049コードネーム『サイバーパンク』
四題
危険人物認定、ルールはただ一つ、降りしきる酸性雨、サイバーパンク
降りしきる酸性雨に、街が濡れている。
酸性雨は衛星『リッジレーン』から降り注ぐもので、汚染物質にまみれていた。
地表にはヘドロが積もり、十年前までは華やかな歓楽街だった場所も、今は見る影もない。廃墟と化した店舗にはゴロツキが住み着き、それを排除する権力さえ機能していない街には暴力があふれ、今日をギリギリに生きる男たちが汚れた手で女を抱く。
錆びた配管が剥き出しになったこの街に生きる人間の平均寿命は、四十にも満たないのだ。未来を見据える必要もなく、他者をおもんぱかる余裕もない。
街のルールはただ一つ。『生き残ること』……それだけだった。
「も……もう勘弁してくれよ……!」
座り込んだまま後ずさりをした男の背中が、雑居ビルの壁に当たる。逃げ場を失ったことを知れば、自分の脳裏に鳴り響く警告音は最大となった。
男の顔は、すでに変形している。十人いた取り巻きたちは雨に濡れたヘドロに身体をうずめ、死んでいた。五分前、あれほどに威勢のよかった男の目が恐怖に凍り付き、一点、自分を見下ろしている男に向けられたまま固まっている。
「おめーよぉ」
見下ろす男はテンガロンを被っていた。反り返った大きなツバが雨露を滴らせていて、その奥に覗くに光る赤い目を、より不気味なものにしている。
「ここは、俺に許可なく露店を開いちゃいけないんだよ。知らなかった?」
腰を抜かした男は声も出ない。「しかも……」とテンガロンの男は、周りに散らばっている死体を一瞥して、
「おめーが売ってたのは、程度の悪い人間兵器だ。粗悪なジャンクパーツ組み合わせやがって。……こんなもん売って街で暴発されたら、俺のメンツにも傷がつくんだよなぁ」
男は小さく、手にスナップを加えた。両者の直線距離は二メートル以上ある。手が届くはずもない距離で、腰を抜かしていた男は胸ぐらをつかまれ、一瞬で目の前に手繰り寄せられた。
「ひぃ!!」
胸ぐらをつかまれ、紅い目の目前に鼻先を突きつけられた男の身体は浮いている。
「だけどおめー、こんなモン売り物にするんだから、バックがいるよなぁ? ……教えてくれねぇかなぁ……? おめーの、この世での、唯一の存在価値なんだから……」
……そして、『この世での唯一の存在価値』を失った男は、そのままヘドロの床に叩きつけられた。
管理の行き届かない街の象徴は、臭いである。ゴミと油に……腐敗臭や糞尿の臭いまで混ざっているのではないかという刺激臭が、街全体に漂っている。が、この辺りはまだマシで、夜になれば電灯がつく。
もう必要ないはずの店の看板などにもちらほら電源が入っているのは、この時代の蓄電技術の進化を物語っている。再生エネルギーで蓄電、自動点灯する仕組みで、実質半永久的にこの街の夜を彩るものとなっていた。
ただ、実際営業している店などはほとんどない。テンガロンの男は黒ずんだ街を歩き、根城にしているビルに足を踏み入れる。濡れた帽子をハットスタンドに掛け、新しい帽子をかぶり直す。それもまた、テンガロンであった。
元ホテルであったそこは、地下にダーツやビリヤードのできるスペースがあり、男の子飼いたちがよくそこでとぐろを巻いている。その一人が、テンガロンの男を「マサさん」と呼んだ。
「おかえりなさい。どうなりました?」
マサの、ルビーのように透き通った赤い目が光る。
「リジー=トイって、おめー、知ってるかぁ?」
「……いえ、聞いたことはありやせん」
「調べてくれよ」
リジー=トイ自体は、おそらく大した組織ではないだろう。聞いたこともないのだから。それでも、扱っていた人間兵器のジャンク部品には気になるものがあった。
「トレポルが繋がってる可能性が微々だ」
トレポルとは、富裕層が地上を見限って移住した衛星『リッジレーン』に巣くうブローカー組織だ。自分たちの利益のためなら地上の貧困層を焼き払うことも厭わない連中で、人体に悪影響を及ぼす粗悪なサイバーウェアや記憶・思考チップ、薬物で利益を上げ、リッジレーンに居住する財力を得た。
今回の人間兵器の制御部にはトレポルの部品が組み込まれてあった。それが偶然か意図的なものかは分からない。が、意図的なものであれば、リジー=トイを通じてまた地上に茶々を入れてきたということであり、全力で排除する必要がある。
「いっそのこと、リッジレーンに乗り込んじゃいたいところよね」
女の声がした。マサは振り返り、小さく手を挙げる。身体にフィットする軽快そうな装具を身に着けているこの女は、アスタロットという。マサと並んで、地上ではS級の危険人物認定を受けている戦闘のプロであった。
マサは軽く口角を上げ、
「そんなことを言っても、ハッタリじゃねぇと思えるお前が味方についたのは心強いよ」
それに対してアスタロットは、すっと涼しげな顎のラインを引き、氷のような冷たい笑みを浮かべる。
「私の方は疑ってるわ。……あなたが本当に実行する気があるのか」
「焦んなよ。まだまだ、リッジレーンに向かうには資金も武器も足りねぇ。それが整うまでは、出てきたら叩くを繰り返すしかねぇ」
リッジレーンは三十八万キロ離れた衛星である。通常の交通機関では行けず、瞬間移送装置に頼るしかない。が、地上に存在している移送ポートは、どこもリッジレーンに住む富裕層が莫大な資産を投入して配備された最新鋭の軍事システムに守られており、現状では近づくことさえままならない。
その圧倒的な力の差を考えれば、頭を押さえられ身体がひしゃげても、その恰好のまま生きていくしかないのが現状であった。
マサも、リッジレーンすべてを敵に回して勝てるとは思っていない。しかし、だからと言ってトレポルをこのままにしてはおけない。
薄暗い感情を胸の内でくすぶらせている彼は、アスタロットの前のテーブルに紙袋を置いた。
「とりあえずは腹ごしらえだ」
帰りがけに露店で買った、合成肉を使ったサラミとドラブである。合成肉とはいえ歯ごたえのある味や食感で、肉の雰囲気は十分に味わえる。ドラブはコールスローがパンのように固まっているものだ。
先ほど締め上げた男の懐にあった金で買ったものであった。
ドラブを手に取ったアスタロットの腕は、一騎当千の武を持つ者とは思えないほど白くほっそりとしてしなやかだ。顔も、モデルと見紛うほどの整い方をしており、なぜ、このような掃きだめの底に蠢いているのかが分からない。
分からない女が、たった数日前にここに転がり込んできた。S級危険人物であることは知れ渡っている。しかしその女が、まさかこれほどまでとは……。
マサは咀嚼のために絶えず動いている女の頬を眺めながら、目を細めた。
「お前の望むものはなんだ……?」
アスタロットの、キツネのような目がマサを映し出す。
「あら、プレゼントでもしてくれるのかしら?」
「俺が手に入れられるものであればくれてやる」
「交換条件は?」
「交換条件……?」
「……裏があるんでしょ? 私になにをしてほしいの……?」
「そうだな……過去を語ってもらおうか」
「過去……?」
「俺はおめーが理解できねぇんだよ。おめーほどの器量なら、尻尾さえ振ればリッジレーンにさえずる鳥にもなれるはず。それをしない理由が、過去に埋まってんじゃねぇかと思ってなぁ」
アスタロットがマサの目を見据える。が、すぐにおどけたような表情を浮かべ、
「それなら、アンタのその胸ポケットにささってる万年筆をちょうだい。そんな質問なら、それくれたら答えてあげる」
「こんなモンでいいのか」マサは指でそれを引っかけるとアスタロットに投げてよこした。アスタロットはドラブを持ってる方とは逆の手でそれを受ける。そして言った。
「鳥になりたくなかっただけ」
「嘘だ」
「え……?」
「俺の義眼をナメんなよ……?」
赤い目が、ギラギラとルビーのように光っているかのようだ。心拍数など、感知する機能があるのかは分からないが、とにかくアスタロットは鼻で笑って目をそらした。
「嘘じゃないわ。鳥になってカゴに押し込められるのはまっぴら。……だけど、一番の理由は……」
彼女の顔が険しくなる。背中に、黒い炎が灯ったようだった。
「裏切られたから……裏切った相手が、リッジレーンに昇ったから。……これでいい?」
赤い目が、アスタロットを見据えた。
「ほぉ……」
マサの反応が違う。「なんて奴だい?」
……が、次に彼女の唇が震えた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「バルダ=チェンドル」
マサはアスタロットがなぜ、ここに転がり込んできたのかが分かった。バルダ=チェンドルはマサが敵として認識しているトレポルの首領なのだ。
「目的は、復讐か……」
「復讐……? まぁね。私の心を弄んだあの男には、お灸を据えてやりたいかもね」
「そうかい……」
マサの口元が、不敵に笑む。
利害関係は一致している。しかし、話が出来過ぎているともいえる。この女は、あるいは……。
マサの義眼が、再び女の心胆を探ろうと計算を始める。
「一つ、面白いことを教えてやろうか」
「面白いこと……?」
「バルダ=チェンドルはな。……俺の兄貴なんだよ」
「えっ……?」
今度はアスタロットが息をのむ番だった。
「兄弟……?」
マサは彼女の反応に満足しながら、「残念なことにな」と呟く。彼女の目が怪訝に満ちた。
「じゃあ……アンタも裏切る……?」
地下室の空気が、まるで何かにのしかかられたかのように重くなる。マサは顔色一つ変えない。
「裏切らねぇと言えば信用すんのか?」
「確かにね」
そんな言葉は何の保障にもならない。彼女の目が怪しく揺れた。
「でも……私には誠実でいてよね。嘘をついたりしたら、……後悔することになるわ」
アスタロットは付け加えた。「……私が……」
マサは思わず、素っ頓狂な声を上げる。
「お、おめーがか」
そういうセリフを危険人物が吐く時は、普通後悔するのは嘘をついた方だろう。
「私を後悔させないでね」
「お、おう……」
なんだか気持ちが肩透かしを食らったようになる。マサはズレたテンガロンを直し、再び彼女に向かった。……矢先、彼女の方が口を開く。
「ずっとその帽子をかぶってるのね」
「まぁな」
「女性とベッドインする時も……?」
「試してみるかい?」
「あなたが試す価値のある男だって分かったらね」
不敵に笑いあう二人。時間はたっぷりある。
数日のうちにリジー=トイの情報が集まってきた。路地裏にこぼれた汚水が、行き場もないまま混ざり合ったような集団で、本来なら取るに足らない連中である。……が、そのわりには潤沢な資金力がある。やはり背後に何か大きな組織がある可能性が高い。
マサはさっそく、リジー=トイの管理するサーバーにハッキングをかけた。しかしガードが固い。……固いというより、特殊な認証が必要なようだった。
指紋なら複製できる。顔も作り出せるが、そうでもない。
「こりゃ……脳波かもな」
管理者の脳が直接リンクして通過するシステムらしい。おそらく脳にチップが埋め込まれていて、端末の認識できる電気信号に変換できるのだと思われる。……つまり、必要なのはその男の拉致。
マサは地下室に幹部数名にアスタロットを加えて、その中心に立った。
「コードネームはシルバーウルフ。認証ID:630238514」
端末に打ち込めば三十代ほどの男の顔写真とプロフィールが叩き出される。リジー=トイの首領らしいこの男のセキュリティーの欄には、『ボディガードが三人の防衛ドローンが四基』と書かれていた。
それだけでも、強大な組織が後ろについていることが分かる。……防衛ドローンを四基も従えることのできるゴロツキなど、地上にはいない。
「捕えたらすぐに認証させ、ハッキングを開始する。うかうかしてると全部の回線を切断されちまうからなぁ」
スタンガンで黙らせて拉致をし、車の中で認証をさせすぐにこちらのネットワークにリンクする。そこまで行けば後の処理はマサの子飼いたちが遠隔でできるだろう。
「防衛ドローンには電子戦をかけ、ボディガードは俺とアスタロットが片付ける。タールはシルバーウルフを確保。すぐに車に乗せろよな」
「へい」
どうもこのシルバーウルフという男、クリスチャンらしい。日曜に礼拝のために街の教会を訪れる。その時が手薄と言えば手薄であった。
重苦しい灰色の霧が地上を覆い尽くしている。工場の排煙で形成された有毒な雲であり、その空に太陽が姿を現すことはほとんどない。支配階級が、楽園に住みながらにして地上を汚染し続けている証左であった。
しかしそれら工場が地上での唯一の雇用を生み出しているということもあり、暴力の支配した地上でも、ここがテロの対象になることはまれである。
それらの生産品を運搬するトラックが一台、十三工業地区の工場に横付けされた。いつもの光景だが、乗っているのは業者を装う運転手のダリーと、箱車の荷台に控えている襲撃部隊のマサ、アスタロット、タール、そしてドローンに電磁妨害を行う技師が二人である。他にハッキング用の端末と通信機器が揃えられ、シルバーウルフを連れ込み迅速な作業を行うための環境が整っていた。
この工場から、教会まではたった四十メートルである。錆びたドラム缶が茶色い雨水を拾っているような、相変わらず汚い陋巷ではあるが、シルバーウルフはこの教会に格別の想いを抱いているらしい。
襲撃の前、マサは必ずナイフで廃材を削り、楊枝を作り出す。その楊枝を今回の仕事で使うわけではないのだが、廃材をナイフがこそぐ音が毎度背筋を凍らすほどに冷たく、取り巻きたちはそれを聞くたびに肝を冷やして仕事の成功を祈った。
この日も、静まり返ったトラックの車内でその音が小さく、断続的に響いている。運転手ダリーはその音に耳を削られながら、何気ない表情を浮かべ、視界の向こうにある教会のわずかな空気の揺れも逃さぬ構えを見せた。
十時……。定刻である。緊張感は否応なく高まり、全員が自分の心臓の音を聞く。楊枝の削りカスを手で払うマサも神経を張り巡らせていることが、その沈黙から見て取れた。
五分……無為に時間が過ぎる。一分一分が非常に長く感じられ、様々な部分に目配せをするその些細な動きですら、他のメンバーの刺すような視線にさらされた。
「来ますかね……」
緊張に耐え切れなくなったタールがぼそりと呟く。その声は空しくトラックの荷台に消えたが、マサがナイフを止め、言った。
「情報じゃ、奴は巡礼を欠かしたことはねぇ。……情報が漏れていなければ……の話だが」
マサがちらりとアスタロットを一瞥する。彼女は顔色一つ変えず、また、マサと目を合わせるでもない。
その時、トラックにエンジンがかかった。荷台のすべての者たちの唇が結ばれる。つまり、シルバーウルフが来たということだ。走り出すとともに、三人がバックドアの前に待機して息を潜めた。
ルーフ部分に四基のドローンが固定されている黒塗りの車が教会の前に横付けされる。ボディガードの一人が助手席を降り、後部座席のドアを開けると、中から白いジャケットに身を包んだ男が下りてきた。
それに伴い、ルーフ部分のドローンをつないでいた留め具が外れ、男の周りに展開する。運転席と後部座席から下りてくるボディガードはいずれも大柄で、装具から察するに両手首にはバーナン銃が仕込まれているようだ。いわば簡易的な機関銃である。
その脇を、工場で生産されたカーボンフレームを運搬するトラックが通り過ぎた。年代物のエンジンがボンネットを揺らし、排気口からは黒い煙を吐いている。シルバーウルフと呼ばれた男は顔をしかめたが、その視線が次の瞬間、中空へと舞い上がった。
防衛ドローンがぼたぼたと相次いで墜落したのだ。トラックから発せられた電磁妨害だが、彼はまだその理由に気づかない。
さらに、その視線の脇を、ボディガードの一人が通り過ぎていった。走ったのではない。大男がくの字に曲がって地面と平行に飛び、地面をバウンドして転がったのだ。
「誰だょ!!」
叫ぶ銀狼の目に映ったのはテンガロンの男、長いシルバーブロンドを一つにまとめてある美人。ボディガードがすぐさま右手に左手を添え、バーナン銃を発砲する。
その発砲炎が目を焼き、男と女が散開して乱戦が始まった時、シルバーウルフは背中にも殺気を感じた。前の二人を囮にして、男が懐深くに入り込んでいたのだ。
その男の持つスタンガンの存在に目の端で反応するシルバーウルフだったが、一瞬気づくのが遅い。男の手が長く伸び、青い火花が迫るのが見えた。
しかし、スタンガンを伸ばしたタールのその腕が、突如爆ぜる。
「あっ!!」
タールが声を上げた時には、上空から降り注いだ銃弾がいくつも彼の身体を貫通していた。それを横目に挟んだマサが目を見開いてボディガードから一度間合いを取る。後方で、大きな爆発音も確認して、なお息をのむ。
彼が見たのは、一瞬で死体へと変貌したタールだけではない。爆破されたトラックと、上空に浮かぶ蜂の群れ。
今度はマサの方に銃弾が降り注ぐ。が、それが身体に到達する直前に、彼の身体は地面になぎ倒された。銃弾がコンクリートの上で跳ね、周波数の高い音が弾ける。
マサは手首を引かれて我に返った。跳ね起きて手首をつかんだままの女と走り出す。おかげで次弾に身体を貫かれずに済んだ。
アスタロットがマサの腕を引いたまま狭い路地を走る。蜂の群れ……実際は蜂などではなく、超小型の攻撃型ドローンではあるが……は執拗に追ってくるが、彼女はそれに違和感を覚え、突如廃屋となってるビルのドアを蹴り開けて中に飛び込んだ。マサがそれに続いたのを確認すると、すぐに扉を閉める。それまでに十数匹ほどの蜂が追いついて同じように部屋に侵入したが、それくらいの数を正面から迎え撃つことは、二人には造作もないことだった。
室内に静寂が訪れる。
もともとバーだったのだろう。広い敷地に配置されていたであろうテーブルやイスは朽ちているが、特徴的なバーカウンターと空のボトル棚がそれを思わせる。
窓はなく、壁は頑丈なようで、あんな小さな攻撃型ドローンでは侵入できない。……それでも、マサの顔は歪んだままだ。
「なんでこんなところで立ち止まった?」
二人は完全に捕捉されている。殺すつもりならこの場を包囲するだろう。が、アスタロットは埃を払うような動作をしながら平然と答えた。
「あのドローンが私たちより足が遅いと思ってる? なのに一基も私たちを追い越してはこなかった」
「なるほど……」
マサは素直に納得した。つまり蜂は二人をどこかへ誘導しようとしていたのだ。つまり、それに乗れば地獄が待っていた。
……ただ、状況は最悪である。このままこの場所にとどまっても、マサの言った通り、包囲される可能性は十分にある。
マサはカウンターに固定されいてる椅子に腰かけると、アスタロットの方を見た。
「やっぱ情報が洩れてたかなぁ」
立ったまま見つめ返してくるアスタロットのシルバーブロンドが揺れる。
「私を疑ってる……?」
「……」
判断の難しいところだった。今、マサが接触した外部の人間はアスタロットだけなのだ。
「今、あなたを助けたのに、それでも疑うなら、私にも考えがある」
「……どうするんだよ」
「あなたの前で、ガッカリした顔を見せつける」
アスタロットがとたんに肩を落とし、しおれていくようにしょんぼりしたのを見て、
「ちょ、ちょっと待て。別に疑ってるなんて一言も言ってねぇだろ!?」
「じゃあなんでそんな目をするの……?」
マサは目を泳がせた。本能的に懐疑的な視線を送っているのは、確かにあるかもしれない。
慌てて自分の頬を数度叩き、
「悪かった。……どうだ。これでさっきとは違う目か……?」
アスタロットの目が陰気にマサを映した。
「私は、あなたが裏切らないうちは絶対に裏切らない」
「分かった分かった」
考えてみれば、すべてはシナリオの上だったことも考えられる。
シルバーウルフの所属するリジー=トイにトレポルの息がかかっているのだとすると、あるいはシルバーウルフをエサにしてマサをおびき寄せ、逆に暗殺することを企図したのかもしれない。相手はバルダ=チェンドルなのだ。十分にあり得る話ではある。
バルダにとっては、地上に残ったマサは目の上のタンコブなのだ。地上を思い通りにするには、邪魔な存在であることは間違いなかった。
ただ、それが分かったとて、今の状況がまず致命的である。殺すつもりなら、建物の外はすでに包囲されているだろう。
「さて……どう切り抜けるかねぇ」
現状、方法がない。相手がバルダ=チェンドルであるならば、マサの実力は熟知している。展開している戦力は半端なものとは思えない。
アスタロットは自嘲気味に笑った。
「まぁこんな世界……いつ死んだって変わらないけどね」
「違えねぇ」
だが、バルダの策略に嵌って死ぬのはシャクではある。何とか一矢報いる方法を……マサの赤い目が薄暗いバーの中でヒカリを帯び、しきりに思考を巡らせていた。
ふと、アスタロットの声が鳴く。
「そのテンガロン……よっぽど大事なのね」
先ほど、襲い来る銃弾からかばうために飛びついた時、彼は受け身をとるよりも先に頭にかぶったテンガロンを押さえたのだ。
「誰かの形見とか……?」
マサは答えない。微々目をそらし、彼女の言葉を受け流した。アスタロットは追わない。代わりに別のことを言った。
「私をあげるから脱いでって言ったら……?」
「ハァ……?」
「それが大事なものであるほど、私はそれに嫉妬する」
「何言ってやがるんだ」
「ここを出たとたん、死ぬかもしれないのよ? なら、後悔したくない」
「……」
「でもそれは、あなたがそのテンガロンを脱いでくれることが条件。私を嫉妬させないで」
義眼の男は目をそらした。対して、白髪が滴るほどに美しい女はおどけたように目をころりと動かす。
「帽子に負けるなんてね……」
「負けたんじゃねぇよ。別問題だってこった」
「……ホントは私を抱きたい?」
「こんなとこじゃねぇところでな」
マサは出口を睨みつけた。気配は、確かに存在している。飛び込んでこないのはヘタに突入する方が損害が大きいと踏んでいるからだろう。ただし、あれからまだものの十分も経っていない。相手もしびれを切らすには早い。
もう少し時間がある。マサには聞きたいことがある。
「兄貴が裏切ったって言ったな」
「……」
アスタロットの表情が険しいものになる。
「あるいはおめーが狙われたりしてんじゃねぇか……?」
「……その場合は、私をエサにして助かりたいって思ってる?」
「ははっ。そうだって言ったらどうする?」
彼女は恨みがましい目をマサに向けた。
「裏切ったらどうなるか分かってる……?」
「後悔するんだっけ? おめーが」
「今は違う」
「え……?」
「泣く」
っ……と、涙の線が頬を伝う。マサはまともに動揺した。
「嘘だろ……ホントに泣くなよ」
「だって、裏切るんでしょ!?」
「裏切るなんて言ってねぇだろ!」
「だって、私をエサにして助かりたいとか言うから」
「言ったのはおめーだ」
言いながら、マサは別のことが気になり始めた。
「兄貴は……おめーにいったい何をしたんだ……?」
「それを聞く……?」
「そんなに込み入った話なのかぃ?」
彼女は、しばらく
「アイツは……私の女心を弄んだ。それだけ」
「ふむ……」
分からなくもない。兄がどうというより、アスタロットは思った以上に繊細にできている。女など使い捨てにされる今の時代で、プライドの高い彼女が兄の軽率さを憎んだのなら、それは十分にあり得る話であった。
「俺ァ、こう見えても女に対しては誠実だと思うぜ」
マサはなぜ、今そんなことを口走ってしまったのかが自分で分からない。アスタロットを女だと意識したか、それとも兄貴と同じにするなという意味か……。
とにかく、互いが互いに、視線を外さずにいた。アスタロットは目を細めて言う。
「じゃあ……もしここを生きて出られたら、教えてあげる」
「嫌なフラグを立てやがって」
テンガロンを深く被り直し、マサは再び扉を睨みつけた。
行くしか、ない。
マサは扉をほんの数センチだけ開け放つ。同時にアスタロットが歯でピンを抜いた手榴弾が外へと投げ込まれた。急いで閉じた扉が爆風できしむ。
そして今度こそ扉を蹴破って外へと躍り出た。路地は手榴弾が破裂して惨憺たる状態だが、それでも二人が飛び出してくると共に、右から正面から左から、機関銃の発砲炎が上がる。
取り囲んでいるのはサイバーウェアにより人間兵器と化した兵隊たちであった。彼らの人間としての理性は、チップの埋め込み方にもよるが、ほとんど残っていないことも多く、この場合も手榴弾に前線が破壊されたことに対する恐怖を感じている様子はない。
マサとアスタロットは飛び出すなり受け身をとって、申し合わせたように南へと走り出した。先ほど誘い込まれたのが北への道だったのだ。逃げるなら、南しかない。
いくつもの銃弾が全身をかすめていく。頬を傷つけ肩の肉を削り脇腹を切って通り過ぎたが、命中弾はない。二人はほとんど野生の勘で稲妻型に走って群がる人間兵器の中心に飛び込んだ。
マサの手首がスナップすると、数メートル先の男の顔が吹き飛ぶ。手首より先はロボットアームであり、彼の手首から先は第二の腕のように伸縮するのだ。ただ実際、肉眼で捉えられる速度ではないため、手首のスナップだけで周囲の兵がバタバタと倒れていくように見える。
その裏を走るアスタロットの得物は刃渡りニ十センチのククリであった。ただしこの、くの字の内側に刃がついている形状のナイフも帯電しており、斬りつければ雷撃に打たれたような衝撃を伴う。彼女の通り道となった動線にいた兵は、かすり傷でも卒倒した。
ただ、決して圧倒的という状況ではない。取り囲んでいる兵の数は、完全に小隊といえる人数であり、装甲車までが出張っているのだ。国軍なはずはなく、また、リジー=トイが派遣できるような規模でもない。明らかに『リッジレーン』の連中が絡む、巨大組織が関与していると容易に想像ができる。
「この野郎!!」
羽交い絞めにしてきた兵に頭突きをかまして、くるりと身を翻し腹に拳を打ち込めば、衝撃波のような打撃はその男の腹を貫通した。そのまますかさず飛び退ると、まさにその場所で銃弾が弾け、アスファルトを変形させる。包囲網は切れず、息を吐く間もない。
「アスタロット!」
「なぁに!?」
「ここ切り抜けたらやっぱ抱かせろ!」
「こんな時に馬鹿じゃないの!?」
「馬鹿野郎! こんな時だから滾ってしょうがねぇや!」
「勝手にすれば!?」
鈍器のように振り上げられた機関銃をククリが押さえると、ロボットアームが脇腹をえぐる。二人は間近で放たれる銃弾をも避け、さらに南へと走った。交差点を遮るように装甲車が阻んでいる。
人間兵器の物よりもはるかに大きな口径の砲門が二人の方へと向けられた。
「あれ、壊せる!?」
「あんなのに追われたら逃げ切れねぇ!」
二人は交差しながら位置を変え、兵の放つ銃弾に命を脅かされながら、車両へと迫る。
二人が分散したため、砲門が一瞬迷う。が、反射的に向いたのはアスタロットの方であった。
ゴォンという音と共に放たれる砲弾の弾速は高く、一瞬で彼女の頭に肉薄する。
「ぅあああ!!」
それを……奇声を発しククリで一閃するアスタロット。砲弾は真っ二つに割れ、彼女の斜め後方に跳ねて転がった。
同時に、マサの身体が上空へと高々跳ねあがっている。力を溜め、スナップを伴って拳を装甲車の機関砲目がけて一気に振り下ろす。
普通は無茶である。しかしマサの拳は普通ではない。この一撃で壊れるだろうが、それでもこの機関砲を止めなければ、逃げることは不可能であった。
「おらぁぁぁぁ!!」
鋼の機関砲に、数メートル上空にいるマサの拳がめり込む。装填されていた砲弾の信管が破裂して大爆発を引き起こした。
二人が根城に戻ってきたのが、それから三時間後。満身創痍で、戸を開けるなり膝をついて崩れ落ちた。
二人はすぐにベッドに寝かされ、子飼いの医師の治療を受ける。マサのロボットアームは装甲車を爆破させた時の爆風で吹き飛び、他にも全身にいくつかの銃創が確認できた。アスタロットも同様はあるが、いずれの銃創も急所は外してはいる。
ただこの時代の技術は進み、銃弾の摘出は半自動に行える装置がある。さらに、たとえそれによって神経組織が壊死していたとしても、再生、もしくは人工の神経組織を代替することができた。
とはいえ、すぐに活動を再開できるわけではない。二人は首を動かすのも億劫な疲労の中で、広いベッドに並んで大の字になっていた。
「なーんだよ。せっかくいい女を抱けるチャンスだってのになぁ」
マサは天井を見上げたまま自嘲する。隣のアスタロットも口だけは回るようだ。
「よかったわね。私の下半身が吹っ飛ばされてなくて」
彼女も両断した機関砲の砲弾の、その後の暴発に巻き込まれ吹き飛んだ。おかげで服も無残に崩れているが、彼女は、生きている。
アスタロットも天井のシミを見ながら、別のことを言った。
「それにしても……そのテンガロン、よっぽど大事なのね」
自身ですら、ズタボロにされて半裸で生還したのだ。それほどの激しい戦闘の中、不安定な状態で身につけられている帽子など、残っている方がおかしい。少なくとも、幾度となく起きた爆風のたびに、マサは帽子を押さえていたことになる。
「嫉妬するわ。ホントに……」
マサは何も答えない。よほどのエピソードがあるのだろう。例えば、忘れられない女の影が、テンガロンの向こうに見えるかのようだ。
アスタロットは、疲労と銃創で鉛よりも重くなった腕をベッドの上でスライドし、マサの左手に触れた。
そしてそのまま、小指と小指が触れ合ったまま、また沈黙の時間が過ぎる。
マサにもわかる。彼女はS級の危険人物であるというレッテルと取り去れば、ただの少女なのだ。拠り所を求めてさまよう、ただの捨て猫なのである。
そして、そのように認識すれば、なお気になることがある。マサはその小指に小指を絡め、聞いた。
「兄貴はどうやっておめーを裏切ったんだ」
この際、この女の関係を深めるのに、大切なことのように思えた。
アスタロットは目をつむり、
「そうだったわね……」
そして……しばらくの沈黙を経て、目を開けた。
「アイツはね……」
その緊張感が、部屋の空気を寒からしめる。
が、凍り付いた空気で、次の瞬間、マサは思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「実は……ハゲを隠してたの」
「へ……?」
「カツラだったの。それも丸々よ? 信じられなかった……」
「……」
マサは思わず何度も瞬きをして息をのむ。
「ハゲ……が……裏切り……?」
「そうよ。信じてたのに……」
「ハゲ……ダメデスカ……?」
「ハゲが駄目なんじゃない。私が好きになるまで、私を騙してたっていうことが許せないの」
「……」
「思わずベッドから逃げ出したわよ。ホント腹立つ」
「…………」
マサは何も言い返せない。
「いっそのこと、始めからスキンヘッドでいてくれたら、私だって納得できたのに……」
「聞きたいんだがよ……」
「なに?」
「おめー、もう、俺のことが好きになってたりするか?」
「……」
返答はない。しかし、彼女に絡めた小指が強く握られる。マサは、声も出ない。
窓の向こうのよどんだ空から、また、雨が降り出した。
汚染物質にまみれた酸性雨に、頭頂部のナニカを奪われたこの男が、テンガロンを脱ぐことはない。




