第3節「本質」 ―御島 亮
結局、10分くらい、泣き続けていたらしい。
すっかり泣き腫らした目を上げると、目の前にはもう一つの泣き腫らした瞳があった。
それと、ほんの少しだけ、潤んだ瞳。
「……落ち着いた?」
「……ああ、悪い」
すぐに謝る。目覚めたばかりの母さんにしがみつき、年甲斐もなく泣き声をあげてしまったことに、少しの恥ずかしさと申し訳無さが込み上げてくる。
「……こっちこそ、ごめんなさい、だよ、亮、凛」
母さんは、少し間をおいてから、そう言う。
「ずぅっと、寂しい思いさせちゃったから。ごめんね、ふたりとも」
「ううん。……お母さんは、悪くないよ……」
凛が、少しの涙声で、そう返す。
「そっか。……ってか、ちょっとしみじみし過ぎだよふたりとも。あかるくいこ?」
「……そうだね」
母さんのそんな一言で、しんみりしていた空気が一気に瓦解する。こういう力は、やっぱり母さんが持つ天性の力なんだな、と思う。
「あ、そうだ、お母さん?」
凛が、思い出したかのように、ノートパソコンを取り出した。
「……なにこれ?」
母さんが、どこか訝しげな声で、画面のついていないそれを、むむむと見つめる。
「私の高校生活!お母さんに話せるように、めっちゃ詳しく日記つけたんだよ!」
「え!?聞きたい聞きたい!」
早く早く、と母さんが催促し、待ってね、と、凛がパソコンの準備をする。なんだか、どっちが親なのかわからない構図だ。
「ついたついた。えっと、まず入学式からね……」
こうして、何故か俺をそっちのけで、二人で話を始めてしまった。
「……」
話に入れなくなってしまった。……でも、案外悪くなかった。
外から、幸せそうな二人を眺めるのも、案外、悪くない。
――今この瞬間、俺達が救われたこの瞬間にも、救われず、不幸の中でもがいている人間はいる。
すぐに浮かんだのは、西宮の顔だった。
俺の問題は、片付いた。でも、それですぐに他人を信じられるか、と言われたら、無理だと答えるしかない。
だけど、分かっているはずだ。
俺は幸せ者だ、ということ。結局、そうなんだ。
西宮が、不幸なのかどうかは知らない。単純に、あの日の光景が、頭から離れてくれないだけだ。そういえば、今日も松葉杖をついていた気がする。
俺は西宮の事情なんて知らないし、知るつもりもないけど。
せめて、謝るべきだ。そう、思った。
こっち側の人間で、居続けるために。
「……悪い、ちょっと用事があるから、もう帰るわ」
「え?早くない?」
もうちょっといてもいいのに、と子どもみたいに駄々をこねる母さんに苦笑し、
「とりあえず、今日は凛と積もる話があるんだろうし、俺は後でいいよ。なぁ、凛?」
そう言うと、
「……う、ん?」
戸惑ったように、凛はそう返事をした。
「じゃあ、そういうことだから。また来るよ」
そう言って、俺は返事を待たずに、さっさと病室を抜け出した。
そして、それから十分、病室から行くあてもなく、街をさまよっていた時に、西宮にばったり出会った、と。
「……亮」
身体がすくんでしまう。ちゃんと話すと決めたはずなのに、身体はそれを拒絶している。
そして俺は、また逃げようとした、回れ右をして、歩き出したのだ。
「待ってよ……っ」
思わず立ち止まった。それだけの必死さが、呼び止める声にはあったから。
「ねぇ、なんで逃げるの……?」
西宮は言う。俺は西宮の方を向くことができない。
「なんで急に口聞いてくれなくなるの?私達、友達じゃ、ないの……?」
西宮の口調には、少しの悲痛さが混じっていた。俺はまだ、振り返ることができない。
「亮に何があったのかくらいは、知ってるよ。知ってる。辛かったのよね、分かる、分かるよ。……だけど、なんで、信じてくれなかったの……?」
呼吸が止まる。
「私達も、それは知ってる。分かってる。ただ、頼ってほしかっただけなの」
西宮は、だいたいこんな意味の言葉を発した。
ほとんど聞き取ることができなかった。
ある一つの感情が、俺の胸の奥で渦を巻いていたからだ。
「……西宮」
振り返ることなく、俺は静かに言う。この感情の正体は……。
「……亮?」
西宮が返事をする。この感情は。
「……何も知らないくせに、分かったような口を聞くな」
「怒り」、いや、それすらも超えた「憎悪」だった。
西宮がひゅっと息を呑む。構わずに続ける。
「西宮、知ってるか?人間にはな、2つの種類があるんだ。……ゴミか、ゴミ以外か。もっと分かりやすくいえば、信用に値するか、否かだ。俺にとって信用に値するのは、たった二人の、家族だけだ。それ以外は、信用に値しない。信用してはならない」
からん、と音が聞こえる。松葉杖が落ちた音だろう。痛みからか、ぐっと息の漏れる音が聞こえる。構わずに続ける。
「家族を守るためには、妥協してはいけないんだ。不幸な人間に、妥協は許されない。たとえ友達だったとしても、他人は他人だ。信用していいはずがない。自分たちの命にとって脅威にならない保証がない」
西宮の息遣いが荒くなる。構わずに続ける。
「山口はどうだ?いっつものほほんとしてて、さぞ幸せものなんだろうな。神崎は?あいつもいっつも明るかったよな。森は?今田は?西宮、お前だってそうだ」
更に息遣いが荒くなる。構わずに続ける。
「不幸な人間のことは、不幸な人間にしかわからない。普通の幸せ者には、こっち側の気持ちなんて、わからないんだよ。――ただの普通の幸せ者が、俺を理解したなんて、そんな分かったような口を聞くな」
最後に、振り返った。両目に涙さえ浮かべている西宮に向かって、言ってやる。
「分かったら、今後二度と俺に話しかけようなんて思うなよ」
もう、謝ろうなんて考えは、とうの昔に吹き飛んでしまっていた。
荒々しく呼吸をする西宮を置いて、俺は今度こそ立ち去ろうとする。
「……いで」
何かが聞こえた気がした。が、立ち止まらず歩みを進める。
――その、次の瞬間。
「……ふざけないで」
静かな、しかし確かな怒りと、強さを孕んだその声が、鼓膜をしっかりと揺らした。
――意味が、分からなかった。
「――ふざけるな?お前が?俺に?」
自分でも自覚しないうちに、その声には、少しの嘲るようなニュアンスが含まれていた。
「ええそうよ、亮。あんたに言ったのよ、ふざけんなって!」
急に口調を荒げた。俺はそれを、どこか冷めた気持ちで聞いていた。
「何にも知らないって言ったよね、知ってる!知ってるから、こうやって何度も話しかけるんでしょう!?」
――知ってる?お前が俺の、なにを知ってるっていうんだ?
西宮がヒートアップしていくほど、俺の心はどんどんと冷めていく。
「ゴミか、ゴミ以外か?分かってるよ!社会にとって自分たちが如何にゴミかってことくらい!分かってるけど、ゴミなりに頑張って生きているんでしょう!?みっともなく、泥臭く足掻きながら!」
そこで、ふと疑問を抱く。
――自分たちが、ゴミ?
何故こいつが、それを口にする……?
俺の疑問にも構わず、西宮は続ける。
「江里乃がなんで死んだか、知らないわけじゃないでしょう!?癌で死んだ、でもその前は?あんたは知らないでしょうけどね、江里乃は中学校の時から両親に虐待されていたのよ!いつ爆発するかわからない癌ていう爆弾を、抱えながらね!」
今度は俺が、息を呑む番だった。西宮は構わず続ける。
「山口くんは育児放棄を受けていた!なんであの子が名前を隠してるか、考えたことある!?親からとんでもない名前をつけられたからよ!しかもその後は育児放棄よ!親の愛を知らずに育ったこの二人の境遇を、あんたは想像できるっていうの!?」
目を、見ていられなかった。
「天音と今田くんは、中学生の時に同じ殺人鬼に理不尽に両親を殺されているのよ!それからずっと孤独に生きてきた二人のことはどうだって言うの!?」
ついに目線を落とした。今までに自分がしてきた行動が、放ってきた言葉が、確かな鋭さを持って返ってくるのが分かる。
「私だってそう!凛だってそうでしょう!?父親に母親が殺されかけて、内心で傷ついているはずでしょう!?それを一番わかってあげられるはずのあんたが、なんで閉ざしてしまうの!?」
後悔なんて言葉では言い表せないくらい、自分の全てが誤っていたことを悟る。
「みんなそうでしょう!?みんな不幸なの!それでも、なんとか”普通”に幸せになりたくて、それを夢見て!普通に生きていきたくて、普通に社会に溶け込もうとして努力していたんでしょう!?抵抗がなかったわけじゃない!他人を信じられない気持ちもわかる!でもそれ以上に、幸せになりたい、普通に生きたい!そう願って、毎日を生きてきたのよ!」
耐えられず、瞳から涙が伝う。――俺が泣いていいはずは、ないのに。
「私達は、普通に幸せになりたかった。……そのためには、普通に社会に溶け込むことが不可欠なの。でも、それは簡単にできることじゃない。私達は、ある意味では幸運だったのよ。――同じような境遇の子たちと、出会えたから。受け入れあえたから。だから、私達は人の残酷さも冷酷さも知ってるけど、同じように温かさも知っているの。だから、人に傷つけられた私達も、人を信じることができる。普通に、社会に飛び込んでみようと、思うことができる」
突然、声が穏やかになった。俺は目線を落としたまま、ゆっくりと頷いた。
「亮、あなたもそうでしょう?――普通に、幸せになりたいんじゃ、ないの?」
……俺、は……。
ややあって、また一つ、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ駄目よ、亮。いつまでも閉ざしていちゃ駄目。それだと、いつまでも幸せにはなれない。――だけど、亮も凛も、まだ間に合う位置にいる。お母さんも目覚めたわけだし、まだ深くない。まだこれから、普通に幸せな日々に、戻ることだってできるのよ。……だから、信じて」
西宮が少しだけ、語気を強めた。
「私達のことを、信じてほしい。ただ、あなたの助けになりたい。それだけだから。
――普通に、幸せになりなさい、亮。ね?」
そこで西宮は言葉を切った。まるで返事を待つかのような間に、俺は更に視線を落として俯く。
――まだ、手遅れじゃ、ないのか?
まだ、やり直せるのだろうか。
……だったら、俺は……。
「西宮」
言いながら、顔を上げる。
ありえないものを見た。
「西宮……?」
目の前の少女の身体が、なにかに反応するようにピクッと跳ねる。
絶対に痛いくせに、俺と話すためにか、松葉杖をつかずに話をしていたらしい西宮は、少し表情を歪め、全身を震わせていた。
――その胸元から、銀色のなにかを生やして。




