第104話 王宮に届いた拒否声明と、第二王子が初めて向き合う少女の意思
ロシュフォール家から王宮へ向けて封書が送り出された翌朝、エレノアは窓辺に立ち、庭園の南側へ続く小道を眺めていた。
夜の間に降った短い雨はすでに上がっていたが、石畳のところどころには水が残り、朝日を受けて淡く輝いている。庭師たちは濡れた落ち葉を集めながら、通路を歩く者が足を滑らせないよう、慎重に作業を進めていた。
エレノアの視線は、やがて庭園の向こうへ移った。
そこから先に、王都セレディアへ続く道がある。
昨日、叔父アルフォンスが封をした書類は、その道を通って王宮へ向かっているはずだった。
(もう届いたのかしら。それとも、まだ途中なのかしら)
考えても答えは出ない。
王宮の儀典担当部署が書類を受け取ったとしても、そのことがすぐに婚約の結論へ結びつくわけではない。受領と判断は別のものだと、アルフォンスから何度も説明を受けていた。
それでも、エレノアは胸の奥に落ち着かないものを感じていた。
自分の名前を書いた書類が、今はもう自分の手元にない。
その事実は、署名した瞬間よりも、封筒が送り出されたあとになって強く実感されるようになっていた。
以前の人生では、自分に関する重要なことが、いつも自分の知らない場所で決められていた。
父ロベルトが王族との婚約を喜び、周囲がそれを当然のこととして受け止める中、エレノアの言葉はほとんど意味を持たなかった。
その先に待っていたものを思い出すと、今でも呼吸が苦しくなる。
けれど、今の自分は違う。
王宮へ送った書類には、確かに自分の意思が記されている。
第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望んでいないこと。
ベルナール家から送られた受諾の返書は、自分の意思を確認してから送られたものではないこと。
そして、父の返書と自分の意思を同じものとして扱わないでほしいという願い。
それらを、誰かに代筆させることなく、自分の言葉として整えた。
署名も、自分の手で行った。
(怖いからといって、何もしなかったわけではない。それだけは、忘れないようにしたいわ)
エレノアは窓から離れ、机の上へ目を向けた。
青い花の刺繍は、昨日のまま布に包まれている。
紫の糸を加えるかどうか、まだ決めていない花。
その未完成の姿が、今朝は少しだけ羨ましく感じられた。
刺繍なら、糸をほどいて縫い直すこともできる。
けれど、王宮へ届けた言葉は、同じようには扱えない。
だからこそ、あれほど何度も確かめたのだ。
エレノアは布包みに手を伸ばしかけたが、そのとき扉が叩かれた。
「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、リディア。入ってちょうだい」
入室したリディアは、いつものように朝の挨拶をすると、窓辺の湿った景色へ目を向けた。
「夜の間に少し雨が降ったようでございます。東側の通路は引き続き閉鎖されておりますし、南側も朝のうちは足元が濡れておりますので、お散歩は午後になさった方がよろしいかもしれません」
「そうね。今日は、午前中に刺繍を進めようと思っていたの」
「それでしたら、朝食のあとにお道具を整えておきますね」
リディアは衣装を用意しながら、鏡越しにエレノアの顔を見た。
「昨夜は、よくお休みになれましたか」
エレノアは少し考えた。
「眠れたわ。でも、朝起きてから、王宮へ送った書類のことを考えてしまって」
「大切な書類でございますものね」
「ええ。ただ、今朝は何度も同じことを考えるより、できることをして過ごしたいと思っているの。届いたかどうかは、叔父様から知らせていただけるはずだから」
リディアは小さく頷いた。
「それがよろしいかと存じます。お知らせが届きましたら、アルフォンス様からお話があるでしょう。それまでは、エレノア様のお時間を大切になさってくださいませ」
エレノアは鏡の中で微笑んだ。
「ありがとう、リディア」
その言葉を口にしてから、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
待つことは、何もしないことと同じではない。
今の生活を大切にしながら、必要な知らせを待つ。
それも、自分で選べることなのだと思った。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の補修について話していた。
東側通路の石畳は、持ち上がった継ぎ目の周囲に雨水が残りやすくなっている。ギュスターヴ・メルシエが地表の状態を確認しているものの、下の土や排水の流れについては、まだ詳しい調査を始めていない。
「濡れた石の上を誰かが歩いて転ぶようなことがあっては困る。しばらく閉鎖を続け、必要な人手と道具が揃ってから調べるように」
オーギュストがそう言うと、アルフォンスは頷いた。
「そのように伝えてあります。今朝もギュスターヴから、昨日の雨のあとに水が残った場所について報告がありました。通路を開ける時期は、調査結果を見てから決める予定です」
「そうしてくれ。庭の見栄えより、安全が先だ」
祖父の言葉に、エレノアも静かに頷いた。
食卓ではそのあと、マルグリットが冬に向けた衣類の手入れについて話し始めた。屋敷の中でも朝晩は冷えるようになり、使用人たちの上着や寝具について、傷みのあるものを早めに確認しておきたいという。
エレノアは祖母の話を聞きながら、母アデラインが使っていた刺繍道具のことを思い出した。
古いものを大切に使い続けること。
傷んだところを見つけ、無理に直さず、状態を確かめること。
ロシュフォール家へ来てから、そうした日々の仕事の中にも、家族が積み重ねてきた時間があるのだと感じるようになっていた。
やがて食事がひと段落すると、アルフォンスがエレノアへ顔を向けた。
「エレノア。昨日送った書類については、まだ受領の知らせが届いていない。連絡があり次第、君にも伝えるつもりだよ」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます、叔父様。今朝、ちょうどそのことを考えておりました」
「そうだろうね。ただ、届いたかどうかを確認することと、その先の判断を待つことは別の話になる。今日は、できるだけ普段どおりに過ごしてほしい」
「はい。午前中は刺繍を進めようと思っております」
マルグリットが微笑んだ。
「それはよいわね。午後には、昨日見比べた糸をまた持っていらっしゃい。急いで決める必要はないけれど、明るいところで見ると印象が変わることもあるでしょう」
「ありがとうございます、お祖母様」
エレノアは微笑み返した。
家族の会話は穏やかだった。
けれど、アルフォンスの表情には、いつもより少し慎重なものがあった。
エレノアはその理由を知らない。
昨日、ベルナール家から届いた書簡への返答も、まだ整えられていなかった。
父ロベルトが婚約に関する情報の共有を求めていることは知っているが、叔父がどのような返答を考えているのかまでは聞いていない。
エレノアは一度だけアルフォンスへ視線を向け、それから静かに茶器を置いた。
今朝は、そのことまで一度に尋ねるつもりはなかった。
ただ、父からの書簡についても、いずれ自分の考えを伝える必要がある。
そのことは、忘れずにいようと思った。
◇ ◇ ◇
王都セレディアの王宮では、朝の業務が始まると同時に、儀典担当部署の書簡受付室が慌ただしくなっていた。
王宮へ届けられる書類は、貴族家からの報告や式典への出席に関する連絡だけではない。王族との面会申請、行事の変更、家同士の儀礼上の問い合わせなど、内容も扱いも異なる文書が、毎日いくつもの経路から集まってくる。
そのため、受付を担当する職員たちは、まず宛先と差出人、封印の状態を確かめ、書類の種類に応じて記録を分けることになっていた。
午前の半ば、ロシュフォール家からの封書が、その受付室へ届けられた。
担当職員は封筒を受け取り、差出人の紋章と宛先を確認した。
「ロシュフォール家から、儀典担当部署宛ての書類です。受領の確認を求める送付状が添えられております」
隣にいた職員が記録簿を開いた。
「差出人と受領時刻を記してください。内容の確認は、封印の状態を記録してから行います」
封蝋に破損はなかった。
外封筒を開くと、中には送付状と、区別して収められた二つの書面が入っていた。
一つは、エレノア・ベルナール本人による婚約拒否の意思表示。
もう一つは、ロシュフォール家による事情説明書。
担当職員は、まず送付状を読み始めた。
そこには、二つの書面が別の目的で提出されたものであることが明記されていた。
本人の意思表示は、本人が婚約を望んでいないことを伝えるためのもの。
ロシュフォール家の説明書は、家として把握している事情を記録へ残すためのものであり、本人の意思表示を代行するものではない。
職員は読み終えると、二つの書面を机の上で離して置いた。
「先に、本人の意思表示を確認します」
彼はそう言い、エレノアの署名がある書面を開いた。
そこに記されていたのは、短い三つの文章だった。
『私は、第二王子レオナード・ヴァレンティア殿下との婚約を望んでおりません。』
職員はその一文を読んだところで、視線を止めた。
第二王子との婚約を望まない。
曖昧な表現ではなかった。
続く文章には、ベルナール家から婚約受諾の返書が送られたことを本人はあとから知ったとあり、返書が送られる前に婚約を受け入れる意思を示していないことが記されていた。
そして最後に、父の返書と本人の意思を同じものとして扱わず、婚約を望んでいないことを記録の上でも明らかにしてほしいという願いが続いていた。
職員は末尾の署名と日付を確認した。
エレノア・ベルナール。
本人の署名がある。
日付も記されている。
彼はしばらく書面を見つめ、それから隣の職員へ声を掛けた。
「この件について、以前の記録を確認していただけますか。ベルナール家から、第二王子殿下との婚約受諾の返書が届いていたはずです」
隣の職員は記録簿をめくり、該当する項目を探した。
「あります。ベルナール家当主ロベルト・ベルナールからの返書が記録されています。ただし、正式な婚約成立の記録とは別の扱いになっています」
「そうですね。では、こちらの書面を受領したことで、先の返書を取り消したと記録してはいけません」
担当職員は落ち着いた声で続けた。
「同時に、ベルナール家から受諾の返書が届いているからといって、本人の拒否声明を無視することもできません。まずは別の書面として受け付け、上席へ報告しましょう」
二人はそれぞれの記録を確認し、書類の名称を正確に書き込んだ。
受領の記録は、婚約について判断を下したという意味ではない。
それでも、エレノア本人が拒否の意思を示したという事実は、この時点で王宮の記録に新しく加わった。
担当職員は書類を揃え、上席の執務室へ向かった。
◇ ◇ ◇
儀典担当部署の上席職員は、届けられた書類を最後まで読み終えると、机の上に置いていた別の記録を引き寄せた。
ベルナール家からの受諾返書についての記録だった。
二つを並べると、状況の違いは明らかだった。
家からは受諾の意思が伝えられている。
しかし、本人は婚約を望んでいない。
しかも、本人の書面には、家から返書が送られる前に自分が同意を示していなかったと記されている。
「本人の署名は確認できていますね」
「はい。署名日も記載されております。送付状では、ロシュフォール家の説明書とは別の書面として扱うよう求められています」
上席職員は頷いた。
「では、まずその区別を守ってください。ロシュフォール家の説明書は、家として把握している事情を述べたものです。本人の拒否声明と内容が重なる部分はありますが、同じ書類として扱うべきではありません」
「承知いたしました」
「それから、婚約の成立状況について、現在の記録を確認してください。ベルナール家から返書が届いていることと、正式な婚約が成立していることは同じではありません」
職員は記録簿へ目を落とした。
王族との婚約は、家から受諾の返書が届けば、それだけですべてが完了するものではない。
儀礼上の手続きや関係者への確認が必要になる場合もある。
今回のように、本人の意思が家の返書と異なると明確に示された以上、その違いを記録から消してしまうことはできなかった。
「上へ報告する必要がありますね」
担当職員が言うと、上席職員は頷いた。
「ええ。ただし、報告の仕方には注意が必要です。ベルナール家が虚偽の返書を送ったと、現時点で断定してはいけません。本人が同意していなかったと述べていることは重要ですが、その経緯について、こちらで確認できている事実と、提出された書面に記されている主張を分けておく必要があります」
彼は少し考えてから続けた。
「第二王子殿下に関係する件ですから、所定の経路で王子側にも報告が必要でしょう。ただし、まずは書類の受領と内容の概要を伝え、原本の扱いについては規定に従ってください」
「承知いたしました。報告書を作成いたします」
担当職員は一礼し、書類を持って退出した。
上席職員は机に残された記録へ視線を落とした。
ベルナール家からの受諾返書。
エレノア・ベルナール本人の拒否声明。
ロシュフォール家の事情説明書。
それぞれに異なる立場からの言葉が記されている。
どのような結論に至るとしても、この三つを混同したまま扱うことはできない。
上席職員は記録簿を閉じ、次の報告に備えた。
◇ ◇ ◇
王宮の別の一角では、第二王子レオナード・ヴァレンティアが、午後に予定されている儀礼上の打ち合わせに向けて書類を確認していた。
十七歳の王子にとって、貴族家との交流や式典への出席は、すでに日常の一部になっている。
ただし、すべての予定を自分一人で決められるわけではない。
王族としての立場には、本人の希望だけでは動かせないことも多かった。
レオナードは机の上に広げられた予定表へ目を通し、いくつかの項目について側近へ確認していた。
「この行事は、兄上も出席なさる予定だったな」
「はい。第一王子アレクシス殿下もご出席の予定でございます。ただし、詳細な役割分担については、まだ最終確認が済んでおりません」
「分かった。では、その件は確認が取れてから判断しよう」
レオナードはそう答え、次の書類へ手を伸ばした。
そのとき、扉が叩かれた。
側近が応対し、儀典担当部署からの報告が届いたことを告げる。
「殿下。ベルナール家との婚約に関する件で、新たな書類が受領されたとの報告がございます」
レオナードは顔を上げた。
「ベルナール家からか」
「いいえ。今回は、ロシュフォール家からの提出でございます」
その答えに、レオナードはわずかに眉を寄せた。
ロシュフォール家。
ベルナール家の令嬢エレノアの母方の親族にあたる家だと、以前の報告で聞いた覚えがある。
ただ、彼はその家と直接やり取りをしたことはなかった。
「どのような内容だ」
側近は手元の報告書を確認した。
「エレノア・ベルナール令嬢本人による、婚約を望まない旨の意思表示が提出されたとのことです。本人の署名と日付があり、ロシュフォール家の事情説明書とは別の書面として受領されています」
レオナードは一瞬、言葉を失った。
婚約を望まない。
その言葉は、彼が予想していたものとは違っていた。
ベルナール家からは、すでに受諾の返書が届いている。
だからといって正式な婚約が成立したわけではないことは理解していたが、少なくとも家としては前向きに考えているのだろうと受け止めていた。
しかし、本人は違う意思を示しているという。
「本人が、そう書いたのか」
「はい。儀典担当部署の報告では、本人の署名が確認されております」
レオナードは机の上の予定表を閉じた。
「内容を正確に知りたい。報告書を見せてくれ」
側近は一礼し、用意された報告書を差し出した。
そこには、提出された書面の概要が記されていた。
エレノア・ベルナール本人は、第二王子との婚約を望んでいない。
ベルナール家から受諾の返書が送られたことは、本人があとから知ったものである。
そして、返書が送られる前に、本人は婚約を受け入れる意思を示していなかったと述べている。
レオナードはその部分を読み、しばらく黙っていた。
まだ会ったことのない少女。
名前だけを知っている婚約候補。
その少女が、家の返書とは違う意思を、正式な書面で示した。
彼は報告書から顔を上げた。
「ベルナール伯爵から届いた返書には、本人の同意について何か記されていたのか」
側近は少し考えてから答えた。
「殿下。現時点で私が確認できているのは、ベルナール家から受諾の返書が届いているという記録まででございます。返書の具体的な文言については、改めて儀典担当部署へ確認する必要がございます」
「そうか」
レオナードは短く答えた。
側近が知らないことを、その場で無理に答えさせるつもりはなかった。
けれど、ひとつ気になることがあった。
「本人が同意していないというのなら、なぜ家から受諾の返書が送られたのだろうな」
側近は慎重に言葉を選んだ。
「その経緯については、まだ確認できておりません。ロシュフォール家から事情説明書も提出されているようですが、報告だけで断定することは避けるべきかと存じます」
レオナードは頷いた。
その答えは妥当だった。
家からの返書と本人の意思が違う。
それは確かに問題だが、だからといって、今ここで誰かの意図を決めつけることはできない。
ただ、レオナードには理解できないことがあった。
自分との婚約を望まないと、明確に書かれている。
まだ顔を合わせたこともない相手から、そう告げられたのだ。
(俺は、彼女に何かをした覚えはない。そもそも会ったことさえない。それなのに、ここまで明確に拒むのか)
胸の奥に、小さな戸惑いが生まれた。
王族との婚約は、貴族家にとって名誉と受け止められることが多い。
少なくとも、彼がこれまで聞いてきた話の中では、家の側が受諾を望みながら、本人が正式な書面で拒否するという例は身近なものではなかった。
だが、珍しいからといって、その意思を軽く扱ってよいわけではない。
レオナードは報告書を机へ置いた。
「彼女は、俺との婚約を望んでいない。それは、まず事実として受け止めるべきなのだろうな」
側近は静かに頷いた。
「本人がそのように意思表示を行ったことは、確かでございます」
「ならば、家から受諾の返書が届いているというだけで、話を進めるのはおかしいだろう」
レオナードはそう言い、もう一度報告書へ目を落とした。
しかし、その表情にはまだ納得しきれないものが残っていた。
なぜ拒まれたのか。
何を恐れているのか。
自分について、どのような話を聞いているのか。
彼には、何ひとつ分からなかった。
そして、分からないからこそ、確かめたいという気持ちが生まれていた。
「儀典担当部署へ、本人の意思表示がどのように扱われるのか確認してくれ。それから、ベルナール家からの返書についても、本人の同意に関する記載があるか調べてほしい」
「承知いたしました」
側近が一礼したところで、レオナードはさらに言葉を続けた。
「ただし、俺が直接彼女へ連絡するという話ではない。まずは手続きと記録を確認したい」
「かしこまりました」
側近が退出すると、レオナードは椅子の背へ身を預けた。
婚約を望まない少女。
エレノア・ベルナール。
その名前が、これまでとは違う重みを持って感じられた。
◇ ◇ ◇
レオナードが報告を受けたあとも、王宮の業務はいつもどおり続いていた。
午後の打ち合わせでは、式典への出席予定や、貴族家との面会に関する確認が行われた。
レオナードも必要な質問をし、決めるべきことについては答えた。
しかし、話し合いが途切れるたびに、先ほどの報告が頭をよぎった。
エレノア・ベルナールは婚約を望んでいない。
それも、家の返書が送られる前に同意していなかったと述べている。
その言葉は、彼にとって単なる拒絶以上の意味を持っていた。
もし本人の同意がないまま話が進められていたのなら、問題は彼女が自分を好ましく思っていないことだけではない。
婚約を進める手続きそのものに、確認すべきことがある。
レオナードはそう考え始めていた。
ただし、それと自分が拒まれたことへの戸惑いは、別の感情だった。
王族である自分との婚約を望まない。
その理由を、どうしても知りたいと思ってしまう。
けれど、相手が拒否している以上、その理由を聞き出すために会うことを求めれば、彼女にとって負担になるかもしれない。
(会ったこともない相手に、なぜ俺を拒むのかと問い詰めるわけにはいかない。だが、このまま何も知らずにいるのも、妙な気分だ)
レオナードは窓の外へ目を向けた。
王宮の庭園には、秋の光が差し込んでいる。
彼はしばらく考え、やがて小さく息を吐いた。
今、自分にできることは限られている。
本人の意思表示を受け止め、必要な手続きを確認すること。
家からの返書と本人の言葉を混同しないこと。
そして、分からないことを勝手な推測で埋めないこと。
少なくとも、それだけは守るべきだろう。
レオナードは机へ戻り、次の書類を開いた。
しかし、その日の終わりまで、エレノア・ベルナールという名前が頭から完全に離れることはなかった。
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、ロシュフォール家では、エレノアが祖母マルグリットとともに刺繍の糸を見比べていた。
窓辺の小卓には、青い花を縫い進めている布と、紫の糸を試した別の小さな布が並んでいる。
エレノアは二つを見比べながら、少し首を傾げた。
「お祖母様。明るいところで見ると、昨日より紫が強く見える気がします」
マルグリットは糸の色を確かめ、穏やかに頷いた。
「そうね。室内の灯りで見たときとは、少し印象が違うわ。青い花びらの近くに置くと、紫の方が目立つかもしれないわね」
「それも悪くないと思うのですけれど、まだ迷ってしまいます」
「迷っているなら、今日は決めなくてもよいのよ。糸を置いて眺めるだけでも、次に見たときに違うことへ気づくかもしれないでしょう」
エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます。そういたします」
彼女は試し縫いの布を少し離して置き、青い花の方へ視線を戻した。
母アデラインが残した青い花の図案については、まだ分からないことが多い。
今作っている花は、母の作品を正確に再現したものではない。
それでも、母のことを思いながら針を動かす時間は、エレノアにとって大切なものになっていた。
そのとき、部屋の扉が叩かれた。
「マルグリット様、エレノア様。アルフォンス様からお伝えしたいことがあるそうでございます」
入室した使用人が、丁寧に一礼した。
エレノアは顔を上げた。
「叔父様から?」
「はい。王宮へお送りした書類について、連絡が届いたとのことでございます」
その言葉に、エレノアの指先が止まった。
王宮からの連絡。
まだ昨日送り出したばかりなのに、もう何か知らせが届いたのだろうか。
マルグリットはエレノアの表情を見て、静かに声を掛けた。
「エレノア。まずはお話を聞いていらっしゃい。内容が分からないうちから、悪いことを考える必要はないわ」
エレノアは小さく頷いた。
「はい。お祖母様、少し失礼いたします」
彼女は刺繍を丁寧に片づけ、リディアに付き添われて部屋を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥で鼓動が速くなるのを感じた。
王宮からの連絡。
それが受領の知らせなのか、それとも別の内容なのか。
まだ何も分からない。
(落ち着いて聞かなければ。昨日までに確認したことを、忘れないようにしないと)
エレノアはそう考え、執務室の前で一度だけ息を整えた。
◇ ◇ ◇
執務室では、アルフォンスとセドリックが待っていた。
机の上には、一通の書簡が置かれている。
エレノアはその封筒へ目を向けた。
王宮の儀典担当部署からのものだった。
「エレノア、来てくれてありがとう。まずは落ち着いて聞いてほしい。昨日送り出した書類について、受領の確認が届いたんだ」
アルフォンスは穏やかな声で告げた。
エレノアは一瞬、言葉を失った。
「受領……されたのですか」
「そうだよ。君の拒否声明と、ロシュフォール家の事情説明書、それから送付状が、儀典担当部署へ届いたことを確認したという連絡だ」
エレノアは胸元へ手を添えた。
心臓が速く打っている。
けれど、それは恐怖だけではなかった。
長い時間をかけて準備してきた書類が、ようやく目的の場所へ届いた。
その事実が、胸の奥に静かな実感を広げていた。
「叔父様。私の名前を書いた書類も、確かに届いたのですね」
「そうだ。ただし、ここで大切なことをもう一度確認しておこう。受領されたことは、婚約について判断が下されたことを意味しない。今後、王宮側でどのように扱われるのかについては、まだ連絡を待つ必要がある」
エレノアは頷いた。
「はい。分かっております」
アルフォンスは書簡を差し出した。
「こちらが受領の確認だよ。読んでみるかい」
「はい。お願いいたします」
エレノアは書簡を受け取り、丁寧に読み始めた。
そこには、ロシュフォール家から提出された書類を受領したことが記されていた。
婚約についての判断や、今後の具体的な対応については、まだ何も書かれていない。
それでも、エレノアにとっては十分に意味のある知らせだった。
彼女は最後まで読み終えると、静かに息を吐いた。
「確かに、受領されたことが書かれていますね」
「そうだね。今後の扱いについては、必要な連絡があれば改めて知らせが届くだろう」
アルフォンスはそう答えた。
エレノアは書簡を机へ戻し、少し考えてから口を開いた。
「叔父様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
「王宮で、私の拒否声明を誰が読んだのかは、まだ分からないのですよね」
アルフォンスは頷いた。
「そうだね。受領の確認には、閲覧した人物についての記載はない。だから、第二王子殿下が読んだかどうかも分からない」
エレノアはその答えを聞き、静かに頷いた。
レオナードが自分の言葉を読んだかもしれない。
あるいは、まだ読んでいないのかもしれない。
そのことは、今のエレノアには分からなかった。
けれど、彼女は以前ほど、その不確かさに押し潰されそうにはならなかった。
(誰が読んだのかは分からない。でも、私の意思が王宮へ届いたことは、確かになったのね)
エレノアは胸の奥で、そう繰り返した。
それは、以前の人生では得られなかった確かな一歩だった。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは自室で手帳を開いた。
今日も、書き留めておきたいことがあった。
王宮へ送った書類が、儀典担当部署に受領されたこと。
受領の確認が届いたこと。
そして、婚約についての判断は、まだ下されていないこと。
エレノアは一つずつ、丁寧に書き記した。
書き終えたあと、しばらく筆を止めた。
自分の言葉が、王宮へ届いた。
その事実を思い返すと、胸の奥が静かに温かくなる。
けれど、同時に、これから何が起こるのかという不安も残っていた。
父ロベルトからの書簡への返答も、まだ送られていない。
王宮がどのような判断をするのかも分からない。
第二王子レオナードが、自分の意思表示を知ったのかどうかも分からない。
それでも、今のエレノアは、自分が何を望んでいるのかを、以前よりはっきりと理解していた。
婚約を望んでいない。
父の返書と自分の意思を同じものとして扱ってほしくない。
そして、自分の人生を、自分で選びたい。
エレノアは手帳の最後に、短い文章を書き加えた。
『私の言葉は、王宮へ届いた。けれど、これからどう扱われるのかは、まだ分からない。』
その文字を見つめると、胸の奥に静かな決意が広がった。
エレノアは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の庭園には、柔らかな月明かりが落ちている。
木々の影が石畳へ伸び、遠くから葉の擦れる音が聞こえていた。
彼女はその景色を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。
王宮へ届いた拒否声明が、これからどのような意味を持つのかは分からない。
けれど、彼女は今日、自分の意思が確かに受け取られたことを知った。
その事実を胸に、エレノアは静かに明日を迎えようとしていた。




