第112話 封をする前の最後の迷いと、父へ届ける私自身の願い
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の外には薄い霧が残っていた。
秋の冷え込みが少しずつ深まり、庭園の木々は朝露をまとったまま静かに立っている。遠くから聞こえる使用人たちの足音も、厚い絨毯と閉ざされた扉に遮られ、寝室には穏やかな静けさが満ちていた。
エレノアは寝台の上で身体を起こし、机の方へ目を向けた。
昨夜、何度も読み返した父への手紙が、そこに置かれている。
封筒にはまだ入れていない。便箋を丁寧に重ね、上から薄い紙をかぶせておいたため、書いた文章そのものは見えなかったが、その存在を意識するだけで胸の奥がわずかに緊張した。
(昨日は、これでよいと思えたのに。朝になったら、また少し怖くなってしまったわ)
父ロベルトへ自分の希望を伝える。
言葉にすれば、それだけのことだった。
けれど、エレノアにとっては、長い間できずにいたことでもある。
ベルナール家にいた頃、父の前で自分の考えを述べようとすると、いつも先に相手の反応を想像してしまった。何かを望んでも、家の事情や身分にふさわしい振る舞いを理由に退けられるのではないかと考え、結局は口を閉ざしてしまうことが多かった。
以前の人生で第二王子との婚約を受け入れたときも、そうだった。
自分が何を望んでいるのかを、誰かが真剣に尋ねてくれるとは思わなかった。
そして、自分自身も、望んでいないとはっきり伝えることを諦めていた。
その先に待っていた結末を思い出しそうになり、エレノアは寝具を握る指に力を込めた。
冷たい石の床。
逃げ場のない場所。
自分へ向けられた、第二王子レオナードの姿。
記憶の断片が胸の奥をかすめ、呼吸が少し浅くなる。
エレノアは目を閉じ、今いる部屋の空気を確かめるように、ゆっくりと息を吸った。
ここはロシュフォール家の自室だ。
窓の向こうには庭園があり、廊下にはリディアがいる。祖父母も、叔父も、セドリックも、この屋敷でいつもどおりの朝を迎えている。
あの場所へ戻ったわけではない。
(私は、もう同じように黙って従うつもりはないわ。でも、怖くなくなったわけではないのよね)
エレノアは胸元へ手を当てたまま、しばらく窓を眺めていた。
昨日、自分の言葉で書いた手紙は、まだ父へ送っていない。
今なら書き直すことも、送るのをやめることもできる。
それでも、何も伝えないままにしたくないという気持ちは、夜が明けても変わっていなかった。
扉の向こうから、控えめな声が聞こえた。
「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、リディア。起きているわ」
返事をすると、リディアが温かな湯を持って入室した。
彼女はエレノアの顔を見て、いつもより少しだけ慎重に言葉を選んだ。
「昨夜は、お休みになれましたでしょうか」
「眠れたわ。ただ、朝になったら、また手紙のことを考えてしまって」
エレノアが苦笑すると、リディアは寝台のそばへ湯を置き、穏やかに頷いた。
「大切なお返事でございますから、気になるのも無理はございません。ですが、昨日のうちに文章をおまとめになったのでしたら、今朝は少し違うお気持ちで読み返せるかもしれませんね」
「そうね。昨日の私が何を考えていたのか、確かめるつもりで読んでみるわ」
リディアは微笑み、衣装を整えるために衣装棚へ向かった。
エレノアは寝台から下り、冷たい床へ足をつけた。
窓の外では、霧の向こうから淡い朝日が差し始めていた。
◇ ◇ ◇
身支度を終えたエレノアは、朝食までの時間を使って手紙を読み返すことにした。
机へ向かい、薄い紙を取り除くと、昨日書いた文章が現れる。
父への挨拶。
現在の暮らしについての報告。
ロシュフォール家での生活を続けたいという希望。
そして、自分の考えを少しずつ言葉にしていきたいという願い。
どの文章も、昨夜の自分が考え抜いて選んだものだった。
エレノアは最初から最後まで、声に出さずに読み進めた。
読み終えても、すぐに筆を取ることはしなかった。
文章の中に、事実と異なることは書かれていない。
父を責める言葉も、必要以上に自分を低く扱う言葉もない。
それでも、最後まで読んだとき、何かが少し足りないように感じられた。
(何が足りないのかしら。ロシュフォール家で暮らしたいという希望は、ちゃんと書いてあるのに)
エレノアは便箋を机へ置き、昨日の手帳を開いた。
そこには、叔父アルフォンスから教えられたことや、祖母マルグリット、セドリックと交わした言葉が記されている。
自分の希望を伝えることと、相手を拒絶することは同じではない。
父の反応によって、自分が選んだ言葉の意味まで変わるわけではない。
その二つを読み返したところで、エレノアは小さく息を吐いた。
自分は、父に許可を求めるつもりで書いているのだろうか。
それとも、父に希望を知ってもらうために書いているのだろうか。
似ているようで、違う問いだった。
ロシュフォール家で暮らしたいという希望を父へ伝えたとしても、養子縁組の手続きがその場で成立するわけではない。父の立場や家同士の事情があり、今後も話し合わなければならないことは残っている。
けれど、だからといって、自分の希望を父の許可がなければ存在しないものとして扱う必要はない。
エレノアは便箋の最後の部分へ視線を戻した。
『まだ考えがまとまらないこともございますが、これからは、できるだけ自分の言葉でお伝えしていきたいと思っております。』
その文章を読んでいるうちに、胸の奥へ一つの考えが浮かんだ。
父へ伝えたいのは、ただ今の暮らしを続けたいということだけではない。
これから自分に関わる大切なことを決めるときには、自分の気持ちも聞いてほしい。
その願いも、確かに存在していた。
エレノアは筆を取ったものの、すぐには紙へ触れさせなかった。
この一文を書き加えれば、父はどう受け取るだろう。
これまでの決定を責められたと感じるかもしれない。
あるいは、娘が以前とは違う考えを持ち始めたことを、快く思わないかもしれない。
そうした想像が浮かぶたび、筆先が揺れた。
しかし、何も書かずに手紙を送った場合、きっと後から考えることになる。
本当に伝えたいことを、また飲み込んでしまったのではないかと。
(責めたいわけではないの。ただ、これからは私にも尋ねてほしい。私のことを、私の知らないところだけで決めてほしくないのよ)
エレノアは新しい紙を一枚取り出し、追加したい言葉だけを書いてみた。
『これから私に関わる大切なことをお考えになるときには、どうか私自身の気持ちもお尋ねいただけましたら幸いです。』
書き終えた瞬間、胸が強く鳴った。
丁寧な文章だった。
父への敬意も、失っていないと思う。
それでも、これまでの自分なら書けなかった言葉だった。
エレノアはしばらくその一文を見つめ、やがて便箋の末尾へ書き加えることにした。
最初から書き直す必要はなかった。
昨日の自分が選んだ言葉を残しながら、今朝になって気づいた願いを一つ加える。
そうして完成した文章を読み返すと、ようやく自分の気持ちに近づいたように感じられた。
けれど、手紙を封じる前に、もう一度だけ確認しておきたいことがあった。
エレノアは便箋を丁寧に重ね、朝食の席へ向かう準備を始めた。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の管理について報告を受けていた。
東側の通路は、石畳の一部が浮き上がっていることに加え、雨のあとに水がたまりやすい状態が続いている。庭師ギュスターヴ・メルシエは作業に必要な道具と人員を整理しているものの、地面の下を調べる作業そのものはまだ始まっていなかった。
「今朝も通路の閉鎖は続けさせている。足元の状態が分からない以上、見た目だけで安全だと判断するわけにはいかんからな」
オーギュストの言葉に、アルフォンスが頷いた。
「ギュスターヴにも、その方針を伝えています。調査を始める前に、作業の範囲と必要な準備をもう一度確認してもらう予定です」
エレノアは温かなスープを口に運びながら、そのやり取りに耳を傾けた。
庭園の通路は、以前から見慣れた場所だった。
しかし、石畳の下で何が起きているのかは、外から眺めただけでは分からない。
だからこそ、調べる前に安全を確かめ、必要な準備を進めている。
その慎重さは、今の自分にも少し似ているように感じられた。
目の前に手紙があるからといって、急いで送ればよいわけではない。
けれど、いつまでも机の上へ置いておくだけでは、父へ自分の気持ちは届かない。
エレノアは匙を置き、アルフォンスへ声をかけた。
「叔父様。朝食のあと、少しだけお時間をいただけますか」
アルフォンスはすぐに顔を上げた。
「もちろんだよ。手紙のことかな」
「はい。昨日書いた文章に、今朝少しだけ言葉を加えました。封をする前に、確認していただきたいことがあるのです」
叔父は穏やかに頷いた。
「分かった。食事のあと、執務室へおいで」
そのやり取りを聞いていたセドリックが、エレノアへ微笑みかけた。
「昨日より、少し表情が落ち着いているね」
エレノアは意外に思い、従兄の顔を見た。
「そうでしょうか。自分では、まだ緊張しているつもりなのですが」
「緊張していないという意味じゃないよ。何をしたいのか、自分で決めているように見えたんだ」
セドリックはそう言ってから、少し照れたように笑った。
「もちろん、僕の勝手な印象だけれどね」
エレノアはその言葉を受け止め、静かに微笑んだ。
自分ではまだ不安ばかりを意識していたが、周囲からは違う変化が見えているのかもしれない。
マルグリットは二人のやり取りを聞きながら、穏やかな表情で茶器を持ち上げた。
「エレノア。何かを決めたあとでも、迷うことはあるものよ。だから、迷いが残っているからといって、決めていないことにはならないわ」
エレノアは祖母の顔を見て頷いた。
「はい、お祖母様。ありがとうございます」
朝食の席には、そのあとも庭園の冬支度や屋敷の予定についての話が続いた。
エレノアは家族の会話に耳を傾けながら、胸の奥に残る緊張を、無理に消そうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
アルフォンスの執務室には、朝の光が斜めに差し込んでいた。
机の上には数通の書簡が置かれ、窓辺の棚には封蝋と文具が整然と並んでいる。エレノアが入室すると、アルフォンスは手元の書類を閉じ、向かいの椅子へ座るよう促した。
「それで、確認したいことというのは?」
エレノアは膝の上に置いた便箋を見つめたあと、顔を上げた。
「父へ送る手紙に、これから私に関わる大切なことを決めるときには、私自身の気持ちも尋ねてほしいと書き加えました」
アルフォンスはすぐには答えず、エレノアの続きを待った。
「その文章が、父を責めるように受け取られないか、少し心配なのです。でも、書かずに送ることにも、ためらいがあります」
「なるほど。君にとっては、そこが大切な部分なのだね」
「はい。ロシュフォール家で暮らしたいという希望だけでなく、これからのことを決めるときには、私の考えも聞いていただきたいのです」
エレノアはそう答えながら、便箋を差し出した。
「文章を読んでいただいてもよろしいでしょうか。ただ、父へ伝えたい気持ちそのものを、変えるつもりはありません」
アルフォンスは便箋を受け取り、静かに頷いた。
「もちろんだよ。私が確認するのは、君の言葉が意図したとおりに伝わりそうかどうかだ。君の希望を別のものに書き換えるためではない」
その返事を聞いて、エレノアは少し安心した。
アルフォンスは便箋を広げ、最初から丁寧に読み進めた。
途中で口を挟むことはなく、最後の一文まで目を通してから、ゆっくりと紙を置いた。
「よく書けていると思うよ」
エレノアは思わず顔を上げた。
「本当でしょうか」
「ああ。今の暮らしについての説明も、これからの希望も、君自身の考えとして書かれている。父上を非難する文章にはなっていないし、必要以上に自分の願いを小さく扱ってもいない」
アルフォンスは最後の一文を指で示した。
「ここも、丁寧なお願いになっているね。父上がどのように受け取るかまでは保証できないけれど、少なくとも君が伝えようとしていることは明確だ」
エレノアは胸の前で指を重ねた。
「安心しました。私、父へ何かをお願いすること自体が、少し怖かったのです」
アルフォンスはその言葉を聞き、表情を和らげた。
「君がこれまでどのような気持ちで過ごしてきたのか、私がすべて理解できているとは思わない。ただ、今の君が自分の希望を伝えようとしていることは、大切にしたいと思っているよ」
エレノアは頷いた。
叔父の言葉は、いつも必要以上に大きな約束をしない。
父が必ず理解してくれるとも、すべてがうまくいくとも言わない。
それでも、自分の考えを尊重してくれるという確かな態度が、エレノアには心強かった。
「叔父様。もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
「この手紙を父へ送ることで、養子縁組の手続きに何か影響することはありますか」
アルフォンスは少し考え、慎重に答えた。
「父上が君の希望を知ることは、今後の話し合いに影響するかもしれない。ただし、この手紙を送っただけで養子縁組が成立したり、反対に手続きが取り消されたりするわけではないよ」
「それでは、今の段階では、まだ正式に決まっていないのですね」
「ああ。必要な署名は進んでいるけれど、法的な手続きはまだ完了していない。だからこそ、君の今後の暮らしについても、関係する事柄を確認しながら進めていく必要がある」
エレノアはその説明を聞き、静かに頷いた。
以前なら、書類に署名があればすべて決まったものだと思っていたかもしれない。
けれど今は、署名したことと正式に成立したことが違うと理解している。
王宮への婚約拒否も同じだった。
自分の意思は正式に提出されているが、王宮が最終的にどのような判断を下すのかは、まだ分からない。
その違いを曖昧にしないことが、これからの自分を守るためにも必要なのだろう。
「ありがとうございます。手紙を送ることで、すべてが決まるわけではないと分かりました」
「そうだね。ただ、君の希望を父上へ伝えるという意味はある。何も変わらない手紙ではないと思うよ」
エレノアは便箋を受け取り、胸の前でそっと重ねた。
叔父の言葉を聞いても、不安が完全に消えたわけではなかった。
けれど、何のために送るのかは、はっきりしてきた。
父に自分の希望を知ってもらうため。
そして、これから自分に関わることを決めるときには、本人の意思を尋ねてほしいと伝えるため。
その二つを、今の自分の言葉で書いた手紙だった。
「叔父様。私、この手紙を送りたいと思います」
エレノアがそう告げると、アルフォンスは静かに頷いた。
「分かった。では、君が封をしてから、通常の書簡として発送の手配をしよう」
その返事を聞いた瞬間、エレノアの胸が強く鳴った。
まだ父のもとへ届いたわけではない。
けれど、送ると決めたことは、自分にとって大きな一歩だった。
◇ ◇ ◇
執務室を出たエレノアは、すぐに自室へ戻らず、廊下の窓辺で足を止めた。
庭園では、落ち葉を集める使用人たちが作業を続けている。東側の通路には、以前と同じように立ち入りを控えるための措置が取られており、その向こうへ人が入っていく様子はなかった。
風に吹かれた葉が石畳の上を転がり、庭師の一人が箒で丁寧に集めている。
エレノアはその光景を眺めながら、手元の便箋を見つめた。
(送ると決めたのだから、もう迷ってはいけないのかしら。でも、怖いと思う気持ちは、まだ残っているわ)
決心したあとも、不安は消えない。
そのことを、以前の自分なら弱さだと思ったかもしれない。
けれど、今は少し違う。
怖いと思いながらも、自分で選んだ言葉を届けようとしている。
その行動まで否定する必要はないのだと、少しずつ考えられるようになっていた。
「エレノア」
背後から声が聞こえ、振り返るとセドリックが廊下を歩いてきた。
彼はエレノアの手元の便箋へ目を向けたあと、穏やかに微笑んだ。
「叔父上との相談は終わったのかな」
「はい。文章を確認していただきました。それで……父へ送ることに決めました」
セドリックは嬉しそうに頷いた。
「そうか。君が納得して決めたのなら、それが何よりだと思うよ」
エレノアは微笑み返したものの、すぐに視線を落とした。
「でも、まだ少し怖いのです。父がどのような返事をくださるのか、考えてしまって」
セドリックは彼女の隣へ立ち、窓の外へ目を向けた。
「僕だって、大切な手紙を送るときには、相手の返事が気になるよ。まして君にとっては、簡単な相手ではないのだろうからね」
「はい。父から希望を尋ねられたことは嬉しかったのですが、だからこそ、返事が怖いのかもしれません」
セドリックは少し考えたあと、エレノアへ向き直った。
「君が送るのは、父上を困らせるための手紙ではないんだよね」
「はい。私は、今の暮らしを続けたいという希望を知っていただきたいのです」
「それなら、まずはその気持ちを大切にしていいと思う。父上がどう答えるかは、届いてから考えればいいことだよ」
エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
まだ起きていないことを、今ここですべて考え尽くすことはできない。
父が怒るかもしれない。
理解してくれるかもしれない。
返事をすぐには出さないかもしれない。
どれも可能性であって、今のエレノアが知っている事実ではなかった。
「そうですね。まだ届いてもいない手紙の返事を、先に決めつけることはできませんものね」
「うん。君が自分で選んだ言葉を送る。それが今日できることなんじゃないかな」
セドリックはそう言って、少しだけ笑った。
エレノアもつられるように微笑んだ。
彼と話していると、難しいことを難しいまま受け止めてもよいのだと思える。
すぐに答えを出さなくても、何も考えていないことにはならない。
その安心感が、今のエレノアにはありがたかった。
「ありがとうございます、お兄様。私、部屋へ戻って封をしてまいります」
「うん。もし手伝いが必要なら、いつでも声をかけてね」
エレノアは頷き、便箋を大切に持ったまま自室へ向かった。
◇ ◇ ◇
昼前、エレノアは自室の机へ向かい、父への手紙を最後にもう一度読み返した。
リディアは少し離れた場所で衣装を整えていたが、主人が便箋を広げると、邪魔にならないよう静かに作業を続けた。
エレノアは文章を一行ずつ確かめた。
誤った事実は書いていない。
父へ伝えたい希望も、曖昧になっていない。
自分の意思を尊重してほしいという願いも、丁寧な言葉で記されている。
そして、婚約については触れていない。
そのことを確認したとき、胸の奥に小さな痛みが生まれた。
王宮へ提出した拒否声明のことを、父が知ったらどうなるのだろう。
以前の人生で父が婚約を当然のものとして扱っていたことを思い出すと、簡単に楽観することはできなかった。
しかし、今回の手紙で答えるべきことは、父から尋ねられた今後の暮らしについてだった。
婚約を望まないという意思は、すでに別の正式な書類で示している。
エレノアはその二つを、もう一度心の中で分けて考えた。
(私は、婚約を受け入れるつもりはない。その気持ちは変わらないわ。でも、今日送る手紙は、今の暮らしについて父へ伝えるものなのよね)
そう考えると、少しだけ呼吸が楽になった。
エレノアは便箋を丁寧に折り、用意しておいた封筒へ入れた。
封筒の表には、父ロベルトの名を書く。
見慣れた名前だった。
けれど、自分の希望を書いた手紙の宛名として記すのは、これまでとは違う重さがあった。
エレノアは筆を置き、封筒を見つめた。
まだ封を閉じていない。
今なら中身を取り出して、文章を変えることもできる。
けれど、そうしようとは思わなかった。
昨日から何度も考え、今朝になって言葉を加え、叔父にも確認してもらった。
その過程を経て、今の自分が伝えたいことは、すでに便箋の中にある。
「リディア」
エレノアが声をかけると、リディアは手を止めて振り返った。
「はい、エレノア様」
「封をするための道具をお願いできるかしら」
リディアは一瞬だけ目を見開いたあと、穏やかに微笑んだ。
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
彼女は机の上へ必要な道具を整え、エレノアが使いやすい位置へ置いた。
エレノアは封筒の口を閉じ、慎重に封を施した。
手元の動きが少しぎこちなくなったが、最後まで自分で行うことができた。
封じられた手紙を見つめていると、胸の奥に静かな緊張が広がっていく。
もう、文章を書き直すことはできない。
けれど、それは自分の言葉を失ったということではなかった。
むしろ、誰かへ届けるための形になったのだと思えた。
「できたわ」
エレノアが小さく呟くと、リディアは優しく頷いた。
「はい。とても丁寧にお封じになりましたね」
エレノアは封筒を両手で持ち、少し笑った。
「まだ父へ届いたわけではないのに、何だか大きなことを終えたような気がするの」
「それだけ、大切なお手紙だったのでしょう」
リディアの返事は穏やかだった。
エレノアは封筒を見つめ、ゆっくりと頷いた。
父がどのように受け取るかは、まだ分からない。
それでも、自分の希望を伝えるための手紙を、初めて自分で最後まで書き上げた。
そのことは、確かな事実だった。
◇ ◇ ◇
午後、アルフォンスの執務室では、エレノアから預かった封書の発送準備が進められていた。
アルフォンスは封筒の宛名と封の状態を確かめ、書簡を扱う使用人へ渡した。
「ベルナール伯爵宛ての私信だ。通常の書簡として、確実に届けるよう手配してくれ」
「かしこまりました」
使用人は丁寧に一礼し、封書を受け取った。
アルフォンスはその姿を見送りながら、机の上へ視線を戻した。
エレノアが父へ自分の希望を書いたことは、喜ばしい変化だった。
しかし、それによってベルナール家との問題が解決したわけではない。
ロベルトが娘の希望をどのように受け止めるのかは、まだ分からない。
養子縁組も正式に成立しておらず、王宮の婚約手続きについても最終的な判断は出ていない。
アルフォンスはその状況を考えながら、別の書類を取り上げた。
古い資料の保存方法について、エレーヌ・フォシェたちと相談していた予備問い合わせの控えだった。
傷んだ紙を安全に扱うため、専門家へ一般的な助言を求める内容である。
原本や私的な記録の詳細を外へ出さず、まず保存上の注意点を確認するという方針は変わっていない。
アルフォンスは控えに記された内容を確かめ、問い合わせの扱いについて担当者からの報告を待つことにした。
専門家から助言が得られたとしても、すぐに古い資料を開けるとは限らない。
傷みの程度や、必要な処置を確かめなければならないからだ。
エレノアの母アデラインに関する記録には、まだ分からないことが多い。
衣類の整理について書かれた古い紙束も、残りの部分は開かれていないままだった。
アルフォンスはそれらを急いで扱うつもりはなかった。
大切なものを守ろうとして、かえって傷つけてしまっては意味がない。
彼は控えを所定の場所へ戻し、次の書類へ目を向けた。
その頃、エレノアの封書は発送の手配を終え、屋敷から送り出されようとしていた。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。
窓の外には赤みを帯びた夕日が差し込み、室内には温かな茶の香りが漂っている。祖母は刺繍枠を手にしていたが、エレノアが入ってくると針を置き、穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃい、エレノア。今日はどうだったかしら」
エレノアは祖母の隣へ座り、少し照れたように答えた。
「父への手紙を封じました。叔父様にお預けして、発送の手配もお願いしました」
マルグリットは嬉しそうに頷いた。
「そう。自分で決めたのね」
「はい。まだ怖い気持ちはありますが、今の私が伝えたいことは書けたと思います」
祖母はその言葉を聞き、エレノアの手元へ優しく視線を向けた。
「それなら、今日は少し肩の力を抜いてもよいのではないかしら」
エレノアは小さく笑った。
「そうしたいのですが、今度は父からの返事が気になってしまいそうです」
「まあ、それは仕方がないわね。手紙というものは、送る前にも、送ったあとにも、考えることがあるものだから」
マルグリットの穏やかな言葉に、エレノアは微笑んだ。
祖母は茶器を手に取り、少し考えてから続けた。
「でも、返事を待つ間にも、あなたの毎日は続いていくのよ。手紙のことばかりを考えて、今ここにある時間を忘れてしまわないようにね」
エレノアはその言葉を聞き、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの庭園には、穏やかな光が広がっている。
この屋敷で過ごす時間を大切にしたい。
その願いを父へ書いたばかりだった。
それなのに、返事が届くまで不安にとらわれ、目の前の暮らしを楽しめなくなってしまっては、少し寂しい。
「そうですね。私、ここでの生活を続けたいと書いたのですもの。その生活を、自分でも大切にしなくてはいけませんね」
マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。あなたがそう思ってくれるなら、私も嬉しいわ」
エレノアは茶器を置き、持参した刺繍枠を取り出した。
そこには、青い糸で少しずつ縫い進めている花の模様がある。
母が残した『青い花を作りたい』という言葉をきっかけに始めたものだったが、まだ完成には至っていなかった。
別の布では紫色の糸を試しているものの、この青い花へ加えるかどうかは決めていない。
エレノアは刺繍枠を見つめ、祖母へ尋ねた。
「お祖母様。今日は少しだけ、この続きを縫ってもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。無理に進めなくてもよいから、好きなところまでなさい」
エレノアは頷き、針を手に取った。
青い糸を布へ通すと、少しずつ花の輪郭が整っていく。
まだ完成した形は見えない。
けれど、今ある部分を大切にしながら、少しずつ進めることはできる。
エレノアは針先を確かめ、丁寧に次の一針を加えた。
マルグリットは隣で自分の刺繍を進めながら、ときおり孫の手元へ視線を向けていた。
母アデラインがどのような青い花を作ろうとしていたのか、祖母にも分からない。
だからこそ、エレノアが今、自分で選んだ花を縫っていることを、静かに見守っていた。
◇ ◇ ◇
同じ夕刻、王宮では婚約に関する書類の確認が続いていた。
担当部署の机には、ベルナール家から提出された受諾の返書と、エレノア本人の署名がある拒否声明が、別々の記録として保管されている。
担当官たちは、双方の文書を同一の意思表示として扱わないよう注意を払いながら、今後の確認事項を整理していた。
「ベルナール伯爵家からの受諾は、家としての返答です。一方、令嬢本人の声明には、婚約を望まないことが明記されています」
担当官の一人がそう説明すると、上席の官吏は書類へ目を落とした。
「その区別は維持する必要がある。正式な婚約が成立したという扱いには、まだできない」
「はい。現段階では、手続き上の確認が必要な状態として整理しております」
官吏は頷き、次の書類を確かめた。
第二王子レオナードの側からは、令嬢本人の意思を無視して手続きを進めないよう求める意向が伝えられている。
ただし、それによってすべての判断が終わったわけではない。
王宮として、どのような手順で確認を進めるかを決める必要があった。
「ベルナール家への追加の照会については、まだ正式な発送を行っていないな」
「はい。照会内容と手順の確認を続けております」
上席の官吏はしばらく考え、書類を閉じた。
「では、先に必要な確認事項を整理しておこう。令嬢本人の意思が記録されている以上、それを曖昧にしたまま次へ進めるわけにはいかない」
担当官は頷き、書類を所定の場所へ戻した。
その日のうちに新たな決定が下されることはなかった。
ただ、王宮の中では、家からの返書と本人の意思を別々に扱うという方針が、引き続き維持されていた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室へ戻り、机の前へ座った。
父への手紙が置かれていた場所には、もう便箋も封筒もない。
その空いた場所を見つめると、胸の奥に不思議な感覚が広がった。
昨日まで、そこには自分の迷いが形になったものがあった。
何度も読み返し、書き直すべきか考え、封をする勇気が出るかどうか悩んでいた。
けれど今、その手紙は自分の手元を離れている。
まだ父へ届いてはいない。
父が読んだわけでも、返事を考え始めたわけでもない。
それでも、エレノアが伝えたいと思った言葉は、もう机の上にとどまっていなかった。
エレノアは手帳を開き、今日の出来事を書き始めた。
朝、手紙へ一文を加えたこと。
叔父に確認してもらい、送ることを決めたこと。
自分で封をして、発送の手配をお願いしたこと。
祖母と一緒にお茶を飲み、青い花の刺繍を少し進めたこと。
書き終える頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
エレノアは手帳を閉じ、机の上へ置いた。
父からの返事がいつ届くのかは分からない。
王宮の婚約手続きがどう進むのかも、まだ知らない。
養子縁組が正式に成立するまでには、確認しなければならないことが残っている。
母の遺品や古い記録についても、未解決のことが多かった。
それでも、今日の自分には、確かな一つの出来事があった。
父へ、自分の希望を書いた手紙を送り出したことだった。
(お父様がどのように受け止めてくださるかは、まだ分からない。でも、私は自分の言葉で伝えたわ。これからも、同じように少しずつ伝えていけたらいい)
エレノアは胸元へ手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
不安が消えたわけではない。
けれど、今夜はその不安を抱えたままでも、穏やかに眠れそうだった。
窓の外では、秋の夜風が木々の枝を静かに揺らしている。
エレノアは机の灯りを落とし、寝台へ向かった。
父へ届けるために選んだ言葉は、もう自分の手を離れている。
その言葉がどのような返事を連れてくるのかは、まだ誰にも分からない。
けれど、返事が届くまでの時間も、エレノア自身の大切な日々なのだ。
彼女はそのことを胸に、静かに目を閉じた。




