第4節「始まり」 ―御島 亮、西宮 美桜
「西宮っ!!」
嘘だ。嘘だ嘘だ。
だってそれは、あんまりにも突然のことで。西宮はさっきまで全然元気で、人の気配なんて全然なくて。
……そうだ、これはドッキリか何かだ。
いつも拒絶してばかりの俺に躍起になった皆が計画したものだ。西宮が俺を説得して、俺が揺らいだところをこれで揺さぶって。そうだ、きっとそうだ。きっと西宮はすぐにでも笑顔で目を覚まして、そこの路地脇から皆が「ドッキリ大成功!!」みたいなプレートを掲げて出てくるのだろう。そして殺人鬼を装った山口が、フードでも外してあのニヒルな笑みでこっちを見るのだろう。
逃避なのは分かっている。だけど、それにすがるしかなかった。
――そんな訳はなかった。
西宮は起きる気配がなく、どんどんと血が路地を染めていく。
そこでやっと、殺人鬼の方に目をやった。
そいつは手に持った凶器から血を滴らせながら、不気味に微笑んでいる。倒れた西宮にはもはや目をやることすらなく、その堪えきれないかのような歓喜に歪んだ吊り目が、俺をまっすぐに見つめている。
そして、そいつの顔に、俺は見覚えがあった。
「……出たな、クソ野郎」
吐き捨てるようにそう言う。そして、そいつ、――俺の父、御島潤は、まるで感動の再会でも果たしたかのように、更に笑みを歪めた。
「久しぶりだね、亮。会いたかったよ」
微笑みを浮かべたまま、そいつは言った。
「ずっと、ずぅっと、会いたかった」
背筋がゾクッと寒くなる。
「俺は、会いたくなんかない。……なんで、母さんを刺した」
警戒しつつ、ずっと聞きたかった質問をぶつける。
もちろん、会いたくはなかったが、次に会うことは絶対にあると思っていた。だから、そのときには聞こうと思っていたことだった。
……母さんを2度刺したこいつは、2度目の寸前、こんなセリフを吐いた。
『壊れたね。……いずれ君のことも、迎えに上がろう』
それは、俺にこの狂人との再会を感じさせるには、十分すぎるくらいに重く、鋭さを孕んだ言葉だった。
男は言った。
「刺した?君の母を?さて、なんのことやら」
一瞬で頭に血が上る。
「とぼけんな。忘れたとは言わせねぇぞ」
いや。……これは、違う。
……なんだ?声が、少し違う……?それに、顔の形が……?
――その時、だった。
「何をやっている、市!!」
そんな言葉が、鼓膜を揺らした。
そしてそれは、とても聞き覚えのある声で。
「父さん……っ!?」
目の前には、信じられない光景が広がっていた。
「おや、久しぶりだね、潤?」
「ふざけたことを言うんじゃない。私のいない間に好き勝手……ッ!」
さっきまで、父さんだと思っていた男が、新たに現れた男を潤とよんでいる。
そして、長年家族として一緒に暮らしてきた経験が、表れたこの男を父だと言っていた。
(亮、聞こえるか)
突然、その男、父さんがささやきかけてきた。
(聞こえる)
何が何だかわからんが、とりあえずこの男を信じるしかない。父さんの偽物と思われる男は西宮を刺した張本人であって、紛れもない犯罪者なのだから。
ということで、慌てて返事をする。
(私がこの男を何とかする。その娘を連れて逃げろ)
(何とかって……)
少しためらう。西宮のことは心配だが、聞きたいことも山ほどあった。
(今はその娘が先だ。早く)
その言葉で、ようやく踏ん切りがついた。
しかし、動き出そうとした時、
「聞こえているよ、全く」
呆れたように、殺人鬼が頭を振った。
思わず身構える俺達に、
「いやいや、そう構えなくていい。私も、男を四人も相手取ろうと思うほど馬鹿ではないよ。――続きはまた、後日にするとしよう」
そう言って、そいつは素早く身を翻した。
「……おい、待てっ!!」
慌てて後を追おうとすると、すぐに強い力で後ろに引っ張られ、その場でたたらを踏んだ。
「やめろ、亮。あっちは私に任せて、お前はその娘を病院に連れて行ってあげてくれ」
父さんらしきその男はそう言って、すぐに殺人鬼の後を追っていった。
……どうなってんだ、本当に。
それどころではないのに、何も考えられなくなってしまう。立ち尽くしたまま、男たちの去っていった先を見つめる。
「おい、なにボケっとしてんだ」
あまりにも、聞き覚えのある声。俺はあることを思い出しながら、ゆっくりと振り返った。
……去り際に、あの男が放った言葉。
――男を四人も相手取ろうと思うほど馬鹿ではないよ。
そこには、良く見覚えのある二人が、立っていた。
「……今田。……山口」
「まずは止血するぞ。今田、そっち押さえて」
「ああ」
隠れて機を伺っていたらしい二人は、すぐに西宮の応急処置に入った。俺は今までの拒絶がなかったかのように、あまりに自然に救急車を呼ぶように頼まれた。
「救急車、……呼べた」
「おう、さんきゅ」
恐る恐る言うと、普通にそう返事される。
――こんなに、普通そうなこいつらも、不幸の中でもがいているんだよな。
そう思うと同時に、さっき俺自身が、西宮に放った言葉の数々が蘇ってきた。
――ただの普通の幸せ者が、俺を理解したなんて、そんな分かったような口を聞くな。
何も理解していないのは、分かっていないのは、俺の方だった。
謝らなければ。そう思い、西宮の処置をしている二人に声を掛ける。
「あのさ……」
しかし、その言葉はすぐに遮られた。
「今はいいよ。そういう話は後だ」
山口はそう言うと、すぐに処置を再開した。
言葉の行き先がなくなり、視線を泳がせてしまう。
「大丈夫だ」
突然そう言われ、視線をそっちに向ける。
今田だった。今まで見たことのない、穏やかな微笑みを浮かべて、今田は言う。
「大丈夫だ。――俺達は、お前の味方だ」
たったそれだけを、言った。
たったそれだけで、十分だった。
――大失敗だった。
どうして俺は、こんなにも優しく、温かい者たちを、拒絶してしまったのだろうか。
もっと早く、これに触れていれば……。
……いや、まだ手遅れじゃない。西宮も言ってくれた。
――私達のことを、信じてほしい。
普通に、幸せになりなさい、亮。ね?
まだ、間に合う。
今なら、まだ。
だからどうか、と、俺は願う。
生まれて初めて、神というものに願う。
……だからどうか、西宮を、死なせないでくれ。
* * *
――温かい。
そっと、目を開く。
目を開くとそこには、見たこともないような景色が広がっていた。
とっても眩しい、輝くような「日常」。
……私、何してたんだっけ。
すうっと、記憶が抜けていく。
私は今、教室の椅子の上に座っている。座ったまま、立って友達と談笑するクラスメートの姿や、真剣に机に向かうクラスメートの姿を、ぼんやりと眺めていた。
「普通」だ。
ぼんやり、そんなことを思い、そしてすぐに、私はその考えに疑問を抱いた。
――「普通」?
だってそんなの、「当たり前」じゃないか、と。
「普通」は「当たり前」であるはずだ、と。
「おい、何ボーッとしてんだよ」
急に声をかけられて、振り返る。
亮だった。いつもの仏頂面のまま立っていて、根は優しいくせに変にカッコつけてるところとか、相変わらずだった。
――なにか、大切なことを忘れている気がする。
心臓が、どくん、と、嫌な音を立てる。
きっと、気のせいだろう、と、私はその考えを振り払った。
「ごめんごめん、どうしたの?」
そう返事をすると、亮は廊下の方を親指で指した。
「向こうで神崎が呼んでたぞ。さっさと行ってあげたらどうだ」
「江里乃が!?」
がたん、と大きな音を立てて、私は勢いよく立ち上がる。
「は?……そう、だけど、?」
戸惑うような表情特徴の亮を見て、私はより戸惑いを深める。
なんで、こんなに動揺してるんだろう。
なんで、こんなに悲しいんだろう。
なんで、こんなに懐かしいんだろう。
なんで、こんなに……。
「……ごめん、なんでもない。教えてくれてありがと、すぐ行くね」
私はその戸惑いを心の棚にそっとしまうと、なんとか亮にお礼を言ってから、廊下の方に歩いていった。
廊下に出ると、そこには天音と、凛と、それから……。
「あ、来た来た。ちょっと美桜おっそ〜い!」
江里乃がいた。
どくん、と、また心臓が高鳴る。
この胸のざわめきは、一体……?
「ごめんごめん、おまたせ」
またそんな考えを押し殺して、そう返事をする。
「ううん、全然いいよ美桜ちゃ〜ん」
「美桜ちゃんって意外とマイペースだよねぇ」
のんびりとした返事をするのは天音。軽く批難してきたのは凛。
――なぜだろう。こんな風景が、たまらなく愛おしい。
そして江里乃は、何も言わずにじっと私のことを見ていた。
「……江里乃?」
思わず声をかける。
「あ、……ううん、なんでもない。それじゃ、行こっか」
「は~い」
江里乃はそう言って歩き出し、のんびりとした返事をする天音と凛がそれに続く。
そして私は、何のことかわからずに一瞬ぽかんと突っ立っていた。
「どうしたの美桜ちゃん、今日は女子だけでお昼でしょ?」
早く早く、と、凛が手招きをしてくれる。
「ごめんごめん、ちょっとぼーっとしちゃって」
そういえばそうだったな、と思い出す。
そんなはずはないのに。
「美桜ちゃん大丈夫?なんかずっとぼんやりしてるけど……?」
「頭でも打った?」
「打ってないわよ。……大丈夫大丈夫、ちょっとした考え事よ」
私はさらっとそう返し、そういえばいくら持ってたかなと、歩きながら財布の中身を確認する。
よし、ちゃんと学校用に3000円持ってきてる。食堂は余裕かな。寧ろ持ってきすぎか。
――どくん
と、また心臓が嫌な感じに高鳴る。
――まただ。一体何だって……。
でも、やっぱりおかしい。私自身は何も思わないけど、どこか、私の奥深くで、なにかが今、この状態に違和感を感じてる。
どうしちゃったんだろう……?
まあ、いいか。
今日何度目かわからないけれど、私はそうやって、また違和感を振り払う。
「う~ん、何買お?」
天音の声で、私の意識は現実に引き戻される。どうやら考え事をしている間に、食堂についてしまっていたらしい。まあすぐ近くだし、気付いたら着いてたなんてのも、おかしな話じゃないだろうから、そんなに気にしないことにする。
「美桜は何にするの?」
江里乃に聞かれ、「どうしよっかな」とか言いながら、券売機の前に立つ。
「カレーライス」や「ラーメン」、「日替わり丼」などの文字を目でなぞり、今自分が食べたいものを探す。
そして、気付く。
「そういえば、食堂のメニュー買って食べたことないかも」
おすすめある?と、続けて尋ねる。
「え、美桜ちゃん食べたことないっけ?」
「ええ、食堂来てもいつもお弁当持ってだったし」
そういえばそうだったな、と思う。というか何で買ったことなかったんだろ、結構頻繁に来てるはずなんだけど。
――買えないから。
いやいやおかしい。なぜかふっと浮かんできた言葉を、私はすぐに投げ捨てる。だってちゃんと学校用のお財布を用意して、常に3000円前後が入っているはずだから。食堂のメニューにそんなに高いものは存在しないから、買えないなんてそんなわけがない。
単に、皆が食堂に行きたいっていいだす日に、たまたまお弁当の仕込みを済ませてしまっているというだけなんだろう。そのほうがよっぽど納得できる。
「え、ちょっと美桜ちゃん、聞いてる!?」
凛の声で、また意識が現実に引き戻される。私ははっとして、凛の顔を見上げた。どうやらおすすめのメニューについて、講釈を垂れてくれていたらしい。やば、全然聞いてなかった。
「き、聞いてたよ?ラーメンがおすすめなんでしょ?」
いちかばちか、私はラーメンに賭ける。
「……カツカレーだねぇ……」
やけに湿度の高い目で見られる。効果音でもつけるとしたら「じと~」、って感じ。
「聞いてなかったんだ……」
「火に油を注いじゃったねぇ……」
三人からの言葉に、糾弾されているような気分になって、私はそっと目を逸らす。
「冗談よ、冗談。ちゃんとわかってるから。カツカレーでしょ、それにしてみようかな」
「いや冗談って、……もういいや……」
凛が半ば投げやりな口調でそう言った。よし、勝った。
さっそく500円玉を入れ(3000円全部お札じゃなくて、何枚か小銭も混ぜるようにしている)、「カツカレー」と書かれたボタンを押し込む。
ピッ、という音と共に、小さな紙が取り出し口から出てくる。おつりはない。下手に小銭が増えるより、こうやって500円玉でピッタリ買えるようにしてくれているのは、結構良心的だと思う。
そして同時に、「カツカレー」と書かれたボタンの下のランプに、静かに赤色が灯った。売り切れを示す色。
「「「「あ」」」」
四人の「あ」がハモる。
「……」
沈黙。
「……私のカツカレーが」
ぼそっと、凛が呟く。
ぷっ、と、こらえきれないように、江里乃が笑いだす。
つられて私も天音も、思いっきり笑ってしまう。
「ちょっと!笑い事じゃないんですが!」
凛が怒り心頭だけど、これを笑い事といわずしてほかに何と呼べるのだろうか。私は知らない。
「……くっ、あはは……、ごめん凛、つい可笑しくて……っ!」
私は息も絶え絶え、そう言う。
ひとしきり笑って、ようやく笑いの波が収まったころには、後ろに人がたくさん並んでいて、食券待ちをしていた。
「わっ、ごめんなさ~い!」
天音が気付き、ほかの三人もあわてて食券を買う。
そんな光景も可笑しくて、私はまた笑ってしまう。
なんだか、とっても満たされた気分だった。
* * *
なんだか、今日はとっても楽しかったな。
とても充実した気持ちで、私は家までの道をのんびり歩く。
放課後、お昼ご飯の時の凛の提案によって、四人でカラオケに行った。やっぱりたくさん行っているだけあって、江里乃の歌が結構上手かった。
意外だったのは天音で、びっくりするくらい音痴だった。桜さんの「デイドリーム」を歌ったときなんて、皆でお腹を抱えて笑ってしまった。天音はそれでちょっと気を悪くしちゃって、ツーンってしてたのが可愛くて。
かくいう私も歌とかあんまり歌わないからあんまり得意じゃなくて。凛は無難に上手で、つまんないなぁって江里乃にからかわれて、そうやってずっと江里乃にいじられまくってたり。
楽しい一日だった。
なぜか朝から昼にかけての記憶が全くないけど、そんなの気にならなくなるくらい楽しかった。
あとは家に帰るだけ……。
家が見えてきた。
今日の夜ご飯は何にしよっかな、と考えながら、家の前に立ち、鍵穴に鍵をさし、回す。
ガチャ、と音がして、それで私は、ドアを押し開ける。
なぜか、江里乃が立っていた。
「え……?」
江里乃は、どこか寂しそうな、そしてどこか、私を笑うような、そんな表情を浮かべて、そこに立っていた。
よく見ると、家の様子もどこかおかしかった。
あったはずのものがたくさん無くなっていて、なんだかもの寂しい家になってしまっていること。
それなのに、やけに見覚えがあること。
そして何より、ここに江里乃がいること。
「江里乃……?」
恐る恐る、声をかける。
江里乃は、ふっと音を立てずに、私の目の前に移動してきた。
「……っ!」
本能的に恐怖を感じて、私は少し後ずさる。
だって、まるで死人みたいに、何の音もしなかったから。
それに、なんだか江里乃の周りの空気が、冷たい。
まるで、死んでしまった人の、体温みたいに。
なにより、私は何でこんなに、死者のことを知っている?
私は少し、いやかなり混乱してしまう。本当に分からなかった。
「――どう?そろそろ、目は覚めた?」
江里乃は、そう言った。
「目は覚めたか、って……?」
おうむ返しに、そう問いかける。だって私は、今普通に起きて、生活しているはずだ。起きている人間に「目は覚めたか」なんて、馬鹿げた問いにもほどがある。
でも、この異常すぎる状況は、とても無視できない。
「……そっか。まだ、思い出せてないんだ」
江里乃はやっぱり寂しそうに、そう言った。
そして、
「……思い出して、美桜。あなたは今、どこにいるの?」
「どこ、って……」
ますます混乱する。私が今いるのは、間違いなく私の家だ。
そう言おうとして、あたりを見て、思わず口を噤む。
家の形が、変わっていたからだ。
蝋人形のように、ぐにゃぐにゃと形を変え、溶けていく。声を上げる間もなく、すぐに私たちのいる空間は「無」へと変貌を遂げた。
それはまさに「無」と表現するのがふさわしい場所だった。真っ暗で、何もなくて、ただ、私と江里乃のいる所だけがぼんやりと照らされ、その存在を認識できる、ような。手を伸ばせばなにかがあるようで、どこにもなんにもないような。
「あなたは、……だれ?」
掠れた声で、私は問いかける。
「私?私は江里乃だよ、神崎江里乃」
その者はそう言って、すぐに息をついて、こう続けた。
「癌で死んだ、神崎江里乃」
「……っ!?」
ずきん、と頭が痛む。
どくん、どくん、どくん、どくどくどくどく、と、心臓の鼓動がどんどんと早まる。
思わず、頭を抱えて座り込んだ。
そんな私の眼前に、見たことのないはずの風景が流れる。
病室のベッド。そこにたくさんの管につながれた江里乃が横たわっている。江里乃はすっかり痩せて肌も青白く、いまにも存在が消えてしまいそうな儚さをたたえている。
そしてその周りには、天音、凛、今田くん、山口くんがいて、そして私がいる。
そしてなにかを、一言ずつ口にして、私たちはそっとベッドのそばを離れる。
医師らしき人が出てきて、江里乃の死亡確認をして、私たちに頭を下げる。すぐに天音が泣き崩れ、今田くんと私でそれをいさめる。そんな私たちの瞳も少しうるんでいる。凛は泣くまいと必死にこらえているけれど、少し瞳に涙が光っている。山口くんは唇をかみしめ、強くこぶしを握り締め、全身をぶるぶると震わせている。
そんな、光景。
そして私は、この光景を、見たことがある。
「江里乃……っ!」
そこでようやく、私は江里乃が死者であることを確信する。
「落ち着いて、美桜。確かに私は江里乃だけど、この私は今のあなたが作り出した、幻に過ぎない」
江里乃はそう言った。
「……幻?」
「そう、幻。昼に見た亮も、天音も、凛も、皆幻。そしてこの世界は、あなたの夢の中の世界」
「夢の、中……」
私はただその言葉を反復する。
「美桜、よく聞いて。今から私が話すことは、あなたにとってはとっても、とっても辛いこと。だけど、私のため、亮のため、今田くんのため、山口くんのため、天音のため、凛のため、そして何より、あなた自身のために、あなたが見ないといけないこと」
だから、と続ける。
「何があっても、絶対に逃げないで。受け入れて」
息が止まった。
「受け入れる……?」
さっきみたいな、バカみたいなおうむ返しじゃなくて、疑念のこもった声で、私は目の前の少女の言葉を反復する。
「そう、受け入れるの。そうすれば……」
私はその言葉を、手を出して遮る。
「……あんたは、江里乃じゃない」
驚いたように、少女は目をぱちぱちさせる。
「……病気にも親にも苦しめられ続けた江里乃は、絶望を知っている江里乃は、それを受け入れろなんて絶対に言わない。――あんたは、あんたの正体は、……私自身、なんでしょう?」
私には確信があった。
だって、その言葉は、「受け入れろ」という言葉は、私が毎日自分に言い聞かせていた言葉だったから。
驚いたような表情の江里乃だったけど、その体が突然、崩れだした。
さあっという、砂が流れていくような音と共に、江里乃の体が完全に崩れる。
……正直、怖い。だけどこれは、私が産んだ「闇」だ。私が直視しなければならない現実。
崩れた先から表れたのは、まごうことなき「西宮美桜」だった。
そしてそれは、吸い込まれそうなほどの闇と影を、纏っていた。
――きっとこれは、私の中の、負の感情。
たくさん押し隠して、受け入れて、流され続けてきた私の、「辛い」「寂しい」「痛い」「苦しい」「お腹が空いた」「助けて」「どうして」「私ばっかり」「私だけが」「私にしか」「私じゃなきゃ」、……そんな、感情たちの、姿だ。
きっとそれが、私にこんな、幸せな夢を見せたのだろう。
だから、私はこの「夢」を、そして「私自身」を、「乗り越え」ないといけない。「受け入れ」てはいけない。
この世界で得られる幸せは、「本当」の幸せじゃないから。
――けれども、「ほんたうのさいはひ」とは一体何だろう。
入学の日、校長先生が私たちに贈ってくれた言葉。
私にとっての「ほんたうのさいはひ」は、これじゃない。
――だから。
「馬鹿にするな」
私は、「私」に向かって、そう叫んだ。
「……違う」
「私」は、頭を抱えて悶えていた。そんな「私」に向かって、私は言ってやる。
「思い出したよ、全部。おかげさまで、今自分が置かれている状況も思い出せた。――だからこそ、私は、あなたを受け入れるわけにはいかない」
「違う、違う、ちがう……っ」
「私は”幸せ”になりたい。”ほんたうのさいはひ”ってものを、私にとってのそれを、探し続けたい」
「ちがうちがうちがうちがう……!」
叫び声すらあげだした「私」に向かって、「だから、」と、最後の言葉を放つ。
「私はあなたを、絶対に認めない」
「あああああぁっ!!」
頭を抱えたまま大きく左右に振り、「私」はより激しく悶えた。そしてそれと同時に、世界が明滅して、その輪郭が揺らぎだした。
きっと、「夢」が崩壊していってるんだろう、と思う。私は少し冷めた気持ちで、そして、少し悲しい気持ちで、目の前で世界と同じように明滅を繰り返す「私」を立ったまま見下ろす。
この選択が、間違っていたとは思っていない。この「夢」は、確かに私が望んでいた世界だったけれど、あまりにも「夢物語」だ。
だけど、少しだけ後悔している自分もいることに、私は気づいていた。
だって、まるで白昼夢のような非現実的で、とても叶うとは思えない空想だったけれど、それでも私が望んだ世界だ。それが一瞬でも実現するなら、夢の世界に身を委ねるのも悪くないのではないか、なんて思えたりもするから。
一瞬でもあの地獄から逃れられるのなら、夢にだって堕ちる。
だけど、それだと私以外のみんなは、どうなる?
多分だけど、今私は生死の境をさまよっている状態だ。ここでずっと、夢の世界で暮らそうものなら、間違いなく現実の私は死んでしまうだろう。
そうすると、今生きている皆はどうなる?
皆は強い。きっと生きていけるだろう。だけど、そうじゃなく。
私はみんなに、ただ生きていてほしいわけじゃない。幸せになってほしいんだ。
今更、皆は私にしか救えないなんて、そんな傲慢なことを言うつもりはない。
でも、実際に江里乃が死んだとき、皆はすごく悲しんだ。同じように私が死んだら、皆はさらに悲しむだろう。
だから、私はまだ死ぬわけにはいかない。
そんな使命感と、夢を否定する気持ちの二つが、私をここにとどめようとする気持ちに全力で蓋をしていた。
ため息を一つつくと、あたりをぐるっと見回す。「夢」の世界は、緩やかに、確実に崩壊していっている。このままいけば、多分私はここから出られるんだろう。
「……あはははははははは!!」
ぞくり、と背筋が震えた。
額を汗が伝う。膝が笑い出す。
この笑い声は……。
「”ほんたうのさいはひ”?それを探す?……っははは!やっぱり面白いね、『私』!」
私じゃない方の「私」だった。
「本物の幸せが何なのかも知らないくせに?知らないものをどうやって探すっていうの?第一、現世の『私』に、幸せになる手段が残されていると思ってるの?……『私達』は、絶対に幸せにはなれないんだよ?」
呼吸が止まる。他ならぬ私自身の口から発せられたその言葉には、途轍もない説得力と、重みがあった。
「……そう、だけど……」
自分でも驚くくらい、掠れた声が出た。
「大体、あなたはここから出られると思っているみたいだけど、本当にそうなのかな?」
「……え?」
弾かれたように、顔を上げる。
「もうこの世界は、崩壊を始めている。……このままだと、巻き込まれて死ぬよ、『私』?」
「っ!?」
夢なのに覚めないということは、今私は夢から目覚められる状態にないんだろう。それだけ死に近い状態だということ。
――つまり、このままだと本当に、死ぬ。
その事実に気づいた途端、私は勢いよく立ち上がった。
……なにか、なにかないか。
「無駄だよ、『私』」
藁にも縋る思いで、必死にここから出るためのなにかを探す私に、「私」が言う。
「あなたはここから、出られない。……ここで私と、一緒に死のうよ?」
「……嫌」
あちこちを駆けずり回り、脱出の手段を考えながら、言う。
「……まだ、死にたくない」
「どうして?生きていたって、いいこと何にもないんだよ?絶対に幸せにはなれないんだよ?」
「絶対になんて、誰にも決められない」
「絶対だよ、それは『私達』自身が一番良く分かっているはずでしょう?」
「それでも……っ!どれだけ未来に希望がなくても、私は生きていたい……!」
視界がぼやける。瞳に涙が一杯に溜まっているのを自覚しながら、私は叫ぶ。
「希望なんて信じない!そんなもの、『私達』の世界には存在しない!」
「そんなこと、あなたには決められない!」
「決められない、ええそうよ!でも『私』、あなた自信が一番、よく分かっているはずでしょう!?」
「分かってるよ!……でも、私は世界一の不幸者じゃない!」
「私」が言葉に詰まったのを見て、更に言う。
「ずっと、自分が一番不幸なんだと思ってた、そうでしょう?私達は、自分は世界一の不幸者なんだと思ってた!でも世界には、もっともっと苦しくて、未来に希望が見えなくて、それでも生きている人がたくさんいるの!なのに、……それなのに、私達が生きることを諦めて、どうするのよ!?」
「……そんなの、『私達』の知ったことじゃない!不幸に基準なんかない!不幸な人はみな等しく不幸だ、そうでしょう!?人生を諦めて死んだ人だって、たくさんいるはずでしょう!?」
そこで私は、一度黙る。「私」も、肩で息をしながら、こっちを睨めつけている。
先に口を開いたのは、私の方だった。
「さっき、私は、あなたのことを絶対に認めない、ってそう言ったよね?」
「……言った」
少し警戒しながら、「私」が応える。
「……やっぱりやめる。『私』は私だし、私は『私』だよ」
「……は?」
「私」はぽかんとした表情を浮かべて、私をまっすぐに見据えた。
――私、こんな間抜けな表情してたっけな。
何だか可笑しい気持ちになりながら、続けて言う。
「さっき色々と理屈を並べて、死にたくないって言ったけど、結局なんで死にたくないのか、ずっと思ってることがあるんだ。……あなたも私なんだから、きっと同じことを思ってるはず」
「私」は、少し悩むような顔を作り、やがてはっとしたような表情を作った。
悔しげにこっちを睨む瞳に向かって、はっきりと言ってやる。
「そう。……私は、生きていたいから死にたくないし、死にたくないから死にたくないの。ただ、それだけだよ」
「私」の表情が、ぐにゃりと歪む。
きっと否定しようがないはずだ。――だってこれは、人間であれば誰もが持っている、「死への願望」以前の「生への執着」と「死への恐怖」という、自然的な感情なんだから。言語化はできずとも、誰もが漠然と持っている感情なんだから。
……しかし、ここまで言ったけど、どうも手遅れみたいだ。世界の崩壊は更に進んでいて、このままでは完全に崩壊し、それに巻き込まれて命を落とすのも時間の問題だろう。
「……死にたく、ないな」
だって、まだ何にも成し遂げてない。
ずっと夢見ていた、「普通」の生活も、もはやできない。
(……や)
「……え?」
不意に、声が聞こえた。
(……みや)
「っ!!」
私はこの声に、聞き覚えがあった。
(……西宮!)
「亮……っ!」
弾かれたように、声のする方向、……空を見上げる。そこには大きな亀裂が走っていて、更に、ご丁寧に私がそこまで行けるように、崩れた瓦礫が道を作っていた。
駆け出す寸前、私は後ろを振り向く。
「私」は、もはや形を留めておらず、そこにはただ、闇だけが揺蕩っていた。
「……じゃあね、『私』」
そう呟くと、すぐに振り返り、空の裂け目に向かって駆け出した。
――生きていれば、きっと希望は、どこかにある。
そんな希望に向かって、私は更にペースを早めて駆けていく。
そしてついにたどり着いた裂け目に向かって、私は手を伸ばす。伸ばした手を掴む手が、裂け目の奥にある。
……え?
これは、……違う。
この手は……。
ズズ、と音を立て、裂け目から人影が姿を現す。
その姿は、確かに見覚えのある姿だった。だけどそれは、私が縋るには、あまりに血に染まりすぎた手で――。
その人影は、ゆらり、と体を揺らしながら、私の前に立ちふさがった。
そして、
「やあ、迎えに来たよ。西宮美桜くん?」
全身が粟立つ。さっきまでの比でないくらいに額を大量の汗が伝い、思い出したように右手と右足に鈍い痛みが走った。
「……イチ……っ!」
その男、山口市は、絞り出すようなその声に、ますます不気味な笑みを深めた。
「なんで、ここに……っ!?」
私の問いには答えず、市は言った。
「ずっと、ずぅっと、見てきた。私は見てきたんだよ、美桜くん。これまでに君が見舞われてきた悲劇。苦痛と恐怖の数だけ増してゆく絶望。それにも屈せず、なお立ち上がろうとする強き意志。そして、それを木っ端微塵に打ち砕く、より強き絶望」
膝が笑いだす。全身がガクガクと震える。
「これ以上なく、私が作り上げた惨劇の終幕を飾るのに相応しい人材」
恍惚とした表情で、市がうっとりと言葉を紡ぐ。あまりの恐怖に、息すらまともにできなくなる。
「……しかし、しかしだ。せっかく私が作り上げた”最悪の悲劇”なのだけれど、どうも皆の中では、悲劇としては処理されていないようなんだ」
そこで市は、何故か顔を歪めながら、私が理解出来ないことを口走った。
「そう、例えば江里乃くんに見舞った悲劇は、最後の最後で県の手出しで悲喜劇的な結末を迎えた。あるいは当事者たちにとっては、この上なく幸せな終幕だったのかもしれない」
ひんやりとした汗が、一筋、また一筋と背筋を伝う。
やっぱり、私の想像は正しかった。
9年前、私の両親を殺した犯人、――市の正体こそ、シリアルキラー「X」であり、天音と今田くんの両親を奪い、桜さんを刺し、私たちに不幸をもたらそうとした元凶なのだと。
「龍生くんと天音くんは失敗だったね。安易に二人共の両親の命を奪ってしまった。おそらくそのせいで、二人が手を取り合い、ともに過去を乗り越えるという事態を許してしまった。これではとても、悲劇は語れない」
市はそこで一度、言葉を切った。反応を待つかのような間だったが、私が何も言わないのを見て、市は続けた。
「私は困ったよ。ほとほと困り果てた。悲劇を鑑賞したかったのに、作り出した悲劇は、悲劇じゃなかったんだ。――そこで、だ。いや、だからこそというべきなのかな?なかなかあり得ない話だとは思うが、ここからさらに、君に不幸を乗り越えられてしまっては困るんだよ。それでは私が作り上げた、悲劇が、確実に失われてしまう」
戦慄した。今すぐにこの男から逃げろと、体中が訴えていた。脳が全力で警鐘を鳴らしていた。だけど、体はまるで金縛りにでもあったように、動くことがなかった。
「……しかし、どうやら私も、ここまでのようなんだ」
「……え?」
少し戸惑う。別に死にそうな状況に置かれている気配はないけれど……?
「残念ながら、君の悲劇を、この目で見ることはできない。……だから最後に、君が悲劇に堕ちる、その手助けをするとしよう」
市はそう言った。
「っ!?」
そして、その次の瞬間、胸元に強い衝撃を感じ、世界がひっくり返った。
体が落下してゆく。それを感じ、私はようやく、状況を把握する。
突き落とされたんだ。市に。
「じゃあね、美桜くん。……来世では今よりも不幸の君に会えること、楽しみにしているよ」
その声と共に、背中に強い衝撃を感じ、そして、……視界が暗転した。
* * *
「……や」
あれ……?
私……、死んで……?
「……み……や」
違う……。この感じ……。
「西宮っ!」
なじみのある声に、私はゆっくりと目を開く。
すぐに視界に飛び込んできたのは、きっと声の主である亮と、私の周りを取り囲むようにして立っている皆の姿だった。
「良かった、ちゃんと目覚めたな」
今田くんが安心したように言う。
「……美桜ちゃ~ん!殺されかけたって聞いて、私、私……っ!」
泣きそうな声で叫ぶのは天音。
「良かったぁ~!死んじゃうのかと思ったよ……」
これは凛。ほっとしたような表情をしている。
「おいおい、目覚めてすぐにいろいろ言いまわるなよ、西宮が混乱してるだろ」
取りなしてくれるのは山口くん。
そして、
「……その、……目覚めて、良かった」
少し申し訳なさそうに、そして少し恥ずかしそうに、亮はそう言った。
きっと普通なら、「心配かけてごめんね、私はもう大丈夫」とかいうべきなんだろう。だけど、私にはそれよりも気になっていることがあった。
……ただの夢、だったのだろうか。
夢の中で、夢の世界に入っていた、ということ……?
「……はは」
唇の端から、乾いた笑いが漏れる。
「……西宮?」
心配そうな声を上げる亮に、
「……ううん、私は大丈夫」
笑いながら、そう返した。
――本当に、馬鹿らしい。
馬鹿らしい、けど。
――どうやら、私はここまでのようだね。
――君が悲劇に堕ちる、その手助けをするとしよう。
一体、市はどうなったのか。そして、あの言い方。
……そんなわけないか。
そして私が口を開こうとすると、一足先に凛が口を開いた。
「さぁ~て、美桜ちゃんも起きたことだし?」
そして、ずいっ、と、亮の前に立ちはだかる。
「……凛?」
「凛?……じゃないわ!なぁ~にしれっと許されたみたいな顔してんの!今すぐ土下座して皆に今までの非を詫びなさい!」
「はっ!?……いやそれはそうだけど……」
何を言っているんだ、と言いたげに声を上げた亮は、しかしすぐに、納得したように語尾を小さくした。
「……いや、土下座はいいよ……」
「まあ亮にも事情はあったわけだしな。だからって許さんけど」
「土下座までされると気分悪いけど、でも、確かに謝罪は欲しいかな?」
ちょっと凛の勢いに引いたかのように今田くんが言い、山口くんが暗に謝罪を急かし、天音が珍しく乱暴な言葉づかいで謝罪を要求する。
……みんな、結構怒ってるなぁ……。
思わず苦笑してしまう。まあたぶん、亮をいじめて内心で爆笑してるんだろうけど。
実際、亮はすっかりしおらしくなってしまい、うなだれていたかと思うと、急にがばっと顔を上げて、
「その、……今まで、本当にごめん」
その頭を下げて、結構素直に謝罪した。
「いや、別にそんな怒って、……ないことはないけど、もうそんなに気にしてねぇよ。……ほら、顔上げろって」
山口くんが大体みんなの言いたいことを代弁してくれたみたいだ。今田くんも天音も、神妙な表情で山口くんの言葉にうなずいている。
亮はその言葉に、恐る恐るといった感じで顔を上げた。
「……まあ、せっかく亮の弱み握ったわけだし、ただで許すのはなんかもったいないかもな?」
「え」
今田くんが意地悪っぽく言い、亮はぽかんとした表情で、今田くんのことを見返した。ちなみに、私も「え?」だった。
「そうだなぁ、……どうしてやろうか、今田?」
「とりあえず、なんかおごってもらおうぜ」
「え、ちょっ、そんなの、……アリかも」
「おい」
奢りを提案した今田くんを止めようとして、やっぱり気が変わったらしい天音と、それに思わずずっこける亮。
「いいんじゃない?亮くん最近全然遊んでないからお金大量に余ってるはずだよ?」
「……っおい凛!それを言ったら……」
「へぇ?そいつはいいことを聞いた」
ぐへへ……、と、亮にじりじりと詰め寄っていく男二人。
「……今田くんってあんな表情するんだ」
天音がポツリと呟く。同感だった。山口くんならともかく、今田くんはクールキャラを貫いていたから、こういうキャラクターもあるのかと、少し意外な気持ちがした。
――というか。
なんだか、「すっごく、『普通』だ」。
「当たり前」ではない、かけがえのない「普通」。
「……あはは!」
思わず声を上げて笑ってしまう。今度は夢から覚めた時のような自嘲の笑いじゃなくて、楽しい気分で満ち満ちているときの笑い。
9年ぶりの、心からの笑いだった。
そんな私を見て、天音も思わずといった調子で笑いだす。
「……おい、何笑ってんだよ?」
亮が少し焦ったような声でそう言い、ますます面白くて笑ってしまう。
山口くんは相変わらず意地悪な表情のまま、亮に詰め寄っていて、今田くんは少しだけ表情を崩し、ふっと微笑を浮かべた。
凛はそんな様子を眺め、
「もっとやれもっとやれ!」
囃し立てていた。
この後、あまりにもうるさくしすぎたためにお医者さんから注意を受けてしまうのだけれど、そんなことは、この時の私たちは知る由もなかった。
ただひたすら、この感情の流れに身を委ねて、笑い、囃し、詰め寄り、そして焦っていた。
たまらなく愛おしい、そして、焦がれ続けた、ほんの一瞬の「普通」が、そこにあった。
* * *
私が刺された後のことは、亮から教えてもらった。
これは私の想像通りだったのだけれど、一連の事件、つまり天音と今田くんの両親、山口くんのお母さんを殺し、亮のお母さんを刺した人物の正体は、山口くんのお父さんである山口市であるということ。もちろんその、殺された人達の中に、私の両親も含まれる。亮は知らないだろうけど。
亮のお父さんである御嶋潤は、イチに利用され、スケープゴートに仕立てられていただけで、実際はおそらく無実であるということ。
イチは何にでも化けられるほどの天才的な変装の技術と演技力を持っていたために、恐らく潤さんに化けて桜さんを刺したのだろうということ。いつ入れ替わっていたのか、その時潤さんをどうしたのかなど、疑問は残るけれど、そうだという事実さえわかれば十分なのだという。釈然としないけれど、そういうもんだと言われたら、受け入れるしかなかった。
さらに天音と今田くんの心理的なカウンセリングを担当したカウンセラーの「イチさん」、江里乃の事情聴取を担当した犯罪心理学者の「イチさん」、そして私の両親を私の目の前で殺した「イチ」はすべて同一人物であるということ。ここも私の予想通りだった。
ただ、私にもよくわかっていないこともあった。
一つ目は、イチの殺人動機。
ただの快楽殺人者として片付けるには、あまりにも標的が偏りすぎな気がしていたから。
そこについても、亮は丁寧に教えてくれた。
イチの目的は、「悲劇」を鑑賞すること。そのための「悲劇」を、自らの手で作り出すことだったのだという。
そういえば、あの夢の中で、あの男は「悲劇」がどうとか言っていた。きっとあれがそうなんだろう。
標的は誰でもよかった。ただし、当時まだまだ幼い子供であった私や天音、今田くんなんかは格好のターゲットだったのだという。
私たちに深い絶望を与え、何年もかけて、そのトラウマを乗り越えてようやく社会に出る、という時になって殺すことで、より深い絶望を与えようとしていたのだとか。私が刺されたのも、イチが「その時」だと判断したからなのかもしれない、と、亮は言った。
特に私はイチの姿を見ていたから、カウンセラーとして接触するわけにもいかなかったのだろうし。自力で社会に出てくるのを待つほかなかったのだろう。
そしたら、きっとあの男にとっても想定外のレベルで、私は不幸への道をどんどんと堕ちていった。きっと最高の「悲劇」だったんだろう。「悲劇」といっていいのかどうかは知らないけど。ただの胸糞悪い不幸物語といっても差し支えないと思う。そしてそんなものを好むイチはもっと胸糞悪い。
でもそうすると、なぜ今になって亮が狙われたのかは、少し不思議だ。
「それについては、別に何も言っていなかったらしい」
亮はそう言った。
「……っていうか、なんでそんなに細かくあの男は犯行動機なんかをぺらぺらと話したわけ?」
私はそんな亮に、一つ疑問を投げかける。何よりも私が一番気になっていることだった。
「……」
亮は一瞬黙った。何かに逡巡するような間の後、やっと亮は口を開いた。
「……死んだ」
「え?」
思わず聞き返す。聞き間違いだと思った。
「あの男は、……イチは、自ら命を絶った、らしい」
……意味が、分からなかった。
* * *
シリアルキラー「X」による一連の殺人事件は、X事件と呼ばれ、被疑者死亡で書類送検されることで、幕を閉じた。
イチは、俺たちの知らないところでも大勢殺していたらしく、その被害者数はなんと30人を超えるらしかった。もし生きているときに捕まっていたならば、極刑は免れなかっただろう。
イチの自殺については、完全に俺たちに正体がばれてしまったことで、どのみち死ぬのならばと、その生を諦めたのではないか、ということにされた。
死の間際に、わざわざ父さんにすべてを話したことだけが謎だが、警察はそんなことまで取り合ってくれず、この謎は謎のまま有耶無耶になった。
以上が、X事件の全貌だった。
俺は今、凛と父さんと一緒に、病院に来ている。今日は母さんが退院する日だから、皆で迎えに来たのだ。
正直、俺は少し父さんと普通に話すのが気まずい。ついこの前まで、殺したいほどに憎んでいたのだから。それが、無実だったと分かった。父さんにそれは分からないとはいえ、やっぱり気まずいのは気まずい。
「おまた~!おっ、みんなそろってるねぇ~」
母さんがやっと荷物をまとめ終えて、病室から出てきた。手伝いたかったのだけれど、「着替えとかもあるから」と、断られてしまったのだ。
「……やっと4人、揃うね」
凛がしみじみとした声で言う。
「すまなかったな、家を空けてしまって」
申し訳なさそうに、父さんもそう言った。
ちなみに、父さんが家を空けていたのは、事件当日、イチに飲みに誘われていたから、らしい。イチと父さんは、元は仲が良かったのだとか。それが、「御嶋潤が桜を刺した」なんて記事が翌日流れてきて仰天して、とりあえず一旦家から離れることにしたのだという。
ある意味、正しい判断だ。俺は完全に父さんがやったと思いこんでいたから、そんな時に帰ってこようものなら、間違いなく俺は父さんを殺していただろうから。
ちなみに父さんはお酒に弱いくせにめちゃくちゃ飲むので、基本的にはビジネスホテルをとって、夜は泊ってから帰ってくることが多い。
そして、俺たちはそれを知っていたはずなのに、「向こうの都合で中止になった」なんて言葉を素直に信じ、そして、母さんはその言葉の主、イチに刺された。
「まあまあ、結果的に誤解も解けて、こうしてみんなで集まれるんだからいいじゃん?」
我が家のムードメーカー、凛が一瞬しんみりしかけた空気をまた明るいものに戻してくれる。
「……そうだな」
少し笑って、俺も言った。
「よぉ~し、じゃあ帰りますか!」
母さんがビシッと前方を指さしながら言う。家とは真逆の方向だったが、ツッコまないことにした。
「ひっさしぶりのMy home~♪」
即興でメロディーをつけて変な言葉を口ずさむ母さん。母さんにはこんな、ちょっと変な癖がある。職業病なのだろうか。よくわからない。
……とにかく、俺たちは久しぶりに、4人そろって家に帰ってきた。
一度帰ると、皆はまるで、たった今旅行から帰ってきただけであるかのように、いつも通りに振舞いだした。
「亮、ちょっとお風呂掃除よろしく」
冷蔵庫の中身を覗き込みながら、母さんが言う。凛はぐうたら態勢でテレビをつけているし、父さんはさっそくスピーカーでお気に入りの音楽をかけている。ちなみに大体母さんの曲だ。
「お、おう」
そんな、あまりにいつも通り過ぎる皆の様子に少しだけ戸惑いながら、風呂掃除に向かう。
浴室のドアを開け、ブラシで床をこすりながら、これからのことに思いを馳せる。
というのも、高校生の間は凛と二人で協力して、家事を分担しながらやっていたのだけれど、これからどうするか。手伝い程度でいいのだろうか。母さんに任せていいのだろうか。
……どっちでもいいか。
なんだかくだらない考えに思えてきて、俺はすぐに思考を放棄した。
今度はスポンジを手に取ってバスタブを磨いていると、
「亮、なんか友達から電話来てるぞ」
父さんがひょこっと顔を出し、掃除変わるから出といで、と、手を出した。
「……おう、ありがと」
そう返して、スポンジを渡して、風呂場を出た。
何とか普通に返事できたと思う。俺ばっかり気まずいなんて我儘で回りを振り回すわけにはいかないから、少しだけ頑張ることにする。
そしてずっとなりっぱなしのスマホの画面を見ると、山口からだった。
画面をタップして、スマホを耳に当てる。
「もしも」
『もしもーし!!』
思わずスマホを耳から遠ざけた。なんだなんだ。
『なんだってなんだぁ?俺だよ俺、山口だよ!』
どうやら「なんだなんだ。」は口に出てしまっていたらしい。
「わかったからもう少し静かに話してくれ、耳が取れる」
少し大げさに言うと、『何を大げさな』と、予想通りの答えが返ってきた。
「で、何の用だ」
生来のめちゃくちゃに明るい性格がそうさせるのか、なぜか山口に対して気まずさがあまり残っていない俺は、今まで通り普通に山口に問いかける。
『いやぁ、暇だからよ。今からちょっと、皆で遊ばね?』
「……」
流石に少し、黙ってしまった。
ある程度気まずさや引け目、申し訳なさは解消されたとはいえ、俺が今までしてきたことが消えるわけではない。……なのに、もう普通にみんなと遊ぶ、ということが、果たして許されることなのかどうか、俺はまだわかっていない。
すると、俺がしばらく黙ったのを肯定ととらえてのことなのか、山口は、
『んじゃあ、みんなと一緒にいつもの場所で待ってっからな!』
「はっ!?ちょ、」
『早く来いよ~!』
そして、通話は切れた。
「……はっ」
思わず笑ってしまう。全く本当に、強引なところもあいつらしい。
「父さん、母さん、ちょっと出かけてくる」
言いながら、椅子に掛けてあるバッグを手に取る。
「いいけど、夕飯までには帰ってきなよ?」
「わかってるよ」
行ってきます、と言って、俺は家を出た。
――誰かと遊ぶのなんて、何か月ぶりだろう。
ふとそんなことを思い、ちょっと数えてみる。
えっと、今日は7月23日だから……、だいたい4ヶ月くらいだろうか。
……どうでもいいか。
首を振り、歩を進める。
ちなみに、いつもの場所ってのは、俺達がまだ中学生の頃に使っていた集合場所で、新宿駅前を指す。あそこの東口側にはいわゆる駅前広場というやつがあって、そこに出る駅の入口のところ、「新宿駅」とでっかく書いてある前のところだ。懐かしさを感じつつ、歩みをさらに早めていく。
駅前の交差点(スクランブル交差点で、渋谷程ではないが人が多い。まだ少し背筋が伸びてしまう)に差し掛かり、俺はそこで足を止めた。
駅前に、すでに3人(山口、今田、森)が集まっているのを見たからだった。向こうはまだ俺には気づいていないらしく、三人で何やら話している。
そこで、足がすくむ。
……いや、恐怖の感情はない。憎しみなんてあるわけ無い。
だけど、……俺はまだ、自分を赦せていない。
俺には、今、あそこに交じる資格があるのだろうか。
あそこまで皆を傷つけた、俺に……。
割り切ったつもりだった。だけどやはり、そう簡単には割り切れないものだってある。
――今日は帰ろう。用事があったとか、母さんに駄目って言われたとか、言い訳は後で考えればいい。
踵を返しかけたその時、肩をトン、と軽く押される感触があって、振り向きかけていた俺は普通にバランスを崩した。
「え、ちょ」
なんとか体制を整える。危うく転ぶところだった。
そして、今の声。
「……西宮」
「ごめんって。……そんなに強く押してないんだけどな」
少し批難するような目で見ると、少し言い訳をしながらも素直に謝ってきた。その西宮は、やはりまだ足は治っていないようで、相変わらず松葉杖をついている。さっきは気づかなかったが、どうやら肩ごと体当たりする要領で、俺のことを押したようだ。
「ってか、そうじゃなくて。あんた、こんなとこで何ボーッとしてんのよ?」
「……それは」
少し言葉を濁すと、今度は強めに肩をドン、と押された。
「……おいっ」
今度こそ転んだ。
「……ふふ」
「何笑ってんだよ……」
身体を起こすと、西宮に笑われた。拳を振り上げると、きゃぁ怖ぁい、と思ってなさそうな言い方をして、逃げるふりをした。
「ったく……」
気づけば、さっきまで考えていたことが、頭から消えてしまっていた。
――どうでもいいか。
今まで考えていたことが、なんだか馬鹿らしくなってくる。
俺は、……俺達は、もう大丈夫だ。
皆といるから、俺達は生きていける。
俺達は、ひとりじゃない。
「……じゃ、行くか」
「ええ」
西宮と頷きあい、二人で交差点を渡る。
見上げると、どこまでも抜けていくような青い空が広がっている。
どこまでも、どこまでも、遠く、青い空。
俺たちの街は、今日も快晴だ。




