黒い封書
婚礼の翌朝、目を覚ました私の胸の上に、黒い封書が載っていた。
寝台を覆う薄絹の天蓋には、白みはじめた朝の光が滲んでいる。昨夜、衣擦れの音さえ耳につくほど緊張しながら寝台へ入ったとき、こんなものはなかった。
扉の閂は内側から掛かったまま。窓にも鍵が掛かり、見張りの兵は一晩中、廊下にいたはずだった。
封書は掌ほどの大きさで、夜を切り取ったように黒い。冷えた紙の重みが、寝間着越しに胸へ残っていた。
封蝋には紋章も差出人の名もない。
人質として敵国の皇帝へ嫁いだばかりの私に、祝いの手紙を届ける者などいない。
祖国を発つ朝、見送りに立った宰相はこう言った。
『人質花嫁に価値はない。生きて戻る算段は不要です』
そのとおりだと思ったから、私は頷いた。頷けてしまう程度には、私はあの国で誰にも必要とされていなかった。
それでも私は侍女を呼ばず、自分の指で封を開いた。
妙に硬い封蝋が、小さく鳴った。
中には、銀色の文字が三行だけ浮かんでいた。
『死亡予告
明日正午、皇帝は祝宴で乾杯の杯を飲み、毒によって死亡する。
本状を破損した場合、死亡時刻は破損した時点まで繰り上がる』
「……明日の、死?」
声が乾いた。
反射的に便箋を握り潰しかけ、私は指を止めた。紙の端がわずかに撓んだだけで、心臓が跳ねる。
破損すれば時刻が早まる。
脅迫状なら、破り捨てさせるための虚言とも考えられる。けれど封書そのものが、誰にも気づかれず私の胸元へ現れたのだ。常識を頼りに無視できるものではなかった。
私は息を殺して便箋を平らに伸ばし、元どおり封筒へ戻した。さらに柔らかな布で包み、傷一つつかないよう両手で抱えた。
皇帝とは昨夜の婚礼で初めて言葉を交わした。
冷酷で、敵を赦さず、必要なら妻すら駒にする男――祖国ではそう教えられてきた。黄金の燭台が並ぶ大聖堂で対面した彼も、噂に違わず、黒い礼装の似合う近寄りがたい人だった。
ところが誓約の直前、彼は参列者に聞こえない声で私に尋ねた。
『拒むなら、今ここで言え。おまえの国との交渉は私が引き受ける』
逃げ道のない人質へ、形ばかりでも選択肢を差し出したのだ。
私は彼の灰色の目を見返し、自分の意思で「嫁ぎます」と答えた。祖国のためだけではない。差し出された選択を、誰かに奪われたくなかった。
だからといって、彼を信じたわけではない。
けれど、明日死ぬと知って黙っていられるほど、私は器用でも冷淡でもなかった。
その日の午後、私は封書を携えて皇帝の執務室を訪れた。
重い扉の向こうには、紙と革装丁、それに消えかけた蝋燭の匂いが満ちていた。皇帝は黒衣のまま長机の向こうに座り、最後まで口を挟まず予告状を読んだ。
銀の文字を指でなぞることも、封書を乱暴に扱うこともしなかった。その慎重さに、私は無意識に詰めていた息を吐いた。
「これを私に見せれば、おまえが暗殺計画を知っていた証拠にもなる」
「承知しています」
「偽物とは考えなかったのか」
「寝室へ入れた者がいるなら、どのみち私たちは安全ではありません」
皇帝の目がわずかに細くなった。疑われている。それでも、追い出されはしなかった。
「祝宴を中止なさいますか」
「しない。私が毒を恐れて公の席から逃げれば、帝位が揺らぐ」
予想していた答えだった。
明日の祝宴は婚姻を諸侯へ示すためのものだ。人質花嫁を迎えた直後に皇帝が姿を隠せば、私の祖国が彼を脅したという噂まで立つ。
「では、杯と酒をすべて調べてください」
「調べたあとで毒を入れられたら?」
「私が陛下のお側で見張ります。一度会った者の顔と、その者が話したことを、私は忘れません」
「失敗すれば私が死ぬ」
「成功しても、私は暗殺未遂の共犯を疑われます」
口にして初めて、その危険が冷たい刃のように実感を伴った。それでも視線は逸らさなかった。
皇帝は封書を机上へ置いた。
「杯を叩き落とせば、毒の有無は確かめられる。だが公衆の面前で皇帝の杯を奪う花嫁を、近衛は見逃さない」
「拘束される、と?」
「私が尋問へ行くまで、何も話すな。抵抗もするな」
それは命令の形をしていた。けれど彼はすぐには話を終えず、私の返答を待った。
昨夜と同じだ。
決める余地を、私に残している。
「陛下は、私の話を信じてくださるのですか」
「まだ信じてはいない。だが、確かめる価値はある」
冷たい声だった。それなのに、不思議と息がしやすくなった。
信じると言われるより、その言葉のほうが信用できた。
「分かりました。私も陛下を、明日の正午まで信じます」
翌日の祝宴では、磨き上げられた杯が一つずつ検められ、酒樽も封を切る前に侍医長が確認した。
異常はない――そう告げられ、楽師の演奏が始まった。
華やかな弦の音と談笑が天井の高い広間へ響く。焼いた肉と香草、甘い果実酒の匂いが混じり合う中、私だけが祝宴から切り離されているようだった。
私は皇帝の隣で、酒を注ぐ者たちの顔を順番に見た。額に汗を浮かべた者。緊張で盆を握り締める者。笑顔を崩さぬ者。
その中の一人に見覚えがあった。
婚礼の夜、慣れない宮殿で道に迷った私へ、客室までの道を教えた給仕だ。あのとき彼は確かに、「右手を火傷して、杯を持てない」と話していた。
けれど今、布を巻いているのは左手だった。
背筋を冷たいものが走る。
給仕が右手で酒瓶を傾ける。赤い酒が細い筋となって杯へ落ちた。瓶の口ではなく、親指の爪が皇帝の杯の縁へ触れる。
爪と肉の間から、白い粒が一つ落ちるのを、私は見た。
鐘楼から正午の鐘が響いた。
一度。二度。
給仕は人垣の向こうへ下がる。追えば、皇帝が杯を口へ運ぶ。
迷う時間はなかった。
「陛下!」
私は立ち上がり、皇帝の手から杯を叩き落とした。
金属音が広間を切り裂き、赤い酒が白い床石へ飛び散る。
次の瞬間、床石がぶくぶくと泡立った。甘かった酒の香りに、鼻を刺す異臭が混じる。白い石は見る間に、血を吸ったような紫黒色へ変わった。
悲鳴が上がった。
皇帝は飲んでいない。
予告された死は、回避できた。
全身から力が抜けそうになるほど安堵した途端、背後から両腕をつかまれた。近衛兵が私を床へ押さえつけ、頬へ冷たい石の感触が触れる。侍医長が変色した床の前へ膝をついた。
「猛毒です! 皇后陛下が杯へ何かを入れた可能性があります!」
「違います。酒を注いだ者の右手を調べてください!」
振り返ったときには、給仕の姿は人垣から消えていた。
侍医長が鋭く告げる。
「暗殺犯が騒ぎに乗じて架空の共犯者を作ったのでしょう。拘束を!」
近衛兵の手に力がこもる。肩に痛みが走った。
皇帝は倒れた杯と私を見比べた。その表情からは、疑念も答えも読み取れない。
助けを求めれば、執務室で交わした約束まで疑われる。
私は唇を噛み、抵抗をやめた。
「その者を地下牢へ」
皇帝の命令に、胸の奥が冷えた。
だが、続く声は騒然とする広間の隅まで届いた。
「傷一つつけるな。これは処刑ではない。私が直接、真偽を確かめる」
手放しで信じてくれたわけではない。それでも彼は、私が命を賭けて稼いだ時間を認めてくれた。
私も約束どおり、何も話さず地下牢へ下りた。
石造りの独房には湿った冷気が沈み、壁から落ちる水滴の音がいつまでも響いた。粗末な毛布を肩へ巻いても眠れない。目を閉じるたび、白い毒の粒と、感情を見せない皇帝の横顔が浮かんだ。
それでも彼は生きている。
その事実だけを胸の内で繰り返し、私は長い夜を越えた。
翌朝、遠くで鐘が鳴ると同時に、膝の上へ黒い封書が現れた。
音も気配もなかった。瞬きをする前には何もなかった場所に、昨日と同じ闇色が横たわっている。
昨日の封書は皇帝へ預けたまま。これは新しい一通だ。
毎朝一通だけ現れ、翌日の死を一件だけ告げる。そして皇帝の死を回避したから、次の封書の内容が変わったのだ。
震える指で封を開く。
銀色の文字が、暗い牢内に浮かび上がった。
『死亡予告
明朝、花嫁ミレイユ・ローデンは皇帝の剣で胸を貫かれ死亡する』
息が止まった。
次に死ぬのは、私だった。
しかも私を殺すのは、昨日救ったばかりの夫だ。
(第2話へ続く)




