第51話 結ばれた紐の向こうに
ロシュフォール公爵邸の朝は、庭園を渡る涼しい風とともに始まった。昨夜のうちに降った雨が花壇の土を湿らせており、開け放たれた窓からは、濡れた草木の匂いが微かに漂ってくる。エレノアは寝台の上でゆっくり身体を起こすと、窓辺に置かれた小さな刺繍枠へ目を向けた。
白い布には、淡い桃色の野ばらが一輪咲いている。花びらの一枚だけが少し大きくなってしまったものの、昨日、マルグリットから額に入れて飾ってはどうかと勧められた作品だった。エレノアは寝台から降り、刺繍を手に取ると、朝の光に透かすようにして眺めた。
(お祖母様は、私が作ったものだから飾りたいって言ってくださったんだわ)
ベルナール伯爵邸にいた頃、自分の手で作ったものを誰かに見せることは、あまり好きではなかった。出来栄えを褒められるより先に、どこが不十分なのかを指摘されることが多く、何かを完成させても安心できなかったからだ。
けれど、この野ばらは違う。少し不揃いな花びらも含めて、今の自分が大切に作ったものだと思える。
エレノアは刺繍を机へ戻し、身支度を整えるために呼び鈴へ手を伸ばした。ほどなくしてリディアが入室し、いつもの穏やかな挨拶とともに朝の支度を手伝ってくれる。
「おはようございます、エレノア様。本日は朝食のあと、アルフォンス様から少しお時間をいただけると伺っております。昨日ご相談なさった件について、確認したいことがあるそうです」
「おはよう、リディア。ええ、昨日、叔父様とお話ししたの。まだ決めきれていないこともあるけれど、今日はもう少し考えてみようと思っているわ」
リディアは髪を整える手を止めず、鏡越しにエレノアの表情を確かめた。
「承知いたしました。もし途中でお疲れになりましたら、どうぞ遠慮なくお申しつけください。お茶をご用意することもできますし、別のお部屋でお休みいただくこともできます」
「ありがとう。あなたが近くにいてくれるだけでも、安心できると思う」
そう答えると、リディアの口元に柔らかな笑みが浮かんだ。彼女は必要以上に事情を尋ねることなく、最後に髪の結び目を整え、淡い色のリボンを添えてくれた。
鏡に映る自分を見つめながら、エレノアは今日の予定を思い返した。
以前の寝室から保全された品々のうち、「エレノア衣類」と表書きされた紙束について、確認の準備を進めることになっている。
まだ開くと決めたわけではない。けれど、いつか自分の目で確かめたいと思っていることも、確かだった。
母が生きていた頃の衣類や、母から贈られたものがどこへ行ってしまったのか。その手掛かりが残っているかもしれないという期待と、何も分からないかもしれないという不安が、胸の中で静かに重なっていた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エレノアはアルフォンスの執務室へ向かった。
扉の前で一度立ち止まると、手のひらに少し汗をかいていることに気づいた。昨夜までは落ち着いて考えられていたはずなのに、実際に相談する時間が近づくと、どうしても身体が緊張してしまう。
それでも、引き返したいとは思わなかった。
控えめに扉を叩くと、室内からアルフォンスの声が返ってきた。エレノアが入室すると、叔父は机に広げていた書類を脇へ寄せ、窓際の小卓へ案内してくれた。
「おはよう、エレノア。よく眠れたかな」
「はい、叔父様。少し緊張していますけれど、体調は大丈夫です」
「それならよかった。今日は、昨日決めたことを確認するところから始めよう。何かを急いで開かなければならない日ではないからね」
アルフォンスはそう言って椅子を勧め、自分も向かい側へ腰を下ろした。
小卓には、エレーヌ・フォシェが整理した保全記録の写しが置かれている。紙束そのものは、まだ運び込まれていなかった。
「まず、昨日の相談で決まったことを確認しておきたい。お前が気になっているのは、『エレノア衣類』と表書きされた紙束で、確認する場合にはマーサとエレーヌに立ち会ってもらいたい。リディアにも近くにいてほしいという希望だったね」
「はい。マーサなら、昔の私の服について覚えていることがあるかもしれませんし、エレーヌさんには見つかったものを正確に記録していただきたいんです」
エレノアは膝の上で重ねた手を見つめ、それから少しだけ顔を上げた。
「リディアには、できれば同じお部屋にいてもらいたいです。何かをしてもらわなくても、近くにいてくれると安心するので」
「分かった。そのように手配しよう。もちろん、私も必要なら立ち会えるけれど、どうしたいかな」
その問いに、エレノアはすぐには答えなかった。
アルフォンスがそばにいてくれれば心強い。けれど、母の遺品や自分の衣類に関するものを調べる時、叔父にどこまで見てもらいたいのか、自分でもまだ整理できていなかった。
「……叔父様には、最初に一緒にいていただきたいです。でも、もし私が一人で考えたくなったら、少し席を外していただくことはできますか?」
「もちろんだよ。私が立ち会うことも、お前が途中で一人になりたいと思うことも、どちらも遠慮する必要はない」
アルフォンスは穏やかに答えたあと、記録の写しをエレノアの方へ向けた。
「もう一つ、確認しておきたいことがある。紙束を開いたとしても、書かれている内容をその場ですべて読み進める必要はない。表紙だけを見て終わってもいいし、最初の一枚を確認したところで止めてもいいんだ」
「……そんなふうに、途中で区切ってもいいんですね」
「もちろん。何が入っているか分からないものだからこそ、少しずつ確かめればいい。調査の都合でお前を急がせるつもりはないよ」
エレノアは小さく頷いた。
以前、ベルナール伯爵邸で何かを命じられた時には、途中で止めるという選択肢はほとんどなかった。終わるまで続けることが当然で、疲れたと口にすれば、怠けていると思われることさえあった。
けれど今は、何をどこまで確かめるかを、自分で決められる。
(調べたいと思ったのも私だし、途中で止めたいと思うのも、私の気持ちでいいんだわ)
そう考えると、胸の奥にあった緊張が少し和らいだ。
「叔父様、今日、紙束を見せていただくことはできますか?」
アルフォンスはエレノアの表情を確かめた。
「もちろん。ただし、開くかどうかは、実物を見てから決めてもいい。まずは保全されている状態のまま持ってきてもらおうか」
「はい。お願いします」
エレノアが答えると、アルフォンスは呼び鈴を鳴らし、担当者へ準備を伝えた。
その間、二人は別の話題に移った。
昨日完成した野ばらの刺繍について話すと、アルフォンスは嬉しそうに笑い、ぜひ見せてほしいと言ってくれた。母アデラインも幼い頃には同じ花を何度も刺繍していたそうで、アルフォンスは妹が作った不揃いな花の模様を、今でもよく覚えているらしい。
「アデラインは、最初の頃、花びらを大きく作りすぎることが多かったんだ。本人は気にしていたけれど、私には元気な花に見えてね。そう伝えたら、しばらく機嫌を損ねられたことがあったよ」
「お母様が、叔父様に怒ったんですか?」
「怒ったというより、真剣に作っているのにからかわれたと思ったらしい。あとでちゃんと説明したら、笑ってくれたけれどね」
エレノアは思わず笑った。
母が幼い頃に作った刺繍と、自分が昨日完成させた野ばら。二つの花を思い浮かべると、会ったことのない少女時代の母が、少しだけ近くに感じられた。
母の遺品を調べることは、悲しい記憶に触れることだけではないのかもしれない。
今まで知らなかった母の姿を、少しずつ見つけることでもある。
そんな考えが浮かんだ時、エレノアは先ほどより落ち着いた気持ちで、これから運ばれてくる紙束を待つことができた。
◇ ◇ ◇
皇宮では、第二王子レオナードが前日に申し出た資料の閲覧について、宮内行政局で確認が進められていた。
アドリアン・ルフェーブルは、保管されている書類のうち、第二王子本人へ提示できる範囲を整理していた。縁談が持ち込まれた当初の記録、ベルナール伯爵家からの受諾返書、そして正式な婚約が成立していないことを確認した資料が、机の上に順序よく並べられている。
そこへ、上席文官エドガール・ヴェルヌイユが入室した。
「準備は進んでいるか、ルフェーブル」
「はい。殿下からのご希望に沿って、縁談の経緯を確認できる資料を整理しております。ただし、ロシュフォール公爵家から届いた回答のうち、保護の事情や養女縁組に関する詳細については、閲覧の必要性を別途確認した方がよいと考えております」
エドガールは頷き、机の上の書類へ目を通した。
「そうだな。殿下がご自身に関わる縁談の経緯を知りたいと望まれるのは自然なことだ。しかし、相手方の個人的な事情まで、無条件にすべて閲覧できるというわけではない」
「はい。今回の拒絶については、すでにご本人へ正式に報告されております。まずは縁談がどのような経緯で持ち込まれ、どの段階まで進んでいたのかを確認できる資料を用意いたします」
アドリアンは一枚の書類を取り上げた。
そこには、ベルナール伯爵家からの受諾返書が提出された際の記録が残されている。
当主ロベルト・ベルナールが縁談を受け入れる意思を示したことは確認できる。しかし、エレノア本人の意思について、別途確認した記録は見当たらなかった。
「……やはり、ここが重要になるな」
エドガールが呟くと、アドリアンは頷いた。
「はい。伯爵家の受諾をもって、本人の同意まで確認されたと扱うことはできません。殿下にも、その点を正確にお伝えする必要がございます」
「その通りだ。皇族の婚姻に関わる案件だからこそ、記録上の事実を曖昧にしてはならない」
エドガールは書類を戻し、少し考えてから続けた。
「それから、殿下が資料を確認されたあと、どのようなご意向を示されるかについては、改めて正式な記録を残してもらいたい。ただし、こちらから結論を誘導するような説明は避けることだ」
「承知いたしました」
アドリアンは深く一礼した。
第二王子が拒絶の意思を知ったことは、すでに記録されている。
しかし、レオナードがその事実をどのように受け止め、今後の縁談について何を望むのかは、まだ明確になっていなかった。
今回の閲覧によって何かが変わる可能性はある。けれど、それがどのような変化になるのかを、文官たちが先回りして決めることはできなかった。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸では、午前の遅い時間になって、保全された紙束がアルフォンスの執務室へ運び込まれた。
小卓の上には清潔な布が敷かれ、その中央へ、紐で結ばれた薄い紙束が慎重に置かれる。紙の端には年月による変色が見られたものの、表書きはまだ読み取れる状態だった。
エレノアは椅子に座ったまま、しばらくその紙束を見つめていた。
表面には、確かに自分の名前が記されている。
『エレノア衣類』
その下には、日付と思われる数字が続いていた。
しかし、何のためにまとめられたものなのか、誰が記したのかは分からない。
「エレノア様、こちらが以前の寝室の右下の引き出しから見つかった紙束でございます」
エレーヌが落ち着いた声で説明した。
「発見時から紐は解かれておらず、中身も確認しておりません。現在の保全状態については、記録と照合済みでございます」
エレノアは頷き、少しだけ身を乗り出した。
紙束は思っていたよりも薄い。数枚の紙が重ねられているように見えるが、紐が結ばれているため、正確な枚数までは分からなかった。
「……これが、私の部屋にあったんですね」
「はい。右下の引き出しの中で、ほかの品々とともに発見されました。ただし、いつ、誰がそこへ入れたのかについては、まだ確認できておりません」
エレーヌの説明を聞きながら、エレノアは紙束から目を離せなかった。
自分の名前が書かれている。
それだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
ベルナール伯爵邸では、何かが自分の名前で管理されていても、その内容を知らされないことがあった。衣類や持ち物についても、いつの間にか別の場所へ移されていることがあり、理由を尋ねると、余計なことを気にするなと言われることもあった。
だからこそ、目の前の紙束が何を意味しているのか、確かめたい気持ちが強くなっていた。
「エレノア、今の気持ちはどうかな」
アルフォンスが静かに尋ねた。
エレノアは少し考えてから答えた。
「怖いです。でも……開いてみたい気持ちもあります。もし私の服のことが書かれているなら、知っておきたいんです」
アルフォンスは頷いた。
「分かった。では、今日はここで開くこともできる。ただし、マーサがまだ到着していないから、希望していた立ち会いの形を整えてからにしよう」
「はい。マーサが来るまで待ちたいです」
エレノアはそう答え、椅子の背へ身体を預けた。
急がなくてもいい。
そのことを自分へ言い聞かせるように、ゆっくり息を整える。
ほどなくして、マーサとリディアが部屋へ入ってきた。
マーサはエレノアの顔を見ると、心配そうに眉を寄せたものの、何も言わずに一礼した。リディアは小卓から少し離れた場所へ椅子を用意し、必要な時にすぐ近づける位置へ腰を下ろした。
「マーサ、来てくれてありがとう」
エレノアが声をかけると、マーサは柔らかく微笑んだ。
「お呼びいただけて嬉しゅうございます。エレノア様が確かめたいとお思いになったことなら、私に分かる範囲でお手伝いさせていただきます」
「……ありがとう。もし何か思い出したことがあったら、教えてほしいの」
「はい。ただ、覚えていることと、確かではないことは分けてお話しいたしますね」
その言葉に、エレノアは安心したように頷いた。
マーサは以前から、エレノアの母アデラインに関わることや、伯爵邸での暮らしについて、覚えている範囲で話してくれていた。
けれど、分からないことを無理に答えようとはしない。
その慎重さが、今のエレノアにはありがたかった。
エレーヌは立ち会う人々の名前を記録し、紙束の現在の状態を確認した。
「それでは、エレノア様。紐を解く前に、もう一度だけ確認いたします。今から中身を開いてもよろしいでしょうか」
エレノアは紙束を見つめた。
薄い紙の向こうに、何が残されているのかは分からない。
母の思い出に繋がるものかもしれないし、ただの事務的な記録かもしれない。
それでも、自分の名前が書かれたものを、自分の意思で確かめたい。
「……はい。お願いします」
エレーヌは静かに頷き、結ばれていた紐へ手を伸ばした。
古い紙を傷つけないよう、結び目を少しずつ緩めていく。紐が解かれると、重ねられていた紙の端が僅かに浮き、長く閉じられていたものが初めて開かれる気配がした。
エレノアは思わず息を止めかけたが、すぐにゆっくり吐き出した。
エレーヌは一番上の紙を持ち上げ、文字が読める向きへ整えた。
そこには、衣類の種類と思われる項目が、細かな文字で並んでいた。
エレノアは目を見開いた。
「……本当に、服のことが書いてあるんですね」
「そのようでございます。ただし、まだ最初の一枚しか確認しておりませんので、全体がどのような記録なのかは分かりません」
エレーヌは落ち着いて答え、紙をエレノアが見やすい位置へ置いた。
そこには、衣類の種類や数量に関する記載があった。
ただし、誰が作成した記録なのか、何の目的でまとめられたものなのかは、すぐには判断できなかった。
エレノアは一つずつ文字を追った。
幼い頃に着ていたような衣類の名前が見つかると、胸の奥に懐かしさが広がった。母が生きていた頃、季節の変わり目に新しい服を選んでもらったことを思い出したからだ。
けれど、その記憶と目の前の記録が直接繋がっているのかどうかは、まだ分からない。
「マーサ、この名前の服……覚えている?」
エレノアが指差したのは、薄い色の外出着について記された一行だった。
マーサは少し身を寄せ、文字を確認した。
「……似たようなものを、お召しになっていた記憶はございます。ただ、こちらに書かれている品と同じものかどうかは、今のところ断言できません」
「そうよね。私も、何となく覚えている気がするだけなの」
エレノアは小さく頷いた。
懐かしいという気持ちだけで、記録の意味を決めつけてはいけない。
そのことは、これまでの調査で何度も教えてもらっていた。
エレーヌは確認できた内容を記録し、次の紙へ進む前にエレノアへ目を向けた。
「エレノア様、続けて確認なさいますか。それとも、今日はここで区切りましょうか」
エレノアは少し考えた。
まだ怖さは残っている。
けれど、最初の一枚を見たことで、もっと知りたいという気持ちも生まれていた。
「……もう一枚だけ、見てみたいです」
「承知いたしました」
エレーヌは次の紙を慎重に持ち上げた。
そこには、先ほどとは異なる形式の記載があった。
衣類の種類とともに、移動や保管に関するものと思われる短い記号が並んでいる。
エレノアは眉を寄せた。
「これは……どういう意味でしょうか」
エレーヌもすぐには答えなかった。
記号の意味が分からない以上、衣類がどこへ移されたのか、誰が扱ったのかを断定することはできない。
「現時点では、記録の形式を確認する必要がございます。ほかの帳簿や保管記録と照合すれば、何か分かるかもしれません」
その説明を聞いたアルフォンスが、静かに口を開いた。
「以前の衣類調査で確認した記録と照らし合わせることはできそうかな」
「可能性はございます。ただし、こちらの記号が同じ意味で使われているかどうかを確かめなければなりません。今の段階で、既存の調査結果と直接結びつけることは避けた方がよいかと存じます」
「分かった。では、必要な照合の準備だけ進めておいてくれ」
エレーヌは頷いた。
エレノアは二枚目の紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そこには、自分の衣類に関係しているらしい記録が残されている。
しかし、それが何を意味しているのかは、まだ分からない。
期待していた答えがすぐに見つかったわけではなかった。
それでも、何も知らなかった時とは違う。
少なくとも、この紙束が衣類に関する記録を含んでいることは分かった。
(全部を一度に知らなくてもいい。今日は、ここまで分かったんだわ)
エレノアはゆっくり息を吐き、顔を上げた。
「叔父様、今日はここで止めてもいいですか?」
「もちろんだよ。よく自分の気持ちを伝えてくれたね」
アルフォンスがそう答えると、エレノアは安心したように微笑んだ。
エレーヌは確認した二枚の内容と、まだ確認していない残りの紙について記録した。
紙束は再び丁寧にまとめられ、保全のための包みへ戻される。
エレノアはその様子を見守りながら、胸の奥に不思議な感覚が広がるのを感じていた。
怖いと思っていたものを、自分の意思で開くことができた。
そして、途中で止めたいと伝えた時、誰も責めなかった。
それは、紙束の中身を知ったことと同じくらい、エレノアにとって大切な経験だった。
◇ ◇ ◇
確認を終えたあと、エレノアはリディアとともに自室へ戻った。
廊下を歩く間、身体の奥に残っていた緊張が少しずつ解けていく。窓から差し込む午後の光は穏やかで、庭園では小鳥の声が聞こえていた。
「エレノア様、お疲れではございませんか?」
リディアが尋ねると、エレノアは少し考えてから頷いた。
「少し疲れたわ。でも、嫌な疲れ方ではないの。ずっと気になっていたものを、自分で確かめられたからかもしれない」
リディアは微笑み、歩く速さを少し緩めた。
「それなら、今日はゆっくりお休みくださいませ。お部屋でお茶を召し上がりながら、少し落ち着かれるのもよろしいかと思います」
「そうね。お願いしてもいいかしら」
「もちろんでございます」
自室へ戻ると、エレノアは窓際の椅子へ腰を下ろした。
机の上には、昨日完成した野ばらの刺繍が置かれている。
その花を眺めているうちに、母のことを思い出した。
今日見た衣類の記録が、母と直接関係しているのかどうかは分からない。
けれど、幼い頃の服の名前を見た時、母が自分のために衣類を選んでくれた日のことが、少しだけ蘇った。
淡い色の布を頬へ当て、似合うかどうかを尋ねてくれた母。
新しい服を着た自分を見て、嬉しそうに笑ってくれた母。
その記憶は、長い間、心の奥へしまい込まれていたものだった。
(お母様が選んでくださったものを、全部忘れてしまったわけじゃなかったんだ)
エレノアは刺繍へ手を伸ばし、指先で花びらの形を確かめた。
母の遺品が見つからないことは、今も悲しい。
けれど、物が見つからないからといって、母との思い出まで失われたわけではない。
そのことを、今日の小さな記録が思い出させてくれたような気がした。
リディアがお茶を運んできた時、エレノアは少しだけ目元を潤ませていた。
けれど、リディアは何も尋ねなかった。
ただ、温かな茶器を小卓へ置き、エレノアが落ち着いて過ごせるよう、静かにそばへ控えていた。
◇ ◇ ◇
皇宮では、午後になって第二王子レオナードが資料の閲覧を許可されていた。
用意された部屋には、宮内行政局の担当文官が同席している。机の上には、縁談の初期経緯を確認できる記録が並べられ、閲覧できる範囲についても事前に説明されていた。
レオナードは椅子へ腰を下ろし、最初の書類を手に取った。
そこには、ベルナール伯爵家との縁談が持ち込まれた際の記録が残されている。
彼はしばらく読み進めたあと、次の書類へ目を向けた。
「……やはり、伯爵家からは受諾の返書が届いているのだな」
「はい。ロベルト・ベルナール伯爵から提出されたものでございます」
担当文官は落ち着いて答えた。
レオナードは書類を机へ置き、少し考えるように眉を寄せた。
「だが、本人の同意については記録がない」
「その通りでございます。現在確認できる正式な記録には、エレノア様ご本人が婚約を希望されたことを示すものはございません」
「……そうか」
レオナードは再び書類へ目を落とした。
昨日、拒絶の意思を知らされた時には、突然のことに驚き、理由を知りたいという気持ちが強かった。
しかし、こうして記録を確認すると、別の疑問も浮かんでくる。
伯爵家は縁談を受け入れていた。
それなのに、本人は婚約を望んでいない。
では、最初から本人の意思が確認されていなかったのか。
それとも、途中で気持ちが変わったのか。
そのどちらなのかを、今ある資料だけで判断することはできなかった。
「本人が最初から断っていた可能性もあるということか?」
レオナードが尋ねると、担当文官は慎重に答えた。
「その可能性を否定する記録はございません。ただし、当時のご本人の意思について確認できる資料もございませんので、現時点では断定できません」
レオナードは小さく息を吐いた。
皇族との縁談が持ち込まれれば、相手の家が前向きに受け入れることは珍しくない。
しかし、それは当事者本人も同じ気持ちでいることを意味するわけではない。
頭では理解できる。
けれど、自分に関わる縁談でそのようなことが起きていたかもしれないと思うと、複雑な気持ちになった。
(私は、あの令嬢が何を考えているのか、何も知らないんだな)
レオナードは机の上の書類を見つめた。
エレノア・ベルナールという名前は知っている。
年齢や家柄についても、以前の説明で聞いたことがある。
しかし、それ以上のことはほとんど知らなかった。
どのような性格なのか。
何を好み、何を嫌うのか。
そもそも、なぜ自分との婚約を望まないのか。
その理由を、今ある記録だけで知ることはできない。
「……この縁談について、私が何かを決める前に、本人の意思を確認する必要があったということだな」
レオナードが呟くと、担当文官は静かに頷いた。
「現在、エレノア様ご本人の意思は正式な書面で確認されております。皇室としての今後の取り扱いについては、関係部署で検討が進められております」
レオナードはしばらく黙っていた。
昨日まで、拒絶された理由を知りたいという気持ちが強かった。
今も、その疑問が消えたわけではない。
しかし、本人が婚約を望まないと明確に伝えている以上、その意思を無視して話を進めることが適切なのかという問題も、考えなければならなかった。
「……分かった。資料はここまででいい」
レオナードは書類を閉じ、担当文官へ返した。
「今後の扱いについて、正式な判断が出たら知らせてくれ。ただし、私が縁談の継続を求めたという記録にはしないように。今は、まだ何も決めていない」
「承知いたしました」
担当文官は一礼し、書類を丁寧にまとめた。
レオナードは椅子へ深く腰を下ろし、窓の外へ視線を向けた。
自分が知らないところで進められていた縁談。
そして、会ったこともない令嬢から届いた明確な拒絶。
その二つの事実を、どう受け止めるべきなのか。
まだ答えは出ていなかった。
ただ、少なくとも今のレオナードは、伯爵家からの受諾返書だけを根拠に、エレノア本人も婚約を望んでいると考えることはできなくなっていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ロシュフォール公爵邸では、エレノアがマルグリットとともに庭園を歩いていた。
昼間の暖かさが少し和らぎ、花壇の周囲には涼しい風が流れている。庭師たちが整えた小道には雨の名残がほとんどなく、二人はゆっくりと歩きながら、今日の出来事について話していた。
「紙束を開いてみたのね」
マルグリットがそう言うと、エレノアは頷いた。
「はい。まだ最初の二枚だけですけれど、衣類に関する記録が書かれていました。ただ、何のために作られたものなのかは、まだ分からないんです」
「そう。何か、懐かしいものは見つかった?」
「服の名前を見て、幼い頃のことを少し思い出しました。お母様が私の服を選んでくださった時のことです」
エレノアは足元の小道へ目を落とし、少しだけ微笑んだ。
「ずっと忘れていたと思っていたのに、ちゃんと覚えていたんですね」
マルグリットは静かに頷いた。
「思い出というのは、不思議なものですね。普段は忘れているように思えても、何かをきっかけに、急に鮮やかに蘇ることがあります」
「お祖母様にも、そういうことがありますか?」
「ええ。アデラインが幼い頃に使っていた香水の匂いを、偶然どこかで感じた時などは、今でもあの子がすぐ近くにいるような気持ちになりますよ」
マルグリットは少し懐かしそうに微笑んだ。
エレノアはその横顔を見つめた。
祖母もまた、娘を失った人なのだ。
自分が母を恋しく思うのと同じように、マルグリットもアデラインを思い出し、会いたいと願うことがあるのだろう。
そのことに気づくと、胸の奥が少し締めつけられた。
「……お祖母様、私、今日少しだけ泣きそうになりました」
エレノアがそう告げると、マルグリットは足を止め、優しく顔を向けた。
「そうだったのね。無理に我慢しなくてもよかったのですよ」
「はい。でも、悲しいだけじゃなかったんです。お母様のことを思い出せて、嬉しい気持ちもあって……自分でも、どうして泣きそうになったのか分からなくて」
マルグリットは少し考えてから、エレノアの手をそっと包んだ。
「悲しさと嬉しさが、一緒にあることもありますよ。大切な人を思い出す時には、会えない寂しさも、その人と過ごした幸せも、どちらも蘇るものですから」
エレノアは祖母の手を見つめた。
温かく、柔らかな手だった。
母が生きていた頃、こうして手を握ってもらったことが何度もあった。
その感触まで思い出しそうになり、エレノアはゆっくり息を吐いた。
「……お母様に、会いたいです」
言葉にした途端、胸の奥にしまっていた寂しさが少しだけ溢れた。
マルグリットは何も言わず、エレノアの手を握り返した。
しばらく二人は、その場に立っていた。
庭園では風が葉を揺らし、少し離れた場所から小鳥の声が聞こえている。
エレノアは目元を押さえ、落ち着くまでゆっくり呼吸を整えた。
「……すみません、お祖母様。急にこんなことを言ってしまって」
「謝らなくていいのですよ。アデラインは、あなたのお母様ですもの。会いたいと思うのは、当たり前のことです」
マルグリットは優しく微笑んだ。
「私も、あの子に会いたいと思うことがあります。だから、あなたがそう言ってくれて、少し嬉しかったのですよ」
エレノアは驚いたように顔を上げた。
「嬉しかったんですか?」
「ええ。あなたがアデラインを大切に思っていることを、こうして一緒に話せるのですから」
その言葉を聞き、エレノアの目元が再び熱くなった。
けれど今度は、無理に涙を止めようとはしなかった。
祖母の手を握ったまま、静かに頷く。
母を思い出すことは、苦しいだけではない。
誰かとその思い出を分け合うことで、少しずつ温かなものにも変わっていく。
エレノアはそのことを、今日初めて実感したような気がした。
◇ ◇ ◇
夜、アルフォンスの執務室では、エレーヌから提出された確認記録が整理されていた。
今日開かれた紙束には、衣類に関する記載が含まれていた。
ただし、確認したのは最初の二枚だけであり、残りの内容は未確認のままだ。
また、二枚目に記されていた記号については、意味を断定できていない。
エレーヌは、既存の衣類調査記録との照合が必要であることを報告書へ記していた。
アルフォンスは内容を読み終え、静かに頷いた。
「……今日の確認は、ここまでで十分だな」
向かいに立つエレーヌが一礼した。
「はい。エレノア様ご自身が、二枚目の確認後に中断をご希望されました。紙束は再び保全し、残りの頁には触れておりません」
「分かった。今後の照合についても、本人の希望を確認しながら進めてくれ」
「承知いたしました」
エレーヌが退出すると、アルフォンスは机の上の記録を見つめた。
衣類の調査は、まだ終わっていない。
母の遺品についても、所在が明らかになっていないものが多く残されている。
それでも、今日エレノアが自分の意思で紙束を開き、途中で止めることを選んだという事実は、アルフォンスにとって大きな意味を持っていた。
あの子は、少しずつ自分の人生を取り戻している。
その歩みを、誰かの都合で急がせてはならない。
アルフォンスは記録を閉じ、別の書類へ目を向けた。
そこには、養女縁組に関する手続きの進行状況がまとめられている。
ベルナール伯爵からの不反対の返書は、すでに受け取っている。
しかし、正式な養女縁組はまだ成立していない。
必要な書類を整え、所定の手続きを進めなければならなかった。
さらに、皇室からの正式な返答も待っている。
アルフォンスは深く息を吐いた。
進めなければならないことは多い。
けれど、その一つ一つを丁寧に扱うことが、エレノアの未来を守ることに繋がるのだと思った。
◇ ◇ ◇
同じ夜、皇宮の宮内行政局では、第二王子による資料閲覧の結果が正式な記録としてまとめられていた。
アドリアンは担当文官から提出された報告を読み、必要な箇所を確認した。
レオナードは、ベルナール伯爵家から受諾返書が提出されていたことを改めて確認した。
また、エレノア本人の同意を示す記録が存在しないことについても説明を受けている。
そして、現時点では縁談の継続を正式に求める意思を示していない。
その三点が、明確に記されていた。
「……なるほど」
アドリアンは小さく呟き、報告書を閉じた。
第二王子が何を考えているのかについては、まだ分からない。
しかし、少なくとも本人の拒絶を知らないまま縁談が進められる状態ではなくなった。
エドガールへ報告すると、上席文官は静かに頷いた。
「では、皇室としての返答について、必要な確認を進めよう。正式な婚約が成立していないことと、本人の拒絶を受領したことは、すでに確認できている」
「はい。第二王子殿下から、縁談の継続を正式に求める申し入れも、現時点ではございません」
「その点も記録へ残しておこう。ただし、今後の扱いについて最終的な判断が出るまでは、こちらから結論を先取りしないように」
アドリアンは一礼した。
エドガールは机の上に置かれたロシュフォール公爵家からの回答を見つめた。
十五歳の少女が、自分の意思を明確に伝えてきた。
その言葉は、すでに第二王子本人へ届けられている。
次に必要なのは、皇室としてその意思をどのように扱うのかを、正式な形で示すことだった。
エドガールは新しい書類を取り出し、返答の準備に関する指示を書き始めた。
まだ結論は出ていない。
しかし、確認すべき事項は少しずつ整理され、返答へ向けた手続きが進み始めていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸の自室では、エレノアが日記を開いていた。
机の上には、完成した野ばらの刺繍が置かれている。
今日、保全された紙束を初めて開いた。
その中には、自分の衣類に関する記録が残されていた。
まだ分からないことは多い。
けれど、自分の意思で確かめることができた。
エレノアはゆっくり文字を書き始めた。
『今日は、以前の部屋から見つかった紙束を開いた』
『衣類に関する記録があったけれど、まだ何のために作られたものなのかは分からない』
『二枚だけ確認して、今日はそこで止めることにした』
そこまで書くと、エレノアは少しだけ微笑んだ。
途中で止めても、誰も責めなかった。
そのことが、何より嬉しかった。
続けて、母のことも書き留めた。
『お母様が服を選んでくださった日のことを、少し思い出した』
『お祖母様とお話ししていたら、お母様に会いたくなった』
ペンを止めると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
母に会うことは、もうできない。
それでも、母との思い出を大切にしながら生きていくことはできる。
エレノアは日記へ最後の一文を書き加えた。
『私は、これからも少しずつ、自分の過去と向き合っていきたい』
日記を閉じると、窓の外には静かな夜が広がっていた。
皇室からの返答は、まだ届いていない。
第二王子が自分の拒絶を知ったことも、エレノアはまだ知らなかった。
けれど、今夜の彼女には、今日一日を自分の意思で過ごせたという確かな実感があった。
エレノアは野ばらの刺繍をそっと手に取り、明日、マルグリットと一緒に額を選んでみようと思った。
その小さな楽しみを胸に、彼女は灯りを落とした。
そして同じ夜、皇宮では、ロシュフォール公爵家へ返答するための準備が進められていた。
エレノアが望まないと伝えた縁談について、皇室がどのような答えを示すのか。
その結論はまだ出ていなかったが、少なくとも彼女の意思は、正式な記録として扱われ続けていた。
エレノア自身は、まだそのことを知らない。
ただ、彼女が勇気を出して届けた言葉は、確かに皇宮の中で次の判断へと繋がり始めていた。




