第50話 第二王子が知った拒絶
皇都セレディアの朝は、前夜に降った雨の名残を街のあちこちに残していた。
皇宮へ続く大通りでは、早朝から荷馬車が行き交い、石畳に残った水たまりが車輪に踏まれるたび、控えめな水音を立てている。街の中心にそびえる皇宮は、薄い雲の向こうから差し込む陽光を受け、白い石壁を淡く輝かせていた。
その東棟にある宮内行政局では、朝から一つの案件について確認が進められていた。
第二王子レオナード・ヴァレンティアと、ベルナール伯爵令嬢エレノアの縁談。
以前、ベルナール伯爵家から受諾の返書が提出されていたものの、正式な婚約は成立していない。そして数日前、ロシュフォール公爵家から届いた回答によって、エレノア本人が縁談を望んでいないことが明確になった。
しかも、その意思は一時的な保留ではなかった。
今後も第二王子との婚約を進めるつもりはない。
そう記された一文は、皇室の担当部署において正式な記録として受理されていた。
「ルフェーブル、昨日の確認結果をもう一度説明してくれ」
宮内行政局の上席文官エドガール・ヴェルヌイユが、机の向かいに立つアドリアンへ声をかけた。
アドリアンは用意していた記録を開き、落ち着いた口調で答えた。
「はい。第二王子殿下の身辺事務を担当する部署と照合した結果、ベルナール伯爵家からの受諾返書については記録がございました。しかし、エレノア・ベルナール嬢ご本人の同意を示す正式な書類、および婚約の成立を示す記録は確認されておりません」
「第二王子殿下ご本人の意思については?」
「過去の記録から、今回の拒絶をすでにご存じであると確認することはできませんでした。そのため、担当部署より正式な報告の機会を設けることになっております」
エドガールは頷き、机の上に並べられた書類へ視線を落とした。
ベルナール伯爵家からの受諾返書。
ロシュフォール公爵家からの回答。
そして、正式な婚約が成立していないことを確認した記録。
それぞれの書類が示す事実は、明確に区別されていた。
「報告の際には、伯爵家が縁談を受け入れたことと、令嬢本人が婚約を希望していることを混同しないように。殿下が何を望んでおられるかについても、こちらで勝手に補ってはならない」
「承知しております」
「それから、ロシュフォール公爵家への養女縁組については、まだ準備段階であることも忘れないように。現時点で令嬢の正式な身分が変わったわけではない」
アドリアンは頷いた。
皇室内部で行われているのは、あくまで事実関係の確認と、今後の取り扱いを判断するための準備である。
エレノアの拒絶が届いたからといって、その瞬間に縁談の扱いがすべて決まるわけではない。まして、第二王子本人が何を考えているのかについて、文官たちが推測だけで結論を出すことはできなかった。
「殿下への報告は、本日午前の予定です」
「分かった。報告が終わったら、確認できた内容だけを記録として提出してくれ。発言の意味を勝手に広げたり、逆に都合よく省略したりすることのないように」
「はい」
アドリアンは深く一礼し、必要な資料を持って執務室を出た。
回廊を歩きながら、彼は手元の書類を見下ろした。
そこには、十五歳の少女が自分の意思で縁談を拒絶したことが記されている。
皇族との婚姻は、貴族家にとって大きな名誉と考えられることが多い。それでも、当事者が必ずしもその縁談を望むとは限らない。
アドリアンは長年の仕事の中で、家同士の思惑と本人の希望が一致しない案件を幾度も見てきた。
ただ、今回の回答には、いつも以上にはっきりした意思が感じられた。
丁寧な文章でありながら、どこにも後退する余地を残していない。
(この言葉を、殿下はどう受け止められるのだろうか)
それは、まだ誰にも分からないことだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ロシュフォール公爵邸では、エレノアが朝食の席についていた。
窓から差し込む光は穏やかで、食卓には焼きたてのパンと温かなスープが並んでいる。アルフォンスはいつものように朝の予定を確認し、セドリックは隣で新しく届いた本について話していた。
「エレノア、昨日相談してくれた紙束のことだけれど、今日の午後に少し時間を取ろうと思っているんだ」
アルフォンスがそう告げると、エレノアは顔を上げた。
「叔父様、もう準備してくださったんですか?」
「まだ中身を確認する準備ではないよ。まずは、誰に立ち会ってもらうか、どこまで調べるかを相談する時間だ。昨日、お前もすぐに開くつもりはないと言っていただろう?」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは安心したように微笑んだ。
以前ベルナール伯爵邸の自室から保全された品々には、まだ開いていないものが複数残されている。
そのうち、右下の引き出しから見つかった紙束には、「エレノア衣類」という表書きがあった。
自分の衣類に関する記録かもしれない。
そう思う一方で、何が書かれているのか分からないものを開くことには、まだ少し怖さがあった。
ベルナール伯爵邸では、エレノアの衣類の一部が本人の承諾なくミレーヌ用に直されていた。さらに、所在が確認できないものも残っている。
その事実を知った時の痛みは、今も消えていなかった。
「私、昨日は相談できただけでも嬉しかったんです。前なら、調べたいと思っても、誰かにお願いするのが怖かったので」
エレノアがそう言うと、アルフォンスは穏やかに頷いた。
「相談してくれて嬉しかったよ。何かを調べたいと思うことも、まだ開きたくないと思うことも、どちらもお前の気持ちだからね」
「……はい」
向かいに座っていたオーギュストが、静かに口を開いた。
「調べることを急ぐ必要はないが、いつまでも避けなければならないということでもない。お前が必要だと思った時に、周囲へ手を借りればよい」
「ありがとうございます、お祖父様」
エレノアは微笑み、パンを小さくちぎった。
マルグリットはそんな孫娘を見つめながら、柔らかな声で話題を変えた。
「そういえば、昨日の野ばらの刺繍はどこへ飾ることにしたの?」
「まだ決めていないんです。お部屋に置いておきたい気もしますし、お祖母様に見ていただける場所に飾りたい気もして」
「それなら、額を用意してもいいかもしれませんね。せっかく完成させたのですもの」
「額、ですか?」
エレノアは少し驚いた。
自分が作った刺繍を、額に入れて飾る。
そんなことを考えたことはなかった。
「でも、まだあまり上手ではありませんし……」
「上手かどうかだけで飾るものを決めなくてもいいでしょう? あなたが大切に作ったものなら、それだけで十分ですよ」
マルグリットの言葉に、エレノアは少し照れたように笑った。
その様子を見ていたセドリックが、楽しそうに口を開く。
「それなら、僕も見せてもらいたいな。昨日、完成したって聞いたけれど、まだ見ていないから」
「もちろんです、お兄様。でも、少しだけ形が違う花びらがあるんです」
「それも含めて、君が作った花なんだろう?」
セドリックの言葉に、エレノアは頷いた。
皇室からの返答は、まだ届いていない。
けれど、そのことだけを考えて過ごす必要はないのだと、少しずつ分かってきた。
今日も、この家で朝食を取ることができる。
自分の作ったものを褒めてもらい、好きな本について話すことができる。
そんな時間を大切にしたいと思った。
◇ ◇ ◇
皇宮の西側に位置する第二王子の執務区画では、レオナード・ヴァレンティアが朝の予定を確認していた。
十七歳の第二王子は、淡い金色の髪を整え、濃紺の上着を身につけていた。整った顔立ちには若さが残っているものの、その振る舞いには皇族として育てられた者らしい自信が感じられる。
机の上には、午後に予定されている講義の資料と、いくつかの報告書が置かれていた。
「殿下、本日午前の予定について、一件追加のご報告がございます」
側近の文官が声をかけると、レオナードは顔を上げた。
「追加の報告? 何についてだ」
「以前、ベルナール伯爵家との間で進められていた縁談について、宮内行政局から正式な確認がございます」
レオナードは僅かに眉を動かした。
「ベルナール伯爵家……ああ、あの縁談か」
彼は机の上の資料を閉じ、少し考えるように視線を向けた。
ベルナール伯爵家の令嬢との縁談については、以前から話が持ち上がっていた。
しかし、正式な婚約の儀式や、当事者同士の面会が行われたわけではない。
少なくとも、レオナード自身はエレノアと直接会っていなかった。
「何か進展があったのか?」
「はい。ただし、内容については担当者から直接ご説明申し上げることになっております」
「分かった。通してくれ」
レオナードが答えると、文官は一礼して退出した。
しばらくして、宮内行政局から派遣された担当文官が入室した。
彼は正式な挨拶を済ませ、レオナードの許可を得て書類を開いた。
「第二王子殿下。本日は、ベルナール伯爵令嬢エレノア様との縁談について、現在確認されている状況をご報告いたします」
「ああ。聞こう」
レオナードは椅子へ腰を下ろしたまま、相手を見つめた。
担当文官は、まず以前の経緯から説明した。
ベルナール伯爵家から縁談を受諾する返書が提出されていたこと。
しかし、その後に正式な婚約の成立を示す記録は作成されていないこと。
そして、エレノアが現在ロシュフォール公爵家で保護されていること。
「ロシュフォール公爵家?」
レオナードが口を挟んだ。
「ベルナール伯爵の娘が、なぜ公爵家にいる?」
「現在の居住状況については、ロシュフォール公爵家から正式な回答が提出されております。エレノア様は同家で保護されており、ご本人の希望に基づいて養女縁組の準備が進められているとのことです」
「養女縁組だと?」
レオナードは椅子の背から身体を起こした。
母方のロシュフォール公爵家との関係について、以前の縁談の説明では詳しく聞かされていなかった。
少なくとも、伯爵家から公爵家へ身分上の所属を移す準備が進んでいるとは知らなかった。
「ベルナール伯爵は、それを認めたのか?」
「反対しない旨の返書を提出したと報告されております。ただし、正式な養女縁組はまだ成立しておりません」
レオナードは少し考え込んだ。
貴族家の養女縁組そのものは、珍しい制度ではない。
しかし、皇族との縁談が持ち上がっている令嬢が、その途中で別の家へ移るという話は、少なくとも彼にとって予想外だった。
「それで、縁談はどうなる?」
担当文官は一度、手元の書類を確認した。
「その点について、本日もっとも重要なご報告がございます」
レオナードは顔を上げた。
担当文官は、丁寧な口調を崩さず続けた。
「ロシュフォール公爵家からの正式な回答により、エレノア・ベルナール様ご本人が、殿下との婚約を望んでおられないことが明確になりました」
レオナードの表情が止まった。
「……何?」
「エレノア様は、第二王子殿下との婚約を希望しておらず、今後も当該縁談を進める意思を有していないと、正式に表明されております」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
レオナードはすぐには答えなかった。
担当文官の言葉を聞き間違えたのかと思い、机の上へ視線を落とす。
婚約を望んでいない。
しかも、今後も縁談を進める意思がない。
それは、単なる延期の申し出ではなかった。
「……つまり、私との縁談を断ったということか?」
「はい。ご本人の意思として、そのように記されております」
レオナードは眉を寄せた。
「ベルナール伯爵は受け入れたのだろう?」
「伯爵家から受諾の返書が提出されていることは確認されております。しかし、正式な婚約は成立しておらず、エレノア様ご本人が同意されたことを示す記録も確認されておりません」
「それは、分かっている」
レオナードはそう答えたものの、声には僅かな苛立ちが混じっていた。
彼にとって、皇族との縁談を相手側から明確に拒絶されるという事態は、想定していなかったことだった。
もちろん、婚約が正式に成立していない以上、相手が断る可能性そのものは存在する。
しかし、実際にその言葉を聞かされることと、制度上の可能性として理解していることは別だった。
「理由は何だ?」
レオナードが尋ねると、担当文官は慎重に答えた。
「今回の回答には、ご本人が婚約を希望していないことが明記されております。ただし、その理由について、殿下に対する評価や個人的な事情を詳しく述べたものではございません」
「私に何か不満があるというわけではないのか?」
「その点については、確認できておりません」
担当文官は即答した。
レオナードは不満そうに唇を結んだ。
相手が何を考えているのか分からない。
直接会ったこともない令嬢から、今後も婚約を望まないと伝えられた。
その事実は、彼の自尊心を少なからず刺激していた。
「……ロシュフォール公爵が、そう言わせている可能性は?」
担当文官は表情を変えなかった。
「ロシュフォール公爵家からの回答には、ご本人が文面を確認し、自らの意思として表明した旨が記されております。現時点で、それと異なる事情を示す記録はございません」
「そうか」
レオナードは椅子へ深く腰を下ろした。
公爵家が何かを企んでいるのではないか。
そんな考えが一瞬浮かんだが、裏付けはない。
少なくとも、目の前の文官は確認できた事実しか伝えようとしていなかった。
「それで、皇室としてはどうするつもりだ?」
「現在、関係部署で今後の取り扱いを確認しております。正式な婚約が成立していないことを前提に、必要な手続きを整理している段階でございます」
「まだ結論は出ていないのか」
「はい。ロシュフォール公爵家への正式な返答も、現時点では作成されておりません」
レオナードはしばらく黙っていた。
彼の胸にあるのは、恋人を失った悲しみではない。
エレノアとはまだ直接会っておらず、親しい関係を築いたこともなかった。
それでも、皇族である自分との縁談を相手側が拒絶したという事実には、簡単に受け流せないものがあった。
「……分かった。報告は受け取った」
やがてレオナードは答えた。
「今後の扱いが決まったら、改めて知らせてくれ」
「承知いたしました」
担当文官は一礼した。
退出する直前、レオナードがもう一度声をかけた。
「その令嬢は、私と会ったことがないのだな?」
「現在確認できる記録では、正式な面会が行われた事実はございません」
「……そうか」
レオナードはそれ以上何も言わなかった。
扉が閉じられると、執務室には静けさが戻った。
机の上には、午前中に確認する予定だった講義の資料が残っている。
しかし、レオナードはすぐに手を伸ばす気になれなかった。
(会ったこともない相手が、なぜそこまで明確に断る?)
考えても答えは出ない。
ベルナール伯爵家から受諾の返書が届いていた以上、縁談は少なくとも前向きに進むものだと思っていた。
ところが、本人は違う意思を示していた。
それも、今後の可能性まで否定する形で。
レオナードは窓の外へ視線を向けた。
庭園の噴水が陽光を受け、細かな水しぶきを輝かせている。
いつもと変わらない景色だった。
それなのに、先ほど聞いた一文が、頭から離れなかった。
◇ ◇ ◇
第二王子の執務室を出た担当文官は、報告の内容を整理するため、宮内行政局へ戻っていた。
彼が記録したのは、レオナードへ伝えた事実と、その場で確認できた発言だった。
エレノア本人が縁談を拒絶していることを報告した。
レオナードは拒絶の理由を尋ねた。
ロシュフォール公爵家の関与について質問したが、裏付けのない事情については回答していない。
そして、今後の取り扱いが決まれば知らせるよう求めた。
それ以上の意味を、文官が勝手に書き加えることはしなかった。
「殿下は、縁談を続けたいとおっしゃったのか?」
報告を受けたエドガールが尋ねた。
「いいえ。少なくとも、正式に縁談の継続を求めるご発言はございませんでした。ただ、拒絶の理由については関心を示されております」
「分かった。では、そのように記録しよう」
エドガールは頷いた。
第二王子が驚いたことは、担当文官の報告からも窺えた。
しかし、驚いたことと、婚約を強く望んでいることは同じではない。
不快に思ったとしても、それだけで皇室としての判断が決まるわけでもなかった。
「今回の報告によって、殿下ご本人が拒絶の意思を知られたことは確認できた。次は、縁談の取り扱いについて必要な判断を進めることになる」
エドガールは記録を閉じた。
「ロシュフォール公爵家へ返答する際には、本人の意思を受領したことと、正式な婚約が成立していないことを、少なくとも明確にする必要があるだろう。ただし、最終的な文面は所定の確認を経てからだ」
「承知しました」
担当文官が退出すると、エドガールはしばらく机の上の書類を見つめていた。
皇室からの返答を待っているのは、ロシュフォール公爵家だけではない。
縁談の当事者であるエレノア本人も、何らかの知らせを待っているはずだった。
そのことを考え、エドガールは次の確認を不必要に遅らせないよう指示を記した。
◇ ◇ ◇
午後のロシュフォール公爵邸では、エレノアがアルフォンスの執務室を訪れていた。
今日の相談は、以前ベルナール伯爵邸から保全された品々について、今後の確認方法を考えるためのものだった。
小卓には、これまでの調査記録の写しが用意されている。
アルフォンスのほか、記録の整理を担当するエレーヌ・フォシェも同席していた。
「エレノア様、本日は中身を開くのではなく、確認する順序と立ち会う方についてご相談する予定でございます」
エレーヌが説明すると、エレノアは頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
エレーヌは記録を開き、保全されている品々について説明した。
以前の寝室から見つかった灰青色の帳面は、まだ開かれていない。
右下の引き出しから見つかった小箱も、封じられた状態のまま保管されている。
「エレノア衣類」と記された紙束についても、紐を解いておらず、中身は確認していない。
革袋と折り畳まれた紙片についても同様だった。
「今のところ、エレノア様がもっとも気にされているのは、衣類について記されている可能性のある紙束でしょうか」
「はい。私の服がどこへ行ったのか、何か分かるかもしれないと思って……」
エレノアは少し迷ってから続けた。
「でも、表に私の名前が書いてあるからといって、本当に服のことが書かれているとは限らないんですよね」
「その通りでございます」
エレーヌは頷いた。
「表書きから推測できることはございますが、内容を確認するまでは断定できません。ですから、開く場合も、何が書かれていたかをそのまま記録することが大切になります」
アルフォンスも静かに口を開いた。
「以前の調査では、衣類の一部が本人の承諾なく直されていたことが確認されている。だが、この紙束がその件と関係しているかどうかは、まだ分からない。最初から答えが書かれているものだと思わない方がいい」
「……はい」
エレノアは頷いた。
少し期待していたことは確かだった。
もしかすると、行方の分からない服について何か分かるかもしれない。
母が選んでくれた衣類の記録が残っているかもしれない。
そんな気持ちがあった。
けれど、何も分からない可能性もある。
そのことを、今のうちに受け止めておきたかった。
「叔父様、開く時には、マーサにもいてもらえますか?」
アルフォンスは頷いた。
「もちろん。マーサが立ち会えるように調整しよう。エレーヌにも記録を担当してもらうつもりだが、ほかに希望はあるかな」
「……リディアにも、近くにいてほしいです」
「分かった。記録を扱う場所に同席するか、すぐ近くで待ってもらうかは、お前の希望に合わせよう」
エレノアは少し安心したように笑った。
自分が望む人にそばにいてもらえる。
それだけで、まだ開いていない紙束に対する怖さが少し和らぐ気がした。
「それから、途中で怖くなったら、やめてもいいですか?」
アルフォンスは即座に頷いた。
「もちろんだ。途中で確認を止めてもいいし、その日は最初から開かないことにしてもいい。調査のために、お前の気持ちを無視するつもりはない」
「ありがとうございます」
エレノアは深く息を吐いた。
以前の自分なら、こんな質問はできなかっただろう。
途中でやめたいと言えば、わがままだと思われる。
最後までできなければ、役に立たないと言われる。
そんな不安が、いつも胸の奥にあった。
けれど、今は違う。
自分の意思で始め、自分の意思で止めることができる。
それが、少しずつ当たり前になってきていた。
「では、今日はここまでにしようか」
アルフォンスが言うと、エレノアは頷いた。
「はい。次に確認する時までに、もう少し考えておきたいです」
「それでいいよ」
エレーヌは記録を閉じ、今日決まったことを丁寧に書き留めた。
紙束の中身は、まだ確認されていない。
けれど、エレノア自身が次の調査について考え、希望を伝えられたことは、小さくない前進だった。
◇ ◇ ◇
その頃、ベルナール伯爵邸では、ミレーヌが自室の机に向かっていた。
机の上には、小さな装身具の箱がいくつか並んでいる。
以前、エレノアの衣類が自分のために直されていたことを知ってから、ミレーヌは自分の持ち物についても気になるようになっていた。
これまで、ヴァレリアから贈られたものを疑ったことはほとんどない。
美しい髪飾りも、刺繍の施された小物も、母が自分のために選んでくれたものだと思っていた。
けれど、エレノアの衣類の件を知った今では、以前と同じ気持ちで眺めることができなかった。
「……これも、いついただいたものだったかしら」
ミレーヌは小さな装身具を手に取り、記憶を辿った。
誕生日の贈り物だっただろうか。
それとも、季節の変わり目に母から渡されたものだっただろうか。
はっきり思い出せない。
自分が持っているものの由来を、これほど知らなかったのかと思うと、胸が落ち着かなかった。
机の上には、以前から気になっていた品々も置かれている。
ブローチ。
銀の櫛。
刺繍の施されたハンカチ。
細い鎖の首飾り。
どれも、現時点でエレノアのものだったと確認されたわけではない。
ただ、ミレーヌ自身が受け取った経緯を正確に説明できないものだった。
「……決めつけちゃ駄目よね」
ミレーヌは小さく呟いた。
以前、エレノアと会った時のことを思い出す。
あの時、エレノアはミレーヌの謝罪を聞いてくれた。
けれど、すぐに許すとは言わなかった。
それは当然だと思う。
今まで何も知らなかったからといって、エレノアが受けた苦しみまで消えるわけではない。
ミレーヌは装身具を箱へ戻し、別の紙を取り出した。
そこには、思い出せる範囲で贈り物を受け取った時期を書き始めていた。
まだ空欄は多い。
それでも、分からないものを分からないままにしておくよりは、少しずつ確かめたいと思った。
(お姉様に、もう一度会いたいなんて言う資格は、まだないのかもしれない)
そう考えると胸が痛んだ。
けれど、だからといって何もしない理由にはならない。
ミレーヌはペンを取り、次の品について覚えていることを書き始めた。
その行動が、いつか何かの役に立つのかどうかは分からない。
少なくとも今は、誰かを責めるためではなく、自分が受け取ってきたものについて確かめるための作業だった。
◇ ◇ ◇
夕方、皇宮では第二王子レオナードが、午後の講義を終えて執務室へ戻っていた。
机の上には、朝の報告に関する簡単な記録が置かれている。
彼はそれを手に取り、もう一度目を通した。
エレノア・ベルナール。
十五歳の伯爵令嬢。
母方のロシュフォール公爵家で保護されており、養女縁組の準備が進められている。
そして、第二王子との婚約を望んでいない。
レオナードは最後の一文で視線を止めた。
(なぜ、そこまで明確に断る必要がある?)
直接会ったこともない相手だ。
自分が何かをした覚えもない。
それなのに、今後も婚約を進める意思がないとまで言われた。
そのことが、どうにも気にかかっていた。
彼はしばらく考えたあと、控えていた側近へ声をかけた。
「ベルナール伯爵令嬢について、以前の縁談の資料は残っているか?」
「はい。必要な範囲の資料であれば、確認することは可能かと存じます」
「ならば、以前こちらへ提出されたものを見せてくれ。どういう経緯で話が進んだのか、もう一度確かめたい」
側近は一礼した。
「承知いたしました。ただし、宮内行政局で保管されている正式な記録については、所定の手続きを経て確認する必要がございます」
「分かっている。勝手に持ち出せと言っているわけではない」
レオナードは少し不機嫌そうに答えた。
側近が退出すると、彼は再び椅子へ腰を下ろした。
相手が断ったからといって、無理に婚約させたいと思ったわけではない。
しかし、なぜ自分との縁談を拒絶するのか、その理由を知らないまま終わることにも納得できなかった。
その感情が何に由来するものなのか、レオナード自身にもまだ整理できていなかった。
皇族としての自尊心なのか。
単なる好奇心なのか。
それとも、自分の知らないところで縁談が進み、同じように終わろうとしていることへの不快感なのか。
レオナードは窓の外へ視線を向けた。
夕陽が皇宮の庭園を赤く染めている。
今日初めて正式に知らされた、エレノア本人の拒絶。
その言葉は、思っていた以上に彼の胸へ残っていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸では、夕食のあと、エレノアがセドリックと図書室で過ごしていた。
セドリックは新しい本を数冊持ってきており、エレノアが気に入りそうなものを紹介していた。
「こちらは旅の物語だけれど、前に読んでいた兄妹の話とは少し違うんだ。主人公が知らない町で暮らし始めて、少しずつ友人を作っていく話だよ」
「面白そうです。主人公は、最初からその町へ行きたかったんですか?」
「いいや。最初は事情があって移り住むことになるんだけれど、そこで自分の居場所を見つけていくんだ」
エレノアは本の表紙を見つめた。
知らない場所で暮らし始める。
その中で、少しずつ自分の居場所を見つけていく。
どこか今の自分に似ているような気がした。
「読んでみたいです」
「そう言うと思ったよ」
セドリックは嬉しそうに笑い、本を差し出した。
エレノアは受け取り、丁寧に表紙を撫でた。
「お兄様、ありがとうございます」
「どういたしまして。読み終わったら、感想を聞かせてほしいな」
「はい。きっとお話ししたいことがたくさんできると思います」
二人はしばらく本の話を続けた。
やがて、エレノアが少し考えるように顔を上げた。
「お兄様、私……最近、少し不思議な気持ちになるんです」
「どんな気持ち?」
「皇室からのお返事は怖いですし、お母様の遺品のことも気になります。でも、それとは別に、明日が楽しみだと思うことも増えてきて……」
セドリックは静かに聞いていた。
「前は、明日になったら何を言われるんだろうとか、何をさせられるんだろうとか、そんなことばかり考えていました。でも今は、明日どんな本を読もうとか、何を作ろうとか、そういうことを考えられるんです」
エレノアは少し照れたように笑った。
「変でしょうか」
「全然、変じゃないよ」
セドリックは優しく答えた。
「むしろ、そういうことを考えられるようになってくれて嬉しい。君がここで暮らすことを、少しずつ楽しみにしてくれているんだと思うから」
「……はい」
「それに、不安なことがあるからといって、楽しいことを考えてはいけないわけじゃない。どちらも君の気持ちなんだから」
エレノアはその言葉をゆっくり受け止めた。
不安と楽しみが、同じ心の中にあってもいい。
怖いことがあっても、笑っていい。
そんな当たり前のことを、今まで知らなかったような気がした。
「お兄様、私……ロシュフォール家へ来られて、本当によかったです」
セドリックは少し驚いたように目を瞬かせたあと、柔らかく微笑んだ。
「僕も、君が来てくれてよかったと思っているよ」
エレノアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、セドリックは改めて思った。
この穏やかな時間を、これからも守っていきたい。
皇室からどのような返答が届いたとしても、エレノアが自分の意思を伝えられる場所であり続けたい。
その願いは、父アルフォンスとも同じだった。
◇ ◇ ◇
夜、アルフォンスの執務室には、皇室への返書の控えと、養女縁組に関する書類が並んでいた。
エレノア本人の拒絶を伝える書簡は、すでに皇室へ届けられている。
しかし、皇室からの正式な返答は、まだ届いていない。
アルフォンスはその事実を確認し、静かに書類を閉じた。
今日、エレノアは保全された品々について、自分から相談に来てくれた。
以前なら、何かを調べたいと思っても、それを口にすることさえ難しかっただろう。
今は、少しずつ自分の希望を伝えられるようになっている。
その変化を、アルフォンスは何より大切にしたかった。
(あの子が自分の未来を選ぼうとしているのなら、私たちはそのために必要なことをしなければならない)
皇室とのやり取りも、その一つだ。
養女縁組の手続きも、母の遺品の調査も、すべてエレノアの未来に関わっている。
ただし、それぞれを混同してはならない。
皇室からの返答が遅れているからといって、養女縁組を止める理由にはならない。
母の遺品が見つからないからといって、エレノアが安心して暮らすことを先延ばしにする必要もない。
アルフォンスは机の上の書類を整理し、明日の予定を確認した。
まだ、進めなければならないことは多い。
それでも、以前より確実に前へ進んでいる。
そのことを、今夜は静かに受け止めていた。
◇ ◇ ◇
同じ夜、皇宮の宮内行政局では、第二王子への報告結果が正式な記録として整理されていた。
エドガール・ヴェルヌイユは、担当文官から提出された報告書を読み終え、最後の頁へ目を落とした。
第二王子レオナードは、エレノア本人が婚約を望んでいないことを正式に知らされた。
拒絶の理由について質問したものの、現時点で確認できる事情以上の説明は行われていない。
また、殿下から縁談の継続を正式に求める申し入れも、まだ出されていなかった。
「……これで、少なくとも本人への報告は済んだわけだな」
エドガールは静かに呟いた。
しかし、これですべてが終わったわけではない。
皇室として、ロシュフォール公爵家へどのような返答を送るのか。
正式な婚約が成立していないことを、どのような形で確認するのか。
そして、第二王子との縁談を今後どのように扱うのか。
それらについては、まだ必要な確認が残っていた。
エドガールは新しい紙を取り出し、次の手続きに関する指示を書き始めた。
その時、扉の外から控えめな声が聞こえた。
「ヴェルヌイユ様、失礼いたします。第二王子殿下の側近から、追加の照会が届いております」
エドガールは顔を上げた。
「追加の照会?」
「はい。以前の縁談に関する資料について、殿下が確認を希望されているとのことです」
文官が差し出した書類を受け取り、エドガールは内容へ目を通した。
そこには、ベルナール伯爵家から提出された受諾返書と、縁談が持ち込まれた当初の経緯について、閲覧可能な記録を確認したいという申し入れが記されていた。
エドガールは少し考えた。
第二王子が資料を確認したいと望むこと自体は、不自然ではない。
自分に関わる縁談について、これまでどのような手続きが進められていたのかを知りたいと思うことは、十分に考えられる。
ただし、今回の拒絶を知った直後という時期には、注意が必要だった。
「閲覧できる範囲を確認しよう。正式な記録については、所定の手続きに従って対応するように」
「承知しました」
「それから、殿下が何をお考えなのかについて、こちらで勝手に結論を出さないことだ。資料を確認したいという申し入れと、縁談の継続を望むという意思表示は別だからな」
文官は頷いた。
エドガールは書類を机へ置き、静かに息を吐いた。
第二王子が拒絶の意思を知った。
そして、縁談の経緯を確認したいと申し出た。
その二つの事実が、今日新たに記録へ加わった。
今後、レオナードがどのような判断を示すのかは、まだ分からない。
ただ、皇室からロシュフォール公爵家へ返答を送る前に、確認すべきことが一つ増えたのは確かだった。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール公爵邸の自室では、エレノアが日記を開いていた。
机の上には、完成した野ばらの刺繍と、セドリックから借りた新しい本が置かれている。
今日の出来事を思い返しながら、エレノアはゆっくり文字を書いた。
『今日は、叔父様とエレーヌさんに、保全された品々について相談した』
『まだ開いていない紙束を、いつか確認してみたいと伝えた』
『怖くなったら途中でやめてもいいと言ってもらえて、安心した』
エレノアはペンを止め、少しだけ微笑んだ。
以前なら、途中でやめたいと言うことなど考えられなかった。
けれど今は、自分の気持ちを伝えられる。
それだけで、少しずつ未来が変わっていくように思えた。
続けて、皇室への返書についても書き留めた。
『皇室からのお返事は、まだ届いていない』
『でも、私が婚約を望んでいないという気持ちは変わらない』
その一文を書き終えると、胸の奥が静かに落ち着いた。
皇室が何を考えているのかは分からない。
第二王子が自分の拒絶を知っているのかどうかも、エレノアにはまだ分からなかった。
けれど、今できることはすでに行った。
自分の意思を、正式な書面として届けてもらったのだ。
『私は、私の未来を選びたい』
最後にそう書き加え、エレノアは日記を閉じた。
窓の外では、夜の風が庭の木々を揺らしている。
明日も、この家で朝を迎える。
好きな本を読み、家族と食事をして、必要な時には相談する。
そんな日々を、これからも大切にしたいと思った。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
彼女は、まだ知らない。
自分が勇気を出して届けた拒絶の意思が、今日、第二王子レオナード本人へ正式に伝えられたことを。
そして、レオナードがその言葉を聞いたあと、縁談の経緯に関する資料の確認を求めたことを。
皇室からの正式な返答は、まだ出されていない。
けれど、これまで本人の意思を確かめないまま進められていた縁談は、すでに以前とは違う段階へ入っていた。
第二王子は、エレノアが自分との婚約を望んでいないことを知った。
その事実を、彼がこれからどのように受け止めるのか。
そして、皇室がエレノアの意思に対してどのような判断を示すのか。
答えは、まだ誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、エレノアが望まないと伝えた縁談について、今度は第二王子自身が、その言葉と向き合わなければならなくなったということだった。




