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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第107話 封じた返書の行方と、私がまだ知らない父の考え



 父ロベルトへ宛てた返書が封じられた翌朝、エレノアはいつもより少し遅く目を覚ました。


 窓の外には薄い雲が広がり、秋の冷たい風が庭園の木々を揺らしている。昨夜は手帳を書き終えたあとも、父が返書を受け取ったときのことを考えてしまったが、いつの間にか眠っていたらしい。


 寝台から身体を起こしたエレノアは、枕元に置かれた時計へ目を向けた。


 朝食までには、まだ十分な時間がある。


 彼女は寝台の端に腰掛けたまま、昨日の執務室での出来事を思い返した。


 叔父アルフォンスが用意した返書には、ロシュフォール家での滞在状況と、養子縁組がまだ法的に完了していないことが記されていた。婚約に関する情報についても、必要な確認と関係者の意思を踏まえて対応するという文章になっている。


 その言葉を選ぶ過程に、自分も関わることができた。


 けれど、封をした返書が父のもとへ届いたあと、何が起こるのかまでは分からない。


(お父様は、あの文章をどう受け取るのかしら。私が何かを隠していると考えるかもしれないし、叔父様に詳しい説明を求めるかもしれない)


 エレノアは膝の上で両手を重ねた。


 以前の人生では、父が何かを決めたあとに、その結果だけを知らされることが多かった。


 自分の意見を伝えようとしても、家のために必要なことだと言われれば、それ以上の言葉を続けられなかった。


 第二王子との婚約についても、最初から自分に選択の余地があったとは思えない。


 今の人生でも、父はエレノアの同意を得る前に、王宮へ婚約受諾の返書を送っていた。


 その事実は変わらない。


 ただ、今は自分の意思を記した拒否声明が王宮に届いている。


 ロシュフォール家の人々も、エレノアが何を望んでいるのかを知っている。


 父の返事を待つことは怖いが、以前とまったく同じ状況ではなかった。


 エレノアがそう考えていると、扉の向こうからリディアの声が聞こえた。


「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」


「ええ、起きているわ。入ってちょうだい」


 リディアは温かな湯を用意した盆を持ち、静かに入室した。


 彼女はエレノアの顔色を確かめるように一度だけ視線を向け、それから朝の支度を始めた。


「昨夜は、よくお休みになれましたか」


「少し考え事をしていたけれど、眠れたわ。ありがとう」


「それはようございました。今朝は風が冷たくなっておりますので、少し厚手のお召し物をご用意しております」


 リディアが衣装を広げると、淡い藤色のドレスが現れた。


 袖口には控えめな刺繍が施され、襟元には柔らかな白い布が重ねられている。


 エレノアはその色を見て、少し微笑んだ。


「綺麗な色ね。昨日の青灰色も好きだったけれど、こちらも落ち着いていて素敵だわ」


「ありがとうございます。奥様からも、今の季節によく合うお色だと伺っております」


 リディアは嬉しそうに答えた。


 エレノアは鏡の前へ座り、髪を整えてもらいながら、窓の外へ目を向けた。


 今日は、父への返書が実際に発送されるのかもしれない。


 昨日、アルフォンスは書簡担当へ渡し、通常の手順で送ると話していた。


 けれど、エレノアはまだ発送されたという報告を受けていない。


 その違いを曖昧にしないようにしようと思った。


 自分が知っていることと、まだ確認できていないこと。


 それを分けて考えるだけでも、不安に振り回される時間は少し減るような気がした。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、祖父オーギュストが庭園の管理について報告を受けていた。


 東側通路の石畳が持ち上がっている場所について、庭師ギュスターヴ・メルシエが調査に必要な道具を確認しているという。


 ただし、地面の下の状態を調べる作業はまだ始まっていない。


 オーギュストは報告を聞き、慎重に頷いた。


「通路を閉じているのなら、急いで石を動かす必要はない。まずは周囲の状態を確かめてから、作業の範囲を決めるべきだろう」


 アルフォンスも同意した。


「はい。ギュスターヴには、調査の準備が整うまで現状を維持するよう伝えてあります。必要な人手についても、確認を進めているところです」


 エレノアは二人の会話を聞きながら、庭園の東側へ続く道を思い浮かべた。


 以前は何気なく歩いていた通路だったが、今は安全のために閉鎖されている。


 石畳の異変が何によって起きているのかは、まだ分からない。


 だからこそ、誰かが勝手に原因を決めつけず、必要な調査を進めている。


 その姿勢に、エレノアは安心感を覚えていた。


 やがて食事が進むと、マルグリットが彼女へ声を掛けた。


「エレノア。今日は刺繍を進めるつもりかしら」


「はい、お祖母様。昨日、青い花びらを少し縫い進められたので、今日も続きをしたいと思っています」


「それなら、午後にいらっしゃい。昨日の糸も、そのまま用意してあるわ」


 エレノアは微笑んだ。


「ありがとうございます。まだ紫の糸を加えるかどうか迷っていますが、青い部分をもう少し整えてから考えようと思います」


「それがよいでしょうね。色は、完成を急いで決めるものではないもの」


 祖母の言葉に頷いたところで、アルフォンスが静かに口を開いた。


「エレノア。昨日確認してもらったベルナール伯爵への返書だけれど、今朝、書簡担当へ渡す予定だよ」


 エレノアは顔を上げた。


「そうなのですね。まだ発送はされていないのですか」


「今のところ、私が確認している範囲ではね。封は済ませてあるけれど、実際に屋敷を出たかどうかは、担当から報告を受けて確認するつもりだ」


 エレノアは静かに頷いた。


「分かりました。発送されたら、教えていただけますか」


「もちろんだよ。君が内容を確認した返書だからね。いつ送られたのかも、きちんと知らせよう」


 その言葉を聞き、エレノアは胸の奥にあった小さな緊張が和らぐのを感じた。


 以前なら、父へ送られる書簡の内容を確認することなど考えられなかった。


 まして、発送されたかどうかを尋ねることもなかっただろう。


 今は、叔父がその問いを当然のこととして受け止めてくれる。


 その違いが、エレノアには嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 朝食を終えたあと、エレノアはセドリックとともに屋敷の南側を歩いていた。


 庭園へ出る扉の近くには、外から運び込まれた薪が整然と積まれている。使用人たちは冬へ向けた準備を少しずつ進めているらしく、廊下には磨かれた木材の香りが漂っていた。


 セドリックはエレノアの歩調に合わせながら、窓の外へ目を向けた。


「今日は少し風が強いね。庭を歩くなら、午後の方がよいかもしれない」


「そうですね。今朝は窓から見ているだけでも、木々がずいぶん揺れていました」


 エレノアはそう答え、肩掛けの端を押さえた。


 セドリックは少し微笑んだ。


「昨日、父上と話したあと、少しは落ち着いた?」


 エレノアは考えてから頷いた。


「はい。返書の内容を確認できたので、安心した部分はあります。ただ、父が受け取ったあとに何を言ってくるのかは、まだ気になっています」


「それはそうだろうね。相手がどんな返事をするのかは、実際に届いてみなければ分からないから」


 セドリックは穏やかに答えた。


 エレノアは従兄の横顔を見つめた。


「お兄様は、父がどのような返事をしてくると思いますか」


 セドリックはすぐには答えなかった。


 少し歩いてから、廊下の窓辺で足を止めた。


「正直に言えば、分からないよ。ベルナール伯爵が何を重視しているのか、僕には十分に判断できない。養子縁組の進行状況を気にしているのかもしれないし、王宮とのやり取りについて詳しく知りたいのかもしれない」


 エレノアは静かに頷いた。


「そうですよね。私も、父が何を考えているのか、よく分からないのです」


 セドリックは彼女へ顔を向けた。


「でも、君が今すぐ答えを出さなければならないわけではないよ。返事が届いたら、その内容を確かめてから考えればよいと思う」


 エレノアは少しだけ視線を落とした。


 父からの返事が届く前に、あらゆる可能性を考えておこうとしていた。


 もし怒っていたら。


 もし帰るよう求められたら。


 もし王宮への拒否声明について問い詰められたら。


 そんな想像が次々に浮かんでしまう。


 けれど、まだ何も届いていない。


 今の段階で、父が何を言うのかを決めつけることはできないのだ。


「ありがとうございます、お兄様。少し先のことばかり考えていたのかもしれません」


 エレノアがそう言うと、セドリックは穏やかに微笑んだ。


「心配になるのは仕方がないよ。でも、今の君には、相談できる相手がいることも忘れないでほしい」


 エレノアは顔を上げた。


 セドリックの言葉は、特別に大きな声で語られたわけではない。


 それでも、胸の奥へ静かに届いた。


 以前の人生では、誰かに相談する前に、自分で何とかしなければならないと思い込んでいた。


 助けを求めても、迷惑を掛けるだけだと考えていた。


 けれど、今は違う。


 祖父母も、叔父も、セドリックも、エレノアが何かを話そうとすると、耳を傾けてくれる。


 そのことを、忘れたくなかった。


     ◇ ◇ ◇


 午前の終わり頃、ロシュフォール家の執務室では、アルフォンスが書簡担当の使用人から報告を受けていた。


 机の上には、昨日封じたベルナール伯爵宛ての返書が置かれている。


 使用人は丁寧に一礼し、発送の手順について説明した。


「旦那様。ベルナール伯爵宛ての書簡につきましては、本日午後の便で発送する手配が整っております」


 アルフォンスは頷いた。


「分かった。宛先と封の状態は確認してあるね」


「はい。いずれも問題ございません。発送後、改めてご報告いたします」


「よろしく頼むよ」


 使用人が退出すると、アルフォンスは机の上の書簡へ目を向けた。


 エレノアとともに確認した返書だった。


 そこには、養子縁組の手続きがまだ完了していないこと、ロシュフォール家での滞在が続いていること、王宮とのやり取りについては必要な確認を踏まえて対応することが記されている。


 ベルナール伯爵がその内容をどう受け取るかは分からない。


 しかし、アルフォンスは、今の段階でこれ以上の情報を一方的に伝えるべきではないと考えていた。


 エレノア本人が拒否声明を提出したことは、王宮の記録に残っている。


 その事実を隠すために嘘をつくつもりはない。


 けれど、本人が望んでいない段階で、詳細を父へ知らせる必要もない。


 アルフォンスは書簡を手に取り、封の状態をもう一度確認した。


 やがて扉が叩かれ、セドリックが入室した。


「父上。エレノアと少し話してきました」


「そうか。彼女は落ち着いているかな」


 セドリックは頷いた。


「昨日よりは、少し落ち着いているように見えました。ただ、ベルナール伯爵からどのような返事が来るのかは、やはり気にしているようです」


 アルフォンスは静かに頷いた。


「それは当然だろうね。返書を送ることができても、相手の反応までは決められないから」


 セドリックは机の上の書簡へ目を向けた。


「発送の準備は整ったのですか」


「ああ。今日の午後の便で送る予定だよ。実際に発送されたら、エレノアにも知らせるつもりだ」


 セドリックは少し考えた。


「父上。ベルナール伯爵が、エレノア本人へ直接返事を求めてくる可能性もありますよね」


 アルフォンスは頷いた。


「あるだろうね。ただ、その場合でも、彼女がどのように対応するかを考える時間は必要だ。こちらが勝手に返事を決めるつもりはないよ」


 セドリックは安心したように息を吐いた。


「ありがとうございます。エレノアは、まだ父親に対して強い不安を抱いているようですから」


 アルフォンスは息子へ目を向けた。


「君も、彼女のことをよく見ているね」


 セドリックは少し照れたように微笑んだ。


「従妹ですから。それに、エレノアが少しずつ自分の考えを話してくれるようになったことが、嬉しいんです」


 アルフォンスは穏やかに頷いた。


 エレノアがロシュフォール家へ来たばかりの頃、彼女は何かを尋ねられるたびに、慎重に言葉を選んでいた。


 今もその傾向は残っている。


 けれど、最近は自分から質問をすることが増えた。


 気になることがあれば、黙って頷くのではなく、どうしてそうなるのかを確かめようとする。


 その変化を、アルフォンスも感じていた。


「彼女が自分の言葉を大切にできるよう、私たちも気をつけなければならないね」


 アルフォンスがそう言うと、セドリックは静かに頷いた。


     ◇ ◇ ◇


 同じ日の午後、王宮の儀典担当部署では、婚約に関する書類の確認が続いていた。


 担当職員たちは、ベルナール家から届いていた受諾返書と、エレノア本人の拒否声明を別々に記録している。


 その扱いについては、すでに上席の担当者から指示が出されていた。


 正式な婚約成立の記録は、まだない。


 しかし、家からの受諾返書が存在する以上、本人の拒否声明だけを確認して、すべての手続きを終わらせることもできなかった。


 上席の担当者は机の上に置かれた報告書を読み、向かい側に立つ職員へ尋ねた。


「ロシュフォール家からの事情説明書について、内容の整理は終わりましたか」


「はい。ベルナール家からの受諾返書と、本人の意思表示が一致していないことについて、提出された書類の範囲で確認しております」


 上席の担当者は頷いた。


「では、次に確認すべき事項を整理しましょう。ただし、本人の意思について、すでに提出された拒否声明を軽視するような扱いは避けてください」


「承知いたしました」


 職員は手元の記録へ目を落とした。


「ベルナール家へ確認を求める場合、どのような内容が適切でしょうか」


 上席の担当者はしばらく考えた。


 家の返書と本人の意思が異なる場合、何をどの順序で確認するべきか。


 その判断を誤れば、関係者へ不要な負担を与えることになる。


「まずは、ベルナール家の返書がどのような経緯で送られたのかについて、確認が必要かどうかを整理してください。ただし、今すぐ問い合わせを出すと決めるわけではありません」


 職員は頷いた。


「第二王子殿下の側へは、現状を報告いたしますか」


「ええ。正式な判断がまだ出ていないことと、必要な確認事項を整理している段階であることを伝えてください」


 上席の担当者はそう答えた。


 職員が退出すると、執務室には紙をめくる音だけが残った。


 エレノア本人の拒否声明が提出されたことで、婚約に関する手続きは確かに変化していた。


 しかし、その先にどのような判断が待っているのかは、まだ定まっていない。


     ◇ ◇ ◇


 午後の遅い時間、エレノアはマルグリットの部屋で刺繍を進めていた。


 窓から差し込む光は少しずつ傾き、卓の上に並べられた糸の色を柔らかく照らしている。青い花びらの輪郭は昨日よりも整い、細い糸を重ねた部分には、わずかな陰影が生まれていた。


 マルグリットは向かい側の椅子で、古い布の手入れをしている。


 エレノアは針を動かしながら、ふと顔を上げた。


「お祖母様。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろんよ。どうしたのかしら」


 エレノアは刺繍布へ目を落とした。


「母は、刺繍をするとき、色を決めるのに時間を掛ける方だったのでしょうか」


 マルグリットは少し考えた。


「そうね。アデラインは、気に入った色を見つけると、何度も布へ当てて確かめることがあったわ。ただ、いつも時間を掛けていたわけではないのよ」


 エレノアは顔を上げた。


「そうなのですか」


「ええ。最初から使いたい色が決まっているときは、迷わず縫い始めることもあったわ。けれど、途中で別の色が気になれば、試し縫いをして確かめていたと思う」


 マルグリットは懐かしそうに微笑んだ。


 エレノアは手元の試し布へ目を向けた。


 紫の糸は、まだ小さな部分にしか縫われていない。


 母の青い花の刺繍原本は、今も見つかっていない。


 だから、母が実際にどのような色を使っていたのかを、確かめることはできない。


 それでも、祖母の話を聞いていると、母が布の上へ糸を並べながら考えていた姿が、少しだけ想像できるような気がした。


「母も、試し縫いをしていたのですね」


「ええ。もちろん、今あなたが作っている花と同じものだったかどうかは分からないけれどね」


 マルグリットはそう付け加えた。


 エレノアは頷いた。


「はい。それでも、母がどのように刺繍をしていたのかを聞けて、嬉しいです」


 マルグリットは優しく微笑んだ。


「アデラインのことなら、思い出せる範囲でいくらでも話すわ。ただ、古いことだから、はっきり覚えていないこともあるの。それは許してちょうだいね」


 エレノアは首を横に振った。


「もちろんです。分からないことを、無理に思い出していただきたいわけではありません」


 そう答えながら、エレノアは針を置いた。


 母の遺品については、まだ多くのことが分かっていない。


 青い花の刺繍原本も、野薔薇の彫刻が施された木箱も、行方は明らかになっていなかった。


 幼少期の衣類に関する記録にも、まだ確認できていない部分が残っている。


 けれど、今は傷んだ資料を無理に開くべきではない。


 保存専門家への予備問い合わせについても、返答を待つ必要がある。


 焦って何かを確かめようとすれば、かえって大切なものを傷つけてしまうかもしれなかった。


(母のことを知りたい気持ちは、これからも変わらないと思う。でも、今すぐすべてを明らかにしなくてもよいのよね)


 エレノアは刺繍布を持ち上げ、青い花びらを眺めた。


 まだ完成していない花だった。


 けれど、その途中の姿も、今の自分には大切に思えた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方、アルフォンスの執務室へ書簡担当の使用人が報告に訪れた。


 ベルナール伯爵宛ての返書は、予定どおり午後の便で発送されたという。


 アルフォンスは報告を受け、発送の記録を確認した。


 封筒は、ロシュフォール家の正式な書簡として送り出されている。


 ただし、まだベルナール家へ到着したわけではない。


 アルフォンスはその違いを確認したうえで、使用人へ礼を述べた。


「ありがとう。到着について何か連絡があれば、改めて知らせてほしい」


「承知いたしました」


 使用人が退出すると、アルフォンスはしばらく机の上の記録を見つめた。


 返書は、もう屋敷を出た。


 その中には、エレノアと相談して選んだ言葉が記されている。


 ベルナール伯爵がどのような反応を示すかは分からないが、少なくとも、エレノア本人の希望を確認せずに情報を一方的に伝えることは避けられた。


 アルフォンスは記録を閉じ、エレノアへ知らせるために立ち上がった。


     ◇ ◇ ◇


 夕食前、エレノアは自室で刺繍道具を片づけていた。


 窓の外では日が沈みかけ、庭園の木々が濃い影を落としている。廊下には夕食の準備を進める使用人たちの足音が聞こえ、屋敷の中には温かな灯りがともり始めていた。


 そのとき、扉が叩かれた。


「エレノア、少しよいかな」


 アルフォンスの声だった。


 エレノアはすぐに立ち上がり、扉へ向かった。


「はい、叔父様。どうぞお入りください」


 アルフォンスは入室すると、穏やかな表情で告げた。


「ベルナール伯爵への返書が、今日の午後の便で発送されたよ。書簡担当から、正式に報告を受けた」


 エレノアは静かに頷いた。


「そうなのですね。教えてくださって、ありがとうございます」


「まだ到着したわけではないけれど、予定どおり屋敷を出たことは確認できた。君にも知らせておこうと思ってね」


 エレノアは胸の奥が少し強張るのを感じた。


 返書は、もう父のもとへ向かっている。


 昨日までは、封じられた書類として叔父の机の上にあった。


 けれど、今はもう自分の手の届かない場所へ進んでいる。


 そのことが、少し怖かった。


 アルフォンスは彼女の表情を見て、静かに続けた。


「エレノア。今すぐ何かを決める必要はないよ。ベルナール伯爵から返事が届いたら、その内容を確認してから考えよう」


 エレノアは顔を上げた。


「はい。叔父様、ありがとうございます」


 アルフォンスは穏やかに微笑んだ。


「君が昨日、自分の考えを伝えてくれたことは、返書を整えるうえで大切だった。だから、これからも気になることがあれば、遠慮なく話してほしい」


 エレノアは静かに頷いた。


 叔父が部屋を出たあと、彼女はしばらく扉の前に立っていた。


 父へ送る返書は、もう発送された。


 けれど、その先のことはまだ分からない。


 今は、父の返事を待つしかない部分もある。


 それでも、ただ何も知らずに待っているわけではなかった。


 自分が何を伝えたのかを知っている。


 どのような言葉が選ばれたのかも、確認している。


 そのことが、以前とは違う安心感を与えてくれていた。


     ◇ ◇ ◇


 夜、エレノアは机の上に置かれた手帳を開いた。


 今日の出来事を、一つずつ書き留めていく。


 父ロベルトへの返書が、午後の便で発送されたこと。


 まだ到着は確認されていないこと。


 返書には、ロシュフォール家での滞在状況と、養子縁組が法的に完了していないことが記されていること。


 婚約に関する情報共有については、必要な確認と関係者の意思を踏まえて対応するという文章になっていること。


 エレノアは最後まで書き終え、しばらく筆を止めた。


 父が何を考えているのかは、まだ分からない。


 王宮が婚約についてどのような判断を下すのかも、まだ分からない。


 第二王子レオナードが、自分の拒否声明をどのように受け止めているのかも知らない。


 けれど、分からないことがあるからといって、自分の意思まで曖昧にする必要はなかった。


(私は、第二王子殿下との婚約を望んでいない。その気持ちは変わらないわ。父がどのような返事をしてきても、まずは自分が何を望んでいるのかを忘れないようにしたい)


 エレノアは手帳の最後に、もう一文を書き加えた。


『父への返書は、今日、屋敷を出た。私は、その内容を確認し、自分の希望を伝えることができた。』


 その文字を見つめると、胸の奥に静かな決意が広がった。


 彼女は手帳を閉じ、机の上に置いた青い花の刺繍へ目を向けた。


 花びらには、今日も少しだけ青い糸が増えている。


 紫の糸を加えるかどうかは、まだ決めていない。


 けれど、それでよいと思えた。


 母のことも、王宮のことも、父との関係も、すべて一度に答えを出す必要はない。


 大切なのは、自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかを見失わないこと。


 そして、分からないことを恐れるあまり、自分の意思まで手放さないことだった。


 エレノアは窓の外へ目を向け、ゆっくりと息を吐いた。


 ベルナール家へ向かう返書は、今もどこかの道を進んでいるのだろう。


 その先で何が起こるのかは分からない。


 けれど、今日、自分が選んだ言葉だけは、確かに残った。


 エレノアは机の灯りを少し弱め、静かに夜を迎える準備を始めた。

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