↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
113/115

第113話 父の机に届いた返書と、私の知らないベルナール家の朝



 父へ宛てた手紙を送り出した翌朝、エレノアは窓の外から聞こえる鳥の声で目を覚ました。


 昨夜のうちに風が強まったらしく、庭園の小道には黄色く色づいた葉が散っている。秋の朝日はまだ低く、窓辺に置かれた花瓶の影が、淡い絨毯の上へ長く伸びていた。


 寝台から身体を起こしたエレノアは、しばらくその光景を眺めていた。


 昨日まで机の上にあった父への手紙は、もうそこにはない。


 何度も文章を読み返し、最後の一文を書き加え、自分で封をした手紙だった。叔父アルフォンスへ預けて発送の手配をお願いしたとき、ようやく肩の力が抜けたように感じたことを覚えている。


 しかし、一晩が過ぎると、別の不安が生まれていた。


(お父様は、私の手紙を読んでくださるかしら。読んでくださったとしても、今の暮らしを続けたいという希望を、どのように受け止められるのでしょう)


 エレノアは寝具の端を指で整えながら、静かに息を吐いた。


 父ロベルトが何を考えているのか、今の彼女には分からない。


 ベルナール家から婚約受諾の返書が送られたことを知ったときも、父がどのような考えでそれを決めたのか、十分に聞くことはできなかった。以前の人生で経験した出来事を思い出せば、父に対して身構えてしまうのも無理はなかったが、今の父がこれからどのような返事をするのかまで、過去の記憶だけで決めつけることはできない。


 エレノアは窓へ目を向けた。


 庭園では、使用人が落ち葉を集めている。


 彼らは昨日も同じように働いていたし、明日もきっと屋敷の手入れを続けるのだろう。父からの返事が届くかどうかとは関係なく、ロシュフォール家の朝はいつもどおり始まっている。


 その当たり前の光景が、今は少しありがたかった。


 扉が控えめに叩かれ、リディアの声が聞こえた。


「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」


「ええ。入ってちょうだい」


 リディアは温かな湯と朝の衣装を持って入室した。エレノアの顔を見ると、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべる。


「今朝はよく晴れておりますね。風は少し冷たいようですが、日中は過ごしやすくなりそうです」


「そうね。窓から見える葉も、ずいぶん色が変わってきたわ」


 エレノアが答えると、リディアは衣装を整えながら窓の方へ目を向けた。


「庭師たちも、冬支度を少しずつ進めているそうです。ただ、東側の通路は引き続き立ち入りを控えるようにとのことでした」


「まだ調査の準備をしているのね」


「はい。危険がないことを確認するまでは、通らないようにと申し付けられております」


 エレノアは頷いた。


 石畳の一部が浮き上がり、雨のあとには水がたまりやすくなっている東側の通路は、まだ修理されていない。庭師ギュスターヴ・メルシエが状態を調べるための準備を進めていると聞いていたが、地面の下を調べる作業そのものは始まっていなかった。


 以前なら、通れない場所があることを少し不便に感じただけかもしれない。


 けれど今は、原因が分からないうちに無理をしないという判断にも、意味があると理解できる。


「今日は西側の回廊を歩こうかしら。お祖母様のところへ伺う前に、少し庭を眺めたいの」


「かしこまりました。朝食のあとのご予定を確認しておきますね」


 リディアはそう答え、エレノアの身支度を手伝い始めた。


 エレノアは鏡の中の自分を見つめた。


 父への手紙を送ったからといって、何かがすぐに変わるわけではない。


 それでも、昨日までとは違う朝を迎えていることだけは、確かだった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ朝、ベルナール伯爵家の執務室では、ロベルトが届いた書簡に目を通していた。


 窓の外には手入れの行き届いた中庭が広がり、使用人たちが朝の仕事を進めている。執務机の上には領地からの報告書や家政に関する書類が積まれ、その脇に、ロシュフォール家から届いた一通の封書が置かれていた。


 差出人はアルフォンス・ロシュフォール。


 ロベルトは封を切り、折り畳まれた便箋を取り出した。


 それは、少し前に自分が送った問い合わせへの返答だった。


 娘エレノアが現在どこで暮らしているのか。


 ロシュフォール家との養子縁組に関する手続きは、どこまで進んでいるのか。


 王宮との婚約に関する情報は、どのように扱われているのか。


 ロベルトが確認を求めた事項に対し、アルフォンスは一つずつ慎重に答えていた。


 エレノアは引き続きロシュフォール家で生活している。


 養子縁組に必要な署名は進められているものの、法的な手続きはまだ完了していない。


 そして王宮との婚約に関する情報については、書類の性質や手続き上の必要性、関係者の意思を踏まえ、適切な範囲で対応するという内容だった。


 ロベルトは最後の部分を読み返した。


「適切な範囲、か……」


 低く呟き、便箋を机へ置く。


 明確な拒絶ではない。


 しかし、求めた情報をすべて開示するという返事でもなかった。


 アルフォンスが何かを隠しているのか、それとも慎重な手続きを守っているだけなのか、この文章から判断することはできない。


 ロベルトは椅子の背へ身体を預け、窓の外を見た。


 娘がロシュフォール家へ移ってから、屋敷の中は以前より静かになっていた。


 もともとエレノアは、騒がしく振る舞う娘ではなかった。


 食事の席でも必要以上に口を開かず、何かを尋ねれば丁寧に答えた。父親である自分に反抗するような態度を見せることも、ほとんどなかった。


 だからこそ、ロシュフォール家で暮らし続けたいという希望がどれほど強いものなのか、ロベルトにはまだ測りかねていた。


 アルフォンスの手紙には、エレノア本人の考えを尊重する姿勢がにじんでいる。


 それは理解できた。


 しかし、ベルナール家の娘である以上、家の事情を完全に切り離して考えることはできないとも思っていた。


(あの子は、どこまで自分で考えているのだろうか)


 ロベルトは机の上へ指を置いた。


 娘が幼い頃、アデラインはよく、エレノアの話を最後まで聞いてやってほしいと言っていた。


 その記憶が、ふいによみがえる。


 庭園の見える小さな居間で、アデラインが娘の描いた絵を手にしていた日のことだった。


 エレノアはまだ幼く、何を描いたのか説明しようとしていたが、ロベルトは仕事の途中で立ち寄っただけだった。用件があるなら簡潔に話すよう促したところ、アデラインが穏やかな声で彼を呼び止めた。


『この子は、今、自分で考えたことを話そうとしているのです。少しだけ聞いてあげてくださいな』


 責めるような言い方ではなかった。


 ただ、娘の隣に座ったアデラインが、真剣な顔でそう頼んでいた。


 ロベルトは、そのあと自分がどれほど娘の話を聞いたのか、はっきり覚えていなかった。


 けれど、アデラインの言葉だけは記憶に残っていた。


 執務室の時計が時を刻む。


 ロベルトは便箋をもう一度取り上げた。


 娘の希望を知りたい。


 そう考えてロシュフォール家へ問い合わせたはずだった。


 しかし、いざ相手から慎重な返事が届くと、家としての立場や今後の手続きばかりが気になってしまう。


 自分が何を知りたかったのか、その順序が曖昧になっているように感じられた。


 扉が叩かれ、執事が入室した。


「旦那様。奥様がお話ししたいことがあるとのことですが、いかがいたしましょう」


「ヴァレリアが?」


「はい。お嬢様の今後について、確認したいことがあるそうです」


 ロベルトは手紙を折り畳み、机の上へ置いた。


「通してくれ」


 執事が一礼して退室すると、ロベルトはしばらく便箋を見つめていた。


 アルフォンスの返事をどう受け止めるべきか、まだ考えがまとまっていなかった。


     ◇ ◇ ◇


 ヴァレリアが執務室へ入ってきたのは、それから間もなくのことだった。


 落ち着いた色合いの衣装を身につけ、いつものように整った姿勢で夫の前へ進む。彼女は机の上の書簡へ一度だけ目を向けたが、すぐにロベルトの顔を見た。


「ロシュフォール家から、お返事が届いたのですか」


「ああ。エレノアの現在の暮らしと、養子縁組の手続きについての返答だ」


「それで、何と?」


 ロベルトは便箋を手元へ引き寄せた。


「エレノアは、引き続き向こうで暮らしている。養子縁組は署名が進んでいるものの、まだ正式には完了していないそうだ」


 ヴァレリアは小さく頷いた。


「そうですか。それなら、今後のことを考える時間はまだあるのですね」


「手続きが終わっていないというだけだ。だからといって、何も決まっていないわけではない」


 ロベルトの返事に、ヴァレリアは少し表情を引き締めた。


「もちろん承知しております。ただ、エレノアがあちらで暮らすことになれば、ベルナール家としても整理しなければならないことがございますでしょう」


「それは分かっている」


 ロベルトは椅子へ深く腰掛け、妻の言葉を待った。


 ヴァレリアは机の向かいに立ったまま、慎重に続けた。


「衣類や私物のこともございますし、家の中で使っていた部屋を今後どうするのかも考えなければなりません。それに、王宮とのお話がどうなっているのか分からないままでは、こちらも対応に困ります」


 ロベルトの眉がわずかに動いた。


「王宮の件については、アルフォンスも慎重な返答をしている。必要な範囲で対応すると書かれているが、具体的な進展までは示されていない」


「それでは、こちらから確認するしかないのでしょうか」


「今すぐそうすると決めたわけではない」


 ヴァレリアは口を閉じた。


 ロベルトは机の上の書類へ視線を落とし、少し間を置いてから続けた。


「私は、まずエレノア本人がどう考えているのかを知りたいと思っている」


 その言葉に、ヴァレリアは意外そうな表情を浮かべた。


「エレノア本人の考え、ですか」


「ああ。向こうで暮らしたいのか、それとも一時的に滞在しているつもりなのか。家を離れてから、あの子が何を考えているのか、私には分からないことが多い」


 ヴァレリアはしばらく夫を見つめていた。


 彼女にとって、エレノアの今後はベルナール家の事情と深く結びついている。


 娘本人の希望だけで決められる問題ではないと考えていたし、ロシュフォール家へ移ったことで、家の中に残された物品の扱いも変わってくる。


 しかし、ロベルトが娘の考えを知りたいと言い出した以上、今この場でそれを否定するのは得策ではないように思われた。


「それでしたら、エレノアへ直接お尋ねになってはいかがでしょう」


「そうすることも考えている」


 ロベルトは短く答えた。


 ヴァレリアは頷いたものの、すぐに別の話題へ移った。


「ところで、あの子の衣類についてですが、以前の整理記録を確認しておいた方がよろしいかもしれません。ロシュフォール家から問い合わせがあった場合、こちらで把握していることを説明できるようにしておきたいのです」


 ロベルトは顔を上げた。


「衣類の整理記録?」


「ええ。以前から使っていないものもございますし、保管場所を移したものもあるはずです。私一人の記憶だけでは、正確なことを申し上げられませんから」


 ヴァレリアは落ち着いた声で答えた。


 彼女は、エレノアの衣類の一部がミレーヌのために仕立て直されていることを知っていた。


 しかし、その経緯をどのように説明するかについては、慎重にならざるを得なかった。


 また、かつて保管場所を移した品々のすべてが、現在どこにあるのかを把握しているわけでもなかった。


 ロベルトは妻の表情を見つめた。


「分かった。記録が残っているなら、まず確認しておいてくれ。ただし、分からないことまで分かったように説明する必要はない」


「承知いたしました」


 ヴァレリアは丁寧に頭を下げた。


 その返事は穏やかだったが、ロベルトには、妻が少し緊張しているようにも見えた。


 ただ、それが何に対するものなのかまでは分からない。


 彼はそれ以上問い詰めず、書類へ視線を戻した。


「エレノアの部屋については、当面そのままにしておこう。今すぐ片づける必要はない」


 ヴァレリアは一瞬だけ目を見開いた。


「よろしいのですか。養子縁組が進んでいるのでしたら、いずれ整理が必要になると思いますが」


「いずれ必要になることと、今日片づけなければならないことは違う。本人の考えを確かめる前に、すべてを動かすつもりはない」


 ロベルトはそう告げ、便箋を封筒へ戻した。


 ヴァレリアは少し間を置いてから頷いた。


「かしこまりました。では、部屋は現状のままにしておきます」


 彼女が退出すると、執務室には再び静けさが戻った。


 ロベルトは机の上へ置いた封筒を見つめた。


 自分の判断が正しいのかどうか、まだ分からない。


 けれど、娘の部屋を本人の知らないうちに片づけてしまうことには、ためらいが生まれていた。


     ◇ ◇ ◇


 昼前のロシュフォール家では、エレノアが西側の回廊を歩いていた。


 窓の外には、秋の光を受けた庭園が広がっている。遠くの木々は赤や黄色に色づき始め、風が吹くたびに葉が揺れていた。


 隣を歩くリディアは、少し後ろからエレノアの歩調に合わせている。


「今日は風が強いのね。窓の外の枝が、ずいぶん揺れているわ」


「はい。ですが、雨の心配はなさそうです。午後もこのまま晴れるとよいですね」


 エレノアは頷き、窓辺で足を止めた。


 庭園の向こうには、普段なら東側の通路へ続く小道が見える。


 しかし、現在は立ち入りを控えるようになっており、そこへ向かう人影はない。


 エレノアは少し考え、リディアへ尋ねた。


「ギュスターヴは、今日も調査の準備をしているのかしら」


「詳しい作業内容までは存じませんが、今朝も庭師たちと相談しているようでした。必要な道具を確認していると聞いております」


「そうなのね。早く安全に通れるようになるといいわ」


「はい。エレノア様がお好きな場所へ、安心してお出かけになれるようになるとよろしいですね」


 リディアの言葉に、エレノアは微笑んだ。


 庭園を歩くことは、ロシュフォール家へ来てから少しずつ好きになった時間の一つだった。


 母アデラインに関する手がかりを探しているときも、セドリックと話しているときも、庭園の景色はいつも穏やかにそこにあった。


 しかし、最近は通路の安全確認や古い記録の調査など、考えなければならないことが増えている。


 エレノアは窓の外を眺めながら、少しだけ眉を寄せた。


(お母様のことも、まだ分からないことがたくさんあるわ。けれど、急いで調べようとして大切な記録を傷つけてしまうのは、避けなくてはいけないのよね)


 古い紙束には、まだ開いていない部分がある。


 衣類の整理について書かれた記録の中には、意味の分からない数字や保管場所の記載が残っていた。


 そこに記された「五」が何を数えたものなのか、「西側保管」が具体的にどこを指すのか、今の段階では分かっていない。


 また、「ロラン」という姓が記されていても、それだけで以前ベルナール家に仕えていたベアトリス・ロラン本人を指すとは断定できなかった。


 エレノアはそうした不明点を、手帳へ書き留めている。


 しかし、答えが見つからないからといって、無理に一つの結論へ結びつけるつもりはなかった。


 回廊の先から足音が聞こえた。


 振り返ると、セドリックが数冊の本を抱えて歩いてくるところだった。


「エレノア。こんなところにいたんだね」


「お兄様。おはようございます」


「おはよう。今日はずいぶん気持ちのよい天気だね」


 セドリックはそう言いながら、エレノアの隣へ立った。


 彼が抱えている本は、どれも厚みのあるものだった。


「その本は、何を調べるためのものなのですか」


 エレノアが尋ねると、セドリックは少し笑った。


「古い家政記録の整理方法について書かれた本だよ。エレーヌたちが資料を扱うとき、どんな点に注意しているのか、少し知っておこうと思ってね」


「お兄様も、お調べになっているのですね」


「専門家の代わりにはなれないけれど、何も知らないままでは、手伝えることも限られるからね」


 セドリックは本を抱え直し、窓の外へ視線を向けた。


「それに、君が大切にしているものが、どういう状態で残されているのかは、僕も気になるんだ」


 エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 セドリックは、母の遺品を調べることについて、いつも慎重だった。


 手がかりが見つかれば一緒に喜んでくれるが、分からないことを無理に答えへ変えようとはしない。


 その姿勢が、エレノアにはありがたかった。


「ありがとうございます。私も、少しずつ勉強したいと思っているのです。記録を読むことだけでなく、どうすれば傷つけずに残せるのかも知りたいので」


「それなら、今度エレーヌに聞いてみようか。一般的な保存方法なら、君にも分かりやすく説明してくれると思うよ」


「ぜひ、お願いいたします」


 エレノアは嬉しそうに頷いた。


 セドリックはその表情を見て、少し安心したように笑った。


 父へ手紙を送った翌日だから、もっと沈んだ様子でいるのではないかと思っていた。


 しかし、エレノアは不安を抱えているはずなのに、自分の興味やこれから学びたいことについて、以前より自然に話せるようになっている。


 それは、セドリックにとっても嬉しい変化だった。


「ところで、昨日の手紙のことは、少し落ち着いた?」


 セドリックが尋ねると、エレノアは小さく頷いた。


「はい。まだ返事が気になりますが、送ると決めたことを後悔してはいません」


「それならよかった。返事が届くまでの間も、君がしたいことをして過ごせるといいね」


「そうですね。今日は、お祖母様と刺繍の続きをするつもりです」


 エレノアはそう答え、少し照れたように笑った。


「青い花は、まだ完成しそうにありませんけれど」


「急がなくてもいいんじゃないかな。君がどんな花にするのか、僕も楽しみにしているよ」


 セドリックの言葉に、エレノアは頬を緩めた。


 母が作ろうとしていた青い花と、自分が今縫っている花は、同じものになるとは限らない。


 けれど、母の残した言葉を大切にしながら、自分なりの形を探していくことはできる。


 エレノアは窓の外へ目を向け、静かに微笑んだ。


     ◇ ◇ ◇


 その頃、ベルナール家の別の部屋では、ヴァレリアが古い家政記録の所在を確認していた。


 机の上には、衣類や備品の管理に関する書類が数冊並んでいる。


 彼女はその中から、以前の衣類整理に関係しそうな記録を探していた。


 エレノアの衣類の一部がミレーヌのために仕立て直されていることは、ヴァレリアも把握している。


 しかし、すべての品物がどのような経緯で移動したのか、正確に説明できるわけではなかった。


 特に、アデラインが生前に使っていた品々については、長い年月の間に保管場所が変わっている。


 ヴァレリアは一冊の帳簿を開き、記載を追った。


 そこには、衣類の移動や保管に関する短い記録が並んでいる。


 しかし、年月が経っていることもあり、現在の所在を示すものばかりではなかった。


「これだけでは、分からないわね……」


 ヴァレリアは小さく呟き、帳簿を閉じた。


 以前、東側の衣装部屋に置かれていた品々の一部を、西側の保管場所へ移すよう指示したことは覚えている。


 その後、さらに別の場所へ移した品もあったはずだった。


 しかし、すべてを自分の目で確認したわけではない。


 当時の使用人たちが、それぞれの仕事を分担していたからだ。


 ヴァレリアは椅子の背へ身体を預けた。


 ロベルトは、分からないことまで分かったように説明する必要はないと言っていた。


 その言葉は、今の彼女にとって都合がよいようにも、かえって難しいようにも感じられた。


 分からないと答えることはできる。


 しかし、なぜ分からないのかと尋ねられた場合、どこまで説明すべきなのだろう。


 扉が叩かれ、侍女が入室した。


「奥様。お呼びでしょうか」


「ええ。以前の衣類整理について確認したいの。古い記録が残っているか、家政を担当する者へ尋ねてちょうだい」


「かしこまりました。どの時期のものでしょうか」


 ヴァレリアは少し考えた。


「アデライン様の品物を整理した頃のものよ。ただし、今すぐ品物を動かす必要はないわ。まず記録が残っているかどうかだけ、確認してほしいの」


 侍女は一礼し、部屋を出ていった。


 ヴァレリアは机の上の帳簿を見つめた。


 ロベルトがエレノアの部屋をそのままにしておくと決めたことも、気にかかっていた。


 これまでなら、家の都合を優先して整理を進めることもできただろう。


 しかし、今回は夫自身が、娘の考えを確かめる前に物を動かさないと告げている。


 その判断を無視するわけにはいかなかった。


 ヴァレリアは帳簿を閉じ、引き出しへ戻した。


 古い品々の所在について、今すぐ答えが出るわけではない。


 けれど、これまで曖昧なままにしていた記録を、改めて確認しなければならない状況になっていた。


     ◇ ◇ ◇


 午後のロシュフォール家では、エレノアがマルグリットの部屋で刺繍を進めていた。


 窓辺の椅子には柔らかな日差しが差し込み、机の上には青い糸と小さな裁縫道具が並んでいる。


 エレノアは刺繍枠を膝に置き、花の輪郭を確かめながら針を動かしていた。


 まだ完成には遠いものの、青い糸で縫った部分は少しずつ増えている。


 マルグリットは隣で自分の刺繍を進めながら、ときおり孫の手元へ視線を向けていた。


「今日は、花びらの外側を進めているのね」


「はい。中心の色はまだ決められないので、先に青い部分を整えようと思いまして」


 エレノアは針を止め、布の上に広がる模様を眺めた。


「紫色の糸も試してみましたが、まだこの花へ使うかどうか迷っています」


「迷っているなら、今は決めなくてもよいのよ。色を合わせてみるだけでも、少しずつ考えがまとまることがあるわ」


 マルグリットはそう言って、穏やかに微笑んだ。


 エレノアは頷き、別の布に試した紫色の糸を思い出した。


 母アデラインがどのような花を作ろうとしていたのかは、まだ分からない。


 残された言葉と簡単な図案だけでは、完成した姿を正確に再現することはできなかった。


 けれど、今のエレノアは、それを無理に再現しなければならないとは思っていなかった。


 母が青い花を作りたいと考えていたこと。


 自分も青い花を縫ってみたいと思ったこと。


 その二つがつながっているだけでも、十分に大切なことのように感じられた。


「お祖母様。お母様は、刺繍をするとき、よく迷っていらっしゃいましたか」


 エレノアが尋ねると、マルグリットは少し懐かしそうに目を細めた。


「そうね。アデラインは、思いついたことをすぐ形にすることもあったけれど、途中で何度も手を止めることもあったわ」


「そうなのですね」


「色を合わせてみたり、少し離して眺めたりしていたわね。けれど、どの作品をどう仕上げたのか、私もすべて覚えているわけではないの」


 マルグリットはそう付け加え、エレノアの手元へ視線を向けた。


「あなたが今縫っている花を見ていると、あの子のことを思い出すわ。でも、同じものを作らなくてもよいのよ」


 エレノアは祖母の言葉を聞き、静かに頷いた。


「はい。私も、少しずつそう思えるようになりました」


 以前は、母が残したものを見つければ、失われた時間を取り戻せるような気がしていた。


 けれど、母の持ち物がすべて見つかったとしても、過ぎ去った時間そのものが戻るわけではない。


 それでも、母がどのような人だったのかを知りたいという気持ちは変わらなかった。


 その願いを大切にしながら、今の自分の時間も重ねていくことができる。


 エレノアは針を持ち直し、青い糸を布へ通した。


 隣では、マルグリットが静かに刺繍を続けている。


 窓の外からは風に揺れる木々の音が聞こえ、部屋には穏やかな時間が流れていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、ロシュフォール家の執務室では、アルフォンスが書簡の発送状況を確認していた。


 エレノアが昨日封じた父宛ての手紙は、すでに屋敷から送り出されている。


 ただし、ベルナール家へ届いたという報告はまだない。


 アルフォンスはその点を確認し、記録へ簡潔に書き留めた。


 エレノア本人が書いた手紙だからこそ、発送されたことと相手が受け取ったことを混同しないようにしておきたかった。


 机の上には、別の書類も置かれている。


 エレーヌ・フォシェたちと相談して送った、古い紙の保存方法に関する予備問い合わせの控えだった。


 こちらもすでに発送されているが、専門家からの返事はまだ届いていない。


 アルフォンスは控えを読み返し、傷んだ資料を無理に開かないという方針が守られていることを確かめた。


 エレノアの母アデラインに関する記録は、まだ多くの謎を残している。


 しかし、急いで答えを得ようとするあまり、原本を傷つけてしまってはならない。


 アルフォンスは書類を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 秋の夕日は、庭園の木々を赤く染めていた。


 エレノアは今日も祖母と刺繍をしていると聞いている。


 父へ手紙を送ったあとも、彼女が日常の時間を過ごせていることに、アルフォンスは少し安心していた。


 けれど、これから先、ベルナール家からどのような返事が届くのかは分からない。


 養子縁組の手続きも、王宮の婚約に関する問題も、まだ結論へ至っていなかった。


 アルフォンスは机の上の書類を整え、次に必要な確認事項を手帳へ記した。


 今できることを、一つずつ進めていく。


 それ以上に急ぐ必要はないと、自分へ言い聞かせるように。


     ◇ ◇ ◇


 夜、エレノアは自室で手帳を開いていた。


 机の上には小さな灯りがともり、窓の外には暗い庭園が広がっている。


 今日の出来事を思い返しながら、エレノアは丁寧に文字を書き進めた。


 朝、西側の回廊を歩いたこと。


 セドリックと古い記録の保存について話したこと。


 祖母と刺繍を進め、青い花の輪郭を少し整えたこと。


 そして、父への手紙については、まだ返事を待っていること。


 エレノアは最後の一文を書いたあと、しばらく筆を止めた。


 父が今、何を考えているのかは分からない。


 自分の手紙が届いたのかどうかも、まだ知らない。


 それでも、今日一日を振り返ると、不安だけで過ごしていたわけではなかった。


 庭園を眺め、セドリックと話し、祖母と刺繍をした。


 自分のしたいことを考え、少しずつ形にしていた。


 エレノアは手帳を閉じ、机の上へ置いた。


(お父様のお返事は、まだ分からない。でも、私は今日もここで過ごせたわ。明日も、私にできることを一つずつ続けていきたい)


 そう考えると、胸の奥が少し温かくなった。


 エレノアは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。


 庭園の向こうには、月の光を受けた木々が静かに並んでいる。


 この屋敷で過ごす日々を、これからも大切にしたい。


 その願いは、父へ手紙を送ったあとも変わっていなかった。


 エレノアはしばらく夜の庭園を眺めてから、静かに窓を閉じた。


 父の机に、叔父からの返書が届いていることを、彼女はまだ知らない。


 ベルナール家で、自分の部屋を当面そのままにしておくと決められたことも、古い衣類の記録が改めて確認され始めたことも、知る由はなかった。


 ただ、自分の言葉で書いた手紙が、今も父のもとへ向かっている。


 その事実だけを胸に、エレノアは灯りを落とした。


 答えが届くまでには、まだ時間がかかるだろう。


 けれど、その時間の中にも、彼女自身の暮らしは続いていく。


 エレノアは寝台へ入り、静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。