てて首を横に振った。


「いいえ、お祖母様。無理に思い出していただかなくても大丈夫です。もし見つかったら、その時に見せていただければ嬉しいです」


マルグリットは孫娘の顔を見つめた。


「ありがとう。でも、私ももう一度見たいのですよ。アデラインが幼い頃に作ったものを、あなたと一緒に眺められたら、きっと楽しいでしょうね」


エレノアは微笑んだ。


「はい。私も、そう思います」


その時、少し離れた場所から庭師が挨拶をした。


二人が顔を向けると、庭師は花壇の手入れを終えたところらしく、道具を抱えて立っていた。


マルグリットは庭師へ労いの言葉をかけ、エレノアとともに屋敷へ戻った。


歩きながら、エレノアは母の幼い頃の刺繍について考えていた。


青い花。


母が初めて作った、小さな作品。


それが今もどこかに残っているかもしれない。


そう思うだけで、胸の奥が少し明るくなった。


◇ ◇ ◇


ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室の机へ向かっていた。


目の前には、以前から整理を続けている装飾品の記録が置かれている。


小さなブローチ、銀の櫛、刺繍の施されたハンカチ、細い鎖の首飾り。


いずれも自分の持ち物として扱われてきたものだったが、いつ、誰から渡されたのかが曖昧な品もあった。


ミレーヌは一つずつ記録を見直しながら、ため息をついた。


昨日、コレットから以前の侍女エリーズ・ダルモンの名前を聞いていた。


エリーズなら、昔の持ち物について何か覚えているかもしれない。


けれど、今のところ連絡先を確認できていない。


そもそも、伯爵邸を離れた侍女へ突然連絡を取って、何を尋ねればよいのかも分からなかった。


(私が知らなかったことを、今さら聞いてもいいのかしら……)


ミレーヌは首飾りを手に取り、細い鎖を指先で確かめた。


装飾は控えめで、派手な宝石もついていない。


母ヴァレリアが好む華やかな品とは、少し趣が違っていた。


けれど、それだけで誰の持ち物だったのかを判断することはできない。


ミレーヌは首飾りを箱へ戻した。


以前なら、気になることがあっても母へ尋ねれば済むと思っていた。


しかし、エレノアの衣類が本人の承諾なく仕立て直されていたことを知ってからは、母の説明だけを信じていいのか分からなくなっていた。


そのことを考えるたびに、胸の奥が重くなる。


扉が叩かれ、コレットが入室した。


「ミレーヌ様、お茶をお持ちいたしました」


「ありがとう、コレット」


ミレーヌは少し迷ってから、顔を上げた。


「昨日のエリーズのことなんだけれど……今、どこにいるか分かるかしら」


コレットは少し考えた。


「申し訳ございません。詳しいことは存じません。ただ、退職された方の記録が残っている可能性はございます」


「そう……」


「もしお調べになるのでしたら、執事室へ確認することはできるかと思います」


ミレーヌは頷いた。


退職した侍女の連絡先を調べる。


それだけのことなのに、以前の自分なら面倒だと思っていたかもしれない。


けれど、今は自分で確かめたいと思っていた。


「分かったわ。ありがとう。まずは、連絡先が残っているかだけ確認してみる」


「承知いたしました」


コレットは静かに一礼した。


ミレーヌは机の上の記録を見つめた。


何かが分かったとしても、それですべてが許されるわけではない。


それでも、何も知らないままでいることは、もうできなかった。


◇ ◇ ◇


夕方、ロシュフォール公爵邸の執務室では、アルフォンスがエレーヌから新しい報告を受けていた。


伯爵家への照会文は、必要な確認を終え、送付できる状態になっている。


しかし、エレーヌはそれとは別に、一枚の古い書類を持っていた。


「閣下、仕立ての注文控えを確認していたところ、少し気になる記載がございました」


アルフォンスは顔を上げた。


「どんなものだい?」


「エレノア様の衣類について、以前の仕立て記録に記された名称と、伯爵家の管理帳簿に記された名称が一致しないものがございました」


エレーヌは二枚の写しを並べた。


一方には、子ども用の外出着として記された衣類の名称がある。


もう一方には、似た時期の管理帳簿に記された、短く省略された名称があった。


「これが同じ衣類かどうかは、まだ分かりません。ただ、仕立て記録の方には、受け渡しの際に確認するための印が記されております」


アルフォンスは写しを覗き込んだ。


そこには、衣類の名称の横へ小さな印が添えられている。


その形は、エレノアの紙束に記されていた記号と、どこか似ていた。


しかし、完全に一致しているわけではない。


「……似ているね」


「はい。ただし、同じ意味を持つとは断定できません」


エレーヌは慎重に答えた。


アルフォンスはしばらく考え込んだ。


衣類管理帳簿だけでは、記号の意味を確定できなかった。


しかし、仕立ての注文控えにも似た印が残っているとなれば、調べるべき資料が増えたことになる。


「この仕立て記録は、誰が作成したものだい?」


「アニエス・モローの工房から以前提出された控えでございます。ただ、当時の記録を誰が記入したのかまでは分かりません」


「そうか。ならば、まずはアニエス本人へ確認してみよう。記号の意味を知っているかもしれない」


エレーヌは頷いた。


「承知いたしました」


アルフォンスは書類へ目を戻した。


小さな記号。


短く省略された衣類の名称。


そして、途中から変化した管理方法。


それらが何を意味するのかは、まだ分からない。


しかし、別々の資料に似た特徴が見つかったことは、調査を進めるうえで無視できない事実だった。


「エレノアには、明日、確認できた範囲だけを説明しよう。まだ結論が出たわけではないことも、きちんと伝えてほしい」


「かしこまりました」


エレーヌは一礼し、書類をまとめた。


アルフォンスは窓の外へ目を向けた。


夕日が庭園の木々を照らし、長い影を落としている。


調査は、まだ始まったばかりなのかもしれない。


けれど、エレノアが自分の過去を確かめようとするなら、そのための道を少しずつ整えていきたいと思っていた。


◇ ◇ ◇


皇宮では、宮内行政局の確認作業が最終段階へ入っていた。


アドリアンは修正された回答文を机へ広げ、エドガールとともに内容を読み返していた。


正式な婚約が成立していないこと。


エレノア本人の拒絶が正式に受領されていること。


そして、今後の縁談について、本人の意思を無視して進めることはできないという前提。


それらが、曖昧にならないよう文面へ反映されている。


エドガールは最後まで読み終えると、静かに頷いた。


「これでよいだろう。確認済みの事実と、今後の取り扱いが明確に分けられている」


アドリアンは安堵したように息を吐いた。


「ありがとうございます」


「ただし、送付の前に、所定の承認を受けることを忘れないように」


「はい。必要な手続きを進めます」


エドガールは書類を閉じた。


ロシュフォール公爵家からの書面が届いてから、すでにいくつかの確認が行われている。


第二王子本人にも拒絶は伝えられ、初期資料の閲覧も済んでいた。


それでも、皇室としての正式な返答は、まだ送られていない。


アドリアンは、その事実を重く受け止めていた。


相手方は、すでに明確な意思を示している。


その意思を受け取った以上、曖昧な状態を長く続けるべきではない。


彼は書類を丁寧にまとめ、承認のための手続きへ回した。


◇ ◇ ◇


夜、エレノアは自室の机に向かい、日記を開いていた。


机の横には、母が幼い頃に使っていた額へ収められた野ばらの刺繍が飾られている。


その隣には、最近練習している小さな葉の刺繍が置かれていた。


エレノアは二つを見比べ、少しだけ微笑んだ。


今日も、いろいろなことがあった。


朝には、伯爵家への照会について叔父から説明を受けた。


午後には、祖母と白い野ばらを見に行った。


そして、母が幼い頃に作った青い花の刺繍が、今もどこかに残っているかもしれないと聞いた。


どれも、すぐに答えが出ることではない。


けれど、以前の自分なら知らなかったことを、少しずつ知ることができている。


エレノアは筆を取り、日記へ文字を書き始めた。


『今日は、お祖母様と白い野ばらを見た』


『お母様も、幼い頃に同じ花を見ていたそうだ』


そこまで書くと、エレノアは少し考えた。


母の思い出は、悲しさだけを連れてくるものではない。


知らなかった母の姿を知るたびに、胸の奥が温かくなる。


それが、今の自分には嬉しかった。


『お母様が作った青い花の刺繍も、いつか見つかったら嬉しい』


エレノアはその一文を書き加え、筆を置いた。


窓の外には、静かな夜が広がっている。


皇室からの返答は、まだ届いていない。


第二王子が自分の拒絶を知り、縁談の資料を確認したことも、エレノアは知らなかった。


けれど、今夜の彼女には、今日一日を穏やかに過ごせたという確かな実感があった。


エレノアは机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向け、静かに微笑んだ。


明日もまた、この家で朝を迎える。


そして、少しずつ自分の過去を知り、自分の未来を選んでいく。


その願いを胸に、彼女は灯りを落とした。


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― 新着の感想 ―
話の構想自体はとても面白いと思うのですが、同じような事を何度も何度も繰り返して書かれているように感じ、話が全然進んでいきません。亀の歩みより遅く感じます。 そして、少し進んだと思っても何も解決せず、ま…
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