第49話 皇宮に届いた拒絶の意思
皇都セレディアの朝は、薄い雲に覆われていた。夜明け前に降った雨が石畳の隙間へ残り、皇宮の東門を通る馬車の車輪が、時折小さな水音を立てている。宮殿の高い尖塔は雲の向こうから差し込む朝日に照らされ、その下では、すでに多くの人々が一日の仕事を始めていた。
皇宮東棟の文書管理室も、その一つだった。
長い机には各地から届けられた書簡が積まれ、担当する文官たちが封印や受領記録を確認している。皇室へ届く書類には、領地からの報告、貴族家の相続に関する届け出、皇族の婚姻に関わる照会など、様々なものが含まれていた。
その中に、ロシュフォール公爵家の印章が押された封筒があった。
「ルフェーブル様、こちらが昨日受領したロシュフォール公爵家からの回答です。今朝の確認分として、婚姻関係の記録と一緒に回されております」
若い文官が差し出した書類を、アドリアン・ルフェーブルは受け取った。四十歳を少し過ぎた彼は、皇族の婚姻に関する事務を長く担当しており、貴族家の名前だけで案件の重要性を判断しない慎重さを持っていた。
「ありがとう。受領記録と封印の確認は済んでいるね」
「はい。公爵家からの正式な回答として受領されております。添付書類の点数も、送付記録と一致しております」
「分かった。では、以前の照会記録も出しておいてくれ」
アドリアンは机に向かい、書簡を開いた。
そこには、第二王子レオナード・ヴァレンティアと、ベルナール伯爵令嬢エレノアとの縁談について、現在確認できる事実が整理されていた。
以前、ベルナール伯爵家から縁談を受諾する旨の返書が提出されていること。
しかし、第二王子とエレノアの間には、正式な婚約が成立していないこと。
そして、現在のエレノアはロシュフォール公爵家で保護されており、本人の希望によって養女縁組の準備が進められていること。
アドリアンは一つずつ読み進め、途中の一文で視線を止めた。
『エレノア・ベルナール本人は、第二王子レオナード殿下との婚約を希望しておらず、今後も当該縁談を進める意思を有しておりません』
彼はその文章をもう一度読み返した。
縁談を一時的に保留したいという申し出ではない。相手方の条件について再考を求めているわけでもなく、養女縁組が成立するまで回答を待ってほしいという内容でもなかった。
当事者本人が、縁談を望まないと明確に伝えている。
「……なるほど。ここまで明確に書いてきたか」
独り言のように呟いた声を聞き、隣の机にいた若い文官が顔を上げた。
「何か問題がございましたか?」
「問題があると決まったわけではないよ。ただ、以前の受諾の返書と、今回の本人の意思を混同しないように扱う必要がある」
アドリアンは保管されていた記録を開き、ベルナール伯爵家からの返書と照らし合わせた。
そこには当主ロベルト・ベルナールが縁談を受け入れる旨が記されていた。しかし、エレノア本人が婚約を希望していることを確認した正式な記録は添えられていない。
さらに、婚約の成立を示す記録も存在していなかった。
「伯爵家の当主が縁談を受け入れたことと、当事者同士の婚約が成立したことは別だ。記録上、その区別は明確にしておかなければならない」
「では、今回の回答によって婚約破棄の手続きが必要になるわけではないのですね」
「少なくとも、現在確認できる記録からは、破棄すべき正式な婚約が存在していない。だからこそ、まず縁談の取り扱いについて判断を仰ぐ必要がある」
アドリアンは落ち着いて答えた。
皇族との婚姻に関する案件は、通常の貴族家同士の縁談よりも慎重な扱いが求められる。しかし、その慎重さは、存在しない婚約を成立していたものとして扱う理由にはならない。
まして、本人の拒絶が正式な書面で届いた以上、それを記録から除外することもできなかった。
「上席へ報告を上げよう。本人の意思が確認されたこと、婚約の成立記録が存在しないこと、養女縁組はまだ準備段階であること。この三点は分けて記載してくれ」
「承知しました。第二王子殿下へのご報告については、いかがいたしましょう」
若い文官の問いに、アドリアンはすぐには答えなかった。
彼らが担当しているのは、届いた書類を正確に整理し、必要な判断を仰ぐことだ。第二王子本人へ何を、どの順序で伝えるのかは、別の権限を持つ者が決めることになる。
「それも上席へ確認しよう。こちらで勝手に殿下の意思を推測したり、すでに了承を得ているように記録したりしてはいけない」
「はい。分かりました」
若い文官は頷き、報告書の作成に取りかかった。
アドリアンは改めてロシュフォール公爵家からの書簡を眺めた。
文章は丁寧で、皇室に対する礼節を欠いていない。しかし、その中心に置かれた本人の意思については、どこにも曖昧さがなかった。
公爵家が少女の意思を代弁しているだけなのか、それとも本人が内容を確認したうえで送られたものなのか。
その点についても、書簡には本人の確認を経た旨が記されていた。
(ロシュフォール公爵は、あえてここを明確にしたのだろう)
アドリアンはそう考えたが、その理由を報告書へ書き加えることはしなかった。
推測と事実は違う。
自分がすべきことは、届いた言葉を正確に扱うことだった。
◇ ◇ ◇
同じ朝、ロシュフォール公爵邸では、エレノアがマルグリットと刺繍をしていた。
窓辺の小卓には白い布と色糸が並び、開け放たれた窓から庭の涼しい風が入ってくる。花壇では庭師たちが手入れを進めており、時折聞こえる鋏の音が、静かな部屋に穏やかなリズムを作っていた。
エレノアが刺しているのは、小さな野ばらの模様だった。
母アデラインが好きだった花だと聞いてから、少しずつ練習を重ねている。淡い桃色の花びらに、柔らかな緑色の葉を添えるつもりだったが、最後の花びらだけが少し大きくなってしまった。
「……お祖母様、ここだけ形が違ってしまいました」
エレノアが布を持ち上げると、マルグリットは眼鏡を少し直して覗き込んだ。
「あら、本当ね。でも、全体で見ると自然な形ですよ。直したいと思うなら直してもいいけれど、私はこのままでも素敵だと思います」
「そうでしょうか。ほかの花びらと揃っていないので、少し気になってしまって」
「庭に咲く野ばらだって、一輪ずつ形が違うでしょう? あなたが気に入っているなら、それでよいのではないかしら」
エレノアはもう一度、布を少し離して眺めた。
確かに、全体で見るとそれほど不自然ではない。むしろ、一枚だけ少し大きな花びらがあることで、本物の花に近いようにも感じられた。
「……このままにしてみます」
「ええ。それもあなたが選んだ仕上がりですものね」
マルグリットが微笑むと、エレノアも小さく笑った。
以前の自分なら、きっと最初からやり直していただろう。
少しでも不格好なものを見せれば、ヴァレリアに何か言われるかもしれない。ミレーヌと比べられたり、伯爵令嬢なのに不器用だと責められたりするかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
けれど、ここでは違う。
上手にできたところを喜んでもらえるし、失敗したところを見せても、責められることはない。
(私が気に入っているなら、それでいいんだ)
その考え方は、まだ少し新鮮だった。
エレノアは針を動かしながら、ふと窓の外へ視線を向けた。
昨日、皇室へ向けて出発した書簡。
その中には、自分が第二王子レオナードとの婚約を望んでいないという意思が記されている。
あの手紙は、もう皇宮へ届いただろうか。
誰かが読んだだろうか。
そして、読んだ人はどう思ったのだろう。
考え始めると、指先の動きが少し鈍くなった。
「エレノア、何か気になることがあるの?」
マルグリットの声に、エレノアは顔を上げた。
「……はい。皇室へ送ったお手紙のことを考えていました」
「そう。返事が気になるのね」
「はい。昨日は、ちゃんと送ってもらえたことが嬉しかったんです。でも、今日はその先のことばかり考えてしまって」
エレノアは刺繍布を膝へ置いた。
「皇室の方が読んで、怒ったらどうしようって思うんです。第二王子殿下が私のことをどう思うのかも、分からなくて……」
マルグリットは静かに聞いていた。
エレノアが第二王子を恐れる理由について、彼女が知っているのは現在の縁談を望んでいないことと、伯爵邸で本人の意思が尊重されなかったことだけだ。
それでも、少女の不安を軽く扱うつもりはなかった。
「怖いと思うのは自然なことですよ。相手がどう答えるか分からない時には、誰でも不安になるものです」
「お祖母様も、そういうことがありますか?」
「もちろんあります。長く生きてきましたけれど、誰かの返事を待つことが平気になったわけではありません」
マルグリットは少し懐かしそうに微笑んだ。
「若い頃には、オーギュストからの手紙を待って、何度も窓の外を見たこともありましたよ。今思えば、見ているだけで手紙が早く届くはずもないのですけれどね」
「お祖父様からのお手紙ですか?」
「ええ。あの人は昔から、返事を書く前にいろいろ考える人でしたから。こちらは一日でも早く読みたいのに、本人は丁寧に書こうとして時間をかけてしまうのです」
エレノアは思わず笑った。
普段は威厳のあるオーギュストが、若い頃に祖母を待たせていた姿を想像すると、少し不思議な気持ちになる。
「お祖父様らしい気もします」
「そうでしょう? だから私も、待っている間に本を読んだり、刺繍をしたりしていました。何もせずに待つより、ずっと気持ちが落ち着きましたから」
マルグリットはエレノアの刺繍布へ目を向けた。
「あなたも、皇室から返事が来るまで何も楽しんではいけないわけではありません。今できることを済ませたのなら、あとは自分の時間を大切にしてよいのですよ」
エレノアはその言葉をゆっくり受け止めた。
返事を待っている間も、生活は続いていく。
好きな本を読んでもいい。
家族と食事をしてもいい。
刺繍を完成させて、嬉しいと思ってもいい。
そのどれもが、皇室からの返答を軽く考えていることにはならない。
「……それなら、今日はこの野ばらを完成させたいです」
「ええ。楽しみにしていますよ」
マルグリットが微笑み、エレノアは再び針を手に取った。
不安が消えたわけではない。
けれど、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
◇ ◇ ◇
昼前、アルフォンスの執務室には、ベルナール伯爵家から新たな書類が届いていた。
家令が差し出した封筒には、エレノアの身分に関する記録の写しと、故アデラインに関係する財産記録の一部が収められている。
アルフォンスは内容を確認し、机の上へ一枚ずつ並べた。
「……すべてが揃っているわけではないな」
「はい。ベルナール伯爵家からは、確認できた記録から順次提出するとの連絡がございます」
家令の説明を聞き、アルフォンスは静かに頷いた。
ロベルトが養女縁組に反対しないと返答してきたことは、確かに前進だった。しかし、それによって過去の問題が解決したわけではない。
アデラインがエレノアへ残した財産については、まだ確認すべき事項がある。
行方の分からない母の肖像画、青い石の髪飾り、野ばらの彫刻が施された木箱についても、調査は続いていた。
エレノアの衣類に関する記録には、三着が本人の承諾なくミレーヌ用に直され、残る五着の所在が確認できていないという問題もある。
さらに、以前の寝室から保全された品々の中には、まだ開かれていないものが複数残っていた。
灰青色の帳面。
右下の引き出しから見つかった、薄く青い染みのある小箱。
紐で結ばれた「エレノア衣類」と記された紙束。
中身の分からない革袋と、折り畳まれた紙片。
どれも、本人の意思を確認せずに開くことはしていない。
「財産関係の記録は、これまでの調査と照合してくれ。ただし、養女縁組の手続きを、遺品の調査が終わるまで止める必要はない」
「承知しております。両者を分けて進めるよう、担当者にも伝えております」
「それでいい。エレノアが望んでいるのは、ロシュフォール家の娘として安心して暮らすことだ。その願いを叶えるための手続きを、別の問題で不必要に遅らせたくはない」
家令は一礼した。
アルフォンスは記録を閉じ、別の封筒へ目を向けた。
そこには、皇室へ送った返書の控えが保管されている。
正式な婚約が成立していないこと。
エレノア本人が縁談を望んでいないこと。
今後も第二王子との婚約へ進む意思がないこと。
その内容は、エレノア自身が確認したものだった。
「皇室から、受領に関する連絡はあったか?」
「現時点では、まだ正式な通知は届いておりません」
「分かった。届き次第、知らせてくれ」
家令が退出すると、アルフォンスはしばらく机の上の書類を眺めていた。
皇室がどのような判断を示すのかは分からない。
だが、その結果を待つ間にも、養女縁組の準備や財産記録の確認は進められる。
エレノアの未来に関わることを、一つの返答だけに委ねるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
皇宮では、アドリアンが作成した報告書が、婚姻関係の事務を統括する上席文官のもとへ届けられていた。
報告書を受け取ったのは、宮内行政局の婚姻事務を監督するエドガール・ヴェルヌイユだった。五十歳を過ぎた彼は、長年にわたって皇室の儀礼と貴族家の身分に関する案件を扱ってきた人物であり、書類を読む時には結論より先に、その根拠を確認する癖があった。
「ルフェーブル、この記録について説明してくれ」
エドガールは机の向かいに立つアドリアンへ声をかけた。
「はい。ベルナール伯爵家から以前提出された第二王子殿下との縁談の受諾返書について、ロシュフォール公爵家へ現在の状況を照会しておりました。その回答が届き、エレノア・ベルナール嬢本人が婚約を望んでいないことが明確になりました」
「正式な婚約の成立記録は?」
「確認できておりません。現在保管されているのは、伯爵家からの受諾返書と、その後の照会記録です」
エドガールは報告書の該当箇所へ目を落とした。
「本人の意思については、これまで記録がなかったということか」
「はい。少なくとも、当部署で確認できる正式な記録にはございません。今回の回答には、本人が内容を確認したうえで拒絶の意思を示している旨が記されています」
「なるほど」
エドガールは書簡の写しを読み進めた。
そこには、第二王子との婚約を希望しないことが明記されている。
さらに、ロシュフォール公爵家への養女縁組を希望していることも記されていた。
「養女縁組は、まだ成立していないのだな」
「はい。ベルナール伯爵は反対しない旨を返答しているとのことですが、正式な手続きは準備段階にあります」
「ならば、現在の身分をロシュフォール公爵令嬢として扱ってはいけない。あくまで、ベルナール伯爵令嬢本人が公爵家で保護され、養女縁組を希望している状態だ」
「そのように整理しております」
エドガールは頷いた。
しばらく書類を読み返したあと、彼は一つの箇所を指で示した。
「この案件について、第二王子殿下ご本人の意思を確認した記録はあるか?」
アドリアンは首を横に振った。
「当部署では確認できておりません。殿下ご本人への照会についても、現時点で実施した記録はございません」
「そうか。では、本人が縁談を望んでいるとも、すでに了承しているとも書けないな」
「はい」
エドガールは椅子へ深く腰を下ろした。
皇族の婚姻に関する案件は、当事者の身分だけでなく、皇室内部の手続きにも関わる。
しかし、正式な婚約が成立していない以上、今の段階で破棄の手続きを進めることはできない。
また、エレノア本人が明確に拒絶している以上、伯爵家の受諾返書だけを根拠に縁談を進めることも慎重でなければならなかった。
「まず、正式な婚約が成立していないことを確認済みの事項として整理する。そのうえで、本人の拒絶を受けた今後の扱いについて、関係部署へ照会しよう」
「承知しました」
「それから、第二王子殿下へどのように報告するかについても、所管する部署と調整する必要がある。こちらの判断だけで殿下へ直接申し入れを行うことは避けてくれ」
アドリアンは一礼した。
「はい。必要な記録を整え、正式な経路で確認を進めます」
エドガールは最後に、ロシュフォール公爵家からの回答へもう一度目を通した。
「……それにしても、本人の意思をここまで明確に示してくるとはな」
アドリアンは答えず、上席の言葉を待った。
エドガールは少し考えてから、静かに続けた。
「公爵家が何を意図しているかは、ここで決めつけるべきではない。ただ、少なくともこの書簡を読んだ者が、本人は婚約を望んでいると誤解する余地はほとんどない」
「私も、そのように受け止めました」
「ならば、こちらも曖昧な返答をしてはいけないだろう」
エドガールは書類を閉じた。
「まずは事実関係を整理する。必要な確認が済むまでは、縁談について結論が出たような通知を送らないように」
アドリアンは深く頷いた。
こうして、ロシュフォール公爵家からの返書は、皇室内部で正式な検討を要する案件として扱われることになった。
ただし、まだ最終的な判断は下されていない。
第二王子本人へどのように伝えられるのかについても、これから確認が進められる段階だった。
◇ ◇ ◇
午後、エレノアは完成した野ばらの刺繍をマルグリットへ見せた。
白い布の中央には、淡い桃色の花が一輪咲いている。花びらの一枚だけが少し大きいものの、葉の向きや色の重なりが自然で、柔らかな印象に仕上がっていた。
「まあ、素敵ね。午前中に見せてもらった時より、ずっと花らしくなりましたよ」
「ありがとうございます。少し形が違うところもありますけど、私、このままが気に入っています」
「それが何よりです。あなたが大切に作ったものですものね」
マルグリットは刺繍布を受け取り、丁寧に眺めた。
「アデラインも、きっと喜んだでしょうね」
母の名前を聞き、エレノアの胸が温かくなった。
「お母様も、刺繍がお好きだったんですか?」
「ええ。上手でしたよ。ただ、最初から何でも綺麗にできたわけではありません。幼い頃には、糸を絡ませて困っていたこともありました」
「お母様が、ですか?」
「そうですよ。何度もやり直して、最後には私へ助けを求めてきたこともありました」
エレノアは思わず笑った。
自分の記憶に残る母は、いつも優しく、穏やかで、何でも知っているように見えた。
けれど、母にも幼い頃があった。
失敗して困ったり、祖母に助けを求めたりしたことがあったのだ。
そんな当たり前のことを知るたびに、母が少しずつ近くなる気がした。
「お母様にも、できないことがあったんですね」
「もちろんです。誰だって、最初から何でもできるわけではありませんもの」
マルグリットは微笑み、刺繍布をエレノアへ返した。
「それに、アデラインは人に助けてもらうことを恥ずかしいとは思っていませんでした。困った時には相談して、できるようになったら今度は誰かを手伝う。そういう子でしたよ」
エレノアは母の姿を思い浮かべた。
(お母様は、誰かに頼ってもいいって知っていたんだ)
自分は、いつからそれを忘れてしまったのだろう。
母が亡くなったあと、ベルナール伯爵邸で過ごすうちに、何かを頼むこと自体が怖くなっていた。
助けを求めても聞いてもらえない。
困っていると言えば、迷惑だと責められる。
そんな経験を重ねるうちに、自分で何とかしなければならないと思うようになった。
けれど、ロシュフォール家へ来てからは違う。
アルフォンスも、セドリックも、祖父母も、エレノアが困っていることを伝えれば耳を傾けてくれる。
「私も、少しずつ誰かに頼れるようになりたいです」
エレノアがそう言うと、マルグリットは優しく頷いた。
「ええ。急がなくても大丈夫ですよ。あなたが安心して頼れると思えるようになるまで、私たちは何度でも話を聞きますから」
エレノアは微笑んだ。
皇室への返答がどうなるのかは、まだ分からない。
けれど、どんな知らせが届いたとしても、一人で抱え込まなくていい。
そのことが、今は何より心強かった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、エレノアは自室へ戻り、完成した刺繍を机の上へ広げた。
野ばらの花びらを指先でそっとなぞると、糸の柔らかな感触が伝わってくる。少し形の違う一枚も、今では気に入っていた。
その隣には、以前ベルナール伯爵邸の自室から保全された、小さな空の肖像枠が置かれている。
エレノアは枠へ視線を向けた。
かつてそこに収められていた母の肖像画は、まだ見つかっていない。
どこへ行ってしまったのか。
誰が持ち出したのか。
それとも、別の場所へ移されただけなのか。
今のエレノアには分からなかった。
同じように、母の遺品である野ばらの彫刻が施された木箱も、青い石の髪飾りも、所在が明らかになっていない。
調査は続いているが、まだ確かな答えは出ていなかった。
エレノアは小さく息を吐いた。
(皇室のことも、お母様の遺品のことも、まだ分からないことばかりだわ)
そう思うと、少しだけ気持ちが沈みそうになる。
けれど、以前とは違った。
分からないことがあるからといって、すぐに自分を責める必要はない。
今できることと、まだ待たなければならないことを分けて考えればいい。
エレノアは机の引き出しを開け、保全された品々についてまとめられた記録の写しを取り出した。
以前の寝室から見つかった灰青色の帳面。
右下の引き出しから見つかった小箱と紙束。
細い革袋と、折り畳まれた紙片。
それらは、まだ中身を確かめていない。
特に、「エレノア衣類」と記された紙束については、自分の服に関する何らかの記録かもしれないと思っていた。
ただし、表書きだけで内容を決めつけることはできない。
エレノアは記録を眺めながら、少し考えた。
皇室からの返答を待つ間に、これらの品についても考えてみたい。
けれど、今日はまだ開かなくていい。
何かを調べる時には、誰に立ち会ってもらうか、どこまで確認するかを決めてからにしたかった。
以前、アルフォンスたちがそうしてくれたように。
(今度は、私から相談してみようかな)
その考えが浮かんだことに、エレノア自身が少し驚いた。
以前なら、調べたいと思っても、誰かへ伝えることを躊躇していたはずだ。
けれど今は、自分の意思を話してもいいと思える。
エレノアは記録を丁寧に戻し、引き出しを閉じた。
明日、アルフォンスへ相談してみよう。
そう決めると、少しだけ心が軽くなった。
◇ ◇ ◇
夜の皇宮では、婚姻関係の事務を扱う部署の一室に、まだ灯りが残っていた。
エドガール・ヴェルヌイユは、机の上に並べられた書類を確認していた。
ロシュフォール公爵家からの正式な回答。
ベルナール伯爵家から以前提出された受諾の返書。
正式な婚約の成立記録が存在しないことを確認した報告。
そして、エレノア本人の拒絶の意思を記した文書。
それらは、すでに一つの案件として整理されている。
エドガールは報告書を読み返し、明日以降に確認すべき事項をまとめた。
まず、正式な婚約が成立していないことを前提として、縁談の現在の扱いを整理する必要がある。
次に、エレノア本人が婚約を望んでいないという事実を、関係する部署へ正確に伝えなければならない。
そして、第二王子レオナード本人へどのように報告するかについても、所管する部署との調整が必要だった。
エドガールは書類の端へ短い指示を書き加えた。
『第二王子殿下への報告経路について確認を要する』
その一文を書いたあと、彼はしばらくペンを止めた。
第二王子が、この縁談をどのように考えているのか。
本人がエレノアと婚約することを望んでいるのか、それとも伯爵家からの受諾返書を受けて話が進んでいるだけなのか。
現在の記録からは、どちらとも判断できない。
だからこそ、皇室としての返答を作成する前に、確認すべきことが残っている。
エドガールは机の上の書類を整え、翌朝の確認事項として別の封筒へ収めた。
その時、扉の外から控えめな声が聞こえた。
「ヴェルヌイユ様、失礼いたします。先ほどの確認依頼について、関係部署から連絡がございました」
エドガールが入室を許すと、文官が一通の書類を持って入ってきた。
「第二王子殿下に関係する案件の報告経路について、明朝、担当者同士で確認の場を設けることになりました」
「そうか。では、こちらも必要な記録を揃えておこう」
「承知しました」
文官が退出すると、エドガールは椅子へ深く腰を下ろした。
まだ結論は出ていない。
皇室からロシュフォール公爵家へ送る返答も、作成されていない。
しかし、エレノア本人の拒絶が正式に記録されたことで、止まっていた確認は次の段階へ進み始めていた。
そして、その先には第二王子本人に関わる判断が待っている。
エドガールは最後に、ロシュフォール公爵家からの回答へ視線を向けた。
そこには、十五歳の少女が自分の未来を守るために示した意思が、明確な言葉で記されていた。
皇室が、その意思をどのように扱うのか。
それは、まだ決まっていない。
けれど、翌朝から始まる確認によって、少なくとも今までより一歩先へ進むことになるだろう。
◇ ◇ ◇
その頃、ロシュフォール公爵邸では、エレノアが日記を開いていた。
机の上には、今日完成させた野ばらの刺繍が置かれている。淡い桃色の花びらは灯りの下で柔らかく見え、少しだけ形の違う一枚も、今では大切な部分になっていた。
『今日は、野ばらの刺繍が完成した』
エレノアはゆっくり文字を書いた。
『お祖母様が褒めてくださって、とても嬉しかった』
『お母様も昔、刺繍で失敗したことがあったと聞いた』
そこまで書くと、自然に笑みが浮かんだ。
母のことを知るたびに、少しずつ新しい思い出が増えていく。
自分が知らなかった母の姿を、祖父母や叔父から教えてもらえる。
それは、エレノアにとって何より大切な時間だった。
続けて、皇室への返書についても書き留めた。
『皇室からのお返事は、まだ届いていない』
『少し怖いけれど、私は自分の意思を伝えたことを後悔していない』
エレノアはペンを止め、しばらくその文章を見つめた。
前の人生では、何もかもが自分の知らないところで決まっていった。
けれど今は違う。
少なくとも、自分が何を望んでいるのかを伝えることができた。
その言葉を、アルフォンスが正式な書面として皇室へ届けてくれた。
結果がどうなるのかは分からない。
それでも、以前とは違う未来へ進むための一歩を踏み出したのだと思う。
『待っている間も、私の時間は進んでいる』
最後にそう書き加え、エレノアは日記を閉じた。
明日はアルフォンスへ、保全された品々について相談してみよう。
そのあと、セドリックから借りた本の続きを読もう。
お祖母様には、新しい刺繍の模様について教えてもらいたい。
そんなことを考えているうちに、少しずつ眠気が訪れた。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ入った。
窓の外では、雲の切れ間から月が顔を覗かせている。
今夜も、この家で安心して眠ることができる。
その幸せを胸に、エレノアは静かに目を閉じた。
彼女は、まだ知らない。
皇宮ではすでに、自分の拒絶の意思が正式な記録へ加えられ、その扱いについて確認が進められていることを。
そして翌朝には、第二王子レオナードに関係する部署との協議が予定されていることを。
エレノアが望んだのは、ただ一つ。
第二王子との婚約をせず、自分で選んだ家族と、自分の人生を歩むこと。
その願いに対し、皇室がどのような返答を示すのか。
まだ答えは出ていなかった。
ただ、皇宮の机に置かれた書類の中で、エレノアの名前はすでに次の確認事項へと移されていた。
そして、その確認の先には、これまで一度も本人の意思が確かめられていなかった第二王子レオナードの名前があった。




