第110話 父が書き直した問いと、私のもとへ届いた新しい知らせ
秋の朝日がロシュフォール家の南側の窓を照らし始めた頃、エレノアは小さな物音で目を覚ました。
昨夜は雨が降らなかったらしく、窓の外に広がる庭園には薄い朝霧が漂っている。芝生の向こうに並ぶ木々は、黄色や赤に染まった葉を静かに揺らし、その足元には落ち葉が幾重にも重なっていた。
寝台から起き上がったエレノアは、窓辺へ歩み寄り、冷えた硝子越しに庭園を眺めた。
父ロベルトへ送った返書については、昨日も新しい知らせがなかった。
書簡がベルナール家へ届いたのか、父がどのように受け止めたのか、今のエレノアには分からない。叔父アルフォンスは、何か連絡があれば知らせると約束してくれているが、その約束があるからといって、不安がすべて消えるわけではなかった。
(お父様は、何を考えていらっしゃるのかしら)
そう思ったところで、エレノアは自分の考えを止めた。
昨日も同じことを考えていた。
返事が来る前から父の反応を想像しても、確かな答えにはならない。それは分かっているのに、気づけば同じ疑問へ戻ってしまう。
エレノアは窓辺から離れ、机の上に置かれた手帳へ目を向けた。
そこには、これまで確認できた事実が日付とともに書き留められている。王宮へ提出した拒否声明、ロシュフォール家からの説明、父への返書、そして保存専門家への予備問い合わせ。
それぞれの書簡には、異なる目的があった。
婚約を望まないという自分の意思を示すもの。
家から送られた受諾返書と、本人の意思が同じではないことを説明するもの。
父へ現在の状況を伝えるもの。
古い資料を傷つけずに保存する方法を尋ねるもの。
どれもまだ結論へ至ってはいないが、少なくとも、何を確かめるために送られたのかは分かっている。
エレノアは手帳を開き、空いている頁へ今日の日付を記した。
その下へ、短い一文を書き加える。
『まだ届いていない知らせを、届いたものとして考えない。』
書き終えたところで、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。
「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ。入ってちょうだい」
リディアは温かな湯と朝の衣装を運び、丁寧に挨拶した。今日用意されたのは、落ち着いた青灰色の衣装だった。袖口には控えめな刺繍が施されているが、華美な装飾はなく、屋敷の中で過ごすには動きやすそうだった。
「今日は少し冷え込んでおります。朝食のあと、お庭へお出になるご予定はございますか」
「まだ決めていないわ。東側の通路は、引き続き閉じられているのでしょう?」
「はい。ギュスターヴ様から、安全が確認されるまでは立ち入らないようにとのお知らせがございました」
エレノアは頷いた。
持ち上がった石畳の下に何があるのかは、まだ調べられていない。雨のあとに水が残りやすい理由も、現時点では分かっていなかった。
「それなら、今日は南側の回廊を歩こうかしら。雨上がりの庭も綺麗だけれど、足元には気をつけないといけないものね」
「承知いたしました。お出かけになる際は、私もご一緒いたします」
リディアはそう答え、衣装の準備を進めた。
エレノアは鏡の前へ座り、髪を整えてもらいながら、今日の予定を考えた。
午前中には祖母マルグリットから、母アデラインが使っていた刺繍道具について話を聞く約束をしている。
午後には、セドリックと屋敷の古い記録の整理方法について相談する予定だった。
どちらも、すぐに大きな答えが出るようなことではない。
それでも、エレノアにとっては大切な時間だった。
◇ ◇ ◇
同じ日の朝、王都セレディアにあるベルナール伯爵邸では、ロベルトが書斎の机に向かっていた。
机の上には、昨日届いたロシュフォール家からの返書と、自分が以前送った問い合わせの控えが並べられている。
その横には、昨夜書きかけた返書の草案が置かれていた。
ロベルトは草案を読み返し、眉を寄せた。
そこには、養子縁組の進行状況について改めて説明を求める文章と、王宮との連絡を滞りなく進めるよう求める言葉が記されている。
どちらも、伯爵家の当主として確認すべき事柄ではあった。
しかし、読み返してみると、何かが足りないように思えた。
(私は、結局何を知りたいのだ)
エレノアがロシュフォール家へ滞在してから、家の中ではさまざまな変化が起きている。
養子縁組の話が持ち上がり、王家との婚約に関する手続きも進んでいる。
ロベルトは、それらを伯爵家の将来に関わる問題として捉えてきた。
もちろん、それ自体が間違っているとは思わない。
家を預かる者には、家の立場や将来を考える責任がある。
しかし、昨日の返書にあった一節が、どうしても頭から離れなかった。
『本人の状態と希望を考慮しながら対応しております。』
アルフォンスは、エレノアの滞在についてそのように説明していた。
ロベルトは、その文章をもう一度読み返した。
娘の希望。
その言葉が、妙に重く感じられた。
これまで、エレノアは控えめな娘だった。
何かを強く求めることは少なく、家の決定に対しても、大きく反発することはなかった。
少なくとも、ロベルトの前ではそうだった。
だが、それは本当に、娘が納得していたからなのだろうか。
それとも、納得していなくても口に出さなかっただけなのだろうか。
ロベルトは筆を持ち上げたまま、しばらく動かなかった。
亡き妻アデラインのことが思い浮かんだ。
彼女は、エレノアが幼かった頃、娘が何かを話そうとすると、手を止めて最後まで聞いていた。
たとえ幼い子供の取り留めのない話であっても、途中で遮ることは少なかった。
ロベルトは当時、それを優しい母親らしい振る舞いだと思っていた。
だが、自分はどうだっただろう。
娘が何かを話そうとしたとき、仕事があるからと後回しにしたことはなかったか。
家のために必要なことだと説明し、それ以上の言葉を求めなかったことはなかったか。
思い返せば、心当たりは一つではなかった。
ロベルトは静かに息を吐き、書きかけの草案を脇へ寄せた。
そして、新しい紙を取り出した。
今度は、すぐに文章を書き始めなかった。
何を尋ねるべきか。
何を求めるべきか。
それを整理してからでなければ、また同じような返書を書いてしまう気がした。
やがて、彼は慎重に筆を動かした。
まず、ロシュフォール家からの返書に礼を述べる。
次に、養子縁組が正式に成立していないことを理解した旨を記す。
そのうえで、エレノアの現在の生活について、本人がどのように過ごしているのかを尋ねる文章を書いた。
しかし、そこまで書いたところで、再び手が止まった。
(本人が何を望んでいるかを知りたいのなら、アルフォンスへ尋ねるだけでよいのか)
ロベルトは、書きかけの文章を見つめた。
娘本人へ直接手紙を書くという考えが、ようやく浮かんだ。
これまで彼は、ロシュフォール家とのやり取りを通じて、娘の状況を確認しようとしていた。
だが、エレノアが何を考えているのかを知りたいのであれば、本人へ尋ねることもできるはずだった。
その当たり前のことに、今さら気づいた自分が、少し情けなく感じられた。
ロベルトは新しい紙をもう一枚取り出した。
今度は、宛名に娘の名前を書いた。
『エレノアへ』
そこまで書いて、筆先が止まった。
娘へ手紙を書くのは、いつ以来だろう。
幼い頃、領地へ出向いていた際に短い便りを送ったことはあった。
だが、成長した娘へ、自分の言葉で何かを尋ねる手紙を書いた記憶は、すぐには思い出せなかった。
ロベルトは、しばらく白い紙を見つめた。
それから、慎重に言葉を選び始めた。
◇ ◇ ◇
朝食を終えたエレノアは、マルグリットの部屋を訪ねていた。
祖母の部屋には、秋の柔らかな日差しが差し込んでいる。
窓辺の卓には、古い裁縫箱と数種類の布が並べられていた。
マルグリットはエレノアを迎えると、椅子へ座るよう促した。
「今日は、アデラインが昔使っていた裁縫道具について、少しお話ししましょうね」
「はい。楽しみにしておりました」
エレノアは椅子へ腰掛け、卓の上に置かれた裁縫箱へ目を向けた。
箱は濃い茶色の木で作られており、長年使われてきたことが分かる細かな傷が残っている。
ただし、それは以前から探している、野薔薇の彫刻が施された暗い色の木箱とは別のものだった。
形も大きさも異なり、マルグリットは最初にその点を説明した。
「これは、私が若い頃から使っている裁縫箱なの。アデラインも、ここへ来たときには使っていたけれど、あの子だけの持ち物ではなかったわ」
エレノアは頷いた。
「そうなのですね。母が使ったことのある道具なのですね」
「ええ。ただ、どの道具をどの作品に使ったかまでは覚えていないの。そこは、はっきりさせておきたいわ」
マルグリットは箱の蓋を開けた。
中には古い糸巻きや針入れ、小さな鋏が丁寧に収められている。
どれも手入れされており、長い年月を経ても大切に扱われてきたことが分かった。
エレノアは一つ一つを眺めながら、母がこの部屋で刺繍をしていた姿を想像した。
母アデラインは、どのような表情で針を動かしていたのだろう。
何を考え、誰のために布へ糸を重ねていたのだろう。
そうしたことを知りたい気持ちは強かったが、今ここにある道具だけで答えが分かるわけではない。
「お祖母様。母は、このお部屋で刺繍をすることが多かったのですか」
マルグリットは少し考えた。
「そうね。まだ結婚する前は、この部屋で一緒に針仕事をすることもあったわ。でも、いつもここだったわけではないのよ。庭の見える場所を好んでいたから、天気のよい日は別の部屋へ道具を持っていくこともあったの」
「庭の見える場所……」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
南側の庭園には、季節の花が植えられている。
以前確認した庭園の絵の裏には、母と幼い自分の名前が記されていた。
ただし、その絵がいつ描かれたものなのか、誰が描いたものなのかは分かっていない。
また、南側の石の腰掛けが絵の場所と同じだと確定したわけでもなかった。
エレノアはそのことを思い出したが、すぐに結びつけることはしなかった。
「母は、庭の花を見るのが好きだったのですね」
「ええ。特に、季節が変わる頃の庭をよく眺めていたわ。花が咲いているときだけでなく、葉の色が変わったり、蕾が膨らんだりする様子も好きだったように思うの」
マルグリットはそう言いながら、裁縫箱から小さな糸巻きを取り出した。
そこには、淡い青色の糸が少しだけ残っていた。
エレノアは思わず身を乗り出した。
「青い糸……」
マルグリットは孫の反応を見て、穏やかに微笑んだ。
「ええ。でも、これがアデラインの青い花に使われた糸だとは分からないわ。この箱には私の糸も入っているし、ほかの作品に使ったものかもしれないもの」
エレノアは静かに頷いた。
「はい。分かっています」
それでも、青い糸を見つめると、胸の奥が少し温かくなった。
母が使ったかもしれない道具。
母が眺めたかもしれない庭。
母が好んだという季節の花。
その一つ一つは、確かな証拠とは限らない。
けれど、母が確かにこの屋敷で暮らし、日々を過ごしていたことを感じさせてくれるものだった。
「お祖母様。この糸巻きは、これからもここで保管されるのですか」
「ええ。まだ使えるものもあるけれど、古い糸は傷んでいることがあるから、無理に使わない方がよいでしょうね」
エレノアは頷いた。
「私の刺繍には、新しい糸を使います。でも、母が見たかもしれない色を、こうして見せていただけて嬉しいです」
マルグリットは優しく微笑んだ。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
二人はそのあと、裁縫箱の中身を一つずつ確認した。
どの道具が誰のものだったのか、分かる範囲と分からない範囲を分けながら話を進めた。
新しい手掛かりが見つかったわけではない。
けれど、エレノアにとっては、母の暮らしを少し近くに感じられる時間だった。
◇ ◇ ◇
昼前、ベルナール伯爵邸では、ロベルトが二通の書簡を前に考え込んでいた。
一通はアルフォンスへ宛てた返書の草案。
もう一通は、エレノア本人へ宛てた手紙だった。
どちらも、まだ封をしていない。
ロベルトは娘への手紙を読み返した。
そこには、ロシュフォール家での生活について尋ねる言葉と、体調を気遣う短い文章が記されている。
そして最後に、娘が今後の暮らしについて何を望んでいるのか、聞かせてほしいという一文があった。
ロベルトはその文章を見つめた。
自分が娘へこのようなことを尋ねるのは、久しぶりだった。
だが、書き終えてみると、どこか不自然にも感じられた。
今まで十分に話を聞いてこなかった父親が、突然何を望んでいるのかと尋ねる。
エレノアは、その手紙をどう受け取るだろう。
素直に答えてくれるだろうか。
それとも、何か別の意図があると考えるだろうか。
ロベルトは、娘の反応を想像しようとした。
しかし、はっきりした姿は浮かばなかった。
それは、娘のことを知らないからなのかもしれない。
彼はしばらく考えたあと、手紙の末尾に一文を書き加えた。
『すぐに返事を求めるものではない。考える時間が必要であれば、そのようにして構わない。』
書き終えると、ロベルトは筆を置いた。
この言葉が娘へどのように伝わるのかは分からない。
けれど、少なくとも、返事を急がせるつもりはなかった。
彼は書簡を折り畳み、封筒へ収めた。
アルフォンスへ宛てた返書についても、表現を整えた。
養子縁組の状況について理解したこと。
エレノアの滞在をただちに終わらせるよう求めるものではないこと。
そして、娘本人へ手紙を送るため、ロシュフォール家で受け取れるよう取り計らってほしいこと。
王宮との婚約については、正式な手続きの進行を確認したいという従来の考えを残したが、娘の意思については、まだ具体的な事情を知らないため、断定的な文章を避けた。
ロベルトは二通を並べ、最後にもう一度確認した。
娘へ宛てた手紙には、婚約を受け入れるよう求める言葉を書いていない。
ただし、それは彼が婚約を取りやめると決めたことを意味しなかった。
王家との縁談をどう扱うべきかについては、今も考えが定まっていない。
娘が何を望んでいるのかを知りたいという気持ちと、伯爵家の立場を守らなければならないという責任が、彼の中で並んでいた。
ロベルトは執事を呼んだ。
「この二通を、ロシュフォール家へ送ってくれ。宛先を間違えないように」
「かしこまりました。アルフォンス様宛てと、エレノア様宛てでございますね」
「ああ。娘への手紙は、本人へ渡してもらうようにしてほしい」
執事は頷き、二通を丁寧に受け取った。
ロベルトはその背中を見送り、静かに椅子へ腰掛けた。
自分が書いた言葉が、娘へどのように届くのか。
それは、まだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
午後、ロシュフォール家では、エレノアとセドリックが書庫の一角で話をしていた。
今日の相談は、古い資料を無理に開くことではなく、すでに確認できている記録を、どのように整理しておくかというものだった。
机の上には、エレノアがこれまで書き留めてきた疑問の一覧が置かれている。
母アデラインの衣装について。
野薔薇の彫刻が施された木箱について。
幼少期の衣類に関する記録について。
庭園の絵と、母の刺繍について。
それぞれの項目には、確認済みのことと、まだ分からないことが混在していた。
セドリックは一覧を読み、少し考えた。
「エレノア。これを、二つに分けてみないかい」
「二つ、ですか?」
「うん。実際に確認できたことと、そこから考えられる可能性を分けるんだ。そうすれば、あとから見返したときに、どこまでが確かな情報なのか分かりやすくなると思う」
エレノアは頷いた。
「確かに、その方がよさそうです」
セドリックは紙を二枚取り出した。
一枚には、確認できた事実。
もう一枚には、未確認の疑問。
そう見出しを書き、エレノアへ渡した。
エレノアはまず、母の衣装に関する記録を整理し始めた。
以前確認した衣装のうち、所在が分からないものがあること。
その中には、ミレーヌのために仕立て直されたと確認できたものと、行方が分からないままのものがあること。
仕立て屋アニエス・モローからの受け渡しについても、すべての最終的な行き先が明らかになっているわけではないこと。
それらを、分かる範囲で書き記した。
次に、古い資料に残された「五」という数字について考えた。
「この数字は、まだ何を示しているのか分からないのですよね」
エレノアが確認すると、セドリックは頷いた。
「そうだね。衣装の数だと決めつけることはできないし、別のものを数えている可能性もある。今は、数字が記されていたという事実だけを残しておこう」
エレノアはその言葉に従い、確認済みの欄へ数字の存在だけを記した。
未確認の欄には、その意味が分からないことを書き加えた。
同じように、「ロラン」という姓についても整理した。
ベアトリス・ロランと関係があるのか。
それとも、別の人物なのか。
今の段階では、判断できない。
エレノアは筆を止め、セドリックへ顔を向けた。
「こうして分けてみると、私が知っていると思っていたことの中にも、まだ確かめられていないものが多いのですね」
セドリックは穏やかに頷いた。
「そうだね。でも、それが分かることも大切だと思うよ。何が分からないのかを整理できれば、次に何を確かめるべきか考えやすくなるから」
エレノアは二枚の紙を見比べた。
確かに、これまでの疑問が少し整理されたように感じられた。
母の木箱についても、同じことが言える。
東側の衣装部屋から西側の保管場所へ移された記録はある。
しかし、そのあとどこへ運ばれたのかは、まだ確定していない。
庭師が見かけたという似た箱についても、同じものだと断定できない。
エレノアは、それぞれを別の項目として記した。
「お兄様。私、今までは何か手掛かりが見つかると、すぐに答えへ近づいたような気持ちになっていました」
セドリックは静かに耳を傾けた。
「でも、実際には、その手掛かりが何を意味しているのか、まだ分からないことも多いのですね」
「そうだね。だからこそ、急いで結びつけない方がいいと思う。君が知りたいことは大切だけれど、間違った結論へ進んでしまったら、かえって遠回りになるかもしれない」
エレノアは頷いた。
母のことを知りたい。
失われた持ち物の行方を確かめたい。
その気持ちは変わらない。
けれど、知りたいからこそ、確かめ方を大切にする必要があるのだと思った。
整理を終える頃には、窓の外の日差しが少し傾き始めていた。
エレノアは二枚の紙を重ね、丁寧に折り畳んだ。
「ありがとうございます、お兄様。これなら、次に何か分かったときも、どこへ書き加えればよいのか分かります」
セドリックは微笑んだ。
「役に立てたなら嬉しいよ。何か新しい情報が見つかったときは、また一緒に整理しよう」
「はい。よろしくお願いします」
エレノアは礼を述べ、書類を持って書庫を出た。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、ロシュフォール家へ書簡が届いた。
書簡担当が確認したところ、差出人はベルナール伯爵家。
宛先は、アルフォンス・ロシュフォールとエレノア・ベルナールの二通に分かれていた。
アルフォンスは報告を受け、まず封筒の宛名を確認した。
父ロベルトからの返書が、予想していたより早く届いたことに少し驚いたが、すぐに内容を確かめようとはしなかった。
自分宛ての書簡を開き、丁寧に読み進めた。
そこには、前回の返書に対する礼と、養子縁組が正式に成立していないことを理解した旨が記されていた。
また、エレノアの滞在をただちに終わらせるよう求めるものではないこと、娘本人へ手紙を送ったため、直接渡してほしいことが書かれている。
アルフォンスは最後まで読み終え、静かに息を吐いた。
少なくとも、この返書には、娘をすぐにベルナール家へ戻すよう求める言葉はなかった。
ただし、王宮との婚約については、正式な手続きの進行を確認したいという意向が残されている。
ロベルトが娘の拒否声明を知っているかどうかについても、書簡からは判断できなかった。
アルフォンスは、机の上へ書簡を置いた。
(まずは、エレノアに知らせるべきだな)
彼は使用人を呼び、エレノアがどこにいるか確認した。
ほどなくして、エレノアが執務室へやって来た。
「叔父様。お呼びでしょうか」
アルフォンスは立ち上がり、穏やかに迎えた。
「エレノア。ベルナール伯爵家から書簡が届いたよ」
エレノアは足を止めた。
胸の奥が、急に強く脈打ち始める。
「父から、ですか」
「ああ。私宛ての返書と、君宛ての手紙が一通ずつ届いている」
エレノアは目を見開いた。
「私宛ての手紙……?」
アルフォンスは頷き、机の上に置かれた封筒を示した。
「そうだよ。君の名前が宛先に書かれている。封は開けていないから、内容は私にも分からない」
エレノアは封筒を見つめた。
父から自分へ直接手紙が届く。
そのことが、思っていた以上に大きく感じられた。
これまで父とのやり取りは、叔父を通じて行われることが多かった。
父が自分へ何を伝えようとしているのか。
それは、まだ分からない。
アルフォンスは、彼女の様子を見て静かに声を掛けた。
「今すぐ開く必要はないよ。君が落ち着いてから読んでもいい」
エレノアは封筒へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
指先が少し冷たくなっている。
(お父様から、私に直接……)
以前の人生で、父から受け取った言葉を思い出しそうになった。
婚約について、家のために必要だと告げられたこと。
自分の気持ちを十分に尋ねられないまま、話が進んでいったこと。
その記憶が胸を締めつける。
けれど、今目の前にある手紙に何が書かれているのかは、まだ知らない。
過去の父の言葉と、今届いた手紙の内容を、同じものとして考えることはできなかった。
エレノアはゆっくりと息を整えた。
「叔父様。こちらで読ませていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。私が席を外した方がよければ、そうするけれど」
エレノアは少し考えた。
「いえ。もしよろしければ、ここにいていただけると嬉しいです」
アルフォンスは静かに頷いた。
「分かった。君が望むなら、ここにいるよ」
エレノアは封筒を受け取り、丁寧に封を開いた。
中には、父の筆跡で書かれた一枚の手紙が入っていた。
彼女は緊張しながら、ゆっくりと読み始めた。
◇ ◇ ◇
手紙の冒頭には、ロシュフォール家での生活について、体調を崩していないかと尋ねる言葉が記されていた。
エレノアは、その文章を何度か読み返した。
父から体調を気遣う言葉を受け取ることが、久しぶりだったからだ。
続いて、養子縁組については、まだ正式な手続きが完了していないと理解していることが書かれていた。
そして、最後の方に、エレノアが今後の暮らしについて何を望んでいるのか、聞かせてほしいという一文があった。
エレノアはそこで筆跡を追う目を止めた。
(私が、何を望んでいるのか……?)
その言葉を、父から尋ねられるとは思っていなかった。
手紙には、すぐに返事を求めるものではないとも記されている。
考える時間が必要なら、そのようにして構わない。
エレノアは最後まで読み終えたあと、しばらく動けなかった。
婚約を受け入れるよう求める言葉はなかった。
ロシュフォール家から戻るよう命じる言葉もなかった。
ただし、父が婚約について考えを変えたと書かれているわけでもない。
その点を、エレノアは慎重に受け止めた。
アルフォンスは、彼女が手紙を読み終えるのを待ってから声を掛けた。
「どうだったかな」
エレノアは手紙を胸の前で持ち、少し考えた。
「父が、私の希望を尋ねてくださっています」
アルフォンスは驚いたように目を見開いた。
「そうなのかい」
「はい。今後の暮らしについて、何を望んでいるのか聞かせてほしいと……。それから、すぐに返事をしなくてもよいと書かれています」
アルフォンスは静かに頷いた。
「それは、君にとって大きなことかもしれないね」
エレノアは小さく頷いた。
父が本当に自分の希望を受け入れてくれるのかは、まだ分からない。
この手紙だけで、これまでの関係が変わったと考えることもできない。
それでも、父が自分へ直接問いかけてきたという事実は、彼女にとって思いがけないものだった。
「叔父様。私、すぐには返事を書けそうにありません」
「それでいいと思うよ。伯爵も、急がなくてよいと書いているのだろう?」
「はい。でも、何をどこまで伝えればよいのか、まだ分からなくて」
アルフォンスは穏やかに答えた。
「君が伝えたいことを、少しずつ整理してみよう。今すぐ全部を決める必要はないよ」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます」
彼女は手紙を丁寧に折り畳み、封筒へ戻した。
父から届いた言葉は、まだ自分の中で整理できていない。
けれど、今夜はその手紙を、何度か読み返すことになるだろうと思った。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室の机に向かっていた。
父から届いた手紙は、手帳の横へ置かれている。
彼女は灯りを少し近づけ、もう一度封筒から手紙を取り出した。
父の筆跡は、以前から見慣れたものだった。
整った文字。
必要なことを簡潔に伝える文章。
そこには、いつもの父らしさが残っている。
けれど、内容は少し違っていた。
『今後の暮らしについて、何を望んでいるのか聞かせてほしい。』
エレノアは、その一文を見つめた。
自分が何を望んでいるのか。
答えは、すでにいくつかある。
第二王子との婚約は望まない。
ロシュフォール家で、もう少し穏やかに暮らしたい。
母の遺品や記録について、確かめられることを調べたい。
そして、自分に関係する大切なことを、自分の知らないところで決められたくない。
どれも、今のエレノアにとって大切な願いだった。
けれど、それをすべて父へ伝えるべきなのか。
婚約を拒否したことについても、この手紙への返事で触れるべきなのか。
エレノアには、まだ判断できなかった。
王宮へ提出した声明については、正式な手続きが続いている。
父がその事実をいつ知るのかも、今は分からない。
だからこそ、焦って返事を書き、あとから後悔することは避けたかった。
(お父様が私の希望を尋ねてくださった。それは嬉しい。でも、何を伝えるかは、私が考えて決めたいわ)
エレノアは手紙を机へ置き、手帳を開いた。
今日の日付の下へ、父から直接手紙が届いたことを書き記した。
そして、返事を急がなくてもよいと書かれていたことも、忘れないように残した。
最後に、少し考えてから一文を加えた。
『父が私の希望を尋ねてくれた。まだ何を返すか決められないけれど、今度は自分の言葉で答えたい。』
書き終えると、エレノアは筆を置いた。
窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしている。
王宮の婚約に関する判断は、まだ示されていない。
母の記録についても、保存専門家からの返答は届いていない。
父が自分の意思をどこまで受け入れてくれるのかも、分からない。
それでも、今日届いた手紙には、以前とは違う問いが記されていた。
家のために何をするべきかではなく、自分が何を望んでいるのか。
その問いへ、どのように答えるのか。
エレノアは手紙を丁寧に封筒へ戻し、手帳の横へ置いた。
返事は、明日すぐに書かなくてもよい。
けれど、いつか自分の言葉で答えたい。
その思いを胸に、エレノアは静かに灯りを落とした。




