第52話 母の残した記録と、皇宮の新たな動き
朝の光がロシュフォール公爵邸の窓を照らし始めた頃、エレノアは寝台の中でゆっくりと目を覚ました。昨夜は日記を書き終えてからも、以前の寝室で見つかった紙束のことを少し考えていたが、いつの間にか眠っていたらしい。窓の外から聞こえる小鳥の声に耳を傾けているうちに、昨日の出来事が少しずつ思い出されてきた。
自分の名前が書かれた古い紙束を、初めて開いた。
最初の二枚には衣類に関する記録があり、二枚目には意味の分からない記号も並んでいた。まだ内容をすべて確認したわけではなく、何のために作られた記録なのかも分かっていないが、少なくとも幼い頃の自分に関係するものが残されていたことは確かだった。
(昨日は、思っていたよりも緊張していたのね。でも、途中で止めたいと言えたし、誰も嫌な顔をしなかったわ)
エレノアは胸元へ手を添え、静かに息を吐いた。以前の自分なら、途中でやめたいと思っても口にできず、最後まで無理をしていたかもしれない。今はまだ慣れないものの、自分の気持ちを伝えても大丈夫なのだと、少しずつ信じられるようになっていた。
寝台から降りて窓辺へ向かうと、庭園には朝露をまとった花々が並んでいた。昨日、マルグリットと歩いた小道も見えており、祖母と母の思い出を語り合った時のことが蘇る。
母に会いたいと口にした時、マルグリットは困った顔をしなかった。
ただ静かに手を握り、自分も同じ気持ちになることがあると話してくれた。その温もりを思い出すと、胸の奥に残っていた寂しさが、少しだけ柔らかなものへ変わっていく気がした。
エレノアは机へ目を向けた。
そこには、完成させた野ばらの刺繍が置かれている。淡い桃色の花びらは少し不揃いだったが、今ではその形も気に入っていた。
(今日は、お祖母様と額を選ぶ約束をしているのよね。どんな額が似合うかしら)
そう考えると、自然と口元が緩んだ。
母の遺品について調べることも大切だが、今の自分が作ったものを大切にすることも、同じくらい大切にしたい。エレノアは刺繍を丁寧に布で包み、身支度を整えるために呼び鈴へ手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、アルフォンスがいつものように穏やかな表情で家族を迎えていた。オーギュストは朝刊に目を通しており、セドリックは手元の本を閉じてから、エレノアへ挨拶をしてくれた。
「おはよう、エレノア。昨日はよく眠れた?」
「おはようございます、お兄様。はい。少し疲れていたみたいで、思っていたより早く眠ってしまいました」
「それならよかった。昨日は大切なものを確認した日だったからね。疲れるのも当然だと思うよ」
セドリックはそう言って微笑み、エレノアの前へ置かれた温かなスープに目を向けた。料理人のマティアスが用意した朝食は、野菜を柔らかく煮込んだスープと焼きたてのパンで、食堂には香ばしい匂いが漂っている。
エレノアはパンを小さくちぎりながら、アルフォンスへ視線を向けた。
「叔父様、昨日の紙束のことなのですが、エレーヌさんがほかの記録と照らし合わせてくださると伺いました。何か分かったら、私にも教えていただけますか?」
「もちろんだよ。ただ、照合には少し時間がかかると思う。昨日見つかった記号が何を意味しているのか、今ある資料だけで分かるとは限らないからね」
アルフォンスは急がせることのない口調で答えた。
「それから、確認できた事実と、まだ推測の段階にあることは分けて伝えるつもりだ。以前の衣類調査と関係があるかどうかも、確かめるまでは決めつけないようにしよう」
「はい。私も、昨日は少し期待してしまいました。でも、すぐに答えが出るとは限らないんですよね」
エレノアがそう言うと、オーギュストが新聞を畳んで顔を上げた。
「期待すること自体は悪いことではないよ。ただ、期待していた答えが見つからなかったとしても、調べたことが無駄になるわけではない。何が分からないのかを確かめることも、次へ進むためには必要だからね」
「……ありがとうございます、お祖父様」
エレノアは小さく頷いた。
昨日、紙束の中身を見た時には、幼い頃の衣類の名前が残っていたことが嬉しかった。けれど、その記録が失われた衣類や母の遺品に繋がるものなのかは、まだ分かっていない。
だからこそ、焦らずに調べていこうと思った。
食事が進んだ頃、マルグリットが穏やかな声で話題を変えた。
「エレノア、昨日の野ばらの刺繍だけれど、今日の午後に額を選んでみませんか? 昔使っていたものがいくつか残っているの。気に入るものがなければ、新しく用意してもいいですしね」
「はい、ぜひお願いします。実は、今朝もどんな額が似合うか考えていたんです」
エレノアが嬉しそうに答えると、マルグリットは目を細めた。
「それなら、午後のお茶の前に少し時間を取りましょう。あなたが作った花に似合うものを、一緒に探しましょうね」
セドリックが微笑みながら口を挟んだ。
「完成した刺繍、僕にも見せてもらえるかな。昨日から楽しみにしていたんだ」
「もちろんです、お兄様。少し不揃いな花びらもありますけれど、今はそこも気に入っているんです」
エレノアは少し照れながら答えた。
以前なら、出来栄えのよくない部分を誰かに見られることが怖かった。けれど今は、完成したものを見てもらいたいと思える。
その小さな変化が、朝の食卓をいっそう温かなものに感じさせた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、皇都セレディアの皇宮では、宮内行政局の執務室に新しい書類が運び込まれていた。
アドリアン・ルフェーブルは担当文官から受け取った報告書を開き、内容を一つずつ確認していた。そこには、前日に第二王子レオナードが縁談の初期資料を閲覧した際の発言と、閲覧した記録の範囲が記されている。
ベルナール伯爵家から受諾の返書が提出されていたこと。
エレノア本人の同意を示す正式な記録が確認されていないこと。
そして、レオナードが現時点では縁談の継続を正式に求めていないこと。
その三点が、特に重要な事項として整理されていた。
アドリアンは書類を机へ置き、静かに息を吐いた。
第二王子が資料を確認したことによって、縁談の経緯についての認識は以前より明確になった。しかし、皇室としてロシュフォール公爵家へどのような返答を送るかについては、まだ正式な決定が出ていない。
そこへ、エドガール・ヴェルヌイユが入室した。
「ルフェーブル、昨日の閲覧記録は確認できたか」
「はい。殿下は、ベルナール伯爵家からの受諾返書と、正式な婚約が成立していないことを示す記録をご覧になりました。また、エレノア様ご本人の同意を示す資料が存在しないことについても説明を受けておられます」
エドガールは頷き、机の上の書類へ目を向けた。
「殿下から、縁談の継続を求める申し入れは?」
「現時点ではございません。むしろ、まだ何も決めていないことを記録へ残すよう、担当文官へお伝えになったとのことです」
「そうか。では、その意思を正確に扱う必要があるな」
エドガールは椅子へ腰を下ろし、しばらく考え込んだ。
皇族との婚姻に関する案件では、家同士の合意や政治的な事情が重視されることもある。しかし、今回の縁談については、正式な婚約が成立していないことが確認されており、当事者であるエレノア本人が明確な拒絶を示している。
その事実を無視したまま、以前の受諾返書だけを根拠に話を進めることはできなかった。
「返答の草案を作成する段階へ進めよう」
エドガールがそう告げると、アドリアンは顔を上げた。
「ロシュフォール公爵家への正式な回答でございますね」
「ああ。ただし、まだ最終決定ではない。まずは確認できている事実を整理し、どのような文面が適切か検討するための草案だ」
エドガールは机の上の記録を指先で整えた。
「少なくとも、正式な婚約が成立していないこと、エレノア・ベルナール本人から婚約を望まないという意思が示されていること、その回答を皇室側で受領したことは、明確に記す必要があるだろう」
「承知いたしました。養女縁組については、現在準備段階であることを確認済みの事項として扱いますか?」
「そうだな。ただし、養女縁組の成立と縁談の取り扱いを混同しないように。令嬢の身分が正式に変わっていないことと、本人が婚約を拒絶していることは、別の問題だ」
アドリアンは頷き、必要な事項を書き留めた。
皇室からの返答がいつ完成するのかは、まだ分からない。
けれど、これまで確認作業に留まっていた案件が、正式な回答を準備する段階へ進んだことは確かだった。
◇ ◇ ◇
午前のロシュフォール公爵邸では、エレーヌ・フォシェが保全記録の整理を進めていた。
机の上には、以前ベルナール伯爵邸から提出された衣類に関する記録の写しと、昨日確認した紙束の最初の二枚について作成した記録が並んでいる。
エレーヌは、まず日付の形式を確認した。
古い記録には、衣類の種類や数量とともに、保管場所や移動先を示しているように見える記号が残されている。しかし、その記号が実際に何を意味するのかについては、まだ確かな資料が見つかっていなかった。
彼女は慎重に筆を進め、確認できたことだけを書き留めた。
紙束の一枚目には、衣類の種類と数量に関する記載がある。
二枚目には、衣類の名称に加えて、移動や保管に関係する可能性のある記号が記されている。
ただし、記号の意味は未確定であり、以前の衣類調査で確認された無断の仕立て直しや所在不明の品々との関係も、まだ明らかではない。
そこへ、アルフォンスが訪れた。
「エレーヌ、昨日の記録について、何か気づいたことはあるかな」
エレーヌは立ち上がって一礼し、机の上の資料を示した。
「現時点では、確かな結論には至っておりません。ただ、二枚目に記されていた記号について、以前の衣類管理記録にも似た形式のものが存在することは確認できました」
「同じ意味で使われている可能性があるということかな」
「その可能性はございます。ただし、記号の形が似ているだけでは、同じ意味と断定できません。作成された時期や担当者が異なる場合、同じ記号でも別の用途に使われていた可能性がございます」
アルフォンスは頷いた。
「なるほど。では、まずは記録が作られた時期を確認する必要があるね」
「はい。また、紙束の残りの頁を確認すれば、記号の意味を推測できる情報が含まれているかもしれません。ただし、エレノア様が昨日は二枚目までで確認を止められましたので、こちらの判断で残りを開くことはしておりません」
「それでいい。あの子が続きを確認したいと思うまでは、今ある資料だけで進めよう」
アルフォンスは落ち着いて答えた。
エレーヌはその言葉を聞き、改めて頷いた。
ロシュフォール公爵家へ来てからのエレノアは、以前より少しずつ自分の希望を伝えられるようになっている。昨日も、最初は緊張していたものの、自分の意思で紙束を開き、二枚目まで確認したところで中断を希望した。
その選択を尊重することが、調査を進めるうえでも大切なのだと、エレーヌは感じていた。
「それから、エレノア様には今日の確認結果をお伝えした方がよろしいでしょうか」
「そうだね。ただ、まだ確かな結論が出ていないことも一緒に伝えてほしい。期待させるために曖昧なことを言う必要はないし、何も分からなかったように扱う必要もない」
「承知いたしました」
エレーヌは記録を閉じ、必要な報告書をまとめ始めた。
紙束の中身は、まだ大部分が未確認のままだ。
けれど、そこに記された情報が、以前の衣類管理と何らかの関係を持っている可能性があることは、少しずつ見えてきていた。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアはマルグリットの私室を訪れていた。
部屋の中央に置かれた小卓には、いくつかの額が並べられている。木製のものや細い金色の縁取りが施されたものなど、それぞれ形や色が異なり、エレノアは興味深そうに一つずつ眺めていた。
「こんなにたくさんあるんですね」
エレノアが驚いたように言うと、マルグリットは楽しそうに笑った。
「昔、刺繍や小さな絵を飾るために使っていたものなの。今は使っていないものも多いから、気に入ったものがあれば選んでちょうだい」
エレノアは包んでいた布を開き、野ばらの刺繍を小卓へ置いた。
淡い桃色の花びらが、白い布の上で柔らかく浮かび上がる。
マルグリットは刺繍を手に取り、しばらく眺めた。
「やっぱり素敵ね。花びらの形も、あなたらしい優しさがあって好きですよ」
「ありがとうございます。でも、まだ少し不揃いなところがあるんです」
「そこも含めて、あなたが作った花でしょう?」
マルグリットは微笑み、木製の額を一つ手に取った。
「例えば、こちらはどうかしら。色が落ち着いているから、花の淡い色がよく映えると思うの」
エレノアは額と刺繍を見比べた。
濃すぎない茶色の木枠は、白い布と桃色の花を優しく引き立てている。
「……綺麗です。これなら、お部屋に飾っても落ち着いた感じになりそうですね」
「そうね。あなたのお部屋の窓辺にも似合いそうだわ」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
その時、マルグリットが別の額を手に取った。
「こちらも見てみましょうか。少し古いものだけれど、アデラインが幼い頃に使っていた額なの」
エレノアは思わず顔を上げた。
「お母様が、ですか?」
「ええ。あの子が初めて完成させた小さな刺繍を飾った時のものなの。中身は別の場所へ移したけれど、額だけは残しておいたのよ」
マルグリットは懐かしそうに額を眺めた。
それは、細い木枠に小さな花の模様が彫られたものだった。長い年月を経て、角の部分には僅かな擦れが見られるものの、丁寧に保管されていたことが分かる。
エレノアはそっと手を伸ばした。
「……触ってもいいですか?」
「もちろんよ」
エレノアは額を受け取り、指先で花の模様をなぞった。
母が幼い頃に使っていたもの。
そう思うだけで、胸の奥が温かくなった。
「お母様は、どんな刺繍を飾っていたんですか?」
マルグリットは少し考え、懐かしそうに微笑んだ。
「小さな青い花だったと思うわ。花びらの形がなかなか揃わなくて、何度もやり直していたの。完成した時には、家族全員に見せて回っていたのよ」
エレノアは思わず笑った。
「お母様も、そんなことをなさっていたんですね」
「ええ。何でも最初から上手にできたわけではないの。失敗して、悔しがって、それでもまた挑戦していたわ」
マルグリットの声には、娘を懐かしむ温かさが滲んでいた。
エレノアは額を見つめながら、母の少女時代を思い浮かべた。
小さな刺繍枠を抱え、何度も針を動かしていた母。
完成した作品を家族へ見せて回り、褒められて嬉しそうに笑っていた母。
その姿は、エレノアが知っている優しい母と、どこか重なるような気がした。
「……お祖母様、この額を使わせていただいてもいいですか?」
エレノアが尋ねると、マルグリットは少し驚いたように目を瞬かせた。
「もちろんよ。でも、ほかの額でもいいのですよ。アデラインが使っていたものだからといって、無理に選ばなくてもいいの」
「無理ではありません。私、この額が好きです。お母様が使っていたものに、私の作った花を飾れたら嬉しいなって思ったんです」
マルグリットはしばらくエレノアを見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「そう。では、この額にしましょうか」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
母が幼い頃に使っていた額。
そこへ、今の自分が作った野ばらの刺繍を飾る。
それは、失われたものを取り戻すこととは少し違う。
けれど、母から受け継いだものを、自分の手で新しい形にしていくような気がした。
◇ ◇ ◇
同じ頃、皇宮の第二王子の執務室では、レオナードが午後の講義を終え、机に向かっていた。
窓から差し込む光は少し傾き始めており、庭園の木々が長い影を落としている。机の上には、昨日確認した縁談の資料について、担当文官がまとめた簡単な記録が置かれていた。
レオナードはその書類を手に取り、もう一度目を通した。
ベルナール伯爵家からは、縁談を受け入れる返書が提出されている。
しかし、エレノア本人の同意を示す記録は存在しない。
そして、現在のエレノアは、第二王子との婚約を望んでいないと明確に伝えている。
その事実を改めて確認し、レオナードは椅子の背へ身体を預けた。
(伯爵家は受け入れていたのに、本人は望んでいなかった。最初からそうだったのか、それとも途中で気持ちが変わったのか……)
昨日、担当文官へ尋ねた時も、答えは得られなかった。
今ある記録だけでは、当時のエレノアが何を考えていたのか分からない。
レオナードはしばらく窓の外を眺めた。
皇族との縁談を相手から断られることは、彼にとって予想外の出来事だった。だからこそ、最初に拒絶を知らされた時には、驚きとともに不快感も覚えた。
しかし、資料を確認した今では、別の疑問が生まれていた。
そもそも、自分はエレノア本人のことを、どれほど知っていたのだろうか。
家柄や年齢については聞いていた。
けれど、どのような性格なのか、何を望んでいるのか、どんな暮らしをしているのかについては、ほとんど知らなかった。
その状態で、縁談が進むことを当然のように考えていた。
(……私も、相手がどう思っているかを確かめようとはしていなかったな)
レオナードは小さく息を吐いた。
そのことに気づいたからといって、拒絶された時の不快感がすぐに消えたわけではない。
ただ、伯爵家が受諾したという事実だけでは、エレノア本人の意思まで分かったことにはならないのだと、以前よりはっきり理解できるようになっていた。
そこへ、側近の文官が入室した。
「殿下、宮内行政局よりご報告がございます。ロシュフォール公爵家への返答について、草案の作成準備が進められているとのことです」
レオナードは顔を上げた。
「もう返答を作るのか?」
「はい。ただし、まだ正式な決定ではございません。確認済みの事実を整理し、必要な手続きを進めるための草案であると伺っております」
レオナードは少し考えた。
自分がまだ何も決めていないことは、昨日の閲覧時に伝えてある。
それでも、皇室としての返答を準備する必要があるのだろう。
「……分かった。私が縁談の継続を求めているという扱いにはしないように伝えてくれ」
「承知いたしました」
側近は一礼した。
レオナードは書類を机へ戻し、静かに息を吐いた。
エレノア本人が婚約を望んでいないという事実は、すでに変えようのないものとして存在している。
それをどう受け止めるべきなのか。
そして、自分は今後どうするべきなのか。
答えはまだ出ていなかった。
ただ、少なくとも以前のように、伯爵家が受け入れたのだから本人も同じ気持ちだろうと考えることは、もうできなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、ロシュフォール公爵邸では、エレノアが完成した刺繍をセドリックへ見せていた。
マルグリットと一緒に選んだ額へ収められた野ばらは、木枠の落ち着いた色合いによって、以前よりも柔らかく見える。
セドリックは額を受け取り、しばらく眺めた。
「綺麗だね。花びらの色も優しいし、額ともよく合っている」
「ありがとうございます、お兄様。実は、この額はお母様が幼い頃に使っていたものなんです」
エレノアがそう言うと、セドリックは少し驚いたように目を見開いた。
「アデライン叔母様が?」
「はい。お祖母様が残してくださっていたんです。お母様も昔、刺繍を飾っていたそうで……私も、この額を使わせていただくことにしました」
セドリックは額をもう一度眺め、柔らかく微笑んだ。
「それは素敵だね。アデライン叔母様が使っていたものを、今度は君が使うんだ」
「はい。何だか、お母様と一緒に作ったみたいな気持ちになれるんです」
エレノアは少し照れながら答えた。
セドリックは額を丁寧に返し、エレノアの表情を見つめた。
「君がそう思えるなら、きっといい選択だったんだろうね。どこへ飾るかは、もう決めたの?」
「まだ迷っています。窓辺もいいですし、机の近くもいいかなって」
「それなら、部屋の中で一番よく目に入る場所にしてみたらどうかな。せっかく大切に作ったものなんだから」
エレノアは少し考え、頷いた。
「そうですね。明日の朝、リディアと相談してみます」
二人はしばらく刺繍の話を続けた。
やがて、エレノアが少しだけ表情を変えた。
「お兄様、昨日の紙束のことなのですが……」
セドリックは静かに顔を向けた。
「うん。父上から、最初の二枚を確認したと聞いているよ。どうだった?」
「衣類の記録が残っていました。でも、何のための記録なのかは、まだ分からないんです。少し期待していたので、答えが見つからなかったことは残念でした」
エレノアは額を膝の上へ置き、ゆっくり続けた。
「でも、途中で止めてもいいって言っていただけたことが、すごく嬉しかったんです。前なら、何かを始めたら最後までやらなければいけないと思っていたので」
セドリックはその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「それは、君にとって大きなことだったんだね」
「はい。私、少しずつ変われているんでしょうか」
エレノアが尋ねると、セドリックは穏やかに頷いた。
「変わってきていると思うよ。でも、無理に変わろうとしなくてもいいんだ。君が安心して、自分の気持ちを言えるようになることが一番大切だから」
その言葉に、エレノアは微笑んだ。
以前の自分は、誰かに認めてもらうために、何かをできるようにならなければならないと思っていた。
けれど今は、何かができるようになることよりも、自分の気持ちを大切にすることを教えてもらっている。
その違いが、少しずつ分かるようになってきた。
◇ ◇ ◇
夜、アルフォンスの執務室には、エレーヌからの報告書が届けられていた。
衣類に関する紙束の二枚目には、以前の管理記録と似た形式の記号が残されている。
しかし、その意味はまだ確定していない。
アルフォンスは報告書を読み終え、机の上へ静かに置いた。
この記録が、エレノアの失われた衣類や母の遺品に繋がるものなのかどうかは分からない。
ただ、調べるべきことが一つ増えたのは確かだった。
以前の衣類調査では、エレノアの服の一部が本人の承諾なく仕立て直され、さらに所在が確認できないものも残されていた。
その事実と、今回見つかった紙束の記録が関係している可能性はある。
けれど、証拠がない段階で結びつけることはできなかった。
アルフォンスは椅子の背へ身体を預け、少し考え込んだ。
(エレノアが自分の意思で確かめたいと思ったことを、これからも大切にしていかなければならない。調査を進めることと、あの子の気持ちを守ることは、どちらも欠かせないのだから)
机の上には、養女縁組に関する書類も並んでいる。
ベルナール伯爵からの不反対の返書は受け取っているが、正式な手続きはまだ終わっていない。
さらに、皇室からの正式な返答も待っている。
進めなければならないことは多い。
それでも、エレノアがこの家で少しずつ笑顔を取り戻していることを思えば、一つ一つを丁寧に進めていこうと思えた。
◇ ◇ ◇
同じ夜、皇宮の宮内行政局では、ロシュフォール公爵家への返答の草案が作成され始めていた。
アドリアンは机に向かい、確認済みの事実を整理していた。
正式な婚約は成立していない。
エレノア本人は、第二王子との婚約を望んでいない。
その意思は、ロシュフォール公爵家から正式な書面で届けられ、皇室側で受領されている。
そして、第二王子レオナードも、その拒絶を正式に知らされている。
アドリアンは一つずつ文章を整え、余計な推測を加えないよう慎重に筆を進めた。
この草案が、そのまま正式な返答になるわけではない。
必要な確認を経て、適切な形へ整えられることになる。
それでも、皇室としての回答へ向けた準備が始まったことは、これまでの状況から一歩進んだことを意味していた。
アドリアンは筆を止め、窓の外へ視線を向けた。
皇都の夜景が遠くに広がり、街の灯りが静かに揺れている。
ロシュフォール公爵家では、十五歳の少女がこの返答を待っているはずだった。
彼女がどのような思いで拒絶の意思を伝えたのか、アドリアンには分からない。
けれど、その意思を正確に扱うことが、自分たちの役目なのだと考えていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸の自室では、エレノアが日記を開いていた。
机の上には、母が幼い頃に使っていた額へ収められた野ばらの刺繍が置かれている。
今日、マルグリットと一緒に選んだものだった。
エレノアは額を眺め、ゆっくり文字を書き始めた。
『今日は、お祖母様と一緒に刺繍の額を選んだ』
『お母様が幼い頃に使っていた額を、私も使わせていただくことになった』
『とても嬉しかった』
そこまで書くと、エレノアは少しだけ微笑んだ。
母の遺品は、まだすべて見つかったわけではない。
けれど、母が大切に使っていたものが、今こうして自分の手元にある。
そのことが、胸の奥を温かくしてくれた。
続けて、昨日開いた紙束のことも書き留めた。
『衣類の記録については、まだ分からないことが多い』
『でも、少しずつ確かめていきたい』
エレノアはペンを止め、窓の外へ目を向けた。
皇室からの返答は、まだ届いていない。
第二王子が自分の拒絶を知り、縁談の資料を確認したことも、エレノアは知らなかった。
けれど、今夜の彼女には、今日一日を穏やかに過ごせたという確かな実感があった。
母の思い出に触れ、祖母と笑い、兄と話し、自分の作った刺繍を大切に飾ろうと思えた。
そんな日々を、これからも続けていきたい。
エレノアは最後に一文を書き加えた。
『私は、これからも自分の大切なものを、自分で選んでいきたい』
日記を閉じると、窓の外には静かな夜が広がっていた。
明日も、この家で朝を迎える。
そして、少しずつ自分の未来を考えていく。
その小さな願いを胸に、エレノアは灯りを落とした。
彼女の知らないところで、皇室からの返答に向けた準備は進んでいる。
しかし今夜のエレノアにとって何より大切だったのは、誰かに決められた未来ではなく、自分が選んだ今日という一日を、穏やかな気持ちで終えられたことだった。




