閉ざされた祈り
人が死ぬ瞬間を、私は一度だけ見たことがある。
それは高校の入学式の日。
私を助けるために、一人の男の子が命を落とした。
あの日から、私の中で「死」という言葉は、決して軽いものではなくなった。
どれほど願っても、失われた命は戻らない。
どれほど謝っても、亡くなった人には届かない。
だから私は、もう二度と誰かが死ぬところなんて見たくなかった。
けれど。
この世界に来て、まだ一日も経っていないというのに。
私は再び、人の死と向き合うことになった。
◇
——深夜。
王城の客室。
「……眠れない」
私は天井を見つめながら、小さく呟いた。
豪華な天蓋付きのベッド。
柔らかな枕。
ふかふかの布団。
普段なら、すぐに眠ってしまいそうな環境だった。
けれど、今夜ばかりは違った。
知らない世界。
知らない国。
そして、帰る方法すら分からない現実。
考えれば考えるほど、不安が胸の奥から湧き上がってくる。
「……響子?」
隣のベッドから声がした。
美琴だった。
「起きてたの?」
「……うん」
「眠れない?」
「……少し」
美琴は身体を起こした。
「私も」
窓から差し込む月明かりが、彼女の横顔を照らしている。
「さくらは?」
私が尋ねると、美琴は反対側のベッドを指さした。
「ぐっすり」
そこには、大の字になって眠るさくらの姿があった。
「……すごいね」
「ある意味、尊敬する」
思わず二人で笑ってしまった。
けれど、その笑いもすぐに消えた。
「……ねえ、美琴」
「何?」
「私たち、本当に帰れるのかな」
美琴はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……帰るしかないでしょ」
「……うん」
「だから、今はできることを考えよう」
その言葉に、私は小さく頷いた。
そのときだった。
——コン、コン。
扉を叩く音がした。
私は美琴と顔を見合わせた。
「……こんな時間に?」
美琴が立ち上がる。
「誰ですか?」
扉の向こうから、若い女性の声が聞こえた。
「失礼いたします。お夜食と温かいお飲み物をお持ちしました」
扉を開けると、そこには侍女が立っていた。
銀色の盆には、小さな焼き菓子と三つのカップが並んでいる。
「女王陛下からのお心遣いでございます」
「あ……ありがとうございます」
侍女は微笑んだ。
「慣れない場所でお疲れでしょう。どうか、ごゆっくりお休みください」
そう言って、静かに頭を下げた。
私は盆を受け取り、扉を閉めた。
「……優しい人たちだね」
美琴はカップを手に取りながら答えた。
「……そうだといいけど」
「美琴?」
「ううん。何でもない」
彼女は窓の外を見つめた。
王都の夜景。
遠くにそびえる神殿の尖塔。
その先端には、青白い光が灯っていた。
まるで、誰かを見張っているかのように。
◇
翌朝。
王城の廊下は、異様なほど騒がしかった。
「……何かあったのかな?」
私は扉の外から聞こえる足音に耳を澄ませた。
複数の人が慌ただしく行き交っている。
金属の触れ合う音。
誰かの怒鳴り声。
そして。
「——神官長様が!」
その言葉に、私は思わず身体を起こした。
「……え?」
美琴も目を覚ました。
「どうしたの?」
「今、神官長様って……」
そのとき、扉が激しく叩かれた。
「勇者様方! お目覚めでしょうか!」
男性の声。
私は慌てて扉を開けた。
そこには、昨日私たちを案内してくれた近衛騎士団副団長、ガイルが立っていた。
しかし、その表情は昨日とはまるで違っていた。
「……ガイルさん?」
「勇者様方。申し訳ありませんが、しばらくこの部屋から出ないようお願いいたします」
「……どうしてですか?」
ガイルは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……王城内で、事件が発生しました」
その言葉に、胸がざわついた。
「事件……?」
「はい」
ガイルは静かに頷いた。
「神官長エルド様が……」
そして、低い声で告げた。
「亡くなられました」
時間が止まったような気がした。
「……え?」
昨日、私たちを迎えてくれた老人。
優しく微笑み、勇者と呼んでくれた人。
その人が、死んだ?
「……どうして?」
私の問いに、ガイルは答えなかった。
ただ、険しい表情で廊下の奥を見つめていた。
「現在、詳しい状況を調べております」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
「どうか、ご理解ください」
◇
それから、どれほど時間が経っただろう。
私たちは部屋の中で、ただ待ち続けていた。
さくらは落ち着かない様子で歩き回り、美琴は窓辺で腕を組んでいる。
「……ねえ」
さくらが口を開いた。
「神官長さん、病気だったのかな?」
「……分からない」
私は答えた。
「昨日は普通に歩いてたよね?」
「そうだけど……」
美琴は何かを考え込んでいた。
「……昨日の夜」
彼女が呟く。
「廊下で、神官長と貴族の男が言い争っていた」
私は顔を上げた。
「……うん」
「それに、召喚の儀式のときも様子がおかしかった」
「……まさか」
さくらが息を呑む。
「誰かに殺されたってこと……?」
その言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。
殺された。
そんなこと、考えたくもなかった。
けれど。
昨日の神官長の表情。
貴族との言い争い。
そして、何かを隠しているような態度。
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいった。
そのとき。
再び扉が叩かれた。
「勇者様方」
ガイルの声だった。
「少々、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
◇
私たちは王城の小さな応接室へ案内された。
そこにはガイルのほかに、数名の近衛騎士が待っていた。
男性の騎士と女性の騎士もいた。
女性が騎士団に所属しているんだと心の中で驚きはしたが、口には出さなかった。
机の上には、何枚もの羊皮紙が並べられている。
「まず、昨夜の行動について確認させてください」
ガイルは椅子に腰を下ろした。
「神官長エルド様と、最後にお会いしたのはいつですか?」
「……昨日の夕方です」
私は答えた。
「廊下で、誰かと話しているところを見ました」
「誰かと?」
「はい。貴族の方だと思います」
ガイルの表情が変わった。
「……どのような人物でしたか?」
「豪華な服を着た、中年の男性で……」
「……なるほど」
ガイルは隣の青年騎士に視線を送った。
騎士は素早く羊皮紙に何かを書き込む。
「会話の内容は覚えていますか?」
「全部ではありませんが……」
私は記憶を辿った。
「勇者召喚に反対している、と言っていました」
「……ほう」
「それから、召喚の記録がどうとか……」
その瞬間。
ガイルの目が鋭くなった。
「……召喚の記録?」
「はい。でも、神官長様が話を遮ってしまって……」
ガイルはしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「分かりました。ありがとうございます」
「……あの」
私は恐る恐る尋ねた。
「神官長様は……どうして亡くなったんですか?」
ガイルは答えなかった。
代わりに、隣の騎士へ視線を向けた。
騎士は小さく首を横に振る。
「……まだ、詳しいことは」
「お願いします」
私は思わず身を乗り出した。
「昨日まで元気だった人が、突然亡くなったんですよね?」
「……勇者殿」
「何かあったんじゃないんですか?」
ガイルは深く息を吐いた。
そして、ようやく口を開いた。
「……神官長様は、何者かに殺害された可能性が高いと考えています」
さくらが息を呑んだ。
「……そんな」
美琴は黙ったまま、ガイルを見つめていた。
「ただし、現在のところ、犯人は分かっておりません」
「……どうしてですか?」
私が尋ねると、ガイルは眉間に皺を寄せた。
「……それが、不可解なのです」
「不可解……?」
ガイルは机の上に置かれた羊皮紙を一枚取り上げた。
「神官長様が発見されたのは、王城東棟にある執務室です」
彼は静かに続けた。
「昨夜、神官長様はその部屋で召喚術式の記録を調べておられました」
私は召喚後に見た神官長の姿を思い出した。
疲れた表情。
何かに怯えているような目。
「今朝、神官長様が姿を現されないことを不審に思った神官が、執務室を訪ねました」
ガイルの声が低くなる。
「しかし、何度扉を叩いても返事がなかった」
「……それで?」
「扉は、内側から施錠されていました」
私は思わず首を傾げた。
「……鍵が?」
「はい」
ガイルは頷いた。
「やむを得ず、騎士たちが扉を破壊して室内へ入りました」
そして。
「そこで、神官長様の遺体が発見されたのです」
部屋の中が静まり返った。
「……窓は?」
美琴が尋ねた。
「窓も内側から施錠されていました」
「ほかに出入り口は?」
「ありません」
「隠し通路とかは?」
さくらが尋ねる。
「現在、調査中ですが、少なくとも発見されておりません」
ガイルは羊皮紙を机に置いた。
「つまり……」
彼は低い声で告げた。
「神官長様は、誰も出入りできない部屋の中で殺害されていたのです」
私は息を呑んだ。
誰も入れない部屋。
誰も出られない部屋。
そんな場所で、人が殺された?
「……密室殺人」
美琴が呟いた。
その言葉に、ガイルが顔を上げた。
「……何ですと?」
「私たちの世界では、そう呼ぶことがあります」
美琴は静かに答えた。
「出入りできないはずの部屋で起きた殺人事件を」
ガイルはしばらく考え込んでいた。
「……なるほど」
そして、低い声で呟いた。
「確かに、その呼び方がふさわしいかもしれません」
◇
聞き取りが終わった後。
私たち三人はガイルに頼み込み、執務室の前まで案内してもらった。
もちろん、現場の中へ入ることは許されなかった。
王城東棟。
人通りの少ない廊下の突き当たり。
そこに、神官長の執務室があった。
扉は大きく破損しており、周囲には木片が散らばっている。
入り口には二人の騎士が立ち、厳重に警備していた。
「……ここが」
私は小さく呟いた。
昨日まで生きていた人が、この部屋で殺された。
そう思うと、足が震えた。
「……響子」
さくらが私の手を握った。
「大丈夫?」
「……うん」
私は頷いた。
けれど、本当は大丈夫なんかじゃなかった。
怖かった。
人が死んだという事実が。
そして、誰が殺したのか分からないという現実が。
「団長!」
そのとき、一人の騎士が駆け寄ってきた。
「現場の調査で、新たなことが分かりました!」
「何だ?」
「神官長様の遺体のそばに、血の付着した短剣が発見されました!」
「……短剣?」
「はい。しかし……」
騎士は言葉を詰まらせた。
「どうした?」
「その短剣は、神官長様ご自身が所有されていたものです」
ガイルの表情が険しくなった。
「……つまり、自害の可能性があるということか?」
「それが……」
騎士は首を横に振った。
「宮廷薬師の見立てでは、傷の位置と深さから、他者によって刺された可能性が高いとのことです」
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
誰も入れない部屋。
誰も出られない部屋。
その中で、誰かに刺し殺された神官長。
そんなこと、本当にあり得るのだろうか。
「……それから、もう一つ」
騎士が続けた。
「机の上に、奇妙なものが残されていました」
「奇妙なもの?」
「はい」
騎士は一枚の羊皮紙を差し出した。
そこには、見慣れない文字が並んでいた。
私には読めなかった。
けれど、その下に描かれた図形には見覚えがあった。
「……これ」
思わず声が漏れた。
ガイルが振り返る。
「何かご存じですか?」
私は羊皮紙を指さした。
「この模様……」
青白い光。
足元に広がった円形の紋章。
私たちを、この世界へ連れてきたもの。
「……召喚のときに見たものと、似ています」
ガイルの表情が変わった。
「……何ですと?」
私は頷いた。
「間違いありません。私たちの足元に現れた模様と、同じ形です」
ガイルは羊皮紙を見つめた。
そして、静かに呟いた。
「……召喚術式」
その言葉に、私は顔を上げた。
「……え?」
「これは、勇者召喚の儀に使用された術式の一部です」
ガイルは眉間に皺を寄せた。
「なぜ、このようなものが……」
誰も答えられなかった。
ただ、王城の廊下に冷たい沈黙が流れていた。
◇
その日の午後。
王城の一室で、緊急の会議が開かれていた。
女王セレスティア。
近衛騎士団団長ガイル。
そして、王国の重臣たち。
「……密室殺人、だと?」
貴族の一人が声を上げた。
「馬鹿な! そんなことがあるはずがない!」
「しかし、事実です」
ガイルは冷静に答えた。
「扉も窓も内側から施錠されており、ほかに出入り口は確認されておりません」
「では、犯人はどうやって逃げたというのだ!」
「……それが、分かっておりません」
会議室がざわめく。
「魔法ではないのか?」
「転移魔法ならば可能だろう!」
「いや、王城には魔法障壁がある!」
「では、いったい誰が……!」
議論は混乱するばかりだった。
その様子を、女王は黙って見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「……皆様」
その一言で、会議室が静まり返った。
「この事件は、決して放置できるものではありません」
女王は真剣な表情で続けた。
「神官長エルドは、長年この国に尽くしてくださった方です」
そして、ガイルへ視線を向けた。
「ガイル騎士団長」
「はっ」
「必ず、真相を明らかにしてください」
ガイルは深々と頭を下げた。
「……御意」
しかし。
その表情には、わずかな迷いが浮かんでいた。
密室。
魔法障壁。
不可解な短剣。
そして、召喚術式の記録。
どれほど考えても、答えが見つからない。
そんなときだった。
会議室の扉が叩かれた。
「失礼いたします!」
一人の騎士が駆け込んでくる。
「団長! 至急、ご報告が!」
「どうした?」
「……その」
騎士は一瞬、女王の顔を見た。
そして、緊張した面持ちで告げた。
「神官長様の執務室から……新たな証拠が発見されました」
「……何だ?」
騎士は震える声で答えた。
「……遺体の下から、一枚の紙片が見つかりました」
会議室が静まり返った。
「そこには……」
騎士は言葉を詰まらせた。
「……異界の文字が、記されております」
女王が眉をひそめた。
「異界の文字……?」
「はい」
騎士は深く息を吸った。
「我々には読むことができません。しかし、勇者様方ならば……」
その言葉に、ガイルの表情が変わった。
「……まさか」
騎士は小さく頷いた。
「神官長様の死に、勇者召喚が関係している可能性があります」
女王はしばらく沈黙していた。
そして、静かに命じた。
「……勇者たちを、ここへ」
◇
同じ頃。
私は客室の窓から、王都の街並みを眺めていた。
昨日まで、普通の高校生だった。
友達と笑いながら学校へ向かっていた。
それなのに。
今は、知らない世界にいる。
しかも、人が殺された。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「……響子」
美琴が声をかけてきた。
「何?」
「……嫌な予感がする」
私は振り返った。
「……どうして?」
美琴は静かに答えた。
「私たち、何かに巻き込まれてる気がする」
その言葉に、私は何も言えなかった。
そのとき。
——コン、コン。
扉を叩く音がした。
「勇者様方」
聞き慣れた声。
ガイルだった。
「女王陛下がお呼びです」
私は美琴と顔を見合わせた。
「……何か分かったんですか?」
ガイルは答えなかった。
ただ、静かに告げた。
「……確認していただきたいものがございます」
私は小さく息を呑んだ。
そして、まだ知らなかった。
この事件が、私たちの運命を大きく変えることになるということを。




