第54話 閉じたままの記録と、消された名前
前夜の雨が上がったロシュフォール公爵邸では、朝から使用人たちが忙しく動いていた。
庭園の小道にはまだ水たまりが残っており、花壇の土は黒く湿っている。窓を開けると、雨に洗われた草木の匂いが流れ込み、エレノアは思わず深く息を吸った。
机の横には、母アデラインが幼い頃に使っていた木製の額が飾られている。そこへ収められた淡い桃色の野ばらの刺繍を眺めながら、エレノアは昨日の出来事を思い返していた。
養女縁組に関する書類へ、自分の意思を書き記した。
まだ正式にロシュフォール家の娘になったわけではない。それでも、誰かから命じられたのではなく、自分で考え、自分の望みを言葉にできたことは、エレノアにとって大きな意味を持っていた。
(昨日、叔父様は私の希望を確かに受け取ったとおっしゃってくださった。あの言葉を聞いた時、本当に嬉しかったわ)
エレノアは窓を閉じ、机の引き出しから小さな手帳を取り出した。
そこには、最近気になっていることや、あとで確かめたいことを書き留めている。
母の遺品について。
以前の寝室から見つかった衣類の記録について。
そして、まだ開けられていない引き出しや包みについて。
調べたいことは多い。
けれど、すべてを一度に確かめようとは思わなかった。
以前の自分なら、何かを始めた以上、最後までやり遂げなければならないと考えていただろう。途中で止めることは怠慢であり、誰かを失望させる行為だと思っていた。
今は、少し違う。
必要なら休んでもいい。
怖くなったら止めてもいい。
そして、もう一度確かめたいと思った時には、自分で続きを選んでもいい。
エレノアは手帳を閉じ、椅子から立ち上がった。
今日は、以前の寝室から見つかった衣類の紙束について、エレーヌから新しい報告を受ける予定になっている。
最初の二枚を確認したあと、残りはまだ開いていない。
記号の意味も分からず、失われた衣類との関係も確定していなかった。
それでも、調べることを諦めたわけではない。
(少しずつでいい。私が知りたいと思うことを、私の速さで確かめていこう)
そう考えていると、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」
「おはよう、リディア。どうぞ入って」
リディアは朝の挨拶を済ませると、衣装棚から淡い水色のドレスを取り出した。
袖口に小さな白い刺繍が施された、動きやすい普段着だった。
「本日は午前中に書類の確認があると伺っておりますので、こちらはいかがでしょうか。袖が邪魔になりにくい仕立てでございます」
「ありがとう。それにするわ」
エレノアは微笑み、用意された服へ目を向けた。
自分の好みや予定を考えて服を選んでもらえることにも、少しずつ慣れてきた。
けれど、その穏やかな日常が当たり前ではなかったことを、彼女は忘れていない。
リディアが髪を整え始めると、エレノアは鏡越しに尋ねた。
「リディア、今日の記録の確認にも、あなたに同席してもらえるかしら」
「もちろんでございます。アルフォンス様からも、エレノア様のご希望を優先するようにと伺っております」
「ありがとう。今日は、前に見た二枚の記録について説明を聞く予定なの。続きを開くかどうかは、まだ決めていないけれど……」
そこで言葉を止めると、リディアは櫛を動かす手を少し緩めた。
「今、お決めにならなくてもよろしいのではないでしょうか。説明をお聞きになってから、お考えになっても遅くはないと思います」
エレノアは鏡の中のリディアを見つめた。
彼女は穏やかに微笑んでいる。
「そうね。まずは、何が分かったのかを聞いてみるわ」
エレノアは小さく頷いた。
窓の外では、雲の切れ間から朝日が差し込み始めていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアはアルフォンスの執務室へ向かった。
扉の前にはセドリックが待っており、彼女の姿を見ると柔らかく微笑んだ。
「おはよう、エレノア。よく眠れた?」
「おはようございます、お兄様。はい。昨日は少し緊張しましたけれど、夜はよく眠れました」
「それならよかった。今日はエレーヌから記録について話を聞くんだったね」
「はい。似た記号が見つかったと伺ったので、どんなものなのか、もう少し詳しく知りたいと思っています」
セドリックは頷き、執務室の扉を開けた。
室内では、アルフォンスがすでに席に着いていた。
その隣には記録係のエレーヌ・フォシェがおり、机の上には数枚の写しと古い管理帳簿が並べられている。
ただし、以前の寝室から見つかった紙束そのものは、卓上には置かれていなかった。
エレノアはそのことに気づき、少しだけ安心した。
自分が許可していない部分を、勝手に開かれることはない。
その約束が、今日も守られているのだ。
「おはよう、エレノア。来てくれてありがとう」
アルフォンスは椅子から立ち上がり、彼女を小卓へ案内した。
「今日は、すでに確認した二枚の記録について、エレーヌが調べた内容を説明してくれる。新しい紙を開く予定はないから、安心してほしい」
「はい。ありがとうございます、叔父様」
エレノアは席に着き、リディアが後方に控えるのを確認した。
セドリックも隣へ腰を下ろす。
全員が揃ったところで、エレーヌが一枚の写しを取り出した。
「エレノア様、まず最初に申し上げておきたいことがございます。今回、記録の中にいくつか共通する特徴が見つかりましたが、それだけで衣類の移動先や、紛失した品との関係が判明したわけではございません」
エレノアは頷いた。
「はい。分からないことは、分からないまま教えていただきたいです」
「承知いたしました」
エレーヌは二枚の写しを並べた。
一枚は、エレノアの以前の寝室から見つかった紙束の二枚目を転記したもの。
もう一枚は、ベルナール伯爵家から提出されていた過去の衣類管理記録の一部だった。
「こちらをご覧ください。両方の記録に、品名のあとへ小さな印が添えられております。形は似ておりますが、同じ記号であると断定するには情報が足りません」
エレノアは身を乗り出し、二つの記録を見比べた。
確かに、品名の横へ小さな線や点を組み合わせたような印がある。
けれど、古い管理記録の方には日付らしき数字が添えられている一方、紙束の二枚目には同じ位置に数字がない。
「……似ていますけれど、書き方が少し違うんですね」
「はい。担当者が違うためか、記録の目的が異なるためか、現時点では分かりません」
エレーヌは一度言葉を区切り、別の資料を示した。
「ただ、今回の照合で一つ気になる点が見つかりました」
エレノアは顔を上げた。
「気になる点、ですか?」
「はい。伯爵家から提出された衣類管理記録の中に、ある時期を境に、品名の記載方法が変わっている部分がございます」
エレーヌは古い帳簿の写しを開いた。
そこには、衣類の種類と数量が整然と記されている。
しかし、途中から一部の品名が簡略化され、以前よりも短い表現で記録されていた。
「たとえば、以前は『外出用の青い上衣』と記されていたものが、後年の記録では『青上衣』とだけ書かれております。こうした省略自体は珍しいものではございませんが、問題は、その変更がいつ、誰の判断で行われたのかを示す記録が見当たらないことです」
エレノアは写しへ目を落とした。
文字の形も、少し違っている。
以前の記録は細く整った筆跡で、後年のものはやや角張った文字だった。
「これは、書いた人が変わったということでしょうか」
「その可能性はございます。ただし、同じ人物でも時期によって筆跡が変わることはありますので、現段階では断定できません」
エレーヌは慎重に答えた。
アルフォンスは腕を組み、静かに考え込んでいた。
「つまり、衣類の管理方法が途中で変わった可能性はあるが、その理由も担当者も確定していないということだね」
「はい。その通りでございます」
エレノアは二枚の写しを見つめた。
記録の中には、自分の衣類に関わると思われる項目がいくつもある。
しかし、名前が省略されているものや、時期が曖昧なものもあり、すべてを自分の持ち物だと判断することはできなかった。
(この記録を作った人は、何を残そうとしていたのかしら)
衣類の数量を確かめるためだったのか。
保管場所を示すためだったのか。
それとも、別の目的があったのか。
考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。
エレノアは少し迷ってから、エレーヌへ尋ねた。
「この記録を作った人が分かれば、記号の意味も分かるかもしれませんか?」
「可能性はございます。ただし、その方が現在どこにおられるのか、あるいは記録の内容を覚えておられるのかは、別の問題になります」
「……そうですよね」
エレノアは小さく頷いた。
その時、セドリックが静かに口を開いた。
「父上、以前の管理記録には、担当者の名前が残っていないのですか?」
アルフォンスはエレーヌへ視線を向けた。
エレーヌは一枚の紙を取り出し、説明を続けた。
「一部には記名がございます。ただし、今回確認している期間については、署名欄が空白のものと、姓だけが記されたものが混在しております」
「姓だけ?」
「はい。たとえば、こちらの記録には『ロラン』という記載がございます」
その名前を聞いた瞬間、エレノアの指先が僅かに動いた。
ロラン。
ベルナール伯爵邸の侍女長、ベアトリス・ロラン。
以前の寝室の調査でも、彼女の名前は何度か出てきていた。
母の木箱が移動された時の記録にも、彼女の署名が残っていたはずだ。
しかし、エレノアはすぐに結論を出さなかった。
「……ベアトリスさんのことでしょうか」
エレーヌは静かに首を横に振った。
「その可能性はございますが、姓だけでは確定できません。同じ姓を持つ別の人物である可能性もございます」
アルフォンスも頷いた。
「以前の記録に名前があったからといって、今回の記録をすべて同じ人物が作ったと考えるのは早いね」
エレノアは少しだけ肩の力を抜いた。
自分の中で、名前を聞いた瞬間に疑いが生まれたことを感じていた。
けれど、疑うことと、事実を確かめることは違う。
その違いを忘れてはいけないと思った。
「はい。では、今は『ロランという姓が書かれていた』ということだけが分かっているんですね」
「その通りでございます」
エレーヌは頷き、記録へ短い注記を書き加えた。
エレノアはその様子を見つめながら、胸の奥に小さな緊張を覚えていた。
母の遺品。
衣類の記録。
そして、以前の伯爵邸で働いていた人々の名前。
それらが、少しずつ繋がり始めているように感じられる。
けれど、その繋がりが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
皇都セレディアの皇宮では、同じ頃、宮内行政局の執務室に新しい書類が届けられていた。
アドリアン・ルフェーブルは封筒を受け取り、差出部署を確認してから封を切った。
中に入っていたのは、ロシュフォール公爵家への回答草案に対する確認結果だった。
彼は内容を読み進め、途中で小さく息を吐いた。
草案の大部分については、事実関係に問題がないと認められている。
しかし、一箇所だけ、再確認を求める指摘が残されていた。
『当該縁談の提案が、どの段階まで正式な手続きとして扱われていたかを明確にすること』
アドリアンは机の上に関連資料を広げた。
ベルナール伯爵から届いた受諾の返書。
第二王子側から送られた最初の提案書。
そして、ロシュフォール公爵家から提出された、エレノア本人の明確な拒絶を伝える書面。
これらの資料を並べると、問題の所在ははっきりしていた。
伯爵家の当主は縁談を受け入れる意思を示している。
しかし、エレノア本人の同意を示す正式な書類は存在しない。
さらに、婚約成立を示す儀礼や登録も行われていなかった。
つまり、縁談は提案と受諾の段階に留まっていたのであり、正式な婚約が成立したわけではない。
アドリアンはその事実を、何度も確認していた。
けれど、皇族に関わる縁談である以上、曖昧な表現を残すことはできなかった。
「ルフェーブル、何か問題があったか」
背後から声をかけられ、アドリアンは立ち上がった。
入室したのは上席文官エドガール・ヴェルヌイユだった。
「確認結果が戻りました。大きな異議はございませんが、縁談の正式な手続き上の位置づけについて、再確認を求められております」
エドガールは書類を受け取り、指摘された箇所へ目を落とした。
「なるほど。これは確認しておくべきだな」
「はい。現時点で、婚約成立を示す記録は確認されておりません」
「第二王子殿下の側から、正式な婚約手続きを進めるよう命じられた記録もないのだな?」
「ございません。殿下は先日、初期資料を閲覧されましたが、その後も縁談の継続を求める正式な申し入れは確認されておりません」
エドガールは静かに頷いた。
「ならば、事実をそのまま整理すればよい。伯爵家の返書があったことと、婚約が成立したことは同じではない」
アドリアンは頷いた。
「承知いたしました」
エドガールは少し考えてから、書類を机へ置いた。
「ただし、回答を送る前に、殿下へ確認済みの内容を改めて報告する必要はあるだろう。すでに拒絶を知らされているとはいえ、皇室として正式な回答を出す段階なのだからな」
アドリアンは一礼した。
その判断は、彼にとっても自然なものだった。
第二王子が何を考えているのかを推測することはできない。
しかし、正式な記録に残すべき事実は、慎重に整理しなければならない。
アドリアンは報告書の準備を始めた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸では、午前の報告が終わりに近づいていた。
エレーヌは確認済みの資料を丁寧に重ね、エレノアへ最後の説明をしていた。
「今回の照合で、記録の形式が途中から変化していることと、一部に担当者を示す可能性のある姓が記されていることが分かりました。ただし、それらが失われた衣類や母君の遺品と直接関係するかどうかは、まだ判断できません」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます。今日のお話で、分からないことがどこにあるのか、少し整理できた気がします」
エレーヌは柔らかく微笑んだ。
「それでしたら幸いでございます」
アルフォンスは書類をまとめながら、エレノアへ尋ねた。
「今日はここまでにしておこうか。それとも、何か質問があるかな」
エレノアは少し考えた。
聞きたいことは、まだある。
けれど、今の段階で答えが出ないものも多い。
それなら、今日聞いたことを一度自分の中で整理してから、次の確認へ進んだ方がいいのかもしれない。
「今日は、ここまでにしたいです。次に紙束の続きを見る時には、今日のお話も思い出しながら確認したいと思います」
「分かった。では、次の確認はお前の希望を聞いてから準備するよ」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
エレノアは席を立ち、エレーヌへ丁寧に頭を下げた。
「今日はありがとうございました。分からないことも、きちんと説明してくださって嬉しかったです」
「こちらこそ、ありがとうございます。今後も確認できた事実と、まだ分からないことを分けてご報告いたします」
エレノアは微笑み、執務室をあとにした。
廊下へ出ると、セドリックが隣へ並んだ。
「エレノア、少し疲れた?」
「少しだけ。でも、今日はちゃんとお話を聞けたと思います」
「それならよかった。午後は祖母上と刺繍をする予定だったね」
「はい。昨日の野ばらとは違う、小さな葉の模様を練習してみようと思っています」
セドリックは微笑んだ。
「楽しそうだね。完成したら、また見せてもらえる?」
「もちろんです。でも、今度は少し時間がかかるかもしれません」
「急がなくていいよ。君が楽しんで作れることが一番だから」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
その穏やかな会話が、先ほどまで張りつめていた気持ちを少しずつ和らげてくれた。
◇ ◇ ◇
ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室で小さな装飾品の箱を開いていた。
中には、以前から気になっている品が収められている。
小さなブローチ。
銀の櫛。
刺繍の施されたハンカチ。
そして、細い鎖の首飾り。
どれも自分の持ち物として扱われてきたものだったが、いつ、誰から渡されたのかが曖昧なものもあった。
ミレーヌは一つずつ取り出し、机の上へ並べた。
以前なら、母ヴァレリアから与えられたものについて、深く考えることはなかった。
しかし、エレノアの衣類が本人の承諾なく仕立て直され、自分のものとして使われていたことを知ってから、同じことが装飾品にも起きていたのではないかという不安が消えなかった。
(もし、これもお姉様のものだったら……)
ミレーヌは銀の櫛を手に取り、裏側を確かめた。
そこには小さな花模様が刻まれている。
けれど、名前や家紋のようなものは見当たらない。
それだけでは、誰の持ち物だったのか判断できなかった。
ミレーヌは櫛を戻し、記録へ目を落とした。
以前から整理している一覧には、四つの品について分かっていることと、分からないことが書かれている。
その中で、細い鎖の首飾りだけは、受け取った時期が特に曖昧だった。
母から渡されたような気もする。
けれど、はっきりした記憶はない。
ミレーヌは眉を寄せた。
その時、侍女コレット・ラヴァンが入室した。
「ミレーヌ様、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう、コレット。少し聞いてもいいかしら」
「はい。何でしょうか」
ミレーヌは机の上の首飾りを指差した。
「この首飾り、私がいつから持っていたか覚えている?」
コレットは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、慎重に首飾りを見つめた。
「申し訳ございません。私がこちらへお仕えするようになった時には、すでにお持ちだったように思います」
「そう……」
「ただ、以前のお部屋の整理については、私より前にお仕えしていた方の方が詳しいかもしれません」
その言葉に、ミレーヌは顔を上げた。
「以前の侍女……エリーズのこと?」
「はい。エリーズ・ダルモンでございます」
ミレーヌはしばらく考え込んだ。
エリーズは、以前ミレーヌの身の回りの世話を担当していた侍女だった。
現在は伯爵邸を離れている。
彼女が首飾りについて何か知っているかどうかは分からない。
けれど、少なくとも、確認できる相手が一人いることは確かだった。
「……ありがとう、コレット。すぐに連絡するかどうかは、少し考えるわ」
「承知いたしました」
コレットは静かに一礼した。
ミレーヌは首飾りを箱へ戻し、蓋を閉じた。
以前なら、面倒なことは母へ任せていただろう。
けれど、今は自分で確かめなければならないと思っていた。
自分が知らなかったこと。
見ようとしなかったこと。
そのすべてを、一度に償えるわけではない。
それでも、何も知らなかったままでいることは、もうできなかった。
◇ ◇ ◇
午後、ロシュフォール公爵邸の庭園では、エレノアとマルグリットが小さな東屋で刺繍をしていた。
雨上がりの空気は澄んでおり、庭園の花々はいつもより鮮やかに見える。
エレノアは刺繍枠を手に取り、淡い緑色の糸を針へ通していた。
今日は、野ばらの隣へ添える小さな葉の模様を練習している。
マルグリットは隣で別の刺繍を進めながら、時折エレノアの手元へ目を向けていた。
「針を入れる位置を少し変えると、葉の先端が綺麗に見えますよ」
「こうでしょうか?」
「ええ。とても上手です」
エレノアは微笑み、慎重に針を動かした。
最初の一枚は少し形が崩れてしまったが、二枚目は先端が細く整っている。
その違いが嬉しくて、エレノアは何度も見比べた。
「お祖母様、同じ模様でも、少しずつ違って見えるんですね」
「そうですね。刺繍は、作る人の手の動きによって表情が変わるものですから」
マルグリットは穏やかに答えた。
エレノアはその言葉を聞きながら、母のことを思い出した。
アデラインも、幼い頃にこの庭園で刺繍をしていたのだろうか。
祖母から聞いた話では、母は最初に小さな青い花を刺繍し、それを昨日選んだ額へ飾っていたという。
その刺繍そのものが今どこにあるのかは、まだ聞いていなかった。
「お祖母様、少し聞いてもいいですか?」
「もちろんですよ」
「昨日お話ししてくださった、お母様が幼い頃に作った青い花の刺繍なんですけれど……今は、どこにあるのでしょうか」
マルグリットは針を動かす手を止めた。
少し考えてから、穏やかに答えた。
「そうですね。あの刺繍は、ずいぶん前に額から外したのですが、そのあとどこへ保管したのか、すぐには思い出せません」
エレノアは少し驚いた。
「そうだったんですね」
「ええ。アデラインが大きくなってから、別の刺繍を飾るようになったので、古いものは大切にしまったはずなのですけれど……」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
「私も、もう一度見てみたいですね。あの子が一生懸命作った、小さな青い花を」
エレノアは祖母の横顔を見つめた。
母の思い出は、祖母にとっても大切なものなのだ。
自分だけが知りたいのではない。
祖母もまた、失った娘の残したものを、もう一度見たいと思っている。
「……もし見つかったら、私にも見せていただけますか?」
「もちろんです。あなたにも、ぜひ見てほしいわ」
マルグリットは優しく微笑んだ。
エレノアも頷き、刺繍枠へ視線を戻した。
自分が今作っている小さな葉。
母が幼い頃に作った青い花。
それらは、同じように針と糸で作られたものだ。
けれど、その一針一針には、それぞれの時間と思いが込められている。
(いつか、お母様の刺繍も見られたら嬉しいわ)
エレノアはそう思いながら、ゆっくり針を動かした。
◇ ◇ ◇
皇宮では、第二王子レオナードが自室で書類を読んでいた。
机の上には、先日確認した縁談の初期資料とは別に、宮内行政局からの報告書が置かれている。
そこには、ロシュフォール公爵家への正式な回答を準備していることと、現在確認されている事実が簡潔にまとめられていた。
レオナードは報告書を読み進め、眉を寄せた。
エレノア・ベルナール。
自分との婚約を望まないと、明確に伝えてきた少女。
これまで彼は、伯爵家から受諾の返書が届いている以上、縁談は問題なく進むものだと思っていた。
けれど、実際には、本人の同意を示す書類は存在していなかった。
そのことを知ってから、レオナードの中には、説明のつかない苛立ちが残っている。
拒絶されたことへの不満。
自分が当然だと思っていたことが、そうではなかったという戸惑い。
そして、相手のことをほとんど知らないまま、縁談が進むと思い込んでいたことへの違和感。
レオナードは書類を机へ置いた。
(なぜ、そこまで明確に拒む必要がある?)
その疑問は、何度考えても消えなかった。
しかし、同時に別の疑問も浮かぶ。
自分は、エレノアに何を伝えていたのだろう。
彼女がどのような人物なのか。
何を望み、何を嫌うのか。
そもそも、自分との婚約について、どのように説明されていたのか。
それらを、ほとんど知らない。
レオナードは椅子の背へ身体を預け、天井を見上げた。
以前なら、伯爵家が受け入れたのだから、それで十分だと考えていただろう。
しかし、本人が望んでいないという事実を知った今、同じように考えることはできなかった。
だからといって、簡単に納得できるわけでもない。
レオナードは報告書へ視線を戻した。
そこには、正式な婚約が成立していないことが、改めて記されている。
その文字を見つめながら、彼はしばらく黙り込んでいた。
◇ ◇ ◇
夕方、ロシュフォール公爵邸では、アルフォンスが執務室でエレーヌから追加の報告を受けていた。
午前中にエレノアへ説明した内容とは別に、今後の調査方法について整理していたのだ。
「衣類管理記録の担当者について、伯爵家へ追加の照会を行うことは可能だと思われます」
エレーヌは書類を差し出した。
「ただし、現時点で確認できているのは、記録に『ロラン』という姓があることだけです。特定の人物が作成したと断定するような照会は避けるべきかと存じます」
アルフォンスは頷いた。
「その通りだね。事実を確かめるための照会であって、誰かを疑うためのものではない」
「はい。そこで、当該期間の衣類管理を担当していた者の一覧と、記録様式を変更した経緯について、確認を求める形を考えております」
アルフォンスは書類へ目を落とした。
内容は慎重に整理されている。
特定の人物を名指しで責めるものではなく、あくまで記録の作成経緯を確かめるための照会だった。
「この形なら問題ないだろう。ただし、エレノアの紙束に関する未確認部分については、触れないようにしてほしい」
「承知しております。すでに確認した二枚の内容だけを根拠にしております」
エレーヌは静かに答えた。
アルフォンスは頷き、書類を机へ置いた。
エレノアが許可していない部分を、勝手に調べることはしない。
その約束は、今後も守らなければならない。
彼女が自分の意思で調査を進められるようにすること。
それが、何より大切だった。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の机に向かい、日記を開いていた。
机の横には、母が幼い頃に使っていた額に収められた野ばらの刺繍が飾られている。
その隣には、今日練習した小さな葉の刺繍が置かれていた。
エレノアは二つを見比べ、少しだけ微笑んだ。
今日も、いろいろなことがあった。
衣類の記録について、新しいことを知った。
けれど、分からないことも増えた。
母が幼い頃に作った青い花の刺繍が、今どこにあるのかも分からない。
それでも、知りたいと思えることが嬉しかった。
エレノアは筆を取り、日記へ文字を書き始めた。
『今日は、衣類の記録について新しいお話を聞いた』
『記録の書き方が途中で変わっていることと、担当者の名前がはっきりしない部分があることが分かった』
そこまで書くと、エレノアは少し考えた。
以前の自分なら、分からないことがあると、不安ばかりが大きくなっていた。
けれど、今は少し違う。
分からないことを、分からないまま記録しておく。
そして、確かめられることから少しずつ調べていく。
それでいいのだと思えた。
エレノアは最後に一文を書き加えた。
『私は、急がなくてもいいから、確かなことを一つずつ知っていきたい』
日記を閉じると、窓の外には静かな夜が広がっていた。
皇室からの返答は、まだ届いていない。
第二王子が自分の拒絶を知り、縁談の資料を確認したことも、エレノアは知らなかった。
けれど、今夜の彼女には、今日一日を自分の意思で過ごせたという確かな実感があった。
エレノアは机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向け、静かに微笑んだ。
明日もまた、この家で朝を迎える。
そして、少しずつ自分の未来を選んでいく。
その願いを胸に、彼女は灯りを落とした。




