053世界が終わった日
四題
記念受験、エリート、落書き、現地
ミレイはうなだれたまま、順番を待っていた。
見下ろせば中央に巨大な魔方陣のある円形のアリーナがあり、それを取り囲むように椅子が三百六十度、階段状に広がっている。手元にある封筒には『グランベル魔法学院』とあり、これは同学院の入学試験に関する書類であった。
グランベル魔法学院は魔法高等教育を受けた学生が受験する大学であり、その偏差値と由緒正しさで唯一無二の存在としている。この大学で学位を取ることこそ、魔術師としての最大の名誉であった。
そんな場違いなところにいる自分が信じられない。
ここは世界中から選抜されたエリートが来る場所であり、朝寝ぼけて冷凍庫から取り出したカチカチの食パンを足に落として打撲をする女の来る場所じゃない。ミレイは周囲を見回して、なおさら思った。
まるで円形闘技場のように配置されている椅子には、満員というわけではないが多くの学生たちが様々な制服を着て座っている。その皆が皆、知的な顔をしているし、自信に満ち溢れている。そもそもグランベル学院に到着してから三十分も、正門がどこか分からなくて迷子になる自分が来るようなところではない。
エリート集団に挟まれて小さくなっているミレイが、こんな場違いな場所にいるのには、深いわけがある。長い話になるが、
「あなたはやればできる子なのよ!!」
それが母親の口癖だった。その母親が娘の潜在能力を信じ、ほぼ独断で入試の申し込みをしたのだ。あ……全然短かった。
もちろんミレイは断りたかったが、すでに受験代は振り込まれたと聞き、その額を聞き、目玉が飛び出してしばらくゾンビと間違えられて大変だったので、とりあえず現地まで来るしかなかった。
迷子になった挙句にようやくくぐった正門の中は、まるでお城だった。広い敷地と整備された庭。道が整然とカットされた生垣で仕切られ、噴水が虹を作っている。遠くに見える建物は恐ろしい程に白く磨かれていて、その雰囲気だけで気後れがした。
しかも、受験会場まで足を運んでみたら、世界から集まった受験生の制服が、展示会場のように色とりどりでさらにさらに気後れメーターが上昇。……ついでに言うと、なぜかすべてブレザーだった。一人だけセーラー服という圧倒的事実だけで、さらにさらにさらに気後れフィーバーだった。
もはや気後れ指数は一〇〇パーセントを優に超過。桃色の巻き髪が風に揺れるだけで、すでにこの空気から取り残されている気分である。
今、ミレイが居心地悪そうに座っている場所は、大講堂と呼ばれる巨大な建物であり、他の校舎からは独立している。中央に位置する巨大な魔方陣から察して、講義の中で教授が様々な魔術を披露する場所なのだろう。上を見上げれば天井がどこまでも高い。田舎者の彼女には、この場所がこの世の物とも思えなかった。
午後はここで実技試験を行う手はずなのだが、ミレイはとにかく帰りたい。
実技試験というのはつまり、この大衆目の中、自分の魔力を開放して、なにがしかをしなければならないのだ。レベルの差を見せつけられるに決まっているし、自分が開放する魔力が、大勢の目の嘲笑の対象になることなど、火を見るより明らかである。
だいたい、午前の筆記試験も全くできていない。そもそも魔法語である古代ルーン文字でない言葉で書かれていて読むことすらできなかった。しょうがないからマークシートを全部3で埋めたので、運がよければ高得点かもしれないが……。
文字が分からないので考える余地もなく、おかげで誰よりも早く終わってしまい、残りの時間は問題用紙に落書きをしているしかなかったという体たらく。
(お母様の馬鹿……)
この風景を見て、遠くの空にいる母親を毒づくしかない。
だいたい、「あなたはやればできる」など、何を根拠に言ってるのだろう。
父親はしがない公務員。母親は飛翔術すらまともに使えないダメ魔術師なのだ。自分たちの才能から、どんなピタゴラスイッチに変換したら、娘が実は秀才なのだと信じられるのだろう。
しかし、そんな母親にも反感を持ち切れないのがミレイだった。期待に答えられるものなら答えたい。絶対に無理だとしても、……これがたとえ記念受験のようのものだったとしても、親孝行のつもりで受けよう……そんなことが頭をよぎる女子高生だった。
……そんなミレイでも、この大講堂の威圧感は常軌を逸していた。思わず母親を罵りたくなるほどの雰囲気であり、何をする前から、すでに恥をかいている気にすらさせられる。
やがてアテンションが入るとすべての受験生が黙った。魔方陣の前に立つ複数人の試験官の声が会場中に響く。
「では、午後の実地試験を始める」
読み上げた種目は〝召喚魔法〟。受験生たちは順番に思い思いのものを召喚し、そのグレードによって成績が決まる……というものだった。
(終わった)
ミレイは香ばしい気持ちでそれを聞いていた。無駄に口角が上がって、むしろかわいい顔になってしまっている。
いや、それが攻撃魔法でも回復魔法でも〝終わって〟いるのだが、召喚魔法なんて言われたら、〝夜中に書いてたら途中で寝ちゃって、朝になったらよだれがついてたラブレター〟を見られるくらい恥ずかしい。
そうこうしてる間にも受験番号の浅い学生から魔方陣の刻まれたアリーナに降り立ち、様々な魔導生物を呼び出している。さすがに単独でドラゴンやグリフォンといった大物を呼び出している者はいないが、ケツァルコアトルを呼び出した学生がいた時には会場が湧いた。
ミレイは吐き気が止まらない。ケツァルコアトルなどは別格だが、そうでなくても皆、ジ・アセンチノとか、ベルファルドとか、上級、中には最上級の召喚物を呼び出しているのだ。それなのに、自分が呼びだせるのは、せいぜい『イノシシ、シカ、マレーバク、サル』くらいの、動物園でいても一瞥して通り過ぎられるような物だけだ。
全員が一斉に見下ろしている場所で恥をかかないために、どういう仮病を使えばいいかということをあれこれ悩むのに忙しい。頭痛がいいか腹痛がいいか。……いっそのこと、つわりとか言ったほうが心配されるかもしれない。
なににせよ、呼び出しの受験番号が近くなっていくにつれ、顔が紫色になっていくミレイは、確かに調子が悪そうにも見える。しかも自分の一つ前の男子が呼び出したのはタイタニア。これもケツァルコアトル級の存在であり、十八の学生がおいそれと呼び出せるような代物ではない。
会場はヒートアップし、『次はなんだ、次はなんだ』という期待が渦巻いている。いまさらウマとかシカとか呼び出そうものなら馬鹿どこの騒ぎでは済まない。暴動が起きる。
「次! 受験番号四四三番。ミレイ=ファウメス」
「は……はいぃ……」
震える膝で立ち上がる。アリーナへと向かう階段を降りるが、足が笑ってうまく降りられないばかりか、途中で踏み外した。
「きゃぁぁぁぁ!!!」
ゴロゴロと階段落ちをした時、始めに感じたのは痛みより、これで解放される!……というパラダイスだった。一瞬見えたお花畑が自分を祝福しているかのようにすら錯覚した。
が、実際、アリーナまで転げ落ちたミレイに待っていたのは、周囲から巻き起こる爆笑と、彼女の希望のすべてを打ち砕く、試験官による優秀過ぎる回復魔法であった。
「急いでくれ。茶番に付き合っている時間はないのだよ」
レ・ミゼラブルな言葉に促され、むっくりと上半身だけを起こすミレイ。残念過ぎることに、痛みの片鱗もない。なんなら、朝冷凍パンを足に落とした時にできた打撲も、ついさっき蚊に食われた痒みさえも消え去っている。
彼女はへちゃりと座り込んだまま、冷たい顔で見下ろしている試験官を見上げ、ふるふるふると頭を横に振った。
「あ……あの……きょ……今日はちょっと……」
「どうした」
「だ……ダメな、感じに……なってしまったようです」
セミロングの巻き髪が揺れる。
「なにを言っているのか、三〇文字以内で説明しなさい」
試験官だけにセリフまで試験問題のようだ。ミレイは目を泳がせて、
「ちょっと今日は……召喚魔法が風邪を引いておりまして……」
「召喚魔法が風邪を引くというのはどういうことなのだ」
「え、えっと……風邪、引くじゃないですか。空気が乾燥したり、寒い季節になったりすると特に……」
「キミが風邪を引いているということなのか。それとも召喚獣が風邪を引いているとでも?」
「……」
通用するはずがない。見下ろしてる受験生たちの目も怖い。さすがに印象を悪くしないようにか、ヤジなどは飛んでこないが、視界に入る数名からも表情に嘲笑が見られ、なおさらミレイは委縮した。
「実技を披露してくれないことには評価もできないし、次の受験生にも進めない。いいから早くやってくれないか。時間も押してるのだ」
無情ではあるが、当たり前の要求でもある。ミレイはふらふらとおぼつかない足取りで魔方陣の中心に立った。
しかたない。たとえ呼び出せるのがダンゴムシでも、もはや立ち止まることはできなかった。
印を結ぶ手が震えている。
召喚は、できる。ただ、緊張している時にモノの味など分からないように、自分が呼び出せるものが何なのかすら分かっていない状態にある。
問題は、召喚した後の反応なのだ。現在、円形の大講堂にあるすべての視線がミレイに注がれている。彼らの頭の中はすでにタイタニアであり、ケツァルコアトルなのである。そんな中で、ハエとか蚊、果てはノミとダニとか……もはや、人生が終わるかもしれない。
『ユーメル、サマール、ワイディレゥ、ドゥレス……』
その燃え尽きそうな詠唱があまりに拙くて、聞こえる前列に失笑が広がってゆく。なお、後列の方は聞こえもしないので、逆に段取りの悪い彼女に苛ついていた。
その雰囲気が伝わってきてミレイはつらい。もう帰りたい。帰ったらご褒美はあるだろうか。……あるわけないが、誰もくれないとしても自分にあげたい。奮発して、プッチンプリンじゃないゴージャスなプリンを買って帰ったって、バチは当たらないはずだ。
これを終えて、目をつむって、耳を塞いで、試験会場を出る。それでいい。人の嘲笑も何も見えない、何も聞こえない。なぜなら自分は頑張ったから。
……そして、ミレイは最後にしたから何かを引っこ抜くような手の動作をした。魔方陣が光り、回転を始め、黒い靄に包まれる。召喚術の正常なプロセスであり、その後、靄がいずれかの形を帯びる。それがたとえミジンコでもケツァルコアトルでも、ここまでは同じなのだ。
靄はひゅっと一瞬、小さな丸い塊となった。それが再び音もなく破裂した時……
「……あれ……?」
靄は、意外な形を成していった。人型である。ノミが出てくるかマレーバクが出てくるかといったところで、人型であることに、彼女は必死になって記憶を逆行し、手順をいくつか間違えたことに気が付いた。
しかし何にせよ人型だ。少なくともアメリカシロヒトリを召喚するより、マシなものが出てくるのかもしれない。
全ての視線が注がれる。そして……その形がはっきりとした時、誰もが息を飲んだ。
「え……」
それは、歴史の教科書に載っていた、誰もが知る存在であり……
「嘘……」
それだけに、誰もが本物であることを信じなかった。しかし次の瞬間、その、大講堂に旋風が巻き起こり、前列にいた十数名が円形のアリーナに引きずり出される。彼らは何もない中空で磔にされ、さらに四肢を無理矢理引きちぎれるような方向へ広げられ、苦痛の悲鳴を上げた。
それで誰もが、本物であることを信じた。魔方陣の中央に立っていた濃紺の肌を持つ悪魔は、二百年ほど前に世界を混沌に叩き落とした存在……。
「ルシファーだ!!」
場は波を打つようにパニックとなった。我先にと大講堂から逃げ出そうとしたが、それらの脳に直接響く声を聴いた時、すべては時間が止まったように硬直した。
「一人でも去れば、全員殺す」
頭に二本対になって生えている黒い稲妻型の角。腰から広がる禍々しい形状の翼。……人型なので、人間の目鼻立ちはしているが、それとは別にある腹の巨大な口と、みぞおちに光る第三の目が大講堂を一瞬で支配する。
ルシファーはミレイの方へと振り返った。中空で今にも引き裂かれそうになっている男女を示して言う。
「この不届き者達は、あなたが俺を召喚している際、鼻で笑っていた連中だ。……殺していいな……?」
ミレイは目を丸くした。が、とにかく良識が働く。
「や、やめてっ!!」
「やめる……?」
「殺さないで!!」
「不可解なことを言う。妃よ。この連中はあなたを愚弄したのだぞ」
「き、……妃……!?」
「意外そうな顔をするな。だからあなたは俺を呼び起こしてくれたのだろう……?」
「ち……!」
しかし、違うとは言えない。そんなこと言ったら間違いなく八つ裂きにされる。目の前にあるのは、伝説だった。
「ち……?」
「ち……ち……チリドック!!」
「チリドックが食べたいということか」
ミレイの目の前に、コッペパンを開いてウインナーが挟んである代物が現れる。
「それを食べて、しばし待て。この講堂の連中をすべて、あなたに捧げてやろう」
「待って!! やめて!!」
「……なぜ止める」
「わたしは! 殺したくないの!! この大学に入りたいだけなの!!」
入れるなどと思っていないが、とにかく今は叫び散らかさないと死人が出る。ルシファーはトカゲのような尻尾を揺らめかせながら言った。
「大学……」
「そう! 今日は受験なの! この大学に入るための!! だから殺しちゃダメ!!」
「……あなたがそういうのなら、やめよう」
中空で引き裂かれそうになっていた男女がその場に落ちる。脱臼している者もあり、そうでなくても腰が抜けて、誰もその場から動けない。
「妃よ。他に望むことはなんだ」
「え……え……?」
「ああ、大学に入る……と言っていたな」
悪魔は講堂にいるすべての頭脳に語り掛けた。
「この中で、ミレイを入学させる権限を持つ者は誰だ。三秒で出てこい」
「は、は、はい!! 私です!!」
アリーナの脇、最前列にいた髪の薄い男が転がり出てくる。学長ロウブルである。
「ミレイが入学を望んでいる。いいな……?」
「は、はい!! もちろんです!! なのでどうか! 命だけはお助けを!!」
「殺すなと言われた。殺さんよ」
殺さん……と言われても信じられない。伝説の通りなら、いくつもの都市を滅ぼし、世界を壊滅の危機に陥れた魔族の王なのだ。
その男が、ロウブルに告げた。
「ひとまず、この大講堂は以後、俺と、我が妃ミレイのものとする。ここにいる全員を使い、ただちに人間の生活に必要な物をここに集めよ」
その目は有無を言わせない。
受験どころではなくなった。とにかく悪魔の機嫌を損ねないよう、大講堂に全ての便宜が図られる。生活必需品もだが、食料も大量に運び込まれた。
大講堂の中心に位置する円形の床は直径二十メートルほどだ。部屋にするには少々広いくらいなのではあるが……。
「あ……あの……」
「どうした」
「あ、あたし……ここで暮らすんですか……?」
「狭いか」
「え……いえ、狭いとかじゃなくて……一応、家があるんですけど……」
「あなたが望むなら、そちらでもよいが」
「あなたは?」
「無論俺もそちらに行く。あなたは俺の妃なのだから」
ミレイは考える。家に伝説の魔王が存在する緊急事態を。狭い自分の部屋でこの男が対面するという大惨事を……。
「あ、あの……妃って……?」
「妃を知らんか」
「し、知ってますけど……!」
「あなたは俺を召喚した。その時その瞬間から、血の契約が成立している」
「ち……血の契約……?」
「別に痛みを伴うものではない。人間でいえば、婚姻関係を結ぶことと同義だ」
「そんな……いきなり……」
「俺を召喚するということは、そういうことなのだ。あなたも知っていて俺を呼びだしたのだろう?」
「しりませんでした!! ……っていうか……」
言いにくそうにはしているが、言わないと、さらなる危険しかないと諦めたミレイが、おずおずと口を開いた。
「実は……手違い……なんです……」
「手違い……?」
「あたし、大学の実地試験で、召喚魔法使ったらいくつか手順を間違えちゃって……だからあの……」
ルシファーは怪訝な表情を浮かべる。
「あなたは料理をする時、目玉焼きを作ろうと思ってカレーが出来上がることがあるのか?」
「ありません!」
「手順を間違えたくらいで俺のような魔族の王を呼び出せると思うか」
「同感です!! なんであなたが出てきたのか、あたしには全っ然分からなくて!!」
「ほう……あくまで偶然だと言いたいのか」
彼を呼び出す手順を偶然に行える確率を計算すれば六億三千八百万分の一に相当する。
なのに偶然などはあり得ない。あり得たとしたら……それこそは、必然だったともいえる。
……そういう理屈にミレイはしばらく言葉を失っていたが、我に返ったように叫んだ。
「と……とにかく、あたし……怖いです! 妃なんて……無理……」
だってミレイは普通の学生なのだ。もっと言えば、冷蔵庫で凍ったパンを足に落として負傷するようなどんくさい、ただの平凡な人間なのだ。それが伝説の……しかも悪魔と、結婚するとか、なにを言ってるのか分からないレベルの天変地異でしかない。
「しかし……だな」ルシファーは困った顔をした。
「血の契約を解除するのは、勧めんぞ」
「ど……どうして……?」
「魔界の番人が許さない。終わらぬ罰を数百年受けることになる。死しても死しても、強制的によみがえらせられ業苦を味わうことになる」
ミレイは体内の血がすべて引いてしまうほどに真っ青になった。もともと人類に罰を与える悪魔が、ことさらに罰と言っているのだ。それはもう、人間などでは思い描くこともできない地獄の苦しみなのだろう。
逃れられない。ミレイの全身の力が抜けてゆく。
「結婚って……何をするの……?」
「あなたは俺の妃だ。俺の方は、あなたの望みを全て叶えよう」
「望み……」
「さっきも、俺は殺さなかった。大学とやらにも入学させた。山を動かすでも、世界を支配するでも……あなたの言うことを、全て叶えたいと思う」
「じゃ、じゃあ……あたしが誰も殺さないでって言ったら……?」
「殺さない。俺は人を殺したくて殺しているのではない」
「嘘!!」
だって……歴史の教科書に書いてあった。世界を混沌に導き、数多くの都市がこの悪魔によって滅ぼされたのだ。
だがこの悪魔は小さく首を振った。
「それは……妃が望んだからだ……」
「え……?」
悪魔は胡坐をかき、魔方陣に触れながら言った。
「約二〇〇年前、俺は今日と同じように、これと同じ魔方陣の力で召喚された。その時俺を呼び出した女が……当時の妃だ」
「その人が……街を滅ぼせって言ったの……?」
ルシファーはうなずいた。「そうだ」
「どうしてそんなことを……」
「理由など分かるものか。とにかく、俺は妃になった女の望みをかなえる」
「なぜ……」
「俺の妃だからな」
「あなたの方は、何を望むの……? あたし、何もしてあげられないけど……」
ルシファーは鼻を鳴らした。
「伽をしてくれればいい」
「と、と、とぎぃ~~!?」
ミレイの頭は凍り付きながら燃え上がった。
「え、え、え、え、……だって! あたし!! まだしたこともないのに!!」
「何か問題でもあるのか。誰でも初体験というものはあるだろう」
「で、で、でも!!」
その相手が悪魔。しかもただの魔族じゃない。二〇〇年前に世界を滅ぼしかけた究極の存在なのだ。そんなの、初心者がいきなりアポロ11号に乗って土星まで行くようなものじゃないか。
「無理に決まってます!!」
「あなたは俺の妃だ。妃が伽をせず、何をするという」
「だって!!」
……を最後に、沈黙が講堂を支配する。
その沈黙は、長く長く続いた。
無理に決まってる。悪魔と交わることもそうだし、このままではその悪魔の子を産むことになる。彼女は必死に、そうならない方法を探すしかなかった。
「あなたは……封印されたんだよね……?」
もうもはや、敬語すら忘れている。悪魔は気分を悪くするかと思ったが、その表情は変わらない。
「二〇〇年、狭い独房に閉じ込められていた」
「独房……?」
「そう。身動きすら取れぬ亜空間の独房で、俺は一〇〇年でも一〇〇〇年でも、封印が解かれるのを待つしかなかった」
「……」
うつむいていた彼女は顔を上げ、目の前の悪魔を見つめた。そっとしておけば蘇ることのなかった存在を蘇らせてしまったという絶望もそうだが、無限の拘束に対する苦しみが、一瞬彼女にも伝わった気がしたのだ。
しかし、にわかに信じられないのが、この絶対の存在が封印されたという事実である。封印魔法は元来抵抗のしやすい部類に属す魔法である。世界を壊滅手前まで追い込むような絶対的な存在に、そうそう通用するとは思えない。
「謀られたのだ」
ルシファーは、彼女の表情から心を読み解いたようにつぶやいた。
「己の妃にな」
「え……!?」
その口は確かに妃と言った。ミレイは今、妃ということになっている自分に向けられた言葉のように感じ、目を見開いて硬直する。
その目を見て、悪魔は言った。
「ミレイ。あなたも俺が怖いのだろう?」
「そんな……」
彼女は否定しようとしたが、続かない。この悪魔の前では、あれほどに集まったエリート受験生たちも、学院の教授たちも、蛇に睨まれた蛙でしかなかった。怖くないわけがない。
悪魔は濃紺の肌を歪め、続けた。
「……その女も、心の中では決して俺を認めることはなかった。挙句、俺が無防備になった隙をついて封印魔法を完成させたのだ」
「あなたが無防備になることなんて……あるの……?」
無防備という言葉がこれほど似合わない存在もない。だが彼は平然と言い放った。
「伽の間は俺も無防備だ」
「あ……」
伽を想像すると言葉を失う。おぞましいというより、単純に恥ずかしい。
「その女もあなたのように伽を拒み続けていたが……徐々に心を開いていったように見えた。そしてようやくうなずいたその日に……謀られた」
女は体を開くつもりなどなかったのだ。最大の信用をさせた瞬間、裏切ったのである。
しかしその表情に、過去を憎む様子がない。むしろ哀愁すら感じられ、思わずミレイは口を開いた。
「恨んでないの……?」
「なぜ、愛する妃を恨めるというのだ」
「だって、ひどいと思う!」
明らかに卑怯だと思う。そして、残酷だと思う。……他に方法がなかったとしても……。
が、目の前の悪魔はあくまで淡々と答えた。
「分かっていたからな」
「分かっていた……?」
「人間たちは結局俺を偏見と恐怖の目でしか見ない。ミレイ……あなたもいずれ、俺を裏切るのだろう?」
「そんな……!!」
「あの女は、長い時間をかけて封印の方法を探ってから、俺を誘った。あなたも同じように俺を退けたいなら、同じようにすればいい。それには、俺が無防備になる伽の瞬間しかない」
「なんで!?」
ミレイは唇を噛む。今、一瞬でも、前の妃と同類に思われていることが悔しくなった。
「なんでそんなことを教えるの!? また封印されたいの!?」
「あなたも俺を裏切るなら……その方法しかない。あなたは俺の妃であり、俺が愛すべき存在だ。あなたがそれを望むなら、その方法を教えておくことに、なんのためらいがあろうか」
「そんなの……!!」
胸の奥にこみあげてくるものがあることに戸惑いながら、ミレイは叫び散らす。
「あたしだって裏切るかもしれないんだよ!?」
「分かっている」
ルシファーの目には動揺もない。
「あなたも最終的には、俺を裏切ることになるのだろう。……だが、それでもかまわぬ。あなたが裏切るその日まで、あなたは、俺の妃だ」
「どうして!!」
ミレイは破裂しそうなほどの声を上げ、四つん這いに崩れ落ちた。
「どうして、そんなこと言えるの!? どうしてそんな信用できないあたしなんかを妃になんてするの!? そんなに優しくされたって……怖いだけなのに……! あなただってあたしのことなんて一つも信じてないのに!!」
「逆だ」
「え……?」
「信じたればこそ、裏切りすら、許せるのだ」
「……」
この悪魔は今、ものすごい矛盾に満ちた言葉を吐いた。しかし、その矛盾すら肯定する程の純粋な目が、ミレイに向いている。
「俺はあなたを信じている。だから裏切られることが分かろうとも、あなたが伽を受け入れるなら喜んで無防備となる」
「……」
「再び封印するならすればいい。それでも俺は、あなたを信じる」
「嘘!! 信じられるわけないじゃない!!」
「信じる。あなたは、俺の妃だからだ」
彼女は、言葉を失った。目の前の悪魔の目に、冗談などは一つもない。
「どうしてそこまで……」
わなわなと震えるミレイの口元に、悪魔は小さく笑いかけた。
「それが、男というものだろう……?」
ついにミレイははちきれた。なぜだか分からない涙があふれて止まらない。
こんな存在を野放しにしていいはずがない。しかしこの悪魔の純粋さはなんだ。こんな存在を裏切るなど、人間の心を持つ者として許されるのか。
しかし……だからといって、恐怖が拭い去れることはない。このような悪魔に抱かれる嫌悪感から逃れることはできない。
自分はただの人間なのだ。普通に生きていきたいだけの……ただの人間なのに……。
ミレイは葛藤の中で、その昔、同じ立場にいた女性を思った。
二〇〇年前、彼を召喚した彼女はどのような思いで彼に世界を蹂躙させ、にもかかわらず裏切ったのか……。
全てが分からない。しかし、そこには彼女しかわからない複雑な感情が交錯したはずだった。
その感情を知るのが怖い。しかしミレイは間違いなく……同じ感情と葛藤に苛まれることになる。
避けられぬ結末を前に、ミレイは唇をかみしめた。
「あなたは……あたしを抱くのが、怖くないの……?」
「己の妃を抱くのに、何を怖いことがあろうか」
「……」
ミレイはうつむくしかない。この男は、なぜこんなにも強いのだろう。自分は……なぜこんなにも弱いのか……。
この男を裏切れる強さなど持ち合わせていない。しかし、この男を受け入れる強さも……持ち合わせてはいない。
彼女は唇を噛んで、己の弱さを……運命を、かみ殺すしかなかった。
大講堂の魔方陣の上で、彼女のセーラー服だけが、平穏だった日々を物語っている。




