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第42話 帳簿の終わり。神のロジックを買い叩く

「不合理だ。……貴女が管理者権限を手放せば、この世界に満ちる『最適化された奇跡』はすべて失われるのだぞ」


 観測者のホログラムが、ノイズ混じりの声を荒らげた。

 白亜の聖域が激しく揺れ、空中を浮遊していた膨大なデータウィンドウが、真っ赤な警告色に染まっていく。システムが「管理放棄」という最大のバグに対し、自己崩壊を始めたのだ。


「最適化された奇跡? ……。笑わせないでください。……。そんなものは、ただの『架空利益』に過ぎませんわ」


 私は、崩れゆく床をゲルハルトの腕に支えられながら、力強く踏み締めた。

 脳内を駆け巡る膨大な「前世のデータベース」が、一文字ずつ砂のように零れ落ちていくのを感じる。……。数式が消える。複雑な化学式が霞んでいく。

 けれど、私の心臓はかつてないほどに熱く、確かな鼓動を刻んでいた。


「……。観測者様。……。貴方の言う『管理された平和』の維持費は、あまりにも高すぎます。……。人々の自由な意志を削り、不確定要素を排除して得られる帳尻合わせ……。そんな経営、今すぐ破産させて差し上げますわ!」


 私は、首筋に残った「管理者権限」の最後の残滓を、天に向かって解き放った。

 

「全権限を、この世界を構成する『すべての人々』に譲渡トランスファーします! ……。神の預金は、本日を以て全額引き出されました。……。さあ、決済の時間ですわよ!」


『――警告。最終決済(Final Settlement)を実行します。……。管理者エルゼの全記憶、および技術情報の消去を対価として……世界を「独立現実」へと移行。』


「エルゼ……っ!」


 ゲルハルトが私を抱きしめる腕に、爪が食い込むほどの力がこもる。

 

「消える。……。俺が知っている、あの鮮やかな貴様の『知恵』が消えてしまうのか!」


「……。いいえ、閣下。……。消えるのは、私のものではなかった『借り物の知識』だけです。……。貴方と過ごした日々、貴方を愛した記憶……。それだけは、このシステムの帳簿には載っていませんもの」


 視界が白く染まっていく。

 

 前世で学んだはずの、複雑な経済理論が消えていく。

 香水の、魔法のような配合比率が思い出せなくなる。

 けれど、ゲルハルトの胸の温かさ、彼の纏う鉄と、少しだけ不器用な愛の匂いだけは、鮮明に私の中に残り続けていた。


「……。さよなら、観測者様。……。これからは、自分たちの足で歩く人々から、正当な『利息』を徴収してご覧なさいな」


 パリン、と。

 世界を覆っていた「ガラスの天井」が砕ける音がした。


 白亜の聖域が崩壊し、私たちは真っ逆さまに「光」の中へと落ちていく。

 落下する恐怖はない。

 ただ、ゲルハルトが私を抱き寄せ、その大きな背中で私をすべての衝撃から守ろうとしてくれている。


「……。エルゼ。……。もし、すべてを忘れても。……。俺が何度でも、貴様に算盤の弾き方を教えてやる。……。貴様が俺を、何度でも『黒字』にしてくれればいい!」


「……。ええ。……。約束ですわよ、閣下」


 空気が変わった。

 無機質な、乾燥したシステムの匂いではない。

 潮の香り。土の匂い。そして、夜明けを告げる鳥のさえずり。


 魔法の光は、もうどこにもなかった。

 首筋を焼いていたバーコードの熱も、脳裏に響いていた冷徹なシステムの声も。


 目を開けると、そこはザイフリート領の、あの懐かしい「鉄の荒野」の断崖だった。

 

 地平線から、ゆっくりと朝日が昇ってくる。

 それは神が投影したホログラムではない。

 ただの、当たり前で、けれど何よりも尊い「本物の太陽」だ。


「……。エルゼ。……。大丈夫か」


 ゲルハルトが、泥だらけの顔で私を覗き込んでいる。

 

 私は、自分の頭の中を探ってみた。

 もう、複雑な化学式は出てこない。高度な経済予測もできない。

 

 でも。

 目の前にいるこの男をどうすれば喜ばせられるか。

 この地をどうすれば豊かにできるか。

 それは、私の魂に刻まれた「私自身の知恵」として、確かに残っていた。


「……。ええ、閣下。……。気分は最高ですわ。……。これほど『身軽』な感覚は、生まれて初めてですもの」


 私は、ゲルハルトの手を引き、立ち上がった。

 

 神のロジックを買い叩き、手に入れたのは「不確実な未来」。

 だが、その帳簿の第一ページには、世界で最も美しい「利益」の名前が記されていた。


「……。さあ、帰りましょう。……。私たちの、新しい現実へ」


 鉄の薔薇は、今、本物の土に根を張り、静かに、けれど強く咲き始めた。

第42話、お読みいただきありがとうございました。

ついにエルゼ様が「現代知識チート」を自らの意志で精算し、神の管理から脱却しました。

「管理者」であることを捨て、ただの「エルゼ」として生きる道を選んだ彼女。

それを「俺が教えてやる」と支えるゲルハルト閣下の言葉に、筆を執りながら熱いものが込み上げました……。


神に依存しない、自分たちの足で歩く世界。

そこにはどんな困難が待っているか分かりませんが、この二人なら、きっとどんな赤字も愛で埋めてしまうことでしょう。


いよいよ次回、最終回。

『鉄の薔薇、永遠の楽園へ』。

二人の物語のグランドフィナーレ、どうぞ最後まで見届けてくださいませ。


最後に、皆様の【下部の☆☆☆☆☆】や【ブックマーク】での応援が、完結への何よりの励みになります。

どうぞよろしくお願いいたしますわ!


次回、ついに最終回。

お楽しみに!

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