046人生の再始動
四題
近所のガキ、再始動、格上げ、ダークエルフ
エルフの森は通常、他の部族に見つかることはない。
なぜなら深い森のさらに奥深く、コンパスも効かない樹海を泳ぐ精霊たちに、エルフ語で道を尋ねながら進まなければ辿り着けないからだ。
そのエルフの森のさらにさらに奥深く……当のエルフ族ですら滅多に到達できない秘境に、白く輝く木々が立ち並ぶ〝銀景〟という場所があり、その場所では光が風のように耳をなでて通り過ぎてゆく。
その風さえも尽きる境地に……その泉はある。
ここに、一人のエルフが到達した。森の果てを求めてようやくたどり着いた青年である。
エルフには珍しく、黒いチュニックを身にまとっている。これは広大すぎる森を冒険するチームが着る制服のようなものであり、彼らが倒れていても一瞬で身元が分かるようにする意味合いが込められていた。
森の探索者であるソルという青年はこの泉を知っていた。エルフ語で〝ヴァルディエベール〟……つまり再生とか、再始動とかを表す意味を持つ神聖な水を湛えており、この水を体内に取り込んだ者は精霊神の加護を得ると言われている。
この水を持ち帰り、研究チームを経て、エルフの森の果てに湧いている奇跡は何かを解明する。欲のない半精霊である彼らエルフは、森の守護と発展のためなら、すべて無償で行動する純度を持っていた。
エルフの水筒は木を削りだしたものだ。ソルは泉のへりに座り込み、水筒の蓋であるコルクのような弾力性のある詰め物を取り去った。
そして身を乗り出して、縦に長いこの容器を水にうずめていく。空気と水が場所を交換する、こぽこぽという音と水泡が泉の中で起きて、水面に波紋ができる。
が、立ち上がろうとした矢先、彼は尻に衝撃を感じた。それは明らかに接触による衝撃であり、その勢いでまともに泉の方へとつんのめる。身体を支えきれず、水面に頭が引きずり込まれたようになった一瞬後には、そのまま全身転げ落ちた。
何者かに突き落とされた。ソルは一瞬パニックを起こして溺れるかと思ったが、足がつかないほど深いわけではないようで、程なく水面から顔を出す。
「ぷはっ!!」
という息をつく音と、水が鼻に入ったのだろう。何度かせき込む音が、ほどんど無音の空間に浮かんだ。
面食らっているソルの視界には、白く輝くシカのような存在がある。
「何をしている」
シカは、精霊の言葉でそのような意味の言葉を吐いた。
「あなたは……」
「我は精霊神マルス。汝は誰だ」
「あ……」
ソルはかしこまる。泉の中に身体をうずめたまま、正座をするように動きを止めた。
「僕はソルと言います」
「何故、ヴァルディエベールを汲んでいる」
「申し訳ございません! この水が森の発展に寄与するものならと思い、研究のためにほんの少し拝借しようと思ったのです」
「……ならぬ」
「やはり、神聖なものだからですか……?」
「左様。この水は、森の木々が死を迎える時、それを悼むために必要なものであり、何人の好奇心を満たすものでもない。去れ」
「我々はこの水が、森の発展に寄与できるものであればと考えています。マルス様。どうかマルス様の加護として、この水を分けてはいただけないでしょうか」
だが、マルスと名乗る神は身じろぎもしない。
「半精霊よ。汝らが用いて有用なものではない。無知から生まれる好奇心で有限な資源を侵されては迷惑だ」
「……」
本当なのか、嘘なのか。
それは判然としないが、先ほどの水筒を拾うことすら憚られる雰囲気だ。いや、それよりも……
「え……?」
ソルは自分の水筒を探す視線で己の腕を見て、思わず息をのんだ。
褐色に染まっている。エルフというのは半精霊だから、生息地域や個体差の別なく、肌の色は決まっている。乳白色と言えるほど明るい肌であり、日焼けもない。
「これは……」
だから、ソルが言葉を失うのも無理はなかった。
「これは、泉の影響ですか……?」
「なんのことだ。半精霊」
「僕の腕が褐色に染まっています」
「元からではないのか」
「滅相もない」
「ふむ……」
マルスはやや考えたが、
「ヴァルディエベールは再生と再始動を担う神水。何の根拠もなく、肌の色を変えることなどはない」
「しかし……」
「それに、我には汝の腕が染まっているとは思えぬ」
「いや、見てください! まるで火の精霊に焼かれた肉のような色をしているではありませんか!」
「腕が、か」
「失礼ですが、マルス様は目が見えぬ精霊神なのですか?」
「はっきりと見えておるわ」
「では、分かるでしょう。僕の腕がまるでカカオ豆のような色に染まっていることが」
「我が見る限り、汝は全身、その色のようだが」
「え……?」
ソルは腕以外の部位を見ようと躍起になった。いまだ泉で正座したままであった自分を立ち上がらせ、チュニックの裾に手を掛けてそれをめくる。顕わになった腹を見て……さらに驚いて、水面に映る自分の顔を見た。
「……」
「元からその色だったのではないのか?」
「違います!! こ……これは、泉の影響としか言いようがありません!」
なぜなら、水筒の口を握ってこの泉に手を伸ばした時、確かに腕はこんな色ではなかったから。あれから起きた変化と言えば、この泉の中に転げ落ちたことくらいなのだ。
「そのような効果はないはずなのだが」
「現にこのような状況です!!」
どうしよう。これではまるでダークエルフのようではないか。
「何とかしてくださいよ! 近所のガキたちが僕を見たら絶対泣きますよ! えーんダークエルフが来たーーって……」
「それを我に言われてもな……」
「この泉はあなたが作ったんですよね!?」
「作ったというか……」
「管理者なのですよね!?」
「そうだ」
「管理者責任だと思います!」
「うぬ……」
「しかもあなたがつき落としたんじゃないですか! 僕が自分から飛び込んだわけじゃありません!」
「百歩譲って、それが泉の影響だとしても……だ」
マルスは前足を首をもたげた。
「例えば、窃盗犯が煙突から落ちて骨折して、その家の者が賠償をしなければならぬ道理などは存在するか?」
「盗むつもりなど!!」
「我が現れなければ、汲んだ水筒に栓をしていたな?」
「あぅ……」
「それを盗みとはいわないのか?」
「水に所有者などありますか!?」
「それは我の小水だから、我の所有といえるのではないだろうか」
「ぶへぇぇ!!」
ソル、泉より緊急脱出。口から鼻からだいぶ飲み込んでしまった。
「ということはここはトイレですかっ!!?」
「もともとは神聖なる湧き水なのだが、他にするところもないからな」
「神聖なる湧き水に小便すなーーー!!」
「失礼な……糞もしておるぞ」
「なお悪いわーーーー!!!!」
「大丈夫だ。糞尿が混ざろうとも、効果は変わらない」
「飲んでしまったではないですかぁぁ!!」
「例えば、窃盗犯が勝手に肥溜めに落ちて、糞尿を口にしたことにクレームを言われてもな……」
「聖なる湧き水が肥溜め扱いになってるーーー!!」
……神とは言え、所詮ケモノらしい。
森に帰れば、当然皆が彼を奇異な目で見た。
近所のガキたちなどは想定内の反応である。
「わーーん! ダークエルフが来たーー!」
ちなみに、ダークエルフというのは魔に魂をささげたエルフのことであり、交わるだけで穢れるとされる存在だ。
「おいガキども! 僕だぞ! よく見ろ! ソルだ!!」
必死に弁解する〝僕〟だが、泣き出したエルフの子供はなおさら、
「うわーーん、ソルが闇落ちしたーー」
と泣き叫ぶ。確かにダークエルフは自分の意思で魔と契約するものだから、ソルが闇落ちしたと見ても不思議はない。
程なく彼の進行方向にはエルフたちのバリケードが築かれ、ソルはそれ以上進めなくなった。
「魔との契約は不可逆だ。ソル、貴様はなぜ魂を売った」
数えきれないほどに矢じりがソルの方へと向いている。ソルは慌て、
「待ってくれ! 僕は決して魔と契約などはしていない!!」
「その肌の色が何よりの証拠」
「これは! 泉に落ちたんだ!」
「泉に落ちたら肌が黒くなるエルフなど聞いたことがない!」
「僕自身も信じられないんだが!」
しかもそれが精霊神の糞尿まみれの泉だったなど、もっと信じられない。
「とにかく、僕はダークエルフなんかじゃない! 信じてくれ!」
その喧騒の場へ、一人の男が進み出た。長老と呼ばれる、数千年を生きたエルフだ。彼は一度、ソルを頭から足先までを一瞥すると、
「テストをしよう」
「テストですか……?」
「ワシの問いに、イエスかノーで答えるのだ」
「はい」
長老は片眉を吊り上げて言葉を発した。
「もともと几帳面な方である」
「は……?」
「イエスかノーで答えろと言っておる」
ソルは首を傾げたまま、「どっちか言えばイエス」と答える。すると長老は続けた。
「初恋はうまくいかなかった」
「はぁ……?」
「イエスかノーだと何度言ったらわかる」
「何の関係があるんですか!!」
「お主が知る必要はない」
「ありありだと思うんですけど……」
と言いながら、しぶしぶ「イエス」と答えると、質問はまだ続くらしい。
「その恋愛には未練がある」
「あんま掘り下げんな!」
「いいから答えんか」
「……イエス」
「アプローチが良ければうまくいっていたかもしれないと思う」
「なんだこの質問は!! イエス!!」
「ふむ……」
長老はうなずいた。
「間違いない。お主はダークエルフじゃ」
「なんでだよっっ!!!」
再びバラバラと弓が構えられ、矢じりが一斉にソルの方へと向く。
「ダークエルフをこの森に置いておくわけにはいかん。出てゆくがよい」
「ちょっと待ってくれ! せめて猶予をくれ! ください!」
「何を企んでおる。仲間を増やす気か」
「僕がこんな色に染まってる原因を探したい!」
「いや、だから、ダークエルフ落ちしたのじゃ、お主は」
「でも! 気持ちはピュアなままですよ!? 悪いこととかエロいこととか全然考えてません!!」
「……別に、ダークエルフがエロいことを考えてるというわけでは……」
「とにかくお願いします!」
「ならん。ダークエルフなど腐ったミカンのようなもの。お主一人いると森全体が腐るわ」
弓の弦がキリキリと音を立て始めると、ソルも森に入ることを諦めるしかない。
ソルは踵を返した。
向かう場所は一つしかない。精霊神、マルスの元であった。
「再び舞い戻ってきたのか」
マルスはシカの姿をしているから表情は変わらないが、その声はやや呆れている。
「ヴァルディエベールを汚そうとするなら、次は容赦せぬぞ」
「むしろそれはあなたに言いたい!!」
糞尿まみれの泉に目をやりながらクレームを入れるが、神は無反応だ。
「何をしに舞い戻った」
「僕を直してください!」
「だから、それはヴァルディエベールの効能ではないと言ったはずだ」
「そんなはずはない!!」
ソルは腕を突き出して訴えた。
「僕はこんな肌の色じゃなかった! 案の定、この肌のせいで森を追い出されたんですよ!?」
「例えば、胃薬に頭痛を治す効果はあると思うか」
「ありません!」
「それと同じだ。ヴァルディエベールに鎮痛効果はない」
「鎮痛効果は問うてません!」
「鎮痛効果がないのだから、当然着色効果もない」
「別にそれ、リンクしていませんし、黒くなったのは事実です!!」
「ヴァルディエベールは再生と再始動を司る泉。である以上、火もないところに煙は立たぬのだ」
「……つまり、どういうことですか……?」
「黒くない肌を黒くするなどはできぬ」
精霊神マルスによれば、ヴァルディエベールの効能は一つではないが、再生であり再始動であるため、もともとその要素を持ち合わせていなければ、そうはならないということらしい。
「……だから、汝がエルフであったこと、それ自体があるいはかりそめだったのかもしれぬ」
「僕が、元はダークエルフだったと……?」
「あくまで一つの可能性だ」
ソルは唇をかみしめる。思い当たることがない……わけではなかった。
彼は孤児であり、出自は不明であった。幼くして森に捨てられていたのを拾われ、養われたのである。
一度でも魔に魂を売ったエルフからは、闇エルフしか生まれない。ひょっとすれば、何らかの形でそれに悔いを残した親族が、何かの秘術をもって彼の肌の色を抜き、森に預けたのかもしれない。
それが、ヴァルディエベールの力で元の姿に再生されてしまった。
……そういうことなのか……?
マルスはこうも言った。
「リスタート(再始動)の効能が発揮される場合、要素が合成される特徴もある」
つまり、二つの要素が混ざり合うということもある。平たく言えば、人と魚が同時にヴァルディエベールの洗礼を受けると、人魚になったり、逆に半魚人となったりするということらしい。
「だから、汝と、闇エルフが同時にヴァルディエベールを浴びれば、汝にも影響があるということだ……が」
それはしかし、ソルにとっては何の希望にもならない。彼は単独で泉に落ちたのだ。ダークエルフの存在などどこにもなかったのだから……。
「その二つに該当せぬ場合、ヴァルディエベールの効能とは言えぬ」
……ソルは頭を抱えるしかない。
自分は、生まれたその瞬間から呪われていたのだ。その思いが彼の肩を落とさせた。
本性がダークエルフであったのなら、この森にい続けることはかなうまい。森を追い出され、路頭に迷うことになる。
もちろん、魔の領域に足を踏み入れれば、受け入れられることもあろう。しかし、エルフとして育ち、エルフとして生きた数百年が、今さら邪悪な領域で生きることに拒絶反応を示すことは確実であった。
実際、ダークエルフというのは生粋の魔ではないため半端者のように扱われ、多くは茨の道を歩むことを余儀なくされる。だから、きっと親たちも、闇落ちはしたもののそのつらさに耐えかねて、せめて息子は……という思いがあったのかもしれない。
それを……その想いを、踏みにじってしまった……。
不可抗力だったのかもしれないが、親族の願いを握りつぶしてしまったことが、なによりつらかった。
「これが……僕の本性なんですね……?」
肩を落としたまま、ソルは呟いた。シカの精霊神は微々足踏みをし、
「我には分からぬ」
「ありがとうございました……失礼します」
ソルは会釈をする。これから、どこで生きていくかを模索しなければならない。
そんな、失意に暮れる闇エルフの男に、マルスは言った。
「そういえば、汝の着ているその服は黒いな」
「……はぃ」
森の探索チームが着る、黒いチュニックである。エルフが着用するのはその色は珍しいが、そのため逆に目立つ……という理由で採用されていた。
「それが色落ちして混ざったということはないか」
ソルは寂しげに吹き出した。
「ご慈悲を、ありがとうございます」
その冗談は慰めか、励ましか……。
よく分からないが、確かに落胆する男に、ほんの少しの笑顔を与えていた。
とぼとぼと帰路を歩くソル。これからどのように生きればいいだろう。
人間の地域はダークエルフを受け入れてくれるだろうか。いや……
どちらかと言えば、敬遠されるだろう。ダークエルフというのはともすれば妖魔に等しい存在だ。受け入れてくれるとすれば悪党の類だろうが、言った通り、ソルの心は生粋のエルフであり、彼の外道を受け入れられるとは思えない。
「はぁぁ……」
ソルは大きなため息を吐いた。この森を去らねばならないと思うと、いろいろな思い出が浮かんでくる。
さまざまな想いが交錯する中で、忘れられないのは……やはり色恋沙汰かもしれない。
彼は、一人の女性に片思いを寄せていた。
……もう何百年も……と言えば、そんなわけあるかと思うかもしれない。しかしそれはあくまで人間の尺度であり、エルフは元来惚れにくいし、一度惚れたらほぼ冷めることはない。何百年でも想い続けるし、浮気もない。諦めるとなってもその想いは簡単には消えず、次の恋愛に発展するまでに、また数百年かかる。
そんな種族である。彼の想い人も数百年前から一度も変わったことがない。彼の、初恋の相手であった。その女と会えなくなることが、とにかく悔やんでも悔やみきれない。
ソルは自分を覆っている黒のチュニックの袖を、ぼんやりと眺めた。
「色落ちねぇ……」
精霊神マルスが苦し紛れに言った冗談を思い出しても笑えない。さすがに、いくら色落ちしたって、こんなにこんがり褐色肌になるわけもないだろう。
そう思いながら、何となく生地をめくってみる。裏側にはタグがあり、以下のような文言が記されていた。
『この商品は他の製品に色が移ることがありますので十分にご注意ください。洗濯の際は他の物と一緒に洗わないでください。単独洗いをおすすめします。』
いや……まさかね……。
よくある品質表示だが、これが書いてある服を本当にすべて分けて洗っていたら洗濯だけで一日が終わってしまう。
いや……だけど……
……まさかね……。
……
……ソルは、踵を返した。
「マルス様!!」
三度目の再会。ソルはシカの精霊神に飛び乗らん勢いだ。
「本当に色落ちで再始動されることはありますか!!?」
「……距離が近い!」
「そりゃ近くもなります!」
それが唯一の希望であるなら、マルスの足を舐めてもいいと思うほどに彼は接近し、
「このチュニックは確かに洗濯すると色落ちするようです!! いかがですか!? 可能性としては!!」
「まぁ、染料が動物性ならあり得るだろう」
二つの生命体の成分が混ざり合って、再始動が始まるのだ。それが服に交じっているなら充分に考えられることではある。
「それって、服着て飛び込むのはもともと危険だってことじゃないですか!?」
「生物はもともと服というものを着ていないからな。汝らの方が特別よ。そんなナリで泉に飛び込みおって……」
「突き飛ばしたのはあなたです!!」
しかしこれは、自分がダークエルフではない可能性が出てきた。だとしたら自分を捨てた両親像が元から破綻するが、エルフでいられるならどんな物語を腐らせてもいいと思える。
「では、どうすれば戻りますか!?」
期待を込め、目を輝かせてマルスに迫るソル。叫ぶマルス。
「頬擦りするな! 気持ち悪い!!」
「これが喜ばずにいられますか!!!」
「いや、どうでもいいが、戻す方法などないぞ」
「え……?」
止まるソル。意味を理解する程に、動揺は広がっていった。
「え? ええーーーー!?」
「痛い痛い痛い痛い!! 我の鼻を曲げるな!」
「え!? だって、……どういうことですか!?」
「どうもこうも、汝とその色移りした成分は元からあった組織として完全に合成されているのだ。今さら元に戻すことなどできん」
「そんなの困ります!!」
「うおぉぉぉ!! 耳を引っ張るな!! 首にぶら下がるな!!」
「僕はどうすればいいんですか!!」
「知らぬ! 今度は白い動物性の染料を使った服で飛び込んでみたらどうだ!」
「それだっ!!」
ソルは懐から十五センチくらいの棒を取り出した。光の精霊ミゥと音の精霊ウィルミヘナを中継させ、遠くの対象に意思を伝える道具である。
彼は、通話の相手を森に生きる一人のエルフに定めた。
「ミミリ、聞こえるか」
「あれ? ソル? どしたの?」
女の声である。
「僕さ、ちょっと事情があって、森に帰れないんだけど、何でもいいから動物性染料を使ってる服を一着手に入れて、森の郊外まで出てきてくれないかな」
「え? ……いいけど、私、あなたとは結婚しないよ?」
「そんなことは言ってない!!」
「どこかに連れ出すたびに、何の前触れもなく『結婚してくれ』って言うよね?」
「ま、まぁ……そういうこともあるかもしれないけど……今日はそうじゃない!」
「分かった。結婚じゃないなら手伝ってあげる」
アプローチが悪いと感じるのはその辺なんだろうか……と、全く自覚のないソルは頭を掻きつつ、「周辺に着いたらまた連絡するから、そうしたら出てきてほしい」と告げ、通話を切る。
そして、元来た道を走りだした。
ソルがミミリと落ち合ったのは、それから二週間が経過した後だった。
森の郊外といっても、要するに森である。彼らの言っている〝森〟というのは居住区を指しているため紛らわしいが、実際は東西南北、木々の覆い茂った園が無限に続いているのが、この〝エルフの森〟という秘境であった。
草で編み込んだバッグを抱え、その一角に現れたミミリは、若草色の長い髪を一つに束ねている童顔の美人であり、ソルの初恋の相手であり、それから先数百年片思いを続けている相手である。
幼馴染なので距離感としては友達以上なのだが、しかし今日はいつもと様子が違っていた。
ソルはいつものように、「あぁ結婚したい」と思っただけだが、ミミリの方はソルの変わり果てた姿に絶句している。
「ど……どしたの……? それ……」
こんがりチョコレート色に灼けている肌を見る目が、ソルの全身を行き来する。
「いや、大丈夫。大丈夫だから怖がらないで!」
ソルは彼女を警戒させないよう、五メートル先から近づかず、「服、調達できた?」と聞く。
呆気にとられていたミミリだったが、はっと我に返ると、バッグから白い貫頭衣を取り出した。
「ありがとう! 渡してくれる? ……怖がらなくていいよ。僕は闇落ちしたわけじゃない」
「……なにが……あったの……?」
貫頭衣を握りしめたまま、ミミリが尋ねる。
「いや、実は……」
彼女が悲鳴を上げて逃げないことに感謝しなければならない。そう思いながら、彼は事情を説明した。
「……だから、それがあれば、僕は元の肌の色に戻るかもしれない……いや、絶対に戻れるんだ」
だから怖がらないで……結婚して……と心に含むソル。ミミリは固唾をのんで、「そうなんだ……」とだけ呟く。
「もし疑わしいと思ったら、服だけその場に置いて帰ってもいいよ。ごめんな。このお礼は必ずするから」
ミミリはそんな中、一歩、また一歩と、ソルの方へと歩き出した。
「いやミミリ。本当にいいよ。大丈夫だから」
言ってもミミリは止まらない。ソルの方がやや腰を引き、心臓を高鳴らせる。
二人の距離は手の届くところに達し、ミミリは改めて彼の顔をまじまじと見上げた。その喉が、こくりと小さく鳴った気がする。
「服……渡してくれる……?」
ぎゅっと握りしめているそれに目をやって、ソルが言った。ミミリはそれで、再び我に返ったように「あ……」と声を上げると、服を絡めた両手を伸ばした。
「ありがとう。大丈夫だよ。僕、絶対に元に戻るからさ。だから……帰ってきたら……その……えっと……」
彼女は一点……ソルの顔を見上げている。彼女に恐怖はないのか。いや……ソルの言うことを信じてくれているのか……。
「とにかく……僕は必ず戻るから……」
なににせよ、彼女にこれほど見つめられたことはない。ソルが途中からしどろもどろになっていると、彼女は呟いた。
「元に……戻っちゃうの……?」
「え……?」
「ホントに、元に戻っちゃう……?」
「う、うん、絶対だよ、約束する!」
というか、〝戻っちゃう?〟は、この際適当ではない気がする。……などとよぎった次の彼女の発言で、ソルは目を剥いた。
「もったいないよ……」
「ええっ!?」
「ソル……今、めっちゃめちゃかっこよくなってる……」
「ええええっ!?」
腕を伸ばせば届く距離で、見上げる彼女の目がキラキラ輝いていることに気づき始めるソル。
「ソルが色黒になると、こんなに男らしい顔になるなんて……知らなかった……」
「え、え、え……?」
「ソルって、白い肌だとすごく頼りなさそうなの。だけど……なんて言うのかな……輪郭がはっきりして、しゅっとメリハリがついて……」
彼女は微々目をそらし、「すごくかっこいい……」と呟いた。
ソルはまともに動揺する。
「ちょ……!」
そんなこと、この目の前の……数百年片思いだったこの娘に言われたことはない。片鱗すらない。
ミミリは胸に両手を当てたまま、頬を上気させて言った。
「……ソル、今でも私のこと……好き……なんだよね……?」
「あ……はい」
「私……今のソルなら……いっかなって思えた……」
「えええええええーー!?」
いや、しかしだシカシ!
「僕、この格好じゃ、森にいられないよ。追い出されちゃう」
それに対して、ミミリは何度か首をひねってあっちこっちに視線を移し、思案する。
そして再び彼の方を見上げると、いたずらっぽく笑った。
「この際、二人で森を出て、旅に出ちゃう……?」
「マジかーーーーー!!」
まさかの格上げ……。
……ソルは受け取った白い貫頭衣を握りしめながら、新たな葛藤を始めなければならなかった。




