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『私を処刑した第二王子との婚約はお断りします 〜時を遡った伯爵令嬢、公爵家の養女になって人生をやり直します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第105話 第二王子から届いた確認と、私が選ばなかった返事



 王宮から拒否声明の受領確認が届いた翌朝、エレノアはいつもより少し遅く目を覚ました。


 窓の外には薄い雲が広がり、秋の柔らかな光が庭園の木々を照らしている。昨夜のうちに風が強まったらしく、南側の小道には黄色く色づいた葉がいくつも落ちていた。


 寝台から身を起こしたエレノアは、枕元の時計へ目を向け、それから小さく息を吐いた。


 昨日、自分の拒否声明が王宮へ届いたことを知った。


 長い時間をかけて準備してきた書類が、ようやく儀典担当部署に受領されたのだ。


 その事実を思い返すと、今でも胸の奥が少し熱くなる。


 けれど、昨夜は何度も目が覚めた。


 王宮で誰が書類を読んだのか。


 第二王子レオナード・ヴァレンティアの耳に、自分の意思が届いているのか。


 そして、これから何が起こるのか。


 考えても分からないことばかりが、夜の静けさの中で浮かんでは消えていった。


(受領されたことと、婚約について判断が下されることは違う。分かっているのに、どうしても先のことを考えてしまうのね)


 エレノアは胸元へ手を添えた。


 以前の人生では、王宮から届く知らせを喜ばしいものだと信じようとしていた時期があった。


 王族との婚約は名誉なこと。


 家のためになること。


 自分は恵まれているのだから、感謝しなければならないこと。


 周囲から繰り返された言葉を、疑ってはいけないと思っていた。


 けれど、どれほど努力しても、最後に待っていたのは処刑だった。


 その記憶は、十五歳に戻った今も消えない。


 エレノアは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。


(あの人は、今の私を知らない。私も、今のあの人が何を考えているのかは知らない。だからこそ、以前と同じことが起こると決めつけてはいけないのかもしれない)


 そう考えることは、簡単ではなかった。


 レオナードの名前を聞くだけで、あの日の冷たい空気や、逃げ場のなかった恐怖が蘇る。


 それでも、今の人生でまだ起こっていない出来事を、すべて確定した未来として扱うわけにはいかない。


 自分が選んだのは、婚約を拒否することだった。


 復讐でも、誰かを陥れることでもない。


 ただ、自分の人生を守るための選択だ。


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」


「ええ、リディア。起きているわ」


 入室したリディアは、いつものように朝の挨拶をすると、寝台のそばへ近づいた。


「昨夜は、あまりお休みになれませんでしたか」


 エレノアは少し驚いて顔を上げた。


「分かるの?」


「お顔色が少しお疲れのように見えましたので。もしご気分が優れないようでしたら、朝食のあともお部屋でお休みいただけます」


 エレノアは首を横に振った。


「体調が悪いわけではないの。ただ、王宮からの知らせを受け取って、いろいろ考えてしまったのだと思うわ」


「そうでございましたか」


 リディアはそれ以上問い詰めず、衣装を整え始めた。


 今日用意されていたのは、淡い灰青色のドレスだった。襟元には控えめな白い刺繍が施されており、袖口には秋の冷え込みを考えて少し厚めの布が使われている。


 エレノアは鏡の前に座り、リディアが髪を整える様子を見つめた。


「リディア。今日は、何か予定があったかしら」


「午前中は特に決まったご予定はございません。午後にはマルグリット様が、先日お話しされていた刺繍糸をご覧になりたいとおっしゃっていました。それから、エレーヌ様とマルタ様が、古い書類の保存についてアルフォンス様へご相談なさる予定でございます」


 エレノアはその言葉に顔を上げた。


「古い書類の保存について?」


「はい。以前から準備を進めていらした、保存の専門家への問い合わせに関することかと存じます」


 エレノアは少し考えた。


 母アデラインに関係するかもしれない古い記録。


 その中には、傷みが進んでいるため、まだすべてを開いていない書類もある。


 エレーヌ・フォシェとマルタは、原本を無理に扱わず、保存の専門家へ予備的な問い合わせを行う準備を進めていた。


 エレノア自身も、そのことを知っていた。


「そうだったわね。まだ問い合わせは送っていなかったのよね」


「そのように伺っております」


「分かったわ。もし叔父様からお話があったら、私も聞いてみたいと思うの」


 リディアは頷いた。


「かしこまりました」


 エレノアは鏡の中の自分を見つめた。


 王宮へ送った書類のことは、今すぐ自分で動かせるものではない。


 けれど、母の遺品や古い記録については、まだ確かめられることがある。


 すべての時間を不安のために使う必要はない。


 そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。


     ◇ ◇ ◇


 朝食の席では、オーギュストが庭園の東側通路について新しい報告を受けていた。


 ギュスターヴ・メルシエによれば、昨日の雨のあと、石畳の継ぎ目が持ち上がっている場所の近くに、ほかより長く水が残ったという。


 ただし、それが地面の下の排水に問題があるためなのか、石畳の傾きによるものなのかは、まだ分かっていなかった。


「見えているところだけ直して、あとから同じことが起きては困る。下の状態を確かめてから作業を進めるように」


 オーギュストがそう言うと、アルフォンスは頷いた。


「ギュスターヴにも、そのように伝えてあります。調査に必要な人手を確認しているところですので、具体的な作業日はまだ決めておりません」


「それでよい。庭を歩く者が危険な目に遭わないことが第一だ」


 祖父の言葉に、エレノアも静かに頷いた。


 朝食のあとに庭を歩くつもりなら、南側の通路を使えばよい。


 東側の道は、調査が終わるまで閉じたままで構わないと思った。


 そのあと、マルグリットが冬用の膝掛けについて話し始めた。


 屋敷の中では、古い布を手入れして使い続けるものと、新しく用意するものを分けているという。


 エレノアは祖母の話を聞きながら、母が残した刺繍の図案について考えていた。


 母の作品を正確に再現することは、今のところできない。


 それでも、自分が好きだと思う色を選びながら、少しずつ花を完成させていきたい。


 そんなことを考えていると、アルフォンスが口を開いた。


「エレノア。昨日の受領確認について、改めて伝えておきたいことがある」


 エレノアは顔を上げた。


「はい、叔父様」


「王宮から届いたのは、あくまで書類を受け取ったという知らせだ。今後、追加の確認が必要になる可能性もあるけれど、現時点では新しい対応を求められているわけではない」


「分かりました」


「だから、何か連絡が届いたら、その内容を君に説明する。君の意思に関わることを、こちらだけで決めるつもりはないよ」


 エレノアは静かに頷いた。


「ありがとうございます。私も、必要なことがあれば自分で考えたいと思っています」


 アルフォンスは穏やかに微笑んだ。


「そうしてくれると助かるよ」


 そのやり取りを聞いていたセドリックが、少しだけ身を乗り出した。


「エレノア。午後、時間があれば庭を歩かないか。南側の通路なら安全だし、少し外の空気を吸うのもよいと思う」


 エレノアは従兄へ顔を向けた。


「ありがとうございます、お兄様。でも、午後はお祖母様と刺繍のお話をする予定なのです」


「そうだったね。それなら、また別の日にしよう」


 セドリックはあっさりと頷いた。


 無理に誘わず、彼女の予定を尊重してくれる。


 そんな何気ないやり取りが、エレノアには心地よかった。


     ◇ ◇ ◇


 同じ頃、王宮の儀典担当部署では、昨日受領したエレノアの拒否声明について、追加の確認が進められていた。


 担当職員の机には、ベルナール家からの受諾返書に関する記録と、ロシュフォール家から提出された書類の控えが並べられている。


 書類を取り扱う職員たちは、まず現在の手続き状況を確認していた。


 ベルナール家から受諾の返書が届いている。


 しかし、正式な婚約が成立したことを示す記録はない。


 そして、本人から婚約を望まないという意思表示が提出されている。


 その三つの事実を、混同せずに扱う必要があった。


「ベルナール家の返書には、当主として婚約を受け入れる旨が記されています。ただ、本人の署名はありません」


 若い職員が報告すると、上席の担当者は書類へ目を落とした。


「本人の署名がないこと自体で、直ちに返書が無効だと判断できるわけではありません。しかし、本人が同意していなかったと述べている以上、返書だけを根拠に手続きを進めることは避けるべきでしょう」


「では、婚約に関する手続きを一時的に保留するということでしょうか」


 上席の担当者は少し考えた。


「正式な判断を下す権限は、ここだけにあるわけではありません。ただ、少なくとも、本人の意思が確認できないまま次の儀礼的な手続きへ進めることは適切ではないでしょう。その点を上へ報告します」


 職員は頷いた。


「第二王子殿下の側からも、昨日の報告について確認がございました」


「どのような内容ですか」


「本人の拒否声明がどのように扱われるのか、また、ベルナール家からの返書に本人の同意についての記載があるか、確認したいとのことでございます」


 上席の担当者は静かに息を吐いた。


「殿下も、この件を軽く扱うつもりはないということですね」


「そのように受け取っております」


 上席の担当者は机の上の書類を整えた。


「では、まず確認できている事実だけを報告しましょう。本人の署名がある拒否声明を受領したこと。ベルナール家の返書には本人の署名がないこと。そして、正式な婚約成立の記録はまだないこと」


 職員はその内容を書き留めた。


「それから、今後の確認についてですが、本人へ直接問い合わせる必要が生じる可能性もあります。ただし、その場合は、本人の意思表示が提出された経路を尊重する必要がありますね」


「ロシュフォール家を通じて、ということでしょうか」


「現時点では、その方法が妥当でしょう。本人がどのような事情でロシュフォール家から書類を提出したのか、こちらですべてを把握しているわけではありません。突然本人へ接触することは避けるべきです」


 上席の担当者は少し間を置き、続けた。


「何より、本人が婚約を望んでいないと明確に述べているのです。その意思表示を受け取った側が、本人に不要な圧力を与えるようなことはあってはなりません」


 職員は深く頷いた。


 そして、第二王子側へ提出する報告書の作成を始めた。


     ◇ ◇ ◇


 王宮の別の執務室では、レオナード・ヴァレンティアが、昨日から気になっていた報告について、側近から新しい説明を受けていた。


 机の上には、儀典担当部署から届けられた書類が置かれている。


 レオナードは最初から丁寧に読み進めた。


 エレノア・ベルナール本人の拒否声明が受領されたこと。


 ベルナール家からの返書には、当主として受諾する旨が記されているものの、本人の署名はないこと。


 そして、正式な婚約成立の記録は、現時点では存在しないこと。


 レオナードは最後まで読み終えると、静かに顔を上げた。


「つまり、ベルナール伯爵は婚約を受け入れると返事をした。しかし、本人がそれに同意していたかどうかは、返書からは確認できないということか」


「はい。少なくとも、儀典担当部署が確認した記録では、そのようになっております」


「それで、本人は同意していなかったと書面で伝えてきた」


「そのとおりでございます」


 レオナードはしばらく黙っていた。


 昨日、初めてエレノアの拒否声明について報告を受けたとき、彼は戸惑った。


 まだ会ったこともない少女が、自分との婚約を望んでいないと明確に示した。


 その理由が分からなかったからだ。


 しかし、今は別の疑問が浮かんでいた。


 本人の同意を確かめないまま、家から受諾の返書が送られたのだとしたら、なぜそのようなことが起きたのか。


 貴族家の婚姻に家同士の事情が関わることは、レオナードも理解している。


 王族との婚約であれば、なおさらだ。


 それでも、本人の意思をまったく確かめなくてよいということにはならないはずだった。


「ベルナール伯爵は、娘が婚約を望んでいないことを知っているのだろうか」


 レオナードが尋ねると、側近は慎重に答えた。


「その点については、まだ確認できておりません。ロシュフォール家から提出された事情説明書には、本人の意思を伝えるための手続きを支援している旨が記されておりますが、ベルナール伯爵が現在どこまで把握しているのかは不明でございます」


 レオナードは頷いた。


 分からないことは、まだ多い。


 ただ、少なくとも、エレノア本人が拒否の意思を示したことは確かだった。


 その事実を無視するわけにはいかない。


「婚約の手続きは、今どうなっている」


「儀典担当部署では、本人の意思表示が提出されたことを踏まえ、次の手続きへ進める前に確認が必要だと考えているようでございます。ただし、正式な判断はまだ下されておりません」


「そうか」


 レオナードは椅子の背へ身を預けた。


 窓の外には、王宮の庭園が広がっている。


 秋の陽光を受けた木々は、赤や黄色に色づき始めていた。


 彼はしばらくその景色を眺め、それから口を開いた。


「彼女が婚約を望まないというのなら、その意思を無視して話を進めるつもりはない」


 側近は静かに頷いた。


「承知いたしました」


「ただ、俺としても、なぜ家の返書と本人の意思が違うのかは知っておきたい。今後の手続きに関わることだからな」


「その点につきましては、儀典担当部署が必要な確認を進めることになるかと存じます」


 レオナードは少し考えた。


 自分が直接エレノアへ手紙を書けば、話は早いかもしれない。


 しかし、まだ会ったこともない王子から突然連絡が届けば、相手はどう感じるだろうか。


 まして、婚約を望まないと書面で伝えたばかりなのだ。


 その相手に、理由を尋ねるためだけの手紙を送ることが、適切な行動とは思えなかった。


「俺から直接連絡することは、今は控えよう」


 レオナードはそう言った。


「必要な確認は、まず儀典担当部署を通じて行ってほしい。本人へ何か尋ねる必要があるなら、その方法についても慎重に考えるべきだ」


「かしこまりました」


 側近は一礼した。


 しかし、レオナードはまだ何かを考えているようだった。


 しばらくして、彼は再び口を開いた。


「それから、ベルナール伯爵へ確認する場合も、本人の拒否声明をそのまま伝えてよいのか、先に確かめる必要があるな」


 側近は少し驚いたように顔を上げた。


「殿下。そのようにお考えでございますか」


「当然だろう。本人が父親の返書と自分の意思を区別してほしいと求めているのなら、本人の意思表示を父親へ知らせることで、何か問題が起こる可能性もある」


 レオナードは報告書へ視線を落とした。


「事情が分からないうちに、余計なことをするべきではない」


 側近は深く頷いた。


「承知いたしました。その点も儀典担当部署へ伝えてまいります」


 レオナードは静かに息を吐いた。


 自分との婚約を望まない少女。


 その存在は、昨日までの彼にとって、名前だけを知る婚約候補にすぎなかった。


 けれど、今は違う。


 エレノア・ベルナールには、自分とは別の意思がある。


 家の返書とは違う考えを持ち、それを伝えるために自分の名前で書面を提出した。


 その事実が、彼の中で少しずつ重みを増していた。


(会ったこともない相手の気持ちを、分かったつもりになるわけにはいかない。だが、少なくとも、彼女が望んでいないことだけは明らかだ)


 レオナードは報告書を閉じた。


 そして、今後の確認について、儀典担当部署からの連絡を待つことにした。


     ◇ ◇ ◇


 午後、ロシュフォール家の執務室では、アルフォンスがエレーヌ・フォシェとマルタから、古い書類の保存に関する報告を受けていた。


 机の上には、これまで二人が準備してきた問い合わせの草案が置かれている。


 その内容は、古い紙の扱い方について、保存の専門家へ予備的な助言を求めるものだった。


 対象となる書類の原本は、まだ動かしていない。


 傷みのある束についても、無理に開いて確認することは避けている。


 エレーヌは草案を指し示しながら説明した。


「今回は、書類の具体的な内容や、関係する人物の名前を詳しく伝えることは控えています。まずは、傷みのある古い紙を安全に扱うために、どのような準備が必要なのかを確認したいと考えております」


 アルフォンスは頷いた。


「それでよいと思います。原本を送る必要があるのかどうかも、まだ分からない段階ですからね」


 マルタが続けた。


「紙の状態についても、私たちが確認できた範囲だけを記しました。無理に開かなければ分からない部分については、推測で書き加えておりません」


「大切なことですね」


 アルフォンスは草案を読み進めた。


 そこには、古い紙の束を扱う際の注意点や、保存状態を確認するために必要な情報について、専門家の助言を求める文章が記されていた。


 エレノアの衣類に関する記録かもしれない束についても、具体的な内容には踏み込んでいない。


 その束には、まだ読んでいないページが残されている。


 以前確認した箇所には、幼少時の衣類を別に保管したことを示すような記述や、「ロラン」という姓があった。


 けれど、それが誰を指しているのか、どの衣類に関係するのかは、まだ確かめられていなかった。


 数字の「五」についても、何を数えたものなのか分かっていない。


 アルフォンスはそのことを思い出し、静かに口を開いた。


「この問い合わせを送ることで、何かがすぐに分かるとは限りません。ただ、原本を傷めずに調べるための準備としては、必要なことだと思います」


 エレーヌは頷いた。


「はい。私たちだけで判断して書類を開き続けることは、避けたいと考えております」


「では、この内容で予備的な問い合わせを送りましょう。ただし、専門家から返答があるまでは、原本の扱いを変えないでください」


「承知いたしました」


 マルタも一礼した。


 こうして、保存の専門家への予備的な問い合わせは、正式に送付することになった。


 ただし、まだ専門家からの返答はない。


 古い書類の中身についても、新しい事実が判明したわけではなかった。


 それでも、無理に調査を進めるのではなく、安全に確かめるための一歩が踏み出された。


     ◇ ◇ ◇


 その頃、エレノアはマルグリットの部屋で、青い花の刺繍を進めていた。


 窓辺の小卓には、青い糸と紫の糸を試した布が並べられている。


 エレノアは青い花びらの輪郭を確かめながら、針をゆっくりと動かしていた。


「今日は、昨日よりも少し進んだわね」


 マルグリットがそう言うと、エレノアは微笑んだ。


「はい。花びらの形が、少しずつ分かるようになってきました」


「そうね。青い糸だけでも、きれいな花になりそうだわ」


 エレノアは試し縫いの布へ目を向けた。


「紫を加えるかどうかは、まだ迷っています。でも、今は青い部分をもう少し進めてから考えようと思うのです」


「それがよいかもしれないわね。完成に近づくと、色の印象も変わるでしょうから」


 エレノアは頷いた。


 母アデラインがどのような青い花を作ろうとしていたのかは、まだ分からない。


 けれど、今作っている花は、自分自身の手で少しずつ形になっている。


 そのことが嬉しかった。


 しばらくして、マルグリットが穏やかに口を開いた。


「エレノア。昨日、王宮から受領の知らせが届いたのでしょう」


「はい。叔父様から見せていただきました」


「それを聞いて、少しは安心できたかしら」


 エレノアは針を止めた。


 安心した。


 確かに、そういう気持ちはある。


 けれど、同時に、新しい不安も生まれていた。


「安心した部分もあります。でも、王宮へ届いたことで、これから何が起こるのかを考えるようになりました」


 マルグリットは静かに頷いた。


「そうでしょうね。大切なことを伝えたあとには、相手がどう受け取るのか気になるものよ」


 エレノアは少し考えてから口を開いた。


「お祖母様。私、第二王子殿下に拒否声明を読まれることが、やはり怖いのです」


 マルグリットは何も言わず、孫娘の言葉を待った。


「殿下がどのような反応をなさるのか、分かりません。私の意思を尊重してくださるのか、それとも、なぜ婚約を望まないのかとお尋ねになるのか……。考え始めると、どうしても不安になってしまいます」


 エレノアは膝の上の布へ視線を落とした。


 以前の人生でレオナードが自分へ向けた言葉を、祖母は知らない。


 処刑されたことも、時間が戻ったことも知らない。


 その記憶を話すことはできなかった。


 けれど、今の自分が怖いと感じていることは、伝えられる。


 マルグリットはしばらく考え、穏やかに答えた。


「エレノア。誰かに自分の意思を伝えることは、ときに勇気がいるものよ。まして、相手が王族であれば、なおさらでしょう」


「はい」


「でも、相手がどう受け取るか分からないからといって、あなたの意思がなくなるわけではないわ。あなたは、婚約を望んでいない。そのことを伝えたのだから、まずはそれを大切にしてよいと思うの」


 エレノアは祖母の顔を見つめた。


「私が怖いと思っていても、よいのでしょうか」


「もちろんよ。怖くないふりをする必要はないわ。ただ、その怖さだけで、あなたが決めたことを否定しなくてもよいの」


 マルグリットは微笑んだ。


「もし王宮から何か尋ねられたら、そのときにまた考えればよいのよ。今、まだ届いていない問いに、すべて答えを用意する必要はないでしょう」


 エレノアは静かに息を吐いた。


 祖母の言葉は、胸の奥に残っていた緊張を少しだけ和らげてくれた。


「ありがとうございます、お祖母様」


「どういたしまして。さあ、今日はその花びらをもう少し進めましょうか」


 エレノアは微笑み、再び針を手に取った。


 青い糸が布の上を通り、花びらの輪郭が少しずつ整っていく。


 その静かな時間の中で、彼女はようやく、王宮からの知らせを待つことだけが自分の一日ではないのだと感じられた。


     ◇ ◇ ◇


 夕方近く、ロシュフォール家の執務室へ、新しい書簡が届けられた。


 差出人は王宮の儀典担当部署だった。


 アルフォンスは封筒を受け取り、少しだけ眉を寄せた。


 昨日、受領の確認が届いたばかりだ。


 これほど早く新しい連絡があるとは、予想していなかった。


 封蝋を確認してから書簡を開くと、そこには、エレノア本人の意思表示について、今後の取り扱いを検討するための追加確認が必要になる可能性が記されていた。


 ただし、今回の書簡は、正式な婚約判断を伝えるものではない。


 また、エレノア本人に直ちに返答を求めるものでもなかった。


 内容は、今後必要となる確認について、ロシュフォール家を通じて連絡する場合があることを知らせるものだった。


 アルフォンスは最後まで読み終えると、静かに息を吐いた。


 予想していた範囲の連絡ではある。


 しかし、書簡の末尾には、もう一つ気になる記述があった。


 第二王子側にも、本人の拒否声明が提出されたことについて、所定の報告が行われたという。


 アルフォンスはその一文を読み直した。


 第二王子レオナード・ヴァレンティア。


 エレノアが婚約を望んでいない相手。


 その王子の側へ、本人の意思表示が提出された事実が伝えられた。


 ただし、書簡には、王子本人がどこまで内容を把握したのか、具体的な記載はなかった。


 アルフォンスは書簡を机へ置き、しばらく考えた。


 エレノアへ伝えるべきだろう。


 彼女は、王宮で誰が自分の書類を読むのかを気にしていた。


 そのことを知っている以上、今回の連絡を伏せたままにするわけにはいかない。


 ただ、伝え方には注意が必要だった。


 王子側へ報告されたことと、王子本人が拒否声明の全文を読んだことは、同じではない。


 その違いを曖昧にしたまま伝えれば、エレノアを必要以上に不安にさせてしまう。


 アルフォンスは書簡をもう一度読み、確認できている事実だけを整理した。


 そして、セドリックを呼ぶことにした。


     ◇ ◇ ◇


 セドリックが執務室へ入ると、アルフォンスは王宮から届いた書簡を差し出した。


「父上。新しい連絡ですか」


「そうだよ。受領確認とは別の書簡が届いた。まずは読んでみてほしい」


 セドリックは書簡を受け取り、丁寧に読み始めた。


 途中で一度だけ眉を寄せたが、最後まで読み終えると、静かに顔を上げた。


「第二王子殿下の側へも、報告が行われたのですね」


「そう書かれている。ただし、殿下ご本人が拒否声明の全文を読んだとは記されていない」


 セドリックは頷いた。


「エレノアへ伝える必要がありますね」


「私もそう考えている。ただ、あの子がどう受け止めるかは気になるところだ」


 セドリックは少し考えた。


 エレノアが第二王子との婚約を望んでいないことは、はっきりしている。


 その理由を、彼女はすべて話しているわけではない。


 しかし、王子の名前を聞いたときに、彼女が強い不安を示すことは、これまで何度もあった。


 だからこそ、慎重に伝える必要がある。


「父上。僕は、エレノアに事実をそのまま伝えるべきだと思います。王子側へ報告が行われたことと、王子本人が全文を読んだかどうかは分からないこと。その二つを区別して説明すれば、彼女も理解できるはずです」


 アルフォンスは頷いた。


「そうだね。それから、今すぐ返答を求められているわけではないことも伝えよう」


「はい。エレノアが考える時間を持てるようにしたいです」


 アルフォンスは書簡を整え、机の上へ置いた。


「では、夕食の前に少し時間を取ってもらおう。君も同席してくれるかい」


「もちろんです」


 セドリックは頷いた。


 その表情には、従妹を心配する気持ちが浮かんでいた。


 けれど、彼は同時に、エレノアが自分の意思でここまで進んできたことも思い出していた。


 彼女はもう、何も知らされずに決められることを受け入れるつもりはない。


 だからこそ、今回の知らせも、彼女自身が理解できるように伝えなければならなかった。


     ◇ ◇ ◇


 夕食の少し前、エレノアはアルフォンスの執務室へ呼ばれた。


 リディアに付き添われて廊下を歩きながら、彼女は胸の奥に小さな緊張を感じていた。


 叔父からの呼び出し。


 しかも、王宮から新しい書簡が届いたという。


 昨日受領の知らせが届いたばかりなのに、もう次の連絡があるとは思っていなかった。


(何か、問題があったのかしら)


 エレノアはそう考えかけ、すぐに首を横に振った。


 まだ内容を聞いていない。


 悪い知らせだと決めつける必要はない。


 執務室の前で一度だけ息を整え、扉を叩いた。


「エレノアです。お呼びでしょうか」


「入りなさい」


 アルフォンスの声が聞こえ、エレノアは室内へ入った。


 机のそばにはセドリックもいた。


 二人の表情は落ち着いている。


 それを見て、エレノアは少しだけ安心した。


「叔父様。王宮から、新しい連絡が届いたと伺いました」


「そうだよ。まず、慌てる必要はないと伝えておこう。今回の書簡は、婚約についての結論を知らせるものではないし、君にすぐ返答を求めるものでもない」


 エレノアは静かに頷いた。


「はい」


 アルフォンスは書簡を差し出した。


「内容を説明する前に、君にも読んでもらいたいと思っている」


 エレノアは書簡を受け取り、最初から丁寧に読み始めた。


 王宮の儀典担当部署は、本人の拒否声明を受領した。


 今後、取り扱いについて追加の確認が必要になる場合がある。


 その際には、ロシュフォール家を通じて連絡する可能性がある。


 そこまでは、予想していた内容だった。


 しかし、最後の方に記された一文を読んだとき、エレノアの指先が止まった。


 第二王子側にも、本人の意思表示が提出されたことについて報告が行われた。


 エレノアはその文章を、もう一度読んだ。


 第二王子側。


 レオナード・ヴァレンティア。


 自分を処刑へ追い込んだ、以前の人生の婚約者。


 その人物の側へ、自分が婚約を拒否していることが伝わった。


 胸の奥が、急に冷たくなった。


(あの人に……知られたの?)


 エレノアは書簡を持つ手に力を込めた。


 以前の人生で、レオナードが自分へ向けた冷たい視線が蘇る。


 自分の言葉を信じてもらえなかったこと。


 どれほど説明しても、聞き入れてもらえなかったこと。


 そして、最後に下された処刑の決定。


 その記憶が、一瞬で胸の奥へ押し寄せた。


「エレノア」


 セドリックの声が聞こえた。


 エレノアは顔を上げようとしたが、すぐにはできなかった。


 指先が冷たい。


 呼吸も少し浅くなっている。


 それでも、ここで黙り込んでしまいたくはなかった。


「叔父様……」


 ようやく声を出すと、アルフォンスは穏やかに頷いた。


「どうしたんだい」


「第二王子殿下の側へ、報告が行われたと書かれています。これは……殿下ご本人が、私の拒否声明をお読みになったということでしょうか」


 アルフォンスは首を横に振った。


「そこまでは分からない。書簡に書かれているのは、第二王子側へ報告が行われたということだけだよ。殿下ご本人が全文を読んだのか、概要だけを聞いたのかについては、記載されていない」


 エレノアはその答えを聞き、ゆっくりと息を吐いた。


 まだ、分からない。


 けれど、王子の側へ報告されたことは確かだった。


「そう……なのですね」


 セドリックが静かに声を掛けた。


「エレノア。今すぐ何かを答える必要はないんだ。王宮からも、君へ返答を求める内容は届いていない」


 エレノアは頷いた。


「はい。分かっています。でも……」


 そこで言葉が途切れた。


 怖い。


 その一言を口にすることさえ、ためらわれた。


 以前の人生の記憶を話せない以上、なぜこれほど怖いのか、二人には分からないだろう。


 けれど、今の自分が不安を感じていることまで、隠す必要はないはずだった。


 エレノアは書簡を机へ戻し、静かに口を開いた。


「私、殿下がどのように受け止められるのか、怖いのです。婚約を望んでいないと伝えたことで、何かを求められるのではないかと考えてしまって」


 アルフォンスはしばらく黙っていた。


 そして、落ち着いた声で答えた。


「その不安は、理解できるよ。王族との婚約に関することだからね。ただ、今の段階では、殿下から君へ何かを求める連絡は届いていない」


 エレノアは頷いた。


「はい」


「それに、君はすでに自分の意思を伝えている。もし今後、追加の確認が必要になったとしても、君の考えを聞かずにこちらだけで返答するつもりはない」


 セドリックも続けた。


「僕も同じ考えだよ。何か新しい連絡があれば、その内容を一緒に確かめよう。君が納得できないことを、勝手に進めたりはしない」


 エレノアは二人の顔を見つめた。


 その言葉は、以前にも何度か聞いたことがある。


 けれど、今日は少し違って感じられた。


 王宮へ書類が届いたことで、問題は実際に動き始めている。


 その中で、家族は今も自分の意思を尊重すると言ってくれている。


 それが、どれほど心強いことなのか。


 エレノアはようやく、胸の奥にあった緊張が少し和らぐのを感じた。


「ありがとうございます、叔父様、お兄様」


 アルフォンスは穏やかに微笑んだ。


「礼を言う必要はないよ。これは、君自身の人生に関わることなのだから」


 エレノアは頷いた。


 そして、もう一度書簡へ目を向けた。


 第二王子側へ報告が行われた。


 その事実は、消えない。


 けれど、今すぐ自分が何かを決めなければならないわけではない。


 そう考えると、少しだけ落ち着いて書簡を見られるようになった。


     ◇ ◇ ◇


 エレノアが書簡を読み終えたあと、アルフォンスは別の話題を切り出した。


「それから、もう一つ伝えておきたいことがある。ベルナール伯爵から届いている書簡への返答についてだ」


 エレノアは顔を上げた。


 父ロベルトからの書簡。


 養子縁組の進行状況や、婚約に関する情報の共有について尋ねてきたものだった。


 アルフォンスはまだ返答を送っていない。


 そのことは、エレノアも知っていた。


「叔父様。返答の内容は、お決まりになったのですか」


「草案は考えている。ただ、君の意思に関わる部分については、先に確認しておきたいと思っているんだ」


 エレノアは少し緊張した。


「私の意思に関わる部分、ですか」


「そうだよ。ベルナール伯爵は、婚約に関する情報を共有するよう求めている。しかし、君が王宮へ提出した拒否声明の内容を、こちらからどこまで伝えるべきかは、慎重に考える必要がある」


 エレノアは黙って聞いていた。


 父は、自分が婚約を望んでいないことを知れば、どうするだろう。


 以前の人生では、家の都合が優先された。


 自分の意見を伝えても、父はそれを受け入れようとしなかった。


 今の父が、同じように振る舞うとは限らない。


 けれど、簡単に信じることもできなかった。


 アルフォンスは続けた。


「私は、養子縁組については、まだ法的な手続きが完了していないことを正確に伝えるつもりだ。一方、君の拒否声明については、本人の意思に関わることだから、君の考えを聞かずに詳しい内容を知らせるべきではないと思っている」


 エレノアは静かに頷いた。


「ありがとうございます」


「ただ、何も知らせずに済むとは限らない。今後、王宮からベルナール家へ確認が行われる可能性もある。だから、君がどう考えているのか、今のうちに聞いておきたいんだ」


 エレノアは少し考えた。


 父へ拒否声明の全文を知らせたいか。


 そう問われれば、答えは簡単だった。


 知らせたくない。


 少なくとも、今すぐには。


 父の反応を想像すると、胸の奥が重くなる。


 けれど、いつまでも隠し続けられるとは限らないことも理解していた。


「叔父様。私は、父に拒否声明の全文をお知らせすることは、今は望んでおりません」


 エレノアはゆっくりと言った。


「ただ、王宮から確認が行われる可能性があることは分かっています。ですから、父に何も知られないようにしてほしいとお願いするつもりはありません」


 アルフォンスは頷いた。


「そうだね」


「でも、私の意思を父へ伝える必要があるときには、その前に、できるだけ私にも知らせていただきたいのです。何が伝えられるのか、私自身でも理解しておきたいと思います」


 アルフォンスは少しだけ目を細めた。


「分かった。君の希望として、確かに受け取ったよ」


 セドリックも穏やかに頷いた。


「エレノア。今の話は、とても大切なことだと思う。君が父親へ何を伝えたいのか、何をまだ伝えたくないのか。その違いを、僕たちも理解しておく必要があるからね」


 エレノアは静かに息を吐いた。


 父へ何を知らせるか。


 それもまた、自分の意思に関わる問題だった。


 以前なら、父親なのだから知る権利があると言われれば、それ以上何も言えなかったかもしれない。


 けれど、今は違う。


 父が知るべきことと、自分が自分の意思で伝えたいことは、必ずしも同じではない。


 その違いを、叔父たちは理解しようとしてくれている。


 エレノアは小さく微笑んだ。


「ありがとうございます。私、少しずつですが、自分の考えを言葉にできるようになってきた気がします」


 セドリックは優しく笑った。


「そうだね。僕も、そう思うよ」


     ◇ ◇ ◇


 夕食のあと、エレノアは自室へ戻り、机の前に腰を下ろした。


 窓の外には、夜の庭園が広がっている。


 昼間の風は弱まり、木々の葉がときおり小さく揺れるだけだった。


 リディアが温かい飲み物を用意し、静かに声を掛けた。


「エレノア様。今日は、いろいろなお話がございましたね」


 エレノアは頷いた。


「ええ。王宮から新しい連絡が届いたの。それから、父への返答についても、叔父様とお話ししたわ」


 リディアは茶器を置き、エレノアの様子を確かめた。


「お疲れではございませんか」


「少し疲れたわ。でも、今日は自分の考えをきちんと伝えられたと思うの」


 エレノアは微笑んだ。


「父へ拒否声明の全文を知らせることは、今は望んでいないとお話ししたの。必要な確認があることは理解しているけれど、何が伝えられるのかは、私も知っておきたいと思って」


 リディアは穏やかに頷いた。


「エレノア様ご自身のお考えを、きちんとお伝えになったのですね」


「ええ。以前なら、そんなことを言ってもよいのか迷っていたと思うわ」


 エレノアは机の上の手帳へ目を向けた。


 今日も、書き留めておきたいことが多かった。


 王宮で、第二王子側へ拒否声明の提出について報告が行われたこと。


 ただし、殿下本人が全文を読んだかどうかは、まだ分からないこと。


 今すぐ自分へ返答を求める連絡は届いていないこと。


 そして、父ロベルトへ拒否声明の全文を知らせることは、現時点では望んでいないと伝えたこと。


 エレノアは一つずつ、丁寧に書き記した。


 書き終えたあと、しばらく筆を止めた。


 第二王子レオナード・ヴァレンティア。


 その名前を思い浮かべると、今でも胸の奥が冷たくなる。


 けれど、今日はその恐怖だけで一日を終えたくなかった。


 エレノアは手帳の最後に、新しい文章を書き加えた。


『私は、第二王子との婚約を望んでいない。その意思は、今も変わらない。』


 続けて、もう一文を書いた。


『私の言葉を誰が知ることになるのか、すべてを決めることはできない。それでも、私が何を望むのかは、私自身で決めたい。』


 その文字を見つめると、胸の奥に静かな決意が広がった。


 エレノアは手帳を閉じ、青い花の刺繍へ目を向けた。


 まだ完成していない花びらには、今日も青い糸が少しだけ増えている。


 紫の糸を加えるかどうかは、まだ決めていない。


 けれど、今はそれでよいと思えた。


 王宮からの知らせを待ちながら、自分の生活を続けること。


 母のことを知り、家族と過ごし、好きなものを少しずつ作っていくこと。


 それらもまた、自分の人生なのだ。


 エレノアは窓の外へ目を向け、ゆっくりと息を吐いた。


 王宮では、第二王子の側へ自分の意思表示が伝えられた。


 その事実を、彼女は今日初めて知った。


 けれど、レオナード本人が何を考え、どのような確認を求めているのかまでは知らない。


 そして、王宮の別の場所では、レオナードもまた、エレノアが何を恐れているのかを知らないまま、彼女の拒否声明について考えていた。


 二人はまだ出会っていない。


 互いの事情も、思いも知らない。


 ただ、エレノアが自分の意思を記したことによって、これまで家同士の返書だけで進んでいた婚約の話は、確かに新しい段階へ入ろうとしていた。


 その夜、エレノアは手帳を机の引き出しへしまい、静かに灯りを落とした。


 明日、何が起こるのかは分からない。


 けれど、今日、自分の意思を守るために選んだ言葉だけは、忘れずにいたかった。

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