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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第108話 触れられない記録と、私が選んだ確かめ方


 父へ宛てた返書が屋敷を出た翌朝、エレノアは窓を打つ小さな音で目を覚ました。昨夜のうちに降り始めた雨が、石造りの窓枠を伝って細い筋を作っている。庭園の木々はまだ葉を落としきっていなかったが、濡れた枝先の色は昨日より濃く、秋が一段深くなったように見えた。


 寝台から起き上がると、昨日書いた手帳が机の上に置かれているのが目に入った。ベルナール家へ向けた書簡は、午後の便で発送された。そこまでが確認できた事実であり、父ロベルトが受け取ったかどうかも、その文章をどう読んだかも、まだ分からない。


(返事が来る前から、お父様の言葉を想像しても仕方がないわ。けれど、何も考えないというのも難しいのね)


 そう思って手帳から視線を外すと、今度は刺繍枠が目に留まった。青い花の中心はまだ空いており、紫の糸は別の試し布に縫い留めたままである。母アデラインが残した「青い花を作りたい」という短い書き付けを思い出したが、母の刺繍原本が見つかっていない以上、今縫っている花が母の思い描いたものと同じかどうかは分からなかった。


 扉を叩く音がして、リディアが朝の湯を運んできた。彼女は窓辺の雨脚を確かめてから、少し厚手の衣装を用意した理由を説明した。


「今日は一日、冷え込むそうでございます。廊下も朝のうちは肌寒く感じられますから、肩掛けをお使いくださいませ」


「ありがとう。庭を歩くのは難しそうね」


「西側の屋根のある回廊でしたら雨を避けられますが、石床が湿っているかもしれません。お出かけになる際は、私もご一緒いたします」


 リディアは衣装の襟を整えながら、何か言いかけて口を閉じた。エレノアが鏡越しに目を向けると、彼女は少し迷ったあとで続けた。


「昨日のお手紙のことが、気に掛かっていらっしゃいますか」


「ええ。気にならないと言えば嘘になるわ。でも、発送されたことは確かめられたから、今は返事を待つしかないと思っているの」


「そうでございますね。届いていないものについて、今からお答えを考え続けるのはお疲れになるでしょう。今日は何か、お心が向くことをなさってはいかがでしょうか」


 その言葉に、エレノアは鏡の中の自分を見つめた。リディアは慰めのために根拠のない安心を口にしない。だからこそ、今できることへ目を向けるよう促してくれたのだと感じた。


「実は、気になっていることがあるの。エレーヌさんたちが準備している、古い資料の保存についての問い合わせよ。まだ送られていないはずだから、どうなっているのか叔父様に尋ねてみたいわ」


「それでしたら、朝食のあとにご都合を伺いましょう。エレノア様が気に掛けていらっしゃる資料ですもの」


 リディアは髪を結い終えると、最後に小さな飾りを添えた。エレノアは礼を述べ、机の上の刺繍枠をそっと布で覆った。今日は糸を進めるより先に、確かめたいことができた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、暖炉の火が静かに燃えていた。祖父オーギュストは庭師ギュスターヴ・メルシエから届いた報告を読み、雨が続く間は東側通路の調査を始めないよう指示したと家族へ伝えた。石畳が持ち上がった場所は閉鎖されたままで、地面の下を調べるための準備もまだ終わっていない。


「石の下に水が回っているかどうかさえ、今は断定できん。雨の日に無理をして、周囲まで傷めることはないからな」


 オーギュストがそう言うと、アルフォンスは報告書を受け取り、作業日程を改めて調整すると答えた。エレノアは、原因を決めつけないまま安全を優先する二人の姿勢に、昨日までとは少し違う意味で耳を傾けていた。


 資料も同じなのだろう。見えない場所を確かめたいからといって、先に石を動かしたり、紙を開いたりしてよいわけではない。大切なのは、何を知りたいのかだけでなく、何を壊してしまうおそれがあるのかを考えることだった。


「叔父様。朝食のあとで、少しお時間をいただけますか」


 アルフォンスは手を止め、エレノアの方へ向き直った。


「もちろんだよ。何か相談かな」


「母の記録に関する資料のことで、エレーヌさんたちが準備してくださっている問い合わせについて伺いたいのです。まだ発送されていないと理解しているのですが、合っていますか」


「そのとおりだよ。文面は整っているけれど、送付前に確認しておきたい点が残っていた。今日、エレーヌとマルタに来てもらう予定だから、よければ君も同席しないかい」


 エレノアは思わず背筋を伸ばした。自分から尋ねる前に話が進んでいたことに驚いたが、叔父はその驚きを見て、申し訳なさそうに微笑んだ。


「昨日はベルナール伯爵への返書で慌ただしかったから、こちらの話を落ち着いてする時間が取れなかったんだ。君に知らせないまま進めようとしたわけではないよ」


「はい。そういうことだとは思っていません。ただ、私もお話を聞きたいです。資料のことを、何も知らないまま待つのは避けたいので」


 アルフォンスは頷き、昼前に執務室へ来るよう伝えた。向かいに座るセドリックも同席できると言い、分からない言葉があれば遠慮なく聞こうと声を掛けてくれた。


 マルグリットは茶器を置き、エレノアの表情を見つめた。


「大切なものを調べるときは、知りたい気持ちだけでは進められないこともあるわ。でも、あなたが何を知りたいのかは、遠慮せずに伝えてよいのよ」


「ありがとうございます、お祖母様。今日は、どこまでなら安全に進められるのかを知りたいと思っています」


 エレノアがそう答えると、祖母は満足そうに微笑んだ。雨の音が窓の外で強くなったが、食卓には落ち着いた空気が流れていた。


     ◇ ◇ ◇


 執務室へ向かう前、エレノアは自室で一枚の紙を取り出した。以前まとめた疑問を書き直すためではなく、今日の相談で確かめたいことを、短く整理しておきたかったのである。


 古い資料には「エレノア衣類」と記された包みがあり、これまで慎重に開かれた部分から、幼少時の衣類を別に保管したという記録が確認されている。日付は読み取りにくく、「五」という数字が何を数えたものかも不明だった。「西側保管」という記述も、具体的な部屋を示しているとは限らない。


 そこに記された「ロラン」という姓についても、以前ベルナール家に仕えていたベアトリス・ロランと同一人物だとは確定していない。衣装の行方を調べるうえで気になる一致ではあっても、同じ姓というだけで結論を出すわけにはいかなかった。


 エレノアは書きかけの紙を見つめ、最初に記した問いを消した。


『残りの頁をいつ開けるか』


 その代わりに、別の言葉を書いた。


『今の保管方法で、紙を傷めずに待てるか』


 さらに、原本を動かす必要があるのか、外部へどのような情報を伝えるのか、返答が来たあと誰が判断するのかという三つの点を記した。どれも自分だけで答えられることではないが、尋ねることはできる。


 紙を折り畳みかけたところで、机の下段に目が留まった。下左の引き出しには鍵が掛かっており、真鍮の鍵はまだ見つかっていない。下右の引き出しにある小箱や革袋、折り畳まれた紙片にも、開けずに保管しているものが残っていた。


(ここにも、まだ確かめていないものがある。でも、今日の相談と一緒にしてしまえば、何を優先すべきか分からなくなるわ)


 エレノアは引き出しに手を掛けず、机の上の紙だけを持った。古い包みの保存と、自室に残された未開封の品々は、同じように気になるからといって一度に扱うべきものではない。自分の気持ちが急いているときほど、その区別を忘れないようにしたかった。


 廊下へ出ると、セドリックが曲がり角の近くで待っていた。彼はエレノアの手にある紙へ目を向けたものの、何が書かれているのかを無理に尋ねようとはしなかった。


「準備はできた?」


「はい。聞いておきたいことを書いてみました。話を伺っているうちに忘れてしまうかもしれないので」


「いい考えだね。僕も保存については専門家ではないから、一緒に確認させてもらおう」


 セドリックはそう言って歩き出し、エレノアの歩調に合わせた。雨の日の廊下はいつもより静かで、遠くから聞こえる食器の触れ合う音が、二人の足音に混じっていた。


     ◇ ◇ ◇


 執務室には、すでにエレーヌ・フォシェと助手のマルタが到着していた。アルフォンスの机には問い合わせの草案が置かれ、その横には、原本を持ち出さずに状態を説明するための別紙が用意されている。


 エレーヌはエレノアへ一礼すると、すぐに書類を開くのではなく、まず今日の相談の目的を説明した。


「今回は、保存専門家へ最初の問い合わせを送るための確認でございます。資料を開く許可を求めるものではなく、現状を維持しながら、どのような助言を受けられるかを尋ねるものです」


 アルフォンスは頷き、エレノアとセドリックが着席するのを待った。マルタは窓から離れた場所へ書類を置き直し、湿気のある外気が紙に直接触れないよう、開け放たれていた扉を静かに閉じた。


「現在、資料そのものは保管室から動かしておりません」とエレーヌが続けた。「以前確認した部分を含め、これ以上の開封は控えています。紙の縁に弱い箇所があり、折り目を伸ばすことも避けております」


「その状態を専門家へ伝えるのだね」とアルフォンスが尋ねると、エレーヌは草案の一節を示した。


「はい。ただ、資料の表題や内容をそのまま書く必要はないと考えています。古い紙の束であること、部分的な開封にとどめていること、紙の縁に傷みが見られること、今は平らに保管していること。この範囲で、初歩的な助言を求める予定です」


 エレノアは手元の紙を開いた。最初の問いは、ちょうどエレーヌの説明に重なっていたが、まだ一つ確かめたい点が残っている。


「今の保管方法のままで、しばらく待っても大丈夫なのでしょうか。専門家の方からお返事をいただくまで、何かしておく必要があるのか気になっています」


 エレーヌは、すぐに断定しなかった。


「現時点では、むやみに触れないことが大切だと判断しております。ただ、現在の方法が最善かどうかは、専門家の助言をいただいてから改めて検討したいところです。急な温度や湿度の変化を避け、扱う人数を限ることは続けます」


 マルタは持参した管理記録を開き、資料を最後に確認した日と、その後に移動していないことが分かる欄を示した。そこには、誰が取り扱ったのかを残すための記入欄も設けられている。


「私たちは、開いていない部分について内容を推測して記録することも避けています」とマルタは言った。「読めた文字と、読めなかった箇所を区別しなければ、あとで確認するときに誤解が生じるおそれがありますから」


 エレノアは、その言葉に強く頷いた。


「私も、それが気になっていました。以前読めた数字の『五』が、何を示しているのか分かっていないのに、私の衣装の数と結びつけてしまいそうになることがあるのです」


 エレーヌは静かに首を振った。


「お気持ちは自然なことだと思います。ただ、数字に単位がない以上、衣類の点数なのか、包みの数なのか、それ以外のものなのかは分かりません。今の段階では、数字が記されているという事実だけを残すのが適切でしょう」


 エレノアは膝の上の紙を握り直した。自分が知りたいと思っていることと、資料が実際に語っていることは違う。母の行方の分からない木箱や、所在を確かめられていない衣装のことが頭に浮かんでも、その疑問を古い記録へ押しつけてはいけないのだ。


「では、『ロラン』という姓についても、今はそのまま記録するだけなのですね」


「はい。名前の一部が一致している可能性はありますが、記録した人物の役割も、同一人物かどうかも不明です。専門家への問い合わせでは、その姓を知らせる必要もありません」


 アルフォンスは二人の会話を聞きながら、草案の一節に目を留めた。


「ここに『家族の来歴に関係する資料』とあるけれど、この表現も外してよいのではないかな。保存方法の相談なら、誰の家族に関わるかは必要ないはずだ」


 エレーヌは草案を見直し、すぐに頷いた。


「おっしゃるとおりです。由来を説明しようとして入れた言葉ですが、初回の相談には不要でございます」


 マルタが別紙へ修正を記し、エレーヌは該当箇所を削った。エレノアは、ほんの短い言葉が取り除かれる様子を見つめていた。以前なら、家族のことだからと自分に関係のない場所で説明が進んでも、何も言えなかったかもしれない。


「私からも、一つお願いしてよろしいでしょうか」


 アルフォンスが促すと、エレノアはエレーヌへ向き直った。


「もし専門家の方から、原本を送るように言われても、その場で決めずに、もう一度相談していただきたいのです。私には専門的なことは分かりませんが、母のものかもしれない記録を、知らないうちに遠くへ送られるのは不安です」


 エレーヌは、少し驚いたように目を見開いた。それから丁寧に頷き、声を落ち着けて答えた。


「もちろんでございます。今回は原本の移動を前提としておりません。今後そのような提案があった場合も、資料の安全とご家族のご意向を確認せずに進めることはいたしません」


「私からも約束するよ」とアルフォンスが続けた。「原本を動かす必要があるかどうかは、その理由を聞いてから判断する。君に関係する記録なのだから、君にもきちんと説明する」


 エレノアは礼を述べたが、胸の奥にはまだ別の不安が残っていた。自分の希望を伝えたことで、専門家の判断を妨げてしまうのではないかという気持ちである。


 その迷いに気づいたのか、セドリックが横から穏やかに言った。


「エレノアが求めているのは、何があっても動かさないということではないよね。理由を聞いて、自分でも納得してから決めたいということだと思う」


「はい、そのとおりです。必要なことまで断りたいわけではありません。ただ、私の知らないところで決まってしまうのが怖いのです」


 言い終えると、エレノアは自分の声が少し震えていたことに気づいた。王宮へ送られた婚約受諾の返書を、あとから知らされた記憶が胸をよぎったからだった。


 アルフォンスはそれ以上の理由を尋ねず、ただ静かに頷いた。


「分かった。資料の扱いについても、君の知らないところで結論を出さないようにしよう」


 その言葉は、書類の内容以上にエレノアの心へ残った。何を調べるかだけでなく、誰が決めるのか。その違いを叔父が理解してくれたことに、彼女は深く安堵した。


     ◇ ◇ ◇


 相談はそこで終わらなかった。エレーヌは、専門家から返答があった場合の扱いについて、もう一つ確認しておきたいと申し出た。


「助言の内容によっては、保存のための容器や置き方を変えるよう勧められるかもしれません。その場合、作業を行う前に状態を記録し、変更の理由を残すようにしたいと考えております」


 マルタは管理記録の余白を示した。そこには、日付、作業者、変更前の状態、変更後の状態を記入できるようになっているが、まだ新しい作業は何も記されていない。


「記録を残すのは、あとから見返すためです。どの時点で何をしたのか分からなくなると、資料の傷みがいつ生じたのかも判断しにくくなります」


 エレノアは思わず、ベルナール家で見つかった衣類の記録を思い出した。誰が受け取り、誰へ渡したのかが明らかでない品々について、今も行方を確かめられずにいる。記録が残っていても、その意味が曖昧であれば、あとから調べる者は苦労するのだ。


「作業をするたびに、理由も残しておくのですね」


「はい。未来の誰かが読むとき、私たちと同じところで迷わずに済むようにするためでもあります」


 マルタの答えは静かだったが、エレノアには思いがけず重く響いた。母の記録を探す自分は、過去の誰かが残した不完全な手掛かりを頼りにしている。その一方で、自分たちもまた、未来へ記録を残す側にいるのだ。


(私が知りたいことばかり考えていたけれど、今ここで何をしたのかを正しく残すことも、大切なのね)


 アルフォンスは書類を最後まで読み、不要な家族情報が削られていることを確認した。問い合わせには、資料の内容を示す写しも、これまで読み取った文字の一覧も添付しない。紙の傷みと保管状況に関する一般的な相談だけを送り、返答があってから次の対応を考える。


「これなら、最初の問い合わせとして差し支えないと思う。エレーヌ、送付の準備を進めてください」


「承知いたしました。清書を確認したのち、書簡担当へ渡します」


 エレノアは顔を上げた。


「今日、発送されるのでしょうか」


「書簡担当の便に間に合えば、本日中に出せると思います」とエレーヌが答えた。「ただ、実際に発送されたかどうかは、確認してからお伝えいたします」


 その慎重な言葉遣いに、エレノアは小さく微笑んだ。父への返書のときと同じように、予定と確認済みの事実を分けて話してくれることが嬉しかった。


 会議が終わると、マルタは書類を重ね、エレーヌは原本の保管状態を変えないことを改めて確認した。二人が退出する際、エレノアは立ち上がって礼を述べた。


「お時間をいただいて、ありがとうございました。分からないことばかり尋ねてしまいましたが、今日のお話を聞けてよかったです」


 エレーヌは少し柔らかな表情になった。


「ご質問をいただけたおかげで、こちらも説明が足りないところに気づけました。大切な資料を扱うときは、疑問を残したまま進めないことが必要でございます」


 マルタも頷き、書類を胸の前で抱え直した。


「次に何か変化がありましたら、確認できた範囲をお伝えいたします。まだ分からない部分についても、そのままお知らせします」


 エレノアは二人を見送ったあと、椅子へ座り直した。胸の中には疲れがあったが、昨日のような、何が起きるのか分からないまま待つ疲れとは少し違っていた。


     ◇ ◇ ◇


 執務室を出たあと、セドリックはエレノアを西側の回廊へ誘った。雨は小降りになっていたが、庭へ降りる石段にはまだ水が残っているため、二人は屋根の下から木々を眺めることにした。


 回廊の端には、雨を避けるために寄せられた鉢植えが並んでいる。葉先から落ちる雫が石床へ小さな輪を作り、庭の奥では使用人が濡れた落ち葉を片づけていた。


「今日は、よく質問していたね」


 セドリックがそう言うと、エレノアは少し恥ずかしくなった。


「多すぎたでしょうか。エレーヌさんたちのお仕事を止めてしまったのではないかと、あとから気になってしまって」


「そんなふうには見えなかったよ。むしろ、君が何を不安に思っているのか分かって、父上も助かったと思う」


 セドリックは欄干へ軽く手を置き、庭へ視線を向けた。


「僕は最初、原本を送らないと聞いて安心していたんだ。でも、専門家から返答があったあとにどうするかまでは考えていなかった。君が尋ねなければ、その話は今日出なかったかもしれない」


 エレノアは従兄を見上げた。セドリックが自分の疑問を役に立ったと言ってくれたことに、胸の奥が温かくなった。


「お兄様は、私が何かを尋ねても、面倒だと思わないのですね」


 セドリックは驚いたように振り向いた。


「どうしてそう思うんだい」


「ベルナール家では、私が詳しく尋ねると、決まったことなのだから従いなさいと言われることがありました。だから、何度も質問するのは失礼なのではないかと思ってしまうのです」


 雨粒が軒先から落ち、二人の間にしばらく静かな音を作った。セドリックはすぐに慰めの言葉を返さず、エレノアの表情を確かめるように少し身をかがめた。


「誰かの仕事を尊重することと、自分に関係することを確かめるのは、両立すると思うよ。今日の君は、専門家の判断を否定したわけでも、答えを急がせたわけでもなかった」


 エレノアは欄干の向こうへ目を向けた。濡れた庭の土から、かすかな草の匂いが漂ってくる。


「私、まだ自分の希望を伝えるときに、誰かの邪魔をしているような気持ちになることがあります」


「それなら、少しずつ慣れていけばいい。僕たちも、君が話しやすいように気をつけるから」


 セドリックの声は普段と変わらず穏やかだった。その自然さが、エレノアには何よりありがたかった。


「ありがとうございます。今日は、自分が何を怖がっているのか、少し分かった気がします」


「原本を動かされること?」


「それもあります。でも、それ以上に、私に関係することが、私の知らないところで決まってしまうことが怖いのだと思います」


 セドリックは静かに頷いた。彼は婚約受諾の返書が本人の同意なく送られた事情を知っているが、エレノアが以前の人生で何を経験したのかは知らない。だから、今ここで彼女が話してくれた範囲を、そのまま大切に受け止めようとしているように見えた。


「その気持ちは、忘れずに伝えていいと思う。僕も、君の代わりに何でも決めてしまわないように気をつけるよ」


 エレノアは小さく笑った。


「お兄様がそう言ってくださると、少し安心します」


 雨はまだ完全にはやんでいなかったが、雲の切れ間から薄い光が差し、濡れた葉を明るく照らした。二人はしばらく回廊に留まり、庭師たちが作業を終えて道具を片づける様子を眺めていた。


     ◇ ◇ ◇


 昼食を終えたころ、エレーヌは資料室へ戻り、マルタとともに問い合わせの清書を確認していた。窓際から離れた机には、送付する一枚の書簡と、内部用の管理記録が分けて置かれている。


 マルタは清書を読み終え、顔を上げた。


「ご家族の来歴に触れる表現は削除されています。原本の移動を求める文言もありません。保存上の助言をお願いする内容に限られています」


「ありがとう。こちらの控えには、今日の確認で変更した点を残しておきましょう」


 エレーヌは頷き、机の隅にある管理記録を引き寄せた。原本の表題を外部へ伝えないこと、読めた文字を問い合わせに添えないこと、返答を受けても独断で資料を開かないこと。決まった事項は、曖昧な記憶に頼らず書き残す必要があった。


「エレノア様は、ずいぶん丁寧に考えていらっしゃいましたね」とマルタが言った。


 エレーヌは筆を止めた。


「ええ。資料の内容を知りたい方が、開封を急がず、保管方法を先に尋ねるのは簡単なことではありません。あの方にとって、何が書かれているかは切実な問題なのでしょう」


「私も、もっと早く続きを読める方法を求められると思っていました。けれど、原本を動かすなら事前に説明してほしいというお願いでしたね」


 エレーヌは静かに頷いた。エレノアが抱える事情のすべてを知っているわけではないが、彼女が記録に対して強い思いを持っていることは伝わっていた。だからこそ、仕事を急ぐあまり、その気持ちを置き去りにしてはいけない。


「専門家からどのような返事が届くかは分かりません。今できるのは、こちらの状況を正確に伝え、判断に必要な助言を求めることだけです」


「はい。送付後の記録も残します」


 二人は最後の確認を終えると、封筒へ書簡を収めた。エレーヌは封を確かめ、書簡担当へ渡すための控えを用意した。資料室に残る原本には触れず、送るのは問い合わせの文面だけだった。


     ◇ ◇ ◇


 一方、王宮の儀典担当部署では、ベルナール家からの婚約受諾返書と、エレノア本人の拒否声明について、書類の照合が続いていた。窓の高い部屋には午前中の雨の湿り気が残り、机の上では複数の書類が別々の束に整理されている。


 担当職員は上席者へ、現在確認できている事項を報告した。ベルナール家から受諾の返書が届いていること、エレノア本人はそれ以前に婚約を受け入れる意思を示していなかったと申し立てていること、ロシュフォール家からも事情説明が提出されていること。そして、正式な婚約成立の記録は存在しないことだった。


「ベルナール家へ経緯を確認する案について、文面を作成しました」と職員が告げた。「ただし、送付するかどうかの決裁はまだ受けておりません」


 上席者は書類を読み、途中で眉を寄せた。


「この『本人の同意が得られていたか』という問いは、必要な確認かもしれません。しかし、先方が同意はあったと答えた場合に、それだけで本人の申立てを覆すような扱いになってはいけませんね」


「承知しております。両者の記録を別々に残す方針は維持いたします」


「それから、問い合わせの目的をはっきりさせましょう。すでに届いた書類を無効にするためではなく、受諾返書が送られた経緯を確認するためです」


 職員は頷き、文面へ修正の印を付けた。上席者はさらに、第二王子側へ送る報告についても、事実と未確認事項を分けるよう指示した。


「殿下には、現在の手続きがどこまで進んでいるかを伝えてください。本人の拒否声明については、すでに要旨が伝わっていますが、原本を読まれたと確認できているわけではありません。こちらの記録も、その違いを曖昧にしないように」


 職員は深く一礼した。書類の上では、一つの家から届いた受諾と、少女本人が記した拒否が並んでいる。しかし、並んでいるからといって、二つを同じ意思として扱うことはできなかった。


 その日のうちに王宮から結論が出ることはなかった。儀典担当部署は照合を続け、必要な確認事項を整理する段階に留まっていた。


     ◇ ◇ ◇


 午後、エレノアは祖母マルグリットの部屋で刺繍をしていた。雨はやみ、窓辺の光は柔らかくなっている。卓の上には青い糸が数種類並べられ、紫の糸を使った試し布だけが少し離れた位置に置かれていた。


 マルグリットはエレノアの針運びを見守りながら、午前の相談について尋ねた。エレノアは専門家への問い合わせが送付準備に進んだこと、原本はまだ開かないこと、返答が来てもすぐに扱いを変えるわけではないことを説明した。


「それなら、少し安心ね」とマルグリットは言った。「アデラインのものかもしれない記録だから、私も気になるわ。でも、傷んでしまったら、あとから読むことも難しくなるもの」


「はい。今日、エレーヌさんたちのお話を聞いて、私も同じことを思いました。それに、読めた文字から勝手に意味を決めてはいけないと、改めて感じました」


 マルグリットは刺繍布へ目を落とした。エレノアが縫っている花は、青い輪郭が少しずつ整い始めているが、中心部はまだ空いている。


「刺繍にも似たところがあるわね。遠くから見ると一つの花に見えても、どの糸をどこへ重ねたのかは、近くで確かめなければ分からない。だからといって、ほどいてしまえば元に戻せないこともあるでしょう」


 エレノアは針を止め、祖母の顔を見た。


「お祖母様は、母の刺繍を見ていて、そういうことを考えたことがあったのですか」


「アデラインは、気に入らないところをほどいて縫い直すこともあったけれど、すぐに手を付けず、布を少し離して眺めることもあったわ。急いで直そうとすると、別のところまで崩してしまうと言っていたことがあるの」


 マルグリットは懐かしそうに笑ったが、すぐに付け加えた。


「ただ、今あなたが探している青い花の刺繍について、あの子がどの色を使ったかまでは覚えていないの。そこは、想像で埋めてしまいたくないわ」


 エレノアは頷き、別布に縫った紫の糸へ視線を移した。


「私も、紫を加えるかどうかは、もう少し考えてみます。母と同じものを作ろうとしているのではなく、母が好きだったかもしれない花を、自分の手で縫ってみたいのだと思うので」


 言葉にすると、胸の中にあった迷いが少し形を変えた。母の作品を再現することと、母を思いながら自分の作品を作ることは、同じではない。見つかっていない原本の色を勝手に決めなくても、自分の花を縫い進めることはできる。


 マルグリットは穏やかに微笑んだ。


「それなら、あなたが好きな色を選んでよいのよ。アデラインも、自分の娘がどんな花を作るのか、きっと見たがったでしょうね」


 エレノアは母の顔を思い浮かべようとした。幼い頃の記憶は断片的で、声や手の温かさを思い出せても、すべてを鮮明に取り戻せるわけではない。それでも、祖母が母のことを語るときの表情には、今も変わらない愛情が宿っている。


「お祖母様。母のお話を、また聞かせてください。刺繍のことだけでなく、普段どんなことをしていたのかも」


「ええ、もちろんよ。思い出せることと、曖昧なことを分けながら話しましょうね」


 二人はそのあと、刺繍を進めながら、アデラインが好んだ庭の散歩や、季節の花を見つけると足を止めていたという話をした。マルグリットは記憶の確かでない部分では言葉を選び、エレノアも無理に詳しく尋ねなかった。


 窓の外では雨上がりの風が木々を揺らし、時折、枝に残った雫が落ちていた。エレノアは青い糸を一針ずつ重ねながら、母を知る時間が、失われたものを探す時間だけではないことを感じていた。


     ◇ ◇ ◇


 夕刻、エレーヌからアルフォンスのもとへ、保存専門家への予備問い合わせが書簡担当へ渡されたという報告が届いた。発送の便はまだ出ておらず、実際に屋敷を離れたかどうかは確認中だという。


 アルフォンスは報告を読み、書簡担当へ状況の確認を依頼した。父ロベルトへの返書とは別の書簡であり、送付先も目的も異なる。二つの案件が混同されないよう、記録も分けて管理されていた。


 夕食の少し前、書簡担当から改めて連絡が入り、予備問い合わせはその日の便で発送されたと確認された。アルフォンスは書類を閉じ、エレノアへ知らせるために席を立った。


 エレノアは自室で刺繍道具を片づけていた。扉が叩かれ、叔父の声が聞こえると、彼女は針を布へ刺したままにせず、道具箱へ収めてから応じた。


「エレノア。今日相談した問い合わせについて、報告が届いたよ」


 アルフォンスは入室すると、書簡担当からの確認内容を伝えた。保存専門家への予備問い合わせは、予定どおり発送された。ただし、相手に届いたわけではなく、返答の時期もまだ分からない。


「送られたのですね。ありがとうございます、叔父様。原本や、読めた文字の写しは添えていないのですよね」


「ああ。今日決めたとおり、紙の状態と保存について助言を求める書簡だけだよ。資料そのものは保管室に残してある」


 エレノアは胸に手を当て、静かに息を吐いた。朝、自分の部屋で疑問を書き出したときには、問い合わせがどのようなものになるのかさえ、十分に理解できていなかった。今は、何を送り、何を送らなかったのかを知っている。


「今日、同席させていただけてよかったです。私、資料の続きを読みたい気持ちばかり強くなっていました。でも、今は何を守る必要があるのか、少し分かった気がします」


 アルフォンスは穏やかに頷いた。


「知りたいと思うことは悪いことではないよ。ただ、知るための方法を選ぶことも大切だね。今日の君は、その方法について自分の考えを伝えてくれた」


 エレノアは叔父の言葉を聞き、少しだけ視線を落とした。


「まだ、誰かに質問するたびに緊張してしまいます。こんなことを聞いてよいのかと、考えてしまうのです」


「すべての質問に、その場で答えられるとは限らない。でも、尋ねること自体を遠慮しなくてよいんだ。分からないなら分からないと伝えることも、私たちの役目だからね」


 その言葉に、エレノアはゆっくりと頷いた。父の返書も、王宮の判断も、まだ届いていない。自分が望む答えが必ず返ってくる保証はないが、今のロシュフォール家では、少なくとも問いを口にすることを許されている。


「ありがとうございます。これからも、分からないことは確かめたいと思います」


 アルフォンスは微笑み、夕食の時間が近いことを告げて部屋を出た。エレノアは扉が閉まったあともしばらく立っていたが、やがて机へ戻り、今日の出来事を書き留めるために手帳を開いた。


     ◇ ◇ ◇


 夜、屋敷の窓には雨雲の切れ間から星がのぞいていた。エレノアの部屋では、机の灯りが手帳の白い頁を照らしている。


 彼女は今日確かめたことを、順番に記した。古い資料の原本は動かしていないこと。専門家へ送ったのは、紙の状態と保存について助言を求める書簡だけであること。返答が届いても、開封や移動をすぐに決めるわけではないこと。そして、その問い合わせが夕方の便で発送されたこと。


 次に、父への返書についても短く記した。昨日発送されたことは確認済みだが、到着や父の反応は未確認である。王宮から新たな判断も届いていない。


 書き終えると、エレノアは筆を置き、窓の外へ目を向けた。今日一日で、失われた衣装の行方が分かったわけでも、母の木箱が見つかったわけでもない。王宮の問題も解決していないが、それでも昨日とは違うところまで進めたと感じていた。


(何も分からないまま待つことと、何を待っているのかを知っていることは、こんなにも違うのね)


 エレノアは手帳の最後に、自分の言葉を一つ書き加えた。


『知りたいことがあるときほど、確かめ方を大切にする。私に関係することは、私も説明を聞き、自分の考えを伝える。』


 その文字を見つめていると、胸の奥に静かな熱が生まれた。以前の人生では、誰かが決めたことを受け入れる以外に道がないと思っていた。今も未来を知るクロノア以外には話せない記憶があり、恐ろしい結末を思い出す夜もある。それでも、目の前の小さな判断を自分の手に取り戻すことはできる。


 机の上では、青い花の刺繍が布に覆われていた。母の原本がどこにあるのかは分からないし、紫の糸を使うかどうかも決めていない。けれど、今日はその未完成の花を見ても、焦りばかりが浮かぶことはなかった。


 エレノアは手帳を閉じ、机の引き出しには触れずに灯りを落とした。開いていないものがあることを、忘れたわけではない。今夜はただ、開くべき理由と方法が整うまで、大切に残しておこうと思った。


 窓の向こうでは、雨に洗われた庭園が静かに眠っている。明日、父から返事が届くかどうかは分からない。保存専門家からの助言も、すぐには戻らないだろう。それでもエレノアは、今日自分が尋ね、考え、選んだ言葉を確かに覚えながら、寝台へ向かった。

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