056絶望の向こう側
四題
騎兵、原作、死に物狂い、ロボット
黒い岩肌が濡れている。
その岩肌に身体を押し付けるようにして息を潜めている二人は、足を伸ばすこともできない狭隧で寒さに震えたまま、破れた衣服に水分が浸み込んでくる不快感に身を任せるしかなかった。
声も出せない。明かりをつけるわけにもいかない。奪われていく体温をそのままに、二人は耳を膨らますようにして、外の音だけを気にしている。
二人の命を本当に寒からしめているのは、寒さよりも馬蹄だった。
地鳴りのように絶え間なく響いている、馬蹄が地面を叩く音は、すべて二人に向けられている。反乱軍騎兵隊のものであった。
それら数えきれない目を欺くために、王城から数キロも離れていない岩山に開いた横穴に身を隠している。小さく震えているニ十歳の少女の肩を、五つ年下の青年がそっと抱いた。それで、彼女の震えが少し止まる。崩れたドレスの裾を握りしめ、必死に泣くのをこらえていた。
横穴からわずかに覗く空を見上げれば、王城からもうもうと上がっていた煙はすでに沈静化している。もう、燃えるものすらなくなったのかもしれない。少女の脳裏に炭化する兄や姉たちの姿が浮かべば、胸が締め付けられた。
二人の逃走は、兄の犠牲があってこそ……であった。
彼が囮となり、隠し通路の封印を解いたのだ。末娘セルフィーナは走り出すことを躊躇したが、兄ダグラシウスが、従者の一人、ファレルにセルフィーナを連れていくよう命じた。
ファレルも始めは「滅相もない!」と首を振っていたが、ダグラシウスにとってのファレルは、腹を割って話すことのできる唯一の青年でもある。
「どうか頼まれてくれ。俺たちが全滅するわけにはいかねぇんだ」
「ならダグラシウス様が行くべきです!」
「弟たちを捨てて逃げることはできねぇよ」
王の子女は六人いるが、城門が内側から開けられるという絶望の中、隠し部屋に飛び込めたのは長男と末娘、そして従者が数名だけだった。
ダグラシウスはファレルを正面に据え、隠し部屋の、さらに隠し通路を指し示す。
「いいかファレル。通路は城壁の外に繋がってる。そこを出て、セルフィーナと共に北東の岩山に向かえ。……セルフィーナ、そこで、お前の力が必要なんだ」
うつむいたままのセルフィーナ。現実が呑み込みきれていない表情を浮かべている少年。……ダグラシウスは、彼らに喝を入れるような力強い物言いをした。
「この国には旧世界の遺物が眠っているんだよ」
空を裂き地上を割り、海をたちまちに干上がらせる超兵器……。王族にも限られた者にしか伝承されない人型の兵器であり、平たく言えばロボットと言える代物であった。
「ネルドラント伯爵もその存在を知った」
反乱を起こした張本人である。彼は宝物庫に所蔵されていた資料を盗み取り、遺物の存在を知って、王家の血を欲し反乱を起こした。『ヴロウ=フェズ』を起動するのに必須なのが、王家の血による認証であった。
「……分かるかセルフィーナ。お前の血が、『ヴロウ=フェズ』を動かす原動力となるんだよ」
「お兄様……」
彼女は奥歯を噛みしめるような声を上げた。
「わたくしにそんなお役目が務まると思いますか……?」
「務めてもらわねば困る。俺が弟たちを救い、お前が国を救う。……今はそれしかない」
「そんなの……」
「聞き分けろ。お前に、燃え盛る城内で逃げ惑う弟たちを救うことができると思うてか」
「……」
兄は死んでも兄妹を守る。そして、守れぬと分かれば『ヴロウ=フェズ』をネルドラントに操られぬよう、全員を手にかけ、自刃する。それが分かっているからセルフィーナは震えが止まらない。
しかしその上で……絶対に泣いてはいけないと心に誓った。息を止め、涙をこらえて、狭い洞窟に身をかがめて兄の言葉を反芻している。
『北東の岩山をぐるりと回り込んだところに、王家の紋章が刻み込まれた祠がある。その中にある台座に手をかざせ……』
……だがすでに、反乱軍の包囲網は岩山に達していた。ここにセルフィーナがいるという確信があるかは未知数だが、馬蹄の響きはいつまでも絶えない。
「姫……焦らずに……」
ファレルの声が耳元で囁かれた。
「必ずや機会は訪れます」
だが、ファレルも事態がそれほど楽観的ではないことは分かっている。
まず、騎兵隊が出張っている時点で、見張りや哨戒ではない。そこに明確な意思があるのなら、それはセルフィーナの捕縛のために動いていることは間違いない。であるなら、この岩山周辺は重点的に捜索を行っているだろう。
反乱軍も『ヴロウ=フェズ』を狙っているのだ。城からセルフィーナが姿を消したとあらば、それが隠されている岩山に向かう可能性を疑うのは自然であった。
きっと王女もそれが分かっている。分かっていながら、それでも兄との約束を果たそうとしている。その目はちらちらと外を窺い、隙あらばいつでも飛び出す意思を見せていた。
が……。
王女の耳を打ち続ける蹄の音の一つが、明らかに横穴の方へと近づいてくるのに勘づき、彼女の髪が揺れた。ファレルにしがみついたのだ。一つになっていればそれだけ命の鼓動を聞かれる機会が少なくて済むと言わんばかりに、男の小さな胸に身を寄せる。
音はしかし、次第に大きくなっていく。カツカツと、二人の耳を叩く音が、近づいてくる。
今までは斜めに風が抜けていくような音だった。が、その音はまるで横穴に蓋をするような息苦しさを提供してくる。寒さに悴み、固くなった神経にガンガンと鳴り響く圧迫感に二人は思わず息を止め、首さえ動かさずに眼球だけを入り口に向けた。
横穴はやや湾曲しているし、入り口は一見人が入れるようには見えないから、そのまま気づかれない可能性も高い。高鳴る心臓の音を消そうと片手で胸を握りしめて、セルフィーナはその音が通り過ぎるのを待った。
かつ、かつ、かつ……と、地面の硬さを物語る音が、横穴の内壁に跳ね返り……そしてその音が消えた時、セルフィーナにこみ上げたのは吐き気だった。
音が消えることをどれほど望んでいたかは分からない。なのに、消えたことでさらに彼女の胸に渦巻くストレスが胃を荒らした。
理由は言うまでもなかった。蹄の音は、横穴の目の前で消えたからだ。
ファレルになおしがみつく。横穴の奥は水のたまった行き止まりとなっていて、逃げ場はない。
とっ……という音が一度だけした。
馬から降りて足がついた音だ。この辺りには樹木がなく、雑草がちょぼちょぼ生えるだけのごつごつとした岩場になっている。岩の森と呼ばれるのがよく分かる僻地であり、横穴も多く存在しているため、確かに身を隠すには最適な場所ではある。
しかし騎士団の甲冑を身にまとったあなたは、迷いもなく二人が潜伏している横穴の前で下馬をした。なぜならここに、物語の軸となる王女、セルフィーナと使用人ファレルが潜んでいることを知っているからだ。
あなたは確信していた。ここは『Legend Of Weltraum(レジェンド オブ ヴェルトラウム)』……通称〝low〟と呼ばれる世界に間違いない。同名の小説が原作のファンタジー作品であり、のちに漫画化もしているこの作品を、あなたは愛していた。
そんな世界になぜ迷い込んできたのかは分からない。踏切前でトラックにハネられて、吹っ飛ばされたところに電車が通過して、跡形もなくなったところで電線に絡まって黒焦げになったからとて、そんな瞬間の記憶があるはずもなく、気がつけばこんな世界で黒い甲冑に包まれていた。
あなたは自分の名を知っている。いや、あなたの名はあなたの名だが、馬を降りた騎士の名はバルトラン。元第二騎兵団所属の、反乱兵の一人だった。
あなたは原作を読んだ時、バルトランが迷いなくここを見つけたのはご都合主義だと思っていたが、今なら何の不自然もない。なぜなら、あなたはこの物語の原作を読み、結末を知っている転移者だからだ。
……転移者……?
……
……ということは、この物語は本当に存在しているのだろうか。あの原作のバルトランも、転移者だったのだろうか。……そんなことを思いながら、まず、原作通りの言葉を吐いた。
「姫。いるのは分かっています。おとなしく出てきてください」
この物語はダークファンタジー寄りの作品であり、あなたはこの王女がこれより先、ひどい目に遭うことを知っている。いやむしろ、バルトランこそがこの王女の尊厳を破壊することも知っていた。
ただ、ここでセルフィーナを見逃すという選択肢を取った場合、この物語自体の起点がなくなるし、もしそうなった場合、あなた自身がこの物語に関与できなくなる可能性もある。だいたい、別の選択肢を取っていいのかもわからないところだったから、あなたはまず、二人を原作通り引っ張り出すしかなかった。
「姫、バルトランです。手荒な真似をするつもりはありません。……出てきてはいただけませんか」
洞の中の空気は動かない。が、あなたは焦らない。セルフィーナはこの時、覚悟を決めるからだ。
「バルトラン……」
鈴の鳴るような……はかなげな声は震えていた。
「はい。バルトランです。ここには私しかおりません」
そしてあなたは耳を澄ます。静寂の空間に、衣擦れの音がした。
出てきたのはまず、剣尖だった。出口側で蓋の役割をしていた使用人ファレルが、申し訳程度の威嚇を行ったものだ。ただ、狭い穴から出てくるという不自由が、バルトランを圧倒的に有利にさせている。もたもたしている間に血祭りにあげることは簡単だが、あなたも原作のバルトランもそれをしなかった。
やがて、艶やかであるがゆえに惨めに見える、薄汚れたドレス姿で現れるセルフィーナ。しかしその美しさに、あなたは息を飲んだ。
漫画での彼女は知っている。しかしいざ会ってみると、その美しさはこの世の物とは思えなかった。
ほつれた長い金髪を手櫛で整える。時々ちらちらとあなたの方を窺っては、どんな表情を浮かべたらいいのか、分からない様子でいる。……しかしとにかく美しい。大きな瞳の配置も小ぶりな鼻や口や顎のラインも。きめの細かい白い肌も、ほっそりとしたたたずまいも、まるで一流の彫刻家が数十年かけて仕上げた最高傑作であるかのような美貌をたたえている。
しかしともあれ、まずあなたは自分に突き付けられた直刃の剣を一瞥して言った。
「ファレル。剣を納めろ。無駄な命を散らすな」
「うるせぇよ裏切者!!」
王女の眉間が、ファレルの罵声によって愁いを帯びた。
あなたは知っている。セルフィーナはあなたに、ほのかな恋心を抱いているのだ。その上で〝裏切者〟であるバルトランを無垢な想いで直視できないでいる。
事実、あなたは抜刀した。白い刀身が鞘から伸びていく様に、ファレルの表情がみるみる青ざめていく。
「やめてっ!!」
セルフィーナは叫び、ファレルの前に立ちはだかって彼を背中に隠した。
「バルトラン、覚えていますか? 幼い頃かわした約束を」
バルトランはここで鼻を鳴らす。本来なら今このような局面で話題に上げることすら憚られるほどの児戯を、王女がことさらに持ち出した序盤の象徴的なシーンであった。
「あなたの希望を、三つ叶える。ですかな……?」
バルトランにとっては幼い頃の戯言だった。セルフィーナにとっては、憧れの男とかわしたかけがえのない約束だった。原作だと両者の想いの差を、後になって悲劇的に描写している。
「そうです。一つ目を使います。……ファレルを殺さないで」
それほど大切にしていた約束を無駄に使ったと評されるが故に、読み返したセルフィーナファンが後々になって歯噛みしたエピソードとなっていた。
その返答……あなたも原作に従った。もっと頼めることはたくさんあったはずだ。しかし、今この段階で目の当たりにする、彼女の切実な瞳の色を見るだに、それ以外を思いつかなかったのだろうと納得せざるを得ない。
そして彼女はまた原作通り、次の願いを浪費した。
「二つ目、わたくしを、この岩山の裏手にある、王家の紋章が刻み込まれた祠へと送り届けてください」
毅然と……バルトランへの慕情を噛み潰して言う彼女の表情に、あなたは息を飲む。その瞳は漫画よりもはるかに透き通っていて、複雑な感情をいくつも伝えてきたのだ。いや……結末を知っているあなただからこそそう思うのかもしれない。
「分かりました……」
バルトランは「ただし」と言った。
「連れていけるのは、あなた一人です」
原作の彼はこの時、彼女を利用し、『ヴロウ=フェズ』をネルドラントに引き渡す手柄を得ることを思いついていたが故、そういう条件を付けていた。
あなたは勢い、原作通りの言葉を発したが、原作で想像していたものよりもはるかに美しく儚げな頬の翳りが、その発言に蛇足を加えている。
「ただ……その場所には、『ヴロウ=フェズ』はありません」
原作を知っているからこそ、断言できる言葉であった。世界を制圧しうるとすら言われる人型兵器、『ヴロウ=フェズ』など、存在しなかったのだ。
王女の眉根が怪訝に歪む。なぜか、あなたを値踏みするような目をした。そして、覚悟を決めたような表情を浮かべ、
「……分かりました。わたくし一人で向かいます」
「姫!?」
「ファレル。あなたのその姿なら、一人で街に戻る分には咎められないでしょう」
「しかし……!」
彼女は気にせず、あなたの方に意識を寄せる。
「……バルトラン。今は敵であるあなたの言うことを信用することはできません。わたくしは何としても、『ヴロウ=フェズ』を起動しなければならない……それが、お兄様との約束ですから」
「無駄です」
「無駄かどうかはわたくしが決めることです」
その芯の強さ……あなたは作中のセルフィーナのこういうところを愛していた。
あなたは一度彼女を横穴に戻し、祠までの動線を確保する手配をした。反乱軍の騎兵団では実質バルトランが指揮官だから、巡回場所の変更を指示すれば、それ自体は容易であった。
セルフィーナとのやり取りは多少違っても、結局二人で祠に向かうことになったのだから、原作通りではある。彼女はあなたが手綱を握る馬の後ろにまたがって、監視網を切り抜けた。
岩山の裏手は、表とは一転して、樹海が広がっていた。濃い潮風を岩が遮っているため、その裏には木が生えているのかもしれないが実際の理由はバルトランもセルフィーナも知らない。
その薄暗い樹海の一角に、苔がむして風化している祠がある。岩山からはやや離れた場所ではあったが、その場所はすでに反乱軍に把握されていた。
二人は馬から降り、祠の前に並ぶ。ダグラシウスの言っていた台座は、祠の入り口からほど近いところにあった。王女は、大きな息を吐く。そしてあなたの方を向き、上目にあなたを見た。
「ここでわたくしを見逃してと願ったら……あなたはどうしますか?」
「どうと言われても……」
バルトランはやや思案し、呟くように言う。
「……一つ言えることは、私が見逃しても、この周辺は兵が多い。……逃れられません」
「そうですよね」
セルフィーナは会話で緩んだ緊張の、一瞬の隙をついた。台座に手を置き、その結果が分かっていたかのように岩山に向かって走り出す。
「あっ!!」
あなたは呆気にとられつつ、彼女を追った。原作にはない展開だった。何が起きているのか分からない。
その傍らで、大地が彼女の認証を受けて縦に揺れ始める。二人からは見えないところで岩山の一部がその揺れと共に崩れ、隠し扉が姿を現しているのだ。
「待て!」
それはバルトランが言ったのかあなたが言ったのか。相反する二つの感情をぶつけ合いながら、とにかくもあなたは足を励ますが、甲冑が枷となり、その差が縮まらない。
「なにかありましたか!!」
異変に気付いた騎兵団の一人が馬で合流した。そして前を走るセルフィーナを見て目を見開く。
「あれは……!!」
加速する馬。彼は抜刀し、彼女に肉薄する。
が、その背中を、バルトランの投げ矢が追いかけた。いや、バルトランの行動ではない。あなたの、読者としてセルフィーナを愛していたあなたの、反射的な行動だった。
それは甲冑を貫くことはなかったが、ガンッと響いた鋼の音に兵は驚いて振り向く。あなたにとって、投げ矢が甲冑に弾かれたのは幸運といえる事態ではあった。
「引け! 俺に任せろ!」
その声で馬が彼女を遮る直前で止まる。その脇を彼女が通り過ぎ、数瞬遅れてあなたが通り過ぎた。
その後も続々と騎兵たちが集まってくる。走るセルフィーナは顔をしかめたまま、行く手を阻む騎兵たちを相手に、あまりに無謀な突撃を続けたが、
「道を開けろ!!」
あなたの意外過ぎる命令に騎兵は皆、割れるように道を開けた。こうなっては、セルフィーナが足を止めた時点で、彼女を拘束せざるを得なくなる。そうなれば彼女は地獄を味わうことを、彼は知っていた。
「誰も手を出すな!」
喚き散らしながら甲冑で走るあなたの姿は、誰の目から見ても異様であった。
王女はそのまま、岩山に開いた隠し通路に突入した。同時に隠し通路の門が閉じていく。その辺は原作の通りで、王族が通過するとひとりでに門が締まる仕組みとなっている。
あなたは閉じかけた門に死に物狂いで飛び込む。間一髪、門があなたの足を砕くことはなかった。
中は、岩山の内側を最大限くりぬいたかと思うほどの、巨大な空洞だった。二人が足を踏み込むと残存魔力が働いて、その巨大な空洞をほのかに奥まで照らし出す。
原作ではもっと穏便にこの場所に到達していた。二人で何もないこの巨大な空洞を見上げ、バルトランはここに、伝説の兵器であった『ヴロウ=フェズ』が、かつて存在していたことを知ることになるはずだった。そしてセルフィーナは嘆きつつも、三つ目の願いを告げ、密かに想いを寄せるバルトランにすがる場面だった。『助けて……』と……。
しかしそこで……バルトランは裏切った。『ヴロウ=フェズ』が存在してなかった以上、せめてこの女を献上することが、反乱後の地位を盤石にするための手段であった、という理由で。
バルトランは彼女の想いを踏みにじり、彼女を王城へ連れ戻すと、彼女の人間としての尊厳を破壊した。それがこの『Legend Of Weltraum』というダークファンタジーの序幕であった。
薄明るい巨大な空洞で、セルフィーナはあなたから距離を取った。怯える小動物のような目をして……その声に、呪詛をこめて「……間に合わなければよかったのに……」と呟く。
あなたはそれに違和感を覚えた。が、何かを思案する前に、彼女は口を開く。
「あなたが誓ってくれた約束……あと一つ、残っていますよね……?」
そのセリフ自体は原作と同じだった。
ただ、そのセリフを原作の彼女が吐いた時、彼女の身体はあなたの甲冑に触れていた。彼女はそれほどに追い込まれ、一縷の望みをバルトランに託していたのだ。だからこそ、裏切りのシーンが残酷だった。
が……彼女は同じ言葉を、あなたから距離を置いて言っている。
「どうか……最後の願いを、叶えてください」
そして次の言葉で、あなたは息を飲む。
「わたくしを……殺してください」
「なにを言ってるんだ……」
二人は幼馴染でもある。薄皮一枚剥げば、敬語などはすっ飛んでしまう。
「殺してくださいと言いいました」
「お前は……」と、あなたは思わず言う。
「ここで助けを求めるはずだろ」
「なぜ、そう思うんですか……?」
「なぜって……」
メタ表現が通じるか分からないし、〝原作がそうだから〟というのも、説得力に欠ける気がしてきた。些細な差であっても、彼女が別の物語を紡ぎ出しているからだ。
だからこそ……あなたは決意を新たにできたのだろう。バルトランとして生きる必要はない。セルフィーナというキャラクターを愛するあなたの意志で話を進めたい。
口元が、彼女の不安定な精神状態をやわらげようと開かれた。
「死ぬなんて……言うな」
無骨な手甲を握りしめ、唸るように言う。
「俺が必ず守ってやるから」
「嘘つき」
しかしセルフィーナは、その想いに、顔を歪めて怯えている。あなたはできる限り、温かみのある表情で語りかけた。
「嘘じゃない」
が、次の言葉であなたは再び、目を見開くことになる。
「あなたは、わたくしを売るのでしょう……?」
「な……」
「あなたはわたくしを裏切る……」
彼女は長いまつげを伏せ、続けた。
「地下牢に幽閉され、拷問と凌辱の限りを尽くすのでしょう……? わたくしは、あんな仕打ちに耐えられない……」
「待て」
あなたの混乱した思考の目の前で、彼女は念を押した。
「あなたとの約束が一つ残ってるはずです。殺してください」
「待ってくれ。なぜお前は自分の運命を知っている」
「あなたに言っても分からないでしょう」
考えられる可能性。ありえないこと。しかし……あり得る、こと。それは、あなた自身が証明していた。
「お前……転移者なのか……?」
怯える彼女の目が、一瞬透いた。
彼女の不可解な言動と行動は、それですべて説明できる。
だからこそ、この洞に入る際、バルトランを退けようとした。そして一人でこの洞に籠り、
「……この物語を終わらせるつもりだったのか……?」
セルフィーナは目を泳がせ、うつむいたまま小さくうなずいた。
「おそらくシナリオに逆らっても、どこかで捕まるでしょう。唯一ここなら……一人で干上がることができると思い……」
しかし、あなたが間に合ってしまった。運命は変えられない。その絶望の中で、彼女は震えている。しかし、その目には異質のものも混じっていた。
「あなたも……転移者なの……?」
「ああ。〝low〟の読者だ」
彼女は唇をかみしめると、
「ほんの少しだけ……そうかもしれないって思ってた……」
「なぜ……」
「あたしも〝low〟は何度読んだか分からない」
だから、あるはずのないセリフに敏感だった。が、そんな違和感を抱えながら、「転移者ですか?」などと聞けるはずもなかった。
でも、そうかもしれないと思えたから……ファレルを手放して、シナリオを続ける勇気が湧いたのかもしれなかった。
彼女は一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、今度こそあなたにすがりつく。
「ねぇ、じゃあ殺してよ。分かるでしょう? あたしが今からなにをされるか。……あんなの……人間の扱いじゃ、ない……」
「……殺せないよ……」
あなたの心中も苦い。目の前にいる女は、あなたの最推しが具現化している女なのだ。
「俺はな、セルフィーナが好きなんだ。アンタじゃない。どんな仕打ちを受けても折れないセルフィーナに、俺はいつも感激してた。……物語の中とはいえ、今、俺たちの現実はここにある。セルフィーナを殺すことなんて……できないよ」
「じゃあ、どうすればいいの……!? あたしに、あくまでセルフィーナをやれっていうの!?」
あなたは首を横に振った。
「俺はバルトランだが、バルトランじゃない。であるなら、バルトランと同じでなくていい。……そうだろ?」
「……」
「だからアンタだって、セルフィーナと同じでなくてもいい。今回は俺がお前を守ってやる。必ず」
「できるわけないじゃない! あの非道な反乱軍を全部敵に回して勝てると思ってるの!?」
「バルトランは弱くない。それに、俺たちはこの物語をよく知ってる。これから何が起こるかも分かってる。先に先に動けば、勝機はある」
「だって……」
原作では、この洞を出れば、さっそく彼女を捕らえるための騎兵が集結しているのだ。その数は二十四騎。……如何にバルトランが精鋭だとしても……。
だが、あなたの意思は固い。こぶしを握り、彼女に吐く言葉に魂を込めた。
「任せろ。必ず血路を開いてやる」
あなたは自身でそのセリフを噛みしめる。剣を鞘から抜けば、その剣は数十年来の相棒であるかのように、しっくりと手に納まった。
岩山の隠し通路が、セルフィーナがその入り口に立っただけで、ひとりでに開いていく。あなたは握りしめる抜き身の剣に、震える心を預けた。
守ると言ったからには、ヘタに死ぬことはできない。集結している二十四騎と戦った史実はないが、こうなればもう、物語を壊してでも、道を切り拓く覚悟だった。
そしてそれができると……あなたの中のバルトランが言っている。握りしめる剣を手の内で躍らせれば、刃は芸術的な曲線を無数に描いた。
「任せろ。必ずアンタを守ってみせる」
その勇気は、あるいは現実離れした現実にいるからこそ、湧き上がったものかもしれない。しかし何にせよ、あなたは今、一騎当千の武者として、己の剣気を信じ始めていた。
白い光が差し込んでくる。その向こうに逆光となった黒い集団が見下ろしているのが見え、あなたは目を据えた。剣を跳ね上げると鍔から冷たい金属音が鳴る。そしてバルトランは同じくらい冷たい目をして、逆光に向かって叫んだ。
「これより俺は王女セルフィーナの側につく! 不服のある者、俺を武力で制圧できるも思う者はかかってこい!!」
しかしその発言の最中、中央で仁王立ちになっている意外な人物を見止めて、あなたの言葉が途切れた。隣でセルフィーナも目を丸くしている。
「ファレル!?」
どういうことなのか。バルトランが物語を描き換えることに決めて、その補填をこの男が行うことになったのか。……とにかく、ここにいるはずのない男が騎士団の中央に居座っている姿に、彼女も名を呼ぶ以上の声が出ない。
やはり運命は変えられないのか……使用人であったはずの男は、不敵な笑みを浮かべると腹から声を出した。
「ならば都合がいい」
そして一歩進み出る。あなたは構えを低くしたが、次の瞬間、言葉を失った。
「それなら、僕らは味方です」
「え……?」
ファレルは後ろに手を広げてみせた。そこには彼女を捕らえるはずの騎兵たちが馬上でたたずんでいる。
「この人たちも、皆同じ気持ちです」
あなたは、目の前の男がなにを言っているのか、にわかに理解ができない。そんな、呆気にとられた表情を、ファレルは笑った。
「説明が難しいんですが……みんな、セルフィーナのファンなんですよ」
「は……?」
しかしその時、あなたの口を突いて出た言葉は、「お前らも、転移者なのか……?」
……その問いに、ファレルの方も一瞬キツネに頬をつままれたような顔をした。そしてまた笑う。
「まさかあなたも……?」
そういうことらしい。そうであればつじつまが合う。
つまり……ここにいるすべてが転移者だったのだ。バルトランも、セルフィーナも、ファレルも後ろに控えている騎士たちも……。
そして、その誰もがセルフィーナという主人公推しの青年たちだったのだ。
「迷ったんですよ。ファレルとしての役割を果たすべきなのか、それとも自分に正直に生きるべきなのか……ってね」
皆、迷っていたという。そもそもシナリオと別の動きができるのかということも分からなかった。それはセルフィーナも、あなたですらそうだった。
それが……誰からともなく口火を切った時、誰もが、それに従ったというのだ。
「もちろん、これから登場する全員が転移者とは限りませんし、全員がセルフィーナ推しとは限りません。けど、これだけの理解者がいたら、世界を変えられるとは思いませんか……?」
あなたは苦笑うしかない。セルフィーナは鼻と口に両手を当てて泣いている。実際に世界が変えられるかは置いておいて、本当に世界が変えられそうな奇跡が今、この場を包んでいる気がした。




