2.間諜令嬢レリア
レリア・アルトワは、間諜である。
なぜそんなことをしているのかというと、シンプルに不幸な生い立ちのせいだ。
名門アルトワ侯爵家の次女として生まれたレリアにはたくさんのきょうだいがいるが、レリアだけは第二夫人の子だった。母を急病で失い、継母に育てられることになったものの、彼女は冷たくとも分別があり、最低限の教養を身につけることはできた。
けれど、十二歳になった頃にささやかな平穏は脅かされた。もともと怪しいと思っていた長兄のロリコン疑惑が確定したのだ。両親の不在を狙って兄に襲われそうになったレリアは、兄に大怪我を負わせた。
――その結果、レリアはアルトワ侯爵家を追い出されることになる。
どんなに言葉をつくしても、両親はおろか誰もレリアを信じてくれない。それどころか、お前が兄を誑かしたんだろうと詰られた。
(腹が立つけれど、仕方がないのもわかるわ。だって、お兄様は表向きは品行方正で将来有望、お父様お母様の自慢の息子だもの。嫌っている妹をどうにかしようとしたなんて、誰も信じないでしょう)
ということで、レリアは身一つで家から放り出された。そして、行くあてもなく街をふらついていたところを、王国庁内の専門部署に拾われる。
実は、レリアは兄に襲われかけたとき【祝福】という特別な能力を発現させていた。
これは、アルトワ家の血筋の者が稀に目覚めさせる能力で、父やきょうだいたちは目覚めさせることができず、落胆していたものだ。
間諜として特殊訓練を受けることになったレリアは、見事に出世街道に乗った。生まれが高貴で教養もあり、頭も悪くなく、魔法が得意な上に祝福持ち。仲間からは『カフェのパフェトッピング全部乗せだね』と表現されたことがあり、なんとなく立ち位置を把握した。
そうして組織にも慣れて十五歳になった頃、単独での特別任務が下る。
『ウィリアム・エルランジェと結婚し、エルランジェ公爵家を内部からぼろぼろに壊すこと』
それが、レリアに命じられた任務だった。
王国庁が手を回した結果、実家に呼び戻されたレリアは、生家アルトワ侯爵家の娘としてエルランジェ公爵家に嫁ぐことになった。
当時、エルランジェ公爵家は名門だが、犯罪まがいのことに手を染めているというきな臭い噂があった。『内部をぼろぼろにしろ』という命令が下ったのも、そこに原因がある。
そんなところとの縁談がアルトワ家に持ち込まれたのだから、レリア以外の子供たちを溺愛する両親が愛娘を嫁がせるはずがない。彼らは、これまで家を追い出してから一度も行方を気にしたことがなかったレリアを一生懸命探し出し、縁談を押し付けた。
(ざんねんな出自だと思っていましたが、任務の役に立ったのですから、幸運でしたね)
レリアの甘いラベンダーの色味を帯びた柔らかな長い髪と、翡翠色の瞳は、はっきり言って目立つ。変装をしないと任務につきづらいのが難点とばかり思っていたが、この任務に関してはそれがうまく働いた。
(だって、『家をめちゃくちゃにするため、馬鹿な妻を演じる』が今回の作戦だったんだもの。自分のちょっと浮かれた外見を複雑に思うこともありましたが、それが役に立ちましたね)
そして命令通り、レリアは半年間をかけて完璧に馬鹿を演じ切った。
あまりにも完璧すぎて、これまでに何度夫であるウィリアムから「お願いだから君は何もしないでくれ」と懇願されたことか。
けれど、そこでいうことを聞いてしまっては、本当の意味で馬鹿とは言えない。だから何を言われても、馬鹿を演じるレリアが止まることはなかった。
(だけど聞いていた話とはずいぶん違い、旦那様は優しかったのですよね。キャサリン様が愛人だという噂もきっと嘘のような気がします。任務を終えた今だから言えますが、家をめちゃくちゃにするのが申し訳ないぐらいの素敵な人でした)
それでも上からの命令を無視することはできないし、エルランジェ公爵家自体に向けられた疑念は変わらない。罪悪感から、レリアはこっそりいくつかの置き土産を残すことにした。
それらは、きっといつか元夫の助けになるはずのもの。しかし、判明するのは早くても数年以上先になるので、レリアにはもう関係ないことだ。
(こんな依頼はもうないでしょう。平和に貢献できた上に、珍しくて、結構楽しいお仕事でしたね)
馬車の窓から遠ざかっていくエルランジェ公爵家の屋敷を眺めながら、レリアは達成感に浸る。一方で、薄情な実家への怒りも僅かに顔をのぞかせた。
(実家アルトワ侯爵家は、離縁された私が家の敷地に入ることを許さないでしょうね。形だけは実家に顔を出して、また姿を眩ませましょうか。とにかく、長期任務の後です。しばらくはゆっくり過ごしたいです)
暢気に自分を労いながら、馬車の中で伸びをする。
――これで全てが終わった。
そのはずだった。




