署名された偽り
廊下を走りながらも、封書の文面は一字も揺らがなかった。
『死亡予告
明日午後一時、皇帝は、ミレイユ・ローデンが第七保管室から持ち出した廃止誓約書を開いた直後、毒煙により死亡する』
私は持ち出していない。
けれど第七保管室で見つけた移送命令には、私の署名が写されていた。
皇帝執務室の前では、近衛兵が黒い文書箱を囲んでいた。運搬係は箱を机へ置いたあと、開封の立ち会いを求めていたという。
「誰も蓋に触れないで!」
私が叫ぶと、伸びかけていた手が止まった。
箱は横幅が両腕ほどあり、黒く塗られた木製だった。正面には第七保管室の封蝋が押され、蓋には移送命令が貼られている。
署名は私のものに見えた。
最後の払いがわずかに右へ跳ねる癖も、筆圧の弱くなる位置も同じだ。あの緊急審理で提出した署名を複写した偽無効令と、同じ手口だった。
けれど、今回は印影まで第七保管室の記録と一致している。
皇帝が追いつき、私の隣で足を止めた。
「中へ運ばせた者は」
「ミレイユ様の命令を受けたと名乗る書類運搬係です。確認のため別室に留めています」
近衛兵の返答に、胸の奥が冷えた。
私の顔を知らない者なら、署名と印だけで信じる。命令が記録へ載れば、私が持ち出したという偽りは宮殿の事実になる。
「私は命じていません」
自分でも驚くほど硬い声だった。
完全に同じ署名を前にして、記憶だけを証拠にする怖さが蘇る。薬で見せられた偽執務室も、偽の時鐘も、私は鮮明に覚えていた。覚えていることと、起きたことは同じではない。
皇帝は箱ではなく私を見た。
「分かっている」
あまりに早い返事に、息をのみ込んだ。
「私の記憶を信じるのですか」
「それだけではない。昨日、持ち出し命令を見つけたとき、お前は私と同じ場所にいた。今朝も封書が現れるまで、この部屋を出ていない。記録と、私が確かめた事実が食い違うなら、先に記録を疑う」
私の能力を盲信したのではなかった。
私一人に真実を証明させるのでもない。
二人で見たことを、二人分の事実として差し出してくれたのだ。
胸を締めつけていた恐怖が、少しだけほどけた。
「ありがとうございます。ですが、この箱はまだ開けないでください」
封書には、廃止誓約書を開いた直後とある。毒が紙そのものに塗られているとは限らない。開封という動作が、別の仕掛けを作動させる可能性がある。
私は箱の前へ膝をついた。ただし触れず、床すれすれまで顔を下げて側面を見た。
昨日、第七保管室で見た文書箱は、底板の木目が横向きだった。この箱は縦向きだ。それに蓋の蝶番だけが、不自然に新しい。
「同じ箱に見せた別物です。底と蝶番を調べたいです」
「どうすれば安全にできる」
「箱を開けず、底からです。人が近くにいない場所で、長い器具を使います」
皇帝はすぐに執務室周辺を封鎖した。箱は蓋を固定したまま板へ載せられ、風上から綱で引いて、壁のない石造りの作業場へ移された。
私は同行を望んだ。皇帝は止める代わりに、私へ距離を選ばせた。
「どこまで近づく」
「箱から二十歩。底板が外れるまでは、それ以上近づきません」
「私も同じ位置に立つ」
私たちは並び、設備係が長柄の器具で底の留め具を一本ずつ外すのを見守った。
最後の留め具が抜けると、薄い底板が落ちた。
その内側に、二本の細い硝子筒が固定されていた。筒の間には小さな鉄槌があり、銅線が箱の蝶番まで延びている。
蓋を上げれば蝶番が銅線を引き、鉄槌が二本の筒を同時に割る。
片方の液体だけを布へ一滴移し、侍医長の薬庫から押収した判別液を離れた場所で加えると、布は紫黒く変色した。もう片方には、白い鉱粉が沈んでいる。
混ざれば毒煙になる組み合わせだった。
しかも硝子筒は紙束の真下にある。蓋を開けば、立ち上る煙を避ける間もなく吸い込む。
蘇生できる毒ではない。吸ってから治すのでは遅い。
設備係は底側から銅線を切断し、二本の硝子筒を別々の密閉容器へ収めた。鉄槌も取り外され、蝶番を動かしても何も起こらないことが確認された。
実行役の仕掛けは破れた。
運搬係の衣服からは、摂政時代の文書移送印と銀貨が見つかった。さらに移送簿には、私が第七保管室で箱を引き渡したという記載まで、昨夜のうちに書き込まれていた。
封書は私が実際に持ち出したかを確かめていない。
実行計画が、私の署名と記録を使って『ミレイユが持ち出した書類』として成立させたなら、その偽りを前提として記すのだ。
封書に記された人物の行為は、現実の行為とは限らない。偽造された命令によって帰属させられた行為さえ、予告の因果へ組み込まれる。
皇帝は文書移送印を廃止し、第七保管室の書類を動かすには、私と皇帝の双方がその場で署名するよう命じた。署名済みの紙を届けるだけでは無効とし、立ち会った近衛兵の記録も必要とした。
命令書を前に、彼は私へ筆を渡す前に尋ねた。
「共同で署名してもいいか。お前の名を守るためとはいえ、私との署名を条件にする命令だ」
「期限を、オクタヴィアの権限に関する捜査が終わるまでとしてください」
「分かった。その後は改めて、お前の意思を聞く」
追記を確かめ、私は自分の手で署名した。皇帝も隣へ名を書いた。
私たちの名を並べることが、以前ほど怖くない。
偽造されないからではない。偽りが現れても、どちらか一人の記憶や権威へ押しつけず、二人で確かめられると知ったからだ。
翌日、午後一時。
毒の仕掛けを除いた黒い箱を、皇帝が開いた。
中には廃止誓約書が詰められていたが、煙は一筋も上がらなかった。二十六件目の死は回避された。
その夜、私たちは共同命令書の原本を一つの封筒へ収めた。
「封をしても?」
皇帝の問いに、私はうなずいた。
「一緒に」
二人で封蝋へ印を押した。
翌朝、二十七通目の黒い封書が現れた。
『死亡予告
明日午前九時、ミレイユ・ローデンは、皇帝と共同署名した封鎖命令に従い第七保管室へ入った後、外側から扉を封じられ、窒息により死亡する』
署名を終えたばかりの命令が、今度は私を閉じ込める鎖に変えられていた。
そこへ近衛兵が駆け込み、もう一通の命令書を机へ置いた。
私たちの手元に原本があるにもかかわらず、二人の直筆署名と帝国印を備えた同じ封鎖命令が、すでに第七保管室で執行されていた。
(第27話へ続く)




