勇者召喚
——もし、人生をやり直せるとしたら。
あなたは、いつに戻りたいと思うだろうか。
昨日の失敗を取り消したい人もいれば、数年前の幸せだった日々に戻りたい人もいるだろう。
私なら、迷わずあの日を選ぶ。
高校の入学式。
たった一度の不注意で、一人の尊い命を奪ってしまった、あの日を。
けれど、時間は決して巻き戻らない。
どれほど後悔しても、どれほど願っても。
失った命が戻ってくることはない。
だから私は、せめて誰かの役に立つ人間になろうと決めた。
それが、あの日の私にできる唯一の償いだと思っていたから。
——そう。
あの朝、突然異世界へ召喚されるまでは。
◇
「響子ーっ! おっはよー!」
背後から聞こえてきた元気な声に、私は振り返った。
朝の通学路。
まだ少し冷たい風が吹く歩道を、一人の少女がこちらへ駆け寄ってくる。
藤原さくら。
同じ高校に通う、私の親友だ。
運動が得意で、明るくて、誰とでもすぐに仲良くなれる女の子。
そして何より、朝から信じられないくらい元気だった。
「おはよう、さくら」
「いやー、危なかった! 今日こそ遅刻するかと思った!」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「昨日は昨日! 今日は今日!」
「それ、反省してないってことじゃない?」
「細かいことは気にしなーい!」
さくらは笑いながら私の肩を叩いた。
その隣を、もう一人の少女が静かに歩いてくる。
「……朝から騒がしい」
白石美琴。
長い黒髪と整った顔立ちが印象的な、私たちのもう一人の親友。
背が高く、普段は落ち着いていて、学校では女子からの人気も高い。
「美琴、おはよう」
「おはよう、響子」
「ちょっと美琴! 今の聞こえたんだけど!」
「聞こえるように言ったから」
「ひどっ!」
さくらが大げさに肩を落とす。
私は思わず笑ってしまった。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない三人。
こんな何気ない時間が、私は好きだった。
「そういえば響子」
さくらが突然、私の顔を覗き込んできた。
「昨日、また告白されたんだって?」
「えっ?」
「隣のクラスの男子! 結構イケメンだったらしいじゃん!」
「……誰から聞いたの?」
「秘密!」
「さくら、昨日からずっとその話してる」
美琴が呆れたように言う。
「だって気になるじゃん! うちの学校の女神様が、今度は誰と付き合うのかなーって!」
「女神様って……やめてよ、恥ずかしい」
私は苦笑した。
学校では、なぜかそんなあだ名で呼ばれている。
困っている人を放っておけない性格だから、らしい。
でも、そんな立派な人間じゃない。
少なくとも、私自身はそう思っている。
「それで? 返事は?」
「……断ったよ」
「ええーっ! もったいない!」
「さくらは人の恋愛に首を突っ込みすぎ」
「美琴だって気になるでしょ?」
「別に」
「絶対嘘!」
二人のやり取りを聞きながら、私は小さく笑った。
そのとき。
信号機の電子音が耳に入った。
ピヨ、ピヨ、ピヨ——。
横断歩道。
大型トラック。
誰かの叫び声。
頭の奥で、忘れたはずの光景が一瞬だけ蘇った。
「……響子?」
美琴の声に、私は我に返った。
「え?」
「顔色、悪いよ」
「そ、そうかな?」
「無理しなくていいから」
美琴はそれ以上、何も聞かなかった。
きっと、分かっているのだと思う。
私が何を思い出していたのか。
「ほらほら! 二人とも早く行こうよ!」
さくらが少し先で手を振っている。
「このままだと本当に遅刻しちゃう!」
「さくらが寝坊したからでしょ」
「それは言わない約束!」
私は二人の後を追った。
大丈夫。
もう、過ぎたことだから。
そう自分に言い聞かせながら。
——その瞬間だった。
「……え?」
足元に、青白い光が灯った。
最初は、誰かが地面にライトを当てているのかと思った。
けれど、違った。
光は私たちの足元から溢れ出していた。
円形の模様。
見たこともない文字。
複雑に絡み合った線が、まるで生き物のように動いている。
「ちょっ……何これ!?」
さくらが叫んだ。
「響子! 離れて!」
美琴が私の腕を掴む。
けれど、遅かった。
青白い光が一気に強まり、私たち三人を包み込んだ。
「きゃあああっ!」
地面が消えた。
身体が宙に浮くような感覚。
上下も左右も分からない。
私は必死に二人の手を探した。
「さくら! 美琴!」
「響子ぉっ!」
誰かの指が、私の手に触れた。
私は夢中で握り締めた。
そして。
世界が、真っ白になった。
◇
「……ん」
冷たい。
最初に感じたのは、頬に触れる石の感触だった。
「……ここ、どこ?」
ゆっくりと目を開ける。
目の前には、見知らぬ天井が広がっていた。
高い。
学校の体育館よりも、ずっと高い。
天井を見上げるとどこまでも続いてそうなほど高く、壁には色鮮やかなステンドグラスが並んでいる。
床は白い大理石。
その中央には、青白く光る巨大な魔法陣が描かれていた。
「……え?」
私は身体を起こした。
周囲には、白い法衣を纏った人々が大勢立っていた。
男も女もいる。
全員がこちらを見つめていた。
まるで、何か奇跡でも目撃したかのように。
「……成功、したのか?」
誰かが呟いた。
「まさか……本当に……」
「勇者様だ……!」
その言葉をきっかけに、周囲がざわめき始めた。
「勇者召喚が成功したぞ!」
「神よ……感謝いたします!」
歓声が上がった。
何人かは涙を流し、その場に跪いている。
私は呆然とした。
……何?
何が起きているの?
「いったぁ……!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、さくらが床に座り込んでいた。
「ちょっと! 何なのよ、これ!」
「さくら!」
「響子!? よかったぁ!」
私は慌てて駆け寄った。
「怪我はない?」
「うん、大丈夫! でもさ、ここどこ!?」
「私にも分からない……」
「……二人とも」
少し離れた場所で、美琴が立ち上がった。
「とりあえず、落ち着いて」
「美琴!」
美琴は周囲を見渡していた。
高い天井。
白い法衣の人々。
床に描かれた魔法陣。
そして、壁際に並ぶ武装した兵士たち。
「……少なくとも、日本じゃなさそう」
「そ、そんなの見れば分かるって!」
さくらが叫ぶ。
「これって、もしかして……」
彼女は何かを思いついたように口を開いた。
「異世界転生ってやつ!?」
「転生なら、私たち死んでることになるけど」
美琴が冷静に指摘した。
「じゃあ異世界転移!」
「それもまだ決まったわけじゃない」
「美琴って、こういうときも冷静だよね……」
「冷静じゃないよ」
美琴は小さく息を吐いた。
「……正直、怖い」
その言葉に、私は胸が締めつけられた。
美琴が怖いと言うなんて。
私たちは、本当にとんでもない状況に置かれているのかもしれない。
そのとき。
「勇者様方」
低く、落ち着いた声が響いた。
人々が一斉に道を開ける。
その奥から、一人の老人が歩いてきた。
白い髭を蓄え、金色の装飾が施された法衣を身に纏っている。
手には、先端に青い宝石が埋め込まれた長い杖。
老人は私たちの前で立ち止まると、深々と頭を下げた。
「ようこそ、お越しくださいました」
「……あの」
私は恐る恐る口を開いた。
「ここは……どこなんですか?」
老人は顔を上げた。
「ここはアルヴェリア王国。王都にございます」
「アルヴェリア……?」
聞いたことのない国名だった。
「私は、この王国の神殿を預かる神官長、エルド・ヴァレンティスと申します」
老人は再び頭を下げた。
「異界よりお越しになられた勇者様方を、心より歓迎いたします」
勇者。
また、その言葉。
「あの……勇者って、私たちのことですか?」
「左様でございます」
「どうして……?」
私の問いに、神官長は穏やかに微笑んだ。
「この世界は今、大いなる危機に瀕しております」
その言葉に、周囲の神官たちが静まり返った。
「我々は、その危機から世界を救うため、古の秘術を用いて勇者召喚の儀を執り行いました」
「……世界を、救う?」
「はい」
神官長は頷いた。
「あなた方こそ、我々が待ち望んでいた希望なのです」
私は言葉を失った。
突然、知らない世界に連れてこられて。
いきなり世界を救ってほしいと言われて。
そんなこと、理解できるはずがない。
「ちょっと待ってください!」
さくらが声を上げた。
「私たち、普通の高校生なんですけど!?」
「こうこうせい……?」
神官長は不思議そうに首を傾げた。
「学校に通ってる学生ってことです!」
「なるほど……。学び舎に通われる方々でしたか」
「そうです! 戦ったことなんてないし、魔法だって使えないし!」
「ご安心ください。勇者様には、いずれ特別な力が——」
「そういう問題じゃありません」
美琴が言葉を遮った。
神官長が目を向ける。
「私たちは、自分の意思でここへ来たわけではありません」
美琴の声は静かだった。
けれど、はっきりとした怒りが込められていた。
「元の世界へ帰してください」
神官長は黙り込んだ。
ほんの一瞬。
その表情から、笑みが消えた。
「……それは」
老人が言いかけたとき。
「神官長様!」
神官の一人が慌ただしく駆け寄ってきた。
「どうした?」
「召喚陣のことで、ご報告が……!」
神官は私たちを一瞥すると、老人の耳元で何かを囁いた。
その瞬間。
神官長の顔色が変わった。
「……何だと?」
低い声だった。
「間違いないのか?」
「は、はい……。何度確認しても……」
「馬鹿な……」
老人は杖を強く握り締めた。
私は思わず尋ねた。
「あの……何かあったんですか?」
「……いえ」
神官長はすぐに微笑みを取り戻した。
「何でもございません。少々、儀式に不具合があっただけでございます」
「不具合……?」
「勇者様方が心配されるようなことではございません」
そう言って、老人は背後の神官へ視線を送った。
「……後で私の部屋へ来なさい」
「はっ」
小声だった。
けれど、私には確かに聞こえた。
神官長は何かを隠している。
そんな気がした。
「さて、勇者様方」
老人は改めて私たちに向き直った。
「詳しいお話は、王城にて女王陛下からご説明がございます」
「女王……?」
「はい。この国を治めるお方でございます」
神官長は深々と頭を下げた。
「どうか、我々とともにお越しください」
私はさくらと美琴を見た。
さくらは不安そうに唇を噛み、美琴は険しい表情で神官長を見つめている。
どうすればいいのか分からない。
けれど、このまま何も知らずにいるわけにもいかなかった。
「……分かりました」
私は小さく頷いた。
「でも、約束してください」
「何でございましょう?」
「私たちが元の世界に帰る方法を、必ず教えてください」
神官長はしばらく私を見つめていた。
そして、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
その返事が本心だったのか。
それとも、ただの気休めだったのか。
このときの私には、分からなかった。
◇
私たちが神殿を出た後。
召喚の儀が行われた大広間には、神官長と数名の神官だけが残されていた。
「……もう一度、確認する」
神官長エルドの声が、静まり返った広間に響く。
「召喚陣に異常があったというのは、本当なのか?」
「はい……」
若い神官が震える声で答えた。
「召喚術式そのものは正常に作動しております。しかし……」
「しかし、何だ?」
「召喚陣に記録された反応と、実際に召喚された人数が一致しておりません」
神官長の眉が動いた。
「……どういうことだ?」
「召喚陣には、四つの反応がございました」
沈黙。
神官長はゆっくりと目を閉じた。
「……四つ、だと?」
「はい。しかし、こちらへ現れた勇者様は三名のみ」
若い神官は震える手で、一枚の羊皮紙を差し出した。
「残る一名の反応は……召喚が完了する直前に消失しております」
神官長は羊皮紙を受け取った。
そこには、召喚術式の記録が記されていた。
青白く輝く四つの紋章。
そのうち三つには、正常に召喚が完了したことを示す印が刻まれている。
しかし。
最後の一つだけは、途中で途切れていた。
「……あり得ん」
神官長は呟いた。
「この術式で、そのようなことが起こるはずが……」
老人の手が震え始めた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……まさか」
神官長は顔を上げた。
その瞳には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
「……あの男が?」
誰も答えなかった。
ただ、神殿の奥で。
古びた時計が、静かに時を刻んでいた。




