第53話 私の名前を、私が選ぶ日
ロシュフォール公爵邸の東側にある客間には、朝になると庭園から柔らかな光が差し込んでくる。薄い雲の向こうに太陽が見え隠れする穏やかな朝、エレノアは窓辺に置かれた小さな額を眺めながら、昨日マルグリットと過ごした時間を思い返していた。
額の中には、淡い桃色の野ばらが一輪咲いている。母アデラインが幼い頃に使っていたという木製の額は、年月を経て少し色が深くなっていたものの、縁に彫られた小さな花模様は今も美しく残っていた。昨日の夕方、セドリックに見せたあと、リディアと相談して机の横へ飾ったのだ。
寝台から起き上がった時にも、顔を洗って戻ってきた時にも、自然とその花へ目が向いた。
(お母様が使っていた額に、私の刺繍が入っているなんて。少し前の私なら、こんな日が来るとは思わなかったわ)
エレノアは指先で額の縁をそっとなぞり、木目に沿って残された細かな傷を見つめた。母が幼い頃に触れていたものを、今は自分が手にしているという事実が、胸の奥を静かに温めてくれる。
けれど、その温かさの隣には、まだ整理しきれない思いも残っていた。
以前の寝室から見つかった紙束には、自分の衣類に関する記録が含まれていた。最初の二枚を確認しただけで中断したため、残りに何が書かれているのかは分からない。二枚目に並んでいた記号についても、エレーヌが既存の衣類管理記録と照らし合わせているものの、まだ意味は確定していなかった。
エレノアは机の引き出しから日記を取り出し、昨夜書いた文章を読み返した。
『私は、これからも自分の大切なものを、自分で選んでいきたい』
その一文を見つめていると、昨日までは別々のことだと思っていた二つの問題が、どこかで繋がっているように感じられた。
母の遺品を調べることも、自分の未来を決めることも、誰かに命じられて行うものではない。自分が知りたいと思い、自分が望むからこそ、一歩を踏み出せるのだ。
エレノアが日記を閉じたところで、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「エレノア様、おはようございます。お支度のお手伝いに参りました」
「おはよう、リディア。どうぞ入って」
入室したリディアは、窓辺に置かれた額へ一度だけ目を向け、嬉しそうに微笑んだ。
「昨日お選びになった場所、とてもよく似合っておりますね。朝の光が当たると、花びらの色がいっそう綺麗に見えます」
「私もそう思っていたの。ここなら、毎朝見ることができるでしょう?」
「はい。エレノア様がご自身で作られたものですから、きっとお部屋を明るくしてくれると思います」
リディアはそう言いながら衣装棚を開き、今日の服を選ぶために数着を取り出した。エレノアはその様子を眺めていたが、ふと、以前なら服を選ぶことさえ自分の意思だけでは決められなかったことを思い出した。
ベルナール伯爵邸では、ヴァレリアが選んだものを着るよう命じられることが多かった。似合うかどうかよりも、家の都合やその日の予定が優先され、エレノアが好みを尋ねられることはほとんどなかった。
「今日は、こちらの淡い青色のドレスと、薄いクリーム色のドレスをご用意しております。どちらも普段着としてお召しいただけますが、いかがなさいますか?」
リディアの問いかけに、エレノアは二着を見比べた。
青色のドレスは襟元に小さな刺繍があり、袖口も動きやすそうだった。一方、クリーム色のドレスは柔らかな生地で作られており、昨日の野ばらの刺繍を思わせる淡い桃色の飾りが添えられている。
「今日は青い方にしようかしら。午後に少し書き物をするかもしれないから、袖が動かしやすい方がいいと思うの」
「承知いたしました。それでは、こちらをご用意いたしますね」
リディアは当然のように頷き、青いドレスを選んだ理由について余計な質問をしなかった。
その自然なやり取りに、エレノアは小さな安堵を覚えた。
自分の好みを伝えることが、特別な出来事ではなくなりつつある。
それが嬉しくて、エレノアは鏡に映る自分へ、ほんの少しだけ微笑んだ。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、いつものように家族が揃っていた。
アルフォンスは書類を確認していたらしく、席に着く前に手元の紙を執事へ預けていた。オーギュストは庭園の手入れについてマルグリットと話しており、セドリックはエレノアの姿を見ると、椅子から立ち上がって挨拶をしてくれた。
「おはよう、エレノア。昨日の刺繍は、もう飾ったの?」
「おはようございます、お兄様。はい、机の横に飾りました。今朝も見ていたんですけれど、思っていた以上にお部屋に合っていて嬉しかったです」
「それならよかった。今度、別の刺繍を作る時には、僕にも見せてほしいな」
セドリックの言葉に、エレノアは少し照れながら頷いた。
「もちろんです。でも、次に何を作るかは、まだ決めていないんです」
「急いで決めなくてもいいと思うよ。作りたいものが見つかった時に始めればいいんだから」
その穏やかな言葉に、エレノアは自然と笑みを浮かべた。
以前なら、何かを始める時には期限や成果を気にしていた。けれど、ここでは趣味の刺繍でさえ、自分が楽しむために続けていいと言ってもらえる。
温かなスープを口に運びながら、エレノアはそんな日常の変化を噛みしめていた。
食事が半ばを過ぎた頃、アルフォンスが静かに口を開いた。
「エレノア、今日の午前中、少し時間をもらえるかな。養女縁組の手続きについて、確認しておきたいことがあるんだ」
エレノアはスプーンを置き、叔父へ顔を向けた。
「養女縁組のこと、ですか?」
「ああ。ベルナール伯爵から不反対の返書を受け取ったあと、必要な書類の整理を進めている。まだ正式に成立したわけではないけれど、お前自身に確認しておきたい事項がいくつかあるんだ」
アルフォンスは穏やかな口調を保ちながら続けた。
「難しい内容を一度に決めてもらうつもりはないよ。書類の意味を説明したうえで、分からないことがあれば、その場で尋ねてもらいたいと思っている」
エレノアは胸の奥に小さな緊張を覚えた。
ロシュフォール家の養女になりたいという気持ちは、今も変わっていない。けれど、実際に手続きが進んでいると聞くと、その願いが少しずつ現実へ近づいていることを強く意識させられる。
(本当に、私はロシュフォール家の娘になれるのかもしれない)
その思いが浮かんだ途端、嬉しさと不安が同時に広がった。
父ロベルトが不反対の返書を送ったことは知っている。しかし、それが父との関係をすべて終わらせるものなのか、これからどのような手続きが必要になるのか、まだ分からないことも多かった。
「はい、叔父様。私も、きちんとお話を聞きたいです」
エレノアが答えると、アルフォンスは安心したように頷いた。
「ありがとう。では、朝食のあとに執務室へ来てもらえるかな。セドリックも同席してくれる予定だよ」
「僕もいるから、難しいところがあれば一緒に確認しよう」
セドリックが微笑むと、エレノアの肩から少し力が抜けた。
その様子を見ていたマルグリットが、柔らかな声で言葉を添えた。
「書類のお話は大切だけれど、疲れたら休憩してもいいのですよ。あなたが安心して考えられることが、一番大事なのですから」
「ありがとうございます、お祖母様」
エレノアは祖母へ微笑み返した。
以前の家では、自分の将来に関わる話であっても、本人が同席することさえ許されない場合があった。
それなのに今は、家族が揃って自分の意思を確かめようとしてくれている。
その違いを思うと、胸の奥が少し熱くなった。
◇ ◇ ◇
皇都セレディアの皇宮では、朝から宮内行政局の執務室に慌ただしい足音が響いていた。
アドリアン・ルフェーブルは、前夜にまとめた回答草案を机の上へ広げ、細かな表現を一つずつ確認していた。窓の外では庭園の木々が風に揺れていたが、彼の視線はほとんど書類から離れなかった。
今回の案件は、単に縁談を受け入れるかどうかという問題ではない。
ベルナール伯爵家からは受諾の返書が届いていたものの、エレノア本人の同意を示す正式な記録は存在していない。そして現在、その本人からは、第二王子レオナードとの婚約を望まず、今後も縁談を進める意思がないという明確な回答が提出されている。
さらに、レオナード自身もその拒絶を知らされ、縁談の初期資料を確認していた。
ただし、第二王子は現時点で継続を求めていない。
アドリアンは、その事実をどう文面へ反映させるべきか慎重に考えていた。
皇族の意向を推測して書くことはできない。一方で、正式な婚約が成立していないことを曖昧にすれば、ロシュフォール公爵家に誤った認識を与えるおそれがある。
「ルフェーブル、草案はまとまったか」
背後から声をかけられ、アドリアンは椅子から立ち上がった。
入室したのは、上席文官エドガール・ヴェルヌイユだった。彼は差し出された書類を受け取ると、窓際の机へ移動し、冒頭から静かに読み始めた。
室内には紙をめくる音だけが響いていた。
アドリアンは上司の表情を窺いながら、必要な説明を求められた時にすぐ答えられるよう、関連資料を手元へ揃えた。
しばらくして、エドガールが一箇所を指差した。
「ここだが、『縁談について再検討する』という表現は避けた方がいい」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「この書き方では、皇室が本人の拒絶を受け取ったうえで、なお婚約の成立を前提に検討しているようにも読める。今確認しているのは、成立していない縁談をどのように取り扱うかということだ。そこを混同してはいけない」
アドリアンは指摘された箇所を読み返した。
確かに、短い表現の違いによって、受け取る側の印象は大きく変わる。
「承知いたしました。『当該縁談の取り扱いについて確認を進める』という表現ではいかがでしょうか」
「その方が事実に近い。ただし、正式な回答として送る段階では、確認中という言葉だけで終わらせない方がいいだろう。相手方が何を待つ必要があるのか、何についてはすでに確認済みなのかを明確にしなければならない」
エドガールは書類を戻し、椅子へ腰を下ろした。
「今回、ロシュフォール公爵家が求めているのは、曖昧な慰留でも、理由を問いただすための呼び出しでもない。本人の意思が正式に受け取られたことと、縁談の現在の扱いについての明確な回答だ」
アドリアンは頷いた。
「はい。ご本人の意思については、すでに第二王子殿下にも報告されております」
「殿下が資料を閲覧されたことは記録しておけばよい。しかし、閲覧されたという事実だけをもって、殿下が何らかの判断を下されたと扱ってはならない」
「承知しております」
エドガールは一度窓の外へ目を向けた。
宮内行政局では、皇族に関わる案件を慎重に扱うことが求められる。しかし、その慎重さが、相手方の意思を曖昧にするための理由になってはならない。
彼は机へ視線を戻し、静かに続けた。
「修正した草案を、必要な確認へ回してくれ。正式な回答をいつ送れるかは、その結果を見て判断する」
「かしこまりました」
アドリアンは書類を受け取り、深く一礼した。
皇室からロシュフォール公爵家への返答は、まだ完成していない。
けれど、そこへ記されるべき事実は、少しずつ明確になっていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたエレノアは、セドリックとともにアルフォンスの執務室へ向かっていた。
廊下には磨き上げられた木の床が続き、壁にはロシュフォール家の歴代当主を描いた肖像画が並んでいる。以前はその前を通るたびに、自分がここにいてもいいのだろうかと不安になったものだった。
けれど、今日は少し違った。
肖像画の中の人々が、自分を厳しく見つめているようには感じなかった。
それでも、扉へ近づくにつれて、胸の奥には緊張が広がっていく。
「エレノア、少し顔色が硬いね。大丈夫?」
隣を歩くセドリックが、歩調を緩めて尋ねた。
エレノアは小さく頷いたものの、すぐに首を傾げた。
「大丈夫だと思います。でも、少し緊張しています。養女縁組のお話は嬉しいのに、書類のことになると、何か間違えてしまわないか心配で……」
セドリックは足を止め、エレノアの方へ身体を向けた。
「今日は試験を受けるわけじゃないんだよ。分からないことがあれば質問していいし、その場で答えを出せないことがあっても構わない。父上も、君を困らせるために呼んだわけではないからね」
「……そうですよね」
「それに、書類の内容をきちんと理解したいと思うのは、間違いじゃない。むしろ大切なことだと思うよ」
セドリックの言葉に、エレノアはゆっくり息を吐いた。
誰かから与えられた書類へ、内容も分からないまま署名することを求められた経験は、前の人生にもあった。
あの頃の自分は、父や婚約者となった第二王子に逆らうことが怖くて、疑問を抱いても口にできなかった。
今、同じように書類を前にすることが怖いのは、その記憶が残っているからなのかもしれない。
(でも、叔父様もお兄様も、私に何かを隠して署名させようとはしていないわ。分からないことを聞いてもいいって、最初から言ってくださっているもの)
エレノアは胸元へ手を添え、少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様。ちゃんとお話を聞いて、分からないことは尋ねてみます」
「うん。それでいいと思う」
二人が執務室へ入ると、アルフォンスは机から離れ、窓際の小卓へ案内してくれた。
卓上には数枚の書類が置かれていたが、どれも封筒から取り出され、内容を確認しやすいよう整えられている。エレノアの前には白紙の紙と筆記具も用意されていた。
「おはよう、エレノア。来てくれてありがとう」
「おはようございます、叔父様。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今日は養女縁組に必要な手続きのうち、お前自身に関わる部分を説明したいと思っている。難しい言葉もあるかもしれないから、気になるところがあれば遠慮なく止めてほしい」
アルフォンスはそう言って、一枚目の書類をエレノアの前へ置いた。
そこには、養女縁組を希望する理由や、現在の身分に関する事項が整理されていた。
「まず、今の段階では、お前の正式な姓はベルナールのままだ。私たちが家族として迎えたいと思っていることと、法的な手続きが成立していることは別だからね」
「はい。それは分かっています」
「ありがとう。そして、ロベルト・ベルナール伯爵からは、養女縁組に反対しないという返書を受け取っている。ただし、その返書だけで手続きが終わるわけではない。必要な書類を整え、所定の確認を受けなければならないんだ」
エレノアは頷き、書類へ目を落とした。
自分の名前の横には、現在の身分を示す記載がある。
『エレノア・ベルナール』
その文字を見た瞬間、胸の奥が僅かに締めつけられた。
ベルナールという姓は、十五年間、自分が名乗ってきたものだ。
けれど、その名前を呼ばれるたびに、父の冷たい視線や、ヴァレリアの厳しい言葉を思い出すこともあった。
前の人生では、その姓を持ったまま処刑された。
もちろん、その事実を知っているのは自分だけだ。
アルフォンスもセドリックも、目の前の書類がエレノアにどれほど複雑な感情を呼び起こしているのか、すべてを知ることはできない。
それでも、アルフォンスは彼女の手が止まったことに気づいた。
「エレノア、少し休もうか?」
その問いかけに、エレノアは顔を上げた。
「……いいえ、大丈夫です。ただ、自分の名前を見て、少し考えてしまいました」
「そうか。名前は、長い間使ってきたものだからね。簡単に気持ちを切り替えられなくても、不思議ではないよ」
アルフォンスは書類を急いでめくらず、エレノアが言葉を続けるのを待ってくれた。
その静かな時間が、彼女にはありがたかった。
「叔父様、私はロシュフォール家の娘になりたいと思っています。それは、今も変わりません。でも……ベルナールという名前がなくなったら、今までの私まで消えてしまうような気がして、少し怖いんです」
言葉にしてみると、自分でも意外な気持ちだった。
ベルナール家から離れたいと、あれほど強く願っていた。
父の命令にも、第二王子との縁談にも、もう従いたくないと思っていた。
それなのに、長く名乗ってきた姓が変わることを考えると、寂しさとも不安ともつかない感情が生まれてくる。
アルフォンスは、すぐに否定しなかった。
「そう感じるのは、自然なことだと思うよ。名前が変わっても、お前が生きてきた十五年間がなくなるわけではない。嬉しかったことも、苦しかったことも、アデラインと過ごした時間も、すべてお前自身のものだからね」
エレノアは叔父の言葉を聞きながら、膝の上で重ねた手を見つめた。
「……お母様と過ごした時間も、ですか?」
「もちろんだよ。アデラインがお前を大切に思っていたことは、どんな姓を名乗っていても変わらない。それに、ロシュフォールという名前は、あの子が生まれ育った家の名前でもあるんだ」
その言葉に、エレノアはゆっくり顔を上げた。
母が生まれ育った家。
幼い頃に刺繍を作り、兄と笑い合い、両親に愛されて過ごした場所。
自分が今いるこの屋敷は、母にとっても大切な故郷だったのだ。
「……そうですね。お母様も、ロシュフォール家の娘だったんですよね」
「ああ。結婚してベルナール家へ嫁いだあとも、私たちにとっては大切な妹であり、娘だった。名前が変わったからといって、その繋がりが失われたわけではないんだよ」
アルフォンスは柔らかく微笑んだ。
隣に座っていたセドリックも、静かに頷いた。
「僕にとっても、君はずっと従妹だった。これから正式に妹になれたら嬉しいけれど、手続きが終わるまで家族ではないと思っているわけじゃないんだ」
エレノアは二人の顔を交互に見つめた。
胸の奥にあった不安が、少しずつ形を変えていく。
姓を変えることは、過去を消すことではない。
母と過ごした時間を捨てることでも、今までの自分を否定することでもない。
自分がこれからどこで、誰と、どのように生きていきたいのかを選ぶことなのだ。
(私は、ベルナール家で過ごした自分を消したいわけじゃない。ただ、あの家に戻らず、自分の未来を生きたいだけなんだわ)
エレノアは書類へ目を戻した。
「叔父様、続きを聞かせてください。私、ちゃんと理解したいです」
アルフォンスは安心したように頷き、次の項目を示した。
そこには、今後の居住先や保護者に関する事項が記されている。
エレノアは一つずつ説明を聞き、分からない言葉が出てくるたびに質問した。
以前の自分なら、何度も尋ねることを申し訳なく思っていただろう。
けれど、アルフォンスはどの質問にも丁寧に答え、セドリックも必要な時だけ言葉を添えてくれた。
書類の内容を確認しているうちに、エレノアは一つ気になる項目を見つけた。
「叔父様、こちらの『本人の意思確認』という部分ですが……これは、私がロシュフォール家の養女になりたいと思っていることを、正式に確かめるためのものですか?」
「そうだよ。手続きの中で、お前自身の希望を明確にするために必要な部分だ」
「……では、もし私が望んでいないと言ったら、どうなるんでしょうか」
アルフォンスは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「その場合は、手続きを進めるべきではないと私は考える。少なくとも、私たちはお前の意思に反して養女縁組を進めるつもりはないよ」
エレノアは、その答えを聞いて胸が熱くなった。
望まないと言えば、止めてもらえる。
その当たり前のことが、以前の自分には与えられていなかった。
父が決めた縁談を拒もうとした時も、家の都合を優先するよう求められた。
自分の人生に関わることなのに、自分の気持ちは後回しにされていた。
けれど今、目の前の書類には、自分の意思を確認するための項目がある。
そして、叔父はそれを形式だけのものとして扱っていない。
「……ありがとうございます、叔父様」
エレノアが小さく頭を下げると、アルフォンスは首を横に振った。
「礼を言われるようなことではないよ。お前の人生に関わることなのだから、お前の気持ちを大切にするのは当然だ」
その言葉を聞き、エレノアは目元が熱くなるのを感じた。
何度も同じような言葉をかけてもらっている。
それでも、聞くたびに胸の奥へ新しい温もりが広がるのは、まだ自分がその優しさに慣れていないからなのかもしれない。
エレノアは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「私は、ロシュフォール家の娘になりたいです。叔父様と、お祖父様と、お祖母様と、お兄様の家族として、これからもここで暮らしていきたいと思っています」
アルフォンスは、しばらく何も言わなかった。
けれど、その表情には確かな喜びが浮かんでいた。
「ありがとう、エレノア。その気持ちを聞けて、私も嬉しいよ」
隣では、セドリックが優しく微笑んでいる。
エレノアは二人の顔を見つめながら、胸の奥にあった不安が、少しずつ安心へ変わっていくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが執務室で書類を確認していた。
机の上には、ロシュフォール家から求められている財産関係の資料について、整理途中の記録が置かれている。養女縁組に反対しないという返書を送ったあとも、伯爵家として提出しなければならない書類は残っていた。
ロベルトは一枚の帳簿を開き、記載された数字へ目を落とした。
エレノアに関わる衣類や持ち物の管理については、以前から不明瞭な点が指摘されている。
そのすべてを、彼自身が把握していたわけではなかった。
しかし、知らなかったという理由だけで、当主としての責任が消えるわけではないことも理解していた。
扉が叩かれ、執事が入室した。
「旦那様、追加の資料について、整理が進んでおります。ただ、一部の記録は保管場所が分かれており、確認に時間を要しております」
「分かった。確認できたものからまとめておけ。所在が分からないものについては、分からないまま記録するように」
「承知いたしました」
執事が退出すると、ロベルトは再び帳簿へ目を向けた。
以前なら、家の中の細かな管理についてはヴァレリアへ任せておけばよいと考えていた。
しかし、その結果として、エレノアの持ち物がどのように扱われていたのか、十分に把握できていない部分が残っている。
ロシュフォール家からの照会を受けるたびに、その事実を突きつけられていた。
(……ここまで記録が揃わないとは)
ロベルトは眉間へ指を当てた。
エレノアが家を出てから、伯爵邸の中では以前と違う空気が流れている。
ヴァレリアは自分の立場を守ろうとしており、ミレーヌも以前ほど母の言葉へ無条件に従わなくなっていた。
ロベルトは、その変化をどう扱うべきか決めかねていた。
ただ、今の段階でエレノアへ直接連絡を取るつもりはなかった。
養女縁組に反対しないという意思は、すでに書面で示している。
それ以上のことを、何と伝えればよいのか分からなかった。
ロベルトは帳簿を閉じ、窓の外へ目を向けた。
庭園には、かつてエレノアが幼い頃に歩いていた小道がある。
その場所を眺めても、今の彼には、娘が何を考えていたのかを思い出すことができなかった。
彼女が何を好み、何を嫌い、どのような毎日を送っていたのか。
父親でありながら、その多くを知らない。
その事実を認めることは、ロベルトにとって容易ではなかった。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸では、養女縁組の説明が一段落し、エレノアが小卓の上の書類を見つめていた。
アルフォンスは最後の項目を説明し終えると、筆記具を彼女の前へ置いた。
「今日のところは、ここまでにしようか。確認した内容について、あとから気になることが出てきたら、いつでも聞いてほしい」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは頷いたものの、書類の一箇所から目を離せずにいた。
そこには、本人の希望を記録するための欄が設けられている。
正式な手続きがすべて終わるわけではない。
けれど、ここへ自分の意思を書き残すことには、大きな意味があるように感じられた。
「叔父様……こちらには、今日、私の希望を書いてもいいのでしょうか」
アルフォンスは書類へ目を向けた。
「もちろん。ただし、今日の記入だけで養女縁組が成立するわけではないことは、覚えておいてほしい。これは、今の段階でお前自身の意思を記録するためのものだからね」
「はい。それでも、書いておきたいです」
エレノアは筆記具を手に取った。
白い紙の上には、まだ何も書かれていない。
その余白を見つめていると、前の人生で何度も署名を求められた時のことが思い出された。
父から差し出された書類。
断ることを許されなかった縁談。
自分の気持ちを尋ねられることのないまま、決められていった未来。
あの頃の自分は、何かを選んでいるつもりでも、実際には選ばされていただけだったのかもしれない。
けれど、今は違う。
目の前にある紙へ何を書くのかを、自分で決められる。
(私は、誰かに命じられたからではなく、自分が望むから、この家の娘になりたい)
エレノアはゆっくり筆を動かした。
『私は、ロシュフォール公爵家の養女となることを希望いたします』
文字を書き終えると、胸の奥で何かが静かにほどけたような気がした。
続けて、現在の正式な名前を記す。
『エレノア・ベルナール』
その文字を見つめながら、エレノアは少しだけ微笑んだ。
今はまだ、この名前だ。
けれど、いつか正式にロシュフォールという姓を名乗れる日が来るかもしれない。
その時、自分はどんな気持ちになるのだろう。
エレノアには、まだ分からなかった。
ただ、今の自分が望んでいることだけは、はっきりしていた。
アルフォンスは書類を受け取り、丁寧に内容を確認した。
「ありがとう、エレノア。お前の意思は、確かに受け取ったよ」
その言葉に、エレノアは顔を上げた。
叔父の表情は穏やかだったが、どこか感慨深そうにも見えた。
セドリックも、隣で静かに微笑んでいる。
「エレノア、今日は大切なことを一つ決めたね」
「はい、お兄様。少し緊張しましたけれど……今は、嬉しいです」
「それならよかった」
セドリックはそう言って、彼女の前に置かれた白紙の紙をそっと片づけた。
エレノアはその様子を見つめながら、自分が書いた文字の感触を指先に思い出していた。
たった数行の文章だった。
けれど、その数行には、これまで誰にも伝えられなかった願いが込められている。
自分の人生を、自分で選びたい。
その願いが、初めて正式な書類の上へ記されたのだ。
◇ ◇ ◇
午後になり、エレノアはマルグリットの私室を訪れていた。
養女縁組の説明を受けたことを伝えると、マルグリットは嬉しそうに微笑んだものの、すぐに詳しい内容を尋ねようとはしなかった。
「お疲れになったでしょう。まずはお茶をいただきましょうか」
「はい。ありがとうございます、お祖母様」
エレノアは勧められた椅子へ腰を下ろした。
小卓には焼き菓子と温かな紅茶が用意されており、窓の外では庭園の花々が風に揺れている。マルグリットは茶器を手に取り、エレノアの様子を確かめながら、ゆっくりとお茶を注いでくれた。
「アルフォンスから、今日はあなたの意思を確認する予定だと聞いていました。どうでしたか?」
エレノアは少し考えてから答えた。
「最初は緊張しました。でも、叔父様が一つずつ説明してくださって、分からないことも質問できました。それから……私、ロシュフォール家の養女になりたいという希望を、書類に書いたんです」
マルグリットの手が、茶器の上で僅かに止まった。
彼女はすぐに微笑んだが、その目元には柔らかな喜びが浮かんでいた。
「そうだったのね。自分の言葉で、きちんと伝えられたのですね」
「はい。まだ正式に決まったわけではないと分かっています。でも、自分で書けたことが嬉しくて……」
エレノアは膝の上で手を重ねた。
「お祖母様、私、少し怖かったんです。名前が変わったら、今までの自分までなくなってしまうような気がして。でも、叔父様がお話ししてくださって、そうではないんだと思えました」
マルグリットは静かに頷いた。
「ええ。あなたがこれまで生きてきた時間は、誰にも消せません。どんな名前を名乗ることになっても、あなたはあなたのままですよ」
「……はい」
「それに、ロシュフォールという名前は、アデラインが生まれた時から持っていた名前でもあります。あなたがその名前を望んでくれることを、私はとても嬉しく思っています」
エレノアは祖母の顔を見つめた。
マルグリットは穏やかに微笑んでいたが、その声には僅かな震えがあった。
母を失った祖母。
その娘が残した子どもである自分。
今まで離れて暮らしていた時間を、簡単に取り戻すことはできない。
それでも、これから一緒に過ごす時間を増やしていくことはできる。
「お祖母様、私……これから、もっといろいろなお話をしたいです。お母様のことも、私が知らなかったこの家のことも、たくさん教えていただきたいです」
マルグリットは嬉しそうに頷いた。
「もちろんよ。私も、あなたと過ごしたい時間がたくさんありますもの。急がなくていいから、少しずつお話ししましょうね」
エレノアは微笑み、温かな紅茶へ口をつけた。
その香りが胸の奥まで広がっていく。
今日、自分の意思を書類へ記したこと。
そして、その気持ちを家族が喜んでくれたこと。
その二つが、エレノアにとって何より嬉しかった。
◇ ◇ ◇
皇宮では、午後の遅い時間になって、修正された回答草案が関係部署へ回されていた。
アドリアンは提出した書類の控えを確認しながら、次に必要な手続きを整理していた。草案には、正式な婚約が成立していないこと、エレノア本人の拒絶が受領されていること、そして現在の取り扱いについて必要な確認を進めていることが記されている。
ただし、まだ皇室としての最終的な回答ではない。
関係部署での確認が終わるまでは、ロシュフォール公爵家へ送付することはできなかった。
そこへ、エドガールが入室した。
「草案は提出できたようだな」
「はい。ご指摘いただいた表現を修正し、確認済みの事実と、今後判断が必要な事項を分けて記載いたしました」
エドガールは頷き、机の上の控えへ目を通した。
「よろしい。これで、少なくとも何を確認しなければならないかは明確になった」
アドリアンは一礼した。
エドガールは少し考えてから、静かに続けた。
「第二王子殿下から、新たな申し入れはあるか」
「現時点ではございません。資料閲覧後も、縁談の継続を求める正式な意思表示は確認されておりません」
「分かった。では、引き続き事実に基づいて進めよう」
エドガールは書類を閉じた。
皇室の回答がどのような形になるのかは、まだ確定していない。
しかし、エレノアの拒絶が正式に受領され、第二王子本人にも伝えられたことは、すでに変わらない事実となっている。
その事実を、今後の判断から切り離すことはできなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、ロシュフォール公爵邸の庭園では、エレノアとセドリックがゆっくり歩いていた。
日中の暖かさが少し和らぎ、木々の間を抜ける風には涼しさが混じっている。花壇の端では庭師が道具を片づけており、遠くから水の流れる音が聞こえていた。
セドリックはエレノアの歩調に合わせながら、今日の書類について話していた。
「父上から、君が自分の希望を書いてくれたと聞いたよ。改めて言うけれど、僕はとても嬉しい」
「ありがとうございます、お兄様。私も、書いてよかったと思っています」
エレノアは少し照れながら答えた。
「でも、書類に名前を書く時、少し不思議な気持ちになりました。まだベルナールという姓なのに、ロシュフォール家の娘になりたいと書くなんて……」
「それは不思議なことじゃないと思うよ。今の名前と、これから望む名前が違うのは、手続きの途中だから当然だろう?」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「それに、僕たちは君が正式にロシュフォールの姓を名乗れる日を楽しみにしているけれど、その日が来るまで君を家族だと思わないわけじゃない」
エレノアは顔を上げた。
「……お兄様」
「君がここに来てから、家の中が少し賑やかになった気がするんだ。祖母上もよく笑うようになったし、父上も以前より家族と過ごす時間を大切にしているように見える」
セドリックは庭園の向こうへ目を向けた。
「もちろん、君が何か特別なことをしなければならないわけじゃない。ただ、ここにいてくれることが嬉しいんだよ」
その言葉に、エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前の家では、役に立たなければ居場所がなくなるような気がしていた。
勉強も礼儀作法も、家の仕事も、すべて失敗しないように努力していた。
けれど、セドリックは何かを成し遂げたからではなく、ただここにいることを喜んでくれている。
(私は、何かをしなくても、この家にいていいのかもしれない)
そう思うと、目元が少し熱くなった。
「……ありがとうございます。私も、この家に来てから、毎日が少しずつ楽しみになっているんです」
エレノアはゆっくり言葉を続けた。
「以前は、朝が来ることが怖い日もありました。でも今は、今日は何をしようかとか、お祖母様と何をお話ししようかとか、そんなことを考えられるようになりました」
セドリックは何も言わず、静かに耳を傾けていた。
「今日も、書類のお話は緊張しました。でも、終わったあとにお祖母様とお茶を飲んで、こうしてお兄様とお庭を歩けて……何だか、すごく幸せだなって思うんです」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
セドリックも、柔らかな笑みを返した。
「それなら、僕も嬉しいよ。これからも、そういう日を少しずつ増やしていこう」
「はい」
二人は再び歩き始めた。
庭園の小道には夕日が差し込み、木々の影が長く伸びている。
エレノアはその光景を眺めながら、今日一日を思い返した。
自分の希望を書類へ記した。
祖母と母の思い出を語り合った。
そして、兄と穏やかな時間を過ごしている。
その一つ一つが、以前の自分には想像できなかったものだった。
◇ ◇ ◇
夜、アルフォンスの執務室では、養女縁組に関する書類が丁寧に整理されていた。
エレノアが自分の意思で記した希望書も、その中に含まれている。
アルフォンスは書類を手に取り、そこに書かれた文字を静かに見つめた。
『私は、ロシュフォール公爵家の養女となることを希望いたします』
その一文には、エレノア自身の願いが込められている。
誰かに命じられたものではなく、家の都合で決められたものでもない。
彼女が自分で考え、自分の言葉で選んだ未来だった。
アルフォンスは書類をそっと置き、窓の外へ目を向けた。
妹アデラインが生きていたなら、この光景をどのように受け止めただろう。
娘がロシュフォール家へ戻り、自分の意思で新しい人生を選ぼうとしていることを、きっと喜んでくれたのではないか。
そう考えると、胸の奥に懐かしさと寂しさが広がった。
(アデライン、あの子は少しずつ、自分の未来を選べるようになっているよ)
アルフォンスは静かに息を吐いた。
養女縁組は、まだ正式に成立していない。
皇室からの返答も届いていない。
母の遺品についても、調査すべきことが多く残っている。
それでも、今日エレノアが自分の希望を書き残したことは、大切な前進だった。
アルフォンスは書類を丁寧にまとめ、保管のための封筒へ収めた。
その手つきには、普段以上の慎重さがあった。
これは、単なる事務的な書類ではない。
エレノアが自分の未来を選ぼうとした、その意思を示すものなのだから。
◇ ◇ ◇
同じ夜、エレノアは自室の机に向かい、日記を開いていた。
窓の外には静かな夜が広がり、机の横には母が使っていた額に収められた野ばらの刺繍が飾られている。
エレノアはその花を眺めてから、ゆっくり筆を取った。
『今日は、養女縁組について叔父様から説明を受けた』
『まだ正式に決まったわけではないけれど、私はロシュフォール家の娘になりたいという希望を書いた』
そこまで書くと、エレノアは少しだけ手を止めた。
今日、自分の名前を書いた時の感覚が蘇る。
ベルナールという姓。
十五年間名乗ってきた名前。
そして、これから名乗りたいと願っているロシュフォールという姓。
その二つの間には、まだ正式な手続きが残っている。
けれど、自分の気持ちはもう決まっていた。
『名前が変わっても、今までの私が消えるわけではないと、叔父様が教えてくださった』
『お母様との思い出も、これまで生きてきた時間も、全部私のものだと思えた』
エレノアは静かに微笑んだ。
以前の自分は、過去を忘れなければ幸せになれないと思っていたのかもしれない。
けれど、今は少し違う。
悲しかったことも、苦しかったことも、なかったことにはできない。
それでも、その経験だけが自分のすべてではない。
母に愛された記憶も、祖父母と再会した喜びも、叔父や兄に守られている安心感も、今の自分を形作っている。
エレノアは日記へ最後の一文を書き加えた。
『私は、私の名前も、これからの人生も、自分で選んでいきたい』
書き終えると、胸の奥が静かに温かくなった。
皇室からの返答は、まだ届いていない。
第二王子が自分の拒絶を正式に知り、縁談の資料を確認したことも、エレノアは知らなかった。
けれど、今日の彼女にとって何より大切だったのは、誰かに決められた未来ではなく、自分が望む未来を言葉にできたことだった。
エレノアは日記を閉じ、机の横に飾られた野ばらの刺繍へ目を向けた。
母が幼い頃に使っていた額。
そこへ収められた、自分の手で作った花。
過去と今が、静かに繋がっているように感じられた。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ向かった。
明日もまた、この家で朝を迎える。
そして、少しずつ自分の未来を選んでいく。
その願いを胸に、彼女は静かに目を閉じた。




