王国の歓迎
——異世界。
小説や漫画の中でなら、何度も目にしたことのある言葉だ。
剣と魔法。
勇者と魔王。
美しいお姫様に、巨大なドラゴン。
そんな世界が本当に存在するなんて、今朝まで考えたこともなかった。
けれど。
「うわぁぁぁっ! 見て見て、響子!」
隣でさくらが大きな声を上げた。
「お城! めっちゃ大きいお城がある!」
「さくら、少し静かにして」
「だって美琴! 本物だよ!? 本物のお城!」
「分かってるから」
呆れたように答える美琴も、窓の外から目を離せずにいた。
私たちは今、王城へ向かう馬車の中にいる。
神殿を出た後、神官長エルドの指示によって用意された馬車に乗せられたのだ。
窓の外には、見たこともない街並みが広がっていた。
石畳の道路。
色鮮やかな屋根の建物。
露店には果物や焼き菓子が並び、通りを行き交う人々は中世ヨーロッパのような服装をしている。
そして、遠くには巨大な城がそびえ立っていた。
白い城壁に囲まれ、いくつもの尖塔が空へ伸びている。
まるで、おとぎ話の世界に迷い込んでしまったみたいだった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
さくらが私の顔を覗き込む。
「でしょ!? ちょっとテンション上がるよね!」
「うん……少しだけ」
「ほら! 響子もそう思ってる!」
「でも、観光に来たわけじゃないから」
美琴の一言で、さくらの笑顔が少し曇った。
「……分かってるよ」
馬車の中に沈黙が落ちる。
私たちは勇者として召喚された。
けれど、自分たちの意思で来たわけではない。
家族にも、学校の友達にも、何も伝えられないまま。
突然、知らない世界へ連れてこられたのだ。
「……お母さん、心配してるかな」
さくらがぽつりと呟いた。
私は何も答えられなかった。
きっと、心配している。
今頃、学校では大騒ぎになっているかもしれない。
「……帰ろうね」
私は二人に言った。
「絶対に、三人で帰ろう」
さくらが顔を上げた。
「……うん!」
美琴も静かに頷いた。
「当然でしょ」
その言葉に、私は少しだけ安心した。
◇
馬車が王城の正門をくぐると、そこには広大な中庭が広がっていた。
整えられた庭園。
美しい噴水。
そして、左右に整列する鎧姿の騎士たち。
「……すごい」
さくらが小さく呟く。
先ほどまでの元気は、どこかへ消えてしまったようだった。
馬車が停止すると、一人の騎士が扉を開けた。
「勇者様方。ようこそ、アルヴェリア王城へ」
私たちは馬車から降りた。
目の前には、白い石造りの巨大な宮殿がそびえている。
その入り口に、二人の男性が立っていた。
年齢は四十代半ばくらいだろうか。
短く整えられた銀髪。
鋭い目つき。
青い外套の下には、銀色の甲冑を身に纏っている。
もう一人は対照的に高級で清潔な衣服に身を包み、爽やかな笑み、長く肩まで伸びた艶やかな青い髪の紳士な男性だった。
「お待ちしておりました」
甲冑を纏った騎士の男性は胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。
「私は王国直属近衛騎士団団長、ガイルと申します」
「近衛騎士団……?」
私が尋ねると、ガイルは暖かい笑みで頷いた。
「女王陛下と王城をお守りする騎士団です」
「へぇ……!」
さくらが感心したように声を上げる。
「じゃあ、めちゃくちゃ偉い人なんですね!」
「いえ。私は陛下に剣を捧げた、一介の騎士にすぎません」
ガイルは淡々と答えた。
けれど、その立ち姿には隙がなかった。
まるで、いつ何が起きても対応できるように。
「ちょっと、私も忘れられては困りますよ。お嬢様方。私は王国宮廷魔導士のレオンと申します。私も陛下に命を捧げてお守りする役目ですよ」
爽やかで甘い声でもの腰柔らかな言い方だった。
「すいません!別に忘れてたわけではなくて、その……」
と、さくらはなぜかしどろもどろになっていた。
そんなさくらをレオンは暖かく見守る。
「……ところで」
美琴が口を開いた。
「私たちは、これからどうなるんですか?」
「まずは女王陛下にお会いいただきます」
「その後は?」
「陛下からご説明があるかと」
「……つまり、あなたも知らないんですね」
美琴の言葉に、ガイルは一瞬だけ目を細めた。
「……申し訳ありません」
そう言って、再び頭を下げる。
私は慌てて口を開いた。
「あ、あの! 責めているわけじゃないんです!」
「承知しております」
レオンは静かに答えた。
「ですが、皆様が不安を抱かれるのも当然でしょう」
その言葉には、不思議と温かみがあった。
「少なくとも、王城に滞在される間は、我々が責任を持ってお守りいたします」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます」
◇
王城の内部は、想像以上に豪華だった。
磨き上げられた大理石の床。
壁に飾られた巨大な絵画。
天井から吊り下げられた美しいシャンデリア。
そして、長い廊下の先には、巨大な扉があった。
「こちらが謁見の間です」
レオンが立ち止まる。
扉の左右には、槍を持った騎士が二人立っていた。
「勇者様方をお連れしました」
ガイルの声に、騎士たちが扉を開く。
重厚な音とともに、巨大な扉がゆっくりと開いていった。
その先には、広大な空間が広がっていた。
赤い絨毯。
左右に並ぶ貴族や騎士たち。
そして、最奥に置かれた玉座。
そこに、一人の女性が座っていた。
長い金色の髪。
透き通るような白い肌。
宝石のような輝きの青い瞳。
純白のドレスに身を包んだその女性は、まるで絵画から抜け出してきたような美しさだった。
「……綺麗」
思わず呟いてしまった。
女性は私たちを見ると、優しく微笑んだ。
「ようこそ、異界より訪れし勇者たちよ」
透き通るような声が、謁見の間に響き渡った。
「私はアルヴェリア王国女王、セレスティア・アルヴェリアです」
私たちは慌てて頭を下げた。
「どうか顔を上げてください」
女王は困ったように微笑んだ。
「皆様は、この国の大切なお客様です。どうか、堅苦しい礼儀はお気になさらず」
その言葉に、さくらが小さく息を吐いた。
「……よかったぁ」
女王は玉座から立ち上がり、私たちの前まで歩いてきた。
「突然、この世界へお呼びしてしまったこと……心よりお詫び申し上げます」
そう言って、深々と頭を下げた。
謁見の間がざわめく。
「陛下!」
近くにいた貴族の一人が慌てて声を上げた。
「勇者とはいえ、異界の者に陛下自ら頭を下げられるなど……!」
「控えなさい」
女王の声が響いた。
先ほどまでの優しい声とは違う、威厳のある声だった。
「彼女たちは、自ら望んでこの地へ来たわけではありません」
貴族は口を閉ざした。
「その自由を奪ったのは、私たちです」
女王は再び私たちへ向き直った。
「本当に、申し訳ありません」
私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
少なくとも、この人は私たちの気持ちを理解しようとしてくれている。
そう思った。
「……あの」
私は勇気を出して尋ねた。
「どうして、私たちを召喚したんですか?」
女王の表情が曇った。
「……この世界には、魔王が存在します」
その言葉に、さくらが小さく声を上げた。
「ま、魔王!?」
「はい」
女王は頷いた。
「魔王軍は、長年にわたり各地の国々を脅かしてきました。多くの村が焼かれ、数え切れない命が失われています」
謁見の間が静まり返った。
「我々も抵抗を続けております。しかし、魔王の力はあまりにも強大です」
「……だから、勇者を?」
美琴が尋ねた。
「そのとおりです」
女王は静かに頷いた。
「古い伝承によれば、異界より召喚された勇者には、魔王に対抗する力が宿るとされています」
「……そんな」
私は自分の手を見つめた。
何の変哲もない、普通の手。
剣なんて握ったこともない。
誰かと戦ったことだってない。
そんな私に、世界を救えるのだろうか。
「ですが」
女王が続けた。
「皆様に、今すぐ戦っていただこうとは考えておりません」
「……え?」
「まずは、この世界について知っていただきたいのです」
女王は優しく微笑んだ。
「そして、どうかご自身の意思でお決めください」
その言葉に、私は少しだけ安心した。
けれど。
「……帰る方法はあるんですか?」
美琴が尋ねた。
女王の表情が、わずかに曇った。
「……帰還の術については、現在も調査を続けております」
「つまり、今は帰れないんですね」
「……申し訳ありません」
美琴は黙り込んだ。
さくらも俯いている。
私は二人の手を握った。
絶対に帰ろう。
その気持ちだけは、変わらなかった。
◇
謁見が終わると、私たちは王城の客室へ案内された。
大きな窓。
ふかふかのベッド。
豪華な家具。
まるで高級ホテルのような部屋だった。
「……すごい」
さくらがベッドに飛び込む。
「ふっかふかぁ!」
「さくら、靴」
美琴が呆れたように言う。
「あっ!」
さくらは慌てて靴を脱いだ。
私は窓辺に立ち、外を眺めた。
夕暮れの王都。
遠くの街並みが、橙色に染まっている。
美しい景色だった。
けれど、どこか寂しかった。
「……響子」
美琴が隣に立った。
「大丈夫?」
「……うん」
「嘘」
私は苦笑した。
「美琴には敵わないなぁ」
「無理して笑わなくていいよ」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「……帰りたい」
思わず本音が漏れた。
「お母さんにも、お父さんにも会いたい……」
声が震えた。
美琴は何も言わず、私の肩に手を置いた。
さくらもベッドから起き上がる。
「……帰ろうよ」
彼女は笑った。
「三人で、絶対に帰ろう」
私は小さく頷いた。
「……うん」
そのとき。
廊下の向こうから、誰かの怒鳴り声が聞こえた。
「だから! 私は認められんと言っている!」
私たちは顔を見合わせた。
「……何?」
さくらが首を傾げる。
続いて、別の男の声が響いた。
「声をお下げください! ここは王城ですぞ!」
「知ったことか!」
私は思わず扉へ近づいた。
少しだけ開けて、廊下を覗く。
そこには、二人の男が立っていた。
一人は、神官長エルド。
もう一人は、豪華な衣装を身に纏った中年の貴族の男だった。
「勇者召喚など、最初から反対だったのだ!」
貴族が怒鳴る。
「それを貴様ら神殿の連中が勝手に進めおって!」
「これは女王陛下のご裁可をいただいた正式な儀式です!」
エルドが反論する。
「正式だと?」
貴族は鼻で笑った。
「では、あの記録についても陛下はご存じなのか?」
エルドの表情が変わった。
「……何のことですかな」
「とぼけるな!」
貴族が一歩詰め寄る。
「召喚の記録が——」
「お待ちください」
エルドが低い声で遮った。
「ここで話すべきことではありません」
貴族はしばらくエルドを睨みつけていた。
やがて、舌打ちをして背を向ける。
「……覚えておけ」
そう言い残し、足早に去っていった。
エルドはその背中を見送っていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
その顔には、疲労と焦りが浮かんでいた。
「……神官長様?」
思わず声をかけてしまった。
エルドが振り返る。
「……勇者様?」
「あ、すみません! 聞くつもりじゃ……」
「いえ」
老人はすぐに微笑んだ。
「お騒がせしてしまいましたな」
「……何か、あったんですか?」
「些細な意見の相違でございます」
そう答えると、エルドは深々と頭を下げた。
「どうか、お気になさらず」
そして、ゆっくりと廊下の奥へ歩いていった。
私はその背中を見つめていた。
最初の召喚のときと同じ。
また、何かを隠している。
そんな気がした。
◇
その夜。
王城の一室。
「……どういうことだ」
神官長エルドは、机の上に広げられた羊皮紙を睨みつけていた。
召喚術式の記録。
そこには、四つの紋章が描かれている。
三つは正常。
しかし、最後の一つだけが途中で途切れていた。
「……あり得ん」
エルドは何度も同じ言葉を繰り返した。
そのとき。
コン、コン。
扉を叩く音がした。
「……誰だ?」
返事はない。
エルドは眉をひそめた。
「誰かと聞いている」
沈黙。
エルドはゆっくりと立ち上がった。
杖を手に取り、扉へ近づく。
「……まさか」
その表情が、恐怖に歪んだ。
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
「……お久しぶりです、神官長様」
エルドの手が止まった。
「……お前は」
震える声。
「なぜ……ここに……?」
扉の向こうの人物は、静かに答えた。
「お話があるんですよ」
神官長は息を呑んだ。
そして。
「……まさか、あの件を?」
返事はなかった。
ただ、扉の向こうで。
誰かが小さく笑った。




