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Happiness with you 〜幸せを渇望する少年たちへ〜  作者: 漱成
第一章「Darkness of deep」
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第4節 「永遠の幸福」  ―山口

 そんな話聞いた後で、俺の話なんかできるわけない。

 そう思って、でも言えなくて、言葉を探していた、そんな矢先だった。

「は……?」

 ドスッ、と、鈍い音がした。


 「神崎……?」

 何が起きたのか理解できたのは、それから数秒後のことだった。

 ――神崎が、ベッド上から崩れるように、落ちた。

 虚ろな瞳で、あえぐように呼吸を繰り返す彼女の姿は、とても苦しそうで。いくら呼吸を繰り返しても、酸素が入ってこない……という風に、俺には見えた。


 我に返ったのは、神崎が震える手を、救いを求めるように、こっちに伸ばしてきた瞬間だった。

「……っ!!神崎!! ――待ってろ、今……っ!」

 ナースコールを、ほぼ殴るようにして押す。

(早く!早く出てくれ!)

 ナースが出るまではほんの少しのはずなのに、途方もなく長い時間のように感じられて、どうしようもなく苛立ってしまう。掌にじっとりと汗が滲む。

『どうなさいましたか』

「ここの患者が今、息ができなくて苦しそうなんです!とにかく早く!来てください!」

 ほぼ叫ぶように伝え、神崎のそばに跪く。

『……わかりました、すぐに向かいます!』

 スピーカーからは、すぐに慌ただしく準備をするかのような物音が伝わってきた。その気配を感じたまま、神崎の顔を覗き込む。その顔は青を通り越して白くなっていて、胸元は荒く上下運動を繰り返している。

 今にも消えてしまいそうな目の前の命を手放したくなくて、俺はそっと神崎の頬に手を触れた。……しかし、すぐに引っ込める。

 ()()は、冷たかった。有り得ないほどに。あまりにも冷たくて、まるでもう、――死んでしまったかのようだった。唇も紫がかっていて、がさがさに乾いている。その指先も震えていて、氷のように冷えている。俺はただ息を呑んで、手を握ってあげることしか出来ない。

「大丈夫だ!もう、大丈夫……!もうすぐ助けが来るからな!」

 必死に言い聞かせるように、何度も声を掛ける。

 その、とき――。

 神崎は、ふっと()()()()

「え……?」

 ――この状況で、笑う?

 苦しんで、冷えて、震えて。それなのに……?

 背筋をゾワッとしたものが駆け抜ける。無意識に一歩、身を引いていた。

「かん、ざき……?」

 彼女の唇が、微かに動く。

「や……っぱ、だめ……か……」

 その言葉が、空気と融け合って、消えていく。呼吸すらままならない彼女が、最後に紡ごうとした言葉。どうしようもなく脳が、灼かれる。

 ……諦めの言葉。絶望の、声。

 何かが、音を立てて崩れていくのを感じる。

「だいっ……、大丈夫だ、神崎!すぐに医者が来る、看護師も来る!だからっ……!」

 諦めるな、という俺の言葉は、喉元で引っかかったように、出てこなかった。

 ――神崎が、静かに涙を流していたから。

 そしてそれが、あまりにも、綺麗だったから。

 どうしようもなく美しくて、どうしようもなく、――悲しかった。

 だが、綺麗だったのはこの一瞬だけで、神崎はすぐに表情を歪めると、再び地面に伏せた。

 

 足音が聞こえる。病室に、誰かが駆けてくるらしい音。処置用の用具やストレッチャーがカラカラと転がされてくる音も聞こえる。俺はその場に座り込み、手を握りしめながら、ただ神崎の横顔を見つめた。


 俺にはもう、神崎にかけられる言葉なんて、残っていなかった。


 *    *    *

 

「……ごめんね。迷惑かけて」

 あれから2時間後、神崎の容態はようやく落ち着いた。一時はどうなるのかと思ったが、どうにか助かったらしい。

 元のベッドに戻った神崎は、うっすらと笑って、俺にそう言った。

「いや……全然、迷惑とかじゃねぇよ。……体、もう大丈夫なのか?」

「……うん、もう大丈夫だよ」

 少し目を伏せて、神崎は答える。

 ……本当に?今の間は、なんだ?

 少し、いやかなり、違和感を感じる。だけどその違和感は、すぐにやってきた感情の奔流に流されていった。あの時感じた恐怖と()()、何も出来なかった自分への憤激、そして――。

「なあ、神崎……」

 俺が口を開いたその時、

「あっ、もうこんな時間。山口くん、今日はわざわざありがとね」

「は」

 俺は慌てて腕時計を見る。もう七時になろうとしていた。面会可能時刻をとうに過ぎている。

「やべっ、帰らないと。……じゃあ、また明日な」

「うん、バイバイ」

 神崎に手を降ると、慌てて病室を出ようとする。

 ――寂しそうに笑う神崎と、目が合った。

 ドアを開けようとした手を止め、立ち止まる。

「……神崎」

「……ん?」

 声を、かけずには、居られなかった。

「――何か、隠してないか?」

 そう言うと、神崎は笑みを消し、ちょっとだけ首を傾げていった。

「……別に、何も?」

 まるで、既に予定された台本を、そのまま読み上げるような言葉だった。

 

 *    *    *


「はい、じゃあ今日の授業はこの辺で。学級委員、号令」

「起立!気をつけ、礼!」

 はきはきとした龍生の声とは対象的な、気だるげな「ありがとーございましたー」が、俺の鼓膜を揺らした。

 ――神崎が倒れたあの日から、一週間が経った。

 やけに濃く書かれた《5月25日(火)》の文字を見ながら、そっとため息をつく。

 ――なんだか、手を伸ばせば掴めそうなのに、限りなく遠い。そんな、内面と重なる何かが、そこにある。

「どうした山口、辛気臭い顔して」

「ああ、龍生か。まあいろいろな」

 突然隣にやってきた龍生に、適当に言葉を返す。

「ははあ。さては寝てたな?」

「寝てねぇよ」

 寝てはいない。考え事はしてたけど。

「そんなことより腹減ったし、飯行こうぜ飯。今日日替わり丼当たりの日だろ?」

 さっさと話題をそらしてやった。実際、今日の日替わり丼(カツ丼)は美味いし。

 ……出来れば、神崎のことは、学校では話題にしたくない。

 そんな俺の意図を、龍生もわかってくれているようで、いつも助かっている。

「そうだな」

 ふっと微笑む龍生。ふと周りを見回すと、そんなちょっとした仕草に周りの女子がやられていた。

 ……うわー、やったなこいつ。無自覚イケメンが一番罪なんだよな。

 というわけで、割とガチ目のツッコミを首筋にお見舞いしてやる。

「――って!何すんだよ急に!」

「うるせぇ!お前が変にカッコつけるからだろ!」

「カッコつけてねぇし!」

 バカみたいなやり取り。だけど今はただ、そんなちょっとした時間が、とてもありがたいし、とても楽しい。

 笑い合いながら、教室を出て、廊下を駆ける。少し出遅れてしまったから、食堂のメニューを確保するには走らないと間に合わない。ちょっとでも出遅れたら、メインは愚か、唐揚げなどのちょっとしたメニューすら手に入らない過酷な世界だ。

 ……だが、それは結果的には、逆効果だった。

「――廊下を走るなと、なんっっど言ったらわかるんだおまえたちはぁ!!!」

 前方から怒声とともに現れ、俺達の前に立ち塞がる者がいた。――鬼の体育教師、渡辺先生だ。

「げっ、ナベセン!?」

「先生のことを渾名でよぶんじゃない!!」

 俺の発言は、ナベセンの怒りにガソリンをぶちまける結果となった。

 こうして俺達は、ナベセンの気が済むまで怒られ続けたのだった。


 *    *    *


 ――夢を、見ていた。

 夢の中では私は水の中に居て、動くたびに、ぽちゃん、ぴちゃん、って音がする。

 私の動きが波紋となり、水面に綺麗な輪を形作る。

 そして、その輪が、段々と小さくなって、歪んで、綺麗じゃなくなる。

 やがて綺麗だった輪は歪み、崩れ、私を縛る鎖に変化する。

 ――たすけて、たすけて。

 ――たすけてよ、ねぇ、だれか!!

 叫ぼうとするのに、声は出ない。驚いてもっと叫ぼうとする。でも、声は出ない。

 気づけば水はどろりとした粘液に変わっていて、私の肌にまとわりついて離れなくなる。

 胴体、首、頭のてっぺんにまで。()()が、ゆっくりと、嬲るように、私を侵していく。

 恐怖からいくら抜け出そうとしても、逃れようとしても、この小さな世界がそれを許さない。

 ――恐怖を、目の前に突きつけてくる。

「死」というものを、とっても間近に、そして、確実に、私に思い知らせてくる。

 そして完全に水中に沈んで、私の体は、あっけなく死ぬ。

 でもその後、なぜか意識だけが、私の体から抜け出して、この小さな世界から飛び出してゆく。その先でたどり着いたのは、――私が愛した、みんなのいる世界。

 ……なのに。なのに、だれも、私の名前を呼ばない。

 だれも、私のことを知らない。

 ――誰からも、愛してもらえない。

「神崎江里乃」という存在は、世界から忘れられてしまっていた。

 ――誰にも記憶されず、誰からも愛されず、ほんとうの意味での「死」を迎える。

 そんな、夢。

 こうして、私は今日も、自分の運命を呪う。

 死ぬことは、もうそこまで怖くない。

 本当に恐いのは、みんなから忘れ去られること。

 でも、もう誰も私の名前を呼ばない。

 存在ごと忘れ去られたまま、ゆっくりと、消えていく。

 ――もしも、もしも一度だけでも、呼んでもらえるなら。

 愛して、もらえるなら。

 その時は、――もう一度だけ、心から笑えるかもしれない。


 *    *    *


「……まさか30分も絞られるとは……」

「だな……」

 ナベセンに30分も怒られ続けた俺達は、しずしずと食堂で昼飯(五目うどん)を食っていた。日替わり丼どころか、唐揚げすらなかった。くそ。

「いや、なんていうか……ね?」

 先に来て食事を終えていた森が、ちょっと言いにくそうに、同じく食事を終えていた西宮の方をちらっと見やる。

 すると西宮が、

「自業自得、でしょ」

 バッサリと言い切った。

「ちょっ!あんまり言わないほうが良いと思ったから黙ってたのに〜!」

「言ってやったほうが良いのよ、天音。こういう馬鹿にははっきり言ってやるのが一番効くんだから」

『……おっしゃる通りです……』

 俺と龍生の、情けない声が見事にハモる。

「全く、前もそれで怒られてお昼ごはん逃したのよね?なんで学ばないのかしら……」

 西宮の辛辣な言葉が、俺と龍生の心を容赦なく抉る。こいつの言葉はいつだって、俺達の一番痛いところを的確に突き刺してくる。

「――まあ、いいわ。さっさと食べてしまいなさい。次の授業に遅れるわよ」

 待っててあげるだけ優しいと思いなさい、という西宮の言葉に、ただ頷くことしかできなかった。



「気をつけ、礼!」

 さようなら〜!というやけに活気に溢れた声が教室中に響き渡った。

「今日どうする〜?」

「カラオケ行こうぜ!」

 ……授業中はあんなにダルそうだったのに、終わった途端に皆、元気になるんだな。まあ、俺もだけど。

 楽しげに騒ぐ教室の様子を横目に、俺はさっさと教室を抜け出す。

 あれから一週間、実は毎日お見舞いに行っている。何てったって、俺は部活に入ってないからな。

 因みに――。

 西宮は用事があるとかで毎日帰っちまうし(毎日あるってどんな用事だよ)

 森は演劇部の活動が最近忙しいらしいし(もうすぐコンクールなんだと)

 サッカー部エース様の龍生は今日も部活だ。

 だから俺は今日も一人で、神崎の待つ病室に向かう。

 そしてその道中で、亮の妹とすれ違った。

「あ!山口くん!」

 気づいたのは、向こうが先だった。

「お、亮の妹ちゃんじゃん、よう」

 俺も軽く手を上げて応える。御島って呼ぶのは変だし、かといって凛と呼ぶのはもっと変なので、俺はこう呼ぶことにしている。

「ねぇちょっと最近暑すぎなぁい?ほんと溶けちゃいそうなんですけどー!」

「お、おう、確かに暑いよな」

 凛の口調に、若干の戸惑いを感じる。たしかに明るいけど、こんなチャラい話し方するやつだったっけ?なんか明るさにギャル属性がついたみたいな……?

 まぁ突っ込むと怒りそうなので、黙っておくことにする。

「なあ、」

「ん?なに?」

 そう言えば、と、せっかくなので前から気になっていたことを聞いてみる。

「お前たちさ、――もしかしてお母さんを」

「――っ!!」

 俺が言いかけると、凛は顔を青くし、後ろを向いた。

「あ……っ!ごめん、嫌なこと聞いちまった」

 やらかした、と思った。普通に考えて、聞かれて嬉しい話題なはずがない。

 ――実は、俺は見てしまったのだ。

 あれは確か、一ヶ月くらい前のこと。亮と凛の母さんといえば、超有名な歌手だった。俺でも知っているくらい。代表曲とされる「星の向こう」はめっちゃ聴いた。大好きな曲だった。

 そんな、二人の母さんが刺されたっていう事件の、報道記事。実際は2月くらいに起きた事件らしいが、単純に古い記事が流れてきただけのようだ。

 亮のお母さんは今も、目を覚ましていないという。

 これでようやく、腑に落ちた。亮が俺達を避ける意味。

 つまり、――怖いんだろう。

 失うことが怖いから、人間関係を遮断する。ある意味正しい判断だ。

 ――だけど、それでも、信じてほしかった。

 信じてほしかっただけなんだ。俺達を。

「ごめん……なさい。大丈夫……だから」

 凛の弱々しい声。傷つけてしまった。本当に大丈夫なわけ、ないのに。

「あのっ……私、帰るね」

 ごめん、と言い残し、凛は走り去ってしまった。

 ――後でちゃんと、謝らないと。

 

 気を取り直して、歩いていく。病院まで後3分ってとこだ。

 そこで、お見舞い品を何も用意していなかったことを思い出す。俺は方向を変え、近くのスーパーに向かって歩いた。神崎はフルーツが好きだから、毎日お見舞いに買っていくと喜ぶんだ。

 スーパーに着いて、さて何を買おうかと思考を巡らせていると、俺の後ろに、誰かが立った気配を感じた。

 多分、フルーツを取りたいのだろう。そう思って「どうぞ」と位置をどけようとする。

 目を疑った。心臓がドクンと跳ねた。

 ――よく知っている顔、だったから。

 向こうも気づいたようで、一瞬驚いたような表情を浮かべた後、すぐに不敵な笑みを浮かべた。


「――俺の目の前から消えやがれ、()()()()


 俺が吐き捨てるようにそう言うと、男、――俺の父は、静かに嗤った。

「おいおい、久しぶりに会った実親に対しての第一声がそれとは、実にご挨拶じゃないか、(けん)?」

 俺は奥歯をギリっと噛み締めると、

「――その名前を呼ぶんじゃねぇ」

 そう言った。

 県、()()()っていうのが、俺の名前だ。これが俺が必死になって名前を隠していた理由。

 ――しょうもない、って言われたらそれまでだけど。だけど俺はこの名前が嫌いだし、知られたくないし、この名前のせいで本当に散々な目に遭ってきたし、何よりこの名前を付けやがった親のことは滅茶苦茶嫌いだ。

「おや、良い名前だと思っていたのだけれど?」

 そんなふざけたことを言い、クソ親父は不敵に笑う。

「クソみてぇな名前だよ」

 吐き捨てるように言う。そして、ふと思いついて、もう一言付け足した。

「まあ、俺なんかよりもお前の名前のほうがよっぽどちっさくて、だっせぇけどな、”市”さんよ」

 そして、その場にあったフルーツを適当にかごに詰め、足早にその場を去った。あんなクソ野郎、相手にするだけ無駄だ。

 そんなことより、早く会いに行こう。

 聞きたいことも、ある――。

 

 *    *     *

 

 山口が去った後。

 ”市”と呼ばれたその男は、小さく肩を震わせていた。泣いているのだろうか。

 ――否。男は笑っていた。あまりにおかしかったからだ。

 何が?

 それは、この男にしかわからないことだ。

「……さて、次はどうしてくれようか……」

 ”惨劇(ショー)”はまだ、始まったばかりだ。

「……よし、次は……。楽しみだね、全く……」

 男はただ嗤う。まるで、待ちきれないかのように。


 山口の父親。山口が《山口県(ヤマグチケン)》であるならば、その父の名は――。

 《山口市(ヤマグチイチ)》といった。


 *    *    *

 

「今日もありがと、山口くん」

 俺が渡したグレープの袋を抱え、神崎はにこりと微笑んだ。

「気にすんなって。そんなことより、まだ体調治んないのか?」

 俺がさりげなく体調のことについて触れると、案の定、神崎は少し目を逸らして、

「――うん、まだちょっとね」

 そう言った。ここ一週間、ずっとこんな感じだ。

「――そうか」

 俺も、今は深くは触れなかった。

 その後しばらくは、学校の話とかそういう、他愛無い話を二人でした。

「――んで、そのナベセンっていうのにめちゃくちゃに怒られてさ、もう昼飯食えたの10分とかよ、ふざけてるっしょ」

「っはは!なにそれ、そんな怖い先生がいるの?」

 神崎が笑ってくれると、つい舌が止まらなくなってしまう。

「そうそう、しかもこれ二回目でさ、一回目んときは昼飯食う時間なくなるくらい怒られたんだよ!それに比べたらまあ今回はましなほうだったかな?とか思うんだけどさ」

 可笑しい、と神崎は笑う。

 この空間が、この空気感が、たまらなく心地よかった。

 できることなら、ずっとこうしていたい。

 ――だけど、俺には、どうしても聞きたいことがあった。

 それによって、この幸せな時間が崩れ去るとしても、必要なことだ。

「――なぁ、神崎」

「…… なに?」

 神崎も俺の声のトーンが不意に変わったのに気付いたのか、ちょっとだけ声のトーンが落ちた。

「確認したいことがあるんだ」

「確認したいこと?」

 俺の言ったことを繰り返し、神崎はちょっと首を傾げた。

「そう、聞きたいこと」

「なぁに?」

 神崎はなぜか、とっても穏やかな声で、表情で、俺にそう問いかけてきた。

 まるで、なんて聞かれるのか、知っているかのような表情だった。

 ――俺にとっては、それだけで、ほぼ答えみたいなものだった。

 だけど認めたくなくて、俺はその質問を口にする。


「神崎、お前さ、――死ぬのか?」


 ずっと、嫌な予感がしていた。

 神崎が体調関連の話をしたがらないこと。ただの失神のくせに、ここまで入院が長引いていること。そして、軽症患者の病棟とは明らかに異なる、個人病棟。

 だけど、まだそうと決まった訳じゃない。

 ここで神崎がちょっと首を振るだけしてくれれば、何言ってんのって笑ってくれれば、そんなわけないでしょって呆れてくれたら、急になんでそんなこと言うのって怒ってくれたら!

 そうしたら、俺は。

 ――なあ、違うんだよな?

 死ぬなんて、まさかそんな。

 考えすぎだよって、笑い飛ばしてくれよ。山口くん心配性だねってそう言って、行き過ぎた心配性の俺を安心させてくれよ。

 ほら、まだ高校行ったことないんだろ?一緒に行こうぜ。お前がいたら、それだけであの面倒な授業も頑張れる気がする。

 中学校で仲良くなったけどさ、まだ一回も遊びに行ったりしたことないよな。いこうぜ、皆でさ。もちろん亮もこっちに引き戻して、皆で笑いあおうぜ。

 簡単だろ?ちょっとだけ、首を振るだけしてくれたらいいんだ。

 たった、それだけ。


 ――それだけなのに。

 なんで。

 なんで、泣いてるんだよ。なんで笑ってるんだ。


 なんで、否定してくれないんだ……?


 頼むよ。首を振るだけでいい。ちょっと、違うよ、って言ってくれるだけでもいい!


 なんでだよ……。


「……本当に、死ぬのか……?」


 神崎は涙を流しながら困ったように笑い、そして、……確かに、頷いた。

「そうだよ。私はあと、一か月くらいしか、生きられない」


 癌、だそうだ。ステージⅣ、治療不能の。

「確か二月くらい、だったかな。病院なんて親に行かせてもらったことなかったんだけど、なぜかあの時だけ、行かせてくれたの。今までの分も丸々、健康診断してもらって来いなんて言われてさ。……何いってんのって感じ。もうめちゃくちゃだよね」

 ちょっと自嘲的に笑うと、神崎は淡々と、何の感情も感じられない声で続けた。

「それで病院に行ったの。物心ついてから始めていく場所だったから、すっごく苦労した。しかも中学生がいきなり受付に健康診断受けさせてくださいなんていうものだから、受付のナースさんも困ってたんじゃないかな」

 既に話がだいぶ異常な域に来ている。中学生が一人で健康診断にいきなり来るってのもだいぶおかしな話だが、物心ついてから一度も病院に行ったことがないってのは論外だ。神崎の親はどうやら、相当酷い人だったらしいことが伝わってくる。

「まあもし突き返されでもしたら、うちの親がなんていうかわかんなかったからね。私は結構必死に頼み込んでたらしくて、それで一人で突き返すのはかわいそうってなって、通してもらえた。もちろん順番があるから、だいぶ待たされたんだけどね」

 神崎は淡々と続ける。

「それで色々見てもらった。なんかいろいろ凄そうな機械なんかも使って、内臓のほうまで検査した。そしたらね、――いたの。今私の体を喰ってる怪物くんが」

 そこで一呼吸置くと、再び話し始める。

「最初は細かい検査じゃなかったから、異物があるってことだけ知らされてね。詳しく調べてみますって言われたからちょっと違う検査して、その後親御さんをお呼びできますかって聞かれたの。――うちの親は変なところで用心深くてね。私を虐待しているのが絶対に世間にバレないような、外の世界での絶対的なルールを課したりして、どうにかやってたの。そのルールの一つでね、親を呼べって何かで言われたときは必ずその通りにする、っていうのがあったの。私はその通りにした。普通の子供だってことを見せつけるために与えられたスマホ使って連絡した。お父さんは10分で来た。なるべく早く来て印象をよくする目的らしいね。――馬鹿らしいよね、人の目ばっかり気にしてさ」

 神崎はさみしそうに笑った。俺の胸はすでに張り裂けそうなほどに痛み、軋んでいた。

 神崎は続ける。

「それで、お父さんと二人だけで話すって言って、私は待合で待たされた。その後多分お父さんが、ちゃんと娘と話します、みたいなこと言ったんだろうね。お父さんと医者の先生が出てきた。はっきり言われたよ、癌で、もう治療できないくらい進んでるって」

 最後のほうの言葉を話すとき、神崎の声が少し揺れたのに気づき、俺はずっと下を向いていた視線をあげ、神崎の顔を見た。

 神崎は、涙を流していた。見ているだけでつらくなるほどの、悲嘆の涙を。

「それでね、二人だけで話をさせてくださいってお父さんが言ってね。お医者さんが出ていって、話し合いのふりしてお父さんが言ったの。どうせ治らないんだから通院治療もなしでいいな?ってね。お金の無駄だからって。――それは別にいいの。お金なんていらないから。でも、私はね」

 神崎は涙を流しながら、言った。

「私はね、ただ、愛してほしかったの。世界で一番近くて、世界で一番愛し合えるはずの家族っていう存在に、愛されたかった」

 それは、神崎の心からの叫びだった。初めての、神崎の心の叫び。

 ――いや、そうじゃないんだろう。きっと神崎は、ずっと叫び続けていたんだ。私はここだよって、誰か助けてよって、ずっと。

 ただ、それは誰にも届かず、今、すべてが手遅れになった今、ようやく一人の無知で無能な少年に届いた、そういうことなんだ。

 なんて、――本当になんて、報われないんだ。

「おかしいよね?私はね、癌でもうすぐ死ぬってなったらね、もしかしたら最後くらいは、ちゃんと愛してくれるんじゃないかって、期待したの。一瞬、癌って言われて、喜びを感じてる自分もいた。――そんなわけないのにね?」

 だんだんと声が涙交じりのものに変わっていく。俺は相変わらず何も言えず、ただ固まって神崎の話を聞く。

「でも、もういいの」

 そっと、神崎は溜息をつき、こう続けた。

「もう、何にもないから。――何もかも、遅すぎたの」

 神崎はゆっくりと、空を仰ぐ。

「私はこのまま、死んでいくんだろうな。――誰にも愛されないまま、不幸なまま、幸せになれないまま!」

 神崎は突然、叫んだ。

「――学校、行ってみたかったな」

 と思えば、嘆息し、小さな声で、そう言う。

「みんなと遊んだりもしたい。女子高生らしく放課後カフェとか行ってみたい。彼氏作って、一緒にいろんなとこ行ったりして思い出たくさん作りたい。なにより、”かぞく”を知りたい」

 神崎の願いが、爆発する。

「……でも、もう全部、叶わないんだよね。――別にそんな大層なこと望んでない、ただ普通に生きて、普通の幸せが欲しかった。それだけなのに」

 神崎は目に涙をいっぱいに溜め、言う。

「……たった、それだけのことも、叶わないの……?」

「……っ!」

 俺が思わず立ち上がったのを見て、神崎ははっとしたように、首を振った。

 そして、言った。

「ごめんね、山口くんにこんなこと言っても、困らせちゃうだけだよね?」

 申し訳なさそうに、目を伏せる神崎。

 

 ――まだ、手遅れじゃない。

 せめて少しだけ、最後の一か月だけでも。たったそれだけでも、神崎が笑って過ごせる手伝いを、俺はすることができる。

 ――神様。どうか、どうか最後の、このひと時だけでいい。

 神崎に、普通の幸せを与えてやってくれ。

 俺はそのためなら、なんだって……。

「……神崎」

 俺は意を決して、口を開いた。

「なに?」

 神崎は顔をあげ、明らかに無理しているのがわかる笑顔で、俺を見た。

 その笑顔に向けて、俺は言ってやる。

「かなえようぜ、今から」

「……え?」

 神崎は一瞬、困惑したように目を瞬いた。しかしすぐに首を振って、言った。

「……無理だよ、今からなんて。残り一か月は癌終末期って言って、症状がどんどん悪くなって、これからどんどん動けなくなっていくんだよ?」

「わかってる」

「……すぐ死んじゃうんだよ?これ以上深くかかわったら、山口くんたちのほうが傷つくことになるんだよ?」

「……っそんなのもわかってるっ!!」

 突然怒鳴った俺に、神崎は驚いたように目を見開いた。神崎の目から涙が引っ込んだのがわかった。

「わかってる!知ってるよ癌がどれだけ重い病気かなんて!神崎から離れたほうが俺たちの傷が少なくて済むのもわかってる!でもそうじゃないだろ!?お前は今まで散々苦しんだ、散々傷つけられてきた!そうだろ!?それなのになんでこれ以上苦しめられることが、傷つけられることがあるんだよ!?」

 俺はひたすら叫ぶ。神崎が何か言いかけるのも遮って、俺の思いを、ただ口にする。

 その言葉が、神崎に届くことを願って。神崎にとって少しでも、救いになることを願って。

「ここまで一生懸命あがいてきたんだろ!?”普通”に幸せになりたくて、ずっとそれだけを欲して!なのになんで、なんで今、やっと一つの悪夢から解放された今になって諦めるんだよ!?」

 神崎がそっと目を伏せる。俺は構わず続ける。

「誰も叶えてくれなかったって言ったな?じゃあ今から俺が叶えてやる!なんでも我儘言えよ、全部叶えてやる!絶対だ!」

 神崎が少しうるんだ瞳で俺の顔を見上げる。俺は少し間を置くと、ちょっと声量を抑えて続ける。

「癌だからできないって諦めるんじゃなくてさ、今からでもできる”普通の贅沢”しようぜ、神崎。そうだな、みんなを病室に呼んで、ボードゲームでもやるか?この辺飾り付けてカフェみたいにして、テイクアウトしたもん持ってきてもらってカフェ作ってもいいんじゃないか?いや、流石に勝手に飾り付けなんかしたらお医者さんに怒られちまうかな?」

「……山口くん」

 涙交じりの神崎の声がしたが、かまわず続ける。

「あとはそうだな、学校にも来いよ。早いうちに一回くらいならまあ、多分大丈夫だろ」

「……山口くん」

 ちょっと神崎の口調が強くなる。聞こえなかったふりをして続ける。

「せっかく学校行くんならさ、放課後カラオケとかも行ってみたいよな。その日だけはみんなにも用事とか部活とか抜けてもらってさ、皆で点数勝負すんのもありかもな」

「……山口くん!!」

 俺はここでようやく、神崎の目を見る。なぜか、神崎の顔はぼやけて見えた。

 ――ああ、そうか、俺、泣いてたのか。

 そこでようやく、泣きながら話をしていたことに気づく。

 神崎も、目から大粒の涙を零しながら、何かを訴えかけるように、俺の目をしっかりと見てくる。

「……どうして?」

 か細い声で、神崎は言った。

「……どうして、私のために、そこまでしようって、言ってくれるの?」

 それは、至極当然の疑問だった。

 ――ああ、そうだな。一番大切なことを、言い忘れてたよ。

 俺は神崎の目をしっかりと見つめる。神崎は肩を震わせながら、うるんだ瞳でしっかりと見つめ返してくる。

 二人の視線が柔らかく溶け合ったとき、俺は”大切なこと”を伝える。


「――神崎のことが、好きだから」


「……っ!?」

 神崎の顔に赤みが差したのがわかる。俺は少しだけ、からかってやることにした。

「お?どうした、照れてやがんのか?」

「いやっ、だって……」

 神崎は顔を真っ赤に染めながらも、俺の目をしっかり見つめて、言う。

「……そのっ、私も……中学校の時から、好き、だった……から」

「はっ!?」

 今度は俺が赤面する番だった。なんてことだ、それなら中学校のうちに告っとくべきだったのか!?

「その……実は俺も、中学校の時から」

「……ふふっ、そうなんだ。似た者同士だね、私たち」

「……だな」

 そして二人で、顔を見合わせて笑った。目元には涙をいっぱいに溜めながら。

「でさ、神崎」

「……うん」

 俺は穏やかな声で、言った。

「まず一個目にさ、叶えたかった事、今、叶えようぜ。――両親に愛されなかったのなら、俺が愛してやる。いつか訪れる、別れの時まで、ずっとだ」

「……うん」

 俺は神崎の手をつかみ、指を絡ませて、続けていった。

「誓うよ、神崎。最期まで、俺はお前を愛し続ける」

 そして少しだけ強い口調で、言った。

「もう一度言う。――俺はお前が、どうしようもないくらい好きだ。ずっと傍にいたい。傍でお前と、笑いあっていたい」

 神崎の俺の手を握る力が強くなったのを感じる。

 神崎が口を開いた。

「……離さないで」

 その言葉は、必死で、縋るようで。でも、同時に、触れたら崩れてしまうような、儚さも兼ね備えていた。

 壊れないように、慎重に。なんて、有り得ないはずなのに、たしかにそこにある。

「ああ、……離さないよ」

「ほんとう……に?」

「ああ、天に誓って本当だ」

 弱々しい神崎の声に、力強く返す。

「ずっと、傍にいてくれる?」

「ああ、ずっと隣にいるよ」

 神崎はしばらく黙ったあと、ほんの少し冗談っぽく笑って見せた。

「嘘ついたら、嫌いになっちゃうよ?」

「ああ、なら問題ないな。俺、嘘つけないから」

 おどけたように返すと、神崎がまた笑う。さっきまでの締め付けるような笑みじゃなく、柔らかくて温かくて、ような笑み。

「ねぇ……」

「なんだ?」

 神崎はまた、少し黙った。震える声が、たしかに言葉を紡いでいく。

「……好きって、言って。愛してるって言って」

 少し、息を呑んだ。

 どうしようもなく、胸を締め付けるような一言。愛されずに育った神崎の、心からの声。

 こんなに簡単な2文字が、こんなにも、……重い。たったの5文字が、こんなにも苦しく、脆い。

 ――言わなきゃ。

 言わなきゃ、絶対に後悔する。

 だから、俺は迷いを捨てる。

 もともと、迷う要素なんて、――なかった。

「……好きだよ、神崎。ずっとずっと、愛してる」

 たった、それだけの言葉。なのに、重く、温かい言葉。

 たったそれだけで、神崎は両目に一杯の涙を溜め、言った。

「……ばか」

「えぇ?」

 ちょっとびっくりした。神崎はそんな俺を見て、可笑しそうに笑った。

 今まではなかっただろう、心からの笑み。解放されたような笑み。

 それを見て、俺もふっと笑った。

「……でも、私のほうがばかなんだよな」

 神崎がぼそっと口にする。俺は静かに、言葉の続きを待つ。

 そこにはきっと、祈りがある。夢がある。

 想いがある。

「……我儘一つ目、言ってもいい?」

「ああ」

 一呼吸おいて、神崎は「我儘」を口にする。

「私の、……彼氏に、なってください」

「……もちろん」

 そう答えた瞬間、神崎は目元から大量の涙を零しながら、はじける様に笑った。

 光り輝くような笑顔だった。

「……悲しい以外の感情でこんなに泣いたの、初めて」

「俺もだよ。……これからもっと、一緒にたくさんの”初めて”を経験していこうぜ」

「……うんっ!」

 俺は神崎をそっと抱き寄せ、頭を撫でた。神崎にも嫌がるそぶりはなく、されるがままにしてくれていた。

 

 僅かに開いたカーテンから差す夕日が、二人を淡く、暖かく照らしていた。


 *    *    *


 その夜は、眠れなかった。

 私は今日、さっそく二つ目の我儘を使った。

 ――山口くん、すっごく困ってたな。

 我儘二つ目、「今日はこの病室に泊まってほしい」を聞いた時の山口くんの反応を思い出し、私は少しだけ笑う。

 お医者さんも困ってたけど、特別に許可してくれた。他人に迷惑をかける、なんてのも初めてで、なんだか新鮮な気分だった。

 私に、彼氏かあ。

 そんな幸せが、私に許されるとは思っていなかった。

 ――”普通の贅沢”しようぜ。

 あの時、山口くんはそう言った。

 私にも、”普通の幸せ”、あっていいんだ。

 たったそれだけで、私はあと一か月の命だけど、きっと楽しく過ごせるだろう、そんな確信があった。

 なにより、今は傍に、彼がいる。

 私は隣ですっかり眠ってしまっている山口くんの頭にそっと手を置いた。

「――私の分まで、生きてね」

 そんな、ばかみたいな祈りを、込めてみる。

 すると、山口くんの体が、ちょっとだけぴくっと動いたのがわかった。

 ――届いたかな、私の祈り。

 こんなありふれた時間が、すごく愛おしい。

 明日から、どんな一日になるだろうな。

 私は明日以降の”普通の幸せ”に思いをはせながら、或いは、今日この瞬間の幸せを噛み締めながら、ゆっくりと目を閉じた。


 夢は、もう見なかった。


 *    *    *


 ――雨が、降っている。

 俺は大きな花束を抱え、目的の場所に向かってただ歩いた。

 その場所には、俺がある意味、最も恐れていたものがある。訪れないことをただ願ったものが、無情にも訪れた結果のもの。

 見たくないと言われれば、正直目にしたくはない。まだ受け入れられない気持ちもある。

 だけど、俺は幸せだったから。

 この一か月間は、かけがえのないものだ。一生分の幸せを、ここで味わったかもしれない。

 ――お前にとっても、そうだったか?

 俺はお前を、幸せにできたか?

 空を見上げ、心の中の彼女に問いかける。

 そして、また歩く。

 ――到着した。

 俺はそこの扉をゆっくりと開く。

 そこには、俺が最も恐れていた景色が広がっていた。

 しかし、恐怖も悲しみも、なぜか湧いてこない。

 そこにあったのは、一か月の思い出だけだった。

 それを見た瞬間に、この一か月のことが次から次へと、脳裏に浮かんできたんだ。

 みんなで病室に集まって、テレビゲームをしたこと。医師に勝手にテレビつないでるのがばれたけど、何も言われなかった。多分気を使ってくれたんだと思う。――ああ、確かあいつ、やるのはじめてだからっつって、めっちゃ弱かったんだよな。

 一日だけ、一緒に学校に行ったこと。あの日はいつも通りの授業なのに、なぜかすごい楽しかった。

 その帰り道、皆でカラオケに行ったこと。恐ろしいほどの音痴で驚いたし、皆で笑ったのをよく覚えている。

 そのあと二人だけで、こっそりカフェに行ったこと。初めて飲むキャラメルマキアート、美味しい美味しいって飲んでた。支払い奪ってやったら顔真っ赤にしてめっちゃ慌ててたのが超可愛かった。

 毎日病院に行って、二人でいろんな他愛無い話をしたこと。

 ――思い返すときりがない。まだまだ浮かんでくる。

 不意にさみしくなってしまった。少し涙が浮かんできたのがわかる。


 ――我儘三つ目。私が死んだときは、笑って送り出してほしいの。泣いて送り出されるのとか寂しすぎるし。

 

 そんな言葉を思い出す。

「約束、したじゃねぇか」

 俺は軽く袖で涙をぬぐい、花束を持って()()に近づく。

 顔にかけられた白い布をそっとよけると、そこには俺が愛した人が、安らかな表情で眠っていた。

「……神崎」

 ――俺は、お前を幸せにできたか?

 さっきの問いを反復する。だけど、きっとそうなのだろう、と俺は思う。

 だって、俺は、俺自身は、とても幸せだったから。

 幸せっていうのは、お互いがそうじゃないと、得られないものだと思うから。

「……ありがとな」

 俺はそっと神崎の耳元でそう囁き、隣に青いカーネーションの花束をそっと置いて、言った。

「幸せに……」


 ――今日も、雨は降り続いている。


 

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