第2節「行動の真実」 ―西宮 美桜
注意
本作「Happiness with you」は、タグに「過激描写あり」を入れていますが、今までさほど過激な描写はしていませんでした。
今回の話はガッツリ入ってます
苦手な方はブラウザバック推奨です
まあタグにそう書いてるのに苦手な方が本作を手に取ることはないと思いますが、一応書いておきます
性的描写はないです。学生にそんなものを求めてはいけません。(笑)
それでは次ページより、本編をどうぞ。
その夜は、夢を見た。
天音を連れて、山口くんから逃げた日の夜。詳しいことは説明しないまま、必死で謝ってから天音を解放した日の夜。
素敵な、夢だった。
私には普通の家族がいて、普通に遊んだり、食べたりできるくらいのお金を持っていて、普通に友達もいて、毎日普通の幸せを噛み締めながら、生きていく。その夢の中では、私はそんな、ありふれた女子高生の一人で、ありふれた日常を、普通の友達と一緒に生きていく。
もしかしたら、夢の中の私は、それを「幸せ」だと思えていなかったのかもしれない、なんて、目覚めてから思った。
* * *
私にとっての「幸せ」って、なんだろう。
朝5時半。まだ薄暗い中でそんな事をぼんやりと考えながら、ふらつく体にムチを打ち、今日もランニングをする。
……正直なことを言うと、私は今、ランニングなんてできる状態じゃない。ほんとに無理して走っているから、きっと体にもよくないだろうと思う。
だけど、私がしている「仕事」には、体力が必要だから。まともに食事を摂れない私にとって、体力をつける手段と言ったら、このくらいしか残されていない。とはいっても、逆効果かもしれないけれど。
ふと空を見上げる。今日は快晴で、ちょっと暑い。雀や鳩が元気よく鳴きながら飛び回っているのが見える。
上を見ながら走っていたせいでバランスを崩しかけ、そばの塀に手をついて一旦呼吸を整える。
また上を見上げると、電線に止まっていた雀と目が合った。
「あなた達はいいね」
その雀に向かって、そっと囁く。
「私もあなた達みたいに、自由に飛んでみたい」
雀は嘴をパクパクさせながら、こっちをずっと見ている。
雀が言葉なんて、わかるはずないのに。
「……ばっかみたい」
呟き、ランニングを再開する。
実は最近、思っていることがある。
今いる学校をやめられたら、経済的にどんなに楽なのだろうかと。
学校に行っていると、色々なお金を払わないといけない。極限まで節約するなら、ローンの残っている家も売り払うべきかも。
でも、それは絶対にしたくない。いつも私は自分に言い聞かせる。
――不幸な人間は学ぶ権利もないなんて、そんなの馬鹿げてる。
私は、学びたい。
ちょくちょく学校を休んでしまっているし、学校に行ってもいじめを受けてはいるけれど。
でも、私はまだ、生きている。
生きているのだから、もうちょっと頑張ってみたいと思うのは、私のわがままなんだろうか。
……私には夢がある。
長年、看護師に憧れていて、それでまだ両親が生きている頃は、ずっと、
「私は看護師になる!」
そう言って育ったものだった。
そのためにも、ちゃんと学ばないといけない。
どれだけ貧しい人間でも、どれだけ不幸でも、夢は叶えられるんだってことを、証明したい。
たったそれだけを心の拠り所に、私は今日も、夢を生きる。
生き抜いてみせる。
いつもの場所で、今日も亮と会った。
「あ、亮。おはよ」
いつものように、無視を覚悟で挨拶をする。
いつもなら、亮は迷惑そうに私を一瞥し、すぐに走り去っていくはずだ。……だけど、今日はなんだか変だった。
いつものように私を一瞥したかと思うと、立ち止まって、何も言わずに私のことを見つめだす、という。
正直、最初は戸惑った。
だけど、亮の顔を見て、わかった。
この顔は、幾度となく見たことがある。
――鏡の中でいつも見てきたその表情は、戸惑いと、色濃い恐怖の感情が浮かんだものだった。
もしかしたら、この子なら。この子なら、私のことを……。
そんな淡い期待を込めて、口を開こうとして、
「……」
亮がすぐにため息をつき、背を向けたことで、口を閉じた。
――え?
ああ、……そうか。
あの、感情は……。
「ねぇ、亮ってば」
思わず、追いかけていた。
亮の感情なんてなんでもいい。
ただ、根拠のない微かな期待を胸に、私はほぼ反射的にその場から飛び出していた。
亮がちょっとだけ驚いたように、こっちを振り返る。
そして、その瞬間、
「あ……っ!」
足がもつれる。バランスが大きく崩れ、体がゆっくりと傾いでいく。
転ぶまでの間が、やけに長く、やけにゆっくりに感じられた。
――倒れる。
めき、と、嫌な音がする。同時に、右足から激痛が走った。
「あぅ……つっ!」
情けない声が、口の端から漏れる。折れているかもしれない。痛みで視界に火花が散ったような感じがする。
……何を、しているんだ。
期待なんてしない、希望なんて抱かない。そう決めたはずなのに。
勝手な希望を抱いて、結果亮に迷惑をかけてしまっている。こんなんじゃ、みんなを助けるなんてできるわけがない。
……いや。もしかしたら、逆なのかもしれない。
さすがの亮でも、足が折れたかもしれない人を放って帰るなんてしないはずだ。亮は根は優しい人間だ。さすがに放っておかれることはない、と思う。
だから、逆にこれは、人と関わるようになるための一歩になるかもしれない。
前向きにそう考え、顔を上げる。亮がこちらに向かってきてくれていると信じて。
信じられないものを見た。
怯えたような表情の亮が、背を向けて逃げ去っていく姿を。
――ああ。
そういえば、そうだった。
視界が真っ黒に染まっていく。痛みでぼんやりしてきた頭で、私は思う。
――人は、他人を助けない。
私は助ける側の人間になりたかった。そういえば看護師を目指したのも、そんな理由があったっけ。
でも、それはとんだ見当違いだったのかもしれない。
「……はは」
思わず笑みが零れる。分かっていたはずなのに。
……少し、語弊があったかもしれない。
訂正するなら、人は、他人を助けないんじゃなくて、目に見える範囲の他人しか助けない。
学校の大掃除みたいなものだ。
私達みたいな「普通」じゃない側にいる人間は、そこらに積もった埃やカビ。「普通」の側の人間は、掃除をする生徒。
学校って掃除されずに放置されているところがあって、そういうところは信じられないくらい埃が積もっていたり、カビていたりする。
不幸な人間の中でも、「見える」範囲に出てきた人とか、もとからその範囲にいる人達は見つかって、救い出される。つまり、掃除される。でも、例えば江里乃みたいに、その範囲にいても救い出すことのできない人は、中途半端に手を差し伸べられて、放置される。掃除で言うと、ちりとりで救いきれなかった小さな塵のように散らされる。なかったことにされる。
まあ江里乃の場合、山口くんがいたから最後まで救われていたと思うけれど。
そして最後に、私みたいな周りから気づかれていない、つまり「見えない」範囲にいる人達は、当然、救い出されることはない。掃除で言うと、まるで手を付けられず、ずっと汚れたままで、どんどんそれが蓄積されていく。
……つまり、私達って、「普通」な人間たちにとっては、ごみみたいなものだってこと。わざわざ手を差し伸べなくてはならない環境にいる人間たち。「普通」の人たちにとっては、億劫で仕方ないだろう。
私は、ごみ。
思わず笑ってしまうのも、仕方ないと思う。
足を押さえたまま、周りを見回す。朝早いからか、人はあんまり来ない。
しばらくは、ここでじっとしているしかないだろう。少なくとも、ある程度痛みが引くまでは。
あーあ。
全然食べてないのに、無理矢理走るからだ。
普通の人は、ちょっと転んだくらいでこんなに足を痛めたりしないんだろうから。痛いかもしれないけど、折れることは絶対にないと思う。
はあ、と、ため息を一つ。
羨ましいな、と、思った。
――その時、
「……おい」
唐突に、声をかけられた。
背筋が凍るような冷たい声。そして私は、思い出した。
……そういえば、今日は早朝から「仕事」だった。
恐る恐る、声のする方向に向く。
強面の男が、一人。そしてその両脇に、下卑た笑みを浮かべた男が、二人。
そして、私は呑気にランニングウェアなんて着て、道路の真ん中に這いつくばっている。
……あ、これ、やばいかも。
回転するのが遅い私の脳が、ようやく結論を弾き出した。
――その次の瞬間には、私の体は宙に浮いていた。
「……え」
視界が大きく回る。次に来るであろう衝撃に備え、ぐっと目を瞑る。
「……え?」
いつまで経っても、予想していた衝撃が来ない。恐る恐る、閉じていた目を開ける。
直ぐ目の前に、硬いコンクリートの地面があった。
瞬時の判断で、再び目を閉じる。
その直後には、顔面を思い切り、地面に叩きつけられていた。
「……うっ!」
息が漏れる。視界に火花が散る。
血飛沫が舞ったのを見た瞬間、遅れてやってきた痛みに襲われる。
「……っ!」
声を上げる間もなく、また叩きつけられる。
――1回、2回、3回。
不幸中の幸いというべきか、顔がボロボロでは「仕事」もままならないと判断してのことか、少し手加減されていたみたいで、ひどく痛いくらいで済んだ。
「……時間に遅れるたぁ、どういう了見だこのアマ」
「す、すみません!」
慌てて謝る。慌てて立ち上がろうとして、
「……つっ!」
折れた右足に激痛が走り、また座り込む。
ハッとしてすぐに無理やり立ち上がったけど、遅かった。
「なんだぁ?折れてやがんのか?」
私は乱暴にその場に突き倒される。
「ひゃっ!?」
我ながらものすごく間抜けな声が出る。背中からコンクリートに叩きつけられ、ぐっと息が漏れる。
「あちゃ、こいつぁ折れてやがりますね」
右側にいた男が私の足を眺めてそう言う。それを聞いて、強面男は不気味に笑った。
「へぇ?……そいつぁいい。お前もいい”仕事”になるんじゃねぇのか?あ?」
……この流れは、本当にやばいやつだ。
このまま、いくと……。
男が足を振り上げた。とっさに右足をかばう。
――ドスッ、と、音がした。
「……え?」
私は呆然と、右足をかばった右手を見つめる。
血が滴るそれには、絶対に人の体から生えてくるものではないはずの異物が生えていた。
……あ、違う。
刺さってるんだ。
靴のかかとに仕込まれていた、隠しナイフに貫かれた右手を、ぼんやりと見つめる。
それから3秒ほど遅れて、ようやく状況が飲み込めた。
「……あっ!あああああああっ!」
――えっ、いや、痛い、嘘、なんで?
右手を貫かれた恐怖と、どくどくと流れ出る血と、それとともに増していくじくじくとした痛みが、同時に私を襲った。
「ちょっと清波さ〜ん、そんなやっちゃっていいんすか〜?」
左隣にいた方の男が私の顔を覗き込みながら言う。その顔は下品に緩みまくっていて、おそらく内心では「もっとやれ」とか思っているんだろう。そしてきっと私は、痛みと恐怖で歪みに歪んだ表情をしているだろう。
清波と呼ばれた強面男は、それには応えずに、ニヤニヤとした表情で私の顔を覗き込み、言った。
「お〜い、お前さんやぁ、今、何を考えてる?」
どんな気分だぁ〜?と愉快そうに笑う。
「く……はっ……」
何も言うことができず、私はただ悶える。
すると、
「なんとか言えやぁ!」
清波が急にそう叫び、また足を振り上げる。
刹那、何かが砕けるような音とともに、右足に激痛が走った。
「……っがあぁぁっ!」
咆哮のような叫び声が上がる。数秒経ってから、やっとそれが私の喉から出た声だと気づいた。
――あ、しが……。
「あああああっ!あああああ!!」
あまりの痛みに、私はただ叫ぶ。視界がぼやけ、頭が痛いの二文字に支配される。
「……あらら、やりすぎちまいましたね、清波さん」
「構わん。……左京、右近、連れて行くぞ」
「了解っす!」
男たちはそんな会話を交わし、私の方に歩み寄ってきた。
殆ど動かず、ただ叫ぶ私に、
「ちょ〜っと大人しくしてもらおうか?」
左京という男のほうが近づいて、何かを首元に当てた。
バチッ、と、小さな音。
「……ぅ」
最後に、男たちの更に奥に、車が止めてあるのに気付いた。
ナンバーは、……「0008」。
――そして、何も見えなくなった。
* * *
「右近、そっち持て」
「いや左京、こいつぁ汚すぎてとてもさわれねぇぜ〜?」
スーツに血がついちまう、と右近が頭を振る。
左京は顔をしかめ、
「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ?とっとと持てや」
そう言って、「商品」の体に歩み寄る。
俺はあまりの面倒くささに頭を抱えた。何故こいつらは、いつもいつも会うたびに喧嘩ばかりするんだ。
「ああくそ、面倒くせぇ。手先だけ持って引きずるかなんかすりゃあいいだろ」
そう言って、俺は右近を押しのけ、「商品」に近寄った。
「……右近!」
その時、急に左京が声を上げた。
「どうした、さきょ、」
う、という言葉は聞こえなかった。
代わりに聞こえたのは、喉を引き裂かれたことによる、ラッパのような息漏れの音だけ。
「……あ?」
右近は即死だった。
「誰だオラぁ!」
俺は怒鳴ると、倒れた右近の後ろに回る。
そこにはすでに、暗殺者の姿はなかった。
「どこ行きやがった!?」
出てきやがれ!と声を上げる。
そして、そいつは出てきた。
左京に一言も発させず、一撃で息の根を止めてから。
「……な」
んだと、と言おうとした声も、すぐに霧散した。
――信じられねぇ。
なんだよ、これ……?
喉元から突き出たナイフを、信じられない思いで見つめる。口元から大量の血が噴き出る。
ナイフが引き抜かれる。喉元から血が噴き出すと同時に、俺はゆっくりと、仰向けに倒れた。
最期に見た景色は、……暗殺者が、こちらに向かって不気味に笑う姿だった。
* * *
――邪魔者は、仕留めた。
彼はナイフに付いた血を払い、返り血で染まったコートを脱ぎ、丁寧に持っていた袋にしまった。返り血を浴びてもすぐ脱げるように、真夏なのにコートを準備しているのだ。
そしてその彼は、路上で血溜まりの中に倒れている少女、西宮に歩み寄る。
「……可哀想に……。こんなにも足掻き、不幸から脱却しようとしているというのに……。この子はこんなにも……報われない」
男はそう呟き、小さく肩を震わせる。
泣いている?――否。
「最高だ……っ!」
男は、笑っていた。
「拝見させてもらったよ。君の絶望に歪んだ表情、苦痛に歪んだ表情、恐怖に歪んだ表情……。君こそ、私の作る舞台の終幕を飾るに相応しい……」
彼はうっとりとした表情で、血に濡れた少女の頬にそっと指を這わせる。
「ああ……、なんて、美しい」
恍惚とした声で呟く彼は、ややあって少女をそっと抱きかかえた。
そして、倒れた男たちを興味なさそうに一瞥すると、片手で器用に三人の服の首元をまとめて掴み、男たちの車の方に引きずっていった。
「車をお借りするよ」
そう呟くと、男三人を荷台に詰め込み、少女を後部座席にそっと横たえて、自分は運転席に乗り込んだ。
「ああ……。今から楽しみだよ、ふふふ……」
”彼”、――イチは不気味に笑うと、車を発進させ、路地を後にした。
* * *
「……」
あれ……?
私、何してたんだっけ……。
……温かい……?
あ、目、開けないと……。
ゆっくりと目を開いた私の視界に飛び込んできたのは、見覚えのある天井だった。
……家?
今、何時……?
ベッド脇に置いてあるスマホ(実はお母さんのものをそのまま私のものとして使っている)を手にとって点けると、ホーム画面には「11時27分」と記されていた。
あ……、走りにいかないと。
……ランニング?
そこでやっと、思い出した。
亮に会ったこと。転んで骨を折ったこと。「客」(恐らく裏社会の人間だろう)との約束に遅れ、右手を刺されて右足を砕かれたこと。
「……っ!!」
ハッとして、右手を見やる。
――痛みというよりも、痺れのような感触の残るそこは、白い何かによって覆われていた。
「……包帯?」
ポツリと呟く。それはまさに包帯だった。自分でした覚えはないし、そもそも今の今まで気を失っていたのに出来るはずがない。
「どうして……?」
恐る恐る、足の方も見る。
そっちはご丁寧に、ギプスで固定されていた。しかもベッドの脇には、松葉杖まで置いてある。
「誰が……?」
おかしい。絶対におかしい。
あの男たち(清波?だったと思う)が、ご丁寧に治療まで済ませて私の家のベッドまで返してくれるなんて考えにくい。
かといって、他の誰かがこの三人全員を撃退して私の治療まで完璧に済ませて家に返してくれたというのも考えにくい。第一、私の家を知っている時点でそれもおかしい。
つまり、本当に意味がわからない、ということ。
「……いやどういうこと」
思わず声に出る。
……今日が日曜日で良かった、と、一人になって初めて思った。
ところで、松葉杖をつくのも結構な苦労があった。
だって、右手を貫かれているんだから。下手につこうものなら、右手に激痛が走って、とてもじゃないけど前に進めない。
どこの誰だか知らないけど、どうせなら車椅子でも用意してくれたら良かったのにと思いながら、なんとか前に進む練習をする。右手がものすごく痛いけれど、こればかりは仕方ない。
……というか、仕事どうしよう。
行かなくていいならすごく嬉しいけれど、後で「客」になにされるか分からないし、何よりお金のこともある。とはいっても、こんな体で果たして何ができるのか、っていうのはすごく疑問ではある。
もし、やめたらどうなるんだろうと、少し妄想してみた。
もし私が、この「仕事」をやめたら、まず、苦しくはなくなると思う。痛くもないし、恐怖を感じることもない。だけどもしかしたら、今までの「客」が怒って余計収集がつかなくなるかも。それと、収入源が消えるから、財政的にも苦しくなる。でも、一旦解放はされる。
しばらく考えて、30秒で結論が出た。
やめるのは、余計私の首を絞めることになる行為で、明らかに悪手だ。そもそも、もうこの道しか残されてない。
……それは、そうなんだけど。
とはいっても、こんなボロボロの体でどうやって「働け」ばいいのか、全く見当もつかない。
その時、急にポケットに入れていたスマホから着信音が鳴った。
……えっと、どうしよう。
まず、右手で松葉杖を支えながら左手で電話に応じようとすると、右手がとっても痛い。かといって左手で支えながら右手で電話に応じようとすると、それはそれで右手が痛い。
しばらく考えて、3コール目くらいで結論が出た。
座ればいい。
というわけで、どうにか頑張って地べたに座り、左手でポケットからスマホを取り出す。
画面に表示されていたのは、……知らない番号だった。
あ……、これ……。
私はすぐに察した。
多分これは、……「客」からの電話だ。
出るしかない、か。
意を決して、受信ボタンをタップする。
「はい、もしも、」
『昼過ぎの1時頃、いつもの場所』
もしもし、を言う前に電話が切れた。
はあ、と思わずため息が漏れる。
正直、やっぱりもう行きたくない気持ちが強い。実際今日は死にそうな目にあったし。そもそもこうやって過ごせている状況がまず不可解すぎて怖いし。
……だけど、生きていくためには、行くしかない。
私はまたため息をつくと、右手を痛めながら立ち上がった。
この痛みにも、慣れないといけないな、とか考えながら、すぐに「仕事」の支度を始めた。
支度と言っても、着替えて、相手に指示されたものがあったらそれをバッグに詰めて、終わり。大したものは持ってかないし、すぐに終わるものだ。
そうして支度を終えた私は、鉛のように重くなった体にムチを打ち、やっとのことで家を出た。
* * *
「……あっ……がっ」
首を圧迫される。呼吸ができない。体が酸素を求めてる。苦しい苦しい苦しい。
「ほらほら、頑張れ〜〜」
目の前で、男が楽しそうに嗤う。
私は必死で、男の手元を掴み、首から離そうとする。だけど、私の力なんかじゃ男には敵わない。
ふっと意識が飛びそうになる。手から力が抜ける。
すると、
「ほら起きて!頑張れってば!」
そう言って、男が私の頬を張る。パアンという音と痛みとともに、意識も現実に引き戻される。
そして、また首を絞められる。
「あぅ……っ、がぁぁ……っ!」
これが、かれこれ1時間くらい続いている。
意識を失っては起こされ、起こされては首を絞められ。
――こうやって理屈っぽく考えていないと、苦しすぎて何もわからなくなりそうだった。
その時、側においてあったスマホから、急に音が鳴った。
「……えぇ、もう時間?」
男が不満そうに、唇を尖らせる。同時に手の力が緩み、私は肩で息をする。
「まじか〜。ねぇ、延長制度とかないわけ?」
男がそう問いかけてくる。したことないし、何より普通に限界だった。
「すみっ、ません。……そういうの、は、やって、ないです」
息も絶え絶えに、そう返事する。
「なぁ〜んだよ、ちぇ」
つまらなそうに男がそう言い、財布から500円玉を取り出して、こっちに弾いてくる。
こちらに向かって飛んでくるそれを、私は慌ててキャッチする。
「ありがとう、ございます」
なんとか笑顔を作って、そう言う。
男はもう何も言わずに、私を置いて去っていった。
息を整えながら、スマホの時計を見る。もうすでに5時を回っていた。感覚がおかしくなっていたけど、1時間どころじゃなかったらしい。そう言えばタイマーも3時間位で設定した気がする。
今のが今日最後の仕事。ほうっ、と、思わず大きく息をついてしまう。
相変わらずじくじくと痛む右手をかばいながら、どうにかこうにか立ち上がると、側においてあった松葉杖を拾う。
そうして、帰路についた。
――にしても。今日はちょっと収入が多かったな。
さっきも、普段だと100円でも良い方なのに、500円も払ってくれた。ありがたいといえばありがたい。もちろんしたくてしてることじゃないし、嬉しいかって言われたら、良くわからないけれど。
というか。
いつもいつもそうなんだけど、本当に仕事場が遠い。家に帰るのに普通に歩きでも余裕で1時間はかかるのに、まして松葉杖じゃあなおさらかかるだろうな。
途中で誰かに会ったりしませんように、と、念じながら歩いた。というか松葉杖で頑張って進んだ。
結局、2時間30分かかった。
誰にも会わなかった。
* * *
今日は、食事は抜き。
ちょうどその日の夜のこと。節約はしているけれど、それでもやっぱり限界はあって、今日みたいに食事抜きの日がある。
そもそも食事って言ったって、みんなが想像するような「普通」の食事じゃない。白米を食べられるのは本当に稀で、大体は旬で安い野菜とか、もやしとかを食べて生活している。食費を節約しようと思うと、結局それなりに栄養価も高くて、しかもとても安いもやしに落ち着いてしまうのは仕方ないと思う。絵に描いたような貧乏生活って感じで良い気はしないけれど、生きていくためには仕方ない。
当然だけど、お風呂なんか入れない。ガス代と水道代ってどんどん値上がっていて、一週間に一回のシャワーでもギリギリだ。でも体は洗わないと臭くなるし、何よりあちこちから血が出た状態で帰ることもあるから、冷水でちょっと濡らしたタオルで軽く体を拭くくらいはしている。
それを終えたら、ようやく布団に倒れる。
このベッドも売ってしまおうかな、と、最近ちょっと考えている。冷蔵庫なんかも、どうせ食材を一度に買い溜めることなんかないし、買ってすぐ食べるし。いらないんじゃないかな、とぼんやり思ったりもする。
なかなか売るに売れないのは、いつか「普通」に幸せになれる日を、夢見てのことなのかもしれない。
……私はずっと、独りだった。
普通は両親が殺された時点で警察沙汰で、児相とかに引き取られて、施設に入るはずだ。
でも、私は施設に入らず、小学1年生のときから一人でここに暮らしている。
……あの時の私は、まだ幼かった。つまり、どうして良いか分からなかった。警察に行かなきゃいけないとか、そういうことを知らなかったということ。
私は、周りの大人に助けを求めることができなかった。
で、小学2年生のときに、「助けて!」っていう言葉を知った。困ったら身近な人にそう叫べば、助けてもらえるんだって。
だから、叫んでみた。
助けてもらえなかった。
因みに、私が警察とか児相とか、そういう手段を知ったのは、小学校3年生のときだ。
だけど、できなかった。それは、私の今の「仕事」の始まりにも直結する理由がある。
その、小学校3年生の頃。2年間で両親の貯金をちょっとずつ切り崩して生活していたけど、どんどん貯金が底をついてきて、後1ヶ月も保たないな、と思い始めた頃だった。
ちょうどその頃、私のところに、急に1通の手紙が届いた。
全文は思い出せないからざっくり要約すると、「俺のところに来て言うこと聞いてくれたらお金をあげるよ」みたいな内容だった。差出人不明でどこの誰からなのかも分からなくて、正直怖かったけれど、お金がもらえる、という一文に、あの時の私はどうしようもなく惹かれた。
だから、手紙の指示の通りの場所に行った。
そこには強面の男が待ち受けていて、それで……。
……とにかく、そこで「仕事」をしたことでお金をもらったはいいんだけど、その時に、その男に脅されてしまった。
「警察にでも行ってみろ、今よりも酷い目に遭わせるぞ」って。
そうやって、私は警察に駆け込むという手段を失った。
つまり、もう戻れないところまで踏み込んでしまった、ということ。
普通のバイトでもすればよかったんだろうけど、生憎小学生を雇ってくれる場所なんてどこにもない。一人で生きていくためには、こうするしか方法がなかった、というわけだ。
なんとも、皮肉なことだ。
普通に暮らしたくて、そのためのお金が欲しくてしたことの結果が、余計自分を不幸の渦に叩き落とすことになっている、なんて。
本当に、馬鹿みたいだ。
枕に顔を埋める。すぐに息苦しくなって、顔を上げた。
その夜も、夢を見た。
* * *
それは、本当に急なことだった。
亮のお母さんが、目を覚ましたというのだ。
大急ぎで荷物をまとめ、教室を飛び出していく亮を見て、しばらく呆然としていた。
「……なんか、あんなに急いでる御島くん、初めて見た気がする」
隣の席の子(村上直美さん、だったと思う)が、そっと私にささやきかけてきた。
「私もあんま見たことないかも」
そっとささやき返す。亮が中学生の頃も、多分ここまで慌てて何かをしていたことはないと思う。
それだけ、お母さんのことが大切なんだろう。あたり前のことだけれど、そう思う。
――これを機に、少しでも前の亮に戻ってくれるといいけど。
そんなことを、考える。
多分これは、希望的観測だ。実際は、この命を二度と失うまいと、更に人を「警戒」するようになって、現状の悪化を助長するだけだろう。
……でも、だけど。
できることはしなければ。
おそらく、亮は今、ひどく動揺しているだろう。この、今まさに不安定な状態を突けば、或いは助け出せるかもしれない。
どうにかして亮に会おう。そして話をしよう。そう思った。
「起立、気をつけ、礼」
さよーなら、と、気だるげな挨拶が教室の空気を震わせる。
杖をつきながら、教室をそっと抜け出す。誰にも絡まれたくなかったから、誰にも気づかれないようにこっそりと、だ。
苦労しながら一分ほどかけて靴を履き、こつこつと音を立てながら、校門をくぐる。
校門脇で、一旦息をついて、休憩してから、またこつこつと歩く。右手はめちゃめちゃに痛い。今日一日、絶対にその表情や仕草が表に出ないように踏ん張っていたから、なおさら痛い。
それでも、どうにか歩く。
――実際、亮に会える保証はない。私は今から、真っ直ぐ帰る予定だ。だって、会いに行ったって閉め出されるに決まっている。たまたま会えたときを狙うのが一番いいから。
ただ、亮は今日は病院に行っているはずだ。面会終了時間ギリギリまで、家族の時間を楽しんでいる、という可能性も捨てきれない。つまり、会えない可能性のほうが高い。
でも、なぜか、会える気がしていた。
無根拠だけれど、何故かそんな気がしていた。
これは、「期待」なのかもしれないな、と、ふと思う。
もしかしたら、会えるかもしれない。そんな、淡い期待。
――でも、意外と馬鹿にできないものなのかもしれない。
目の前に現れた、その姿を見て、私はそう思った。
「……亮」




