皇后冠の毒針
黒い封書には、こう記されていた。
『死亡予告
明日正午、皇后ミレイユ・ローデンは、皇帝から授けられた冠を戴いた直後、冠の内側から突き出す毒針により死亡する』
私はまだ、皇后として戴冠していない。
けれど窓の外では、正午の儀式に使う皇后冠を載せた馬車が宮殿の門をくぐっていた。
「馬車を止めた。冠には誰も触れさせていない」
皇帝はそう告げると、私の返事を待った。
「儀式は延期できる。中止してもいい」
皇后になることも、冠を拒むことも、彼は命じなかった。
「まず冠を調べさせてください。その後で、戴くかどうかを私が決めます」
「分かった」
冠を載せた馬車は、中庭へ入る前に検査棟へ移された。近衛兵と宝物係が立ち会う中、封印された箱が開かれる。
白銀の冠には細い枝葉の意匠が巡り、正面には深い青の宝石が嵌め込まれていた。磨かれた表面には傷一つ見えない。
宝物係が台帳を読み上げた。
「昨夜、内張りの緩みを修復。固定金具三本を締め直した後、箱を封印しております」
三本。
その数字が耳に残った。
私は冠を持ち上げず、卓上の灯りを近づけさせて内側を覗き込んだ。深い青の天鵞絨を留める小さな金具が、等間隔に並んでいる。
ひとつ、ふたつ、みっつ――そして、もうひとつ。
「四本あります」
室内が静まり返った。
「礼式書の図では三本でした。正面に一本、左右に一本ずつ。ですが今は、左のこめかみに当たる位置へ四本目が加えられています」
皇帝が冠へ手を伸ばしかけ、止めた。
「外しても?」
冠は帝国の宝だ。それでも、宝を守るために命を差し出すつもりはなかった。
「お願いします。ただし、冠を押さえる者と金具を外す者を分けてください」
二人の係が四本目の金具を外すと、天鵞絨の下から髪ほどの細いばねが現れた。その先には、黒ずんだ銀針が折り畳まれている。
冠を深く戴き、内輪が押し広げられた瞬間に留め具が外れ、針が左のこめかみへ突き出す仕組みだった。
針先へ判別液を落とすと、白い布が紫黒く変色した。
「刺されれば?」
皇帝の問いに、検査官が青ざめたまま答えた。
「すぐに抜いても、助けられません」
蘇生も、都合のよい治療もない。
仕掛けどおりなら、私は確実に死ぬ。
私はもう一度、封書を見た。
今の私はまだ戴冠していない。それでも封書は『皇后ミレイユ・ローデン』と記している。
「封書は、現れた時点ではなく、死亡予定時刻に成立するはずの身分を記すのですね」
皇帝も文面へ目を落とした。
「敵の計画が、戴冠の成立まで前提にしている」
「はい。予告の称号は、死ぬ時点の身分を先取りする場合がある。ですが、敵がそう見込んでいるだけです。私が戴冠を承諾したことにはなりません」
未来を決める言葉ではない。
敵が用意した順序を漏らす言葉なのだ。
毒針とばねは取り除かれ、四本目の穴には動かない銀の留め具が嵌められた。内輪全体も薄い銀板で覆い、隠された仕掛けがないことを複数の目で確認した。
夜、皇帝は机上へ婚姻解消申立書を置いた。
以前から私が預かっている、未署名の書類だった。
「誤解のないように言っておく」
彼は冠ではなく、私を見ていた。
「今回の戴冠は、冠に仕掛けを入れた者を公に追及し、お前に皇后としての保護と調査権限を与えるための暫定措置だ。人質条項の破棄も、婚姻解消権の正式な処理も終わっていない」
申立書を私の側へ押し戻す。
「戴冠を受けても、最終的に残留を選んだことにはしない。この書類も、お前が預かったままでいい」
胸の奥にあった不安を、彼が先に言葉にしてくれた。
「私は将来、戴冠を拒む権利も、祖国へ帰る権利も、婚姻解消を申し立てる権利も留保します」
「認める」
「そのうえで、明日の暫定戴冠だけを承諾します」
彼はすぐにうなずいた。
「それでいい。明日の承諾を、明後日の拘束にはさせない」
私は申立書を折らず、これまでと同じ書類入れへ戻した。
まだ手放さない。
未来の答えは、未来の私が選ぶ。
翌日、正午。
大広間に参列者が集まる中、今回の戴冠が捜査終結までの暫定措置であることが読み上げられた。
皇帝は冠を手に、私の前へ立った。
「髪へ触れてもいいか」
「はい。戴かせてください」
白銀の冠がゆっくりと下りてくる。
重みが頭へ伝わり、左のこめかみに意識が集まった。
針は出ない。
痛みもない。
正午の鐘が鳴り終えるまで、私は自分の足で立っていた。
二十八件目の死は回避された。
これは人質として命じられた地位ではない。
少なくとも今この時点で、私が自ら引き受けた公的な皇后の座だった。
戴冠後、逃亡を図った修復係が拘束された。工具箱からは毒の小瓶と四本目の金具を削った鑢が見つかり、修復記録もすべて押収された。
その台帳の作業許可欄には、摂政時代の誓約印が残っていた。
「原本は、捜査資料用の保管庫へ移す必要があります」
記録係の報告を受け、皇帝と私は輸送手順を机上で組み直した。
「原本と写しは別の馬車にしましょう。経路も分けます」
私が言うと、皇帝は宮殿の図面へ二本の線を引いた。
「護衛も別隊にする。だが、どちらが原本を持つかは出発直前まで伏せる」
「台帳は全頁を二人で照合してから封印します。途中で差し替えられても分かるように」
「では、封印には皇帝印と皇后印を並べる。それでいいか」
「はい」
どちらか一人が決めた手順へ、もう一人が従うのではない。
危険を一つずつ言葉にし、互いの判断を重ねていく。
暫定の冠を戴いた後も、それだけは変わらなかった。
戴冠の朝、修復責任者から封鎖用の横棒と受け金具の説明を受けたその場で、私は皇后として初めての命令を下していた。宝冠修復庫の封鎖――暫定の冠を正式な宝冠へ戻す作業を、台帳の照合が終わるまで誰にも触れさせないためだった。
翌朝、二十九通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日午後二時、皇帝は、皇后ミレイユ・ローデンが封鎖を命じた宝冠修復庫へ検分のため入った直後、床下火薬の爆発により死亡する』
封鎖を命じたのは、私だ。
(第29話へ続く)




