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百夜一夜物語(短編百篇企画)  作者: 矢久 勝基


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35/45

035バイト巫女、久しぶりに850円

四題

禁忌、陰陽師、高時給のアルバイト、ホラー

 今年も節分を無事終えた。

 ……などというと大変な行事のようだが、鬼の通り道となっている神楽神社では、竜巻が襲来したかといった被害を被る、現代の地獄絵図が展開される。

 巫女が黄泉平坂より降りてくる鬼に豆を撒き、撃退するこの行事の起こりは応仁の乱以前からとされており、毎年この時期になると全国から巫女が集められる。

 しかし、文明開化と共に巫女は減り、今はその大半を高時給のアルバイトに頼っているのが現状であった。

「ちょっと……ナレーションで嘘言うのやめてもらっていいですか?」

「どこが嘘なのよ。地獄絵図? 朱里には大したことない?」

「とんでもない!!」

 バイト巫女の朱里が半ギレで緋袴をたくる。太ももに、半円形の歯形がついている。

「今年だって食われかけました!」

「一瞬で助けたでしょ。何が不満なのよ……」

「それが二瞬なら、わたしの足、なくなってたじゃないですかぁぁ!!」

「ヨカッタネー」

 吹けば飛ぶ木の葉のような、軽い「ヨカッタネー」に暗澹たる思いの朱里だが、とりあえず今も歩けてる自分をカミサマに感謝し、神楽神社の宮司である櫻花さくらへと詰め寄った。

「とにかく、嘘なのはそこじゃないです」

 畳の匂いがする拝殿の一室でお茶を飲みつつ、ショートヘアを微々揺らし、朱里はトンと畳を叩く。

「現在、最低賃金で最も低い都道府県は高知県、宮崎県、沖縄県で、1023円です」

「うわっ高っ! マンション買えちゃうね!」

「そう。そのマンションすら買えちゃう(買えませんけど)値段を、日本国は最低賃金として設定しています」

「はい」

「にもかかわらず、わたしのアルバイト代がいまだに850円なのは、もはや日本国憲法違反だとは思いませんか?」

 対して垂髪の巫女は、背筋を伸ばしたまま上品にお茶をすする。

「なに、お金ほしいの?」

「一応、そのためにアルバイトしてるんですけど」

「じゃあ、一つ頼まれてくれる?」

「日本国憲法に違反しないなら」

「しないよ」

「あと、わたしがひどい目に合わない。わたしが意味もなく脱がされない。わたしが理不尽を被らないなら!!」

「……よっぽどひどい目に遭ってきたんだね……」

「誰のせいですかぁぁぁ!!!」

 ……全てはこの神楽神社の鳥居を、アルバイトとしてくぐったのが原因ではあった。


「で、どんな頼み事ですか?」

 それを聞いてしまうのが朱里だ。この際無駄に整った顔を櫻花に向け、湯呑を膝の上で両手に絡め、ほんの少し首をかしげる。

「そういうとこ好きよ」櫻花は愛嬌のある笑顔を浮かべ、

「ちょっと子供の面倒を見てほしいの」

「子供……?」

「ちょっとヤバい子」

 ヤバい……。とは、なんだろう。

「やんちゃなんですか?」

「やんちゃ……ではない」

「人間じゃない……とか……」

「人間だよ」

「もったいぶらないで教えてください」

「だって、内容聞いたら逃げるでしょ?」

「教えてくれない方が逃げるにきまってんじゃないですかぁぁ!!」

「報酬、高いよ?」

「え……」

 ゲンキンな朱里。言葉を飲み込む。しかしそこには大きな葛藤がある。

 いままでどれほどヒドイ目に遭ってきただろう。ヤマタノオロチに食われそうになったこともあった。戦神ワルキューレに靴ひもを絶望的なまでの硬結びにされたこともあった。

 お尻に巨大な串を刺されそうになったこともあったし、神が憑依して、取り殺されそうになった時もあった。

 もうすっかり自分の存在など忘れ去られたと思っていたのに、作者のヤツはちゃんと覚えてた。またぞろどんな目に遭うのか。すべて断って神社で掃除だけしていれば、たとえバイト代が最低賃金に届いてなくとも、それでいいんじゃないか。

「朱里」

 櫻花が諭すような表情を浮かべた。

「人間というのはね、この世に修行にきてるんだよ。人を助け、己の徳を積んで、魂を一つ高い段階にして黄泉に還るものなの」

「……」

 始まった……朱里は思う。彼女に本気で諭されると、黒でも白に感じてしまうスパイラル……。

「その徳を積めるチャンスというのは、いつでも転がってるわけじゃないんだよ? ましてや、これは朱里にしかできないことなんだから……」

「なんでわたしが……」

「あたし以外、アンタしかいないじゃんこの神社」

「そんな理由ですかぁぁ!!」

「とにかく、お願いね☆」

 櫻花のお決まりのウィンク。これが出た時、ロクなことが起こらないことを、朱里は知っている。


 それでも引き受けてしまうのが朱里だ。

 櫻花の軽自動車に乗せられ山道を往く。途中、対向車の交差すら難儀する程の崖と林道を通って辿り着いた先は、古びた洋館だった。木々に囲まれ幻想的なたたずまいだが……

「櫻花さん。今日のこれからの天気って知ってますか?」

「戦後最大級の嵐」

「帰りましょう」

「え、なんで?」

「明らかに土砂崩れで陸の孤島になるパターンじゃないですかぁぁ!!」

「あはは、絵本の読みすぎだよ」

 古びた洋館にはツタが伸び、何となく黒々とした雰囲気が辺りを覆っているかのように思う。

「……心霊スポット百選に選ばれそうな家じゃないですかぁぁ……」

「失礼だよ朱里。人住んでるんだから」

 櫻花は車を降りて玄関へと向かう。何の変哲もないニットのカーディガンにデニム姿だが、丈長で結ってある髪が巫女のそれであり、なんとなしに浮世離れした空気を背負っていた。

 地味な色のダウンジャケットに身を包む朱里もそれについて、扉の前に立つ。古びた扉に呼び鈴はなく、ライオンが輪っかをくわえているノッカーがまたアンティークじみている。櫻花は躊躇せず、それで人を呼んだ。

 現れた和装の老爺。

「櫻花様と従者様ですね。よくぞおいでくださいました」

 背筋の立った、清潔感のある男は二人に進路を譲る。玄関がホールのようになっている様、高い天井が二階のもっと上まで吹き抜けている様は中世の城のように見え、朱里は閉口した。なお、表こそ廃墟のようであっても、中はさながら、艶やかな木造の芸術といえる。

「どうぞこちらへ」

 案内された先には両開きの扉があった。

 二人は扉の向こうの、無駄口を叩くのも憚られるような荘厳な応接室のソファに並んで座らされる。対面して座ったのは、これもまた上品な風格の漂う、五十前後の紳士である。ただ……洋館なのに、執事も含め、みな和装なところが、朱里は少し気になった。

 隣りで櫻花が会釈をする。

「何年ぶりでしたっけ」

「三十年になるか」

「あはは、さすがのあたしも三十年前は赤ちゃんです」

 知り合いなんだ……朱里の目が二人の顔を交互に行き来する。

「で、弦太郎君はどんな状態なんですか?」

 男は目を泳がせた。櫻花が問う。

「一度会わせてもらっても?」

「今は完全に眠ってる」

 言いながら、男は立ち上がった。ついてこい……ということらしい。櫻花が続き、朱里もおそるおそる立ち上がる。木目の織り成す落ち着いた色調の壁や家具は高級感はあるものの、古めかしい様子がやや不気味にも思う。自分の背よりも高い振り子時計の音がガチガチと大きく、こんなのに迎え入れられながら夜一人でトイレに行くのは勇気がいるかもしれない。

 階段を上り、昼は灯りが一切不要な大きな窓の連なる廊下を歩いて、突き当たる前に分岐しているところを曲がる。奥には扉が一つ。鍵がかけられているらしい。

 男はポケットからホルダー付きの真鍮を取り出し、鍵穴を回す。そのまま無造作に開け放つと、そこは光が一切遮断された場所だった。

 朱里は小さく息をのむ。何も見えなくても分かる。雰囲気が、異様であった。

「櫻花さん、わたし、ここで待っててもいいですか?」

 言いかけ、しかしその時には男が燭台の火をつけていた。朱里は目を見開いた。


 その部屋に、窓は存在しなかった。外壁に面していないのだから当然で、いわゆる納戸というやつなのだろうが、決して広くない部屋には、奇怪な文字の描かれたお札が張り巡らされていたのだ。

 だけではない。中央には布団が敷かれ、子供らしき小さな身体が横になっているのだが、その子にもお札が房のようについていた。

「生きてるんですか……?」

 朱里のその声は、声にならなかった。とても生きている人間に施すような状態ではない。

 櫻花は眉を顰め、ちいさく「なるほど」と呟いた。

「なんとかなるか」

 男の問いに、櫻花の表情は硬いまま。

「何をしたんですか、いったい……」

「禁忌に触れたんだ」

「この子が?」

「……まぁ直接的にはコイツのイタズラが原因だが、この屋敷にはそもそも禁忌が多すぎる」

 うなずくしかない……といった風情で、櫻花が納得する。ちらりと朱里の方を見れば、不安そうな顔が説明を求めていた。

「ちょっと助手に事情を説明してもいいですか?」

「では、泊まってもらうための部屋に案内しよう」

「え、泊まるんですか?」

 朱里が顔を引きつらせると、櫻花は深刻な表情をしてみせる。

「そう、だね。何とかなるかなと思ったけど、全然何ともなりそうにないから」

「まってまって。わたし、親になにも言ってないんですけど」

「じゃあ連絡しといて。ひょっとしたら……最期の連絡になるかもしれないし……」

「ええ!?」

「冗談」

「怖いこと言わないでください!!」

 ……だが、櫻花は笑ってない。


 男は先ほどの納戸に鍵をかけ、二人を部屋に導いた。

 部屋にベッドは二つだが、活動だけなら十人くらいで何かしてても何の窮屈もない広さがある。

 そういえば、納戸にいたほんの少しの間で、雨が降り出したらしい、雨はすぐに強くなり、窓越しに威嚇的な音を鳴らし始める。櫻花はいそいそと緋袴に着替えると「さて……」と言った。

「何から話そうかな」

「なにも話さないでいいから、このまま帰りましょう」

 なんか、今回は怖い。今までもオハナシのたびにいろいろな恐怖を味わってきたが、今回はまた何か違った、ホラー的怖さがある。

「そういうわけにはいかないよ。さっきの子見たでしょ? あれがなんでああなってるのか知らないと……えらいことになるかも」

「……」

 そう言われて、そんなの無視して帰りたい、と言える朱里ではない。

 たしかにあれは異常だった。生きてるのか死んでるのかさえ分からない子供が寝かされていたのを思い出せば、今でも背筋が寒くなる。外では雷が鳴り出して、なお、不安に苛まれた。

「後でもう一度、先生と一緒に検証するけど、禁忌に触れたってことは、呪われてるってこと」

「呪い……?」

「今どき〝呪い〟自体が珍しいから、あたしももうちょっとよく見ないと分かんないけど」

「禁忌っていうのは、何をすると起こるものなんですか……?」

「まぁ……単純なところで地蔵様蹴っちゃったりとか、しめ縄切っちゃったりとかはあるけど、それでもあんな分かりやすく症状は出ないものだよね」

 確かに……やった事ないのでわからないところだが、さすがに地蔵を蹴ったくらいでは、お札だらけで寝かされることになる……ということもない……気はする。

 釈然としない表情を浮かべる朱里の顔を、覗き込むように櫻花は言った。

「ここは特別なの」

「ここ?」

「このお屋敷ね。洋館になったのは明治期だって言ってたけど、もともとは代々陰陽師がずっと見張ってる、霊的磁場の地獄なのね」

 現当主……つまり先ほどの男も陰陽師なのだそうだ。なるほどそれなら和装も納得がいく。名を安寿小無斎あんじゅ こむさいという。

 安寿家と云えば、ご存じ室町の世から陰陽術を用いて影響力を及ぼしてきた家元の家系であり、朱里も安倍晴明レベルの薄さではあるものの、頭の片隅にヒットする程であった。

「ここに封じ込められてる怨の量は、そこらの心霊スポットの比じゃないからね。弦太郎君にとっては些細なイタズラでも、とんでもないことになったんだと思う」

「どうするんですか?」

「まぁ……呪いを解いてあげ……たいんだけど……」

 そのために櫻花が呼ばれたというのはある……のだが、オカルトに造詣は深くても、呪いは専門ではない。

「わたしは、何をすればいいんでしょう」

「来る前に言ったでしょ。あの子の面倒を見ててほしいの」

「え……」

「アンタが面倒見てるうちに、あたしはアレの呪いの原因を探して対策練らなきゃ」

「まってまってまってまって」

 慌てる朱里。

「だって、ずっと寝てそうじゃないですかぁ……」

「なら、楽な仕事でしょ?」

「え、え、え、……だって、お父さん陰陽師なんですよね? わたしよりずっと適任じゃないんですか……?」

「そのお父さんと一緒に原因を探らないといけないのよ。その間、屋敷には誰もいなくなるの。……アレをあのまま放ってはおけないでしょ」

「無理ですーー!!」

「大丈夫だよ。何年あたしについてきたの? アンタだってもう、立派な神子(巫女)なんだから」

「アルバイトですってばーー!」

「うん!」

 櫻花は朱里の肩に手を置いて、力強くうなずいた。

 それだけ……それだけで……櫻花は部屋を後にした。朱里は呆然である。


 雨脚はどんどん強くなっている。ミステリー小説じゃないが、本当にがけ崩れとかが起きて、外部との連絡が遮断され、そんな中でとんでもない事件が起こりそうな……暴力的で不吉な雨が、この古い洋館を叩き続けている。

「うん、じゃないよ、櫻花さぁぁん……」

 ぽつりと一人残されると、見慣れぬ広い部屋が急に心細い。とりあえず、巫女の衣装は持ってきてはいる。しかし、式神や法術を駆使して鬼とも対等にやり合える櫻花と違い、自分などはただのバイト巫女。とりえもないただの大学生だ。

 一応、緋袴は着ているだけで陰に対する耐性がつくのだが、今までの経験上、そんなものは紙装甲にしかならないことを朱里は痛感していた。

 とはいえ……朱里はセーターを脱ぎ始めた。溺れる者は藁をもつかむのだ。

 バイト巫女とはいえ、朱里は神楽神社に奉仕を始めてから長く、袴の紐の締め方は堂に入っている。本来、巫女にとって髪は神を表すので彼女のようなショートは認められないのだが、アルバイトという立場が彼女に少し変わった巫女の姿を提供していた。

 着替えてはみた。とりあえず、ソファに座ってみる。

 ホントは、さっきの納戸の前に行かなきゃダメなのか。子供は寝ているだけとはいえ、完全に動かないと考えているなら、櫻花は見張りを置かないだろう。

 要するに〝動く可能性があるから〟見張りが必要なのだ。そんなの無理に決まってる。

(だけど……)

 もし……動き出したりしたら……。それを見逃し、呪われた少年を野に放ってしまったら……。

 トントン、とノックの音がした。朱里は飛び上がるほどに驚く。扉の向こうから、しわがれた声が飛び込んできた。

「朱里さま。なにかお飲み物などのお申し付けはございますか」

「あ……」

 先ほどの執事のようだ。朱里は半ば小走りでドアを開けにいった。

「あ、あの!!」

「はい」

「櫻花……さんは……」

「ああ、小無斎様とおでかけになられたようです」

 ガクリとうなだれる朱里に、「何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」と執事。

「あのぅ……ちょっと伺ってもよろしいですか?」

「はい」

「あの……弦太郎君っていうのはずっと寝たままなんですか?」

「はい。もう五日ほどあのままでしょうか」

「動き出したりはしないんですか……?」

「私は陰陽術に詳しいわけではないので、何ともいいかねます」

「何かお飲み物は……」を付け加える執事に、ようやく断りを入れる朱里。

「執事さんは怖くないんですか……?」

「わたくしも小無斎様にお仕えして長いので、麻痺してしまってるといいましょうか」

 では……と一揖して踵を返す。朱里もそれを呼び止めたいが、さすがに自分が心細いからという理由だけで仕事の邪魔はできなかった。


 そんな執事が再び朱里のいる部屋を訪れたのは、窓の向こうから光というものが失われてからだった。

 なまじ窓が大きいために、辺りを闇が支配するとその黒さに吸い込まれてしまいそうな錯覚がする。あるいは普段なら深々とした森を前にして、心も澄み渡る風景なのかもしれないが、今はその風景に心まで一緒にさらわれてしまうかのようにすら思う。

 しかも、この家の電球は、いずれも形だけのものだったことに驚く。暗くなるにつれて視界も失われていく様に心細さが増し、ノックの鳴る方へと走る姿は半ば避難のようだった。

 扉を開ける。向こうには和装の老人が、三又の銀燭台を持って立っている。すがる思いで息を吐いた朱里だったが、彼の表情の硬さに顔をひきつらせた。

「お伝えしなければならないことがあります」

「なんでしょう」

「今日は食材宅配のトラックが来る予定だったのですが、来られなくなったそうです」

「あ、そうなんですか?」

 なんとなく意外な報告だったが、続く執事の言葉に、彼がそれを伝えにきた意図を汲み、息をのんだ。

「これはなぜかと言いますと、峠を昇る道が、この雨風による倒木のせいで封鎖されていたからのようです」

「あの……つまり車が通れない……?」

「おっしゃる通りでございます」

 それみたことか! 見事に陸の孤島じゃないか!

「え、櫻花さんは? ここの、ご主人さんは……?」

「山を下りられたご様子」

「ほらーーーー!!!」

 朱里は思わず叫んでいた。言わんこっちゃない!

「櫻花さん!」

 懐からスマホを取り出した朱里が、のっけから叫ぶ。

 ……が、忘れてた。櫻花は浮世離れした巫女であり、スマホなどは普段桐の箱にしまったまま携帯しないのだ。

 そうなると、メールもラインも通じない。櫻花に連絡することは……

「執事さん。ここのご主人さんに連絡ってとれませんか?」

 しかし執事は首を横に振る。

「お出にならないのです」

 再びうなだれる朱里。また見事に、災難スパイラルに巻き込まれてしまったわけだ……。


 夜は更けてゆく……。

 叩きつける雨が外界の音を消し、まるで滝つぼにいるかのようだ。それがなおさら朱里を孤独にし、その孤独に追い詰められる。

 まるで、隣の部屋に自分が殺した死体があるような……そんな心持が、彼女を落ち着かせない。そう思えば、なにか死臭のような臭いすら漂ってくるようで、ただソファに座っているだけで胃の辺りが圧迫されていく。一応、灯りは先ほどの老爺が燭台を持ってきてくれているため、頼りなさげではあるものの、ゆらりゆらりと揺らめく火が、朱里の影を長く伸ばしていた。

 スマホをいじることで気はまぎれるか。二時間くらいの尺のあるユーチューブを五個くらい見ていれば、明日になるんじゃないだろうか。

 おすすめを辿って、何か楽しそうなチャンネルを探した。そのうち、紙芝居のように静止画がめくられ、ドラマが展開していくチャンネルを見つけた。尺は二時間。すがれるものを見つけた。

 それは、バスケ部の伸一とバスケ部のマネージャーの佐紀が合宿先の高原でドタバタを繰り広げるラブコメディであった。天然の佐紀に振り回されつつ、頼もしさを見せる伸一と徐々に良い雰囲気となってゆく。

 合宿四日目の早朝。自主的に走りに行った伸一を待ち伏せて告白しようとした佐紀は、しかし迷子になってしまった。

 高原の道を行ったり来たりしているうちに、古いお堂を見つけた佐紀。危機感の薄い彼女はついでに恋が成就できるよう、そのお堂にお祈りをしようとした。

 その時、お堂の格子戸がひとりでに開く。中には、お札だらけの納戸と、中央に寝かされた札だらけの子供。それが青白い肌をさらし、ふっ……とこちらの方へと顔を向けた。

 目が合った朱里は思わずスマホを落とした。いきなり鉛のような現実に引き戻される。雨風に閉じ込められた空間で、呪われた子供と共存している自分……。

 朱里は慌ててブラウザを閉じ、大きく息を吸った。泣いた時のように息が震えている。

 ただ、我に返れば別に何も変わった様子はなく、蝋燭が静かに光をたたえているのみだ。

 しかしそれでも、朱里はしばらくスマホ画面を見る気にもならなかった。先ほどの紙芝居のイラストは、あくまでイラストではあったものの、まるで自分の目を通して見たものをそのままデザインしたかのような画角だった。

 とりあえず、ぽつり何もせずに座り直す。しかし、何もしないというのは、一分が一日であるように長く感じられることに気づき……。

 結局、時間が経つのも忘れてしまいそうな何かを見つけるしかなかった。


 が、再びスマホ画面を除いた時、真っ黒なはずの画面に青白い顔の男の子が浮かび上がって、朱里は今度こそ息を止めた。

「ねぇ……なんでお部屋にきてくれないの……?」

「ひぃ!」

 再び画面は手元からこぼれ落ちるが、声は構わない。

「こんなお札で僕が抑えられると思ってるの……?」

 全身に鳥肌の立つ朱里に、能面のような無表情の少年の、不気味な声は続く。

「お部屋にきて。僕と遊んで。そうじゃないと……」

 目が、徐々に大きくなっていく、口が、耳まで割かれてゆく。

「僕が、起きちゃうよ……」

「まってまってまってまって!!!」

 再生していたカセットテープの再生速度が落ちていくかのように、声が太くくぐもってゆく様に朱里は恐怖し、耳を塞いだ。

 それでも、鮮明に聞こえてくる声。

「三分だけ待ってあげる」

「ちょ!!」

「あと二分……」

「ええっ!?」

 時間の測り方がおかしい。朱里はどうしたらいいのか分からない。逃げる? ……逃げるしかないのだが、ここは陸の孤島だ。それでも……

 しかしその時、朱里の脳裏に一人の人物が浮かぶ。あの老爺!

 立ち上がった。スマホを持っていくかを迷う。

 これが〝目〟となってる可能性もあった。目印にして追いかけられては元も子もない。……だけど、女子大生として、スマホを明け渡すというのは裸を見られるようなものだ。

 しかし、すでにこのスマホは乗っ取られてる可能性もある。アレとかコレとか、見られたくないものが頭をよぎり気も重いが、だからとて今ここでこのスマホを壊して……という勇気もない。

「……」

 朱里は意を決してスマホをそのままに出口へと走り出した。そしてドアノブにしがみつき、扉を開ける。

 その瞬間の視線に飛び込んできたのがあの札だらけの少年で、

「にゃぁぁぁぁ!!!」

 朱里は何かに突き飛ばされたかのように腰を抜かして地面に崩れた。


 雨の音だけが二人の間を通り抜ける。札の間から覗く青白い肌はもはや人のものではなく、うつろに注がれる目線は朱里を凍り付かせようとしているのではないかというほどに冷たい。

「あ……あの……」

 口をパクパクと開閉させ、床に腰が張り付いてしまったかのようになったまま、朱里は目を離せない。少年はゆらりとその距離を侵し、徐々に朱里の視界全体を埋めてゆく。

 訪れる恐怖が〝死〟よりも未知な〝呪い〟であることが、何よりも朱里を締め上げた。

 その手が、肩に触れる。腰が、腰に触れた。馬乗りのような態勢となった少年の顔が、朱里の鼻先に迫る。

「きっ……」

 もう、声が声にならない。少年は目の前で、先ほどのスマホの映像のような、大きく見開かれた目と耳まで裂けた口を晒す。

 そして、その口が開かれた。口腔内に何か別の目玉があったのを見た時、朱里の脳は急速に世界から剥離していった。

 しかし次の瞬間。蒼ざめた顔に張り手が飛んできたかのように、ばちんと破裂音がして少年の首がのけぞる。

 それが何かを、朱里は見た。

(式神!?)

 和紙を人の形に切った式神札が少年の顔に張り付いて、彼を一瞬だけ脱力させる。

 朱里はそれを逃さなかった。ぐらりとバランスを崩した少年の後ろへの体重移動を利用して両手で突き飛ばし、立ち上がろうとして……すぐには立ち上がれず、しかし両手両足でもがくように出口の方へと向かいながら、やがて本当に立ち上がる。

 オカルトな恐怖に耐性がなければ、できなかった芸当かもしれない。鬼に霊魂に妖怪に怪物と、朱里の神楽神社での経験は怪異に満ちていた。いくらか免疫がついていたともいえ、この際それが彼女を突き動かしたと言える。

(櫻花さんが仕掛けといてくれたんだ……)

 長い廊下を走りながら、なんだかんだ気にかけてくれている戦巫女のことを思う。

 式神は、櫻花の指示(櫻花はお願いしていると言っているが)により、様々な役目を負う。神の一つで、意思を持つため、遠隔で時限的に仕事をすることが可能であった。

(……だったら先に言っておいてくれればいいのに……)

 その辺が櫻花だ。階段を駆け下りながら、あとでどんな愚痴を言ってやろうかとよぎったが、背中からバタバタと慌ただしい音が聞こえ、振り向いた朱里は再び唖然とする。

 少年が、あの化け物の表情そのままに、猛烈な勢いで走ってくる。式神ははがされてしまったのか、半笑いに見えるその顔が瞬きもしない様子で朱里を捉えている。

 再び鳥肌が全身を凍り付かせた。その走り方は一流のスプリンターのようで、明らかに自分よりも速い。逃げても、……たとえ屋敷の外に逃げおおせても、早晩追いつかれそうだ。

 朱里は半狂乱に陥りながら階段を下りきり、玄関の巨大なドアにとりついた。ノブを回し、勢いよく押し開けようとする。

 が、それが重い感触に阻まれた。ガタンガタンガタンと、焦ってノブを激しく前後させても冷たい木製の壁が動く気配はない。狂ったようにドアを叩くしか思いつかなかったが、あるところで充血した目を後方に向けた。

 背中の足音が、もはや目前に迫っていたのだ。猿のように全身で飛び掛かってくる姿が朱里の網膜を焦がす。

 彼女は転げるように横へと飛んだ。幸い玄関ホールは広かった。彼女は何にもぶつかることなく彼から逃れる。受け身を取って死に物狂いで立ち上がった朱里は自分の白衣の懐へと片手を突っ込んで叫んだ。

「わ、わたし!! 式神いっぱい持ってるよ!?」

 一方で、何も考えずに突っ込んできた少年は玄関扉に激突して、頭から血を流していた。

 そのまま、重病患者のように重苦しく立ち上がり振り返り……数メートル先で仁王立ちになっている朱里の方へと、その、どこか物欲しそうな目を向ける。

 そしてまた、ゆらりと朱里の方へと手を伸ばす様……。

 後ずさる朱里だが、そこで今までとは違う足音を聞いて立ち止まる。意外にも、少年も動きを止めた。

「式神はおやめください。曲がりなりにも安寿家のお坊ちゃんですぞ」

 執事であった。和装を上品に着こなした老爺が、今までの緊張からしたら実に悠長にその姿を現す。彼が手の届くところまで来る間、まるで時が止まったかのように、二人は呆然とその様を眺めていた。

 その光景がまた異様なのだが、朱里にとっては彼にすがるしかない。

彼を迎え入れるつもりで心を開く。しかし男は無造作に背後にまわると、いきなり朱里を羽交い絞めにした。

「なっ!!」

 懐に入れていた手が引っ張られ、身動きを封じられる。

「さぁお坊ちゃん。どうぞ召しませ!」

「なにを!!」

 老爺とはいえ男の力だ。少しもがいたくらいでは振り切れない。

 頭から血を流したまま、再び手を伸ばす少年。その手がまた氷細工のようで、後ずさることもできない朱里が再び奇声を上げた。

 しかしその時……少年と朱里たちの中間に、はらりと落ちてきたものがあった。

 式神。和紙に宿る神の姿はむくむくと巨大化していく。それは女性の姿を形どって、朱里に対面するように立った。

「はい、現行犯」

「櫻花さん!?」

 垂髪緋袴。神楽神社の宮司でもある戦巫女の姿。彼女は手を伸ばしてきた少年に対して一瞬振り向き身を翻すと、全身に貼ってあるものとは別の色の札を、顔に貼り付けた。それで、少年は動きを止める。

「朱里よくやったよ。おかげでコイツが尻尾を出してくれたわ」

 唖然とした老爺がヒステリックな声を上げた。

「お前……山を下りたんじゃないのか!?」

「ごめんねぇ。行ったふりして隠れてたんだよー」

 車を見えないところへ置き、徒歩で戻ってきたというわけだ。

「アンタ小無斎さんがいると動かないだろうからね。そういう状況作ってみたの。……っていうかいい加減朱里から離れてくれる? 股間で朱里のお尻触ってると別件で訴えるよ?」

「そんなことはしていない!」

「じゃ、離れて離れて。後三秒で延滞料金取るよ?」

「何を小娘! 戦巫女二人くらい私の力で……へぶし!!」

 一瞬で距離を詰めた櫻花の、スナップの利いた拳が老爺の顎を跳ね上げる。男から朱里を引っぺがし、足の裏を胸まで上げて蹴り押した。

「はい、三秒」

 壁に刺さった和装の男を見下ろし、ウィンクしている櫻花にしがみつく朱里。

「櫻花さぁぁん!!」

「よしよし。式神のハッタリはよくやったよ。コイツ、それで焦って出てきたんだ」

「え……?」

 櫻花は呆然と立ち尽くしたままの弦太郎少年を見て言った。

「この子にアンタが勝っちゃうのは困るだろうし」

「……」

 巫女衣装は一定のハッタリになったようだ。全く無力の朱里を一流たらしめた。

「二対一なら何とかなると思ったんだろうね」

 櫻花は一部始終を見ていた。少年の納屋の鍵を開ける様も、中から少年が起き上がる様も、彼自身はその後何食わぬ顔をして一階に降り、待機していたことも。

「怪しいなら先に捕まえてくれればよかったじゃないですかぁぁ……」

「言い逃れができる間はめんどくさいでしょ。作者はミステリーものが得意ってわけじゃないの」

 余計なことを口走る櫻花は、老爺の方に向き直した。

「アンタはつまり、ネクロマンサー(死霊使い)なんだね。小無斎先生も知らなかったみたいだけど」

 死者を操る術をもつ者のことだが、宗教上の都合か日本には少なく、彼らが何ができ、何ができないかまでは櫻花も知りえなかった。

 老爺は観念したように、ござっと座ったまま動かない。しばらくの沈黙の後、小さく口を開いた。

「何を根拠に、私が死霊使いなのだ」

「この子は呪われてるんじゃない。死んでるよね」

 朱里と分かれた後、櫻花は小無斎と共に、再び少年を見舞った。

「その時確信したの。呪いじゃないなって。……でも生きてない。なのに腐ってもいかない。そんな技術は陰陽師や巫女にはないんだよ。そしてこの家には、小無斎先生の他には、アンタしかいないでしょ」

 でも、そうすると、次の疑問が湧いてくるのよ……と櫻花が続ける。

「つまり、弦太郎君はどうして死んだのか」

「……」

「アンタが殺したんだよね……?」


 老人は、何かを言いかけた。しかしその視線が一瞬、櫻花の背後に向かうと、再び口をつぐむ。視界の先には小無斎本人が、悲しげな表情を浮かべて立っていたのだ。

 男はうなだれて、呟いた。

「違うんだよ」

「何が違うの」

「弦太郎様は本当に禁忌に触れてしまわれたのだ」

 櫻花の眉間が怪訝に歪む。

「……この屋敷は千年以上の業のたまった場所だ。それは処理しきれず、触れてはいけない淀みとなって屋敷の方々に沈殿している」

 子供は、意図せずそれの一つに堕ちてしまった。解呪の技術など失われて久しい現在、その呪いはとても解けるものではない。

 呪いを解く方法は一つ……。死、であった。

「お前の言う通り私は死霊使い。死人を操り、死人に再びの生を与えることができる。その余波で死霊に追われる立場にもなったが、小無斎様は何も聞かずに私を受け入れてくれた。その恩があるのだ」

「……すると……」

 櫻花はしばらく考えていた。何となくつながらない言葉だったが、つながりを探し、一瞬朱里を見て、

「要するに、子供の呪いを解くために一度殺して、朱里の命を食わして、生き返らせようとしたの……?」

 目を見開いた朱里にかまわず、男はぼんやりと死体を見上げた。

「……それが、小無斎様への恩返しだと思った」

「アンタ……もっかい殴ってもいい?」

 櫻花は拳を握りしめたが、すぐに解いて、

「……と、言いたいとこだけど、思うほどくだらない理由でもなかったから、あたしは手を引くわ。あとは小無斎さんと今後のことについて話し合ってね」

 再びうなだれる和装の男。何も言えずに立ち尽くす朱里。……気が付けば、雨は止んでいた。


 男二人が向き合ったのを尻目に、呆けているのは朱里だ。

 櫻花はそれこそ死体やマネキンを扱うように、とことこと朱里の背中を押し、階段……は昇れないので、応接間へと連れて行った。二人の空間となるなり、朱里がギシギシと軋みを立てて振り返り、口を開く。

「あのぅ……ひょっとして、わたしを囮にしたんですか……?」

 櫻花は笑顔。

「囮なんて人聞きが悪い。ちょっとエサになってもらっただけだよ」

「囮より扱いがひどいじゃないですかぁぁ!!」

「朱里、人には人の役割ってものがあるの。朱里は、あたしなんて全然かなわないくらいかわいいでしょ?」

「え……」

「ヨノナカというのはね、かわいい子に隙を作りやすいのよ。今回の件に、虫も殺せなそうなアンタの美人顔は必要だったの。ありがとう朱里」

「……」

 まったく褒められてる気がしない。

「とりあえず、もう怖い思いしなくていいんですね……?」

「もう大丈夫。今日は帰れないけどね」

「ええええ……」

 思い出した。ここは陸の孤島になっていたのだ。

「ま、なかなかこんなお屋敷に寝泊まりできることもないんだから、堪能していけばいいよ」

「堪能しすぎるくらい堪能しました!!」

 お化け屋敷以外のなにものでもない。しかしそう主張すれば、

「大丈夫。それは全部、あの子を怖いものだと認識させて、おとなしく襲われるようにするための、あのじーさんの術だったんだから」

 もう心配ないという。……だけど、そんなこと言われたって、〝絶対安全なお化け屋敷〟に泊りたい女子大生なんているか。(いやいるわけない)

「あ、それとね、もう一つ驚きの事実があった」

 櫻花の変調に、朱里の表情は香ばしげだ。

「なんか、絶対にいいことじゃない気がする……」

「実はね。このお屋敷ってさ……パラレルワールドらしいの」

「はっ!?」

「さすがのあたしもビビったんだけど、先生が言うには、怨や陰を隔離するために平安期の陰陽師たちがその技術を結集して、そういう力場を作ったんだって」

「それが……どういう話につながるんですか……?」

「つまりね、このお屋敷の中は、まだ平安時代ってことよ」

「は……?」

 そんなことがあり得るのだろうか。

「え、でも、建物は明治時代に作られたんですよね」

「うん。作る時、取り壊す前の力場を閉じ込めるように、さらに大きな建物で覆って作ったんだって。だから、力場はこの屋敷の外に出てないの」

「そ、それで……?」

「代々、小無斎先生の家系っていうのは、ずっとこの屋敷の中でのみ、生きてるんだって。で、外部にネットワークがあって、食糧とか嫁とか婿とか、必要なものが供給される仕組みらしい。しかも平安時代から」

「……」

 すごい仕組みだ。

 ちなみに執事は支給されない。あの執事だけは、昭和から令和までを生きている老爺であった。

「え、でもさっき、先生は外に出ていきましたよね……?」

「そういうことにしたの。まさかあたしもできないとは思わなかった。あの執事のじーさんですら知らなかった事実みたい」

「つまり……どういうことですか……?」

「つまりね……」

 すまなそうな顔をする櫻花。が、言った。

「報酬が米払いだった」

「はぁ!?」

「当時は物々交換が主流だったからね。先生も当然そのつもりでいたみたい」

 そもそも、屋敷から外に出ないのだから、日本の通貨は必要ない。朱里は慌てた。

「外のネットワークとやらは!?」

「いや、だから、外のネットワークが平安時代なんだって。コメをヒエやアワに変えることはできると思うけど」

「……」

「ま、最近コメ高いから、ある意味ありがたいんじゃない?」

「……どれくらいもらえるんですか……?」

「三十俵」

「……それはどれくらいですか……?」

「千八百キログラム」

「アホですかぁぁぁ!!!」

「大丈夫だよ。玄米の重さだから白米に精米すればもう少し軽くなるって」

「食べきれなすぎて腐りますーー!!」

「そしたら米屋でも始めてくれる?」

 がくんと折れる朱里。

 ……相変わらずこんな役回りなのかと嘆くしかなかった。

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