第106話 父へ送る返書と、私が守りたい言葉の境界
王宮から新しい書簡が届いた翌朝、エレノアは窓辺に置かれた小さな卓の前で、昨夜書き留めた手帳の内容を読み返していた。
秋の朝日は薄い雲に遮られ、庭園の木々を柔らかな灰色に染めている。夜の間に風が強まったらしく、南側の石畳には落ち葉が散らばり、遠くでは庭師たちが濡れた葉を集める箒の音が聞こえていた。
手帳には、王宮から届いた書簡について、昨日確認した事実だけが記されている。
第二王子レオナード・ヴァレンティアの側へ、エレノア本人による婚約拒否声明が提出されたことについて報告が行われた。ただし、レオナード本人が拒否声明の全文を読んだかどうかは分からず、婚約についての正式な判断も、まだ下されていない。
エレノアは最後の一文へ目を落としたまま、指先で手帳の端を押さえた。
(王宮へ届いたことは、確かになった。第二王子殿下の側にも報告された。それでも、私が知っているのはそこまでなのよね)
昨日、叔父アルフォンスから説明を受けたときには、レオナードの名前を聞いただけで身体が強張ってしまった。
以前の人生で、自分の言葉が届かなかった相手だった。何を言っても信じてもらえず、最後には処刑という結末へ追い込まれた記憶が、十五歳に戻った今も鮮明に残っている。
けれど、今のレオナードが何を考えているのか、エレノアは知らない。
王宮の書簡には、彼が怒っているとも、婚約を進めたいと望んでいるとも書かれていなかった。自分の拒否声明が彼の側へ報告されたという事実だけで、以前と同じ結末が始まったと決めつけることはできない。
そう理解していても、恐怖が簡単に消えるわけではなかった。
エレノアは手帳を閉じ、机の上に置いた青い花の刺繍へ目を向けた。
母アデラインが残した図案を手掛かりに、自分の手で縫い進めている花だった。まだ花びらの一部しか完成しておらず、紫の糸を加えるかどうかも決めていないが、青い糸の重なりには少しずつ奥行きが生まれている。
昨日、祖母マルグリットは、完成を急ぐ必要はないと言ってくれた。
自分の好きな色を選び、納得できる形に仕上げればよいのだと。
(婚約のことも、こんなふうに選べたらよかったのかもしれないわ。誰かに急かされるのではなく、自分が何を望んでいるのかを考えてから)
エレノアは刺繍布へ伸ばしかけた手を止め、静かに息を吐いた。
今はもう、父の返書が送られる前へ戻ることはできない。
けれど、これからどのように対応するかについては、まだ選べることがある。
昨日、アルフォンスと話した父ロベルトへの返答も、その一つだった。
父は養子縁組の進行状況と、婚約に関する情報の共有を求めている。しかし、エレノアは拒否声明の全文を、今すぐ父へ知らせたいとは思っていなかった。
その希望を叔父へ伝えたことに、後悔はない。
ただ、父が何も知らないままでいられるとは限らないことも、理解していた。
王宮が今後ベルナール家へ確認を求める可能性はある。自分の意思表示が王宮の記録に残った以上、父がその存在を知る日が来ても不思議ではない。
それでも、だからといって、自分から急いですべてを明かす必要はないはずだった。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、リディア。入ってちょうだい」
入室したリディアは、いつものように朝の挨拶をすると、窓辺の手帳と刺繍へ目を向けた。
「今朝は少しお早いお目覚めでございますね。昨夜は、よくお休みになれましたか」
エレノアは少し考えてから頷いた。
「途中で一度目が覚めたけれど、昨日よりは眠れたと思うわ。王宮からの知らせについて、まだ考えてしまうことはあるけれど」
リディアは衣装を用意しながら、静かに耳を傾けていた。
今日のドレスは、淡い青灰色の布に細い白糸の飾りが施されたものだった。秋の冷え込みに備えて袖は少し長く、襟元には柔らかな布が重ねられている。
「エレノア様。もし今日もご不安が続くようでしたら、午前中はお部屋でお過ごしになってもよろしいかと存じます」
「ありがとう。でも、今日は少し動いていたいの。何もしていないと、まだ起こっていないことまで考えてしまいそうだから」
エレノアがそう答えると、リディアは鏡越しに微笑んだ。
「それでしたら、朝食のあとに南側の庭園を少し歩かれてはいかがでしょうか。東側はまだ閉鎖されておりますが、南側の通路は今朝も使用できると伺っております」
「そうね。雨が降らなければ、少し歩きたいわ」
リディアは頷き、髪を整えるための櫛を手に取った。
鏡の中に映る自分の顔を見ながら、エレノアはふと思った。
以前の人生では、王宮から届く知らせ一つで、その日の気持ちがすべて決まっていたように思う。
今も不安はある。
けれど、庭を歩くことも、刺繍を進めることも、家族と食事をすることも、自分で選んでよい。
そんな当たり前のことを、ようやく少しずつ取り戻しているのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の補修について新しい報告を受けていた。
東側通路の石畳が持ち上がっている場所では、昨日の雨のあとも水が残りやすくなっていたという。庭師ギュスターヴ・メルシエは、石の傾きだけでなく、下の土や排水の状態を確認する必要があると考えていた。
ただし、調査に必要な道具と人手の手配はまだ終わっていない。
「通路を閉じたままにしているのなら、急いで石を動かす必要はない。まずは調査の手順を整えなさい」
オーギュストがそう言うと、アルフォンスは頷いた。
「ギュスターヴにも同じように伝えてあります。作業日については、必要な準備が整ってから改めて報告する予定です」
エレノアは二人の会話を聞きながら、以前、東側の石畳を歩いたときのことを思い出した。
足元の小さな異変は、見過ごしてしまえば何事もなかったように見える。
けれど、そのままにしておけば、誰かが転んでしまうかもしれない。
だから、原因が分かるまで通路を閉じておく。
その慎重さは、今の自分が向き合っている問題にも、どこか似ているように感じられた。
やがて食事が進むと、マルグリットがエレノアへ声を掛けた。
「今日は、午後に刺繍の続きをするつもりかしら」
「はい、お祖母様。昨日よりも少し花びらを進めたいと思っています」
「それなら、明るいうちにいらっしゃい。昨日見比べた糸も、そのまま取ってあるわ」
エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます。まだ紫の糸を加えるかどうか迷っているのですが、青い部分をもう少し縫ってから考えようと思います」
「それがよいでしょうね。完成を急いで色を決めるより、今の花をよく見てから選んだ方が、きっと納得できるわ」
祖母の言葉に頷いたところで、アルフォンスが静かに口を開いた。
「エレノア。今日、少し時間をもらえるかな。ベルナール伯爵への返書について、草案を整えたいと思っているんだ」
エレノアは顔を上げた。
昨日話した内容が、実際の返書へ反映されるのだろう。
「はい、叔父様。私も、どのようなお返事になるのか確認したいと思っていました」
「それなら、午前中に一度話そう。君に関係する部分については、送る前に確かめてもらいたい」
アルフォンスはそう答え、少しだけ表情を和らげた。
セドリックも二人の会話を聞いていたが、すぐには口を挟まなかった。
従妹が自分の考えを伝える機会を持てるよう、必要以上に代わりに答えないようにしているのだと、エレノアは感じていた。
朝食を終える頃には、窓の外の雲が少し薄くなっていた。
エレノアは席を立つ前に、もう一度アルフォンスへ目を向けた。
「叔父様。お返事を確認するとき、父から届いた書簡も、もう一度見せていただけますか」
アルフォンスは頷いた。
「もちろんだよ。返答する内容を決めるなら、相手が何を尋ねてきたのか、正確に確認した方がよいからね」
エレノアは静かに礼を述べた。
父から届いた言葉を、必要以上に恐れるのではなく、実際に何が書かれているのかを確かめる。
そのうえで、自分がどこまで答えたいのかを考える。
今日は、そのための時間にしたかった。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、エレノアはリディアとともに南側の庭園を歩いた。
通路の石畳は朝のうちに清掃されており、濡れた落ち葉は脇へ寄せられている。花壇には秋の終わりまで咲く花が残り、風が吹くたびに細い茎が揺れていた。
東側へ続く道の手前には、通行を控えるよう示すものが置かれている。
エレノアはその方向へ一度だけ目を向けたが、足を向けることはしなかった。
庭師たちが調査の準備を進めていることは知っている。
自分が無理に近づく理由はなかった。
「今日は、思ったより風が冷たいわね」
エレノアが肩掛けを押さえながら言うと、リディアは少し後ろから頷いた。
「はい。日差しはございますが、朝晩はずいぶん冷えるようになりました。長くお歩きになるようでしたら、途中でお戻りになった方がよろしいかと存じます」
「そうね。あの花壇のところまで行ったら、戻りましょう」
二人は歩調を合わせ、南側の花壇へ向かった。
途中、庭仕事をしていた使用人が道を譲り、丁寧に一礼した。エレノアが挨拶を返すと、使用人は穏やかな表情で作業へ戻っていった。
その何気ないやり取りの中で、エレノアはふと、ベルナール家にいた頃のことを思い出した。
屋敷の廊下を歩くとき、誰かの顔色を確かめることが多かった。
父の機嫌が悪くないか。
継母ヴァレリアが何かを求めていないか。
異母妹ミレーヌが、自分の持ち物について不満を抱いていないか。
そんなことを気にするうちに、いつの間にか自分の足音まで小さくしていたように思う。
ロシュフォール家へ来てからは、そうした緊張が少しずつ薄れていた。
もちろん、今でも人の顔色を気にしてしまうことはある。
けれど、祖父母や叔父、セドリックは、エレノアが何かを尋ねても、まず話を聞こうとしてくれる。
その違いは、彼女にとって大きかった。
(父への返書も、私が何も言わなければ、叔父様が適切に考えてくださったと思う。でも、今回は自分の希望を伝えられた。それが嬉しいのかもしれないわ)
エレノアは花壇の前で足を止めた。
小さな白い花が、風に揺れている。
母が好きだった青い花とは違うが、その控えめな姿が目に留まった。
「リディア。あの花は、いつ頃まで咲いているのかしら」
リディアは花壇へ目を向けた。
「詳しいことは庭師に確認しなければ分かりませんが、まだしばらくは楽しめると伺っております」
「そう。寒くなっても、こんなふうに咲いている花があるのね」
エレノアは小さく微笑んだ。
風は冷たい。
けれど、花壇の前に立っていると、少しだけ気持ちが軽くなった。
彼女はその景色をしばらく眺めてから、リディアとともに屋敷へ戻った。
◇ ◇ ◇
午前の終わり頃、エレノアはアルフォンスの執務室を訪れた。
扉の向こうから入室を許す声が聞こえ、彼女が中へ入ると、机の上には二通の書類が並べられていた。
一つは父ロベルトから届いた書簡。
もう一つは、アルフォンスが用意した返書の草案だった。
セドリックも室内にいたが、今日は机の向かい側ではなく、少し離れた椅子に座っていた。
「エレノア、来てくれてありがとう。まずは、ベルナール伯爵から届いた書簡を読み直してもらいたい」
アルフォンスはそう言い、原文を差し出した。
エレノアは受け取り、最初から丁寧に目を通した。
父は、ロシュフォール家での滞在がどのような状況にあるのかを尋ねていた。
養子縁組の手続きがどこまで進んでいるのかについても、確認を求めている。
さらに、王宮との婚約に関するやり取りがある場合には、ベルナール家へ情報を共有するよう求める文章があった。
エレノアはその部分を読み、しばらく視線を止めた。
以前読んだときにも感じたことだった。
父は、自分が何を望んでいるのかを尋ねていない。
ロシュフォール家で困っていないか、体調はどうかという気遣いに見える文章はあるものの、婚約について本人がどう考えているのかという問いはなかった。
エレノアは書簡を机へ置いた。
「叔父様。読み終わりました」
アルフォンスは頷き、もう一通の書類を差し出した。
「こちらが返書の草案だよ。まだ署名もしていないし、送ると決めたわけでもない。気になるところがあれば、遠慮なく言ってほしい」
エレノアは草案を受け取り、慎重に読み始めた。
冒頭には、父からの書簡を受け取ったことへの礼が記されている。
続いて、エレノアがロシュフォール家で滞在を続けていること、日常生活に大きな支障はないことが簡潔に書かれていた。
養子縁組については、必要な書類への署名は済んでいるものの、法的な手続きはまだ完了していないと明記されている。
エレノアはその部分を読み、静かに頷いた。
今も自分の姓はベルナールだ。
ロシュフォール家の養女になったわけではない。
その違いを曖昧にしないことは、大切だと思った。
しかし、婚約に関する項目へ進んだところで、エレノアの指先が止まった。
草案には、王宮とのやり取りについて、本人の意思に関わる事項が含まれるため、ロシュフォール家だけの判断で内容を一括して共有することは控える、と記されていた。
その文章は、エレノアの希望を尊重しようとするものだった。
けれど、読み返すうちに、少し気になることがあった。
「叔父様。この部分について、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
エレノアは文章を指し示した。
「ここには、私の意思に関わる事項があると書かれています。父がこれを読んだら、私が何かを王宮へ伝えたのではないかと考えるかもしれません」
アルフォンスは草案へ目を向け、少し考えた。
「確かに、その可能性はあるね」
「私は、父に何も知られないようにしたいわけではありません。でも、まだ私から伝えると決めていないことを、この文章から推測されるのは少し怖いのです」
エレノアはそう言い、膝の上で指を組んだ。
言葉にしてみると、自分が何を気にしていたのかが少しはっきりした。
父へ拒否声明の全文を知らせたくない。
けれど、それだけではなかった。
父が断片的な情報から何かを推測し、その推測を事実として扱うことも怖かったのだ。
アルフォンスはしばらく考え、草案を手元へ引き寄せた。
「なるほど。君の言うとおり、この書き方では、必要以上の意味を読み取られる可能性がある。私としては、本人の意思を尊重する姿勢を示したかったのだけれど、それがかえって余計な推測を招くかもしれないね」
セドリックも草案へ目を向けた。
「父上。婚約に関する情報については、必要な確認を経たうえで適切に対応するとだけ書く方法もあると思います。ただ、それでは曖昧すぎるでしょうか」
アルフォンスはすぐには答えなかった。
机の上に置かれた父の書簡を見つめ、相手が何を求めているのかを改めて確かめているようだった。
「ベルナール伯爵は、王宮とのやり取りを共有するよう求めている。しかし、すべての書類を無条件に送ると約束する必要はない。だから、共有の可否と範囲については、書類の性質と関係者の意思を踏まえて判断する、とするのがよいかもしれない」
エレノアは少し考えた。
その文章なら、拒否声明の存在を直接示すことにはならない。
ただし、父がどのように受け取るかまでは分からない。
「叔父様。そのような書き方であれば、私はよいと思います」
アルフォンスは頷いた。
「分かった。では、その方向で整えよう。ただし、ここで一つ確認しておきたい。私は、ベルナール伯爵へ事実と異なることを書くつもりはない。君の意思表示について尋ねられたときに、存在しないと答えることはできないからね」
エレノアは顔を上げた。
叔父の声は穏やかだったが、その言葉には明確な線引きがあった。
彼女は少し考えてから頷いた。
「はい。私も、嘘をついてほしいとは思っておりません。ただ、今は必要以上に詳しく伝えないでいただきたいのです」
「それなら、私たちの考えは同じだね」
アルフォンスは微笑んだ。
エレノアは胸の奥にあった緊張が、少し和らぐのを感じた。
自分の希望を伝えることと、相手に無理な約束をさせることは違う。
その違いを、今は以前よりも理解できるようになっていた。
◇ ◇ ◇
アルフォンスが草案の修正を始めると、エレノアは少し離れた椅子へ移った。
窓から差し込む光が机の端を照らし、紙の上を走る筆先の影が小さく揺れている。廊下の向こうでは使用人たちが昼食の準備を進めているらしく、遠くから食器の触れ合う音が聞こえていた。
セドリックはエレノアの向かい側へ座り、少し声を落として話しかけた。
「エレノア。さっきのことだけれど、よく気づいたね」
エレノアは少し驚いた。
「私が、ですか」
「うん。父上の草案は、君の意思を守ろうとする内容だったと思う。でも、君はそれを読んで、別の受け取られ方があるかもしれないと考えた。実際に父親からの返事を受け取る立場だからこそ、気づけたことだと思うよ」
エレノアは膝の上へ視線を落とした。
「私は、ただ怖かっただけなのかもしれません。父が何を考えるのか、どうしても気になってしまって」
セドリックはすぐに否定しなかった。
窓辺で揺れる木の影へ一度目を向け、それから穏やかに答えた。
「怖いからこそ、慎重に考えられることもあると思う。もちろん、怖さだけで判断すると苦しくなることもあるだろうけれど、君は今、何が心配なのかを言葉にしてくれた。それは大切なことだよ」
エレノアは従兄の顔を見つめた。
セドリックは、以前の人生のことを知らない。
彼女が処刑された記憶を持っていることも、第二王子の名前を聞くだけで身体が強張る理由も知らない。
それでも、今の自分の言葉を聞き、理解しようとしてくれる。
そのことが嬉しかった。
「お兄様。私、以前は何かを尋ねられると、相手が望んでいる答えを考えてしまうことが多かったのです」
エレノアはゆっくりと話し始めた。
「自分がどう思うかより、何を答えれば叱られずに済むのかを先に考えていました。だから、叔父様の草案を読んだときも、最初は何も言わずに頷こうかと思ったのです」
セドリックは黙って聞いていた。
エレノアは指先を組み直し、少しだけ声を落とした。
「でも、気になることがあるのに黙っていたら、あとから後悔するかもしれないと思いました。だから、思い切ってお尋ねしたのです」
セドリックの表情が柔らかくなった。
「それでよかったと思うよ。父上だって、君が何を心配しているのか分からなければ、考えようがないからね」
エレノアは小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
そのとき、机の向こうからアルフォンスの声がした。
「二人とも、少しよいかな。修正した文章を読んでもらいたい」
エレノアとセドリックは席を立ち、机のそばへ戻った。
アルフォンスは修正した箇所を示し、ゆっくりと読み上げた。
王宮との婚約に関する情報については、書類の性質、手続き上の必要性、関係者の意思を踏まえ、適切な範囲で対応する。
そこには、エレノアが拒否声明を提出したことを直接示す言葉はなかった。
同時に、すべての情報を無条件に共有すると約束する文章にもなっていない。
エレノアは最後まで聞き、静かに頷いた。
「叔父様。私は、この文章でよいと思います」
「ありがとう。ただし、これでベルナール伯爵がどのように受け取るかまでは分からない。必要なら、改めて問い合わせが来る可能性もある」
「はい。そのときには、また考えたいと思います」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
エレノアは机の上の二通の書類を見つめた。
父から届いた書簡。
そして、これから父へ送る返書。
その間に、自分の考えが確かに反映されている。
それは、ほんの数行の違いだった。
けれど、エレノアにとっては、大きな意味を持つことだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王宮の儀典担当部署では、ベルナール家との婚約に関する記録について、追加の整理が進められていた。
担当職員たちは、先に届いていたベルナール家の受諾返書と、ロシュフォール家から提出されたエレノア本人の拒否声明を、別々の記録として保管している。
正式な婚約成立の記録は、まだ存在しない。
そのため、今後の手続きについて判断する前に、何を確認すべきかを整理する必要があった。
上席の担当者は、机の上に置かれた報告書を読みながら、向かい側に立つ職員へ尋ねた。
「第二王子殿下の側から、何か追加の連絡はありましたか」
「はい。殿下側からは、本人の拒否意思を軽視して手続きを進めるべきではないこと、必要な確認は儀典担当部署を通じて行いたいことが伝えられております」
上席の担当者は頷いた。
「それなら、少なくとも殿下側が直ちに婚約を進めるよう求めているわけではないのですね」
「そのような要請は届いておりません」
職員は手元の記録へ目を落とした。
「ただ、ベルナール家の返書と本人の意思表示が異なっている以上、今後どのような確認を行うべきかについては、まだ整理が必要でございます」
上席の担当者はしばらく考えた。
王族との婚約に関する書類である以上、手続きを曖昧にしたまま放置することはできない。
しかし、本人が明確に拒否の意思を示している状況で、家の返書だけを根拠に話を進めることも適切ではなかった。
「まずは、提出された書類の内容を正確に整理しましょう。本人の拒否声明は本人の意思表示として、ロシュフォール家の事情説明書は家として把握している事情として、それぞれ区別して扱ってください」
「承知いたしました」
「それから、ベルナール家へ確認を求めるかどうかについては、まだ決めないでください。どの情報を、どの順序で確認するべきかを整理してから判断します」
職員は頷いた。
その指示は、手続きを遅らせるためのものではなかった。
むしろ、確認の順序を誤ることで、関係者へ不要な負担を与えないためのものだった。
上席の担当者は報告書を閉じ、別の書類へ手を伸ばした。
「第二王子殿下の側へは、現時点で正式な判断が出ていないことを伝えてください。追加の確認が必要になった場合には、所定の経路で連絡すると」
「かしこまりました」
職員が退出すると、執務室には紙をめくる音だけが残った。
エレノア本人の拒否声明が提出されたことで、婚約に関する手続きは新しい段階へ入っていた。
けれど、その結論がどのようなものになるのかは、まだ誰にも分からなかった。
◇ ◇ ◇
王宮の別の執務室では、レオナード・ヴァレンティアが午後の予定を確認していた。
机の上には式典に関する書類が並び、窓の外からは庭園を整える作業の音がかすかに聞こえてくる。秋の陽光は穏やかだったが、室内には少し冷たい空気が流れ込んでいた。
側近が儀典担当部署からの連絡を伝えると、レオナードは手元の書類を置いた。
「まだ、正式な判断は出ていないということか」
「はい。本人の拒否声明とベルナール家の返書について、確認すべき事項を整理している段階とのことでございます」
レオナードは頷いた。
昨日、彼はエレノア本人の意思表示について報告を受けた。
家からの返書と本人の意思が異なっていることを知り、必要な確認を求めた。
しかし、そのことによって、すぐに結論が出るとは考えていなかった。
「ベルナール家へは、もう問い合わせたのか」
「現時点では、まだそのような連絡は行われていないとのことでございます。確認の順序について、儀典担当部署で検討しているようです」
レオナードは少し考えた。
「それなら、今はその判断を待とう。俺が急かしても、確認すべきことが減るわけではない」
側近は一礼した。
レオナードは窓の外へ目を向けた。
エレノア・ベルナール。
十五歳の少女。
まだ会ったことのない相手が、自分との婚約を望まないと書面で伝えてきた。
その事実を知ったとき、彼は戸惑った。
自分が何かをしたわけではないのに、なぜそこまで明確に拒まれるのか。
そんな疑問が浮かんだことも確かだった。
けれど、考えているうちに、別のことが気になり始めていた。
(俺が理由を知りたいと思うことと、彼女がその理由を説明しなければならないことは、同じではないのだろうな)
レオナードは机の上の報告書へ視線を戻した。
王族である自分に対して、婚約を望まないと伝えることは、簡単なことではなかったはずだ。
少なくとも、彼女は曖昧な返事をしていない。
自分の名前で、明確に意思を示している。
そのことは、受け止めるべきだろう。
側近が静かに口を開いた。
「殿下。今後、ロシュフォール家を通じて追加の確認が行われる可能性もございます」
「そうだろうな。ただし、彼女に直接会うことを前提にする必要はない。本人が婚約を望んでいないのなら、まずはその意思を尊重した形で手続きを進めるべきだ」
レオナードはそう答えた。
側近は頷き、必要な内容を記録した。
レオナードはしばらく黙っていたが、やがて別の書類へ手を伸ばした。
今、自分にできることは限られている。
だからといって、相手の意思を無視してよい理由にはならない。
そのことだけは、忘れないようにしたかった。
◇ ◇ ◇
午後、ロシュフォール家の執務室では、アルフォンスが父ロベルトへの返書を清書していた。
エレノアとの話し合いを踏まえ、養子縁組の進行状況については事実だけを記し、婚約に関する情報共有については、必要な確認と関係者の意思を踏まえて対応するという文章に整えている。
エレノアの拒否声明について、全文や具体的な内容を知らせる記載はない。
同時に、王宮とのやり取りが一切存在しないと誤解させるような、事実と異なる説明も避けていた。
アルフォンスは最後まで清書を終えると、文章を読み返した。
そのあと、セドリックへ声を掛けた。
「セドリック。少し確認してもらえるかな」
セドリックは机のそばへ近づき、返書へ目を通した。
父が何度も書き直した文章には、エレノアの希望が反映されている。
ただし、ベルナール伯爵がどのように受け取るかまでは分からない。
セドリックは最後まで読み終え、静かに頷いた。
「父上。内容は、午前中にエレノアと確認したものから変わっていないと思います」
「ありがとう。私もそのつもりで整えたが、見落としがないか確かめたかったんだ」
アルフォンスは返書を机へ戻した。
「これを送れば、ベルナール伯爵から改めて問い合わせが来るかもしれない。けれど、今の段階で伝えるべきことは、この範囲だと思っている」
セドリックは少し考えた。
「エレノアにも、清書したものを見せますか」
「そうするつもりだよ。草案を確認してもらったからといって、清書後の内容を知らせなくてよいということにはならないからね」
セドリックは頷いた。
父は、エレノアの意思を尊重することを、単なる言葉だけで終わらせようとしていない。
実際の書類を作る段階でも、彼女が何を望んでいるのかを確認しようとしている。
その姿勢を見て、セドリックは少し安心した。
エレノアはまだ、父ロベルトに対して強い不安を抱いている。
その理由をすべて知っているわけではないが、彼女が何かを伝えるたびに慎重になることは、これまでの様子から分かっていた。
だからこそ、今は急がせたくなかった。
「父上。僕からエレノアへ声を掛けてきましょうか」
「頼めるかな。もし休んでいるようなら、無理に呼ばなくてもよいよ」
「分かりました」
セドリックは一礼し、執務室を出た。
◇ ◇ ◇
エレノアはその頃、マルグリットの部屋で刺繍を進めていた。
窓辺の小卓には青い糸が数種類並び、試し縫いの布には紫の糸が小さく置かれている。まだ本布へ紫を加えるつもりはなく、今は青い花びらの輪郭を整えることに集中していた。
マルグリットは向かい側の椅子で、古い布の手入れをしていた。
部屋には穏やかな時間が流れている。
「エレノア。今日は、針の運びが少し落ち着いているわね」
祖母がそう言うと、エレノアは顔を上げた。
「そうでしょうか」
「ええ。昨日は何度か手が止まっていたけれど、今日は一つの花びらを最後まで縫えているでしょう」
エレノアは刺繍へ目を落とした。
確かに、今日は途中で何度も糸を置くことが少なかった。
午前中に父への返書について話し合い、自分の希望を伝えられたことが、気持ちを落ち着かせてくれたのかもしれない。
「今日は、叔父様と父への返書についてお話ししたのです」
エレノアがそう言うと、マルグリットは手を止めた。
「そうだったのね。どうだったかしら」
「叔父様が草案を見せてくださって、気になるところをお伝えしました。父が余計なことを推測してしまうかもしれない文章があったので、少し書き方を変えていただいたのです」
マルグリットは静かに頷いた。
「あなたが自分で気づいて、伝えたのね」
「はい。最初は迷いました。でも、黙っているより、きちんとお話しした方がよいと思ったのです」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
マルグリットはその表情を見つめ、穏やかに言った。
「それは、よいことだと思うわ。アルフォンスも、あなたが何を心配しているのか分かれば、より慎重に考えられるでしょう」
エレノアは頷いた。
「はい。叔父様も、私の希望を聞いてくださいました」
祖母はしばらく黙っていた。
その沈黙は、エレノアに何かを問い詰めるためのものではなかった。
むしろ、孫娘が自分の言葉で話し終えるのを待っているようだった。
エレノアは少し考えてから続けた。
「お祖母様。私、父に何も知られないようにしたいわけではないのです。ただ、私がまだ伝えると決めていないことを、勝手に知られてしまうのが怖いのだと思います」
マルグリットは静かに頷いた。
「そうね。何を伝えるかだけでなく、いつ、どのように伝えるかも大切なことだもの」
「はい。もちろん、すべてを私の思いどおりにできるとは思っていません。でも、せめて自分に関わることなら、何が起きているのかを知っていたいのです」
マルグリットは手元の布を置き、エレノアへ微笑みかけた。
「それは、わがままではないわ。あなたの人生に関わることなのだから、知りたいと思うのは自然なことよ」
エレノアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
祖母は、何か特別な約束をしたわけではない。
けれど、自分の気持ちを否定せず、当たり前のこととして受け止めてくれた。
そのことが、何より嬉しかった。
やがて扉が叩かれ、セドリックが訪ねてきた。
「お祖母様、エレノア。少しよろしいでしょうか」
マルグリットが入室を許すと、セドリックは二人へ挨拶し、エレノアへ顔を向けた。
「父上が、ベルナール伯爵への返書を清書したんだ。送る前に、君にも確認してほしいそうだよ」
エレノアは刺繍を膝の上へ置いた。
「分かりました。今から伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん。ただ、急いでいるわけではないから、糸を片づけてからで大丈夫だよ」
エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様」
彼女は針を布へ残さないよう丁寧に外し、糸とともに小箱へ収めた。
マルグリットはその様子を見ながら、穏やかに声を掛けた。
「エレノア。お話が終わったら、今日はもう無理に刺繍を進めなくてもよいのよ」
「はい、お祖母様。でも、できればあと少しだけ縫いたいと思っています」
エレノアがそう答えると、祖母は優しく微笑んだ。
「それなら、戻ってきたら続きをしましょう」
◇ ◇ ◇
アルフォンスの執務室へ戻ったエレノアは、清書された返書を最初から読み直した。
文章は午前中に確認した内容から大きく変わっていない。
ロシュフォール家での滞在については、現在も落ち着いて生活していることが記されている。
養子縁組については、署名済みの書類があるものの、法的な手続きはまだ完了していないと明確に書かれていた。
婚約に関する情報共有については、書類の性質や手続き上の必要性、関係者の意思を踏まえて適切に対応するという表現になっている。
エレノアはその部分を読み、少しだけ息を吐いた。
拒否声明の存在を直接示す言葉はない。
同時に、父の求めに対して無条件に応じるという約束もない。
彼女は最後まで読み終え、アルフォンスへ顔を向けた。
「叔父様。私は、この内容でよいと思います」
アルフォンスは頷いた。
「ありがとう。では、これを正式な返書として送ることにしよう」
エレノアは少し考えた。
父へ返事が届けば、何か新しい動きが起こるかもしれない。
父が納得するのか、さらに詳しい説明を求めるのかは分からない。
それでも、今の自分が伝えたい範囲については、確かに確認できた。
「叔父様。もし父からまた書簡が届いたら、そのときも内容を見せていただけますか」
「もちろんだよ。君に関係することなら、できるだけ正確に伝えるつもりだ」
アルフォンスはそう答え、返書の末尾へ署名を記した。
エレノアはその様子を静かに見守った。
叔父が署名を終えると、書類は丁寧に折り畳まれ、封筒へ収められた。
封蝋を施す前に、アルフォンスはもう一度宛先を確認した。
ロベルト・ベルナール。
その名前を見た瞬間、エレノアの胸が少しだけ強張った。
けれど、以前のように視線を逸らすことはしなかった。
自分が確認した言葉が、父へ向かう。
その事実を、きちんと見届けたいと思った。
アルフォンスは封蝋を施し、封筒を机の上へ置いた。
「これで準備は整った。あとは屋敷の書簡担当へ渡し、通常の手順で発送してもらう」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます、叔父様」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、君の考えを聞かせてくれてありがとう。今日の返書は、私だけでは同じ文章にならなかったかもしれないね」
エレノアは少し驚いた。
「私の考えが、そんなに影響したのでしょうか」
「もちろんだよ。君が何を心配しているのかを伝えてくれたからこそ、書き方を見直せたんだ」
アルフォンスはそう答えた。
エレノアは胸の奥に、静かな喜びが広がるのを感じた。
自分の言葉が、誰かの判断へ反映された。
それは、以前の人生ではほとんど経験できなかったことだった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室へ戻り、机の上に置かれた手帳を開いた。
窓の外では日が傾き、庭園の木々が長い影を落としている。遠くからは使用人たちが夕食の準備を進める音が聞こえ、廊下には温かな灯りがともり始めていた。
今日も、書き留めておきたいことがあった。
父ロベルトへの返書について、自分の希望を伝えたこと。
叔父アルフォンスが草案を修正し、その内容を確認したこと。
養子縁組はまだ法的に完了していないと、改めて明記されたこと。
そして、拒否声明の全文を今すぐ父へ知らせることは望んでいないという自分の考えが、返書の内容にも反映されたこと。
エレノアは一つずつ、丁寧に書き記した。
書き終えたあと、しばらく筆を止めた。
王宮では、第二王子側へ拒否声明の提出について報告が行われている。
その事実は変わらない。
レオナード本人が何を考えているのかも、まだ分からない。
けれど、今日、自分ができることはあった。
父への返書について、どのような言葉を選ぶのかを考え、自分の希望を伝えること。
それは、王宮の判断を待つこととは別の、自分自身の行動だった。
(私は、何もできずに待っているだけではないのね。すべてを決められるわけではないけれど、自分に関わることについて、少しずつ言葉を選べるようになっている)
エレノアは手帳の最後に、短い文章を書き加えた。
『私は、父へ何を伝えるかについて、自分の希望を話した。叔父様はその言葉を聞き、返書を整えてくださった。』
続けて、もう一文を書いた。
『誰かが私の代わりにすべてを決めるのではなく、私も考え、選びたい。』
その文字を見つめると、胸の奥に静かな決意が広がった。
エレノアは手帳を閉じ、青い花の刺繍へ目を向けた。
まだ完成していない花びらには、今日も青い糸が少しだけ増えている。
紫の糸を加えるかどうかは、まだ決めていない。
けれど、今はそれでよいと思えた。
母が残したものを探すことも、王宮からの知らせを待つことも、父との関係を考えることも、すべて一度に答えを出す必要はない。
大切なのは、自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかを見失わないこと。
そして、分からないことを恐れるあまり、自分の意思まで手放さないことだった。
エレノアは窓の外へ目を向け、ゆっくりと息を吐いた。
王宮では、婚約に関する確認が続いている。
ベルナール家へは、ロシュフォール家からの返書がこれから届けられる。
その先に、どのような反応が待っているのかは分からない。
けれど、今日、自分が選んだ言葉だけは、確かに残った。
エレノアは机の灯りを少し弱め、静かに夜を迎える準備を始めた。




