↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
111/115

第111話 父への返事に書けない言葉と、私が初めて選ぶ伝え方


 父ロベルトから届いた手紙を、エレノアは朝食の前にもう一度読み返していた。


 秋の朝は日に日に冷え込むようになり、窓辺に置かれた小さな花瓶の硝子も、触れると指先が冷たくなる。庭園の木々にはまだ色づいた葉が残っているものの、昨夜の風で落ちた葉が小道の端に集まり、庭師たちが朝早くから箒を動かしていた。


 机の上には、父からの手紙と、昨夜書き留めた手帳が並んでいる。エレノアは封筒の折り目を指でなぞりながら、何度読んでも同じ場所で視線が止まることに気づいていた。


『今後の暮らしについて、何を望んでいるのか聞かせてほしい。』


 父の筆跡で書かれたその言葉は、見慣れているはずなのに、どこか知らない人から届いたもののようにも感じられた。


(お父様が私の希望を尋ねてくださるなんて、少し前の私なら考えられなかったわ。でも、何を望んでいるのかと聞かれて、すぐに答えられないなんて……)


 望んでいることが分からないわけではない。むしろ、胸の中には伝えたいことがいくつもあり、その一つ一つをどの順番で言葉にすればよいのか迷っていた。


 第二王子レオナードとの婚約を望んでいないことは、何よりも明確だった。


 ロシュフォール家での暮らしを続けたいという願いも、今の自分にとって大切なものだった。祖父母や叔父、セドリックに支えられながら、母アデラインの遺したものを少しずつ確かめていく時間を、まだ手放したくない。


 けれど、それらを父へそのまま書いたとき、どのような返事が届くのだろう。


 父が婚約の拒否を知った場合、以前のように家のためだと言われるのではないか。あるいは、ロシュフォール家で暮らしたいという願いを、ベルナール家から離れたいという拒絶として受け取られるのではないか。


 エレノアは手紙を机へ置き、両手を膝の上で重ねた。


 以前の人生で父から告げられた言葉は、今も忘れられない。家のために必要な婚約だから受け入れるべきだと言われたとき、父の考えを変えられるとは思えず、ただ自分の気持ちを押し込めてしまった。


 しかし、今ここにいる父は、まだあのときと同じ言葉を口にしていない。


 昨夜届いた手紙にも、婚約を受け入れなさいとは書かれていなかった。


(だからといって、安心して何もかも話せるわけではないのよね。お父様が何を考えていらっしゃるのか、私はまだ知らないのだから)


 父の変化を信じたい気持ちと、簡単には信じられない気持ちが、胸の中でぶつかっていた。


 エレノアはそのどちらかを無理に消そうとはせず、手帳を開いた。昨日書いた言葉の下に、新しい一行を加えようとしたところで、控えめに扉を叩く音が聞こえた。


「エレノア様、おはようございます。朝のお支度を始めてもよろしいでしょうか」


「ええ、リディア。お願いするわ」


 入室したリディアは、温かな湯を用意したあと、机の上の手紙へ一瞬だけ視線を向けた。封筒の差出人を知っている彼女は、昨夜から主人が考え事をしていることに気づいていたが、自分から内容を尋ねようとはしなかった。


「本日は少し風がございますので、厚手の肩掛けもご用意いたしました。朝食のあとにお庭へ出られるようでしたら、お持ちくださいませ」


「ありがとう。今日はお祖母様にお会いしたいと思っているのだけれど、その前に少し考える時間が欲しいの」


 リディアは衣装を広げていた手を止め、鏡越しにエレノアを見た。


「何か、お手伝いできることはございますか」


 エレノアはしばらく迷ったあと、机の上の手帳へ目を向けた。


「お手伝いというほどではないのだけれど……私が手紙を書くとき、急いでいないかだけ、気にかけてもらえるかしら」


 少し意外な頼みだったのだろう。リディアは瞬きをしたあと、穏やかな表情で頷いた。


「承知いたしました。お急ぎになっているようでしたら、お茶をお持ちする口実を作りましょうか」


「まあ、それでは私が気づいてしまうわ」


「気づいていただくための口実でございますから」


 真面目な顔でそう答えるリディアに、エレノアは思わず笑みをこぼした。


 父からの手紙を受け取って以来、胸の奥には緊張が残っていた。けれど、こうして普段どおりの言葉を交わせる相手がそばにいるだけで、少し呼吸が楽になる。


「それなら、お茶をお願いしたときは、少し休んだ方がよいという合図だと思うことにするわ」


「はい。ただ、お茶が飲みたいだけのときにも、遠慮なくお申しつけくださいませ」


 リディアは微笑みながら衣装の袖を整えた。


 エレノアは鏡に映る自分を見つめ、昨日までとは違う一日が始まろうとしていることを感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席には、オーギュスト、マルグリット、アルフォンス、セドリックが揃っていた。


 食堂の窓から差し込む光は穏やかだったが、外では風が強まっているらしく、庭の木々がときおり大きく枝を揺らしていた。使用人が温かな料理を運ぶと、焼きたてのパンの香りが食卓へ広がり、エレノアはいつもより少し遅れて席に着いた。


 父から手紙が届いたことは、すでにアルフォンスから家族へ伝えられていた。ただし、その内容については、エレノア本人が話すまでは詳しく尋ねないようにしてくれているらしかった。


「エレノア、昨夜はよく眠れたかね」


 オーギュストの問いかけに、エレノアは顔を上げた。


「はい、お祖父様。少し考え事はしておりましたが、休むことはできました」


「それならよかった。何か考えることがあるときほど、食事と睡眠は大切だからな」


 祖父はそれ以上踏み込まず、自分の皿へ視線を戻した。


 エレノアはその気遣いをありがたく感じながら、温かなスープを口に運んだ。以前のベルナール家では、食事の席で何か気になることがあっても、父の機嫌や周囲の様子を見て言葉を飲み込むことが多かった。


 けれど、この家では沈黙が必ずしも不安を意味しない。


 話したいときに話し、まだ話せないときは待ってもらえる。その違いを、エレノアは少しずつ実感していた。


 食事が進んだ頃、アルフォンスが書類の話題を切り上げてから、エレノアへ目を向けた。


「昨日の手紙について、何か相談したいことがあれば、いつでも声をかけておくれ。もちろん、返事を書くかどうかも君が考えてよいことだよ」


 エレノアは手元の匙を置き、叔父の言葉を受け止めた。


「ありがとうございます、叔父様。実は、今日少しお話を伺いたいと思っておりました」


「そうか。それなら、午前中に時間を取れるよ」


 アルフォンスが答えると、セドリックも静かに顔を上げた。


「僕に手伝えることがあれば言ってね。手紙の文章を考えることでも、考えを整理することでも構わないから」


 エレノアは従兄の顔を見て、小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、お兄様。ただ、今回は最初に自分で書いてみたいと思っています」


 セドリックは少し驚いた様子を見せたが、すぐに嬉しそうに頷いた。


「うん。その方がいいと思う。僕たちが先に言葉を用意してしまったら、君自身の返事ではなくなってしまうかもしれないからね」


 エレノアはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 これまで、重要な書簡については叔父や従兄と相談しながら文章を整えてきた。王宮へ提出した拒否声明も、伝えるべきことが曖昧にならないよう、慎重に確認してもらったものだった。


 けれど、今回の手紙は少し違う。


 父が尋ねているのは、今後の暮らしについて自分が何を望んでいるのかということだった。


 その答えを最初から誰かに考えてもらうのではなく、まず自分の言葉で書いてみたい。


 そう思えたことが、エレノア自身にも少し意外だった。


「エレノア」


 マルグリットが穏やかな声で呼びかけた。


「もし文章を書いている途中で疲れたら、午後のお茶にいらっしゃい。今日は刺繍を持ってこなくてもよいわ。お話をしてもいいし、ただ一緒にお茶を飲むだけでも構わないのよ」


「はい、お祖母様。ありがとうございます」


 エレノアが答えると、マルグリットは優しく微笑んだ。


 食卓ではそのあと、庭園の落ち葉や冬支度についての話が続いた。東側通路については、まだ立ち入り制限が続いていることが確認され、オーギュストは安全が確かめられるまでは誰も通さないよう改めて伝えた。


 エレノアはその話を聞きながら、目の前の問題を一つずつ扱うことの大切さを思い出した。


 庭の石畳も、母の古い資料も、父からの手紙も、急いで答えを出せばよいものではない。


 ただし、いつまでも何も決めないままでよいとも思わなかった。


 今の自分にできることを、今日一つ進めてみよう。


 エレノアはそう考えながら、朝食を終えた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食後、エレノアは自室へ戻り、机の上へ新しい便箋を置いた。


 父から届いた手紙は、その左側に広げてある。右側には手帳を置き、昨日までに整理した自分の希望を確かめられるようにした。


 リディアは窓辺の椅子へ肩掛けを置き、温かな茶を用意すると、エレノアの邪魔にならないよう扉の近くへ下がった。


 エレノアは筆を取り、最初に父への挨拶を書いた。


『お父様。お手紙をありがとうございました。』


 そこまでは、迷わずに書くことができた。


 しかし、その次の一文を考えたところで、筆先が止まった。


 体調を気遣ってくれたことへの礼を書こうか。それとも、ロシュフォール家での生活について先に伝えようか。


 エレノアは父の手紙を読み返し、まず現在の暮らしについて答えることにした。


 祖父母や叔父、従兄に支えられながら穏やかに過ごしていること。


 日々の生活の中で、以前より自分の考えを口にできるようになったこと。


 母の残したものについて、家族と相談しながら確かめていること。


 その三つを書き出しかけたところで、エレノアは最後の項目を見つめた。


(お母様の持ち物について、どこまで書いてよいのかしら。調べていること自体を隠したいわけではないけれど、まだ分からないことが多いのよね)


 母の衣装の一部が見つかっていないことや、野薔薇の彫刻が施された木箱の所在が分からないことは、今も調査中だった。


 古い記録に残された名前や数字についても、意味が確定していないものがある。


 その段階で父へ詳しく書けば、事実と推測が混ざってしまうかもしれない。


 エレノアは少し考え、母の遺品を調べているという具体的な説明はいったん脇へ置いた。


 代わりに、母の思い出について祖母から話を聞く時間を大切にしている、と書いた。


 それは確かな事実であり、父へ伝えたい気持ちにも合っていた。


 次に、今後の暮らしについて書こうとしたとき、再び手が止まった。


『私は、これからもロシュフォール家で暮らしたいと思っております。』


 その一文を書き終えると、胸が強く鳴った。


 言葉にしてしまえば、思っていたよりもはっきりした希望だった。


 ロシュフォール家で暮らしたい。


 ベルナール家へすぐに戻りたくない。


 その二つは似ているようで、エレノアにとっては少し違っていた。


 父やベルナール家のすべてを拒絶したいわけではない。けれど、以前の暮らしへ何事もなかったように戻ることは、今の自分にはできそうになかった。


 エレノアは便箋を見つめ、次の文章を書き加えようとした。


『ベルナール家へ戻ることは望んでおりません。』


 書いた途端、指先が強張った。


 その文章は、今の自分の気持ちから大きく外れてはいない。


 しかし、父が尋ねたのは今後の暮らしについての希望であり、ただちに帰還を求める手紙ではなかった。


 その返事として、最初から拒絶の言葉を重ねる必要があるのだろうか。


(私は、何を伝えたいのかしら。お父様に傷ついてほしいわけではないし、怒らせたいわけでもない。でも、自分の気持ちを曖昧にしたくもないわ)


 エレノアは筆を置き、書きかけの便箋を机の中央へ移した。


 最初に書いた言葉を消すのではなく、別の紙へ書き直してみることにした。


 父へ伝えたいのは、今の暮らしを続けたいという願いだった。


 その願いを、相手を責める言葉ではなく、自分が選びたい生活として説明できないだろうか。


 エレノアは新しい紙に、少し長い文章を書き始めた。


『私は、今のロシュフォール家での暮らしを大切に思っております。お祖父様やお祖母様、叔父様、お兄様と過ごす中で、これまで自分でも気づかなかった気持ちを、少しずつ言葉にできるようになりました。』


 そこで筆を止め、文章を読み返した。


 まだ整ってはいない。


 けれど、最初の一文よりも、自分が伝えたいことに近い気がした。


 エレノアはその下へ、今後もこの家で暮らしながら、自分の考えを整理する時間を持ちたいと書き加えた。


 すると、今度は別の疑問が浮かんだ。


 父が婚約について尋ねていない以上、この手紙でその話題に触れなくてもよいのだろうか。


 王宮へ提出した拒否声明は、すでに正式な記録として受け取られている。


 父がその事実を知るのは、時間の問題かもしれない。


 けれど、自分の手紙で先に知らせることと、王宮の手続きの中で伝わることは、同じではなかった。


 エレノアは筆を置いたまま、しばらく動かなかった。


 リディアは主人の手が止まっていることに気づいたが、すぐには声をかけなかった。


 窓の外では、風に吹かれた葉が一枚、硝子の前を横切っていく。


 エレノアはその動きを目で追い、ようやく小さく息を吐いた。


「リディア。お茶をもう少しいただけるかしら」


「はい、ただいま」


 リディアは静かに近づき、茶器へ温かな茶を注いだ。


 そのとき、便箋へ視線を落とさないようにしていることに、エレノアは気づいた。


「ありがとう。少し考えすぎてしまったみたい」


「大切なお手紙でございますもの。考える時間が長くなるのは、自然なことかと存じます」


 リディアは茶器を置いたあと、少し迷ってから続けた。


「ただ、エレノア様。今朝おっしゃっていたことを、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」


「ええ。何かしら」


「お急ぎになっていないか、気にかけてほしいとおっしゃいました。ですから、今は少し休まれてもよいのではないかと思います」


 エレノアは驚いたあと、朝の約束を思い出して微笑んだ。


「そうね。せっかくお願いしたのだから、言うことを聞かなくてはいけないわね」


「言うことを聞いていただくほどのことではございませんが、お茶が冷める前にお飲みいただければ嬉しゅうございます」


 リディアの穏やかな声に、エレノアは肩の力を抜いた。


 便箋はまだ完成していない。


 けれど、最初の一行さえ書けなかった昨日とは違い、今日は自分の希望を文章にすることができた。


 その変化を、急いで次の結果へつなげる必要はないのかもしれなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午前の終わり頃、エレノアは書きかけの便箋を封筒へ入れず、手帳とともに持ってアルフォンスの執務室を訪ねた。


 廊下には磨かれた木の香りが漂い、窓から差し込む光が絨毯の模様を浮かび上がらせていた。扉の前で一度呼吸を整えてから声をかけると、室内から叔父の落ち着いた返事が聞こえた。


 アルフォンスは机の上の書類を片づけ、エレノアが座れるよう椅子を勧めた。


「手紙を書き始めたのかい」


「はい。ただ、まだ完成しておりません。今日は、文章を見ていただく前に、一つ相談したいことがあるのです」


 エレノアは膝の上に便箋を置き、叔父の顔を見た。


「父からの手紙には、私が今後の暮らしについて何を望んでいるのか、聞かせてほしいと書かれていました。私はロシュフォール家での生活を続けたいと思っていますし、そのことは自分の言葉で伝えたいのです」


 アルフォンスは頷き、続きを待った。


「ですが、婚約については、父の手紙に何も書かれていませんでした。私が王宮へ提出した声明について、父がまだ知らない可能性もあります。その状態で、私から何も触れずに返事をするのは、よくないことでしょうか」


 問い終えたエレノアは、叔父の反応を待った。


 アルフォンスはすぐには答えず、机の端に置かれた書簡の束へ一度視線を向けた。


「まず、君が父上から何を尋ねられたのかを考えよう。今回の手紙は、今後の暮らしについて君の希望を聞くものだったね」


「はい。婚約について、直接尋ねる言葉はありませんでした」


「それなら、暮らしについての希望を答えること自体は、不自然ではないよ。尋ねられていない事柄を、すべて一度に書かなければならないわけではないからね」


 エレノアは少し安心したが、すぐに顔を上げた。


「でも、父が婚約について知ったとき、私が隠していたと思われるかもしれません」


 アルフォンスは、その不安を軽く扱わなかった。


「そう受け取られる可能性がないとは言えない。父上がどう考えるかは、私にも分からないからね。ただ、王宮へ提出した声明は、正式な手続きの中で扱われている書類だ。君が父上への私信でその全文を説明しなければならない、ということにはならないよ」


「それでは、父へ何も伝えなくてもよいのでしょうか」


「そこは、君が何を望むかによると思う。私から一つの答えを押しつけるつもりはないけれど、手紙の目的を分けて考えることはできるだろうね」


 アルフォンスは机の上へ白い紙を一枚置き、そこに二つの短い見出しを書いた。


 一つは、暮らしについての返事。


 もう一つは、婚約についての意思。


「君が今書こうとしているのは、父上から尋ねられた暮らしについての返事だ。一方、婚約についての意思は、すでに王宮へ正式に伝えている。この二つは関係しているけれど、同じ文章にまとめなければならないものではない」


 エレノアはその紙を見つめた。


 これまで、父への手紙を一通書くことが、すべての問題に答えを出すことのように感じられていた。


 しかし、叔父が分けて示してくれたことで、少し見通しが変わった。


「私が父へ暮らしの希望を伝えても、それだけで婚約についての意思が変わるわけではないのですね」


「もちろんだよ。君がロシュフォール家で暮らしたいと伝えることと、婚約を望まないという意思は、それぞれ別に存在している。どちらか一方を話したからといって、もう一方が消えることはない」


 エレノアは静かに頷いた。


 アルフォンスは、彼女の表情が少し和らいだのを確かめてから続けた。


「ただし、王宮の手続きが進めば、ベルナール家へ確認が行われる可能性はある。そのときには、父上も君の声明について知ることになるかもしれない。私たちはその可能性を考えながら、必要な説明を準備しておくべきだろう」


「はい。それは分かっています」


 エレノアは便箋を持ち直し、少し考えてから尋ねた。


「叔父様。父から、婚約をどうするつもりなのかと直接尋ねられた場合、私は自分の言葉で拒否したいと思っています。でも、今はまだ、その言葉を父へ書く勇気がありません」


 その告白を口にすると、胸の奥が痛んだ。


 王宮へは、すでに拒否声明を提出している。


 それなのに、父へ同じ意思を伝えることを怖がっている自分が、少し情けなく感じられた。


 アルフォンスは彼女の手元へ視線を落とし、穏やかな声で答えた。


「エレノア。王宮へ声明を出すことと、父上へ直接伝えることは、君にとって同じ重さではないのだろうね」


 エレノアは顔を上げた。


「はい……。王宮へ提出するときも怖かったのですが、父へ伝えることには、別の怖さがあります」


「それなら、その違いを無視しなくていい。君はすでに、自分の意思を正式に示している。父上への伝え方について考える時間を持つことは、意思を取り消すこととは違うよ」


 叔父の言葉を聞いた途端、エレノアの指先から少し力が抜けた。


 父へすぐに書けないことを、誰かに責められるのではないかと思っていた。


 けれど、アルフォンスは急ぐように促さなかった。


「ありがとうございます、叔父様。私、まずは今の暮らしについて、自分の言葉で返事を書こうと思います」


「うん。それが君の選んだ答えなら、私は尊重するよ」


 エレノアは微笑んだあと、もう一つ気になっていたことを尋ねた。


「叔父様宛てに届いた父の返書について、私が知っておいた方がよいことはございますか」


 アルフォンスは頷いた。


「父上は、養子縁組がまだ正式に成立していないことを理解したと書いている。また、君をただちにベルナール家へ戻すよう求めるものではないとも記していたよ」


 エレノアは驚き、膝の上の便箋を見つめた。


「すぐに戻るように、とは……おっしゃっていないのですね」


「ああ。ただし、それで今後のことがすべて決まったわけではない。王宮との婚約手続きについては、引き続き確認したいという考えも残されているからね」


 エレノアはその説明を慎重に受け止めた。


 父がすぐに帰還を求めていないことは、確かに安心できる知らせだった。


 しかし、婚約について考えを変えたわけではない。


 その二つを混同しないようにしながら、エレノアは静かに頷いた。


「教えてくださって、ありがとうございます。父からの手紙だけでは分からなかったことでした」


「君に関係する大切なことだからね。私が知っている範囲は、これからも説明するよ」


 エレノアは礼を述べ、執務室をあとにした。


 廊下へ出ると、窓の外では風が少し弱まっていた。


 手元の便箋は、まだ完成していない。


 それでも、何を書くべきかという迷いは、訪ねてくる前より少し整理されていた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃、王都セレディアのベルナール伯爵邸では、ロベルトが執務を進めていた。


 机の上には領地からの報告書が積まれているが、その端には昨日書いた手紙の控えが置かれている。娘へ送った書簡がすでにロシュフォール家へ届いていることを、ロベルトはまだ知らなかった。


 彼は報告書の数字を確かめながらも、ときおり控えへ目を向けていた。


 自分が娘へ何を望んでいるのかと尋ねたことが、思っていた以上に気になっていた。


(あの子は、どのような返事を書くのだろう。そもそも、返事を書いてくれるだろうか)


 手紙には急がなくてよいと記した。


 それは、書いたときには自然な言葉だった。


 しかし、いざ送ってみると、いつ返事が届くのか気になってしまう。


 ロベルトは自分の矛盾に気づき、書類の上へ筆を置いた。


 娘に考える時間を与えると書いた以上、すぐに答えを求めるべきではない。


 そう分かっていても、長い間十分に話してこなかった娘の考えを知りたいという気持ちは、簡単には収まらなかった。


 扉を叩く音がして、執事が入室した。


「旦那様。午後のご予定について、確認をお願いしたいことがございます」


 ロベルトは顔を上げ、差し出された予定表を受け取った。


 領地からの報告を受ける時間と、家の財務に関する確認が記されている。


 その中には、王宮からの新しい正式な照会は含まれていなかった。


「王宮からは、まだ何も届いていないのか」


「はい。現時点で、新たな正式書簡は確認しておりません」


 ロベルトは頷いた。


 第二王子との婚約については、ベルナール家から受諾の返書を送っている。


 だが、正式な婚約成立の通知はまだ届いていない。


 ロベルトは、そのことを以前よりも強く意識するようになっていた。


「何か連絡があれば、すぐに知らせてくれ」


「かしこまりました」


 執事が退出すると、ロベルトは再び机の上の控えへ目を向けた。


 娘へ送った手紙には、婚約について詳しく書かなかった。


 それは、まず本人が何を望んでいるのかを知りたかったからだった。


 しかし、娘の希望が自分の考えと異なっていた場合、どうするつもりなのか。


 その問いに、ロベルトはまだ答えを持っていなかった。


(エレノアが、ロシュフォール家に残りたいと言ったなら……私は、それをどう受け止めるべきなのだろう)


 娘がすぐに戻りたいと言うとは限らない。


 むしろ、これまでの状況を考えれば、滞在を続けたいと望む可能性は十分にある。


 ロベルトは椅子へ深く腰掛け、窓の外へ視線を向けた。


 自分が娘へ問いかけた以上、その答えを聞く覚悟も必要なのだろう。


 ただ、聞いた答えをそのまま受け入れられるかどうかは、まだ分からなかった。


 彼はその曖昧さを自覚しながら、再び仕事へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアはマルグリットの部屋を訪ねた。


 部屋には温かな茶の香りが漂い、窓辺の卓には小さな焼き菓子が並べられている。祖母は刺繍枠を手にしていたが、エレノアが入ってくると針を置き、隣の椅子へ座るよう促した。


「いらっしゃい、エレノア。今日はお手紙を書いていたのかしら」


「はい。まだ途中なのですが、少しだけ書くことができました」


 マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。


「それはよかったわ。書き始めるまでが、いちばん難しいこともあるものね」


 エレノアは椅子へ腰掛け、祖母が用意してくれた茶器を受け取った。


 温かな茶を一口飲むと、午前中ずっと緊張していた肩が少し楽になった。


「お祖母様。母は、お父様へ手紙を書くことがあったのでしょうか」


 マルグリットはその質問に、少し驚いたように目を瞬かせた。


「アデラインがロベルトへ、ということね」


「はい。母は、手紙を書くときにどのようなことを考えていたのか、少し気になったのです」


 マルグリットはしばらく考え、窓辺へ目を向けた。


「結婚前のことなら、手紙を書いている姿を見かけたことはあるわ。でも、その内容を私がすべて知っていたわけではないのよ。結婚してからは、あなたのお父様へどのような手紙を書いていたのか、なおさら分からないわね」


 エレノアは頷いた。


「そうですよね。母の手紙なのですから、すべてをご存じなわけではありませんよね」


「ええ。ただ、アデラインは文章を書き直すことを嫌がらない子だったわ。伝えたいことがうまく言葉にならないときには、何度か書き直していたように覚えているの」


 マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。


「もっとも、それがどの手紙だったのかまでは覚えていないわ。私が見たのは、あの子が紙を前に考え込んでいる姿だけだったから」


 エレノアはその話を聞き、手元の茶器を見つめた。


 母も、伝えたい言葉が見つからずに迷うことがあった。


 そのことが、少し意外だった。


 母アデラインは、エレノアの記憶の中ではいつも優しく、落ち着いた人だった。


 幼い頃の記憶だから、実際の母の姿をすべて覚えているわけではない。


 それでも、母が何かに迷っている姿は、あまり思い浮かばなかった。


「母も、何を書けばよいのか迷うことがあったのですね」


「もちろんよ。誰だって、伝えたいことが多いほど、言葉を選ぶのは難しくなるもの」


 マルグリットはそう答え、エレノアの顔を優しく見つめた。


「あなたも今、同じように迷っているのかしら」


 エレノアは少し考えてから頷いた。


「はい。父へ伝えたいことはあるのですが、どのように書けばよいのか、まだ分からない部分があります」


 マルグリットは急かさず、続きを待った。


「私、ロシュフォール家で暮らしていたいと思っています。でも、それを書くことで、父を拒絶しているように受け取られたらどうしようと考えてしまうのです」


 言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。


 エレノアは茶器を置き、膝の上で指を重ねた。


「父へ何かを伝えるとき、私はいつも、父がどう受け取るかを先に考えてしまいます。もちろん、相手の気持ちを考えることは大切だと思うのですが……」


 そこで言葉が途切れた。


 マルグリットは、エレノアの手元へ視線を落としたあと、静かに答えた。


「相手の気持ちを考えることと、自分の気持ちを消してしまうことは、同じではないわ」


 エレノアは顔を上げた。


「お祖母様……」


「あなたがロシュフォール家で暮らしたいと思うことは、誰かを傷つけるための願いではないでしょう。今の暮らしを大切にしたいから、そう思っているのよね」


「はい。ここで過ごす時間が、私にはとても大切なのです」


 マルグリットは頷いた。


「それなら、その理由を伝えてみてはどうかしら。相手がどのように受け取るかを、すべて決めることはできないけれど、あなたが何を大切にしているのかは、あなた自身の言葉で伝えられるはずよ」


 エレノアはしばらく黙っていた。


 祖母の言葉は、叔父の説明とは少し違う形で胸に届いた。


 叔父は、手紙の目的を分けて考えることを教えてくれた。


 祖母は、自分の願いを伝えることが、必ずしも誰かを拒絶することにはならないと教えてくれた。


 どちらも、今のエレノアには必要な考え方だった。


「ありがとうございます、お祖母様。私、もう少し自分の気持ちを整理してみます」


「ええ。焦らなくていいわ。今日はせっかくお茶を用意したのだから、少しゆっくりしていきなさい」


 エレノアは微笑み、茶器を持ち上げた。


 窓の外では、秋の風に揺れる木々の向こうへ、柔らかな午後の日差しが広がっていた。


 祖母と過ごす静かな時間の中で、エレノアは父への返事を、少しずつ自分のものとして考えられるようになっていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、エレノアは自室へ戻り、午前中に書いた便箋をもう一度広げた。


 机の上には父からの手紙と、二枚の書きかけの紙が並んでいる。


 最初の紙には、父への挨拶と、ロシュフォール家で暮らしたいという短い希望が記されていた。


 二枚目には、その理由を少し詳しく説明した文章がある。


 エレノアは二つを読み比べ、祖母から聞いた言葉を思い出した。


 相手がどう受け取るかを、すべて決めることはできない。


 けれど、自分が何を大切にしているのかは、自分の言葉で伝えられる。


 エレノアは新しい便箋を取り出し、今度は途中で止めずに文章を書き始めた。


『お父様。


 お手紙をありがとうございました。私の体調や暮らしについて気遣ってくださったことを、嬉しく思っております。


 私は現在、ロシュフォール家で穏やかに過ごしております。お祖父様、お祖母様、叔父様、お兄様をはじめ、屋敷の皆様に支えていただきながら、日々の暮らしの中で少しずつ自分の考えを言葉にできるようになりました。


 今後の暮らしについて、何を望んでいるのかとお尋ねくださいましたので、今の私の気持ちをお伝えしたいと思います。


 私は、これからもロシュフォール家での生活を続けたいと望んでおります。


 ここで過ごす時間は、私にとって大切なものになっています。お祖母様からお母様の思い出を伺ったり、自分の好きなことに向き合ったりする中で、これまで気づかなかったことを知る機会も増えました。


 今すぐにすべてのことを決められるわけではありませんが、もう少しこの場所で、自分がどのように暮らしていきたいのかを考える時間をいただきたいと思っております。』


 そこまで書き終えると、エレノアは筆を置いた。


 午前中に書いた文章よりも長くなったが、伝えたいことは整理されているように感じられた。


 ただ、まだ手紙は完成していない。


 最後に何を書けばよいのか、少し迷いが残っていた。


 父が返事を急がなくてよいと書いてくれたことへの礼を伝えるべきだろうか。


 それとも、今後も自分の希望を聞いてほしいと書くべきだろうか。


 エレノアは父の手紙を読み返し、末尾の文章へ目を留めた。


『すぐに返事を求めるものではない。考える時間が必要であれば、そのようにして構わない。』


 その言葉を見つめているうちに、胸の奥に小さな温かさが生まれた。


 父が本当に変わったのかどうかは、まだ分からない。


 けれど、少なくともこの手紙では、自分に考える時間を与えてくれている。


 そのことを、素直に嬉しいと感じている自分もいた。


 エレノアは筆を取り、最後に一文を書き加えた。


『すぐに返事をしなくてもよいとおっしゃってくださったことにも、感謝しております。まだ考えがまとまらないこともございますが、これからは、できるだけ自分の言葉でお伝えしていきたいと思っております。』


 書き終えると、エレノアはゆっくりと息を吐いた。


 手紙は、ひとまず形になった。


 しかし、すぐに封筒へ入れることはしなかった。


 文章を読み返し、父へ伝えたいことがきちんと書かれているか確かめたかった。


 エレノアは便箋を机の上へ広げたまま、窓の外へ目を向けた。


 夕暮れの庭園には、長い影が伸びている。


 風は朝よりも弱まり、遠くの木々が静かに揺れていた。


(これでよいのかしら。まだ婚約のことには触れていないけれど、今の私が父へ伝えたい暮らしの希望は、書けたと思うわ)


 エレノアは自分の胸へ手を当てた。


 不安が消えたわけではない。


 けれど、何も書けずにいた昨日よりも、少しだけ前へ進めた気がした。


     ◇ ◇ ◇


 夕食後、エレノアはセドリックと廊下で顔を合わせた。


 彼は書庫から戻る途中だったらしく、手には数冊の本を抱えている。エレノアが声をかけると、セドリックは足を止め、穏やかに微笑んだ。


「エレノア。今日は手紙を書いていたんだってね」


「はい。まだ封はしていませんが、ひとまず文章をまとめることができました」


 セドリックは嬉しそうに頷いた。


「それはよかった。書き始める前は、少し難しそうにしていたからね」


 エレノアは小さく笑った。


「今も難しいと思っています。でも、叔父様やお祖母様にお話を聞いていただいて、少し整理できました」


 セドリックは本を抱え直し、エレノアの顔を見つめた。


「君が自分で書いた手紙なら、きっと今の気持ちに近いものになっているんだろうね」


「そうだとよいのですが……。父がどう受け取るかは、まだ分かりません」


 エレノアの声が少し小さくなると、セドリックはすぐに励ますのではなく、彼女が言葉を続けるのを待った。


「お兄様。私、父から手紙をいただいて嬉しかったのです。でも、その嬉しさを感じることが、少し怖くもあります」


 セドリックは静かに頷いた。


「どうして怖いと思うのか、聞いてもいいかな」


 エレノアは少し考えた。


「期待してしまうからだと思います。父が私の希望を聞いてくださるかもしれないと思うと、嬉しくなります。でも、もしそうではなかったら、今度はもっと傷ついてしまうのではないかと思うのです」


 セドリックは彼女の言葉を受け止め、廊下の窓へ一度目を向けた。


 外はすっかり暗くなり、庭園の灯りが木々の間に点々と見えている。


「期待すること自体が、悪いわけではないと思うよ」


 彼はそう言ってから、エレノアへ視線を戻した。


「ただ、期待したとおりにならなかったときに、君が自分を責める必要はない。父上がどのように返事をするかは、君だけで決められることではないからね」


 エレノアはその言葉を聞き、しばらく黙っていた。


 父からの手紙を嬉しいと思ったこと。


 父の反応が怖いと思ったこと。


 その両方を抱えていてもよいのだろうか。


 セドリックは、彼女の表情を見ながら静かに続けた。


「君が今日、自分の言葉で手紙を書いたことは、父上の返事がどうであっても変わらないよ。そのことまで、相手の反応で決めなくていいんじゃないかな」


 エレノアはゆっくりと顔を上げた。


「そうですね。私が何を望んでいるのかは、父の返事が届く前から、私自身の中にあるものですものね」


「うん。僕はそう思うよ」


 セドリックは微笑んだ。


 エレノアは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


 父へ手紙を書くことは、父の考えを変えるためだけの行動ではない。


 自分が何を望んでいるのかを、自分の言葉で伝えるためのものでもある。


 そのことを、ようやくはっきり理解できた気がした。


「ありがとうございます、お兄様。明日、もう一度読み返してから、送るかどうか決めようと思います」


「それがいいと思う。急がなくてもいいし、書き直したくなったら書き直せばいい。君が納得できる形にすることが大切だからね」


 エレノアは頷き、セドリックへ礼を述べた。


 二人はそこで別れ、エレノアは自室へ戻った。


     ◇ ◇ ◇


 夜の自室には、静かな灯りがともっていた。


 エレノアは机へ向かい、今日書いた手紙をもう一度読み返した。


 文章には、ロシュフォール家での暮らしを続けたいという希望が記されている。


 父へ感謝していることも、自分の考えを少しずつ言葉にしたいという願いも書いた。


 ただし、婚約については触れていない。


 そのことを、エレノアは改めて確かめた。


 王宮へ提出した拒否声明は、今も有効な意思表示として扱われている。


 父への手紙に書かなかったからといって、その意思が変わるわけではない。


 けれど、いずれ父へ直接伝えなければならない日が来るかもしれない。


 そのとき、自分は何を言うのだろう。


 エレノアは便箋をそっと机へ置いた。


 以前の人生では、父に逆らうことを考えるだけで、胸が苦しくなった。


 家のために必要だと言われれば、それ以上何も言えなくなっていた。


 けれど今は、父から何を望んでいるのかと尋ねられ、その答えを書こうとしている。


 それは、以前の自分には想像できなかったことだった。


(お父様がどのように受け止めてくださるかは、まだ分からない。でも、私は自分の言葉で答えたい。たとえすぐに理解していただけなくても、私が何を望んでいるのかを、なかったことにはしたくないわ)


 エレノアは手帳を開き、今日の出来事を書き記した。


 父への返事を書き始めたこと。


 叔父に、暮らしの希望と婚約についての意思を分けて考えてよいと教えてもらったこと。


 祖母から、相手を思いやることと自分の気持ちを消すことは違うと聞いたこと。


 そして、セドリックから、相手の反応によって自分の行動の意味まで変わるわけではないと言われたこと。


 書き終える頃には、夜も深まっていた。


 エレノアは手帳を閉じ、父への返事を丁寧に重ねた。


 まだ封はしていない。


 明日、もう一度読み返してから、送るかどうかを決めるつもりだった。


 王宮からの正式な判断は、今日も届いていない。


 保存専門家への予備問い合わせについても、まだ返答はなかった。


 母の古い記録や失われた持ち物について、新しい事実が判明したわけでもない。


 それでも、今日のエレノアには、一つだけ確かな変化があった。


 父からの問いに対して、自分の言葉で答えを書いたことだった。


 エレノアは机の灯りを落とす前に、便箋へもう一度目を向けた。


 そこには、誰かに決められた答えではなく、自分で選んだ言葉が並んでいる。


 父がその言葉をどのように受け取るのかは、まだ分からない。


 けれど、今夜はそのことばかりを考えずに眠れそうだった。


 エレノアは手紙を机の上へ残し、静かに寝台へ向かった。


 明日になれば、また違う気持ちになるかもしれない。


 それでも、今日書いた言葉を、すぐに消してしまうつもりはなかった。


 自分の希望を、自分の言葉で伝える。


 その小さな決意を胸に、エレノアは秋の静かな夜へ身を委ねた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。