第3節「希望、そして――」 ―神崎 江里乃
――あれから、どのくらいたっただろう。
もう声を出す気力もない。動くことも出来ない。ただ惨めな姿のまま、たまに血反吐を吐きながら冷水に打たれ続けることしか出来ない。
このまま、死ぬのだろうか。
――まだ、死にたくは、ないな……。
その時、だった。不意に、音を立ててドアが開いたのは。
水で視界が悪く、よく見えない。見えないけれど、ここに入ってくる人なんて、心当たりは一人しかいなかった。
「あ……おと……さ……」
自分でもびっくりするくらい、弱々しい、掠れた声が唇の端から漏れる。お父さんらしき人影は、ため息をつきながら入ってきて、水を止めた。私は転がったまま、寒さにじっと耐える。
お父さんはそのまま、なにか大きなものを近くに持ってくる。……バケツ?
考えた矢先、そのバケツのようなものの中身が、一気に私めがけて襲いかかってきた。
――熱湯、だった。
「……うっ!」
長い間冷やされ続けていた体が一気に熱に曝され、全身を灼けるような痛みが襲う。心臓がひゅっと締め付けられる。
「……さっさと出ろ」
お父さんはそう言って、私を縛っていた縄を解いた。
――こんなに痛いのに、どうやって立てっていうの?
その場にうずくまり、全身を襲う痛みが引くのをただ待つ。しばらくして激痛は引いたけれど、痺れるような痛みは残った。それと、寒さ。皮膚がヒリヒリと痛み、それなのにどうしようもなく寒い。指先の震えが止まらない。力が全く入らない。
這うようにしてお風呂場を出て、クーラーがすごく効いたリビングを進む。自分の部屋まで戻る道中で、すれ違ったお母さんに蹴り飛ばされた。痛みは殆ど感じなかった。
ようやく自分の部屋の前までたどり着き、ドアノブにゆっくりと手をかけ、体重を乗せて引っ張る。
ガチャ。
――鍵がかかっていた。
寒さに体を震わせながら、どうにか暖を取りたい一心で、私は再びドアを引く。
やはり開かない。
力なく振り返ると、こっちをじっと見つめるお父さんと目が合った。
――笑ってる?
よく見ると、お父さんの口元が少し歪んでいるのがわかる。見ただけですぐわかる、歪んだ笑み。
そうか。……鍵をかけられたんだ、お父さんに。
うちの部屋は中からしか鍵を開け閉めできないんだけど、小さなコインを使えば十分外からでも開け閉め出来るように、くぼみがついているから、それで閉めたのだろう。わざわざ。
悲しみはない。――だけど。
ぷつ、と、何かが切れた音が、どこかから聴こえた。
……なにか、私が私であるために大切な、必要な「なにか」が、壊れる音。それだと気づいたのは、全てが手遅れになってからだった。
べしゃ。
生温かいどろっとした液体の中に、激しく倒れる。体が全く動かない。筋肉痛なのに無理矢理走った後みたいに、全身が重い。全く動かない。
肺が熱い。心臓が熱い。腕や足が断裂を起こしたみたいに痛い。音が殆ど聞こえない。
……何してたんだっけ。
さっきまで部屋の前にいて、それで……。
鍵がかかっていて。そして……。
目線だけ動かして、液体の先を見る。私と同じように、液体の中に横たわっている2つの身体。見覚えのある背中。
……背中に刺さった、銀色のなにか。
そこから流れ出る血が更に血溜まりを濃いものにしていく。
――あれ?
わたしが……ころした……?
* * *
「こんにちは、神崎さん」
「……こんにちは」
――あの後のことは、よく覚えていない。
あちこち痛むし、相変わらず臓器は灼けるように痛い。だけど、なんとか動けるようになって、まず最初に考えたのは、「警察を呼ばないと」ということだった。
だからきっと捕まって、刑務所だか何だか知らないけど、なんかそれ的なところに送られてきたのだと思う。
「それじゃあ、始めようか」
「……お願いします」
で、今から犯罪心理学者のような人と面会らしい。イチさん、っていうそうだ。私はそっと目を伏せ、軽く挨拶をする。
「……さて。まず聞きたいんだけど、」
ここで、さっきまで柔らかかったイチさんの視線が、急に鋭くなった。部屋の温度が少し下がった感じがして、思わず身震いする。
「君のご両親、……殺したのは、間違いなく君なんだね?」
今度こそ、気温が下がった。
――血に染まった絨毯。
――背中に生えた銀色のナイフ。
――倒れたまま動かない、2つの死体。
思わず口元を抑えて、少し呻いた。
「……ああ、話せないならいい。ただ、首を振るか、頷くかしてくれたらいいんだ」
慌ててフォローするイチさん。その慌てぶりを見て、私は気づいた。
下がっているのは、私の体温のほうだ。
ふいに、涙が滲んだ。視界がぼやけていくにつれ、なぜか思考はクリアになっていく感覚がした。
――私は、誰かに気づいてもらいたかった。
ずっと、苦しかった。
これで、やっと……
* * *
彼女は声をあげて泣き、向かいの男性にすべてを告白した。
そしてその叫び、動作、そのひとつひとつには、確かに感情が宿っていた。
――ついに、”神崎江里乃”という存在は、深淵の底から這い出ることに成功した。
”普通の幸せ”は目前、だが……
泣きながら、すべてを吐露する彼女の向かいで話を聞く男性、――イチの瞳が、この瞬間、ギラリと光った。
――笑いをこらえきれないかのように緩む口元、そして、その残忍な瞳に、彼女は、気付いていない。
* * *
「話は分かった」
私がひとしきり話し終えると、イチさんは重々しくうなずきながら、言った。
「有罪にはさせない。私がなんとか、皆を説得してみるよ」
「……っぐ……ありがとう……ございます……」
言葉が途切れ途切れにしか出てこない。体中の水分がなくなってしまうのではないかと思えるくらいに号泣した後だからか、少し体もだるいように感じられる。
初めて人に話したけれど、肩の荷が下りたみたいに、心が軽い。
初めて気づいてもらえた。それだけで、十分だった。
イチさんは立ち上がると、私の発言をまとめたメモのようなものを持って、部屋を出ていった。それを見送り、私はゆっくりと目を閉じた。
お父さん、お母さんという、本来最も信頼できるはずの相手の影に、おびえる日々。ほんの些細なことにも最大限に気を配り、できる限り危害を加えられないようにしてきた。普通の親を持ち、親の影におびえることなく、平穏な毎日を過ごせている人には、想像もつかないことだろう。
不意に、何人かの友達の顔が頭に浮かんだ。美桜や天音や亮、それから、山口くんに、今田くん。いつも一緒にいた皆。
――羨ましいな。
そんな言葉が頭に浮かび、私は慌てて頭を振って、その言葉を脳から追い出した。
元々、私たちの関係はどこか歪だった。「普通の友達」っていうのが何なのかはよくわからないけれど、私達がそれじゃないってことだけは、何となく分かる。
――もしかしたら、みんなの中にも、私と同じような子がいるのかもしれない。
そう思うから、羨ましいなんて言えない。
――まあ、亮だけは別だけど。
そして……。
* * *
とある男がいた。
男は、ただ飢えていた。食に、ではない。
――絶望に。
男は、絶望に飢えていた。
男は、考える。”彼ら”は今、自らを巻き込むものから逃れようと、足掻いているのだと。
そう。”彼ら”は、今も必死に、自分の残酷な運命から逃れようと、足掻いている。
――それを徹底的に破壊するのが、自分の「イキガイ」。
男は静かに嗤うと、目的の場所に向かって歩みを進める。
……さあ、もっと足掻け、悲劇のヒロイン達。
そして見せておくれ。君達の最高に苦しむ姿を。
私は特等席から、それを眺めるとしよう!
「っふ、はははははは……」
男は、惨劇の始まり、その予感に、声を立てて嗤う。
――さあ。
”最悪の悲劇”の、始まりだ。
* * *
釈放された。
信じられない思いで、署の入口で一人、呆然と立ち尽くす。だって、仮にも二人殺した。実刑は免れないと思っていた。
だけど、実際に私にくだされた処分は、「保護観察処分」だった。あとは、心理ケアのためのカウンセリングを2週間に1回の頻度で受けるだけ。
たった、それだけ。
目の前をかなりの速度で、いくつもの車が流れていく。私はそれをぼんやりと眺めながら、ゆっくりと脳を回転させる。
――これから、どうしよう。
一台の車が、速度を落とし、やがて停車する。その次も、その次も。赤信号だな、と、少しぼんやりする頭で考える。
とりあえず、釈放されたのだから、いつまでも留置所(少年院?)暮らし、という線は免れた。とすると私は(ほかに身寄りもないし)家に帰ることになるんだと思う。それはいい。
でも、今あの家には、両親がいない(私が殺した)ことが問題だ(私がころした)。
つまり、いなくなった原因はあまり褒められたものじゃないけれど(わたしがころした)、これであの両親に支配される生活ともお別れできるわけだから(ワタシがコロした)これでやっと私は一人前の自由を手に(コロシタ)することができるわけで、やっとその権利が私にも(ユルサレルモノカ)許される(ヒトヲコロシタクセニ)ときがきたというわけで(コロシタクセニ)やっと私の人生にも価値があるって(オマエニソンナケンリハ)誇りを持って言えるわけだ(ナイ)そうだ、私に幸せになる権利なんてない。(ソノトオリ)私は人を殺した。その責任は重い。(ソウダ、モットクルシメ)世間的には許されても、倫理的に許されないことをしたんだ。(ソウダ、オマエハクズミタイナニンゲンダ)この責任、どうやって
――あれ?
何か重いものが倒れる音が、街の空気を微かに揺らした。
――少女には、命の重みに耐えうるだけの心の余力は、もはや残されていなかった。
* * *
――なにか、聞こえる……。
遠くから聞こえてくるサイレンのような音に、私はゆっくりと目を開ける。
といっても、頭に靄がかかったように、脳がうまく機能しない。とりあえず体を起こそうと思っても、体が言うことを聞かない。
「……い……か……」
――誰かが、なにか言ってる……。なん……だろ……?
それを最後に、私の意識は再び暗転した。
* * *
次に私が目を覚ましたとき、眼の前には白い天井と、私の顔を不安げに覗き込む、たくさんの顔があった。
見覚えのある顔だった。
「……っ!?」
驚きすぎて、思わず跳ね起きてしまう。直後、頭が強烈に痛み、また倒れたけど。
「……無理して動かないの。倒れたって聞いて、ほんとどうなるかと思ったのよ?」
「無事で良かったあ〜!会いたかったよ〜!」
懐かしい二人の声に、私は思わず瞠目する。
「――美桜、天音……」
「私達だけじゃないわよ」
美桜はそう言うと、さっと後ろを向いた。
「二人共、江里乃が目を覚ましたわよ」
そして、そうドアに向かって呼びかけた、とほぼ同時に、ドアが開いた。
入ってきたのは、二人の男の子だった。勿論、どっちの顔も、懐かしい顔だった。
今度こそ体を起こすと(今度は倒れないように、ゆっくりと、だ)、二人の顔をしっかりと見据える。
「神崎……!無事で良かった……」
「大丈夫か?どこか痛まないか?」
「山口くんに……今田くんまで……、うん、今はちょっと頭痛がするくらいで、あとは大丈夫だよ」
多分。と、私は心のなかで一言付け足す。
「そういえば、亮は来てないんだね?」
気になって尋ねる。何故か美桜と山口くんが顔を見合わせて、肩をすくめた。
「……ん?」
「なんていうか、その、……色々あるのよ」
美桜が目を逸らしながら言う。
「え、何、私嫌われちゃった?」
「いやそういうことじゃ……ない……」
「えちょ、ほんとに嫌われちゃったの!?」
私の質問に、答えてくれる人はいなかった。
「さて!じゃ、俺達はお暇しますか」
沈黙を破ったのは、今田くんだった。不意にそう言い、何故か美桜と天音の二人だけが頷く。
「……もう、帰っちゃうの?」
私がそう問うと、
「私達は、ね。でもなんか、山口くんが二人で話したいそうだから」
「……山口くんが?」
美桜がそう言い、私は驚いて、山口くんの方を見る。一瞬目があったあと、山口くんは慌てた様子で目をそらした。
「じゃね。色々話があるんだろうし、私達は邪魔にならないように、さっさと帰るから」
「うう……もっと話したかったんだけどな……。またね、江里乃」
「……うん、バイバイ……?」
混乱している私は、思わず疑問形で返事してしまう。
とにかくそうして、三人は出ていき、病室に二人きりになる。
「……え、えっと……?」
戸惑いを隠しきれず、そのまま目の前の男の子を見つめる。
山口くんは、ずっと目を合わせてくれない。ずっと目を泳がせている。どうして良いかわからなくて、私はそっと目を逸らす。
ふと、机の上においてある電子時計が目に飛び込んできた。あの、時間と温度と日付とが同時に表示されているやつだ。
その電子時計の、日付のところに、こう表示されていた。
[5月18日]
「……あれ?」
首を傾げる。今日は4月18日のはずだけど。1ヶ月もズレてる?
「どうした?」
山口くんが声をかけてきた。結局話ってなんなんだろうなと思いつつ、言う。
「いや、日付が1ヶ月ズレてるなって思ってさ」
見してみ、と言う山口くんに、ん、と時計を渡す。
「……ん?ズレてないだろ?」
「……え?」
もう一度見てみる。そこには変わらず、[5月18日]の表示があった。
「いやズレてるでしょ、今日は4月18日でしょ?」
私がそう言うと、
「いや、……今日は5月18日だぞ?」
本気で戸惑ったように、そう返ってきた。
「……いやいやいや、そんな訳無いでしょ!4月だって今日は!あっそうだ、スマホ!ホーム画面で日付見れるじゃん!」
なんで今まで気づかなかったんだろう!
「ちょっと、見せて見せて!」
「お、おう」
ほら、と渡された、山口くんのスマホの画面を覗き込む。
日付よりも、真っ先にその背景画面が目に飛び込んできた。なんだかイメージにそぐわない、可愛らしい猫達の写真だった。
「……猫、好きなの?」
「そうだけど」
結構意外だった。
「いや、それより日付だろ。ほらここ」
トントン、とディスプレイを叩く指の先を見ると、たしかにそこには[5月18日]と表示されていた。
「ほん、とだ……」
少し呆然としてしまう。今日が5月だっていうその事実にも驚いたけれど、それそのものというより、どうしてそこまで私の頭の中の時間と、ホントの時間がズレていたのか、それが一番謎だった。
――もしかして。
心当たりがないわけじゃない、かも。
だけど、ここで話して良いのかどうか……。
しばらく悩んで、意を決して口を開いた。
「山口くん」
「どうした?」
唇がカラカラに乾燥する。緊張しているのかもしれない。唇を舐めて湿らせてから、その言葉を口にする。
「……私ね、虐待されてたの」
「……は?」
山口くんは愕然とした表情を浮かべた。無理はないと思う。身近な人が虐待されてたなんて聞いたら、きっと私も驚くと思うから。
「実は中学校卒業したときからずっと家に閉じ込められててさ。あ、合格発表終わってからね、その後はずっと家に閉じ込められてたの。それで日付の感覚がおかしくなったのかもね?」
あの、私が買い物帰りに失敗して、冷水シャワーを浴びせられた日。あの日私は、皆はちょうど入学式の頃だと思ったけど、そうじゃなかった。あの時は、皆はちょうどゴールデンウィークを満喫して、気だるい気持ちを乗り越えて学校に行っている頃だったんだろう。多分そうだ。
「いつから……?」
山口くんが、恐る恐ると言った感じで聞いてくる。
言われて考える。あれ、そういえば――。
「いつからだっけ。もう覚えてないや」
ちょっと自分で笑ってしまう。なんでこんなに明るい気持ちなのか自分でもよくわからない。
おっかしいな。なんでこんなに楽しい気分なんだろう?かなりひどい話をしているのに。――でも、その話すらも、どこか他人事のように感じられる。
「神崎……」
山口くんはひどく傷ついたような表情で、また恐る恐る声をかけてきた。
「いいよ、もう終わったことだし。そんな顔しないで、山口くん」
私はそう笑いかける。
――というか、もう5月ってことは。あと、ちょっとしかないんじゃ……?
まあいいか、と思う。今は考えるのはやめよう。
「……そういえば、結局話ってなんだったの?」
ふと気になって、聞いてみる。
「それ、は……」
どこか遠慮がちに、山口くんが口を開いた。
その時、だった。




