第109話 父のもとへ届いた返書と、私の知らない場所で動き始めるもの
保存専門家への予備問い合わせが発送された翌朝、ロシュフォール家の庭園には、久しぶりに穏やかな日差しが戻っていた。
前日の雨を吸い込んだ土はまだ湿っており、窓の下に広がる芝生には、朝露をまとった落ち葉がいくつも重なっている。遠くの並木道では庭師たちが道具を運んでいたが、東側通路へ続く入口には、以前から設けられている立ち入りを控えるための目印が残されていた。
エレノアは窓辺に立ち、庭園の様子をしばらく眺めていた。
父ロベルトへ宛てた返書が発送されてから、二日が経とうとしている。
書簡がベルナール家へ届いたという報告は、まだ受けていない。もちろん、父からの新しい返事も届いていなかった。
王宮からも、婚約に関する正式な判断は示されていない。
昨日は母の記録に関する保存の相談が進み、予備問い合わせが実際に発送された。何もかもが止まっているわけではないと分かっていても、父の返事について考えると、胸の奥には落ち着かないものが残っていた。
(お父様は、あの返書をどう読むのかしら。私がロシュフォール家で暮らしていることについても、養子縁組のことについても、きっと思うところがおありでしょうね)
父は、自分が第二王子との婚約を望んでいないと、まだ正式には知らされていない可能性がある。
ロシュフォール家から送られた返書も、王宮へ提出した拒否声明の全文を父へ知らせるものではなかった。
だから、父が何を知り、何を知らないのかについても、エレノアには断定できない。
それが分かっているからこそ、想像だけで父の反応を決めつけることは避けたかった。
けれど、以前の人生で父から告げられた言葉を、完全に忘れることもできなかった。
家のために必要な婚約なのだから、受け入れなさい。
その言葉を聞いたとき、自分が何を感じたのか。
父の前で反論できず、ただ頷くことしかできなかった少女の気持ちが、今も胸の奥に残っている。
エレノアは窓枠に置いていた手を離し、ゆっくりと息を吐いた。
(でも、今回は違うわ。私はもう、婚約を望んでいないと伝えたのだから)
その意思が王宮へ届いていることは、受領の通知によって確認されている。
第二王子側へも、本人の拒否が存在することは伝えられている。
まだ結論は出ていない。
それでも、以前とは違う場所に立っていることだけは確かだった。
扉を叩く音がして、リディアが朝の支度のために入室した。
「おはようございます、エレノア様。今朝はお天気が回復いたしましたね」
「おはよう、リディア。昨日の雨が嘘のようだわ」
「庭師たちも、朝から落ち葉の片づけを進めております。ただ、足元にはまだ濡れている場所がございますので、お散歩の際はお気をつけくださいませ」
リディアは衣装を用意しながら、窓辺に立つエレノアの様子へ目を向けた。
「昨夜は、よくお休みになれましたか」
「ええ。少し考え事はしていたけれど、眠れなかったわけではないの」
そう答えると、リディアは安心したように微笑んだ。
「それは何よりでございます。本日はマルグリット様から、午後のお茶にお誘いがございます。お時間がよろしければ、刺繍もお持ちくださいとのことでございました」
「嬉しいわ。昨日は青い花を少し進められたから、続きを見ていただこうかしら」
リディアは頷き、衣装の袖を整えた。
エレノアは鏡の前へ移動しながら、今日の予定を考えた。
午前中は、叔父に父への返書について新しい連絡がないか確認するつもりだった。
ただし、返事が届いていなければ、それ以上のことはできない。
午後は祖母と過ごし、刺繍を進める。
そんな一日の予定を思い描いているうちに、胸の奥にあった落ち着かない気持ちは、少しだけ和らいでいった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王都セレディアのベルナール伯爵邸では、朝の執務が始まっていた。
ロベルト・ベルナールは書斎の机に向かい、領地から届いた報告書に目を通していた。
窓の外には、雨上がりの庭が広がっている。
庭師が剪定した枝を運ぶ姿が見えたが、ロベルトはほとんど目を向けなかった。
彼の机には、領地経営に関する書類のほか、貴族家との往復書簡や、王宮との連絡に関する控えが積まれている。
その中には、第二王子との婚約について、ベルナール家から送った受諾返書の控えもあった。
ロベルトにとって、その返書は家の将来を考えたうえでの判断だった。
王家との縁談は、伯爵家にとって軽く扱えるものではない。
まして相手は第二王子である。
家の立場を考えれば、前向きに応じるべき話だと、彼は今も考えていた。
ただし、正式な婚約成立の知らせはまだ届いていない。
そのことが、最近のロベルトには少し気に掛かっていた。
(王宮での確認に時間が掛かっているのだろうか。返書を送ってから、すでにそれなりの日数が経っている)
彼は手元の書類を閉じ、次の報告書へ手を伸ばそうとした。
そのとき、書斎の扉が叩かれた。
「旦那様。ロシュフォール家から書簡が届いております」
執事の声に、ロベルトは顔を上げた。
「ロシュフォール家からか。こちらへ」
執事が差し出した封筒には、見慣れた家紋が押されていた。
ロベルトは受け取ると、封蝋を確かめてから慎重に開いた。
差出人はアルフォンス・ロシュフォール。
以前、自分が送った問い合わせへの返書であることは、冒頭を読んですぐに分かった。
ロベルトは椅子へ深く腰掛け、文章を読み進めた。
エレノアが現在もロシュフォール家で滞在を続けていること。
滞在中の生活については、本人の状態と希望を考慮しながら対応していること。
養子縁組については、正式な手続きが完了したわけではないこと。
王宮との連絡についても、関係する事柄を確認しながら、慎重に対応していること。
文章は丁寧で、貴族家同士の書簡として失礼のないものだった。
しかし、ロベルトが知りたかったことのすべてに、明確な答えが記されているわけではなかった。
彼は一度読み終えると、冒頭へ戻ってもう一度目を通した。
(養子縁組は、まだ成立していない。それは分かった。だが、王宮との連絡を確認しながら対応しているとは、具体的に何を指しているのだ)
エレノアがロシュフォール家で過ごしていることについて、アルフォンスは不自然な説明をしていない。
ただ、王宮とのやり取りについては、詳細を明らかにしていなかった。
ロベルトは手紙を机へ置き、しばらく考え込んだ。
娘がロシュフォール家へ移ってから、家の中には少なからず変化が生じている。
ヴァレリアは以前より、エレノアの今後について尋ねることが増えた。
ミレーヌも、姉の不在について何か思うところがあるようだった。
だが、ロベルトはそのどちらとも、十分に話をしているとは言い難かった。
彼自身もまた、エレノアが何を考えているのか、直接確かめていない。
その事実に気づくと、ロベルトはわずかに眉を寄せた。
(あの子は、ロシュフォール家で何を望んでいるのだろう)
思い浮かんだ疑問は、これまで彼が考えていたものとは少し違っていた。
今までは、エレノアをいつ戻すべきか、養子縁組の話をどう扱うべきか、王宮との婚約をどのように進めるべきかという、家の判断ばかりを考えていた。
だが、返書には、本人の状態と希望を考慮するという表現があった。
ロベルトはその一節を、もう一度読み返した。
アルフォンスが何を意図してその言葉を選んだのか、正確には分からない。
ただ、娘の希望が、ロシュフォール家では判断の一部として扱われていることは読み取れた。
ロベルトは書簡を折り畳まず、机の上へ広げたままにした。
すぐに返事を書くべきか、それとも少し考えるべきか。
彼は迷った末、執事を呼び戻した。
「この書簡については、まだ返事を出さない。午後までに、以前ロシュフォール家へ送った手紙の控えを持ってきてくれ」
「かしこまりました」
執事が退出すると、ロベルトは再び書簡へ目を向けた。
そこには、エレノアが第二王子との婚約を拒否したという直接的な記述はない。
王宮へ本人の署名入り声明が提出されたことも、明記されていなかった。
そのためロベルトは、まだ娘がどのような意思を王宮へ示したのかを知らない。
ただ、何かを確認しなければならないという感覚だけが、彼の胸に残り始めていた。
◇ ◇ ◇
午前の遅い時間、ヴァレリアはベルナール伯爵邸の応接室で、ミレーヌとともに茶を飲んでいた。
窓辺には秋の花が飾られ、卓の上には焼き菓子が並べられている。
ミレーヌは母の向かい側に座っていたが、今日はいつもより口数が少なかった。
ヴァレリアは娘の様子を見て、少し首を傾げた。
「ミレーヌ、どうしたの。朝から何か考え事でもしているのかしら」
「いいえ、お母様。ただ、少し気になることがあって」
「気になること?」
ミレーヌは茶器を置き、窓の外へ目を向けた。
「お姉様は、いつまでロシュフォール家にいらっしゃるのでしょうか」
ヴァレリアはその質問に、すぐには答えなかった。
エレノアの滞在が長引いていることは、彼女にとっても気になる問題だった。
養子縁組の話がどこまで進んでいるのか、ロシュフォール家が何を考えているのか。
すべてを把握しているわけではない。
「お父様が確認していらっしゃるはずよ。正式なことが決まれば、こちらにも知らせがあるでしょう」
「そうですか」
ミレーヌは小さく頷いた。
彼女には、以前から気になっていることがあった。
姉の持ち物について、屋敷の中で尋ねても、はっきりした答えが返ってこないことがある。
エリーズ・ダルモンへ話を聞いたときも、知りたいことがすべて分かったわけではなかった。
しかし、そのことを母へどう伝えるべきか、ミレーヌ自身にも判断がつかなかった。
母が姉の持ち物について、どこまで知っているのか。
自分が疑問を口にすることで、何か問題が起きるのではないか。
そんな迷いがあった。
「お姉様が戻られたら、少しお話をしてみたいと思っているのです」
ミレーヌがそう言うと、ヴァレリアは娘を見た。
「何について?」
「その……以前のことです。私が知らないことも、あるのではないかと思いまして」
ヴァレリアは茶器を持ち上げかけた手を止めた。
「以前のこと、というのは?」
ミレーヌは言葉を選んだ。
「お姉様のお部屋にあったものや、昔の衣装のことです。私は、すべてを知っているわけではありませんから」
ヴァレリアは娘の顔を見つめた。
その視線に、ミレーヌは少し緊張した。
「あなたが気にする必要はないこともあるわ。古い衣装や持ち物の整理は、使用人たちに任せていた部分も多いのだから」
「はい。でも、お姉様のものだったと知らずに、私が使っていたものもあるのではないかと思って」
ヴァレリアはすぐに答えなかった。
ミレーヌは母の沈黙を感じ、膝の上で指を重ねた。
彼女は、姉の衣装の一部が自分のために仕立て直されたことを、すべて正確に把握しているわけではない。
それでも、何も知らなかったと言い切ってよいのか、自分でも分からなくなっていた。
「ミレーヌ」
ヴァレリアは落ち着いた声で娘を呼んだ。
「古いことを、今になって無理に調べる必要はありません。あなたが何か悪いことをしたと決まったわけでもないでしょう」
ミレーヌは母を見つめた。
「はい。ですが、もしお姉様が大切にしていたものだったなら、私は知らないままでよいのでしょうか」
その問いに、ヴァレリアは眉をわずかに動かした。
母が何を考えているのか、ミレーヌには分からなかった。
ただ、いつものように簡単な答えが返ってこなかったことだけは確かだった。
「その話は、また改めてにしましょう。今は、お父様がロシュフォール家とのやり取りを進めていらっしゃるのだから」
ヴァレリアがそう告げると、ミレーヌは静かに頷いた。
しかし、胸の中に生まれた疑問が消えたわけではなかった。
エレノアが今どこで何を考えているのか。
自分が使ってきた衣装の中に、姉にとって大切なものがあったのか。
その答えを知ることが、以前より少し怖くなっていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール家では、昼食を終えたエレノアが、アルフォンスの執務室を訪ねていた。
机には複数の書類が置かれていたが、叔父は彼女が入室すると、手元の仕事をいったん止めた。
「エレノア。どうしたんだい」
「父への返書について、何か新しい知らせが届いているか伺いたくて参りました」
アルフォンスは頷いた。
「今のところ、ベルナール家からの返事は届いていないよ。こちらが送った書簡についても、相手が受け取ったという正式な確認はまだない」
エレノアは静かに頷いた。
「そうなのですね。ありがとうございます」
アルフォンスは彼女の表情を見つめた。
「心配しているのかな」
「はい。ですが、返事がないことだけで悪い方へ考えるのは、やめようと思っています」
その答えに、アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「それでよいと思うよ。書簡が届くまでにも時間が掛かるし、受け取った側が返事を書くまでにも考える時間が必要だろうからね」
エレノアは頷いたあと、少し迷ってから口を開いた。
「叔父様。もし父が、私の婚約について詳しく尋ねてきた場合は、どうなさるのでしょうか」
アルフォンスはすぐに答えず、椅子へ座り直した。
「そのときは、何を尋ねられたのかを確認する必要があるね。王宮とのやり取りについては、こちらだけで決められないこともある。ただ、君が自分の意思を伝えていることを、なかったことにはしないよ」
エレノアはその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
「私は、父に何も知られたくないわけではありません。ただ、私が書いた声明の全文を、何の相談もなく渡されるのは怖いのです」
「その気持ちは、以前にも聞いているよ。だから、今の段階では全文を送っていない。今後、王宮からベルナール家へ確認が行われる可能性はあるけれど、こちらから何を伝えるかについては、君にも説明する」
エレノアは叔父を見つめた。
「ありがとうございます」
アルフォンスは静かに続けた。
「ただ、一つだけ覚えておいてほしい。君が望まないからといって、王宮やベルナール家が何も確認しないとは限らない。必要な手続きが進む中で、君の意思が父上へ伝わることもあるだろう」
エレノアは膝の上で指を重ねた。
その可能性は、以前から分かっていた。
自分の意思を王宮へ伝えた以上、父がいつまでも何も知らないままでいるとは思っていない。
けれど、実際に父が知る場面を想像すると、今でも胸が苦しくなる。
(お父様が私の拒否を知ったら、怒るかもしれない。でも、だからといって、拒否したことを取り消したいわけではないわ)
エレノアはゆっくりと息を整えた。
「分かっています。父が知ることそのものを、止めたいわけではありません。ただ、何が伝わったのかを、私も知っていたいのです」
アルフォンスは頷いた。
「それなら、今後もそのように進めよう。少なくとも、私たちが送る書簡については、君に関係する重要な内容を説明する」
エレノアは礼を述べた。
執務室を出る前、アルフォンスはもう一つの件について知らせてくれた。
「そうだ。昨日発送した保存専門家への予備問い合わせについては、今朝も送付記録を確認したよ。まだ返答はないけれど、書簡は予定どおり屋敷を出ている」
「はい。昨日、発送されたと伺いました。原本は、そのまま保管されているのですよね」
「ああ。エレーヌたちにも確認してある。専門家から助言が届くまでは、今の状態を維持する予定だよ」
エレノアは安心したように微笑んだ。
母の記録についても、父への返書についても、まだ結果は出ていない。
けれど、どこまで進んでいるのかを確かめることはできた。
それだけでも、以前の自分とは違うと思えた。
◇ ◇ ◇
午後、王宮の第二王子の執務室では、レオナード・ヴァレンティアが儀典担当部署からの報告を読んでいた。
窓の外には、雨上がりの王都が広がっている。
高い建物の屋根にはまだ水滴が残り、遠くの通りを行き交う馬車の音が、かすかに室内まで届いていた。
レオナードは報告書の一節に目を留めた。
ベルナール家から婚約受諾の返書が届いていること。
しかし、エレノア・ベルナール本人は婚約を望まない意思を、署名入りの声明として提出していること。
正式な婚約成立の記録は、まだ存在しないこと。
その三点については、以前の報告から変わっていなかった。
ただし、儀典担当部署では、受諾返書が送られた経緯について、追加の確認が必要かどうかを検討しているという。
レオナードは書類を机へ置き、傍らに控える側近へ目を向けた。
「ベルナール伯爵本人への確認は、もう行われたのか」
「いいえ、殿下。現時点では、儀典担当部署が確認事項を整理している段階でございます」
「そうか」
レオナードは再び報告書へ目を落とした。
彼はエレノア本人と、現在の時間の中で会ったことがない。
どのような声で話し、何を好み、どのような性格なのかも知らない。
知っているのは、ベルナール家の令嬢であることと、本人が婚約を望まないと申し立てていることだけだった。
(家が受け入れた婚約を、本人が拒んでいる。ならば、少なくともその意思を確かめずに話を進めるべきではない)
そう考える一方で、レオナードには気になる点もあった。
ベルナール伯爵が娘の意思を知っていたのか。
それとも、娘へ十分な確認をせずに返書を送ったのか。
どちらなのかによって、事情は大きく異なる。
しかし、今の段階で彼に答えは分からなかった。
「殿下。儀典担当部署へ、追加のご指示をお出しになりますか」
側近が尋ねると、レオナードは少し考えた。
「新しい指示は必要ない。本人の声明を受け取った以上、その扱いを曖昧にしないようにしてほしい。ただし、彼女へ直接連絡することは、今は避ける」
「承知いたしました」
「ベルナール伯爵への確認についても、儀典担当部署の判断を待とう。必要な確認を行うにしても、本人の意思を無視して話を進める形にはしたくない」
側近は頷き、記録を取った。
レオナードは窓の外へ目を向けた。
王家の婚約は、個人の感情だけで決まるものではない。
家同士の関係や、王国の事情も関わってくる。
それは彼自身も理解していた。
しかし、だからといって、相手の意思を確認しないまま進めてよいとは思わなかった。
(彼女は、なぜそこまで明確に拒んだのだろう)
その疑問が浮かんだが、すぐに答えを求めることはしなかった。
自分が知らない事情を、勝手に想像して決めつけるべきではない。
彼は報告書を閉じ、次の公務に関する書類へ手を伸ばした。
エレノアが過去の人生で処刑されたことも、時間を遡っていることも、レオナードは知らない。
彼にとって、エレノアはまだ一度も会ったことのない少女だった。
ただ、その少女が自分との婚約を望まないと明確に示したことだけは、無視できない事実として残っていた。
◇ ◇ ◇
夕方、ベルナール伯爵邸の書斎では、ロベルトが再びロシュフォール家からの返書を読み返していた。
午後になって執事が持参した以前の書簡の控えも、机の上に並べられている。
自分が送った手紙には、エレノアの滞在状況、養子縁組の進行、そして王宮とのやり取りについて、説明を求める内容が記されていた。
それに対するアルフォンスの返書は、必要な事実を伝えながらも、詳細については慎重な表現を選んでいる。
ロベルトは、その違いを見つめていた。
(ロシュフォール家は、何かを急いで決めようとしているわけではないのか)
養子縁組が正式に成立していないことは、返書から確認できた。
しかし、エレノアの滞在を終わらせる予定があるとも書かれていない。
本人の状態と希望を考慮するという言葉は、彼にとって少し引っ掛かるものだった。
これまで、エレノアは家の決定に強く反対する娘ではなかった。
少なくとも、ロベルトの目にはそう映っていた。
幼い頃から控えめで、言われたことを静かに受け入れる。
必要以上に自分の希望を主張しない。
だからこそ、王家との婚約についても、最終的には理解してくれるだろうと考えていた。
だが、その考えが本人の意思を確かめた結果だったのかと問われれば、答えることは難しかった。
ロベルトは椅子の背へ体を預け、目を閉じた。
亡き妻アデラインのことが、ふと頭をよぎった。
彼女は娘のことになると、普段よりもはっきり意見を述べることがあった。
エレノアがまだ幼かった頃、何かを無理に覚えさせようとするより、本人が興味を持つものを見つけてやりたいと話していたことがある。
ロベルトは、その言葉を覚えていた。
けれど、アデラインが亡くなってから、娘が何に興味を持ち、何を望んでいるのか、どれほど知ろうとしてきただろうか。
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
ロベルトは目を開け、机の上の書簡へ視線を戻した。
アルフォンスの文章は、彼を責めるものではない。
しかし、娘の希望を考慮するという一節が、なぜか心に残り続けていた。
彼は筆を取り、返書の草案を書き始めた。
最初に記したのは、滞在状況についての説明に礼を述べる文章だった。
続けて養子縁組について確認する言葉を書きかけたが、途中で筆を止めた。
今、自分が最も知りたいことは何なのか。
娘をいつ戻せるのか。
王家との婚約をいつ進められるのか。
それとも、娘自身が何を考えているのか。
ロベルトはしばらく紙を見つめたあと、書きかけの文章に線を引いた。
その日のうちに返書を完成させることはできなかった。
彼は草案を机の引き出しへ収め、ロシュフォール家から届いた書簡だけを、もう一度丁寧に折り畳んだ。
まだ娘の拒否声明を知らない父の中で、これまで当たり前だと思っていた判断に、小さな疑問が生まれ始めていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール家では、夕食を終えたエレノアが、マルグリットの部屋で刺繍を進めていた。
卓の上には青い糸が並び、紫の糸を使った試し布は別に置かれている。
エレノアは花びらの輪郭へ針を通しながら、祖母の話に耳を傾けていた。
「アデラインはね、刺繍を始める前に、庭の花をよく眺めていたのよ」
マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。
「花の形をそのまま写そうとすることもあれば、自分の好きな形に少し変えることもあったわ。だから、同じ花を見ていても、出来上がる刺繍は少しずつ違っていたの」
エレノアは針を止めた。
「母は、実際の花と同じように縫うことだけを考えていたわけではないのですね」
「ええ。もちろん、すべての作品について覚えているわけではないけれど、あの子は自分が美しいと思ったものを、布の上に表現することを楽しんでいたように思うわ」
エレノアは手元の青い花を見つめた。
母が残した書き付けには、青い花を作りたいという言葉があった。
けれど、その花がどのような形だったのかは、まだ分からない。
原本が見つかっていない以上、自分の刺繍を母の作品と同じものだと思うことはできない。
それでも、母が刺繍を楽しんでいたという話を聞くと、今縫っている花が少し違って見えた。
「私も、自分が好きだと思う花を作ってみたいです」
エレノアがそう言うと、マルグリットは嬉しそうに頷いた。
「それでよいのよ。アデラインの作品を探すことと、あなた自身の作品を作ることは、どちらも大切なことだもの」
エレノアは微笑み、再び針を動かした。
青い糸が布の上へ重なっていく。
花びらの輪郭は、少しずつ形を整えていた。
マルグリットはその様子を見守りながら、ふと尋ねた。
「今日は、アルフォンスと何かお話ししたのかしら」
「はい。父への返書について、新しい知らせがないか伺いました」
エレノアは針を止め、祖母へ顔を向けた。
「まだ返事は届いていないそうです。ですが、今後父から詳しい確認があった場合も、私に関係する内容については説明してくださると約束してくださいました」
マルグリットは静かに頷いた。
「それなら、少し安心できたかしら」
「はい。父が何を考えているのかは分かりません。でも、私が知らないうちに何もかも決まってしまうのではないかという不安は、以前より小さくなりました」
マルグリットは娘の面影を残す孫の顔を、優しく見つめた。
「あなたが自分の気持ちを伝えられるようになったことを、私は嬉しく思っているわ」
エレノアは少し驚いた。
「私が、ですか?」
「ええ。以前のあなたは、何かを尋ねるときも、相手の迷惑にならないかを先に考えていたでしょう。今もその優しさは変わらないけれど、自分が何を知りたいのか、何を望んでいるのかを、少しずつ言葉にできるようになっているわ」
エレノアは祖母の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分では、まだ不安になることが多いと思っていた。
父の返事を待つことも、王宮の判断を待つことも、決して平気ではない。
それでも、祖母には変化が見えているのだろうか。
「お祖母様。私、まだ怖いと思うことがたくさんあります」
「それでよいのよ。怖くなくなることだけが、強くなるということではないもの」
マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「怖いと思いながらも、自分が大切にしたいことを考えられるようになる。それも、あなたが前へ進んでいる証なのではないかしら」
エレノアはしばらく言葉を返せなかった。
以前の人生では、怖いと思っても、その気持ちを誰かへ伝えることができなかった。
けれど今は、祖母の前で不安を口にすることができる。
叔父へ自分の希望を伝えることもできる。
従兄に分からないことを尋ねることもできる。
その一つ一つが、以前の自分にはなかったものだった。
「ありがとうございます、お祖母様」
エレノアは静かに微笑んだ。
マルグリットは頷き、彼女の手元の刺繍へ目を向けた。
「さあ、今日はどこまで進めるのかしら。無理をせず、あなたの好きなところまで縫ってみましょう」
「はい」
エレノアは針を持ち直した。
窓の外では、夜の庭園に月明かりが差し始めている。
その柔らかな光の下で、青い花の刺繍は少しずつ形を整えていった。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったエレノアは、机の上に置かれた手帳を開いた。
父への返書については、まだ新しい知らせがない。
王宮からの正式な判断も届いていない。
保存専門家への予備問い合わせは発送されたが、返答はまだない。
母の遺品についても、今日新しく所在が判明したものはなかった。
エレノアは、それらを一つずつ書き記した。
そして、最後に少し考えてから、今日祖母に言われたことを書き加えた。
『怖いと思うことがなくならなくても、自分の意思を伝えることはできる。分からないことを確かめながら、私が大切にしたいものを守っていきたい。』
書き終えると、エレノアは筆を置いた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
父が今日、ロシュフォール家からの返書を受け取ったことを、エレノアはまだ知らない。
父がその文章を読み返し、自分のこれまでの判断について考え始めていることも知らなかった。
ベルナール家では、ミレーヌが姉の持ち物について新たな疑問を抱えている。
王宮では、本人の拒否声明と家からの受諾返書を分けて扱いながら、必要な確認が続けられている。
それぞれの場所で、小さな変化が生まれていた。
しかし、そのすべてがエレノアへ伝わっているわけではない。
彼女が今知っているのは、自分の意思が王宮へ届いていることと、ロシュフォール家の人々がその意思を大切に扱おうとしてくれていることだけだった。
エレノアは手帳を閉じ、机の上の青い花の刺繍へ目を向けた。
まだ完成していない花びらには、今日も少しだけ青い糸が増えている。
母の刺繍原本が見つかる日も、父から返事が届く日も、王宮の判断が示される日も、今は分からない。
けれど、だからといって、自分の毎日を止める必要はなかった。
エレノアは灯りを落とし、寝台へ向かった。
明日、どのような知らせが届くのかは分からない。
それでも、自分が何を望んでいるのかを見失わずにいたい。
そう願いながら、彼女は静かに目を閉じた。




