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百夜一夜物語(短編百篇企画)  作者: 矢久 勝基


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43/46

043明日貴方に逢えるなら

四題

理想の嫁、柔らかい、勝利の代償、婚約破棄

 アパートの呼び鈴が鳴ったのは、仕事から帰って「さて今からなに食おっかな」って冷凍庫を開けた時だった。こんな時間に人が来ることなんてないから無視しようと思ったけど、もう一度同じ音が繰り返された時、ドアホンのモニターにふっと目が行く。

 ……女だ。

 歳は僕と同じくらい……だから二十代中頃。モニター越しなので正確な色は伝えてこないけど、おそらくまったく染めてない、真っ黒のロングヘアにはウェーブがかかり、おそらくハーフアップにされている。

 目は大きくまつげが長い。顔の造形自体が小さく、あえかな印象を受ける。

 てか誰だ。

 ……と思った時には応答ボタンを押してしまっている。多分このレベルのオンナじゃなければそんな反射行動はとらなかった。

「はい」

「スミマセン。ちょっと出てきてもらえますか?」

 意外な言葉。さすがに警戒した僕は、

「何の用っすか」

「出てきてくれたら話します」

「いや、どんな用なのかは言ってくださいよ」

「ですから、出てきてくれたら話しますから」

 なんだ。何の勧誘だ。生命保険か、宗教か。

 ほとんど首から上しか見えないので姿は分からないが、たぶん白いブラウスを身に着けていて、その姿からもカジュアルかフォーマルか、線引きが難しい。

 しかしまぁ、顔に見覚えがない以上、何かを売り込みに来たと考えるのが自然だ。

「あのう。ウチ、金ないんで」

「は?」

「あと、実家が寺なんで、仏教以外の信仰はできないんすよ」

「何を言ってるんですか……?」

「えっとー、だから、何も買えないってことです」

「なにも売りませんよ!」

「じゃあ要件を教えてくださいって」

 女、黙る。僕も考えた。この場合、一番まずい事態は何かを。

 ドアを開けた瞬間、闇バイトに押し入られ、強盗を働かれるのが一番まずい。

 ドアを開けた瞬間、警察に押し入られ、逮捕されるのもいやだ。

 まぁ警察が女を囮にしてそんなことをするとも思えないが、いずれにせよ有益ではなさそうだ。

「申し訳ないんですけど……」

 が……とりあえず腹痛とでも言っておこうと、口を開きかけた時飛んできた言葉は、そんな言い訳など時空の向こうまで吹き飛ばす、強烈な威力を秘めていた。

「結婚しにきました」


 その言葉は確かに強烈ではあったが、荒唐無稽すぎて飲み込まれるわけもない。

「詐欺ですか?」

「何の詐欺?」

「結婚詐欺」

「違います」

「詐欺はみんなそう言います」

「開けてくれたらちゃんと説明しますから」

「あの……ひょっとして、訪問する家、間違えてません?」

「それを間違えてないか知りたいから出てきてって言ってるんです」

 たぶん絶対間違ってると思う。こんな美人、見たことすらない。

「で、何の用ですか?」

「だから、結婚してって言ってるんです!」

「そんな押しかけ女房、聞いたことがない」

「もう婚約はしました」

「誰と?」

「あなたと」

「……」

「あとは、あなたが思い出してくれるだけです。だから、逢って話したいの」

「……」

 これを詐欺だと思わない人、挙手。


 無視するべきだ。五感が警鐘を鳴らしている。

 詐欺師はスーツを着ているのだ。見るからに怪しい身なりの詐欺師はいない。

 ただ……悲しいかな、彼女を無碍に追い返すほど、俺の心の中の〝女力〟は足りてない。

「名前は?」

「安西美香」

 やはり知らない名前だ。

「僕のこと、どれくらい知ってる?」

「名前も知らない」

「おいおい。なのに婚約したとか……」

「信じられないよね。だから、わたしを見てほしいの。逢って話がしたいの。……思い出してほしいの」

「名前も知らないのに?」

「うん」

「話がおかしい」

「わかってる」

「……」

 なおさらちんぷんかんぷんだ。もはやカルト集団の布教以外の選択肢がない。

 ……が、少なくとも美人局ではない気はしてきた。闇バイトが後ろに控えてるわけでもない気がする。

 だってもしそうなら、もうちょっとマシないいわけをするだろう。


 僕はとりあえず、扉を開けることにした。

 ドアホンから離れ、反射的に鏡を覗く。手櫛で多少髪を整えて、僕は玄関へと向かう。

 そしてノブを押してドアを開いた。……けど、ガチャンという音と共に防犯用のチェーンがビンと伸びて、

「あ、すんません」

 一度扉を閉じてから、もう一度開き直す。その向こうには、先ほどテレビモニターに映っていたそのままの女が立っている。

 僕は思わずそれで、動きを止めた。かわいい。人の好みは千差万別であっても、彼女を不細工判定できる者はおるまい。白いブラウスに黒いひざ丈のスカート。これがもっとゴテゴテしてくるとゴスロリっぽい感じになりそうだけど、そういう判定はできないラインは保っている。

 彼女はじっ……と、その透き通った瞳で僕を見上げた。僕は思わず目をそらす。そうすれば彼女が勘違いしている時間を引き延ばせると思ったかのように。

「こっちを見て」

 その眼球の動揺を、彼女は許さない。しかし、僕はその時点であることに気づいて、なお首を傾げた。

 つまりこの女は、ここまできて、まだ人違いだと思っていない……ということじゃないか。

「……思い出さない……?」

「……あの、宗教の勧誘っすか……?」

「結婚しに来たって言ってるでしょ?」

「なんかの合コンの罰ゲームかなんかっすか?」

「違う」

「逆に、勝利の代償として……?」

「なにそれ」

「ゲームで勝っちゃって、僕と結婚しなければならなくなった」

「自分でおかしなこと言ってるってわかってる……?」

「キミもね」

「……確かにね……」

 彼女は僕を知っている。僕は彼女を知らない。端的に言ってそういうことだが、そんな状態で婚約は成立するものか。

「僕らはどこで婚約したんだ」

「うつろの街」

「うつろの街……?」

 そんな名前の街が日本に存在するんだろうか。

「……の、ブラックマーケット」

「キミはカルト集団のなにか?」

「……あなたがわたしのことを覚えていないなら、そう思われても仕方ないよね。でもね、あなたはわたしに約束したんだよ?」

 彼女は、僕の顔色をうかがうような目をして、

「わたしを幸せにしてくれるって」

 そんなことをこんな美人の前で言う機会は、僕の人生にはなかった。ただ、

「とりあえず、話を聞いてくれない? どこでもいいよ。外に出る?」

 その話を聞かない理由も思い当たらない。


 結局、得体の知れない女を部屋に招き入れてしまう。

 その得体の知れない女はかなりの美人で、しかも自称僕と婚約している。これが詐欺でないなら、この際このまま結婚しちゃえばいいんじゃないか。

「狭いけど座って」

 ちゃぶ台の前の座椅子を指し示した僕は「何か飲む?」と投げかける。

「じゃあはちみつレモンを……」

「はちみつレモンはないなぁ」

 はちみつレモンっていつの時代の飲み物だ。

 とりあえずどうしようもないのでスポーツ飲料にレモン果汁を入れて渡してみる。まぁ後お茶と水しかないから、それよりかは近いだろう。さて、これからどうするか。

「婚約してるって言ってたよね?」

 僕はちゃぶ台に対面して座ると、彼女の方を見た。とりあえずお茶持参。ビールか迷ったけど、判断力を鈍らすわけにはいかない。

「してる」

「僕と?」

「うん」

「それってさ。今も意思は変わらない?」

「え?」

「今も、結婚する意志ある? 僕と」

「じゃなかったら来ないよ」

「じゃあ結婚する?」

「え?」

「僕も結婚したい。だから結婚しよう」

 とか言ってみる。勇気のある告白のはずが、現実味がなさ過ぎてするすると言葉が出てきた。

「もちろん、結婚となれば今すぐって訳にいかないから、まずは結婚を前提に付き合うっていうのはどうだろう」

「それで済めば楽なんだけどね」

 彼女は苦く笑う。

「これはゲームなのよ。三日間……明後日の十八時までにあなたがわたしのことを思い出してくれなければ……わたしは消えるの」

 僕も笑ってしまった。失笑。

「どんなタイムリミットだよ。消えるってなに」

「それが……ブラックマーケットでの約束なの」

「……」

 これが俗にいう、電波系って奴なんだろうか。

「じゃあ、しゃべれる範囲で何かしゃべってみてもらえるかな。なにか思い出すかもしれないし」

 僕の言いようもおざなりにならざるを得ない。こんなの真剣に取り合えるのは、プロのカウンセラーだけだろう。

 彼女はグラスに注がれたスポーツ飲料をほんの少し口に含み、言った。

「あなたは、ブラックマーケットで〝現実〟を売ったの」

「現実……?」

「そしてわたしは、〝命〟を売った」

「……」

 やばい。ついていけない。

「買ったのは、あなたの今住んでいるこの世界に干渉する権利」

 それは非常に高額だった。たった三日間で、わたしの命と同じ額だった……と言い、

「売人は言ったわ。あなたの世界で、あなたがわたしのことを思い出せたなら、その三日間は永遠となる。……つまり、あなたの意識の世界で、わたしは永遠にあなたの傍にいられるの」

「なんで」

 その〝なんで〟は、なぜそこまで僕に執着するのか……ということだ。繰り返すけど、こんな美人は見たことがない。当然、これほどの想いを寄せられるいわれもない。

 彼女はその〝なんで〟をどう受け止めたのかはわからないけど、じっと僕を見据えて、言った。

「そのゲームには条件があるの。現実を売ったあなたに、現実を教えてはならない。だから……その〝なんで〟には答えられない。……だから、うつろの街で未来を誓い合った、わたしだけを思い出してほしい」

「うつろの街になんて、僕は行ったことないよ」

「現実を売ったあなたが、うつろの街を覚えてるわけないでしょう?」

「キミは自分の意志でその街へ行ったんだね?」

 彼女は首を振った。

「あなたが、呼んだの」

「僕が……?」

「あなたは現実を売る時、わたしの記憶と時間を買おうとしたの」

 しかしそのように他人に干渉する時は、本人の意思確認が必要らしい。それで、彼女は、うつろの街へと召喚された。

 彼女はうつむいて、湿り気のある声を上げる。

「……わたしに起きたことを、無かったことにしてくれようとしたのよ。だけどわたしはそれよりも、そんなことを考えてくれるあなたと一緒にいたいと思った」

 何をすればそれができるかを聞いた。売人は表情も変えずに言う。

「では、彼の世界に干渉する権利を買いなさい」

 ただし、人の意識が作り出している世界に別の意識を共有することは非常に難しいことであり、その意識を支配するものが、干渉するものを認識しなければならない……ということらしい。

「わたしはその時、いっそのこと、それなら結婚してしまいたいと言った。だって、永遠にあなたの意識の中で生きるんなら、……もう、そういうことだよね?」

 そして……あなたもそれを了承した。永遠に幸せにしてくれることを誓って……このゲームは始まったの。……彼女は、最後の方は声を潜めていた。

「もし僕がキミを思い出せなかったら……?」

「わたしが消えるだけ。あなたにリスクはないわ」

「……」

 僕はどうするべきか。

 こんな話など信じられるはずがない。普通に考えて彼女の妄想であり、精神に異常をきたしていると言っていいレベルだ。明後日の十八時と言ったが、その時間を過ぎればそれは証明されることだろう。

 そうなってから、改めて真面目に話をすべきか。いや、さすがにこんな地雷からは距離を取るべきか。

「キミの家は近いの?」

「今のわたしに家なんてあるわけないでしょう?」

「僕の意識に入り込んだから?」

「うん」

「じゃあ、明後日の十八時までここにいるのかい?」

「わたしにはその選択肢しかないんだけど……いい?」

「僕は男の一人暮らしだよ?」

「わたしは婚約者だよ……?」

「……」

 そして彼女は……たった二日間の居候となった。


 とりあえず夕飯として、冷凍チャーハンをレンチンで解凍して、二人で食べる。

「いつもこんなの食べてるの?」

「まぁ……ね」

「明日はじゃあ……何か作ってあげるね」

「家にはチーズと枝豆と食パンしかないんだけど」

「見たよ。冷蔵庫がスカスカすぎて、中で冬眠できるかと思ったわ」

 だから買ってきてあげる。……と、その後すぐに苦笑いを浮かべ、

「だけど、わたしお金を持ってないの。食材買えるだけのお金、くれる?」

「お願いしてもいいの?」

「これから花嫁になる女の、料理の腕前くらい知っててもいいんじゃない?」

「キミは仕事はしてないの?」

「現実ではしてたけどね」

 徹底してる。

 とりあえず、明日僕は仕事だ。この女に家を任せてもいいのかと一瞬思う。が、まぁ入社二年目の男の一人暮らしだ。貴重品などほとんど何もない。僕がいない間に屋材家財すべてを売られるとかじゃなければ、大した損害もないだろう。一応実印と銀行の通帳は会社のカバンに入れておけば……。

「あと、一つだけお願いしてもいい……? 男物でいいから、寝間着になる服を貸してくれる? わたし、これしか服がないの」

 胸に手を当てて白いブラウスを示した彼女。その時僕は、彼女の着替えを眺めていたらキツネの尻尾でもついてるんじゃないかと、真剣に思えた。


 彼女と一緒にパンを食べる朝。

 いつものように僕自身が焼くはずだったパンを、彼女は一足先に起きて焼いていた。枝豆を剥いて、スライスチーズを上に載せてあるという、ウチにある食材の能力を結集したした特製パン。……うまいかといえば、味なんて分からない。

 当たり前だ。変な妄想癖はあれど、とにかく胃が痙攣しそうなくらいの美人だ。倒した座椅子からむっくりと起き上がった僕を笑顔で迎えてくれた彼女の表情を見て、まるで夢から覚めてないのかという錯覚に陥って、パンの味どころではない。今、ここに、まさに理想の嫁が笑っているのだ。

 その魔力に蠱惑された僕は、仕事に行っても仕事など手につくはずもなかった。ここ数時間で起きている奇怪な現象を整理するのに、頭のメモリはフル稼働で、何も見えない。何も聞こえない。

 焦点はもちろん、彼女は誰なのか。彼女を明日以降どうするか。

 化けの皮は明日の十八時で剥がれる。それはいいとして、その時、ただ「さようなら」はもったいない。

 まぁ彼女がその時「ドッキリドッキリ~~」とか言い出したら、スカートめくって真っ青になるまでケツをぶっ叩いてやろうと思うが、事情によってはそのまま付き合ってしまいたい。

 なににせよ、明日まではヘタなことはやめておこう、とか思う。力加減を間違えて、「婚約破棄!」とか言われたらたまらない。

 ……みたいなことを、ぐるぐるぐるぐる一日考えていたら、今日の就労時間は終わっていた。途中、上司にどやされた気がしたけど、何を言われたかすら記憶がない。

「おかえり」

 アパートに戻り、カンカンと音の鳴る階段を昇ってドアを開け、その声を聞いた時、ようやく僕は我に返る。彼女はまだそこにいた。

 柔らかい笑顔で迎えてくれた彼女に、僕は改めて信じられないものを見たような目をしてしまう。

「ご飯作ったよ。一緒に食べよ?」

 漂ってくるコンソメの匂い。そしてそれとは別個の香ばしい香り。

「肉じゃが……」

「何がいいか分かんなかったから、とりあえず肉じゃが。と、オニオンスープにしたの」

 まるで結婚したばかりの新妻であるような彼女の笑顔が初々しい。その笑顔に苦みが混ざり、

「ごめんね。ちょっと、偉そうに言うほどのものじゃなかった……」

 みたいな言葉に変わっても、それはなおさらご愛敬だった。

 食べてみれば、肉じゃがはちょっと塩っ辛い。でもそのことが、彼女に対するなおさらの好印象につながった。

 〝花嫁になる女の料理の腕前〟は誇れるものではないのかもしれない。けど、だからこそ、本気度が窺えるともいえるのではないか。

 彼女は間違いなく、その手で料理を作ったのだ。特別得意で好きならやるだろう。そうではないのに、自分の料理を作り、夫となるかもしれない男に食べさせた。

 僕はどこか、それに温かいものを感じ、おいしさ云々じゃなくて、うれしかった。

「ごちそうさま。ありがとう。おいしかった」

「ちょっとしょっぱかったよね。オニオンスープとか逆に味薄かったし」

「いや、おいしかったよ。まちがいない」

「……よかった」

 そして、食器を片付け始める。僕も慌てて立ち上がり、それを手伝った。ままごとは継続中だ。

「ねぇ……」

 カチャカチャと陶器の皿を洗いつつ、美香さんが隣で突っ立ってる僕に眼球だけで僕を見上げて呟く。

「なにか……思い出さない……?」

「……」

 夢心地な時間を現実に引き戻す言葉。思い出せるものなら思い出したいが、もともと知らないものは思い出せない。

 結果無言の僕に彼女は少し寂しそうに笑い、

「……後一日あるから……」

 僕はそれが、いじらしく感じてしまった。だから衝動的な言葉が、気が付けば口を吐いて出ていた。

「明日、有給取ろうと思う。だから、明日ちょっとどっかに遊びに行かないか」

 彼女は……静かに微笑み、

「初めてのデートだね」

「初めてなのか」

「……最後のデートにならないといいな……」

「……」

 改めて思う。彼女は明日の十八時以降、どんな顔をしているんだろうか。

 怖くないんだろうか。自分の妄想を、人はここまで信じ切れるものなんだろうか……。

 そんなことを考えている僕の前で、彼女は言った。

「ね、今日、手をつないで寝ない?」

「え? いいのかい?」

 彼女は無言で微笑む。僕はこの時それだけで舞い上がってしまい、彼女の要求以上の下心は思いにも上がらなかった。

 そして僕らは、シングルベッドに並んで横たわった。薄いタオルケット一枚、電気を消して、二人は互いに仰向けになって手をつなぐ。

 表情も見えない暗闇で、彼女はやや、繋いでいる手の力を強め、

「なにか……思い出さない……?」

「うつろの街でもこうやって手をつないだのかい?」

「ううん。違う」

 でも、繋いだことがあるの、と言われ、僕はまた疑問の崖に突き落とされる。

 繋いだことがあるのはうつろの街ではない。ではどこか。それは彼女が言った〝現実〟での話なのか。

 すると、僕と彼女は現実でも会っていたことになる。

「……」

 考えても仕方のないことなのだとは思う。だってすべては、きっと彼女の妄想なのだから。でもその妄想の先に、僕がいる理由がどうしてもわからない。


 その日はあまり眠れなかった。気が付けばカーテンの隙間から朝の光が差し込んでくる時刻である。

 ままごとは三日目になっても継続しており、僕は彼女が焼いてくれた六枚切りの食パンを口に放り込んで、何となく頬っぺたをつまんでみた。

 ……夢ではないらしい。そんな僕に天使が囁く。

「今日はどこに連れていってくれるの?」

 その問いに、僕は即答した。

「うつろの街……って、どこにあるの?」

「え……?」

「キミと逢ったっていう、うつろの街……行ってみたい」

「……」

 それが、僕がほとんど徹夜で考え、出した結論だった。たとえ彼女の妄想だとしても、その妄想に全力で乗ってみたい。そう思った。

「そこに行けばすべてを思い出すかもしれないだろ」

「あのね。思い出すのはわたしのことだけでいいの。あなたは現実を売りに行ったんだよ? 全部全部を払い戻しちゃったら……元も子もない」

「どういうこと……?」

「うつろの街に戻るっていうことは、なんでうつろの街に行ったかを思い出すことになるじゃない」

「だってそうしないと、キミを思い出すことはできないだろ? 現実を思い出してもいい。キミを思い出したいよ」

 彼女はしかし、力なく首を振った。

「あなたが現実を思い出したら……この世界は無くなってしまうかもしれない」

 意識の世界だから……と言われたら、そうなのかもしれない。が、さすがに自分がそのようなフシギな世界にいることまでは信じられない。だから、怖くはなかった。

「キミは、命を売ってここにきて、もし今日の十八時までに僕がキミを思い出さなければ消える……んだよね? それが本当なら、キミの命は今日の十八時までってことだろ」

「……」

「この世界が存在しようがしまいが……同じことじゃないか」

 僕は続けた。

「どんな現実でも構わないよ。僕はそれを受け入れるし、キミのことを思い出せるなら、そういう未来を生きたい。……頼むよ。ヒントをくれ」

 彼女の言うことは妄想かもしれなくても、その想いは本心だった。


 彼女はしばらくの間、唇をかみしめて下を向いていた。そして、

「うつろの街へはいけないよ。だけど、どうしてもっていうんなら……連れていきたい場所はあるわ。……申し訳ないんだけど、わたしの分の電車賃、お願いできる……?」

 ……僕はそれが、片道三時間の旅になるとは予想だにしなかった。最寄駅から急行乗り継いで、そこから新幹線に乗り、いったいどこに連れていかれるのかと思いながら二時間半……

「ここは……」

 その言葉を吐いたのは、さらにローカル線に乗り継いで、彼女がシートから立ち上がった時に風景を見て……だった。

 そこは、もう何年前になるだろうか……大きな地震と津波により、長い間復興もままならない、海沿いの街だった。

 今も完全とは言い難く、国の対応がどうのこうのと、しきりに取り沙汰されている場所だ。最近はニュースにもならなくなったけど。

 それより僕は分からない。なぜ彼女はこんな場所に僕を連れてきたのか。

 が、復興途上の街を見渡して彼女が呟いた言葉に、僕は目を見開いた。

「あなたが住んでいた街」

「え……?」

「そしてわたしが住んでいた街」

「……」

「……なにかを思い出した……?」

「いや……」

 彼女は小さく息を吐く。その沈黙はからりと晴れ上がった田舎の空にそぐわない重さを持っていたけど、僕が「ちょっと歩いてみていい?」と言えば、その空気はゆっくりと流れ始めた。


 街は震災に見舞われた時、連日のように報道されていた。普段なら押しても動くはずのない車や建築物がバラバラに崩れて押し流され、かろうじて耐えた建築物にへばりついている光景。道路も瓦礫も草も何も、すべてが土砂の色をしていたのを見て、不謹慎かもしれないけど、心底あれが自分の住んでいる地域でなくてよかったと思ったものだった。

 それから長い年月が経ち、街は徐々に生まれ変わりつつある。周りを見回せば瓦礫はすっかり撤去され、新たな時を築き始めている様が見て取れた。

 内陸……高台に登るほどに、街は古びていった。まぁそうなのだろう。津波が届かなかった場所だから、震災以前の街が残っているのだと思う。

 そんな街を一日、ぶらついてはみた。太陽が正午を越えて西に傾くまで歩いたけど、何かを思い出す気配はない。

 彼女の表情にも疲れが見え始め、同時に落胆が広がっている様にも見えた。十八時……十八時を回ると、彼女は一体どうなるんだろう。どうにもなるはずもないのに、それが気になり始める。

 彼女を思い出す方法があるとすれば、それはなんだろう。この街で僕は彼女に逢ったのか。いや……

 彼女の妄想の中では、確かに逢っているはずだ。

「……キミは、僕と手を繋いだことがあるって言ったよね。それは僕とデートしたってこと?」

 彼女の目が泳ぐ。なぜ泳ぐ?

「嘘だってこと……?」

「嘘じゃない」

「じゃあどうして……」

「デートで繋いだんじゃないの……」

「この街のどこかで繋いだことは間違いないのかな」

「……うん」

「じゃあそこに連れてってくれ」

 彼女の目に動揺が走る。目を見開いて……また、その目を泳がせた。


「それは……無理……」

 消え入るような声。僕はすかさず「どうして?」と切り返す。

「あそこに行ったらあなたは絶対現実を思い出す。そしたらこの世界が消えちゃうかもしれない」

「でも、キミを思い出すことができるかもしれないよ」

「世界が消えたら、あなたは死んじゃうかもしれないんだよ?」

「ははっ、大丈夫だよ」

 あるわけがない。ともすればからかい半分になってしまうけど、彼女の妄想が僕にまで作用しているとはどうしても思えない。

「キミが消えてしまう前に、僕はキミを思い出したい。キミもリスクを背負ってるんだろ。僕だけが安全圏から見てるわけにもいかないと思うんだ」

「……」

「夫婦になるなら……病める時も健やかなる時も、その負担は半分こにしないとな」

 彼女は葛藤していたけど、やがて歩き出した。十八時まで、あと数時間しかない。


 そして、僕が辿り着いたのは、介護施設が併設されている大きな病院だった。相変わらず僕にとっては見覚えのない場所だけど、彼女は迷うことなく院内を進んでゆく。

 ここに来たらその場所に行かないわけにはいかないというくらい、迷わず歩く彼女が足を止めた病室。その病室にかけられている名札を見て、彼女は一度、硬く目を閉じた。

「ブラックマーケットって、意地悪にできてるわ……」

 沖村康雄という名前を見ても何も感じない。しかし、彼女は半ば観念したかのように扉をスライドし、中へと入る。そこは沖村康雄の個室のようだった。

 沖村康雄は眠っているのか。体中に管やら検査器具やらが取り付けられ、僕たちが来たことに気づく様子はない。いや、眠っているんじゃない。もっと深刻な状態であることを、そのものものしさは語っていた。

 彼女はそんな彼の枕元へと進む。その目にはまるで、何かの葬列を見ているかのような悲壮が彩られていた。

「今は二〇二六年なのよ……?」

 その言葉はまた謎めいていたけど、彼女が説明してくれる気はなさそうだ。顔を見れば、歳はちょうど僕と同じくらいだと思われる。

 彼女は何とも言えない表情のまま、その手に、そっと触れた。

「え……?」

 彼女はほんの少しの間、両手でそれを握りしめ、静かに離した。斜め後ろで思わず声を上げていた僕は、その息を半ば慌てて飲み込む。

 彼女の手の感触があったのだ。確かに。今。彼女が沖村康雄の手に触れている間。僕の手に、感触が。

 そしてさらに、僕の表情は固まった。同時に振り返った彼女の顔は、振り返る前の彼女の顔とは違う女になっていたのだ。


「どうしたの? 大丈夫?」

 彼女はそのことに気づいていないらしい。しかし僕は、その顔なら見覚えがある。そして、そんな僕の愕然とした表情への変化に、彼女はまともに動揺した。

「思い出したの!?」

 同時に、ぴしりと音がした。何かがひび割れるような音。その音の元をたどって、僕は仰天する。

「空が……」

 個室部屋の窓から覗く空が……ひび割れていたのだ。

「それ以上思い出しちゃダメ!!」

 僕は、その時にようやく知った。正しいのは彼女だったのだ。確かに僕には、彼女の記憶がある。

「キミは……」

 空のヒビが音を立てて広がってゆく。これは……僕の意識が、〝現実〟に近づいている証拠なのか。

 僕の胸に飛び込んできた彼女が叫ぶ。

「ごめん!! もう忘れて!! わたし、また余計なことをした! 消えるから! 今すぐ消えるから!!」

 僕はそんな彼女を抱き寄せた。

「キミは無事、逃げられたの……?」

 もしも彼女に逢えたなら、僕はいの一番にそれを聞きたい。……その想いは、いつから果たされなかっただろう。僕はもう久遠の時……そう思い続けて、そしてそのことさえ忘れていた。

 あの日……震災が起きて、街は破壊された。秩序もモラルも消え去った。百人が百人そうだったわけじゃないけど、その中の数名がおかしくなるだけで、世界は壊れていった。

 彼女はその被害者だった。街の至る所にできた死角に連れ込まれた彼女の心が切り刻まれているのを、僕は見てしまった。

 あの時僕は硬い瓦礫を握りしめて現場に飛び込んで……たぶん人を一人殺したと思う。

 でもその時、男は一人ではなかったのだ。僕は気が触れたように凶器を振り回して、磔のようになっている彼女から男たちを、一度は引きはがす。

「逃げろ!!」

 なぜ、あれほどの勇気が湧いたのかは覚えていない。世界が壊れ、ヤケになっていた部分もあったかもしれないが、同じことをまたやれと言われたらやれる自信はない。

 とにかく僕はあの日、狂ったように暴行を繰り返した。恐怖に顔をひきつらせた男を殴り、逃げようとする彼女の腕を未練がましくつかんだ男を殴り……

 ……しかし、そこで、記憶は途切れている。

 その後どうなったのかは分からない。ただ、それが沖村康雄という男であるなら無事ではなかったのだろうし……そして僕は今、彼の頭の中で、二〇二六年五月に生活している夢を見ていることになる。

 その夢が、音を立てて崩れ始めているのだ。

「キミは何も余計なことをしてないよ。……よく逢いに来てくれた」

「だって! わたしが余計なことしなければ、あなたはずっと夢の中で生きて行けたのに!」

「ははっ」

 僕はこんな空気の中で……つい笑ってしまった。その反応の温度差に、彼女はふっと顔を上げる。

「キミは、勘違いをしてるかもしれない……」

「え?」

「いや、勘違いをしていたのは僕なんだけど」

 僕たちは、ほんの少し離れた。彼女の顔がよく見える。ここ数日僕の隣にいた安西美香と比べたら、どこにでもいそうな普通の女性だ。しかし確かに、僕はこの女性を救った。組み敷かれていた彼女が起き上がった時に一瞬目が合って……僕はその潤んだ目を、生まれる前から知っていた気がした。

 世界は崩れている。僕たちの周りには、もはや病室はない。ひびの入った夕焼けの空がボロボロと落ちてきて田舎の風景を溶かしていくが、不思議と僕たちに当たることはない。

「僕は……っていうか、僕の頭の中は、この意識の世界での二十四年間の記憶を作ってたんだ。だから、僕がうつろの街で現実を売ったのは、この世界を、現実だと認識していたから……なんだ」

 退屈だった。この世界が。この日常が。

 しかし自殺も嫌だった。何をやったって醜いし目立つから。

 そんな、鬱屈した生活を送っていた時……自分がいたのがもともと意識の世界だったからだろうか……ぶらりと目的もない旅をした先に、うつろの街はあった。

 そこは薄汚れたレンガ造りの街で、人間たちも薄汚れていた。三番街には闇市があり、過去や未来、人間の尊厳や心理までもが売り買いされていたのだ。

「そこで僕は……〝現実〟を売った」

 だから、僕が売ったのは、まさしく、意識の世界下での〝現実〟であった。

 僕はほとんど何もなくなった世界を見上げた。

「キミはきっと……売った現実を崩しに来てくれた人なんだよ」

「でもわたし……ブラックマーケットであなたに逢ったよね!?」

 僕は、静かに首を振った。

「逢ってない」

 間違いない。すべてを思い出した今でも、それは断言ができた。

「でも!」

「きっとキミは僕が現実を売った時、別の経路でうつろの街にたどり着いたんだ。それは僕が現実を売ったからかもしれない。だから、キミが僕に逢ったことも、その約束も……その出来事は全部、ただの〝虚ろ〟の中での出来事だったのかもしれないよね」

「でもわたしは自分の命を売って……」

「この現象を見ても分かるだろ……? 何が真実で……なにが現実なのかなんて……誰も分からないんだよ」

 そんなものはただの夢だったのかもしれない。だって僕は二十四年間、確かにこの場所で生きていると思っていたのだ。それもこれも、すべてはシナリオだった可能性がある。彼女に課されたゲームは、彼女が〝意地悪〟と言っていたブラックマーケットの売人の遊び心だった可能性すらある。

 しかし、何にしても僕と彼女には接点があった。それが何層にも及ぶ因縁で結びついて、今、この瞬間がある。

 僕はすべてを洗い流した宇宙に漂っている気分だった。これから先、何が始まるのか分からない。だけど、僕はそこで一つ……少なくとも二〇二六年五月四日という現実を無くしかけている僕の行き先に、一つの希望を抱こうとしていた。

「十八時になったら……僕はきっと……君に逢える気がする」

 そして世界は、その十八時を、今まさに迎えようとしていた。


 暗闇が、僕を支配していた。でも僕はそれがなぜか、すぐに分かった。

 だって答えは簡単だった。目を閉じていたから……。

 だけどその目は、どれだけ長い間閉じられていたんだろう。そう思える驚愕の表情が、目を開いた僕の目の前にあった。

「せ……先生!!」

 その女性の名前を、僕は知らない。だけど、その顔は、どこかで逢ったことのある顔をしていた。

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