第103話 封をする前に確かめたことと、私の言葉が王宮へ向かう日
翌朝、エレノアが目を覚ましたとき、窓の向こうには秋らしい澄んだ空が広がっていた。
昨日まで庭の木々を揺らしていた風は弱まり、薄い雲の間から差し込む朝日が、窓枠の影を床へ長く落としている。寝台のそばに置かれた水差しには小さな光が反射し、静かな室内には、廊下を行き交う使用人たちの足音がかすかに届いていた。
エレノアは寝台の上で身を起こし、昨日の出来事を思い返した。
自分の名前を書いた。
第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望んでいないという意思を記した書面に、エレノア・ベルナールという名前と、その日の日付を書いたのだ。
署名を終えたあとも、胸の奥にあった緊張は完全には消えなかった。むしろ、書類が王宮へ届いたあとに何が起こるのかを考えると、以前より具体的な不安が浮かんでくるようになっていた。
けれど、今朝はその不安に押し潰されそうな気持ちにはならなかった。
(昨日、私は自分で決めたのよね。誰かに言われたからでも、急かされたからでもなく、何度も確かめて、自分の意思で署名したのだわ)
エレノアは胸元へ手を添え、ゆっくりと息を吐いた。
以前の人生では、婚約に関する話し合いが進むたびに、自分の意見がどこかへ置き去りにされていくような感覚があった。
父ロベルトは家のためだと説明し、周囲の人々も王族との婚約を喜ばしいこととして扱った。自分が何を望んでいるのかを尋ねられた記憶は、ほとんどない。
そして、最後には処刑された。
その結末を思い出すと、今でも体の奥が冷たくなる。
けれど、目の前にあるのは、あのときとは違う朝だった。
ロシュフォール家の屋敷には、自分の言葉を聞こうとしてくれる人々がいる。
叔父アルフォンスも、従兄セドリックも、祖父母も、彼女が納得できるまで話し合う時間を与えてくれた。
だからこそ、署名したあとのことも、自分の目で確かめたいと思っていた。
そのとき、扉が叩かれた。
「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、リディア。起きているわ」
入室したリディアは朝の挨拶をすると、窓辺へ近づき、外の明るさを確かめた。
「今日はよいお天気になりそうでございます。昨日より風も弱いようですので、庭園をご覧になるには気持ちのよい日かもしれません」
「そうね。昨日は書類のことで一日が過ぎてしまったから、今日は少し外の空気を吸いたいわ」
エレノアがそう答えると、リディアは微笑んだ。
「それでしたら、午後にお時間がございましたら、南側の通路をご案内いたします。東側は引き続き通行止めとなっておりますので、そちらへは近づかないようにいたしましょう」
「ええ。ギュスターヴさんたちが調べてくださっているのですものね。安全が確認されるまでは、無理に通るつもりはないわ」
リディアは頷き、今日の衣装を用意し始めた。
淡い青灰色のドレスに、白い襟飾り。
落ち着いた色合いの衣装を見つめながら、エレノアは昨日の署名について、まだ家族以外には詳しく話していないことを思い出した。
リディアには署名を考えていることを伝えていたが、実際に署名したことは、昨夜の身支度の際に簡単に知らせただけだった。
「リディア。昨日、私が署名したことについて、驚かなかった?」
突然の問いに、リディアは少しだけ目を瞬かせた。
「驚かなかったと申し上げれば、嘘になります。ですが、エレノア様がこれまで何度もお考えになっていたことは存じておりましたので、ようやくその日が来たのだと感じました」
エレノアは鏡の中の自分を見つめた。
「そうね。私も、ようやくここまで来たのだと思うわ。でも、まだ王宮へ届いたわけではないから、これからのことを考えると少し緊張するの」
「それは当然のことかと存じます。大切な書類でございますもの」
リディアは髪を整えながら、穏やかに続けた。
「ですが、昨日のエレノア様は、以前よりも落ち着いていらっしゃるように見えました。ご不安がなくなったというより、ご自身でお決めになったことを大切にしていらっしゃるように感じたのでございます」
エレノアはその言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「ありがとう。私も、そうでありたいと思っているわ」
リディアは最後の髪飾りを整え、鏡越しに一礼した。
「本日も、エレノア様が落ち着いてお過ごしになれますよう、お手伝いいたします」
その声を聞きながら、エレノアは今日という一日を、昨日の続きとして大切に過ごそうと思った。
◇ ◇ ◇
朝食の席では、オーギュストが庭園の東側通路について、ギュスターヴから新しい報告が届いたことを話していた。
石畳の継ぎ目が持ち上がっている箇所について、表面の状態だけでは原因を特定できないため、下の土や排水の流れを調べる準備を進めているという。
ただし、調査そのものはまだ始まっておらず、通路を開ける時期についても決まっていなかった。
「急いで直すことより、何が起きているのかを確かめることが先だろう。庭園は毎日使う場所だからこそ、安全を軽く考えるわけにはいかん」
オーギュストはそう言い、茶器を静かに置いた。
アルフォンスも頷いた。
「ギュスターヴには、調査に必要な道具と人手を確認してもらっています。作業を始める前には、周囲の通路にも影響がないか見てもらう予定です」
「そうしてくれ。エレノアも、庭を歩くときには南側を使いなさい」
祖父に声を掛けられ、エレノアは顔を上げた。
「はい、お祖父様。リディアともそのようにお話ししておりました」
オーギュストは安心したように頷いた。
そのあと、食卓では庭園の花壇や、秋の衣類の手入れについて穏やかな会話が続いた。
エレノアは家族の話に耳を傾けながら、昨日の署名について自分から話すべきか少し迷った。
祖父母にはすでに伝わっているだろう。
けれど、自分の口から話したいという気持ちもあった。
食事がひと段落したところで、エレノアは姿勢を正した。
「お祖父様、お祖母様。昨日、叔父様の執務室で、私の拒否声明に署名いたしました」
マルグリットは静かに顔を上げた。
オーギュストも、孫娘の言葉を待つように視線を向けた。
「叔父様とお兄様に見守っていただきながら、全文をもう一度読み直して、私の名前と日付を書きました。まだ王宮へ提出したわけではありませんが、私自身で決めることができました」
エレノアは言い終えると、少しだけ緊張した。
祖父母が何と答えるのか、分からなかったからだ。
けれど、オーギュストは穏やかに頷いた。
「そうか。よく考えて決めたのだな」
「はい。何度も迷いましたけれど、婚約を望んでいないという気持ちは変わりませんでした」
「それなら、わしから言うことはない。お前が自分の意思で決めたのなら、その判断を尊重しよう」
マルグリットも微笑み、エレノアの手元へ視線を向けた。
「大切なことを決めたのね。昨日はきっと疲れたでしょう。今日は少しゆっくり過ごしてもよいのよ」
「ありがとうございます、お祖母様。午後には少し庭を歩こうと思っております」
「それはよいわね。お天気もよさそうですもの」
祖母の言葉に、エレノアはほっとしたように微笑んだ。
家族は署名を大げさに祝うことも、逆に不安を煽ることもしなかった。
ただ、彼女が自分で決めたことを受け止めてくれた。
その自然な反応が、エレノアには何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
朝食後、アルフォンスは執務室で、王宮へ提出する書類の最終的な組み合わせを確認していた。
机の上には、エレノアが昨日署名した拒否声明と、ロシュフォール家の説明書が別々に置かれている。
拒否声明には、エレノア本人の署名と日付が記されていた。
一方、ロシュフォール家の説明書は、家として把握している事情を伝えるためのものであり、エレノアの意思表示を代行するものではない。
アルフォンスは二つの書類を見比べながら、王宮から届いた手続き上の回答をもう一度読み直した。
提出先は王宮の儀典担当部署。
本人の意思表示には、本人の署名と署名日が必要。
家の説明書と本人の意思表示は、明確に区別する必要がある。
受領されたことは、婚約の可否について判断が下されたことを意味しない。
そして、関係部署で取り扱われる可能性があり、閲覧者を厳密に限定する保証はできない。
どれも、すでに確認してきた内容だった。
しかし、実際に提出する段階へ近づくと、これまで以上に慎重に扱う必要があるように感じられた。
(ここまで来た以上、曖昧なままにしてよいことと、明確にしておかなければならないことを、もう一度整理しておこう)
アルフォンスは新しい用紙を取り出し、提出書類の一覧を作り始めた。
最初に、エレノア本人の拒否声明。
次に、ロシュフォール家の説明書。
さらに、二つの書類を別のものとして扱うよう明記した送付状。
送付状は、書類の内容そのものを代わりに説明するためではなく、何を提出したのかを明確にするためのものだった。
アルフォンスはその役割を意識しながら、簡潔な文章を考えた。
王宮の儀典担当部署へ、エレノア・ベルナール本人の意思表示と、ロシュフォール家が把握する事情の説明書を、それぞれ別の書面として提出すること。
本人の意思表示は、本人が署名し、署名日を記したものであること。
ロシュフォール家の説明書は、本人の意思を代行するものではないこと。
そして、受領の確認を求めること。
そこまで書いたところで、アルフォンスは筆を止めた。
受領の確認を求めること自体は問題ない。
しかし、受領の知らせが届いたとき、それを婚約についての判断と取り違えないよう、家族にも説明しておく必要がある。
アルフォンスは送付状の末尾に、受領確認と婚約に関する判断を区別して扱う旨を、簡潔に書き加えた。
そのとき、扉が叩かれた。
「父上、セドリックです。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「入りなさい。ちょうど君にも確認してもらいたいところだ」
セドリックは入室すると、机の上に並ぶ書類へ視線を向けた。
「提出の準備を進めていらっしゃるのですね」
「そうだよ。エレノアが署名した以上、次は実際にどのような形で届けるかを考えなければならない。ただし、本人に見せずに発送するつもりはない」
アルフォンスは送付状の草案を差し出した。
セドリックは椅子へ腰を下ろし、最初から丁寧に読み始めた。
読み終えると、彼は少し考えてから口を開いた。
「父上。二つの書類を区別することは、これで分かると思います。ただ、送付状に書かれた『本人の意思表示』という言葉が、どの書類を指すのか、受け取った側が迷わないようにした方がよいかもしれません」
「なるほど。書類の表題をそのまま記しておくということだね」
「はい。内容を詳しく繰り返す必要はありませんが、どの書類を指しているのかは明確にした方がよいと思います」
アルフォンスは頷き、送付状の文章を修正した。
エレノア・ベルナール本人による婚約拒否の意思表示。
ロシュフォール家による事情説明書。
それぞれの名称を明記し、別々の書面として提出することを示した。
「これなら、書類の取り違えを避けやすくなるだろう」
アルフォンスがそう言うと、セドリックは頷いた。
「そう思います。あとは、エレノアに確認してもらうことですね」
「そのつもりだよ。今日の午後、時間があれば来てもらおうと思っている」
セドリックは少しだけ表情を引き締めた。
「父上。昨日、ベルナール伯爵から届いた書簡については、どうなさいますか」
アルフォンスは机の端に置かれた別の封筒へ目を向けた。
「返答の草案は考えているが、まだ送っていない。養子縁組の進行状況について説明できる範囲を伝え、婚約に関する情報については、現時点で不用意な約束をしない形にするつもりだ」
「エレノアの拒否声明については、まだ知らせないのですね」
「少なくとも、本人に確認せず内容を伝えることはしない。王宮へ提出する書類と、ロベルト殿への返答は別の問題として扱う必要があるからね」
セドリックは静かに頷いた。
父の判断に異論はなかった。
ただ、ベルナール家からの書簡が届いたことで、エレノアが再び不安を感じているのではないかと気になっていた。
「エレノアは、昨日のあとも落ち着いていたように見えました。でも、父親からの手紙を読んだことは、きっと心に残っていると思います」
「そうだろうね。だからこそ、今日の話し合いでは、あの子が何を気にしているのかも聞いておこう」
アルフォンスは送付状を整え、机の上へ置いた。
「ただ、必要以上に心配して、あの子の判断を止めてしまうことも避けたい。昨日、エレノアは自分の意思で署名したのだから」
セドリックは父の言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「ええ。僕も、そう思います」
◇ ◇ ◇
昼食を終えたあと、エレノアは自室で青い花の刺繍を少しだけ進めていた。
青い糸を通した針を布へ落とすたび、花びらの輪郭が少しずつ整っていく。
まだ完成には遠く、紫の糸を加えるかどうかも決めていない。
けれど、今はその未完成の状態を、以前ほど落ち着かないものとは感じなくなっていた。
母アデラインがどのような青い花を作ろうとしていたのかは、まだ分からない。
それでも、自分が作りたいと思った花を、少しずつ形にしていけばよいのだと思えるようになっていた。
リディアが茶器を運んできたとき、エレノアは針を止めた。
「エレノア様。アルフォンス様からお伝えしたいことがあるそうでございます。午後のお時間がよろしければ、執務室へお越しいただきたいとのことです」
エレノアは顔を上げた。
「書類のことでしょうか」
「詳しい内容までは伺っておりませんが、昨日のご署名に関するお話かと存じます」
エレノアは少し考えてから頷いた。
「分かったわ。刺繍を片づけたら伺いますと、お伝えしてちょうだい」
「かしこまりました」
リディアが退出すると、エレノアは針を布から抜き、糸を丁寧に整えた。
今日、叔父から呼ばれたということは、提出の準備が進んだのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に緊張が広がった。
けれど、昨日のように、署名するかどうかを迷っているわけではない。
今は、署名した書類をどのように届けるかを確かめる段階なのだ。
(私が書いた言葉が、いよいよ王宮へ向かうのかもしれないのね。まだ何が起こるかは分からないけれど、だからこそ、最後まで自分で確かめたいわ)
エレノアは刺繍を布で包み、机の上へ置いた。
そして、リディアに付き添われて執務室へ向かった。
◇ ◇ ◇
執務室へ入ると、アルフォンスとセドリックが待っていた。
机の上には、昨日の拒否声明とロシュフォール家の説明書、それから新しい送付状が並んでいる。
エレノアはその三つの書類を見つめ、静かに息を整えた。
「エレノア、来てくれてありがとう。今日は、王宮へ提出する書類の最終的な組み合わせを確認してもらいたい」
アルフォンスはそう言い、椅子を勧めた。
「昨日、君が署名した拒否声明は、こちらで大切に保管している。今日はそれに加えて、ロシュフォール家の説明書と送付状を用意した。三つをどのように扱うか、君にも確かめてもらいたいんだ」
エレノアは頷き、席へ着いた。
アルフォンスはまず、拒否声明を彼女の前へ置いた。
そこには、昨日自分が書いた署名と日付が残っている。
エレノアはその文字を見つめ、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「昨日、確かに私が書いたものです」
「そうだね。内容についても、昨日全文を確認してもらった。ただ、提出前にもう一度読んでおきたいなら、時間を取って構わないよ」
「ありがとうございます。もう一度、読ませていただきます」
エレノアは書類を手に取り、最初から読み始めた。
第二王子レオナード・ヴァレンティアとの婚約を望んでいないこと。
ベルナール家から受諾の返書が送られたのはあとから知ったことであり、送付前に自分が受け入れる意思を示していないこと。
そして、父の返書と自分の意思を同じものとして扱わず、婚約を望んでいないことを記録の上でも明らかにしてほしいという願い。
どの文章も、昨日と変わっていない。
エレノアは最後まで読み終えると、静かに頷いた。
「内容は、このままでお願いいたします」
アルフォンスは頷き、次にロシュフォール家の説明書を差し出した。
エレノアは昨日確認した文章を、もう一度丁寧に読み直した。
自分の意思を家が代行するものではないこと。
ロシュフォール家が把握している事情を説明するための書面であること。
ベルナール家からの返書について、確認できている事実だけを記していること。
そして、養子縁組がまだ完了していないことも、必要な範囲で正確に扱われていた。
母アデラインの名前が記された箇所では、エレノアは少しだけ手を止めた。
昨日、祖母と話したことを思い出したからだ。
母の名前は、書類の中だけにあるものではない。
祖母の思い出の中にも、叔父やセドリックの記憶の中にも、そして自分が作っている青い花の刺繍の中にも、母の存在は残っている。
そう思うと、今日はその一文を落ち着いて読むことができた。
「叔父様。こちらの説明書も、昨日確認した内容のままでございますね」
「そうだよ。昨日君が納得したあと、内容は変更していない」
「ありがとうございます。私も、このままでよいと思います」
アルフォンスは穏やかに頷いた。
最後に、送付状が差し出された。
エレノアは初めて見る文章だったため、ほかの二つよりも時間をかけて読んだ。
送付状には、王宮の儀典担当部署へ提出する書類の名称が記されている。
本人の拒否声明と、ロシュフォール家の事情説明書。
それぞれ別の書面であることが明記され、受領の確認を求める文章が続いていた。
エレノアはその箇所を読み、少し考えてから顔を上げた。
「叔父様。こちらの送付状について、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
「受領の確認をお願いするということは、王宮へ届いたかどうかを知らせていただくためなのですね。婚約について、すぐにお返事をいただくという意味ではないのですよね」
アルフォンスは頷いた。
「その通りだよ。王宮からの回答にもあったように、書類を受け取ったことと、婚約について判断が下されたことは別のものだ。送付状では、まず書類が確かに届いたことを確認できるようにしている」
エレノアは安心したように息を吐いた。
「分かりました。それなら、私も納得できます」
セドリックは隣から穏やかに声を掛けた。
「ほかにも気になるところがあれば、遠慮なく言ってほしい。今日は提出する前の最後の確認だからね」
エレノアは三つの書類を見比べた。
拒否声明には、自分の名前がある。
説明書には、ロシュフォール家として把握している事情が記されている。
送付状には、それぞれの書類が何であるかが明確に示されている。
以前なら、書類が増えるほど何が何だか分からなくなり、不安ばかり大きくなっていたかもしれない。
けれど、今はそれぞれの役割を理解できていた。
「叔父様。私、三つの書類がそれぞれ何のためにあるのか、分かりました。拒否声明は私の意思を伝えるもの。説明書はロシュフォール家が把握している事情を伝えるもの。そして送付状は、その二つを取り違えずに受け取っていただくためのものなのですね」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「そうだよ。よく理解できているね」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「何度も教えていただきましたから」
セドリックも笑みを浮かべた。
「でも、最後に自分で確かめたのは君だよ。僕たちが説明したことを、そのまま受け入れるだけではなく、君自身で考えてくれたからこそ、ここまで来られたんだと思う」
エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
そして、机の上に並ぶ書類へもう一度目を向けた。
ここまで来たのだ。
あとは、届けるかどうかを決めるだけだった。
◇ ◇ ◇
アルフォンスは、エレノアが三つの書類を確認し終えたことを確かめると、静かに口を開いた。
「エレノア。最後に、君へ確認したいことがある」
エレノアは顔を上げた。
「はい、叔父様」
「この三つの書類を、王宮の儀典担当部署へ提出してよいだろうか。もちろん、今日ここで決めなければならないわけではない。もう少し考えたいなら、時間を取って構わないよ」
エレノアはすぐには答えなかった。
机の上に並ぶ書類を見つめ、これまでの出来事を思い返した。
父ロベルトが、彼女の同意を得ないまま婚約受諾の返書を送ったこと。
その事実を知り、何とか自分の意思を伝えようと考え始めたこと。
王宮へ問い合わせを行い、どのような手続きが必要なのかを確かめたこと。
そして、昨日、自分の名前を書いたこと。
どれも、簡単なことではなかった。
途中で何度も不安になり、家族へ同じような質問を繰り返したこともある。
けれど、そのたびに、アルフォンスもセドリックも、彼女の言葉を聞いてくれた。
今、目の前にある書類は、その積み重ねによって整えられたものだった。
(怖いわ。王宮へ届いたあと、何が起こるのか分からないもの。でも、だからといって、私の意思を伝えないままでいることの方が、もっと怖い)
エレノアは胸の奥にある気持ちを確かめた。
第二王子との婚約を望んでいない。
その意思は、今も変わっていない。
父の返書と自分の意思を同じものとして扱ってほしくない。
その願いも、変わっていない。
ならば、ここで立ち止まり続ける理由はないのだと思った。
エレノアは顔を上げ、アルフォンスをまっすぐに見つめた。
「叔父様。提出をお願いいたします」
アルフォンスは静かに頷いた。
「分かった。君の意思として、確かに受け取ったよ」
エレノアは続けた。
「王宮がどのように判断なさるのかは、まだ分かりません。でも、私が婚約を望んでいないことだけは、きちんと伝えたいのです」
「そうだね。そのために、ここまで準備してきたのだから」
セドリックも穏やかに微笑んだ。
「エレノア。君が自分で決めたことを、僕も大切にしたいと思う」
エレノアは二人へ頭を下げた。
「ありがとうございます。叔父様、お兄様。ここまで一緒に考えてくださって、本当にありがとうございました」
アルフォンスは少しだけ目を細めた。
「礼を言うのは、まだ早いかもしれないね。これからも確認しなければならないことはあるだろう。でも、今日ここまで進めたことは、大切にしてよいと思うよ」
エレノアは頷いた。
そのあと、アルフォンスは三つの書類を丁寧に揃えた。
送付状には、ロシュフォール家としての署名と日付を記す必要がある。
アルフォンスはその場で内容を再確認し、自分の名前を記した。
エレノアはその様子を静かに見守っていた。
叔父が署名するのは、彼女の意思を代わりに決めるためではない。
家として把握している事情を説明し、書類を届ける責任を引き受けるためだった。
その違いが、今のエレノアにははっきりと分かっていた。
アルフォンスは署名を終えると、書類をそれぞれ別の内封筒へ収めた。
拒否声明には、本人の意思表示であることが分かるように表記する。
説明書には、ロシュフォール家の事情説明であることを示す。
そして、二つの内封筒と送付状を、王宮の儀典担当部署宛ての外封筒へ収める準備を整えた。
エレノアはその手順を見つめながら、胸の奥が静かに高鳴るのを感じた。
自分の言葉が、封筒の中へ収められていく。
それは、これまで頭の中で考えていた未来が、現実の形を持ち始めた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
書類を封じる前に、アルフォンスはもう一度エレノアへ確認した。
「エレノア。これから封をするけれど、最後に何か確かめたいことはあるかな」
エレノアは少し考えた。
書類の内容は確認した。
提出先も分かっている。
受領と判断が別であることも理解している。
それでも、ひとつだけ気になることがあった。
「叔父様。王宮へ届いたあと、私の拒否声明を誰が読むのかは、やはり分からないのですよね」
アルフォンスは静かに頷いた。
「そうだね。王宮からの回答では、関係部署で取り扱われる可能性があることは分かったが、閲覧者を厳密に限定する保証はできないとされていた。だから、第二王子殿下が必ず読むとも、読まないとも言えない」
エレノアはその答えを聞き、ゆっくりと息を吐いた。
レオナードが自分の言葉を読むかもしれない。
その可能性を考えると、今でも怖さを感じる。
以前の人生で、自分を処刑へ追い込んだ王子。
その人物が、今の人生ではまだ自分と出会っていない。
彼が今何を考えているのか、エレノアには分からない。
そして、彼が拒否声明を読んだとき、どのような反応を示すのかも分からない。
(でも、読まれるかもしれないからといって、私の意思を隠していたら、何も変わらないわ)
エレノアは顔を上げた。
「分かりました。誰が読むのか分からないことは、少し怖いです。でも、そのことも承知したうえで、提出していただきたいと思います」
アルフォンスは頷いた。
「分かった。では、封をしよう」
彼は書類の入った封筒を整え、封蝋を用意した。
エレノアはその手元を見つめていた。
蝋が溶け、封筒の合わせ目へ落とされる。
ロシュフォール家の印章が押されると、柔らかかった蝋は少しずつ形を保ち始めた。
その光景を見ながら、エレノアは不思議な気持ちになった。
封筒の中には、自分が何度も考えて書いた言葉がある。
今はもう、その文字を見ることはできない。
けれど、何が書かれているのかは、はっきりと覚えている。
エレノアは封蝋が固まるのを見届け、静かに息を吐いた。
アルフォンスは封筒を持ち上げ、宛先をもう一度確認した。
「王宮の儀典担当部署宛て。これで準備は整ったよ」
エレノアは頷いた。
「ありがとうございます、叔父様」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
「このあと、屋敷の書簡を取り扱う者へ渡す。王宮へ届ける際には、受領の確認ができるよう手配するつもりだ」
「はい。よろしくお願いいたします」
セドリックは封筒を見つめながら、静かに口を開いた。
「エレノア。これで、君の言葉を届けるための準備は終わったね」
エレノアは従兄へ顔を向けた。
「はい。まだ王宮へ届いたわけではありませんけれど、ようやくここまで来ることができました」
その声には、安堵と緊張が入り混じっていた。
けれど、以前のように、自分の言葉がどこにも届かないのではないかという絶望はなかった。
◇ ◇ ◇
午後の遅い時間、ロシュフォール家の書簡を取り扱う使用人が、アルフォンスの執務室を訪れた。
王宮宛ての封書は、ほかの書簡と取り違えないよう、専用の書類入れへ収められている。
アルフォンスは宛先と封蝋を確認し、使用人へ手渡した。
「これは王宮の儀典担当部署宛ての書類だ。受領の確認ができるように手配してほしい。届け先について不明なことがあれば、勝手に判断せず、こちらへ連絡するように」
「かしこまりました。確かにお預かりいたします」
使用人は丁寧に一礼し、書類入れを抱えて退出した。
アルフォンスはその背中を見送り、しばらく扉の方へ目を向けていた。
エレノアの意思が、ようやく王宮へ向かう。
それはロシュフォール家にとっても、大切な一歩だった。
ただし、ここから先は、家の中だけで完結する問題ではない。
王宮が書類を受け取り、どのように扱うのか。
ベルナール家からの受諾返書との関係を、どのように整理するのか。
そして、本人の拒否声明をどのように記録へ残すのか。
それらについては、今後の連絡を待つ必要がある。
アルフォンスは机へ戻り、送付した書類の控えと日付を記録した。
そのあと、ロベルトから届いた書簡を取り出した。
ベルナール家への返答は、まだ送っていない。
養子縁組の進行状況について説明できる範囲を整理し、婚約に関する情報の共有については、本人の意思を尊重しながら慎重に対応する必要がある。
アルフォンスは書簡を読み直し、静かに息を吐いた。
(ロベルト殿が何を考えているのかは、まだ分からない。だが、エレノアの意思を軽く扱うことだけは避けなければならない)
彼は新しい用紙を取り出し、返答の草案を書き始めた。
◇ ◇ ◇
その頃、エレノアはリディアとともに庭園の南側を歩いていた。
空は朝よりも明るくなり、木々の間から差し込む光が石畳へ柔らかな模様を作っている。
東側の通路には引き続き立ち入りを控えるための措置が取られており、二人は安全な南側の道を選んで歩いていた。
エレノアはゆっくりと歩きながら、午後の執務室で見た封蝋のことを思い出していた。
叔父が印章を押した瞬間、書類が自分の手元から離れていくのだと実感した。
それは少し怖いことだった。
けれど、同時に、ようやく自分の言葉が外の世界へ向かうのだという感覚もあった。
「エレノア様。お疲れではございませんか」
リディアが声を掛けると、エレノアは顔を上げた。
「大丈夫よ。少し考え事をしていたの」
「本日は、大切なお話がございましたものね」
「ええ。王宮へ提出する書類を、最後まで確認することができたわ。叔父様が封をしてくださって、届けるための手配も進めてくださっているの」
リディアは穏やかに頷いた。
「それは、エレノア様にとって大きな一日でございましたね」
エレノアは少し考えてから微笑んだ。
「そうね。でも、不思議なの。もっと大きな変化が起きたように感じるのかと思っていたのに、庭はいつもどおりで、空もきれいで……。私の周りは、何も変わっていないように見えるの」
リディアは庭の花壇へ視線を向けた。
「大切なことが起きた日でも、周りの景色はいつもと同じであることがございますね。けれど、エレノア様が今日なさったことは、確かに残っているのだと思います」
エレノアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「ええ。私も、そう思いたいわ」
二人は花壇のそばで足を止めた。
秋の花々は、夏の頃よりも落ち着いた色合いになっている。
エレノアはその中に、小さな青い花を探すように視線を動かした。
けれど、目に入ったのは、淡い紫色の花だった。
その色を見て、机の上に置いてきた刺繍の試し縫いを思い出す。
青い糸だけで進めている花びらに、紫を加えるかどうか。
まだ決めていないことの一つだった。
エレノアは花壇を見つめながら、少しだけ微笑んだ。
(刺繍の色は、まだ考えていてもいいのよね。今日決めなければならないことと、これからゆっくり決めてよいことは、同じではないもの)
そう思うと、胸の奥が少し軽くなった。
王宮へ提出する書類については、自分で決めた。
けれど、すべてのことを急いで決める必要はない。
母の遺品についても、古い記録についても、まだ確かめたいことがある。
それらは、これから少しずつ向き合っていけばよいのだと思った。
◇ ◇ ◇
夕方、エレノアは祖母マルグリットの部屋を訪れた。
マルグリットは窓辺の椅子に腰を下ろし、膝掛けの補修に使う布を見比べていた。
エレノアが入室すると、祖母は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「エレノア、いらっしゃい。今日は庭を歩いてきたのかしら」
「はい。リディアと南側の通路を少し歩いてまいりました。お天気がよくて、とても気持ちがよかったです」
「それはよかったわ。今日は風も穏やかでしたものね」
エレノアは祖母の隣へ座り、少しだけ迷ってから口を開いた。
「お祖母様。今日、叔父様にお願いして、私の拒否声明を王宮へ提出する準備を整えていただきました」
マルグリットは手を止め、エレノアへ顔を向けた。
「そう。もう、そこまで進んだのね」
「はい。私が署名した書類と、ロシュフォール家の説明書、それから送付状を確認して、提出していただくことにしました。叔父様が封をしてくださったところも、見届けました」
エレノアは言葉を選びながら続けた。
「まだ王宮へ届いたわけではありませんし、婚約について何かが決まったわけでもありません。でも、私の意思を伝えるための書類を、ようやく送り出すことができました」
マルグリットは静かに頷いた。
「よく考えて決めたのね。あなたが納得できたのなら、わたくしも嬉しいわ」
エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、少しだけ怖い気持ちも残っています」
「そうでしょうね。大切なことですもの」
マルグリットはエレノアの手を取り、優しく包み込んだ。
「怖い気持ちが残っているからといって、今日あなたが決めたことの意味が小さくなるわけではないわ。これからも不安になる日はあるでしょうけれど、そのときはまた話しにいらっしゃい」
エレノアは祖母の手を握り返した。
「はい。ありがとうございます、お祖母様」
マルグリットは少し微笑み、膝の上の布へ目を向けた。
「そういえば、あなたの青い花の刺繍は、どこまで進んだのかしら」
エレノアはその問いに、少しだけ表情を明るくした。
「今日は、青い糸を少しだけ進めました。紫の糸を加えるかどうかは、まだ決めていないのですけれど」
「そう。急いで決めなくてもよいと思うわ。実際に並べてみて、あなたが好きだと思う色を選べばいいのよ」
祖母の言葉に、エレノアは頷いた。
王宮へ向かう書類のことを考えていた時間とは違う、穏やかな会話だった。
けれど、その時間も、彼女にとっては大切だった。
婚約の問題だけが、自分の人生のすべてではない。
母のことを知り、刺繍を楽しみ、家族と過ごす時間も、これからの人生には必要なのだと思えた。
◇ ◇ ◇
夜、エレノアは自室で手帳を開いた。
今日も、書き留めておきたいことが多かった。
王宮へ提出する三つの書類を確認したこと。
自分の意思で提出をお願いしたこと。
そして、叔父が封をしてくれたこと。
エレノアは一つずつ、丁寧に書き記した。
書類が王宮へ届いたかどうかは、まだ分からない。
受領の確認が届いたとしても、それが婚約についての判断を意味するわけではない。
そのことも、忘れないように書いておいた。
そして、父ロベルトから届いた書簡についても、まだ返答が送られていないことを記した。
父が何を考えているのかは、今も分からない。
けれど、今の自分は、父の考えを推測することだけに時間を費やすつもりはなかった。
自分の意思を伝えるために、できることをした。
その事実を、まずは大切にしたかった。
エレノアは筆を止め、机の上に置かれた青い花の刺繍へ目を向けた。
まだ完成していない花びらには、青い糸が重ねられている。
紫の糸を加えるかどうかは、これから考えればよい。
母アデラインがどのような花を作ろうとしていたのかも、まだ分からない。
それでも、今はその未完成の状態を、以前ほど不安には感じなかった。
エレノアは手帳の最後に、短い文章を書き加えた。
『私は、自分の意思を記した書類を、王宮へ届けていただくことにした。』
その文字を見つめると、胸の奥に静かな実感が広がった。
昨日、自分の名前を書いた。
そして今日、その名前が記された書類を送り出すことを決めた。
まだ何も終わっていない。
けれど、何も始まっていないわけでもない。
エレノアは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
夜の庭園には、柔らかな月明かりが落ちている。
木々の影が石畳へ長く伸び、遠くから葉の擦れる音が聞こえていた。
彼女はその景色を眺めながら、静かに息を吐いた。
王宮へ向かう封筒の中には、自分の言葉がある。
第二王子との婚約を望んでいないという、誰かに代わって決めてもらったものではない、自分自身の意思が。
その言葉がどのように受け取られるのかは、まだ分からない。
けれど、エレノアは今日、自分の意思を届けるための一歩を、確かに踏み出したのだった。




